浄清具
捕まった鬼絵巻は虫取り網の中で動かなくなる。
そしてそのまま、光の粒子となり……瑠璃嬢が持つ契約書の中へと吸い込まれていった。
「……マジで、疲れた」
呟き、瑠璃嬢はその場で座り込む。さっきまでは、気合で働かせていた脳は、電源が切れたように、動かない。強烈な眠気はあるし、ぼーっとする。そこへ通常状態に戻った魑衛がやってくる。
煩いくらいに鳴り響いていた雷が次々に止み始めた。
「瑠璃嬢、立てるか? 難しければ、私が運ぶが?」
「平気。声聞力はスッカスカだけど」
溜息を吐きながら、瑠璃嬢は手を差し出してきた魑衛の手を取る。
「おい、魑衛。良い手助けだっただろ?」
瑠璃嬢を立たせる魑衛にそう声を掛けてきたのは、儚と共にやって来た魁だ。
「ふん、まぁまぁだな。貴様はもう少し攻撃の緻密さを向上させるべきだ」
「礼じゃなくて、ここで小言を言うのが魑衛だよな?」
「ちょっと、魁! そんな事言うてる場合ちゃうよ! 上、上! 上を見て!」
目を眇めながら魑衛と言葉を交わす、魁の袂の裾を儚が引っ張っている。
(上……?)
瑠璃嬢が静かに上を見上げた。
本来なら、そこには何もないはずだ。しかしそれはあった。巫山戯た出で立ちで。
「……なに、アレ?」
訝しげな声で瑠璃嬢が呟く。
上空にいたのは、ホラー映画に出てくるマショマロマンのような白い巨大なオバケだ。
ガズでも詰まっているかのように、全身が大きく肥大化している。
「きっと、あの中身……全部が瘴気だぞ?」
やれやれと言わんばかりの顔で魁がそう言うと、瑠璃嬢、儚の目が一気に目を見開いた。
「嘘やん。あのマショマロマン、軽く全長50メートルくらいあるで?」
そんな巨大な物体の中に、パンパンに詰め込まれている瘴気。もしそれが破裂し、拡散したりでもしたら、直下にある香港中に広がるばかりではなく、中国南部、マカオ、もしかすると台湾にまで及ぶ可能性がある。
そうなれば、瘴気を祓い切るのも難しく、今の香港で起きたようなことが起こってしまうだろう。
「鬼絵巻の奴も飛んだ置き土産をしてくれたもんだ……」
魑衛が苦虫を噛み潰したような顔で、言葉を唾棄する。前門の虎、後門の狼とはまさにこの事だ。
何とかしなければ、いけない。
けれど生憎、瑠璃嬢の声聞力はスカスカの状態だ。余力があるとすれば儚だが……あの巨大さを見ると、一人で祓い切れるかの不安が残る。
「声聞力を持ってて、余力がありそうなのは……浅葱さん……じゃ足手纏いにしかならないし。あとは、向こうの五人の声聞力に掛けるしかないか」
「そうやな。ウチも余裕があるって言うても、減ってへんわけやないから、あの大きさ全部を祓うのは厳しいもん。……櫻真が声聞力を使えはる状態に戻ってたらええんやけど」
儚が溜息混じりそう言う。
「確か、櫻真って向こうの広場みたいな所にいたよね?」
「あーー、おった。桜鬼と魄月花と一緒に」
瑠璃嬢の言葉に、儚が頷いてきた。
「じゃあ、取りあえず櫻真たちと合流するって事で」
解決策が見つかったわけではないが、このまま四人で海の上に突っ立っているわけにもいかない。瑠璃嬢は魑衛に肩を貸してもらい、櫻真たちの元へと向かった。
結界内を荒れ狂っていた魁の雷を魄月花の結界で防いだ櫻真たちは、別の問題へと視線を向けていた。
(どうしたらええんやろう?)
櫻真は鬼絵巻に取り残された、巨大な瘴気の塊に溜息が出る。
「門が閉じられ、鬼絵巻が回収されたのは良かったが……あの面妖なお化けはどうするべきかのう?」
「俺も、どうしようか考えとるんやけど……中々ええ考えが浮かばへん」
「大きさも大きさだしなぁ」
嘆く櫻真に続いたのは魄月花だ。
「そうじゃ! 魄月花の結界で皆の声聞力が回復するのを待つというのは、どうじゃ?」
「うげっ! 桜鬼! よくもまぁ、そんな卑劣な事を思いつく。あたしに寝んなって言ってんのか?」
「ふむふむ。妾も実に心は痛むがのう……。偶には心を邪にしなければならぬ。けれど今の状況を考えれば、また致し方ない事じゃ」
「一人で勝手に納得すんなって。問題はあたしの気持ちだけじゃないんだぞ?」
首を頷かせる桜鬼を魄月花がジト目で見る。すると桜鬼が小首を傾げて「?」を浮かべてきた。
「問題って、後はどんな問題がありはるんですか?」
魄月花の結界の強度は今回の件で重々に分かった。彼女の苦労や気持ちを無視すれば、桜鬼の考えも強ち間違いではないと櫻真も思う。
あの堅牢な結界ならば、何らかの要因であのハリウッド映画さながらのキャラクターから瘴気が溢れでても、外へ溢れるなんて事は絶対にないはずだ。
けれど、魄月花は問題があると言う。
それは、何だろう?
疑問符を浮かべる櫻真と桜鬼の顔を見て、魄月花が盛大な溜息を吐いてきた。
「よし。ここで重大な発表だ。よぉぉおく、聞けよ。あたしの声聞力は空だ。か・ら! そして菖蒲の方にも、あのデカ物を長時間閉じ込める結界を張る声聞力は残ってない。つまり、今のあたしらにある課題は、危機的な燃料不足に陥ってるってわけだ!」
両方の手を腰に当て、魄月花が勇ましい声でそう告げてきた。
一瞬、三人の間に沈黙が訪れる。そして櫻真よりも先に口を開いたのは、頭を手で抱えた桜鬼だ。
「そうであったーーーー! つい、忘れてしまっていたが……魄月花の持つ声聞力は微々たるものであったーーーー!」
「微々たるものって、何だ? 微々たるものって」
「間違ってはおらぬであろう?」
「…………まぁ、確かに否めない」
「否めないんや」
桜鬼の言葉に割とあっさり頷く魄月花に、櫻真は肩透かしを食う。
ここで「あたしを馬鹿にすんな!」と言って、発起してくれれば良かったが……やはり、現実はそう甘くはない。
桜鬼自身に声聞力が残っているとしても、桜鬼は主に風系統の攻撃術しか使えない。あとの術式は櫻真たち術者が付与するものだ。
勿論、結界も桜鬼たちでは張ることはできない。
とはいえ、今の状況は「仕方ない」で片付けられない問題だ。
上空には、いつ爆発するか分からないマスコットキャラが浮いているのだから。
(何か早く策を考えへんと……)
櫻真が悶々と頭を悩ませていると、そんな櫻真の耳にリンリンと鈴の音のような物が聞こえてきた。
「鈴の音……?」
聞こえてきた鈴の音に、櫻真がキョロキョロと視線を彷徨わせる。
するとそんな櫻真に桜鬼が、実に申し訳なさそうな顔で、おずおずと手を挙げてきた。
「どうかしたん? 桜鬼?」
「櫻真よ……、鈴の音が聞こえたのじゃろ?」
「うん、桜鬼も聞こえはる?」
「聞こえるも、何も……この音の正体を知っておる」
桜鬼がそう自白して、着物の袂から……小さい鈴のついた毛沢東ストラップを取り出してきた。
全く予想していなかった代物の登場に、櫻真の目が点になる。
「えっ? あれ、何で毛沢東のストラップを桜鬼が……?」
「すまぬ、櫻真っ! 実は初めて見た時から妙にこの珍妙なるストラップが気になってしまってのう。昨晩、こっそり櫻真のバックから取り出して見ていたのじゃ。後で戻して置こうと思ったのじゃが、つい返し忘れてしまって……うぅ、すまぬっ!」
そう言って、桜鬼がその場で地面に頭を付けて、土下座のポーズをしてくる桜鬼。
「いや、別に怒ってへんよ。だから、謝らんでええから。桜鬼、頭を上げはって」
慌てて桜鬼の顔を櫻真が上げさせる。
櫻真としては、桜鬼がストラップを持ち出していた事実よりも、このシュールな毛沢東ストラップを桜鬼が気に入っていた事の方が驚きだ。
「むしろ、そんなに気に入っとるんやったら……桜鬼のにしてええよ。昨日は、俺に気を使ってるんやと思っただけやし……」
櫻真が顔を上げた桜鬼にそう言うと、桜鬼がぱぁあっと目を輝かせてきた。
「やはり、櫻真は優しいのう! 勝手にバックを開けてしまった妾を叱りつけぬばかりか、贈り物までしてくれるとは! さすがは櫻真じゃ!」
ストラップを手に持ちながら、桜鬼が勢いよく櫻真に抱きついて、頬にスリスリしてきた。
嬉しさを全力で表しているらしい。
「う〜〜ん、ん〜〜、う〜〜ん」
櫻真に抱きつく桜鬼を見ながら、魄月花が唸り声を上げる。
「魄月花よ。何故、その様に唸っておるのじゃ?」
やや弾んだ声の桜鬼が櫻真に抱きついたまま、魄月花へと首を傾げさせる。抱きつかれている櫻真としては、自分たちの姿に唸られていたら? と思うと一気に気恥ずかしくなる。
しかし、幸いなことに魄月花が唸っていたのは、櫻真たちの姿にではなかった。
「いやさ、そのストラップ……」
桜鬼が持つストラップを指差して、魄月花が口を開く。
「かなり強い浄清具みたいだぞ?」




