負けられない戦い
桜鬼と共に保健室へと来た櫻真は、ベッドに座っている千咲と制服が間に合わなかったのか、別の学校の制服を着た蓮条の姿に驚きとショックを受けていた。蓮条の傍には、桜鬼と同じく透過した鬼兎火が立っている。
『まさか、ここでも先に鬼兎火たちが居るとはのう』
櫻真の横に立つ桜鬼が、自分とは違った悔しさで顔を歪めている。そんな桜鬼を一瞥してから、櫻真は再び千咲の方に視線を向けた。
ベッドに座る千咲の顔が少し赤くなっているように見える。
まだ身体に熱が残っていて、それで赤くなっているなら良い。けれどそれは限りなく0に近いだろう。桜鬼の話だと、消えた鬼絵巻は再び千咲の元に戻っているらしいが、邪鬼の気配が活発化している兆候はないからだ。
まさか、俺と桜鬼が来る前に二人に何かあったんやろうか?
千咲の恥ずかしそうな顔に、蓮条との近さ。
何か、近い。いや、何かというか、めっちゃ近い。
同じクラスで隣の席である自分でも、あんな近い距離になった事はない。その事実に櫻真は男としての敗北を感じてしまう。
そんな櫻真と蓮条の視線がぶつかる。
「何しに来たん?」
先に口を開いたのは蓮条だ。声音にはやや棘があり、さっきまでの弱気な気持ちが一気に引き締まる。
「いや、その、心配で……」
「えっ!」
櫻真の何気ない言葉に、何故か千咲が大きく反応を示して来た。櫻真が驚いて千咲の方を見ると、千咲が恥ずかしそうに目をぎゅっと瞑り、首を大きく横へと振る。
「あっ、いや、その気にせんといて。私、まだ熱があるみたいやわ。だから変なタイミングで声を上げてしもうて」
『熱? そんなはずはないはずじゃぞ? 櫻真も分かっておるじゃろ?』
桜鬼がそう言って、やや不満そうな表情を浮かべる。
『でも、顔赤いし……もしかしたら、ホンマに熱が残っとるんちゃう?』
『いや、あれは熱ではない。いや熱であっても、邪鬼や術式によるものではないぞ』
『えっ、じゃあ何?』
『それはのう、櫻真……恋煩いじゃ!』
女の感を働かせたと言わんばかりに、桜鬼が断言して言い切って来た。
「えっ、恋煩い!?」
桜鬼の言葉に驚いて、櫻真が思わず口に出してしまう。自分でもしまったと思い、口を塞いだ所でもう遅い。櫻真の視線の先に居る千咲は顔を真っ赤にして固まり、蓮条が怪訝そうな表情を浮かべている。
あかん。やってしもうた……。
いきなりこんなん大きい声で言うなんて、絶対、祥さんにも可笑しい奴だって思われた……。
櫻真が耳まで真っ赤にして、顔を俯かせる。もう穴があったら入りたい気分だ。しかしそんな感傷に櫻真が浸っていると、
「意味分からんこと言う奴は放っておくとして、祥はこれから帰るんやろ? 親とか迎えに気はるの?」
しれっとした表情の蓮条が千咲にそう訊ねている。
蓮条に訊ねられた千咲が、はっとして我に返ったように首を横へと振る。
「私の両親……共働きやから、迎えは来なくても平気だって断ったんよ」
「そうなんやな。なら俺と一緒に帰らへん? 帰り道で何かあったら大変やし」
予想外な蓮条の提案に、千咲が一瞬だけぽかんとした表情を浮かべ、すぐに顔を赤らめさせて来た。
「ちょっと、待って。一緒に帰るって……」
蓮条に顔を赤らめる千咲の様子に焦りながら、櫻真が二人の話に割り込む。
『櫻真、その意気じゃ。蓮条とあの娘を一緒に帰してはならぬ』
『やっぱり、桜鬼もそう思いはる?』
『当然じゃ。あの娘から再び消えた鬼絵巻の気配がする以上、きっと蓮条たちはそれを狙っておる』
『へ? 鬼絵巻……』
『そうじゃ。櫻真もそれであの娘と蓮条を一緒にさせぬようにしとったのじゃろ?』
『あ、いや……そうや。そうやな。うん』
自分が悉く墓穴を掘っている事に焦りながら、櫻真はこっちに敵視を向けてくる蓮条を見る。
「秘密の作戦会議は終わりはったん?」
「別に。そんなん、ちゃうわ」
強気な姿勢を崩さない蓮条に櫻真は気負けしそうになるのを必死に堪える。自分たちのやり取りが分からない千咲は、やや戸惑っている様子だ。
「まっ、ええわ。そっちに気を使う必要あらへんし。行こ?」
蓮条がそう言って、千咲の腕を掴む。
「えっ、でも蓮条君……䰠宮君は?」
「気にせんでええわ。俺としては二人きりの方がええねん」
な、名前呼び……!?
もうすでに千咲が蓮条を下の名前で呼んでいることに、櫻真は衝撃を受けた。こんな短時間で、下の名前を呼ぶほどになったという事だろうか? 進展が早すぎる。
はっ! もしかして、さっき桜鬼が言うてはった恋煩いって、祥さんが蓮条に対してって事やろうか? あかん!
「俺も! 俺も、一緒に帰ってもええかな?」
意を決して、櫻真が千咲にそう訊ねる。やや語尾が小さくなったのは、邪険な表情を浮かべられたら、どうしよう? という不安からだ。
しかし蓮条に腕を掴まれた千咲は、嫌な顔を一つせず、むしろ少し嬉しそうな顔で頷いてくれた。
そんな千咲とは対象的に、蓮条は露骨に嫌な顔を浮かべている。
『気を抜いてはならぬぞ、櫻真? あの娘との距離は未だ蓮条の方が近いからのう』
『うん、分かっとる』
桜鬼に頷いて、櫻真はベッド下に置いてある籠を見た。
「祥さん、良かったらやけど、荷物持とうか?」
「えっ、ええよ、ええよ。悪いし」
「病人なんやから気を使わんで。むしろ、俺には荷物持ちくらいしかできへんから」
櫻真がそう言って、千咲ににっこりと笑みを浮かべる。むしろ、人質ならぬ物質のようになってしまった事に、櫻真は内心で情けなさを感じるくらいだ。
『ほう、娘の荷物を持てば……無理なく娘の家まで行けるという手段じゃな? さすがは櫻真じゃ。よう考えておる』
自分の情けなさを救うような桜鬼の言葉に、櫻真は苦笑を零す。
保健室を出て、櫻真は千咲の荷物を持ち昇降口へと向かっていた。
『なぁ、桜鬼……。さっき祥さんから鬼絵巻の気配がするって言ってはったやろ? 昼間みたいに身体に取り付いてはるってこと?』
『いいや。さっきと気配の感じ方が違う。感覚的には鬼絵巻が取り付いている物を、あの娘が身に付けているという具合じゃの』
『そうなんや。でもその場合って、祥さんへの影響ってどうなるん?』
『影響は勿論あるぞ。今は出ていないが、放っておけば何かしらの影響が出てくるはずじゃ』
つまり、一刻も早く回収しなければならない事に変わりはないということだ。
櫻真は桜鬼の言葉を聞きながら下駄箱から靴を取り出し、ふと横を向いた。すると自分と同じように靴を取り出している千咲と目が合う。
意図せず目が合ってしまったため、櫻真は慌てて視線を逸らす。逸らしてしまってから、「あっ、今の感じ悪かったかも」という後悔が襲ってくる。
櫻真が再び千咲の方を見る。軽く様子窺う程度の気持ちだった。けれど、また意図せず千咲と目が合ってしまう。身体に痺れるような感覚の所為か、妙に気まずい。
緊張の所為で自分の顔が引き攣っていないか、心配になる。でもさっきも逸らして、また逸らすのも気が引ける。
ここは、何か話しかけへんと。
理性ではそう思うのに、なかなか言葉が思い浮かばない。千咲も手に靴を持ったまま、気まずそうにしている。
「あーー、櫻真! 帰りのHRをさぼってこんな所におる!」
「うわっ! 守! それに、雨宮と紅葉も!」
気まずい沈黙を続けていた櫻真と千咲の元にやってきたのは、男子テニス部の格好をした雨宮に、野球部姿の守、ラクロス部の格好をした紅葉が立っていた。
「櫻真、すぐに帰った方がいいで。鹿渡に嘘付いて教室に出て行ったんやから」
「むしろ、今から誤りに行った方がええんちゃう? 明日になったら、怒りが増すで?」
怒られる前に帰れ、という雨宮と対象的に紅葉が職員室に行くことを進めてきた。
櫻真は三人の言葉で、自分がトイレで教室を出たという事を思い出した。
「あーー、そうやった。忘れとった」
額に手を当てて当惑する。
「えっ、䰠宮君……そうやったん?」
「あっ、いや、その色々と訳ありで……」
驚きと少し嬉しそうな表情を浮かべた祥に顔を覗かれ、櫻真はさらに困惑する。
『櫻真、今はどこかに寄り道している場合ではないぞ! ほれ、今すぐこの娘と共にここを離れるのじゃ! 蓮条たちを出し抜くぞ!』
当惑する櫻真に桜鬼がやや急かすものだから、櫻真の頭の中はこんがらがる。蓮条はもうすでに靴に履き替え、昇降口の前に立っている。
「訳ありやったら、無理して一緒に帰らんでもええで?」
混乱していた櫻真をはっとさせたのは、こちらを向いてきた蓮条だ。挑発的な言葉に櫻真が怒りを感じ、相手を睨む。
「ごめん、紅葉……職員室に行くんは明日にするわ。行こう、祥さん」
ずっと向こうにやられっぱなしというわけには行かない。櫻真にもプライドはある。そのプライドに突き動かされるように、櫻真の身体は動き、千咲の腕を掴んでいた。
「おおっ、櫻真やるな」
「……修羅場やな」
「いや、ちょっと待って……あたしの心が修羅場やわ」
『むぅ、妾の眼前で他の女子の手を掴むなんて、本来ならば許容しかねるのだが……』
そんな四人の言葉を背中で受けながら、櫻真は敢えて気に留めないことにした。気に留めてしまえば、今のこの勢いが崩れてしまう。
「引く気はないって事やな……」
蓮条の横を通り過ぎたとき、蓮条が低い声で囁くように言葉を吐き捨てて来た。一瞬だけ足が止まりそうになる。しかし、止まらなかった。




