逃腰からの脱却
地面に叩き付けられ、鬼兎火は絶望的な気持ちになっていた。
蓮条と話をしようと決めて部屋に入った後に気を失い、次に気付いた時には部屋で結界檻の中に閉じ込められていた。
これは蓮条が張った物ではないことはすぐに分かった。蓮条が使うには術式が古式なものだったからだ。しかも結界は強固に張られており、おかげで破るのに相当な体力と貯蓄していた声聞力を消費してしまった。
鬼兎火自身、今の何が起きているのかまるで分からない。こんな事は今までに経験した事がなかったことだ。
きっと、この状況は鬼絵巻に生じた異変と関係しているはずだ。
そして、その異変に自分の主である蓮条が巻き込まれてしまっている。
何て事だろう? 自分がもっと、しっかりしていれば。もっと強ければ。そんな後悔が鬼兎火を蝕む。
けれど、その後悔に蝕まれた所でこの状況が打壊できるわけではない。
今の自分がまずやるべき事は、動く事だ。
待っていて。蓮条。きっと貴方を助け出してみせる。
そう息巻いて来たというのに、こんな有様だ。
鬼兎火は自分の無力さに臍を噛みしめる。
すると、そんな鬼兎火に桜鬼からの言葉が飛んで来た。
「鬼兎火! 蓮条の意識を連れ戻せ!」
自分よりも先に立ち上がった桜鬼が、鬼兎火に近づき言葉を掛けて来た。
「意識を連れ戻せって……今の蓮条は何者かに意識が乗っ取られているのよ?」
「それがどうしたと言うのじゃ?」
「私たちが下手に動けば、きっと向こうも何らかの策を練ってくるはずよ」
相手がどんな人物で、どんな事を仕掛けてくるのか分からない以上、蓮条の意識に介入するのは危険すぎる。
「練ってくるであろうな? じゃが、それがどうした? 鬼兎火はここへ何しに来たのじゃ?」
「勿論。蓮条を助けることに決まっているでしょう?」
「うむ。それが決まっておるのに、鬼兎火は何をグズグズとしておる? 妾はもうグズグズするのはやめたぞ? そしてそれを止めたからこそ、今はこうして櫻真と共に戦えておる。今、蓮条と接触できるのは鬼兎火だけなのじゃぞ? 其方は蓮条の従鬼。ならば、危機にその身を投じてでも、主を守れ!」
桜鬼が真っ直ぐに鬼兎火を見つめて、『動け』と言ってくる。そんな桜鬼の言葉に、鬼兎火ははっとして、そして口から自嘲と共に本性が溢れてくる。
自分は色々な理由をつけて、竦んでいた足を必死に隠していただけだ。
きっと、失敗した先の自分を見たくなくて。
蓮条の言う通りだわ。私は逃腰だった。欲しい物、叶えたい物が目の前にあるにも関わらず、自分はぬかるみに入る事を嫌い、それを諦めていた。
諦めることで、得るものなんて存在しないというのに。
「ようやく分かった。私はもう諦めたりしない。絶望もしない。蓮条を救い出す。援助をお願い」
「言われるまでもない。目的は皆、一緒じゃ」
桜鬼がにっこりと笑って、自身の主である櫻真の方を向く。すると櫻真が前に見た時よりも少し逞しくなった表情で頷いている。
「蓮条……絶対に、貴方を助けて見せるから」
決意を口にし、鬼兎火は瞑目して意識を集中させた。結界内にいる蓮条へと己の声を届けるために。
二年前までは、蓮条の中にある櫻真への認識はこうだった。
本家にいる一人息子で、名前しか知らない親戚の一人というものだ。
しかしそれは蓮条が十二歳になったとき、両親から語れた真実がその認識を大きく変えたのだ。
両親が蓮条に語ったのは、自分の出生に関することだった。
自分たちが、蓮条の両親ではないということ。
蓮条の両親は、現当主の䰠宮浅葱と䰠宮桜子であり、その息子である櫻真とは双子であること。
そして何故、今の状況になった理由も語られた。
理由は、自分たちが生まれた時に出た星の巡りによるものだ。その時に見た星の巡りには、自分たちが将来、争うことを告げていた。
それを回避するべく、親同士の話し合いで『自分たちを離して、育てる』という方針に決めた。
そして丁度良く、子供を産むことができない今の母親たちの元へ、自分が養子として出されたのだ。
この話を聞いたとき、蓮条は悲しいとか怒りよりも、ただ驚いていた。自分が双子で京都市内に住んでいるなんて……そんなこと露程も思っていなかったからだ。
両親からこの話をされたあと、蓮条は二回くらい櫻真の様子を見に行ったことがある。初めて見た時は、櫻真が友達と公園で遊んでいたとき。自分とそっくりな櫻真の姿に驚いた。
例え、双子だとしてもこんなに似てしまうのか? と思ってしまうほどだ。
それこそ初めの内は、不思議に思いつつも嬉しくもあった。ずっと一人っ子で、兄弟がいればと思っていたから。
しかし、二度目に見に行ったとき、櫻真は錦市場の近くで母親らしき人物と歩いていた。ニコニコと笑う母親と歩く櫻真は、少し照れ臭そうにしている。そしてそんな櫻真が母親と歩いている所を見て、蓮条はふと思ってしまった。
自分があそこにいないのは、自分が選ばれなかったからなんだと。
正直、育ての両親が自分に対して不遇の扱いをしているわけではない。むしろ、本当の我が子のように育ててくれている。
この事実だけを見つめていれば、自分は幸せ者だ。
そう思うのに、何故自分はこんなに胸を締め付けられているのだろう?
幸せ者のはずなのに、悲しみが押し寄せてくる。泣きたくないのに、勝手に涙が出てくる。涙越しに見た櫻真の顔が、ひどく歪んで見えた。
何故、あそこにいる母親は櫻真に自分の事を話さないのだろう?
捨てた自分に興味がないということだろうか?
そして、自分は捨てられてしまうほど無価値なのだろうか? 自分の中に生まれた疑念に怖くなった。
そう思えば思うほど、自分を大切に育ててくれた義理の両親にまで、嫌な妄想が働いてしまう。
自分に真実を話したのは、本当は両親も自分を「要らない子」だと思っているからなのかもしれない。自分たちとお前は他人だと、白線を引きたかったのかもしれない。確かめたい。でも怖くて確かめられない。
そして、人が溢れる市場のアーケードの中へと入る櫻真を再び見た。胸に込み上げてくる物を、蓮条はぐっと堪える。
俺は、無価値なんかじゃない。
自分はそれを証明しなければいけない。そうしなければ、足下が今にも崩れてしまう。そしてその丁度、一年後。蓮条は目を覚ました鬼兎火と契約を結んだ。
鬼兎火と契約したとき、自分はやっと自分に実の両親たちを見返せる機会がやってきたと思った。櫻真はまだ従鬼と契約をしていないと聞いた時も嬉しかった。櫻真は能楽師として、一人でないにしろ、舞台を踏んでいる。けれど、自分は菖蒲や父親に見てもらいながら基本の動きを稽古場で練習するしかなかった。これを櫻真と自分の痛い差だと思っていた。けれど鬼兎火と契約した事で、自分は櫻真よりも高い声聞力があるんだと思えたからだ。
しかし、その自分の優位さは櫻真が桜鬼と契約したことにより、消失してしまった。
だから、内心では凄く焦った。もう、どこでも良い。櫻真より優れている所が欲しい。そう強く思った。
そんな自分を鬼兎火が優しく撫でて来た。
「私には貴方が必要なの。他の誰でもなくね」
その言葉を言われた瞬間、心が救われた気がした。鬼兎火と一緒ならば、自分の価値を見つけられると感じた。
だから、鬼絵巻の気配を菖蒲から教えられた時、蓮条は鬼兎火と共に入念な準備をしていた。最初、気は引けたが「櫻真に勝つためだ」と自分に言い聞かせ、人々から少しの生気を吸い、力を蓄えた。学校の校庭に結界の護符を配置し、櫻真と桜鬼の連携も崩した。幾ら従鬼の個体値が鬼兎火よりも桜鬼の方が上だとしても、しっかりとした準備をしていれば、桜鬼に勝てる。そして案の定、鬼兎火は桜鬼を圧倒していた。
嬉しい反面、櫻真の態度が鼻についた。
鬼兎火と桜鬼が最初に戦ったときも、櫻真はまるで戦いに集中していなかった。上の空の相手を殴った所で、そこに満足感はない。
せっかく準備していた事も、結局は無駄骨を折っただけのようになってしまった。
悔しかった。自分ばかりが空回りしているようで。
だから、すぐにでも櫻真に本気を出させて戦いたかった。
そんな蓮条の耳に、知らない誰かの声が聞こえた。
『其方の願い、誠に業深いものなり。余がその願いたまわん』
もうその声が聞こえた後の事は、よく覚えていない。今の自分は暗い中でどこかに、足をつけることなく彷徨っているような状態だ。
右も左もなく、上も下もない。
身体の感覚は凄く曖昧で、思考は酷くぼやけ始めている。不思議と恐怖はない。
俺は、ここで何をしとるんやろ? 何をしたかったんだっけ?
頭の片隅で疑問を浮かべても、疑問は静かに溶けるようになくなっていく。それを気になりはしない。全てが気にならない。
自分がどうなっているのかさえ、小さな事だ。
だが、そんな蓮条の耳に再び誰かの声が聞こえ始める。
『れ…………い、へ…………し、て』
耳をくすぐる様な声。
誰やったっけ?
くすぐって来た声が誰なのか? またその疑問が静かに消えて行く。けれど、その声は続いた。
『わたしは、……から。だか…………条も、あき…………で!』
必死に何かを訴えかけてくる声に、蓮条の胸がざわつきを感じる。
自分はこの声を知っている。
この声は……
『私には、貴方が必要なのよ! 蓮条!』
「鬼兎火……」
声が鮮明に聞こえて、そしてその瞬間、自分という個体に感情が、意志が、感覚が戻ってくる。
鬼兎火が自分を呼んでいる。
焦るばかり、自分は鬼兎火に酷い事を言ってしまった。
それを謝りたい。謝って、また一緒に頑張って欲しい。
「鬼兎火!」
はっきりと口を動かし、蓮条が鬼兎火の名前を呼ぶ。暗闇の中で見えるのは、自分自身だけだ。けれど、諦めず蓮条は鬼兎火の名前を呼ぶ。
「鬼兎火!」
『蓮条! 良かった! 私の声が届いてるのね?』
「届いとるよ。ちゃんと……」
そう言って、蓮条が暗闇の中、鬼兎火の声が響く方へと右手を伸ばす。すると伸ばした先に一点の白い光が見えた。
蓮条はそれを摑み取るように、さらに腕を伸ばす。
そして……
はっと蓮条の視界が開けた。
開けた視界には、巨大な鬼の手に掴まれぐったりとした少年と、武官束帯の恰好をした見知らぬ男が忌々しげな表情で自分を睨んでいた。
男は、重力に逆らうよう形で宙に浮いている。
「意識を取り戻すとは、余の傀儡になっておれば良いものを。まぁ、良い。そこで大人しく見物しておれ。余がこの見窄らしい都を、秀麗な炎で焼き尽くす様を」
「そんな事をして、何の意味もないやろ?」
蓮条が訝しげな表情で、男を睨む。すると男は、そんな蓮条を下衆でも見るような視線で鼻を鳴らして来た。
「意味ならばある。余の炎で埋め尽くされた人の願いは肉体を離れ、昇華される。願いとは肉体という檻に閉じ込められていては、いけない。無能な奴らに変わり、余がそれを解放してやるまでのことよ」
男が言葉を吐き捨て、片手を上げる。すると地面を突き破るような形で、無数の手が現れる。突き出された手は、半開きの状態で手の平を天へと向けている。
何かしようとしているのは、間違いない。
蓮条から目を逸らした男は、口許に二本の指を当て、低い声音で術式を詠唱し始めている。
早く鬼兎火たちと、合流せんと。
そのためには、この結界を直ちに破る必要がある。
『鬼兎火! 聞こえはる?』
『ええ! 聞こえてるわ。蓮条、今の自分の状況は分かる?』
『今の状況だけなら』
そう言って、蓮条が奇妙な男の話や櫻真と一緒に自分の結界を破って来た少年が捕まっており、一刻も早く男を止めないといけない事を伝える。
『確かにそれは、早く何とかしないといけないわね。蓮条、私のアシストをお願いね。それから、貴方を助けに櫻真君も来ているわ。それこそ、必死な顔でね』
櫻真が……? 自分を助けに?
全く予想していなかった状況に、蓮条は思わず言葉を失ってしまう。櫻真が敵対していた自分を助けに来るなんて、まず思っていなかった。
櫻真が何故、自分を助けに来てくれたのか分からない。動揺がある。けれどその中に微かな暖かみが混じっているのも分かる。
悔しい。
あんなに嫌いだと突っ撥ねていたのに。それなのに、自分は櫻真が来てくれた事に嬉しさを感じてしまっている。
『……鬼兎火。全力で火力を上げるで。そんで、俺たちが強いって事、見せつけんとな』
『勿論よ、蓮条』
鬼兎火の声に、微かな笑いがあったのを無視して、蓮条は意識を集中させ、術式の詠唱を始めた。




