まったく酔えない
関西国際空港、第一ターミナル。
出国手続きを済ませた桔梗は、菖蒲や百合亜、藤と共に搭乗ロビーの椅子に腰を降ろしていた。
搭乗ロビーには大きな窓があり、その向こうには香港へ向けて飛び立つ準備をしている飛行機JAL7051便が見える。百合亜と藤は飛行機を見て、興奮気味に何かを話している。
自分たちが取っている席は、ファーストクラスだ。そのため専用のラウンジも使用できるのだが……百合亜たちがこちらの方に来たがったため、他の搭乗客と同様にロビーにある少し硬めの椅子に座っている。
桔梗の横に座る菖蒲は、黙々と香港の観光ブックを見ていた。
実に呑気なものである。
桔梗の手にはセキュリティーチェックを受けた後にある店で買った、ビールが握られている。実はこれで二杯目だ。
けれど不思議な事に、ほろ酔い気分にすらなっていない。むしろ、頭は妙に冴えていて、自分が口にしているのは、アルコールフリーなのでは? と疑いたくなるほどだ。
しかし、口に広がる芳醇な香りと喉を通る冷たい感触は、馴染みあるビールそのものだ。
「外国の種類かな? 水みたいに飲める……」
桔梗がぼそりと呟くと、横にいた菖蒲が横目で一瞥してきた。桔梗が持つビールを見ている。
その視線を感じながら、桔梗はビールを一気に煽った。
稽古や舞台を終えた体で飲むビールは、悔しいほど美味しく、すぐ体に吸収される。
しかし今、口にしているビールは全く吸収されない。
何故か? そう自分に問うてみる。けれどその質問が無意味であることは桔梗自身、よく分かっていた。
手荷物を持ち、フロアを行き交う人々、彼らの中で今の自分の気持ちを汲み取れる人間がどれくらい、いるだろう? 5割? いや、そんなにいない。居ても2、3割程度だろう。
桔梗は忌々しいものを見る目で、飛行機を見る。
(いや、あかんね。こんな目で見たら……)
桔梗は頭を振って、自分の考えを改めた。ビールをずっと持っている為か手が異様に冷たくなっている。
施設の空調が効き過ぎているのだろうか? そう思ったが、横にいる菖蒲や、はたまた薄手の女性も平然としている。
つまり適温という事だろう。
(動揺する必要なんてないのに……)
自分の同行者の中には、幸運男の菖蒲がいる。ならば下手な事が起こるはずがない。
チャチャチャチャ〜ン。
『JAL7051便、香港行き。これより、優先搭乗を開始致します』
(来た……)
耳を跳ねるような音と共に、スタッフによる搭乗手続きが開始されている。
自分たちが乗るのはファーストクラス。つまり優先搭乗の後に案内されるクラスだ。
「エアバスなのが悔やまれる……」
独り言を呟くと、菖蒲が怪訝そうな顔を浮かべてきた。
「いや、僕的にはボーイングの方が良くて……」
何も言われてはいないが、思わず言葉を付け足す。すると、菖蒲が淡々とした声音で、
「今は自動化が進んどるエアバスの方が多いで? パイロットからしても助かるしな」
と答えてきた。
「うん、知ってる。けどね僕、何でもかんでも自動化にするのは良くないと思うんだ。機械って頭固いから、エラーが起こると対処に困るじゃない? むしろそのまま壊れる可能性だってある。その点、人には火事場の馬鹿力というか、一瞬の閃きを出す事ができる。つまり、最善を導き出す可能性を秘めてると思うんよ」
「うん、それで?」
「でも、自動化が進んで考える事を怠ければ、いざという時に出せないと思うんだよね。人は脳を使うことで、経験を積んでいくんだから」
桔梗がそう力説すると菖蒲が観光ブックを閉じてきた。
どうやら話している内に……自分たちの順番が回ってきたらしい。
今まで座っていた座席から立ち上がる際に、桔梗は静かに深呼吸をした。
搭乗する前に、空になったビールをゴミ箱へと捨てる。
「桔梗ちゃん、はやーく!」
早く飛行機に乗りたい百合亜が桔梗に向かって、声を上げてきた。
(そんなに慌てなくても良いのに)
どうせ飛行機は逃げないのだから。海外の飛行機なら搭乗時刻に少しでも遅れただけで、飛んでしまうが、日本のはそうじゃない。
日本の航空会社は、少し搭乗時刻が過ぎてもアナウスなどで呼び出し、待っていてくれたりする。
しかも自分たちは、時刻通りに搭乗ゲートに来ているのだから、置いていかれるはずはないのだ。
何の問題もなく、桔梗が搭乗ゲートを抜け機内へと入る。
機内へと続くボーディング・ブリッジを歩くとき、妙に歩く足が重く感じるのは何故だろう?
この中に密閉された蒸し暑さのある空気の所為だろうか?
『主、お顔の色が優れないようですが?』
霊体化している椿鬼がそっと声を掛けてきた。
桔梗は静かに頷く。心配してくれた椿鬼に微笑むくらいの事はしたかったが、妙に顔が強張って、それは叶わなかった。
機内の扉の前には、礼儀正しいCAの女性が頭を下げてきた。
けれど桔梗の視線は、CAに向けられず……機体のボルト部分などに入っていた。
(怪しい亀裂はない……よね?)
一応の確認をし、桔梗は機内へと入った。すぐにファーストクラスの広い座席が姿を現す。
ファーストクラスは、機体の前部分であり座席数6席と少ない。そのため、機内に入ってすぐに腰を下ろした。
ファーストクラスの座席は半個室を思わせる様式になっており、前方には大きなモニターに、多彩な収納スペース、木目調のプライバシーパーティションがある。
座席も広く、大人でも膝を少し折って横になれる程のスペースだ。
百合亜と藤は一つの座席に集まり、まだ飛んでもいない内から窓を覗き込み、それから座席前のモニターを弄り始めている。
百合亜たちとは、反対側に座る菖蒲の方を覗き込むと、彼はすでに持参した小説を読み始めていた。
(本か……)
読書は良い時間潰しになる。そう、普段の時ならば。けれど、桔梗にとって今は普段の時ではない。落ち着いて本を読んでいられる状況ではないのだ。
本当はすぐにでもリラックスするために、体を横にしたい。けれど飛行機が離陸する前に足場を戻すのも面倒だ。
仕方なく桔梗はコードレスのイヤホンを耳に装着し、座席前のモニターの電源を入れた。
機内モニターには、新作映画やドラマ、コメディ番組、アニメ……ゲームや音楽など多彩なコンテンツが充実している。
(音楽聴いて眠る? いや、無理や)
静かに頭を振り、普段は絶対に選ばないアニメのジャンルをチョイスする。
できれば内容が薄く、下らないのが良い。
某探偵アニメはダメだ。爆発するから。
なら、青い色のロボットが出る奴だろうか? それともピクサー?
(いや、平穏というなら……)
雛壇が並ぶコメディ番組の方が良いかもしれない。
JALは日本の航空会社ということもあり、馴染みある番組名が多数並んでいるのだ。
桔梗が熱心に、心穏やかでいられる番組を選別している間にも、他の乗客がぞろぞろと機内へと入ってくる。
慣れた手つきで、上のアタッシュケースへと荷物を入れるサラリーマン。ウキウキとした足取りで、カラフルなリュックを背負う子供とその両親。
その人たちを機体スタッフの人たちが暖かい視線で見つめている。
桔梗は、モニターから目を離し過ぎ去る人々の顔を注視していた。
最後の一人らしき、乗客が足早に乗ってくる。
その顔を見て、桔梗は静かにこう思った。
(幸薄そうな人は、居なそうやね……)




