香港へ
部屋に入ってきた櫻真と瑠璃嬢を、浅葱がやや虚ろな目で見つめてきた。
浅葱の目の下には、薄っすらと隈が出来ている。
(そういえば、父さんが仕事に追われてるって……母さんが言うてたかも!)
昨夜の夕飯時での会話を思い出し、櫻真は頭を抱えたくなった。
見るからに懇請相手である浅葱は寝不足だ。そして睡眠が足りてない浅葱は凄く不機嫌でもある。
(これは、失敗するな)
自分たちの目論見が頓挫するのを感じ、櫻真の気持ちは一気に萎縮した。
けれど、横にいる瑠璃嬢はそうではない。浅葱が寝不足である事は、やや半眼気味の目や隈から分かっただろうが、不機嫌になる事までは知らない。
だからこそ、瑠璃嬢は躊躇なく浅葱へと口を開いた。
「ねぇ、浅葱さん……あたしと櫻真を香港に連れてって欲しいんだけど?」
瑠璃嬢のあまりにも直球すぎる言葉に、櫻真が思わず目をギョッとさせる。
頼まれた浅葱は、眉間に深い皺が生まれる。
「何で、また? いきなり過ぎて事情が掴めへんのやけど?」
答えた浅葱の声は、いつもよりワントーン低い。
そんな浅葱に臆することなく、瑠璃嬢も淡々と経緯を説明する。
「ふーーん。でもそれなら、僕に頼まんでも瑠璃嬢は行けはるやろ? 実家から仕送りもされとるんやろうし?」
「無理。あたしへの仕送りは桔梗の奴が管理してるから。いつもだったら、あたしがそのお金を使おうが文句は言わないけど……このタイミングでは使わせる気はないみたい」
不服そうに顔を歪めた瑠璃嬢を見て、浅葱が溜息を吐く。
「あのな〜、自分の財布の紐はちゃんと握っておかんと駄目やろ?」
「まさか、あたしもこんな状況になると思わないでしょ? 別に持ってたって使わないし」
「それで、金の管理を桔梗に任せてたわけな〜。ホンマに瑠璃嬢はズボラやな〜〜」
面倒臭そうな顔をして、浅葱が手で頭を掻く。以前、雲行きは怪しいままだ。
それにも関わらず、瑠璃嬢の攻めの姿勢は変わらなかった。
「あたしも今回を踏まえて、次からはちゃんと管理するし、お金も後で絶対に返す。だから今回は立て替えるつもりで、連れてって」
浅葱を押す瑠璃嬢。けれど、浅葱はそんなに甘くない。その事を櫻真は知っている。
何せ、自分がどんなに10年近く犬が欲しい! と飽きずに訴えても浅葱は未だ折れないのだから。梃子で押しても浅葱は動かない。
案の定、次に口を開いた浅葱は、
「却下。別に鬼絵巻を菖蒲たちに奪われても、日本に帰ってきた時に奪えばええやん?」
正論を吐くのと同時に、首を横に振ってきた。
さすがの瑠璃嬢も表情を暗くさせた。完膚無きまでに言い返されると、次に打つ手が中々思い浮かばないものだ。
仮に櫻真と瑠璃嬢が、他の人に取られた鬼絵巻を取る事が、外にいる鬼絵巻を捕まえるよりも難しい、と訴えかけた所で浅葱には通用しないだろう。
浅葱からしたら鬼絵巻が欲しければ、それくらいしろ、と突っぱねられるだけだ。
(今の父さんを相手にするのは、瑠璃嬢でも厳しかったか)
良案も浮かばず、櫻真が半ば諦めているとーー
「浅葱さん、そろそろ休憩にしてくださーい」
書斎へ暖かいお茶と均等に切られた羊羹をお盆に乗せた、桜子が現れた。
最愛の妻である桜子を見て、寝不足で無表情だった浅葱の顔に笑みが浮かぶ。やはり、この状態の父親に対しても、母親の影響力は絶大なのだと実感する。
浅葱が桜子に「もう書類仕事、無理〜〜嫌や〜〜眠い〜〜」と愚痴を零しながら、出された羊羹の一切れを黒文字(菓子楊枝)で口に運んでいる。
桜子はそんな浅葱へ労わりの表情を浮かべていた。
そんな二人を見ながら、櫻真が「瑠璃嬢、もう行こう」と声を掛ける。しかし瑠璃嬢は動かなかった。
ただ黙って浅葱と桜子のやり取りを見ている。いや、見ているというより観察しているようにも見える。
「瑠璃嬢?」
動かない瑠璃嬢に櫻真が再び声を掛ける。自分に対する返事はない。けれどその代わりに、瑠璃嬢が思い付いた一手を浅葱へと指した。
けれど言の葉の先は、浅葱ではなく隣にいる桜子へだ。
「ねぇ、桜子さん」
名前を呼ばれて、桜子が首を傾げながら瑠璃嬢へと視線を向ける。
「桜子さんは、香港に行った事ある?」
「香港? ううん、行ったことないよ。どうして?」
「今、あたしと櫻真で香港に行きたいって浅葱さんに頼んでた所なんだけど……桜子さんも行ってみたくない?」
桜子にそう問いかけた瑠璃嬢には、うっすらと笑みが浮かんでいた。
瑠璃嬢の笑みを見て、櫻真はまたまた少女の算段が分かってしまった。
浅葱に直接言っても駄目なら、まずは桜子から丸め込もうというつもりだろう。浅葱も瑠璃嬢の考えが分かったのか、湯飲みに入ったお茶を飲みながら目を細めている。
しかし、そんな瑠璃嬢の腹を知らない桜子は、「香港かぁ〜」と言いながら、ややウキウキとした表情で香港に思いを馳せている。
そしてーー……
「飲茶、点心も美味しそうだし、マンゴープリンにエッグタルトも美味しそうよね。うん、私も行ってみたいかな」
と、無邪気な笑顔を向けてきた。
浅葱がそんな桜子の笑顔を見て、胸を押さえている。胸がキュンとしたらしい。
「行こう、サクちゃん。香港に。すぐにでも」
さっきまでの頑なさが嘘かのように、浅葱がそう口にしてきた。
浅葱の言葉を聞いた桜子が「えっ、でもお仕事の方は良いんですか?」と戸惑っているが、浅葱は「桜子との香港旅行のために何とかする」の強気な公約を口にしている。
最初は難航した浅葱への説得も、思わぬ形で実を結ぶことになった。