無理は禁物
「昼間に見た時よりも、体が大きくなっとる」
よく見なければ分からない、そんな変化。けれど明らかな変化だ。きっと、霊たちの霊気などを吸収して大きくしているのだろう。
そしてその吸収の仕方は……。
「駄目や! 魘紫! そいつに触れたらアカンっ!」
思わず大きな声で櫻真が叫ぶ。
しかし、すでに鬼絵巻の元に辿り着いていた魘紫が鬼絵巻へと手を伸ばしていた。
さも当たり前かのようにその手が、鬼絵巻を掴む。
鬼絵巻を掴んだ魘紫の手がその瞬間に、赤紫色の炎を上げて燃え始めた。
「痛てぇえ! 熱ちぃい!」
手を炎に包まれた魘紫が叫びながら、鬼絵巻から手を離す。しかし魘紫に巻き付く炎が消えることも、離れることもなく、魘紫の手や腕を飲み込むように燃え広がっている。
あのまま炎に飲まれたら不味い。櫻真が放った術と同じように、鬼絵巻の糧にされてしまうだろう。
(何かの対策を取らへんと!)
櫻真は浄化の術式に加え、治癒の術式を魘紫に向けて詠唱し、放つ。
正直、魘紫は自分と契約している従鬼ではない。上手く行くかも不明だ。しかし今は考えている暇はない。鬼絵巻に魘紫を吸収させるわけにはいかないのだから。
櫻真が放った二つの術式が魘紫へと届く。浄化の術式が魘紫に巻きつく炎を祓い退け、治癒の術が赤黒く爛れた魘紫の腕を治す。
(上手く、行った……)
安堵したその瞬間、櫻真の体に強烈な痛みが走った。まるで櫻真の行った行為を詰るように、体の内側から熱を帯びた針で全身を刺されるような、鋭利で熱のある痛みだ。
幸いだったのはその痛みは、一瞬だったことだ。
しかしそれでも、櫻真の体はびっしょりと汗で濡れていた。
(攻撃の術はええけど、支援はルール違反って事やな……)
きっと、これは反動だろう。契約を交わした従鬼以外への強化は、契約上、行われてはいけない事項だったらしい。
「櫻真っ!」
鬼絵巻へと刀の矛先を向けていた桜鬼の動きが一瞬、止まる。
「大丈夫や! 俺は……大丈夫やから百合亜たちをっ!」
自分が乱れた呼吸のまま、桜鬼が叫ぶ。そしてその声に桜鬼は答えてくれた。櫻真への私情を捨て、櫻真の求めに応えるように桜鬼が鬼絵巻へと刀を突き刺す。
刀に突き刺された鬼絵巻が、大きな炎を巻き上げた。炎の高さは優に10メートル近くもある。上がった炎からは、幾つもの人の顔のようなものが浮かんでは消え、浮かんでは消えを繰り返していた。
あれは鬼絵巻が吸収した霊たちだろう。
そして、炎の魔の手は刀を持つ桜鬼の手にまで浅ましく近寄っている。無論、櫻真は桜鬼にも守護の術式を施している。
魘紫の時のようには行かないはずだ。案の定、櫻真が施した術式に阻まれ、炎と桜鬼の間では火花が散っている。守護の術式が鬼絵巻の炎を受け、耐えているのだ。
(守護をもっと強固にしとかんと)
今は防げているが、万が一の事も事もある。櫻真は再び強化の術式を掛けるため、意識を集中させる。
(い、た……)
声聞力を上げようとすればするほど、先ほど自分を襲った痛みが体を襲ってくる。痛みは過ぎ去ったと思っていたが、どうやら思い違いらしい。
体に走る痛みの強さとしては、最初の時よりは緩和している。けれど櫻真の集中力を切らすには十分な痛みだ。
(まさか、こんなに尾を引くなんて)
眉間に皺を寄せ、痛みで奥歯を噛んだ。丁度、その時に炎と化した鬼絵巻を防いでいた術式に亀裂が入り始めた。
櫻真は用意していた護符を投擲しようと動く。けれどそれよりも先に術式が解け、これはまずい、と自己判断した桜鬼が刀を鬼絵巻から離し、後退していた。
「良かった……」
桜鬼が炎に巻かれずに済んだ事に、櫻真は胸を撫で下ろしす。けれど桜鬼には先ほどの呟きは聞こえなかったらしい。櫻真の横へとやってきた桜鬼が、申し訳なさそうに眉を下げてきた。
「櫻真、すまぬ。櫻真の元に駆けつけられぬばかりか、鬼絵巻を仕留め損ねてしまった」
「気にせんで、桜鬼。桜鬼の判断は正しいんやから」
櫻真がそう言って笑うと、桜鬼が悔しそうな顔を浮かべて「この状況故に、櫻真へ抱擁できぬのが非常に無念じゃ」と呟いてきた。
つまり、この状況でなければ桜鬼は自分へと飛びついてきたのだろう。
そしてそんな短いやり取りの間にも、鬼絵巻を取り巻く状況は変化していた。炎と化していた鬼絵巻がスライムのような姿に戻ったのと同時に、魅殊の術式が展開されていた。魅殊が描いた文字は『離』という一文字。
主である藤と鬼絵巻を切り離すための術だ。鬼絵巻は魅殊の術式に阻まれ、藤の肩へと戻る事はできなかった。
そのためか、鬼絵巻は今までいた藤ではなく百合亜の方へと跳躍する。
方向転換をした百合亜を待ち構えていたのは、先ほど鬼絵巻にしてやられた魘紫だ。
「行かせるわけ……ねぇーだろ!」
言葉と蹴りを同時に繰り出し、向かってきた鬼絵巻を勢いよく蹴り出す。魘紫によって、サッカーボールのように蹴り飛ばされた鬼絵巻は、展望台から大きく離れ、地面のない宙へと放り出された。
椿鬼の銃撃が威嚇、牽制するように鬼絵巻へと撃ち込まれる。上空で散る銃撃の火花は、線香花火の光にも見える。
しかしそれでも、鬼絵巻にダメージを与えられる威力はなく、百合亜と藤に近づけさせないための抑止力にしかならない。だがこれで多少の紆余曲折はあったものの櫻真が考えた作戦の三分の二が達成できた。
鬼絵巻は椿鬼の銃撃を受けながら、そのまま下へ自由落下していく。
しかし、その落下する先には飛廉に乗りながら、瑠璃嬢と魑衛が鬼絵巻を待ち構えているはずだ。
(一先ず、鬼絵巻の事は瑠璃嬢に任せるとして)
櫻真は、百合亜たちに掛けられた術式を解くため、桜鬼と共に百合亜たちの元へ駆け出す。
「おい、百合亜! 起きろ、起きろよ!」
既に百合亜たちの元にいる魘紫が、虚ろな百合亜たちの身体を揺さぶっている。魅殊も『覚醒』という文字を書いて、洗脳を解こうとしているが……どちらも主からの補助を受けられず、術式を解くことが出来ていない。
鬼絵巻の掛けた術式は、かなり強力らしい。
「櫻真、身体の方はもう大丈夫かのう?」
横にいる桜鬼が櫻真へと確認を取ってきた。櫻真はすぐに答えず、意識を集中させ、声聞力を上げて見る。
するとやはり身体はズキズキと痛む。そしてそれは、声聞力を上げれば上げるほど痛みの感覚が速くなる。あまりの痛みに櫻真の足が止まった。
「櫻真、無理をしてはならぬ」
言葉のないまま、櫻真が首を横に振る。けれど身体を走る痛みの所為で、足をまともに動かせる気がしない。
(早う、百合亜たちを助けへんといけんのに)
思うように動かない自分の身体がもどかしい。櫻真が自分の不甲斐なさに表情を沈ませていると、その瞬間。両方の足が地面から離れ、身体が地面から浮いた。
「えっ、えっ、ええーーーー!?」
仰向けに状態になった櫻真の視界に広がるのは、少し戸惑い混じりの、複雑な表情を浮かべる桜鬼の顔だ。




