従鬼との契約
櫻真の家は、京都市内の千本通り沿いにある。
寝殿造りの趣を残した平屋の家は、市内にあるとは思えないほど広大だ。敷地内には能の稽古場があり、十数名の門下生が稽古に励んでいる。
櫻真も学校などから帰った後、稽古場に向かうのが通例だ。しかしこうして、舞台を終えた日くらいゆっくりと休みたい。今日は元々平日ではなく休日の土曜日なのだから。
けれど、そんな櫻真の気持ちは、
「櫻真、荷物を置いたらすぐに居間に来てくれはる? お父さんが櫻真に話があるみたいなんよ」
という母親である䰠宮桜子の申し訳なそうな言葉によって、断ち切られてしまった。
けれど、これは母親が悪いわけではない。
息子の気持ちを読まない父親(浅葱)が悪いのだ。
とはいえ、父親がわざわざ自分を呼ぶということは、何か仕事の話だろう。
居間に櫻真が行くと、そこでは浅葱がソファーに寝そべりながら、テレビを見ていた。何ともだらけた姿だ。
「櫻真、仕事の依頼が来とるで。今晩は、妙長寺さんの所に行って占術をしてあげて」
「……それ、俺じゃなくて父さんでも出来きはるやろ?」
「僕じゃ、駄目や。あそこの住職さんも長い付き合いやから、僕より櫻真の方が占術、得意なの知ってはるもん」
「……今日じゃなくてもええやん。そんな急を要するもんでもないやろ? きっと」
妙長寺の住職さんとは古くからの付き合いであり、その家の息子は櫻真の友人でもある。定期的に行っている占術は、大体は家族の健康や寺社の経営の事が殆どだ。
占い結果も大きな波はなく、いつも平均的な結果だ。
友人の家だからこそ、この結果にはホッとする。しかしその反面、家庭内の諸事情を聞かなければならず、そこに後ろめたさを感じてしまう。
「駄目や。早く占って貰わんと不安で不安で夜も眠れへんそうや。櫻真もご近所さんのそんな不憫な姿なんて見たくないやろ?」
「そうやけど……」
どうも、浅葱の言い方は嘘臭い。
夜も眠れなくなるほど悩んでいる人の依頼を話すわりに、浅葱の表情はいつもと変わらない。どこか活力の抜けたような顔のままだ。
むしろ、何で俺がこの人にこんな扱き使われないといけないんやろ?
今、自分の目の前にいる浅葱はソファーでだらけているだけだ。確かに自分の方が正確な占術が出来るとしても、浅葱も占術は行える。なら、こうして稽古もせずにテレビを見ているだけの父親が行くべきじゃないのか?
「動けや。おっさん」
ぼそっと櫻真が浅葱に悪態をつく。すると、地獄耳でそれを聞き取っていた浅葱がテレビから櫻真の方に、顔を向けて来た。
「僕、まだ三十四のピチピチやで? 近所の父親たちより若いわ。それになぁ、コンビニのレジにある年齢ボタンで二〇代の奴、押されとったわ。すごない? 桔梗や菖蒲と並んでも違和感ないねんな」
自分の事をこれだけ言える浅葱に対して、櫻真が引き顔を浮かべる。
駄目や。ここで父さんのペースに飲まれたらっ!
「自分の事を、そんなに若い言うんやったら、父さんが行けばええやろ?」
「いやな、二〇代に見られる僕でも、さすがに一〇代の櫻真には勝てへんねん。それに、今日、協会のジジ連たちに、能楽をアピールするポスター作りにさせられたん。嫌やなぁ。ジジ連たちも、自分の顔だと映えんからって、僕を使うの。僕の休みが無くなってしまうわ。あー、疲れた」
わざとらしく、自分の肩を手で揉み始めた浅葱。
そんな浅葱に櫻真が、怒りの視線を注ぐ。けれど、浅葱は素知らぬ顔でテレビの方へと向き直ってしまった。そしてそんな二人の言い合いを見兼ねた母親が口を開いて来た。
「櫻真も疲れてはると思うけど、雨宮さんも困ってはるみたいやし……友達に会いに行くと思って受けてあげて。ねっ?」
「……何でそんなに俺を行かせたがるん? ほんまは別に何か理由があるんやないの?」
櫻真が母親と父親の顔を交互に見ながら、眉を顰めさせる。
すると、母親がやや困惑した顔を浮かべ、浅葱がニヤリと含みのある笑みを返して来た。
「さすが僕の子や。よう勘が働くな? でもそれが分かるんやったら、尚更、行った方がええんちゃうの? お友達のお父さんを助けてやらな」
含みのある笑みから、浅葱がにっこりと調子の良さそうな笑みへと表情を変えて来た。
よくも、こんな抜け抜けと……
櫻真は内心で浅葱の態度に腹を立てながら、渋々今日の依頼者である妙長寺に出向く事を頷いた。
夜になり、櫻真が家を出て妙長寺へと向かっていた。
まだ五月になったばかりということもあり、夜の空気はまだひんやりとしている。
やっぱり、このくらいの季節が一番ええわ。
この季節を過ぎると、京都にはむしっと重たい暑さがやってきてしまう。盆地という地形も相俟って、夏は暑く、冬は寒い。夏には激しいにわか雨が降るし、冬には冷たい雪が降ってくる。
それを考えると、綺麗な桜が咲く春と、艶やかな紅葉が色づく秋は最高の時期だ。しかし、その時期は国内・国外から押し寄せる観光客で溢れかえるという難点もある。
五月にも葵祭という大きな祭りが行われるが、それは一日だけにすぎず、あとは平穏な時期だ。
「あれ? でも……葵祭って明日やったっけ」
葵祭が行われるのは、五月十五日、旧暦四月の中の西の日だ。
小さい頃は見に行ったりもしたが、最近では見に行かなくなり、すっかり意識から外れていた。
でも、明日は日曜日やし……人がたくさん来たはるやろな。
櫻真がそんな事を思いながら、歩いていると視界の片隅に白桃色の花弁がひらりと落ちるのが見えた。
「これって……桜?」
地面に落ちた一枚の花弁を拾い上げ、櫻真は首を傾げさせる。
辺りを見ても、特に桜の木があるわけではない。いや、もしあったとしても、今の時期は葉桜で桜の花弁が落ちてくることなんて、あり得ないはずだ。
手の平に置いた桜の花弁を見る。
見た目は何の変哲もない、ただの花弁だ。けれど、櫻真はそれをすぐに道に捨てる気にはなれなかった。
自分でも変だな、とは思う。
けれど、ただ何となく自分はこの桜を無下に捨ててはいけない、そんな気がする。
しかしそんな櫻真を、夜風が吹き付けて来た。手の平の上に乗った花弁は夜風に吹かれて、呆気なく飛ばされてしまう。咄嗟に櫻真も腕を伸ばして花弁を掴もうとしたが、掴むことはできなかった。
夜空に舞い上がった花弁を見て、寂寥感が込み上げてくる。何故、自分はこんな気持ちになっているのだろう? 季節外れの桜の花弁を見て、感慨に浸ってしまったのだろうか?
掴む事の出来なかった花弁は、どこかへ飛ばされ、櫻真の視界から完全に消えてしまっている。
その場で立ち尽くしていた櫻真に、後ろから自転車のベルが鳴らされた。
櫻真は、はっとして意識を現実に戻し振り返る。するとベルを鳴らしてきた通行人は、櫻真の顔を見ずに横を通り過ぎて行った。
こんな所で立ち尽くしとる場合やなかった! はよ、お寺さんに向かわんと!
さっきまでの不思議な感覚を振り切るように、櫻真は走って妙長寺まで向かった。
「雨宮、出てきはるかな?」
寺の裏手にある母屋の玄関先で足を止めた櫻真は、上がった息を整えながら門柱に付けられたインターホンをゆっくりと押す。
「……はい、雨宮です」
ガシャ、ガシャという雑音の後に出た声は友人のものではない。依頼主である父親の方だ。
「あの、䰠宮です。占術をしにきました」
「ああ、櫻真君が来てくれはったんや! そりゃあ、良かったわ。今、開けるからそこで待っとって」
インターホンに出た住職、雨宮邦久がここまで走って来た櫻真よりも息を切らして、玄関を開けて来た。凄い、慌てようだ。
「よう来たね。櫻真君。ほんまに良かった。さっ、中に入って。直規も家にいるんやけど……ちょっと話すのは後でにしてもろうて。早速、占いを始めようか」
「はぁ。分かりました」
友人の父親に急かされ、櫻真は力なく頷いた。
この焦り様はかなり怪しい。
いや、この焦り様っていうか、前にも一度こんな感じになっていた事がある。
あの時は、確か奥さんに浮気がバレると焦っており、今回は……
「櫻真君、大変なんや。このままだと家内に二人目がバレそうなんや。何でも、旅行会社がアフターケアのお葉書を誤送してしもうたらしくて……今朝、電話掛かって来たんよ。郵便局に問い合わせても、手続きが間に合わんって払い除けられてしまうし、仕事を抜けようにも、こんな時に限って、仏様が多くてな……」
全く同じ理由だった。
通された邦久の自室で話を聞きながら、櫻真は吐き出したい溜息を必死に堪える。
だから、嫌なんや。
一度目の時は、それこそ櫻真は激しく動揺したものだ。まさか友人の父親の浮気をカミングアウトされ、それを隠す手伝いをしてくれと、遠回しに頼まれたのだから。
結局、その時は自分には荷が重すぎたため、一緒に来ていた桔梗にバトンタッチしてもらった。
後日談としては、友人である雨宮直規も父親の手癖の悪さは知っていて、「もう今さらや」と開き直り、邦久は奥さんにこっぴどく怒られたらしい。
とはいえ、こんな話を何度も聞きたくはない。
櫻真からすれば、住職ならしっかりと修行に打ち込んで、俗欲を捨てろと言いたい。
いくら幼馴染みの父親だとしても、こんな人にお経をあげて欲しくないと櫻真は強く思う。
ただ、この人のお経も自分の父親の舞いと同じく評判が良いのだから、何とも遣る瀬無くなる。近所の叔母さんなんて、「あの絶妙な低さの美声で、お経をあげてもろうたら、一瞬で成仏できそうやわ〜」と話していたくらいだ。
人には誰しも光る所があるっていうのは、ほんまやな。
櫻真がそんな事を考えている間にも、邦久は「やっぱりいつもの旅行会社を使わなかったのが駄目やったわ」とか「どんな管理してはるんやろうな?」など、自分の悩みの種を作った旅行会社への不満不平を零している。
櫻真はそんな邦久に、「はぁ……」という微妙な相槌しか返す事ができない。
あかん。このままだと聞きたくない事もぽろっと零されそうや。そうや。そうなる前に早く終わらせな。
「あの、もうそろそろ占術を始めさせてもろうても、ええですか?」
「ああ、そやな、そやな。宜しゅう頼みます」
やっと本題に入れる事に安堵して、櫻真は六壬神課を用いて邦久の今後を占う。まず用意した式盤を机の上に取り出す。式盤は円形の天盤と方形の地盤を組み合わせた形をしている。
地盤には、十干、十二支、四隅の門とそれに対応する八卦(古代中国から伝わる八つの易の基本図像)、二十八宿などが記載されており、天盤には、黄道十二宮に対応する十二神、十二天将つまりは星座を起源とする、五行の神が記載されている。
簡単に言ってしまうと、地盤にはおみくじの大元になる物が書かれており、天盤には西洋の星占いの大元になるものが記載されているのだ。
その二つの盤を組み合わせて、占いを行う。
六壬神課を用いて占う場合、六段階の手続きがあり集中力が必要となる。
けれど、これにより自分と相手、自分と物という二者関係においての子細な事柄が占えるのだ。
櫻真は慎重に式盤を使いながら、雨宮邦久の今後を占って行く。
「結果が出ました……」
「ホンマ? それで、どうやった?」
「占いの結果で言うなら、悪いです。けど……おじさんが必死になって浮気を隠す必要はありません」
櫻真が大まかな占い結果を伝えると、邦久が眉を顰めて疑問の表情を浮かべて来た。
「詳細を言ってしまうと、奥さんは今回もおじさんの浮気を知っています。それで、旅行会社の方にハガキを寄越せと言ったのも、奥さんです。せやから、隠すも何も、もうバレてはるんです。そして、今後おじさんが自分の方針を変えなければ、破滅の一途っていう結果が出てはります」
「つ、つまり、離婚されるって事か?」
青ざめた表情の邦久に、櫻真は首を横に振る。
「いえ、離婚はされません。ただ……その浮気を理由におじさんの金運が、かなり下がって、健康の方にも影響してくるらしいんです。まぁ、今の現状で言うとやけど」
悪い結果を言うときほど、困ることはない。
占には陽と陰が必ずあり、その割合がどちらに傾いているかによって良い結果、悪い結果と定めるだけだ。
だから、あまり相手の気持ちに同調しない方が良いのだが……
こう、昔から見知った人が自分の占い結果に肩を落としているのを見ると、何とも言えない気持ちになる。
そもそも浮気した邦久がいけないのだが、こんなに落胆されるとほんの少し哀れに感じてしまうのだ。
「それこそ、この運命を変えたいなら、欲を捨てて、家族の人と真摯に向き合った方がええと思いますよ」
「……そうやな。私もそう思う。けどな、駄目やねん。どうしても、若くて綺麗な子がおったら、話しかけたくなってしもうて……。なんか、たちの悪い邪鬼に取り付かれとんのかな?」
「えっ……いや、その可能性はないと思いますよ」
「ホンマか! 櫻真君!」
「あっ、はい」
勢いよく肩を掴んで来た邦久に驚きながら、櫻真は頷いた。むしろ、そんな都合良く邪鬼が付くことはないだろう。
「そうか。そうなんやな……はぁ……」
えっ、何でこんなに残念そうにしてはるんやろ?
これでは、まるで……
「あの、まさかとは思うんですけど、浮気を邪鬼の所為にしたかったとか言いませんよね?」
「まっ、まさか。そんな小学生の子みたいな事するわけないやろ。浮気は皆、妖怪の所為なんて……」
嘘やな。めっちゃ目が泳いでるし。声が微かに震えてはる。
あからさまに動揺している邦久を見ながら、櫻真は苦笑を返すしかできなかった。
「じゃあ、これで占いは終わったんで……帰ります」
「ああ、そやな。もう夜も遅いしな。あっ、これで最後なんやけど、この事は内密に。勿論、直規にも」
「分かりました。秘密にしときます」
とはいっても、隠す事に意味はないと思う。奥さんはもう知っているし、友人の雨宮も口に出さないだけで知ってそうだ。
櫻真は、邦久に先導されながら玄関まで歩く。
その間に、占う前よりも落ち着きを取り戻した邦久が櫻真にこんな質問をしてきた。
「前から少し疑問やったんやけど、櫻真君たちは自分自身の占いとかしはるの?」
「えっ……」
「ほら、これだけ人様の先を見たはるんやったら、自分の未来も見たくならんのかな? と思ってな」
言われてみれば、櫻真は六壬神課を教えられてからこの方、自分の未来など占った事がなかった。今日の舞台が決まっても、その舞台について占いはしなかったし、占おうとも思わなかった。
自分でも不思議な程だ。
別に自身の未来を占っては行けないなんて規則はない。
もしかしたら、櫻真が知らないだけで他の人は自分の事を占っているかもしれない。
でも自分はそれをしてこなかった。
「……正直に言うと、自分の事を占おうなんて思ってもなかったです」
「へぇー、なんかけったいやな。もし私が占いできたら自分の事をまず最初に占うわ。自分で自分の未来が読めるなんて、怖いものなしやん」
「読める言うても、直近とかでない限りすぐに変わってしまう場合もありますよ。だから先過ぎる未来は占っても、あまり意味はないんです」
「そうなん? でもまっ、逆にそのくらいの方が希望を持ててええかもしれんね。あっ、それよりも櫻真君、君の偉い別嬪のお母さんは元気にしてはる? おじさん、櫻真君のお母さんを一日一回は見ないと、元気が出へんのや」
「……元気ですよ。この前、頂いたっていう花も玄関に生けてあります」
「流石やなぁ。花も美人の手に渡れたら本望って奴やろ。君も浅葱じゃなくて、お母さんに似れば、今よりもっと良い人生が送れたはずや」
そう言って、邦久は堰が切れたように、今より若かりし頃にあった浅葱との因縁を語り始める。正直櫻真としては、かなり反応し辛く、苦笑しか返せない。
邦久に玄関まで見送って貰った櫻真は、再び来た道と同じ道を通って家へと帰る。
「自分自身の占いか……少しやってみようかな?」
帰路を歩きながら、櫻真は邦久との話を想起していた。
もし、自分の未来を自分で占ったら、どんな結果が出るのだろう?
自分で自分の未来を占うなんて、変な気分やな。
例え、自分自身で占いをしたからといって結果が狂うことはない。
櫻真たちは占う時には、声聞力という力を使用するからだ。
声聞力とは、普通の人が感じ取る事のできない者の声を聞き取り、それを具現化させる能力だ。
具現化といっても、統一な形はない。例えば、先程の占術ならば聞いた声を式盤上に現しているだけだ。他の表し方を上げると、護符、人形、そして……式鬼神などがある。
護符を使用した術式の具現化は櫻真もした事はある。けれど式鬼神を呼び出したことはない。
櫻真の家系では昔から式鬼神として十二天将を使役させているらしいが、櫻真はそれらを呼び出す事ができないのだ。
式鬼神の出し方を教わった時から何度も試してはみた。けれどどうしても上手く出来ない。出せそうな雰囲気はあるのに、出せずに終わってしまう。
あの放蕩な父親でさえ簡単な式鬼神を出せるのだから、櫻真に出せてもいいはずだ。
「そや、今度桔梗さんにアドバイスを貰うて……あれ? でも桔梗さんが式鬼神を使ってはる時、あったかな?」
ふと、それを考えて櫻真は首を傾げた。
桔梗は䰠宮の血を引く縁者であり、声聞力も父親の浅葱よりも高い。それなのに、櫻真は桔梗が式鬼神を出している所を目にした記憶がないのだ。
元々、式鬼神を使わないスタンスなのかもしれへんけど……まさか、あの父親しか出来へんとかじゃないと思うし……うーん、謎や。
悶々と考えながら歩くと、行きよりも早く家に着く事ができた。
庭門を抜け、玄関までの石畳も通り過ぎる。石畳の左右には足下を照らすようの灯籠も置かれており、そこに小さな翅虫たちが集まっていた。
左側にある桜の木や椿などが植わっている庭園にも、夜風が吹き草木の葉を揺らしている。
何やろ?
ふと、胸が騒ぎ立った櫻真は足を止め、周りを見回した。けれど辺りにおかしな気配はない。
気の所為……やろうか?
今日は、色々と大変で長い一日だった。だからだろうか? こんな変な気分になっているのは?
嫌な気はしない。ただ、不思議な気分なだけだ。
「櫻真、そこで何してはるの?」
丁度、庭側の廊下を歩いていた母親が、立ち止まっている櫻真に気づいて声を掛けて来た。
「あっ、いや、何でもない」
言葉を掛けて来た母親に首を振って答え、櫻真は家の中へと入った。
しかし、それでも胸中には不思議なモヤモヤ感が残っていて、櫻真はそっと胸に手を当てる。
理由ははっきりしない。けれど、凄くモヤモヤする。落ち着き払えない。
そんな、櫻真の脳裏に昼間の桔梗の言葉がふと浮かんで来た。
模糊的な感覚。
もしかしたら、これが桔梗さんの言ってたことなのかもしれない。
これはやはり、自分を占うべきだ。そこでこの模糊的な感覚の正体を掴める気がする。直感がそう告げてくる。
櫻真は静かにそう決意し、自身の部屋へと向かって歩いた。
櫻真は、自室の畳の上に正座で座り、静かに目を閉じる。
静かで深い呼吸を数回に渡って繰り返し、気持ちを落ち着かせる。時計に掛かった時計の音、外の風、葉の擦れる音、柱や梁が割れる音……それら些細な音も聞き取りながら、精神を集中させて行く。
そして、櫻真は目の前に置かれた式盤に手を伸ばした。
まるで呼吸するように自然な動きで六段階の手続きを終わらせて行く。
「汝、ちのなかで桜の者に出で会う。さすれば、真の汝が現れる。桜、ここより巽の方。然ては、災い始まり……」
式盤に現れた結果を読みながら、櫻真は首を傾げさせていた。
「桜の者って、どういうことやろ? それに……災いって」
あんまり良くない結果であることに変わりはない。
こうなったら、もう少し入念に占う必要がありそうやな。
桜の者の正体も、災いの正体もまるで分からない状態だ。そして、これは他の誰でもない櫻真自身の運勢を告げている。
なら、分からないまま放っておくなんてできるはずもない。
櫻真は、再び集中力を高めて式盤に触れた。
ちょうど、その時だ。
櫻真の頭の中に、鮮明に暗闇の中で光り輝く、桜の木が浮かび上がった。大きな桜の木だ。そしてその太く大きな幹の根元に、背中を預けるように眠っている女性の姿があった。
薄桜色の長い髪が、眠っている女性の神秘的な美しさを際立てていた。
眠っていた女性の長い睫毛が微かに揺れ動く。櫻真はその姿にはっとした。
女性が目を開けた。紅色の瞳が櫻真を直視してきた。
そしてその双眸から、白い肌に溶け込むような涙が一筋流れる。そして、震える紅い唇で、誰かの名前を呟いた気がした。
束の間の夢幻。そのはずだった。
「えっ……?」
櫻真は目の前の光景に、目を見張った。
櫻真の黒い髪が、庭先の草木の葉と同様に夜風が吹かれる。
「どう、して……?」
先程まで自分の部屋にいたはずのなのに、櫻真は母屋から少し離れた蔵の前に突っ立っていた。
この蔵は、確か古い本をしまっておく書庫として使われている場所だ。
今では大掃除くらいにしか、開ける事はない。
なんで、俺……こんな所に?
まさか、あの幻想らしきものを見ていた瞬間に、身体を乗っ取られていたということだろうか?
もしこの仮説が正しいとしたら、無防備のままこの蔵に入るのは危険だ。
理性が櫻真にそう警鐘を鳴らす。
しかし、本能が身体を動かし櫻真は自然と蔵の扉に手を伸ばし、扉を押し開けていた。自分の中で、疑問と恐怖と好奇心が撹拌する。
自分の身体が自分の身体ではないような、そんな感覚だ。
どうして、自分は一切の迷いなく足を動かしているのだろう? この行動は災いを招く。占いでもそう出ていたはずだ。
それなのに……
行かなければいけない。
会わなくてはいけない。
そして、今度こそは……。
自分を正常に制御できている気がまるでしない。
鼓動が速くなる。呼吸が浅くなって速い。
俺は、どうなってしまうんやろ?
先程の占いの結果、自分の元に落ちて来た季節外れの桜、桔梗の言葉、初めてのシテ役での舞台……全てが櫻真にとって異様だった。
もしかして、全ては今このときの為に星が巡っていたのだろうか? いや、そうだろう。そうでなければ、こんな事になっていない。
櫻真の足は蔵の一番奥にある棚の前に立っていた。
そして櫻真の右手が一つの巻物に手が伸びた。綴じ紐を解き、勢いよく巻物を開く。
開いた巻物には、びっしりと墨で書かれた文字が書かれている。昔の古語で書かれており、読む事はできない。
そして、びっしりと書かれた字の後に、鮮やかな色彩で描かれていたらしき絵が乗っていた。
「これって、桜……」
巻物に描かれた絵には、大きな桜が描かれていた。
もう大分昔の書物とあって、その色味は剥げている箇所が多くある。それにも関わらず、櫻真はその絵の鮮やかさをありありと思い浮かべることができた。
「ここに居はるんや」
口から言葉が溢れた。
そして、そんな櫻真の言葉に呼応するように目の前の景色が一変した。
入ったはずの蔵から、一つの切り取られた空間に櫻真は招かれていた。空間には景色というものがない。黒い墨で一色に染められている。
しかしそんな墨の世界を鮮やかにしているのは……大きな、大きな桜の木だ。桜は綺麗な花を満開に咲かせて、威風堂々とこの場に存在している。
「この桜って、さっきの……」
部屋で見た桜の木だ。
そして、その大木の根元には白の着物に鮮やかな紅い帯を閉めた綺麗な女性が眠っていた。しかしその女性に生気はない。人というよりは、目を閉じたまま動かなくなった人形に近い。
これは現実? それとも幻像?
確かな感覚は宙に浮き、櫻真という個から離反してしまっている。そのためだろうか? こんな不思議な場所に足を踏み入れてしまったというのに、まるで恐怖や不安がない。
気持ちは凄く落ち着いていて、穏やかなくらいだ。
近づけるんやろうか?
櫻真は、なんの恐れも抱かず一歩を踏み出す。
すると割と呆気なく櫻真の身体は前へと進んだ。歩ける。それを確かめた櫻真は、目の前の美しい桜に近づく。
それは、同時に眠っている女性にも近づくということだ。
櫻真は眠っている女性の前で足を止めた。
最初に見た光景と全てが一緒だ。そしてその通りだとするなら、この後、この人は目覚めるはずだ。
そして、誰かの名前を呟く。そういうシナリオだ。
シナリオ?
頭に思い浮かべたその言葉に、櫻真は強い反発を感じた。何故だろう? 自分でもよく分からない。けれど、そのシナリオという言葉に今この瞬間、強烈な不快さを感じたのだ。
自分の直感が、そのシナリオを壊せと叫んだ。
その衝動に駆られて、櫻真は眠っている女性の頬に手を添えた。白く冷たい女性の頬に触れた瞬間、穏やかだった桜の木がざわつき始めた。
「なっ!」
そのざわつきによって、満開に咲き誇っていた桜の花が次から次へと散りどこかへ飛んで行く。
変わる。そう、今から変わるのだ。
……でも、何が?
櫻真は、確信と疑問をその身に感じながら涙を流していた。
悲しくはないのに、目から涙が出る。
嬉しくて泣いているのか、悲しくて泣いているのか?
櫻真の目から溢れた涙が眠っていた女性の頬に落ちる。そして、その涙に引き寄せられるように、一枚の桜の花弁がひらひらと女性の元に舞い落ちた。
舞い落ちた桜の花弁が、淡い白の光を放ち、女性の身体に吸い込まれて行く。
すると、今まで人形のように眠っていた女性に生気が宿った。
垂れ下がっていた指先が微かに動き、閉じられていた瞼がゆっくりと目を開ける。
紅く美しい目が、櫻真を取らえる。櫻真は息を飲んで身構えた。この女性が何者であるかわからない。ただ確かなのはこの空間を造り出した思念であり、櫻真をここに呼び出した超本人ということだけだ。
身構える櫻真に、目を開けた美しい女性が少しぼんやりとしたまま、柔らかい笑みを浮かべて来た。
「あなた様は、妾の主様かえ?」
「主様?」
「そうじゃ。妾は第八従鬼の桜鬼。主様に使役し、『鬼絵巻』を完成させ、我が願いを叶えることを懇請しておる」
「従鬼に鬼絵巻……?」
聞き慣れない言葉に、櫻真が眉を寄せて首を傾げさせる。どちらも聞いた事のない言葉だ。
「その顔は、本当に従鬼の事も鬼絵巻の事も存じていない顔じゃな?」
片目を眇めた桜鬼にそう訊ねられ、櫻真は静かに首を頷かせた。
首を頷かせた櫻真を桜鬼がマジマジと見る。まるで値踏みをされているようで緊張する。
自分を見る桜鬼は、見た目に反して好奇心旺盛の子供のような表情を浮かべている。
従鬼というものがどういう存在なのかは分からないが……言い方的にやはり人間ではない事は確かだ。
「主様は、妾を自分のものにする気持ちはお有りかえ?」
「じ、自分のものって……」
何か色々と誤解を生みそうな言葉に、櫻真は返事を詰まらせる。するとそんな櫻真の反応に桜鬼が満足そうな笑みを浮かべて来た。
「妾は決めたぞ。決めたのじゃ。妾は主様の従鬼になろうぞ」
すくっと立ち上がった桜鬼は、胸の高さで握り拳を作り、堂々とした態度でそう宣言してきた。
「えっ、ちょっと待って。いきなり従鬼になる言われはっても……俺、どないすればいいのか、分からん」
いきなり話を進めて来た桜鬼に、櫻真が戸惑いの声を上げる。
確かに先程から、『主様、主様……』と呼ばれてはいたが、まさか、こんな展開になるとは思いも寄らなかった。
いや、正直……これが現実なのかも怪しいところではあるけど。
「契約の仕方なら簡単じゃ。妾に主様の名を教え、その身の血を一滴、妾に捧げてくれれば良いのじゃ。簡単じゃろ?」
ニッコリと笑みを浮かべて来た桜鬼に、やはり櫻真は反応に困った。
「いや、確かに用法は簡単なのかもしれんけど、まだ桜鬼さんをその従鬼にする決断は……できへんよ」
「何でじゃ? 主様も式鬼神などは使うであろう? 妾は式鬼神なんぞよりも、頼りになるはずじゃ。世に蔓延る邪鬼を払ったり、それこそ主様を守る事が可能じゃ」
「うーん、邪鬼払うって言うても、あんまり困ってないしなぁ」
櫻真が困り顔のまま言い渋ると、桜鬼が着物の袂で顔を覆い隠して来た。
「主様が妾を従鬼にしてくれないとなると……妾は他の従鬼のように鬼絵巻を集められず、己の生前の記憶は黒く塗り潰されたままということじゃな。ああ、悲しき」
「えっ、記憶って何? さっき桜鬼さんが言うてはった『鬼絵巻』って桜鬼さんの記憶やったんですか?」
綺麗な目から涙を零す桜鬼に、櫻真が狼狽えながら訊ねる。すると涙を流す桜鬼が櫻真へと視線を戻して来た。
「それについては、多分……としか言えん。全ては妾の推測に過ぎぬゆえ」
桜鬼がここに来て初めて、表情に影を落として来た。
「……でも、何の根拠もなしにそう思いはりませんよね? なら、何か桜鬼さんの記憶とその鬼絵巻が繋がる何かがあったんじゃ……」
「いや、そんな物はない。ただ、あるのは自分の中にある使命感だけじゃ。鬼絵巻を集めなければというな。そして妾は思った。自分を強く苛むこの使命感が、自分の失った記憶に通じているのではないかとな」
目を閉じて、桜鬼が静かに唇を噛む。
何故だが、櫻真はそんな桜鬼の姿を見ていたくはなかった。
例え、この先が災いだとしても。
もう既に櫻真はその巡りに足を踏み入れてしまっている。なら、もうこの巡りに今は従うしかない。
そこに先程、強烈に感じた不快さは姿を隠している。自分でもそこに微かな疑問を感じる。しかし、櫻真は目の前の桜鬼を見て、その疑問を頭の片隅に追いやった。
「そんな顔せんといて下さい。俺の名前は、䰠宮櫻真。桜鬼さん、これから俺の従鬼になってくれはりますか?」
そう言って、櫻真が右手を差し出した。
桜鬼がそんな櫻真の言葉が信じられないと言わんばかりに、目を丸くさせて来た。
「俺、最初に考えたいとは言うたけど、嫌やとは言うてへんよ?」
櫻真が照れ臭さを隠したくて、ぎこちない笑みを浮かべる。すると今まできょとんとしていた桜鬼の表情が……一気に崩れた。
「櫻真〜〜! やっぱり、妾には櫻真しかいないのじゃ。ああ、これも妾と櫻真の運命に違いない!」
表情を崩した桜鬼が容赦なく櫻真に抱きつき、櫻真の顔を胸の辺りにぎゅっと押し付けてきた。
布生地はしっかりしていそうだが、それでもやはり薄い。薄いからこそ、その下の感触が生々しく感じてしまう。肌越しの柔らかさや、体温……そして仄かな香りが櫻真の五感を刺激してくる。
これは……あかん! あかんわ!
しかし、内心とは裏腹に硬直してしまった身体は、バタバタと捥がくことすらできていない状態だ。
混乱と恥ずかしさと安堵が一気に押し寄せてきて……。
ああ、やっぱり分からん。これが現実なのか夢幻なのか判別ができない。いや、もしこれが全て自分の夢だとしたら……それはそれで微妙すぎる。
とはいえ、今の状況が夢である可能性は最後まで捨て切れない。だからこそ櫻真は凄く複雑な心境に苛まれている。
けれど、そんな大混乱をしている櫻真を余所に時間は動く。
「そうじゃ。櫻真から血を貰わないと駄目じゃな」
はっと大切な事を思い出したかのように、顔を嬉しさで蒸気させた桜鬼が櫻真の首筋にその唇を近づけてきた。
そして、桜鬼の人よりもやや鋭く尖った犬歯が櫻真の首筋に牙を立てた。




