見たい顔は……
櫻真は、家に帰り渡廊下で繋がった別棟の稽古場をそっと覗き込んでいた。
稽古場には、扇子を持ったシテ役を練習する人や、そのシテ役に合わせて練習するワキ役がおり、四拍子がそれに合わせて音を奏でている。
けれど、そこには自分の父親の姿はない。
どこかで、油でも売ってはるんかな……。
とはいえ、今の自分がそれを言える資格はない。自分も気分が乗らずに、こうして稽古をサボってしまったのだから。
後で年配の人たちに叱られるかもなぁ……。
小さく溜息を吐いて櫻真は稽古場を後にし、厨房の方へと向かった。
「母さん、おるかな?」
家には板前さんが居るが、母の桜子は無類の料理好きでよく板前さんと共に料理を作っているので、この時間だったら居る確率が高い。
けれどそこには、桜子の姿は無く板前さんだけが黙々と仕込みの作業をしていただけだった。
買い物にでも出掛けたのだろうか?
「聞きたい事があったのに……」
「聞きたい事って、何?」
「えっ、あっ、父さん!」
後ろから掛けられた櫻真は、浅葱から離れるように身を翻し後退る。すると浅葱が不服そうに目を細めてきた。
「失礼やな。人を化物みたいに」
「まさか、後ろから声を声を掛けられるとは思うてへんやろ? 普通に驚くわ」
「ふーん、まぁええけど。それで櫻真が桜子に聞きたい事って何?」
「別に、父さんに言っても意味ないわ」
「ってことは、夕ご飯のメニューでも訊きにきたん? それやったら、僕に訊かれてもわからへんな」
そんなわけ、ないやん。
適当な言葉を並べる浅葱に櫻真は、内心で溜息を吐いた。
きっと、父さんに訊いても変にはぐらかされるに決まってる。なら、確実に答えてくれる母さんに訊いた方が良い。
櫻真がそんな事を考えている、櫻真の髪を緩やかな風が揺らしてきた。そして風と共に、今まで姿を現さなかった桜鬼が姿を現して来た。
「桜鬼……」
思わず名前を呟いた櫻真の顔を、桜鬼が少し複雑そうな表情で一瞥してきた。桜鬼と目が合った櫻真を気まずさが襲い、すぐに視線を浅葱の方へと向き直す。
桜鬼に掛けるべき言葉がみつからない。
そんな櫻真の変わりに口を開いたのは、自分たちの気まずい空気などまるで気付いていない浅葱だ。
「どうして、桜鬼がいきなり現れたん?」
「そ、それはじゃのう、其方に訊きたい事があるからじゃ」
「なっ、桜鬼!」
櫻真が慌てて浅葱と桜鬼の間に入る。桜鬼が浅葱に何を訊ねようとしているのか、分かるからだ。
けれど、桜鬼は櫻真の方を少し見ただけで、すぐに浅葱へと向き直り口を開いた。
「䰠宮蓮条という者を存じているか?」
「知っとるよ」
「櫻真と凄く顔が似ているということも?」
目を細めた桜鬼に、浅葱があっさりと頷き返している。絶対にはぐらかされると思っていただけに、櫻真としては意外な返しだ。
「そやな。話すつもりなかったけど……もう、ええか。本人にも会うてはるみたいやし。じゃあ、ちょっと僕の部屋に来て」
浅葱にそう言われ、櫻真は黙ったままの桜鬼と共に浅葱の書斎へと来た。書斎と言っても、浅葱があんまり使用しているという認識はないし、櫻真自身もこの部屋に入った記憶もない。
けれど、部屋は一通り手入れが行き届いている。
きっと、母さんと女中さんが綺麗にしてはるんやろうなぁ。
部屋を見回しながら、部屋にある椅子に腰掛ける。洋風の椅子やテーブルの下には畳の上に絨毯が敷かれており、天井にはシャンデリアがぶら下がっている。不思議と自分の家ではないような感覚だ。
「何か、気になるもんでもある? まぁ、僕が揃えたわけやないけど……」
「えっ、そうなん?」
「まぁな。多分、何代か前の人の趣味やない? 詳しくは知らんけどな」
「つまり、興味がないんやろ?」
「まっ、そやな」
「これ、其方たち! 部屋の装飾の話など後じゃ。今はもっと大切な話があるじゃろ?」
呆れ顔を浮かべる櫻真と、飄々とした浅葱に桜鬼が痺れを切らして声を上げる。そんな桜鬼の言葉に櫻真もはっとして、浅葱を見た。
桜鬼に口を尖らされても、櫻真に見られても浅葱は呑気な様子だ。
「そんなせっかちにならんでも話すから、大丈夫。それで、蓮条と櫻真の関係のことなんやけど……簡潔に話すと、兄弟やねん。双児の」
「双子の兄弟……俺と蓮条が?」
「驚くことでもないやろ。顔もそっくりやし。自分に生き別れの兄弟がおった以上の驚き体験してはるんやから」
そう言って、浅葱が意味ありげに桜鬼を見る。
確かに浅葱が言いたい事も分かる。自分の中で納得もしてしまう。けれど、現実味がないのも事実だ。
櫻真は、今の今まで蓮条に会った事がない。正月やお盆などの季節行事にも蓮条がこちらに顔を見せたことはないからだ。しかも、兄弟が互いの記憶なく、別の場所で暮らしているというのも、おかしすぎる。
「俺たちが兄弟って言うんやったら、どうして? どうして、蓮条はこの家におらんの? 何で、離れて暮らしとるん?」
そこに、蓮条が自分を恨む何かがあるのかもしれない。
櫻真は意を決して、浅葱に問う。
「僕らはな、好きで蓮条を外に出したわけやないよ? それこそ、桜子は最後まで泣いて嫌がったしな」
「だったら、何で?」
「星が決めたんよ。櫻真と蓮条が生まれた時に。まぁ、お家行事で生まれた子供の将来を占うねん。そこでな、蓮条を外に出せっていう結果が出たわけや。そうしなければ、櫻真と蓮条が争い合うっていう暗示とともにな」
「でも、結果的には占いの通りになってはるやん。当主争いしとるんやから」
「結果的にはな。でもな、僕らやて詳細な内容を占いで見れへんねん。それこそ、今までご無沙汰になってた鬼絵巻が復活しはるなんて思わんやろ? でもな、何度占いをし直しても結果は同じになんねんな。だったら、少しでも星が出した事を変えよ、って思うやろ?」
「だから、蓮条を出したってこと? つまり、少し違えば俺が外に出てた可能性もあったん?」
櫻真がぱっと頭に浮かんだ可能性を口にする。けれどそれを浅葱が否定するように首を振って来た。
「いや、ないよ。星がもう蓮条を示してきたから。つまり偶然やなくて必然で蓮条になったん。勿論、そこに僕や桜子の私情はない」
「でも、こうなるんやったら、蓮条を外に出さん方が良かったわ。そしたら、そしたら……」
兄弟として過ごせていたはずだ。例え争うことになったとしても、兄弟としての時間を蓮条と過ごしていた。一緒に学校に言ったり、勉強したり、ゲームしたり、稽古だって、同じようにできたかもしれない。
「なぁ、櫻真。櫻真が今思い浮かべてはるのは、磨かれた宝石みたいに綺麗な物やねん。けどな、ホンマにそれになるとは限らん。大人になるとな、楽観的に未来を見ずに、悲観的に未来を見る事の方が得意になんねんな。だから、僕らはな親心として兄弟で憎み合われるよりは……って考えただけや」
「口だけは、かっこええ事言うてはるけど、ただ面倒な状況から逃げただけやろ! 親やったら、大変でも子供と向き合わへんの?」
「そんなに大きな期待されてもなぁ。親だから絶対に立ち向かえるわけでもないんやで? 選択を間違わんわけでもないしな。櫻真が言っとるのはただの理想や」
駄々を捏ねる子供のように櫻真を見ている。そこに櫻真が抱いている感情などまるで見ていない。
何とも言えない悔しさが込み上げて来て、櫻真は思わず唇を噛む。するとそんな櫻真の様子を見た浅葱が溜息を吐きながら、頭を掻いた。
「なぁ、逆に櫻真に訊くんやけど……これを知りはって櫻真はどうするん? 話し合いでもして、『鬼絵巻を取り合うのは止そうや』とでも言いはるん?」
「言わん。むしろ、蓮条がもう一つ手に入れたわ。でも、それで良かったんや」
櫻真がそう言った瞬間、横にいた桜鬼が勢いよく立ち上がり、櫻真へと声を張り上げて来た。
「櫻真! 良かったとは何じゃ!? 何が良かったと言うのかっ!」
カッと熱くなってきた桜鬼を、力ない表情で櫻真が見る。
「言葉通りの意味や。俺はもう蓮条と戦いたくない。他の鬼絵巻も蓮条や他の人に取られてもええわ」
「それは逃げじゃ! 櫻真はただ鬼絵巻などどうでも良いのであろう? じゃがの、妾にとっては……」
「どうでもええもん。正直、俺はこの家の当主なんかになりたくないし、鬼絵巻に関わって他人を巻き込むのは、もう嫌や!」
「他者など巻き込んでおらぬっ!」
桜鬼の言葉で櫻真の頭に一瞬でカッと血が昇った。気付けば、勢いよく立ち上がり、少し目線の高い桜鬼のことを櫻真が睨んでいた。
「巻き込んでない? ふざけんなっ! もうすでに巻き込んでるやろ! 祥さんの事っ! それなのに、巻き込んでないなんて、よく言えるなっ!」
「あの娘に鬼絵巻が取り憑いた。つまりそれは不運であるにしろ、関係者じゃ! 仕方あるまい? 妾たちでは鬼絵巻の行く末を決められん。浅葱たちが星の動きを止める事が出来ぬように、妾たちも同じじゃ!」
「桜鬼たち従鬼は、結局鬼絵巻のことしか考えてないんやろ? それで、誰かが怪我したとしても、勝手な理屈で仕方ないで片付けるんやろ? でも俺はちゃう。鬼絵巻の影響を止められさえすれば、それでええ。それを奪い合うために、怪我人を出したりなんかしたくないわ」
「櫻真こそ勝手じゃ! 争うと分かっていても、鬼絵巻を集めると言ったのじゃろ? 違うのかえ? あの言葉はその場の気分で口にした言葉だったのか? そんな気持ちでおっては、蓮条に負けるのも当然じゃ!」
櫻真の言葉に桜鬼も一歩も引かない。
けれど、そんな桜鬼の目には色々な感情が混ざっている涙が浮かんでいた。その涙に怒り心頭していた櫻真も居心地が悪くなる。
しかし、それでもこればっかりは引けない。
「俺、少し向こうで頭冷やすわ……」
蓮条との事も訊けたのだから、もうここに用はない。
俺は何も間違ったことなんて言うてへん。そや、だから……俺は悪くない。
自分にそう言い聞かし、櫻真は足早に書斎を後にした。
自分は何を間違っていたというのか?
桜鬼は家の庭先に立ちながら、雲が微かに掛かる月を見ていた。雲に意地悪をされながらも、月の光はめげずに地表を照らしている。けれどやはりその光はどこか弱々しく、まるで今の自分の気持ちのようだ、と桜鬼は思った。
櫻真は人を巻き込みたくないと言った。その気持ちは分かる。けれどそれでも何かを得るために犠牲は付きものだ。
前回の時も、その前も、それよりも前の時も、大小の犠牲はあった。
しかし、それもやむを得ないと先人たちは飲み込んで来た。その様子を桜鬼は傍らで見ていたのだ。
けれど、櫻真は違う。違った。
鬼絵巻の為に犠牲など出したくないと言ったのだ。
妾は安易に考えていたのかもしれん。
きっと、どんなに争いたくないと言っている櫻真もいざ戦い始めれば、気持ちを変えてくれる。桜鬼はそう思っていたのだ。
しかし、結果はどうだ? 全く真逆ではないか。
「捕らぬ狸の皮算用とは……よく言った物だ」
桜鬼は静かに自嘲を浮かべる。そんな桜鬼の身体を冷たい風が吹き付けた。
何故だろう? 胸が凄く痛い。
これは、何故だろう? 鬼兎火に負けたから? 自分の考えが甘かったから?
「……違う。どれも、これも違う!!」
荒い息と共に言葉を吐き捨てる。目からは涙が溢れていた。
櫻真と喧嘩してしまったから? それも違う気がする。主と喧嘩することなど、これまでもあったことだ。
けれど、ここまで胸が引き裂かれそうになったことはない。
それは何故なのか?
桜鬼はその場で蹲り、考える。自分がどうして、これほどまで傷ついているのか? きっとそれには喧嘩してしまったという事実の他に理由があるはずだ。
櫻真とは会って日も浅い。戦いにも消極的で、まるでやる気が見られない。しかし、それでも、櫻真という人物に強く惹かれている自分がいるのも確かだ。
櫻真が笑ってくれると、胸が締め付けられる程に嬉しくなる。もっと見たいと思う。
けれど、もう見せてはくれないかもしれない。
そう思うと、再び桜鬼の目から涙が溢れた。




