哀愁の中環
櫻真たちは、浅葱が用意してくれたペニンシュラホテルのデラックススイートルームに足を踏み入れていた。櫻真、蓮条、桜鬼、鬼兎火で一部屋。瑠璃嬢、儚、魁、魑衛で一部屋の部屋割りだ。
今は、25階にある櫻真たちの部屋に集まっていた。
英国統治時代の趣が残る館内は、クラシカルな豪華さがある。
(父さんとかだったらともかく、俺たち……浮いてへんかな?)
ちなみに浅葱たちは、この部屋よりもグレードの高いザ・ペニンシュラスイートを予約しているらしい。このホテルで一番高い部屋だ。
それを聞いた瑠璃嬢が「自分たちは一番良い部屋っていうのが、浅葱さんだよね」と呟いていた。まぁ、瑠璃嬢が言いたい事も分かる。
けれど、浅葱が急なお願いをした自分たちに、ちゃんと良いホテルをとってくれたのも事実だ。そのため、櫻真は瑠璃嬢の言葉に苦笑を浮かべるだけにしておいた。
「荷物も置けたし、これからどないしようか?」
櫻真が身軽になった体を伸ばし、他のメンバーに訊ねる。
鬼絵巻を探すにしても、自分たちは気配を感知するどころか……姿形すら見ていない。こうなると、街を練り歩くと言っても途方もない作業になるからだ。
しかしそんな櫻真の言葉に、窓から香港の景色を見ていた儚が得意げな表情を浮かべてきた。
「それなら心配いらんで? ウチにええ作戦があるから」
「そうなん? どんな?」
「実はな、魁は同じ従鬼の気配を広範囲で感知できるんよ。だから、明日、香港に乗り込んで来る桔梗たちの動きを見てれば、鬼絵巻に辿りつけるで?」
「えっ、ホンマに?」
「凄いやんっ!」
目を丸くする櫻真と、歓喜する蓮条。そんな二人の顔に儚は満足そうにしている。
実は、櫻真たちは菖蒲たちが来る前日に香港へと来ていた。前日乗り込みを提案したのは瑠璃嬢だ。いわく向こうをどんな形でも良いから出し抜きたいらしい。出資者である浅葱にも口止めをしているため、向こうにバレる心配もないだろう。
そんな瑠璃嬢は家を出る際に、儚の持つ鬼絵巻を奪いに行くと言って出てきたそうだ。
いつもなら瑠璃嬢の行動を訝しむはずの桔梗も、今回は心ここにあらずの気の抜けた返事をしかしてこなかったらしい。
冷静に物事を見る桔梗にしては珍しい事だ。
もしかすると、桔梗も思わぬ香港行きに気持ちが漫ろになっていたのかもしれない。
内心でそう思いながら、櫻真の思考は鬼絵巻探しから別の方へ切り替わる。
「それやったら、本格的に動くのは明日からにして……今日は香港を観光しはろ」
「そうやな。丁度、お腹も空いたし」
「賛成っ!」
ようやく香港の街並みを見られるとあって、気分を一気に上げる櫻真、蓮条、儚の三人。その三人に合わせて、桜鬼たち従鬼も顔を和やかだ。
けれどやはり、そこで桜鬼と鬼兎火で会話を交わすことはない。
二人の様子を櫻真たちが静かに盗み見していると、ソファの上で胡座をかき、用意されていたケーキをひと齧りしていた瑠璃嬢が、
「アンタたち、そう何だかんだ言って、観光したいだけでしょ?」
櫻真たち三人の図星を突いてきた。
瑠璃嬢は、この香港での鬼絵巻探しに一番、熱を入れている。
「まぁまぁ、ええやん。変に動き回って、無駄な時間と体力を使うよりは。アンタやて、蒸し暑い香港の街を、無鉄砲に歩き回りたくないやろ?」
「別に良いけど。とりあえず、あたしもお腹すいた」
ケーキを食べ終え、指をひと舐めする瑠璃嬢。この様子だと、1日目を鬼絵巻探しではなく、観光に費やす事に同意してくれたらしい。
香港観光をする上で、ある意味難所となっていた瑠璃嬢の了解も得て、櫻真と蓮条は静かにハイタッチをしていた。
「やっぱり、最初は飲茶を食べに行こう。添好運ってお店が有名みたいやで? お手頃の値段で、一流シェフの味が楽しるらしいんよ」
目を輝かせ、儚がガイドブックに載っている点心の店を指差してきた。
「一番近くて……香港島の中環やな。ハリウッド・ストリートも近くにあるやん」
ガイドブックを覗き込んだ蓮条が儚の言葉に賛同し、櫻真たちはホテルのある九龍から香港島へと向かう事にした。
ベニンシュラの前には彌敦道が通り、香港でも随一の繁華街が広がっている。見慣れた京都市内よりもごちゃごちゃした街は、櫻真たちの目には視線に映る。
ガイドブックによると、東京よりも建物の密集率が高いらしい。
「香港島には、やっぱフェリーで行きたいやろ? タクシーより」
「あっ! スター・フェリーやろ? あれ、一度は乗ってみたかったんよ!」
蓮条の言葉に、儚が答える。
そんな二人の横で、魁と鬼兎火が異国の地である香港について話していた。
「櫻真っ! あのバスは2階建てになっておる!」
目を丸くして、人や車で混み合う道を走る二階建てバスに、桜鬼が目を丸くさせてきた。
「あ、ホンマや!」
二階建てのバスは、凄く起用に反対車線の車とスレスレですれ違っている。
日本ではあまり見慣れない光景だ。
「向こうの島には、二階建ての路面電車も通ってるみたいやで? それにも乗りたいな」
「うむ! 何やら異国というのもある為か、見ているだけで楽しい気持ちになるのう!」
言葉の通り、桜鬼の言葉はすごく弾んでいた。
スター・フェリー乗り場まで向かうタクシーを捕まえる最中も、アジア特有の猥雑感のある街並みを見て、目を輝かせている。
(俺らにとっても、新鮮やけど……桜鬼たちにとってはもっと新鮮なんやなぁ)
近くで、嬉しそうな顔や、楽しそうな顔をされると……不思議と自分まで笑顔になってしまう。
それこそ、香港の今の時期は雨季・台風シーズンでもあるため、日本以上に蒸し暑く、豪雨がいきなり降ってくる確率も高い。
しかし、今の所は幸運な事に一滴の雨にも降られずに済んでいる。
街中を何台も通るタクシーを捕まえ、櫻真たちは拙い英語で行き先を運転手に告げる。
観光地のタクシー運転手とだけあって、フェリーの言葉ですぐにピンときてくれたのも助かった。
「フェリー乗り場までは、近そうやな」
「そやな。それに船に乗ってる時間も七分くらいらしいで?」
「へぇ。それやったら戻ってくる時にもええな」
櫻真の言葉通り、地下鉄や海底道路が出来た今でも交通手段として使う人もいるらしい。
尖沙咀にあるフェリー乗り場に着くと、櫻真たちはコインのような形の切符を買って、船へと乗船した。
「これは、凄く心地よい風じゃのう」
窓のない船には、ヴィクトリア湾に吹く海風が吹き抜ける。桜鬼は長い髪を手で押さえながら、船の際に座っている。
今、桜鬼が着ているのは、花柄のスリットワンピースだ。外見が大人っぽい桜鬼によく似合っている。
(今やったら、鬼兎火とのこと……聞けるかな?)
聞かれたらまずい鬼兎火は蓮条や儚と共に、別の席から外を眺めているし、瑠璃嬢も席に座りながら、目を瞑っている。
込み入った話を聞くなら今だろう。
「桜鬼、一つ聞いてもええ?」
「ん? 何じゃ?」
あどけない様子で桜鬼が首を傾げてくる。香港を楽しむ桜鬼からすれば、櫻真の質問は寝耳に水に違いない。
声を掛けたものの、やはり櫻真の中で迷いはある。
フェリーに乗り、異国の風を楽しむ桜鬼の気持ちに水を差してしまうのではないか?
そう考えると、言葉が尻込みしてしまう。
「いやほら、桜鬼はずっと日本におったやろ? 今みたいに外国に行ってみたい、とか思わなかったんかなぁ〜と思って」
我ながら凄く苦しい質問だ。しかしそんな櫻真の質問に対し、桜鬼が少し考えてから、答えてきた。
「南蛮の話を聞いたり、そこから入ってくる物品を目にする機会はあったが……自ら行きたいとは思った事はなかったのう。今に比べると、異国は本当に遠い場所だったというのもあるが」
そう言ったあと桜鬼が目を細めて「だから今、ここにいるのが嬉しい」と言ってきた。
(昔は飛行機とか、なかったんやもんなぁ……)
江戸時代の頃に海外に行くと言ったら長い航海の旅だ。それこそ、一日、二日で帰れるものではない。
それを櫻真たち以上に肌身で感じているからこそ、桜鬼にとって異国は「行くことのない場所」だったのだろう。
しかし技術の進歩により、その認識が大きく変化したのだ。桜鬼たちが眠っている間に。
(咄嗟に訊いたことやけど、予想外に感慨深い話になってしもうた)
櫻真が少しだけ哀愁に浸っている内に、フェリーは中環へと到着していた。




