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一枚の護符

(こうなったら、途中だとしても術を発動させて……)

 決意を固める彩香を他所に、魘紫が百合亜を肩から下ろし始めている。

「百合亜、待ってろよ。このまま敵を遠くの方まで吹き飛ばしてやるから」

 首を鳴らし、肩を回しながら魘紫が百合亜にそう告げる。

 すると百合亜が「あっ、プリメリの必殺技をするんでしょ?」と言いながら、表情を明るくさせ、期待している。

(えっ、プリメリの必殺技?)

 プリメリと言われても、彩香には今いちピンと来ない。けれどそれでも分かる。これは非常に不味い状況だという事は。

 彩香の脳裏に浮かんでいたのは、先日に魘紫によって吹き飛ばされた隆盛の姿だ。

(アレを今、こんな至近距離から受けるなんて……)

 想像以上の恐怖に彩香が顔を青くする。

 けれどそんな彩香の顔など魘紫が見ているはずもない。両手を後方に伸ばして胸を張り、このまま自分へ突っ込む体制だ。

 自分が持つ全声聞力を賭けて結界を張れば、何とかなるかもしれない。けれどもうそんな時間は彩香に残されてはいなかった。

 魘紫が後ろに引いた右足で地面を強く蹴ったのが見えた。

 恐怖のあまり、彩香の口から大きな悲鳴が響き渡る。

(もう、だめっ!)

 目元に涙を浮かべ、鬼降ろしをしている事も忘れ、彩香は自分の最期を覚悟する。きっと自分はもう目覚める事はない。あの従鬼に突撃されて、ぺしゃんこに潰れてしまうのだ。

 涙で濡れた目をギュッと瞑る。その直後にドンっ! という鈍い音が耳に響く。

(ひっ!)

 思わず心の中で、彩香が短い悲鳴を漏らす。

 しかし……恐怖の後に来るはずの痛みが続いてやってこない。

(どういうこと?)

 恐る恐る目を開けた彩香の前で、魘紫がその場で超高速回転している。そのため、魘紫が立っている場所の地面が抉り掘られている形だ。

 そして自分の目の前に【停止】【回転】という二つの文字が浮かび上がっている。

「これは……」

 自分の置かれた状況が掴めず、彩香がポカンとしていると……

「お姉ちゃん、大丈夫?」

 どこかのんびりした様に聞こえる少年の声が真横から掛けられた。彩香が聞こえてきた声の方へ視線を送ると、そこには藤と筆を手にした魅殊が立っていた。その奥には魘紫の主である百合亜もいる。

「えっ、あ、はい。有り難うございます……えっ、でもどうして?」

 お礼を口にしながら、少女の中で助かったという安堵と、敵である少年に助けられた事への困惑が巻き起こる。

 けれど、そんな彩香の疑問に疑問を抱いたのか、藤が小首を傾げてきた。

「お姉ちゃんが凄く怖がってたから。百合亜と話して魘紫を止めたの」

「な、なんで……止めるんだよぉお……」

 すでに回転は止まっているが、目が回っている所為で魘紫の呂律が回っていない。そんな魘紫の元へ主である百合亜が近づいて、口を開いた。

「だってね、お姉ちゃんが泣いてたんだもん。プリメリは、泣いてる子には優しくするんだよ。分かった?」

 お姉ちゃん(ぜん)の顔で百合亜が、魘紫の頭をポンポンと撫でる。すると魘紫がガクンと地面に座り込んでしまった。

「魘紫、大丈夫?」

 突然、座り込んだ魘紫に驚いたのか、百合亜が片方の腕を持ち上げて、立たせようとしている。

 けれど体に力が入らない魘紫は、座り込んだままだ。

「……少し休んだたら、立ち上がれると思いますよ?」

 魘紫の腕を無理に引っ張ろうとする百合亜を見兼ねて、彩香がそう助言する。

 すると百合亜が「そっか」と言って、立たせようとするのを諦めた。

 こういう時の子供の切り替えの早さには、思わず苦笑してしまう。

(でも、どうしましょう?)

 すっかり戦う気分は削がれてしまった。

 きっとそれは魘紫の周りに集まる子供たちも同じだろう。

 それに、彩香自身もせっかく治まったものを、無理に掘り返そうとも思わない。

(うーーん、困りました)

 まさかの展開に彩香が鬼降ろしを解き、頬に手を当て考える。

 そんな彩香たちの頭上にいた鬼絵巻には変化が起きていた。



 圧倒的な力を見せつけられた気分だ。

 䰠宮桔梗が紫陽に向かって攻撃を開始した事により、自然と櫻真の従鬼である桜鬼は、佳に向かってやってきた。

 従鬼から放たれる圧は、上位種の邪鬼とは別物の強さがある。しかも、それがまだ本気というわけではないから、なおのこと恐ろしい。

 佳は護符剣を構え、迫ってきた桜鬼の刃を受け止めた。桜鬼の速さを目で終えていた訳ではなく、身の危険を感じた体がほぼ反射的に動いたに近い。

 それに受け止めても、そのまま力で押し切られ、横へ切り飛ばされてしまった。

 桜鬼が持つ刀からは、櫻真の声聞力の気配が感じられる。しかし、それもまだ初期状態の様な感覚だ。

 地面に倒れす寸前に、風の緩衝材を作る。おかげで自分に与えられたダメージは皆無で済んだが、それだけだ。

(せめて、式鬼神が出せれば……)

 体制をすぐさま整えながら佳がそんな事を考えていると、自分の足元に術式が展開されていた。

「䰠宮の術式っ!」

 不味い、と思った瞬間に櫻真の術式は展開していた。

「水行の法の下、清流よ大地より沸き立て、急急如律令!」

 地中から大量の水が噴き出し、佳を足元から上空へと吹き飛ばしてきた。軽く100メートルほど上へ飛ばされている。凄まじい勢いのある水は容赦なく佳の体を打ち付ける。口や鼻に水が一気に入り込み、呼吸が乱される。

 しかし、これらの状況よりも恐ろしいのは……上空に投げ出された事により、次の攻撃を回避できない状態に陥ってしまった事だ。

 櫻真はそれを見越して、自分の下に術式を展開させのだ。

 そして上空に投げ出された佳の前には、左腰辺りで刀を構えた桜鬼がいた。桜鬼の紅い瞳が佳を真っ直ぐに捉えてくる。

 抜刀術の用法で、構えていた刀を斜上に向けて抜き払う。そこから生まれる真空刃が佳へと襲いかかってきた。

 真空刃である刃は不可視だ。けれど刃が放つ殺気は分かる。思わず唾を飲み込んだ。見えない刃を正確に防ぐことはできない。それでも佳は護符剣を自身の顔面の前で構える。

 構えた直後に護符剣の剣身が折れた。佳の鼻の上に細い切れ目が入る。

「ふむ。小坊主め妾の斬撃を防ぎおったか」

 目を細めた桜鬼の顔を見て、それから佳が地面の方へと引き戻される。

「ははっ」

 落下しながら佳は思わず、鼻の上の傷を指でなぞりながら苦笑を零していた。

 決して可笑しいわけではない。むしろ、あまりの出来事に感情が上手く追いつけていないのだ。体は強張っているし、さっきまでの出来事が夢現つでの事の様に思える。

 けれど、自分は生きている。顔も二つにはされず、意識もちゃんとあり、傷は鼻の上の薄い切創(せっそう)だけだ。

そんな佳の耳元に、桔梗と対峙しているはずの紫陽の声が聞こえてきた。

『佳君、さっきはかなり危なかったみたいだけど……大丈夫?』

「何とか……。正直なところ、十二神将位の式鬼神が出せないのが痛いです」

『そうだろうね。だから、僕も君に出来る限りのフォローはしようと思う。式鬼神を召喚できるまでには行けなくとも……主である彼の結界を破るくらいにまでには』

「有り難いですけど、でもどうしはるんですか?」

 訊ね返したのだが、ピタリと紫陽からの返事がなくなってしまった。

 自分に答えられる状況ではなくなったのか? それを思うと、胸中に一抹の不安が過ぎる。だがすぐに佳は頭を降った。

(紫陽さんが、そう簡単にやられるはずがない)

 紫陽は自分よりも、ずっと強いのだから。

 そう考え直し、佳は一枚の護符を構えて再び自分へと近づいてくる地面へ投擲する。投げた護符は姿を消し、地表付近で風を巻き起こした。

(問題はこの後やな。……えっ?)

 佳が驚いたのは、地面へと向かう自分に突如として影が指したからだ。

 空を見るとそこには、自分に向かってくる桜鬼が迫っていた。桜鬼は左手に刀を握ってはいるが構えてはいない。代わりに右手を横にし、胸の前で構えている。

(手刀で決める腹か)

 殺傷力を抑えながらも、確実に自分の意識を奪うつもりなのだろう。

 相手と自分の距離はすでに2mを切っていた。いつの間にか轍鮒(てっぷ)状態になっていた事に、佳が表情を険しくさせる。

 だがそんな桜鬼と佳の間に一枚の護符が投擲された。

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