異変
「全く、あの子ったら何も見えてないのね」
櫻真が去り、残された店内で葵がぼやくように口を開いてきた。桔梗はそんな葵に目を細めさせる。
「そう言っても、あのタイミングで笑うのやめてくれる? こっちとしても焦るから」
「仕方なくね? あんな真剣にシュンって顔されたら、『お前の従鬼、隠れてるだけで近くにいるぞ』なんて言えないじゃない?」
葵がスプーンの先で宙に円を描きながら、やれやれと言わんばかりに溜息を吐き出した。
「菖蒲ちゃんも動いてはるみたいやからね。櫻真君にはもう少し頑張って欲しいんやけど……」
桔梗が片目を眇めて、そう言うと隣に座る椿鬼が複雑そうな表情を浮かべて来た。
「椿鬼には悪いけど、僕は今のところ当主になる気ないよ」
「主。それは契約した従鬼が私だからですか?」
表情の硬くなった椿鬼が膝に置いた手をぎゅっと握って、そう訊ねて来た。桔梗はどうしたものかと、視線を宙に彷徨わせる。
「ちゃうよ。別に僕は従鬼の強さに拘るタイプやないから。ただな、正直……自分が当主になったときの形象が思い浮かばん。勿論、当主になれば僕にとっても恩恵はあるけど。あらゆる事に勝つには、勝ったときのそれを思い浮かべる事も必要なんよ。だからかな? まだ自分が当主になる気が起きへんのは」
「だったら、瑠璃ちゃんを応援して上げたら? あの子は当主になりたくて、なりたくて仕方ないんだから」
斜め前に座る葵が、ニヤリとしながら桔梗を見て来た。
瑠璃嬢は、桔梗にとって縁者にあたりこの当主争いにも参加している・
「瑠璃嬢なぁ……。まぁ、確かに勝つっていう意気込みは凄いかもな。朝から従鬼を呼び出して、特訓してはるみたいやから」
「烏滸がましい言葉ではありますが、主にも魑衛の主くらいにやる気を出して欲しいです」
「君も強情やね。まっ、僕も人のことは言えへんけど……。でも、君にはちゃんと役目を渡してはるやろ? 菖蒲ちゃんを見張るっていう役目」
「そうですが……あの者は、自分から前に出ようとはしていません。それなら、今動いている鬼兎火の主を見張っていた方が宜しいのでは?」
「いや、蓮条君を見張ってても意味ないねん」
「どういうことでしょう?」
桔梗の意図が読めず、椿鬼が訝しげに眉を顰めさせる。すると温かいお茶でパフェの余韻を噛み締めている葵が笑みを浮かべて、口を開いた。
「目に見える分かりやすい敵を倒した所で、何の意味もないということよ」
「しかし、もうすでに動き出した一人に一つの鬼絵巻を回収されてしまったのですよ? なら、動いている者を無視することは愚かではないですか?」
葵の説明でも納得の行っていない椿鬼がさらに、表情の歪みを深めさせている。とはいえ、今の桔梗がそんな従鬼の不満を汲んでやることはできない。
とはいえ、このまま従鬼の不満を募らせるのも得策ではないのは確かだ。
「……そやな。僕も君と契約した身や。このまま暇を持て余してもしゃーないから、少し動こうか」
「本当ですか?」
「きっと、目の前の狸さんも何か策は取ってはるんやろうから」
桔梗がそう言って、葵に目を細める。
すると葵が桔梗ににっこり笑みを浮かべて来た。
「もっちろん!」
葵の明るい声を聞きながら、桔梗はしたり顔を浮かべる。これで、ようやく今の自分がやるべき事が定まった、と思いながら。
何故だろう?
全く持って、気持ちがすっきりとしない。櫻真に勝てたというのに、全然納得ができない。蓮条は、自宅にある稽古場の鏡の前で舞いの練習をしていた。しかし、一つ目の鬼絵巻を回収してから、稽古に身が入らない。
「蓮条……どうかしたの?」
自分の様子を心配した鬼兎火が、蓮条の顔を覗き込んで来た。
「なぁ、鬼兎火。俺は本当に櫻真の奴に勝てたん?」
「ええ、勝てたわ。だからこそ、私たちが一つ目の鬼絵巻を回収できたんでしょう?」
そう言った鬼兎火の手に握られているのは、蓮条と鬼兎火が契約した際に見つけた一つの絵巻だ。
赤い絵巻には元々、大量の文字と色の剥げた桜の木が描かれていた。そして一つ目の鬼絵巻を回収してから、その桜の周りが赤黒い色で塗られている。
鬼兎火がその絵巻を見ながら、もう何度も眉を顰めさせていた。
「鬼兎火も何か引っかかっとる感じやな?」
「え、ええ。そうね。正直、この絵巻に反映された色が前とは違っているような気がするの」
「違うって、どういうこと?」
「色が違うの。私の記憶が正しければ、この部分の色に黒は混ざっていない」
鬼兎火がそう言いながら、絵巻の赤黒い色彩を指差して来た。蓮条も思わず目を細める。自分よりも鬼絵巻について詳しい鬼兎火が変だと言うなら変なのだろう。
でも、どうして鬼絵巻に異変が起きているのだろう?
それを考えたとき、蓮条ははっとした。
「なぁ、鬼兎火」
「何か気付いたの?」
自分へと視線を向けて来た鬼兎火に、蓮条がゆっくりと頭を頷かせる。
「きっと、鬼絵巻も納得出来てへんのや」
「納得が出来てないって、どういうこと?」
蓮条の言葉にやや不穏そうな表情を浮かべる鬼兎火。しかし蓮条は、そんな鬼兎火の不安を余所に妙に納得してしまった。
きっと、今自分が回収した鬼絵巻と自分は同じ気持ちを抱いているに違いない。
「あんな勝ち方は、あかんねん。ちゃんとやる気を出した櫻真に勝たんと」
「いいえ、もう少し考えて行動しましょう。そもそも鬼絵巻に意志なんてない。だから勝ち方に不満を抱くとは思えないわ」
「いいや、俺には分かる。あんなん、俺が求めてた勝ち方やないっ!」
「落ち着いて、蓮条。貴方が櫻真君を意識してしまう気持ちは分かるけど……意味なく戦うなんて間違っているわ」
「意味ない? 間違ってる? 何で?」
戸惑いの表情を浮かべている鬼兎火に蓮条の胸は大きくざわついた。
鬼兎火はいつでも自分の味方だと言っていた。蓮条もそんな鬼兎火を信頼していた。それなのに、何故今になって自分を否定するのか?
何故、櫻真を庇うような事を言うのか?
「櫻真君と取り合っていた鬼絵巻は回収できたのよ? そしたら私たちが勝利したってことになるはず。だったら櫻真君たちだけに固執せずに鬼絵巻の異変を解消した方が得策じゃないかしら?」
鬼兎火の顔が歪んで見える。胸にどんどん靄がかかってきて、どうしようもない。
「それって、鬼兎火の逃げちゃう?」
「私の逃げ?」
訝しげに眉を顰めた鬼兎火に、蓮条が酷薄な笑みを浮かべて頷いた。
「菖蒲さんから聞いたわ。従鬼の数字は強さを現しとるって。そんで、鬼兎火は第五、桜鬼は第八、つまり真っ向勝負を挑んだら、鬼兎火は桜鬼に勝てへん。だからあいつ等との戦いから逃げてはるんやろっ!」
怒気が蓮条の呼吸を荒くする。吐く息が怒りを帯びて熱い。けれど、そんな怒りを言葉に乗せて吐き出しても、全く気持ちは落ち着かない。
「確かに、私単体では桜鬼に勝てない。けれど、それを補うために準備をしていたんでしょう? 蓮条、貴方がいるんでしょう?」
鬼兎火が悲痛な顔でそう蓮条に言葉を投げてきた。悲痛な鬼兎火の視線が蓮条を見てくる。その瞳が蓮条に何かを必死に訴えてくる。何かを気付かせようとしている。
鬼兎火の耳に傾けるべきだ。いや、そうじゃない。鬼兎火はただ桜鬼から逃げているだけ。違う。鬼兎火は、ただ自分を心配しているだけだ。それも違う。心配しているように見せて、本当は自分を信じていないだけ。そう、鬼兎火も思っているに違いない。蓮条が力を貸した所で、桜鬼に勝てない。蓮条は櫻真に勝てないと。
気持ちがどんどん黒く染まって行く。
「煩いっ! 煩いっ! 煩いっ!」
幻聴のように聞こえる自分の声が鬱陶しくなって、蓮条は両耳を塞いで、その場で座り込む。
「蓮条!」
膝を折って座り込んだ蓮条に、鬼兎火が駆け寄って手を伸ばして来た。蓮条がその手を勢いよく払う。
「もう、ええっ! 弱い鬼兎火なんかに頼ったりせん! 俺一人で、何としてでも櫻真に勝つ!」
「蓮……条……」
愕然とする鬼兎火に蓮条が怒りの籠った視線を投げつけた。
そうだ。自分はどんな事があったとしても櫻真に勝たなければならない。そしてこの気持ちを晴らす。きっとそうすれば、鬼兎火も目が覚めるはずだ。
蓮条が立ち上がり、鬼兎火を置いてその場を後にする。
「どうして、蓮条? 私は、どうすれば……」
そう呟いた鬼兎火の手に握られている絵巻。その絵巻の中にある黒がより一層、その濃さを上げている。