漂う瘴気
事件のあった建物は、香港にある他の高層ビルに比べると低い建物だった。
建物は地上4階建てで、1階〜2階には普通のお店が入っている。そして3階〜4階には店がなく、窓らしき部分には木の板が貼り付けられている。そこから光が漏れている様子もない。
この建物に近づくにつれ、体に走る悪寒が強さを増していく。
邪鬼とも違うこの感覚は、霊が放つ独特なものだ。
「ここまで強い悪い霊気は、かなり久々なんやけどぉ……」
半泣き状態の儚が震える声を出す。これまでに色んな場所で霊を見てきていても、儚が霊に慣れる事はないらしい。
「霊の気配に混じって、鬼絵巻の気配もするな」
「そうね。もしかすると……悪霊が縁ない相手を呪う事が出来たのも、鬼絵巻の影響によるかも」
「ならば、益々危険度は上がるのう。取り返しの付かない事態になっておらねば良いが……」
「ちょっ、桜鬼! 変なことを言わへんでよ!」
不穏な言葉を口にした桜鬼に、涙目の儚が声を荒げる。
「そ、そうじゃのう。すまぬ。なに、しかと考えれば……魑衛が共に居るのじゃ。そう易々と主に危害を加えさせたりせぬじゃろう。ほれ、入口を探さねば!」
目尻を釣り上げる儚から逃れるように、桜鬼がそそくさと建物の上へと行ける場所を探し始める。
入り口は直ぐに見つかった。建物裏手に扉があり、微かに開いている。
開いた扉の隙間から中を覗くと、鉄製の手摺がついたコンクリートの階段が見えた。階段の奥には、小さなエレベーターもある。
じめじめとした外気に比べると、中は少しだけひんやりとしている。
「うぅ、如何にもって感じやな……」
蓮条の肩に手を置きながら、儚がごくりと息を飲んでいる。しかしそんな儚の気持ちも分からなくはない。
建物内部から漂うおどろおどろしい空気は、ホラー映画さながらだ。
儚ほどではないにしろ、櫻真たちにも緊張が走る。
(階段を上ってる途中で襲ってきはる事はないやろうけど……)
いつ飛び出してきても良いように、心の準備は必要だろう。
緊張で乱れた呼吸を櫻真が静かに整えていると、ガサッという草が擦れる音がした。
そして……
「……中に入らんで、何してはるん?」
「きゃあああああ〜〜!」
突如、後ろから声を掛けられ、恐怖・緊張状態にあった儚が大きな悲鳴を上げた。櫻真たちも儚の悲鳴の大きさにつられて、心臓が口から出そうになった。
「しょ、菖蒲さん?」
まだ早鐘を打つ心臓を落ち着かせながら、櫻真が後ろを振り返る。
するとそこには、儚の大きな声に驚いた様子の菖蒲と桔梗の姿があった。二人の後ろには魄月花が付いている。
「儚の怖がりは、相変わらずみたいやね……」
驚きが去った桔梗がそう苦笑を零す。そんな桔梗の言葉に儚が恥ずかしそうに顔を赤らめさせた。
「菖蒲さんたちも、ここに誘い出されはったんですか?」
櫻真がそう訊ねると、菖蒲が静かに首を横に振ってきた。
「いや、そういうわけちゃう。僕らは嫌な気配と鬼絵巻の気配……それから魑衛の気配を感知して来たんよ」
首を傾げる櫻真にそう言いつつ、菖蒲が「行くで」と短い言葉を残し、扉を押し開ける。その際に菖蒲が護身術の一つである九字の呪文を唱え、合わせて反閇を行い、中へと入った。
櫻真たちは、慌てて菖蒲の後を追った。
扉の中に入ると肩にずっしりとした重さを感じた。
上にいる。上からこちらの様子を静かに虎視眈々と窺っている。鬼絵巻の影響によって力をつけた可能性のある悪霊が何の目的を持っているのか分からない。
思い当たるとすれば、生者に対する妬みくらいだろう。
(俺らを呪い殺すつもりなんやろうか?)
術者としての櫻真たちの主な仕事は占術だ。元々、陰陽師は星を読み、地相などの吉凶を視ることが本分であり、悪霊退治はそれの副業とも言える。
悪霊払いなどの依頼は個人的なものが多く、心霊スポットなどに出向く事はほとんどないのだ。そのため、無人の心霊スポットにいる悪霊のパターンがいまいち把握できない。
「櫻真たちが呼び出された理由に心当たりは?」
注意しながら階段を登っていると、菖蒲が櫻真たちに質問を投げてきた。
「いえ、心当たりっていうのはないです。ただ、菖蒲さんたちの協力を仰ごうとしたら……暗い部屋が映りはって……」
事件に関する記事のURLが送られてきた事を話す。
「……なるほどな」
頷き返してきた菖蒲が暫し考えてから、一つの事実を断言してきた。
「この件の黒幕は、疑いようもなく鬼絵巻で間違いない。しかも、今回の鬼絵巻は……この土地にいる悪霊や邪鬼に細工を施して使うてはる」
櫻真たちも薄々その可能性を感じてはいた。
眉間に皺を寄せる菖蒲は、続けてもう一つの可能性も示唆してきた。
「これは僕の直感なんやけど、今回の鬼絵巻は……早めに捕まえんといけん分類の奴や」
「どうしてですか?」
「今の時期、香港はお盆で、しかも仰山、地上に霊やら鬼やらが集まるっていう謂れがある。鬼絵巻からしてみれば……操る素材がそこら中に落ちてはる状態や。つまり、僕らが霊の一体、二体を除霊した所で、大元を叩かなければ全く意味はないって事や」
丁度、菖蒲がそんな話をした瞬間に、すぐ上から女性の悲鳴のような、雄叫びのような声が建物内部に響き渡った。
「余計なこと言うなやて……」
溜息ついでにそう言ったのは、怯える儚に肩を力強く捕まれ、表情を曇らせる桔梗だ。
「どうなんやろうな? ただ単に僕らの気配を感じ取って、喜んでるだけかもしれへん」
「喜んでるって、何? めっちゃ嫌なんやけど、早よ、帰りたい〜〜」
「痛いよ、儚。怖いのは分かるけど……手に力を込めるのやめてくれへん?」
肩を掴む儚の手を叩きながら、桔梗が苦情を出している。
しかし、恐怖で半パニックになっている儚には届いていない様子だ。
(桔梗さんの肩のためにも、早く瑠璃嬢を助け出さんへんと……)
二次被害を被っている桔梗を見ながら、櫻真が静かに決意を固める。その間に、櫻真たちは気配を感じた4階の端にある部屋の前に辿り着いていた。
部屋の取っ手を手に取り、菖蒲が躊躇う様子もなく扉を開ける。甲高い開閉音を鳴らしながら、扉がゆっくりと開いた。
廊下とも言えない狭い通路があり、右には部屋の扉があり、反対側には流しがある。
そしてその奥には、ワンルームの部屋が見える。
「うむ。随分と手狭な部屋じゃのう。櫻真の部屋よりも小さく見えるぞ?」
桜鬼が中を覗き込みながら、小さく首を傾げさせる。そしてその言葉の通り、目の前にある部屋はとても狭い。香港という土地柄もあるのかもしれないが、この狭さには櫻真たちも小さな驚きを感じずにはいられない。
「でも、これなら探す手間はないな」
蓮条の言葉の通り、瑠璃嬢の姿はすぐに発見できた。ただ……瑠璃嬢は、手足を縛られ、口に布を咥えさせられた状態で、部屋の隅に倒れていた。
「瑠璃嬢!」
思わず叫び、すぐさま瑠璃嬢の体を起こした。意識はかなり酩酊しているが、呼吸はある。生きている。
けれど……瑠璃嬢の体の至る所には内出血を起こしてるらしき痣が至るところにある。手足もかなりの強さで縛られているのか、縛られている部分の皮膚が摺り切れ血が滲んでいる。そしてそれと共に酷いのは、瑠璃嬢の体に張り付くように漂う瘴気だ。
「すぐに瘴気を取り除く。そうせんと、瑠璃嬢の身体が内部から焼け爛れてしまうわ」
表情を険しくさせた菖蒲がすぐさま指剣を構え、瑠璃嬢の体を熱している瘴気を祓う。
菖蒲が瘴気を祓っている間に、桜鬼が刀で瑠璃嬢を縛っている紐を断ち切った。




