少しの被害は
刀を下段に構えたままの桜鬼が、鬼兎火へと肉薄する。桜鬼が走り抜けた瞬間に、周囲の空気に気流が生じる。気流が風の刃となって桜鬼と共に鬼兎火へと斬り掛かる。
だがその刃を、鬼兎火が手を払い、出現させた炎が壁となり防いできた。
風を受け、炎が荒々しい火柱を上げる。しかし、桜鬼は怯むことなく火柱に刃を突き刺し、そのまま横に引き裂く。
「舐めるでないっ!」
桜鬼が炎の壁を切り払う。火柱が上下に分断され、その切れ目の先に桜鬼と同じ刀を持った鬼兎火が刺突の構えを取っていた。
鬼兎火が手にしていた刀が桜鬼へと繰り出される。鬼兎火の刃は炎を纏い、貫通した肉体を焼却させる。
桜鬼は瞬時に後ろへと跳躍する。
「残念。逃がしません」
後退した桜鬼を見て、鬼兎火が笑う。
「な、に!?」
瞬時に後ろへと跳んだ自分との間合いを、鬼兎火があっさりと詰めて来たことに、桜鬼は目を見張る。鬼兎火の刃が桜鬼の右肩を突き刺してきた。
熱く、鈍い痛みが肉を貫き、骨を砕く感触。そこから流れ出す血。その血は桜鬼の白い着物を見る見る赤く染めて行く。
刃で桜鬼を突き刺す鬼兎火の口許が動き、術の詠唱が始まる。刃に絡み付く炎の勢いが鬼兎火の術式により蠢き、強くなる。
「あ、ああああああああああ!」
肉を裂き、骨を裂き、そして血肉を貪るように鬼兎火の炎が桜鬼の身体を焼いてくる。
強い。
痛みで切れ切れになる思考で桜鬼は考える。これでは、先程の時の状況と何も変わっていない。何故か? 今とさっきではまるで違うのに。櫻真の声聞力が自分へと満ち、不足しているわけではない。それなのに何故?
一瞬、自分の中に蓄積されていた自信が失われるような恐怖が襲う。
「桜鬼、貴女は何も分かっていないわ」
痛みに藻掻く桜鬼に、鬼兎火が哀れむような声を出す。
「何を……、何が分かってないというんじゃっ!」
自分を哀れむような鬼兎火の態度に腹が立つ。怒りが思考を繋げ、視界をはっきりとさせる。はっきりとした視界に映った鬼兎火の表情は、声音と同じく哀れんだ顔をしていた。
腹立つ。腹立つ、腹立つ腹立つ腹立つ腹立つ!
「其方に哀れまれることなど、何もない!」
桜鬼が半ば強制的に右肩に刺さっていた刃を引き抜き、その瞬間に鬼兎火の胴体を風による衝撃波を放ち、吹き飛ばす。
詠唱なき風だとしても、櫻真の声聞力によって根底の力が上がっている。それを至近距離で受けたのだ。どんなに防御の姿勢を取ろうとも、受け止めきれるものではない。
「桜鬼! 平気なん?」
後ろを振り返るように、櫻真が自分を心配している言葉を投げて来た。自身で思っていたよりも、後方へと跳躍してしまったらしい。
櫻真に無様な姿を見せてしまったのう……。
唯でさえ、櫻真は戦いを拒んでいるというのに。そんな櫻真に不安にさせるような姿を見せてしまっている。
その事実が怒りよりも悔しさを生む。
「櫻真、案ずるでない。妾は負けぬ。負けぬ故、妾に何があっても、櫻真は櫻真のやるべきことをやっておれ」
櫻真は自分が負った傷を見て、憂悶な表情を浮かべている。今にもこちらに駆けて来てしまいそうだ。いや、事実櫻真は自分へと近寄ろうとしていた。
しかし、それでは蓮条たちにしてやられるだけだ。そんな結末では、自分たちがここで戦っている意味がなくなる。それでは駄目だ。
桜鬼が術の詠唱を始める。風が渦を巻き、どんどんその姿を膨張させていく。
……少しの被害はやむを得ん。
桜鬼の詠唱が完了し、目の前には巨大な風の竜巻が出来上がっていた。桜鬼の風は、鬼兎火が操る炎と同じだ。つまり、この風の影響を受けるのは、桜鬼が対象と定めたものだけ。
そのため、主である櫻真に衝突したとしても害はない。そして桜鬼が今対象としているのは、櫻真の近くにいる蓮条、先程吹き飛ばし、こちらに近づいている鬼兎火……そして鬼絵巻を所持している千咲だ。
正直、千咲はたまたまこの鬼絵巻の器として選ばれてしまっただけの人間だ。何も悪くない。けれど千咲の身に鬼絵巻がある。被害の外に出したくても出す事は出来ない。
それに、このままだと蓮条が千咲の持つ鬼絵巻に触れてしまう。蓮条が千咲の身体を掴んだ際に鬼絵巻に触れてしまわなかった理由は、分からない。
けれど今はそんな理由など、どうでも良い。そのおかげで自分たちに鬼絵巻を手に入れる機会が生まれているのだから。
まずは蓮条と千咲を引き離す。大丈夫。櫻真もきっとそれを分かってくれるはずだ。
そう思い、桜鬼は術を放つ。
鬼兎火がそれに反応して、手に握った刃を横に払い、炎の斬線を放出させてきた。
けれど、それは遅い。桜鬼が起こした竜巻は、無数の刃を孕み、その触手を伸ばしているのだから。
鬼兎火の斬撃で防がれはしない。
一気にここで片をつける。
桜鬼は殆ど確信的にそう思っていた。けれど桜鬼の思い描いていた未来は、鬼兎火に防がれるわけでもなく、主である櫻真によってあっさりと打壊されてしまった。
「な、ぜ……?」
狐につままれたような気分で、自分を正面から睨む櫻真を見る。
「何でやない……。さっきの何?」
「何とはなんじゃ? 妾はただ鬼絵巻を蓮条たちに奪われまいと……」
「鬼絵巻さえ手に入れば、人を傷つけてもええと思うてはるの? あのまま桜鬼が技を放ったら、祥さんに被害が出てしまうやん」
「仕方あるまい? 戦いとはそういうものじゃろ!?」
「そうか……ならもう、ええわ。桜鬼に何言うても分からんみたいやから」
櫻真が暗澹な表情で静かに自分を睨んでくる。
「なっ……」
言葉を返そうにも返せない。目の前にいる櫻真が自分に向けている怒りをひしひしと感じる。
「……いきなり、痴話喧嘩すんなや。こっちが興醒めや。せっかく、商品をぶら下げて……もう少し楽しんだろ、思うてたのにな。鬼兎火、もうええわ。鬼絵巻を回収するで」
櫻真の後方にいた蓮条が千咲の胸元に手を翳す。すると千咲が持っていた鬼絵巻が服を擦り抜け、瞬間移動したかのように蓮条の手に握られる。
蓮条が手に持った鬼絵巻を無言のまま見つめた。
すると、その瞬間に鬼絵巻が強く光り始めた。強烈な光が辺りを包み、思わず桜鬼たちも目を瞑ってしまうほどだ。
けれど、その光も一瞬で収まった。
何故、あんなにも眩く光ったのか? そんな疑問が桜鬼の脳裏に過ったが、疑問はすぐに蓮条の手に掴まれている鬼絵巻と俯く櫻真の姿で、どうでもよくなってしまった。
ああ、自分たちは……自分は負けてしまったのだ。
桜鬼の手から刀が滑り落ちる。滑り落ちた刀は地面に落ちる前に光の粒子となって消えた。
「……鬼兎火、行くで」
無言を貫く櫻真と桜鬼を差し置いて、蓮条が鬼兎火に声を掛ける。
桜鬼たちはただ茫然としたまま、蓮条が気絶した千咲を鬼兎火に家の中へと運ばせる姿を眺めているしか出来なかった。
桜鬼が動いたのは蓮条たちが立ち去り、無言のままの櫻真が動き出してからだった。
蓮条に一つ目の鬼絵巻を取られてから、三日が過ぎていた。
あれから、櫻真は桜鬼と殆ど口を聞いていない。むしろ、桜鬼は自分の前に姿を現していないという状況だ。きっと通常の透過術を強化して櫻真にも見え難くしているのだろう。意識を集中させれば、その姿を探すこともできるが、今はそれをする気にもなれない。
そしてあの時以来、同じ学校に来ているはずの蓮条と顔すら合わせていない。親に蓮条の事を訊ねる事も結局できずにいる。
元々、蓮条は自分と仲良くする気なんて、なかったのだ。なら、櫻真がわざわざ訊き辛い事を親に聞く必要性も然程ないように思えたからだ。
所詮、蓮条とも桜鬼とも鬼絵巻で繋がれた縁だ。つまり、鬼絵巻がなければ、関わる事のない縁で、櫻真にとって絶対に関わらなければならないものでもない。
……本当に?
ふと、そんな疑問が鉛玉のように櫻真の胸に落ちる。イエスともノーとも答えはでない。
「䰠宮君、どうかした?」
「えっ? どうかしたって?」
帰りのHRが始まるのを待ちながら思考の中にいた櫻真は、隣の席に座る千咲の声にはっとして、我に返る。
「その、最近……元気がない気がして」
「いや、そんな事ないよ。ただ少しぼーっとしとったけど」
隣にいる千咲に事件の後、変わった様子はない。心配そうにこちらを見ているのも、優しい彼女らしい表情だ。
とはいえ、千咲に事情を話すことはできない。千咲は自分たちの勝手な抗争に巻き込まれただけで、関係はないのだから。
「そっか……。じゃあ私の気の所為やな。あっ、でも本当に何か悩みとかあったら、言うてね。私でよければ相談にのるから」
「おおきに……」
自分の力になると言ってくれている千咲に有り難さを感じる。けれど心は痛いままだ。
変やな。
そんな事を思っていると、自分に向けられている視線の一つに気付いた。自分の後ろの席に座る佳だ。
「祝部君? 何か俺に用?」
「用ってわけやないけど……䰠宮、一つだけ忠告させてもらうわ」
「忠告? 何の?」
佳が何を言いたいのかが分からず、櫻真が首を傾げさせる。すると佳が小さく溜息を吐いて来た。
「忠告っていうのは……」
「さぁ、帰りのHRを始めるから、おしゃべり、やめろーー」
タイミング悪く職員室から戻って来た鹿渡を見て、櫻真はモヤモヤとした気持ちを抱えながら前に向き直る。
忠告って、どんな忠告をしようとしてたんやろ?
……鬼絵巻に関すること? いや、まさか。
例え佳が目敏く、物事を捉えられる人間だとしても、鬼絵巻という言葉を聞いただけで真相に辿り着けるとは思えない。
じゃあ、何の忠告をしようとしているのか?
櫻真にはまるで見当がつかない。やはりこの疑問を解消するには、直接佳に訊ねるしかない。
帰りのHR終わりに聞き直したら、教えてくれはるかな?
そんな事を思いながら、櫻真が帰りのHRの時間を過ごしていたが、
「祝部、ちょっとええか?」
と、クラスメイトの一人に佳が呼び出されてしまい、櫻真は聞き返すタイミングを完全に失ってしまった。




