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鬼絵巻 〜少年陰陽師 、恋ぞつもりて 鬼巡る〜  作者: 星野アキト
第六章〜珍獣駆ける九龍島〜
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自分の名前を

 視界が墨で塗り潰されたかのようだ。遠近感が全て失われる。飛廉に乗っていたはずだ。それなのに、その感覚が櫻真から失われている。

 まるで悪霊の腹の中に放り込まれ、一人で浮いている状態だ。自分の後ろに乗っていた桜鬼の姿も見えない。手を伸ばしても、その温もりを見つける事は出来ない。

 自分自身のことすら見えない状況だ。

 寒い、冷たい。自分の身体がどんどん強張っていく。

(何とか……せんと……)

 そう思うのに、意識までもが途切れていく。夢に微睡む前の意識のように。

 もはや……身体を動かすことも、口を動かすことも、術式を唱えることも、考えられない。

 蝋人形のように、櫻真の身体がピタリとも動かなくなってしまった。

 自分はこのままどうなってしまうのだろう?

 そんな感傷も感慨も湧き上ってこない。

 このまま、何処というわけでもなく落ちていく。そう、落ちていくのだ。

 ???「なりませぬ、なりませんよ。こんな所で寝てはいけませぬ。===様」

 動けなくない櫻真の耳に、誰かの声が聞こえてきた。

 先ほどまで途切れそうになっていた櫻真の意識が、少しだけハッキリする。

(……桜鬼?)

 ???「あんな偽物と一緒にしてはいけませぬ。ああ、===様」

(偽物? どういう意味?)

 櫻真の思考が暗闇の中で一条の波紋のように広がっていく。するとそんな櫻真の疑問に反応するように、声がクスクスと笑い返してきた。

 ???「また寝惚けているのですね? ===様。偽物は偽物です。そう貴方が夢で見た幻。そう幻なのですよ」

 声はとても愉快そうだ。その言葉通り、昼寝でもして寝惚けた子供の言葉に笑っているような、そんな声音だ。

(何でやろう? 俺、この声を何処かで……何処かで聞いた事あるような。いや、でも変や)

 ???「何を仰いますか? 貴方様が私の声を知っているのは当然でしょう。だって===様は何度も何度も、私に会いに来てくれたではないですか?」

 そう訊ねてきた言葉は、少し哀しそうだった。

 櫻真の胸がその声音に震えた。悲しませてはいけない、と震えている。

 けれど何故、自分はこんなにも胸を痛めているのだろう? 悲しんでいる自分と、疑問を感じている自分が完全に乖離している。まるで自分の中に知らない誰かが潜んでいるような感覚だ。

 或いは、その考えは当たっているのかもしれない。

 上手く櫻真の耳には聞こえないけれど、声の主は執拗に『===樣』と呼んでいるではないか。

(俺は、貴方の知っとる人とちゃいますよ)

 再び波紋が広がった。今度は一つの波紋ではなく、幾つもの波が立つ波紋だった。

 先ほどまでだったら、すぐに返ってくるはずの声が返ってこない。

 困惑させてしまったのだろうか? けれど、このまま勘違いされたままでも居られない。

 ???「……ああ、まだ足りないのですか。だから貴方はまだ拐かされたままなのですね?」

(足りない? 何がですか?)

 言われている意味が分からず、櫻真が静かに訊き返す。

 ???「記憶ですよ。そう、記憶が足りない。だからこそ、私の真名も呼んでくれないのです。ああ、それとも……今、ここでならあなた様と逢瀬が叶うやもしれませぬ」

 意識は明確になってきたとはいえ、こんな常世の闇の中でどう逢おうと言うのだろう? 未だに櫻真自身の事も視えていないというのに。

 櫻真が一寸先も見えない闇の中で首を傾げさせていると……突如として白く細い二本の腕が、スッと櫻真の方へと伸ばされた。

 女性の腕だ。

 突如現れた細い腕を見て、そう思った。

 いくら細い人でも、男性の細さと女性の細さの見分けはつく。

 ???「まさか、こんな素敵な時が訪れるなんて……。暴走は時にしてみるものですね」

 真っ直ぐに自分に向かって伸びる腕を、櫻真は何故だかボンヤリと見ていた。

 何故、この腕だけが見えるのか? この人は誰なのか? それらの疑問は全て、この腕に摑まれた時に判明するものだ。

 しかし、その腕が櫻真へと届くよりも先に……

「櫻真っ! 櫻真っ! 気を確かに持つのじゃ! 櫻真っ!」

 必死に自分の名前を呼ぶ声が、はっきりと聞こえた。

(桜鬼や)

 間違いない。自分の事を呼んでいるのは、今度こそ桜鬼だ。

 櫻真がそう認識した瞬間、別の場所に光の出口のようなものが現れた。

 ???「行ってはいけません。行ってしまったら、私と逢うことが……遠くになってしまう」

 自分を引き留める声は、悲しげであり、櫻真を詰っているようにも聞こえた。

 しかし、もう櫻真の胸は痛まない。

櫻真は自分の意志を伝えるように、大きく首を横に振った。

(俺は行くよ。俺の名前を呼んでくれはる人がいる所へ)

 自分の動きを止めていた糸が切れて、無くなったかのように……身が軽くなる。そしてそのまま新たに見えた光の出口へ腕を精一杯に伸ばした。

 すると光が櫻真を飲み込んだ。最初に闇がそうしたように、光もまた間隙なく櫻真の事を包み込んできたのだ。


 ハッとして、櫻真が両目を瞬かせる。

 目の前には自分を腕の中に抱え込み、今にも泣きそうな桜鬼の顔があった。

「桜鬼……俺、どうなっとったん?」

「どうもこうもない。門から物凄い量の瘴気が噴出したと思ったら、そのまま櫻真が目を虚ろにさせたまま、動かなくなってしまったのじゃからのう!」

「瘴気を消してやったっていうのに、うんともすんとも言わないから、さすがのあたしでも慌てたぜ? 菖蒲たちにバレても不味いしよ」

 桜鬼に続いて、口を開いたのは……桜鬼の横に立っている魄月花だ。

 櫻真が起き上がり辺りを見ると、ここが九龍島側にある海岸広場であることが分かった。どうやら、櫻真を襲った瘴気を祓うために、桜鬼が魄月花の元へと櫻真を運んだようだ。

 封門の術式もまだ完成していないらしく、術式の詠唱は続けられている。

「そうやったんや。おおきに……。桜鬼も心配かけてもうて、ごめんな」

「良いのじゃ。櫻真が身に大事さえなければ。櫻真、痛む個所などはないかのう?」

「……うん、平気やな」

 体に何の痛みも感じてない事を改めて認識し、櫻真が桜鬼へと頷く。

 するとそんな櫻真に対して、魄月花が口を開いてきた。

「お前に一つ訊くんだけどさ、意識を失ってるとき、何か見たか?」

 真剣な表情で魄月花に訊ねられ、櫻真が少しばかり頭を捻らせる。

「見た……気はする。いや、聞いたか?」

 つい先程までの事にも関わらず、櫻真は上手く思い出せない。自分へと話しかけてきた声の事も、自分へと向かってきた白い腕の事も、櫻真の頭の中に靄が掛かってしまっている。

「よぉし。分かった。思い出せないんなら、そのままにしとけ。思い出せない事っていうのは、大抵……碌でもない事が多いからな」

「そうなんかな? 重要な事もある気がするんやけど……」

 大事な事を忘れていて、顔を蒼褪めさせた記憶が櫻真の中でチラホラある。

「菖蒲と同じ事を気にすんのな。やっぱり、菖蒲とお前は叔父と甥だな」

「うーん、そういう問題なんかな?」

「ああ、そうさ。あたしは基本、重要なことは忘れないし、重要じゃないことは忘れる性質(たち)だからな」

「魄月花よ、それは余り威張って言えることではないぞ」

 得意げな顔をする魄月花に、さすがの桜鬼も呆れたように目を細めさせる。

 櫻真は思わず苦笑を浮かべた。

 そして、すぐに別の事へと意識が向かう。

「そういえば、鬼絵巻は? どうなりよった?」

 慌てて声で櫻真が訊ねると、桜鬼が口を開いてきた。

「それがのう。まだ、鬼絵巻が門の中から出て来ぬのじゃ。魄月花の術式が解かれたわけではないが……」

「つまり、失敗ってこと? ……いたっ」

 櫻真が訊ねると、魄月花が櫻真の頭を軽く叩いてきた。

「馬鹿め、あたしの術式が失敗するわけないだろ? そりゃあ、攻撃系だったら失敗するかもしれないけどな」

「魄月花! 櫻真の頭を叩くのは寄せ。それに、現に今、鬼絵巻が門の中から出てきていないのは事実であろう?」

 桜鬼が櫻真の頭を庇いながら、魄月花に目くじらを立てる。

すると魄月花が「チッ、チッ、チッ」と言いながら、人差し指を振ってきた。

「地獄がどれほど続いていると思ってんだよ? それこそ、空間、時間なんて概念もなく、永遠に続いてんだぞ? 下手すれば、二、三日以上掛かる場合だってあるんだからな?」

「二、三日以上!? そんなんアカンよ! 皆んなの体力が保たへん!」

「そうじゃ! それは声聞力の多い貴様の主とて同じであろう?」

 櫻真と桜鬼が驚き、魄月花へと目を見開く。

 すると魄月花が目を眇めさせて、後ろ頭を手で無造作に掻いた。

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