気持ちの違い
「あの鬼絵巻は、中々に素早いのう」
「そやな。まだ近くに居ればええけど……」
バード・ストリートから金魚ストリートへと南下し、櫻真たちは鬼絵巻の気配を探っていた。
金魚ストリートは、先ほどのバードストリート同様に左右所狭しに金魚の入った水槽や袋がぶら下がっている。香港では金魚は、幸運・金運の象徴であるため、家庭で買う人が多いらしい。
「でも、すぐに見つかるかなぁ。魁たちも近くに気配を感じられへんのやろ?」
「安心しろ、儚。魄月花たちも南に動いているようだし、下手な方向には向かってねぇーよ」
眉を不安げに下げた儚に、魁が笑みを浮かべている。
先ほどの件で、ここにいる全員が今回探しに来た鬼絵巻を認知することができた。そのため知らなかった時よりは、鬼絵巻の気配を感じやすくはなっている。
しかし、それでも香港に流れる独特な雰囲気に慣れていないのか、鬼絵巻探しがいつもより難航していた。
唯一、こんな状況下でも鬼絵巻を探す事のできる菖蒲は敵陣営だ。櫻真たちは、そんな菖蒲の動向を魁の探知能力で追っていくしかないが、相手も考えなしじゃない。菖蒲の動向を櫻真たちが意識していることは、分かっているはずだ。それなりの策も講じてくるだろう。主に桔梗あたりが。
いつも以上に目つきを鋭くさせ、愛らしく水槽を揺蕩う金魚を瑠璃嬢が睨むように見ている。
(あんな怖い顔で、金魚を見る人なんておらへんやろうな……)
しかもその手には、虫取り網が握られているのだ。
側から見れば、近寄りたくない少女に見えるだろう。
言わずとも苛立っている瑠璃嬢は、そんな周りの視線にすら気づいていない。
「本当に腹立つ。余裕ぶっこいてるにも程があるでしょ?」
やぶからぼうに瑠璃嬢が愚痴を零す。
誰と聞かなくても、菖蒲たちを指している事はすぐに分った。鬼絵巻が消えたあと、しょんぼりとした藤を連れて、菖蒲たちが焦る様子もなく観光をし始めたのだ。
昼食は、香港でも有名な旺角にある広東料理のお店で、櫻真たちにも奢ってくれた。そこで食べた炒飯の香りの良さと美味しさには、目を見開いたほどだ。
今も少し先に行った所で、百合亜たちと共に金魚を見ている。桔梗の手には、バード・ストリート近くで買ったエッグタルトとマンゴケーキが入った袋を持っている。
「まぁ、ええやん。ずっとピリピリしよっても仕方ないんやから。お昼だって食べたやろ?」
瑠璃嬢の様子に見兼ねた儚が声を掛ける。
「要らないって言ったじゃん」
「でも、最後は食べたやん?」
「……じゃあ、菖蒲や桔梗のあの態度を見ても、何も思わないわけ?」
「何もって、ただ観光してるだけやん」
桔梗たちを一瞥して、儚がそう答える。すると瑠璃嬢が溜息を吐きながら、首を横に振ってきた。
「あの二人は余裕なわけ。ここで呑気に観光してても自分たちは鬼絵巻の場所を見つけられるんだから」
「そうやけど……今、ここで取られるわけでもないんやから」
「俺もそう思うわ。せっかく香港に来てるんやから。観光できる時はした方がええよ」
儚の意見に賛同する形で、櫻真が頷く。するとそんな櫻真の方を瑠璃嬢がキッと睨んできた。一瞬、瑠璃嬢の凄みに櫻真が臆す。
自分を睨んできた瑠璃嬢はそのまま何も言わず、スタスタと歩き始めてしまった。
櫻真と儚が驚きつつ、顔を見合わせる。
「何で、あんな必死になっとるんやろ? 少し肩の荷下ろせば? って言っただけやのに」
感じ悪い瑠璃嬢の態度に儚が顔をむすっとさせている。
「やっぱり、瑠璃嬢も焦ってはるんやろうな」
横から声を掛けてきたのは、蓮条だ。
「焦ってる?」
櫻真が小首を傾げて、蓮条へと聞き返す。蓮条は「そう」と短く首肯してきた。
「だって、そうやん? 百合亜と藤の事は一先ず置いとくとしても、鬼絵巻を持ってへんのは俺、瑠璃嬢、菖蒲さんだけや。俺は櫻真に譲渡した身やし、菖蒲さんも……自分から取ろうとしてへんから特殊やろ? けど、瑠璃嬢は普通に欲しがって取りに行っとるのに、取れてへんやん。だから、気持ち的に焦ってはるやと思う」
そう言った後で、蓮条が「俺も瑠璃嬢と似たところがあるから」と言いながら、照れ臭そうな表情を浮かべている。
(蓮条も負けず嫌いやもんなぁ)
多くを語られずとも、片割れが何を言いたいのかが分かる。蓮条も鬼絵巻が出始めた頃、櫻真にツンケンした態度を取っていた。
あれは櫻真に勝ちたい一心で気が張っていたらしい。
きっと今の瑠璃嬢の様子が、あの時の自分と重なったのだろう。確かにそう考えてみると、櫻真の中にあったモヤっとした気持ちもさっきより薄くなる。
話を聞いていた桜鬼も納得したように、
「そういえば、先代の主、虎太郎もどうやって鬼絵巻を取るか、日々頭を捻っておったのう」
としみじみ呟いている。
「ーーけど、あんな反応せんでも良くない?」
低い声で反論したのは、眉間に眉を寄せる儚だ。言葉を言い終えた儚は口をキュッと強く閉じている。
胸に沸々と沸騰する気持ちを必死に抑えているようにも見える。
「儚、どないしたん?」
驚いた様子の蓮条が儚に訊ねる。蓮条に問い掛けられた儚はハッとしてから、目に薄っすらと涙を滲ませてきた。
ーーこれは、不味い。
櫻真がそう思った瞬間に、儚の従鬼である魁が口を開いてきた。
「悪いが、これ以上気にしないでやってくれないか? 儚もちょっとした意地が働いちまっただけだから」
魁が笑みを浮かべ、その後で儚に「そうだろ?」と訊ねる。すると、儚が小さく頷いてきた。
頷く儚を見て、蓮条もそれ以上は何も言わない。何度か儚を気にする表情で見ただけだ。
少し硬くなった儚の背中を、櫻真たちは静かに見守る。
(儚、どうしたんやろ?)
瑠璃嬢と儚が対照的であるのは知っている。他人の目を気にせず、自分の意思を貫く瑠璃嬢と、他人の目を気にして、臆病になる儚では意見が食い違うのも当然だ。
「とはいえ、上手く付き合ってはる気はしたんやけどな〜」
「瑠璃嬢と儚がかえ?」
「うん。ほら、瑠璃嬢は言いたいことを口に出すから変に隠したりせんし、儚だって変に角を立てるような性格でもないから」
上手く付き合っていけると思っていた。最初の出会いこそ印象は最悪だったが、ここ最近は仲が悪そうにも見えなかった。良好とさえ思っていたくらいだ。
櫻真が頭に疑問符を浮かべて、首を傾げさせる。
「櫻真、妾は儚の気持ちが憤ってしまった理由が分かるぞ」
「えっ、ホンマに?」
桜鬼がゆっくりと頷いてきた。
「儚が抱いた気持ちは、何ともいじらしい乙女心じゃ」
桜鬼の言葉で櫻真は少しだけ目を見開く。
「えっ、でも瑠璃嬢が蓮条好きなわけでもないし、蓮条だって……」
瑠璃嬢を好きというわけではない。それでも、桜鬼は妙に自信ある様子で笑みを零してきた。
「恋心は時に暴れ馬になるのじゃ。如何に制御しようとも、勝手に嘶き、勝手に威嚇をしてしまうもの。故に当人でも落ち着くまでは、どうにもできぬ」
「……そっか」
櫻真は桜鬼の言葉を聞きながら、内心で「あれ?」と首を傾げさせていた。
自分は今、桜鬼の話を何処か他人事のように聞いている。そんな自分に気づいて、櫻真は静かに戸惑う。しかし、儚の心の機微に自分は気付けなかった。
本来なら、分かっても良さそうなのに。
(だって、俺は……)
頭の中で一人の少女の姿を思い浮かべる。思い浮かべただけで、気恥ずかしい気持ちにはなる。こういう時に思い浮かべるのは彼女なんだ、と。
しかし、それでもーー……。
「櫻真っ!」
思考の中にいた櫻真を、驚き切羽詰まったような桜鬼の声で引き戻される。
「鬼絵巻が現れた! 瑠璃嬢と魑衛と対峙しておる!」
「えっ!?」
慌てて少し離れた場所を見る。蓮条よりも、儚よりも奥にいて、桔梗たちよりは手前に立つ瑠璃嬢と魑衛。その二人の数m先には、先ほどのバード・ストリートで見た鬼絵巻が、よく撥ねるスーパーボールのように、地面の上で跳ねていた。




