思考が追いつかない
瑠璃嬢を浅葱たちに預けてから、菖蒲たちは香港へと渡るための準備をしていた。
香港島に渡るには、フェリー、電車、タクシーの三通りがある。一番早いのは、通りでタクシーに乗り込むことだが、今は街中に生じている混乱の所為で道が混雑している。
早急に香港島に渡るのは難しいだろう。
電車を使うにしても、駅の中に瘴気が入ってしまってる以上、通常運行ができているかは怪しい。
「ホンマにけったいな数やな……」
菖蒲の口から思わず文句が溢れ出た。
地元である京都にも古くからの霊は沢山いる。京都という土地が戦果に晒された歴史も数多くあるからだ。
しかし、今の香港に溢れる死者たちの数は、それを大きく凌駕している。
「菖蒲さん、櫻真が向こうで点門を開けたって連絡が来ました」
「そうか。やっぱり空から行くと速いな」
蓮条にそう頷きながら、菖蒲はこちら側の点門を開く。
交通機関が麻痺している以上、正攻法で早く香港島に向かうのは難しい。そこで、菖蒲たちは飛廉で空を飛ぶことのできる櫻真に、向こうで点門を開くように頼んだのだ。
櫻真は幻術を使い、姿を眩ましながら海を渡り、無事に香港島に辿り着けたらしい。
菖蒲が開いた点門と櫻真の開いた点門を繋ぎ、香港島への道を作る。
道を作ってしまえば、あとは一瞬だ。
「こっちも似たような状況やな」
点門を使い渡った香港島も、九龍島と同じ有様になっていた。
外にいた人々は気分悪そうな顔で項垂れており、通報を受けた救急車やパトカーが路肩で止まっている。
体調の悪い市民を助けに来た人たちまで、瘴気に当てられぐったりとした状態だ。浅葱のように瘴気に対する耐性を持っている人々は、困惑しながらも懸命に人命救助を頑張っているが、明らかに人手が足りない状況だ。
(まさに災厄やな)
目の前の光景を見ながら、菖蒲は眉間に皺を寄せる。
「魄月花、鬼絵巻たちの居場所は?」
鬼絵巻の居場所をすぐに探知できる魄月花へと菖蒲が訊ねる。鬼絵巻の探知をする魄月花は服から和装へと着替えており、他の従鬼たちも同様に和装を来ていた。
やはり、本腰入れて戦う時は和装の方が身も締まるらしい。
「今はここから、東の方角にいるぜ。色んな看板が建物から突き出してて、ピカピカ光ってる」
「湾仔辺りやな」
湾仔は、昔ながらの香港の街並みを残しているエリアだ。
「櫻真、飛廉にもう二人くらい乗せられるか?」
菖蒲が櫻真に訊ねると、櫻真が桜鬼と言葉を交わしてから、頷き返してきた。
「それやったら、桔梗を連れて……」
「あたしを連れてって!」
自分の言葉を遮り、声を張り上げてきたのはここには居ないはずの瑠璃嬢だ。
「……何で、君がここに居りはるん? まさか、気持ちだけ先行して生霊になったわけやないやろ?」
瑠璃嬢の体に溜まっていた瘴気を消したとはいえ、直ぐに動くことは危険だ。
呆れと怒りを込めて、菖蒲が瑠璃嬢に皮肉を飛ばす。瑠璃嬢も菖蒲が怒っていることが分かったのか、申し訳なさそうに表情を歪めてきた。
「分かってる。あたしが油断した所為で、面倒な事になってるって」
「ちゃう。僕が怒ってるのは君が鬼絵巻と悪霊にやられたからやない。君がここに来はったから怒っとるんや」
「……それも、ちゃんと分かってる。でも、あたしが足を引っ張ったのも事実。だからきっちりけじめを付けたい」
言い訳をする瑠璃嬢にいつもの強気な姿はない。少なからず自分でも思うところはあるのだろう。
きっと瑠璃嬢なりに、反省をしているのだ。
しかし、そんな瑠璃嬢に対して眉を寄せる儚が意を唱えてきた。
「可笑しな話やな。それ……」
儚の放った言葉に瑠璃嬢が目を丸くさせている。蓮条もそんな儚に内心で驚いていた。
勿論、瑠璃嬢の事を儚は心配していた。その事を踏まえれば、自身の体調を省みず、自分たちを追ってきた瑠璃嬢に苦言はするかもしれない。
しかし、今の儚が口にしているのは忠告などではなく、瑠璃嬢を非難する言葉だ。
「可笑しな話? 何でそう思ったわけ?」
「だって、そうやろ? ケジメって何の? ウチらは別にアンタに足を引っ張られたとも思ってへんし、アンタが起こした事態でもないやん。それが分からない程のアホでもないやろ?」
儚の声音に怒りは滲んでいない。ただ淡々と瑠璃嬢に一つの事実を突き付けようとしている。
けれどその事実とは、何だろう?
確かに儚の言う通り、瑠璃嬢が負う責任などはない。誰も悪霊に負傷した瑠璃嬢を責めてはいないし、百合亜たちを洗脳したり、街を混乱させているのも鬼絵巻だ。
とはいえ、瑠璃嬢が反省しているのも本当だ。
「アンタの言う通り、この状況を作ってるのは鬼絵巻だけど……あたしが一人で無茶しなければ……こんな事態にはならなかった」
「分からへんやん。瑠璃嬢がウチらの事を頼ったとしても、この四人で出し抜かれたかもしれんし、最悪、菖蒲や桔梗がいても、今の結果になってたかもしれへんよ?」
そう言い返す儚に瑠璃嬢が苦笑を零す。
「あたしが鬼絵巻を見つけた時は、まだ何の霊も操ってなかったし、姿も昼間に見たときのまま。もしそこで捕まえられてたら、こんな事にはならなかったでしょ?」
この言葉は、瑠璃嬢なりの抗いだったのだろう。
しかしそんな瑠璃嬢の反論は、冷静だった怒りの緒を切ってしまった。感情を抑えきれなくなった儚が早歩きで瑠璃嬢の前に立つと……
「こんの、ドアホ!」
と怒声を上げて、瑠璃嬢の頬に強烈な平手打ちを食らわした。
平手打ちを受けた瑠璃嬢も、それを見ていた蓮条たちも思わず口をポカンとさせる。
驚く当事者や聴衆など御構い無しに、目を吊り上げた儚が言葉をまくし立てる。
「根拠もないのに、自分の責任とか言うな! 責任があらへんと、菖蒲や桔梗らへんにホテルへ強制送還されるとでも思ったん? もし、そうなったとしてもアンタは言うこと効かへんやろ! むしろ、反省してるなら部屋で寝てな、アカンやろ! なに体裁良さそうな口実作りしとるん! アンタはそんなキャラちゃうやろ? 行きたいなら、行く。それが瑠璃嬢なんやろ? だったら、まどろっこしい言葉使わへんで、行きたいって言えばええねんっ!」
一気に言葉を吐いたせいか、儚が肩で息をしている。
「……あたしが最初に言ったら、アンタたち怒るじゃん。さすがのあたしでもそれくらいは考えるんだけど」
儚の勢いに押されていた瑠璃嬢が、なけなしの言葉を返す。すると、呼吸が落ち着いた儚がキッと強気な視線で瑠璃嬢を見た。
「怒る。それは当然やろ! 無茶して死んだらどないすんねん! ウチは嫌やで。幽霊になった親戚の女と顔を付き合わせるのなんて」
「理不尽……」
「理不尽で結構。心配した分はきっちり怒らせて貰うわ。でもウチはアンタの親やない。アンタを立派に育てる義理もない。だから、一通り怒って、それでもアンタが行きたい言うなら……ウチが手を貸す。それくらいするわ。勿論、手を貸すからには、アンタにも協調性は持って貰うで。許されたから言うて、また調子に乗って一人で先行されても迷惑やし。怒り損になるのは嫌やもん。それでもアンタが自分勝手な事したら絶交や!」
胸の前で腕を組み、儚が瑠璃嬢から顔を逸らす。
自分の言いたい事を言えてすっきりしたのか、儚の表情は、蓮条が今日見た中で一番明るい気がする。
「……絶交するって言うって事は、アンタはあたしを友達だと思ってるわけね」
言われた側の瑠璃嬢が何気ない口調で、そう呟く。
すると……瑠璃嬢の呟きを聞いた儚の顔が一気に赤に染まった。
「なっ! べ、別に友達なんて思うてへんもん! さっきのは言葉の綾や。だから忘れて。絶対に! というか、はよ鬼絵巻を捕まえに行こう! 行くんやろ!?」
慌てた様子の儚に瑠璃嬢がニヤリと笑みを浮かべてきた。
「当然。行くに決まってんじゃん。味方も出来た事だし。あたしを殴ったらどうなるか、たっぷり鬼絵巻(奴)に教えてやんないと」
勝気な瑠璃嬢の言葉に、菖蒲や桔梗が呆れ顔で苦笑している。蓮条は櫻真や鬼兎火と顔を見合わせ、笑みを浮かべた。
そして、櫻真は瑠璃嬢を連れて鬼絵巻がいる湾仔へ。蓮条たちは強化の術式を自身に掛け、湾仔へと走って向かう。
走りながら、蓮条は斜め後ろを走る儚を横目で見た。瑠璃嬢の味方をすると決めた儚の顔に、迷いなどはなく晴々としている。
(少しずつ、変わってはるんやな)
蓮条の脳裏に浮かんだのは、学校での人間関係で泣いていた儚の姿だ。けれど彼女はあの頃とは変わっている。
正直、この中で言えば自分と一番親交が長いのは儚だ。
蓮条が小学生に上がる前くらいから儚とは顔を合わせている。女の子とはいえ、年も近くて、同じ遊びが出来る存在だ。姉という認識はないが、姉弟のような近さは持っている。
だから、根も葉もない噂で儚が傷付いているのを見て腹が立った。自分にできる事があれば、何とかしたいと思っていたし、儚に嫌な思いをさせている奴らの所に怒りに行きたくなった。
住んでいる場所も違うし、学年も違う。だから蓮条に出来たのは、連絡して儚の話を聞くくらいだった。
もどかしく思った事もある。しかし今思えば、その時も儚は自分自身で立ち上がっていた。
(儚は凄く強いんやろうな……本人は自覚してへんけど)
むしろ儚自身は、自分の事を弱い人間だと思っているかもしれない。そしてもし儚が蓮条の思った通り、自分を下に見ていたら、教えてあげたい。
弱い人間が誰かの背中を押すことなんて出来ない。助けるなんて、言えるわけがないと。
自分もそんな儚に負けないように、強くなりたいとさえ思う。
(それにしても……)
自分を低く見積もる姿は、誰かに似ている気がする。
ふと、そんな疑問を浮かべた蓮条が横にいる鬼兎火を見た。鬼兎火も自己肯定は低い方だとは思う。
けれど、違う。微妙に違う。
(んーー、誰やろう?)
浮かびそうで、浮かんでこない答えに蓮条が小首を傾げさせる。
しかし蓮条の疑問が解消される前に、意識が別の事へと向かった。
塩辛い水が大粒の雨のようになって、蓮条たちの頭上に降ってきたのだ。
蓮条たちが走っている場所は、ヴィクリア湾に近い。
しかし沿岸というわけでもない。そのためここに海水が届くはずがないのだ。
「見て!」
鬼兎火が驚きの声を上げる。それと同時に海水が飛んできた謎はすぐに解消された。何故なら鬼兎火の指差した先に、謎の正体がいたからだ。
「……嘘やろ?」
蓮条の視界一杯に見えているのは、ヴィクトリア湾に突如現れた巨大な恐竜の姿だ。しかも二匹も。
一匹はブラキオサウルスの姿をしており、もう一匹はトリケラトプスの姿をしている。
海上で大きな咆哮を上げる恐竜に、その場にいた全員が目を点にして絶句した。
街中では幽霊や邪気の大行進、ヴィクトリア湾では巨大恐竜たちが空に向かって、方向を上げながら、長い尻尾で海面を揺らし、遠くの方にまで水飛沫を飛ばしている。
もはや、思考が追いつけない。
「なぁ、アレは鬼絵巻を捕まえれば居なくなるんやろ?」
蓮条が誰にとかはなく、この場にいる全員に疑問を投げる。そんな自分の疑問に答えてきたのは、米神を抑える桔梗だ。
「そうやろうね。むしろそうやないと困るわ……」
桔梗の返答を聞きながら、全員の溜息が聞こえたような気がした。




