隅に置けない
現代に於いて、完璧な姿を残す事ない寝殿造。けれど奈良県にある霊山脈の奥地にその趣で造られた屋敷がある。
屋敷前にある朱色の橋が掛かった池には、綺麗な満月と星が顔を映している。
䰠宮家が持つ、最古の屋敷の一つだ。春には見事な桜が咲き誇り、夏には新緑、秋には紅葉、冬には白い雪が屋敷を彩る。
普段は、誰も入れないように屋敷へと続く石階段前の門は硬く閉ざされており、強固な結界が張られた場所だ。
屋敷の敷地は広大であり、平安時代、貴族の屋敷そのものだ。
そんな屋敷の渡殿を怒った様子で闊歩する女と黙って歩く男がいた。
「全く、あのクソ男っ! よくもふざけた事を口走ってくれたものねっ?」
腹の奥から湧き出る怒りを、惜しげも無く口から吐き出す。
葵は眉間に深い皺を作って、憤怒していた。
そんな葵の後ろには、普段、祝部家の方に潜り込んでいる吏鬼の姿がある。吏鬼は触らぬ神に祟りなし、という風に葵の言葉に口は挟まない。
しかし、そんな吏鬼へ葵がギロリと睨んだ。
「主人である私がこんなに腹を立てているというのに、本当にお前はぼんくらね」
「そう言われてもなぁ……下手な事言って、口を出して八つ裂きにされても嫌じゃん」
「はぁ。誰の所為でこんな苛々してると思ってるの?」
「あの紫陽とかいう男のせいでしょ?」
「ええ。そうよ! 正にその通り。けどね、あのモブを島に連れてきたのはお前だわ」
怒りと共に声聞力を発散させているのか、葵の周囲を小さな火花がバチバチとなっている。
それに巻き込まれないように、吏鬼は気をつけながら口を開いた。
「でも、姐御だって伽羅の分量を間違えたけど」
どんな状況でも自分の主張をするのが、吏鬼の主義だ。
けれどそれは危険を伴う。
案の定、怒りの沸点を迎えている葵の声聞力により左腕を捻り折られた。
(これは相当、御冠だわ)
骨が粉々に折られ、ぐにゃぐにゃになった左腕を見ながら、吏鬼は肩を竦めさせた。
けれど葵は自分の世界に入り、思うがままの事を口にしている。
その中には、罵詈雑言の他にも今後に関わる内容も含まれているため……吏鬼は聞かないように聴覚を遮断した。
聞いていたとなればまた今回のように、あれやこれやの雑用をさせてくるに違いない。
散々言いたい事を言った葵の口が閉じる。
それに合わせて吏鬼は聴覚を復活させた。こういう時、人外というものは便利だと吏鬼は静かに思う。
「さてさて、吏鬼よ」
自分が聴覚を復活させた事に気付いた葵が、いつもの調子で話しかけてきた。
「はいはい、何でしょう?」
「お前は、これからもあの祝部家の倉庫番として、しっかり監視するのよ? もしかすると狐か眼鏡が要らない勘を働かせるかもしれないから」
「やっぱ、あの二人ってグルなわけ?」
「当然でしょう。アイツらBLだもの」
「えっ、マジで?」
「お馬鹿さんね。嘘に決まってるでしょう。奴らのカップリングなんて誰が見たいの? 誰得にもならないわよ」
「ふーん。でもグルなんだ」
「ええ、そうよ」
「じゃあ、何で姐御は奴らを野放しにしてるわけ? 一丁前に身内贔屓?」
再生し始めた左腕を横目に吏鬼が訊ねる。
すると葵から「ふふふ」と笑い声が返ってきた。本人無自覚の不気味な笑い方だ。
「そんなの、私が見て見ぬ振りしてれば、桔梗ちゃんたちも下手に動けないからよ。私が動くと奴らは調子に乗って大きく動くでしょ? 桔梗はともかく菖蒲に動かれたら面倒なのよ。本当に」
「まぁ、向こうは姐御と違って人徳ありそうだしねぇ」
「おほほ。吏鬼の目はやっぱり節穴ね。私以上の人徳者が何処にいるっていうの?」
先ほどの様に聴覚遮断は行っていないが、吏鬼は聞こえなかったフリをした。
反応するのが面倒だ。
しかし、怒りの沸点を超えた葵は吏鬼の態度など気にしていない。
渡殿から、中央屋敷の区画に入る。
今宵は大きな満月が出ているためか、灯りなどが要らない程に辺りは明るい。中央屋敷前にある能舞台の姿もくっきり見えた。
葵は屋敷の中には入らず、舞台の方へ足を運び始めた。舞台へ続く欄干のついた橋掛がりを歩き、本舞台に立った。
鏡板に描かれているのは、老松ではなく従鬼たちとの契約書にも描かれている桜の大木だ。
それを背に葵が月を見上げる。
「もし、ここで桜満の舞なんて観られたら最高でしょうね」
「桜満ってお話?」
「いいえ、違うわ。人名よ。超重要人物の名前」
「へぇ。じゃあ今後そいつが出てくるわけね」
吏鬼が感慨なく相槌を打つ。すると葵が吏鬼に向かって酷薄な笑みを浮かべてきた。
「そうね……このままで行けば陰の桜満に会えるかもしれないわ。まっ、その前に葵はモブちゃんの調査をしないといけないけどね」
葵が指すモブちゃんとは、神宮寺紫陽の事だろう。
「あいつは、姐御にとっても予想外な人物っぽかったね」
吏鬼が横目で葵を見る。
すると葵が頬に片手を当て、小さく溜息を吐いてきた。
「ええ、本当よ。いつの間に潜り込んでいたのやら。私の目から逃れるなんて、隅に置けないモブキャラちゃんだわさ」
「多分、向こうも同じことを思ってると思うよ。絶対」
見た感じ、向こうも葵がどんな存在なのか分かっていない様子だった。
あの男が注意を払っていたのも、地味眼鏡こと䰠宮菖蒲という男だ。
けれど、その要注意人物が増えたことで……向こうも多少の混乱は起きているだろう。
(まっ、それでも俺のやる事は変わらないけど)
自分は葵に使役されるただの鬼であり、入り組んだ小難しい事情など考える必要はないのだ。
そう思いながら、吏鬼も空に浮かぶ月を仰ぎ見る。
葵の横で月を見上げる吏鬼の左腕は、既に完治していた。




