青二才への念押し
ーー鬼絵巻の近くには、ただの邪鬼だけでなく上位種の邪鬼も集まる。
その話自体は、紫陽からの話で聞き知っていた。
とはいえ、こんなにあっさりと、自分の前に現れるとは思ってもいなかった。
上位種の邪鬼を浄化するには、ただ護符を投げるだけでは駄目だ。邪鬼の動きを封じた上で浄化しなければいけない。
紫陽や隆盛ならば、十二神将の式鬼神を使役し、戦うだろう。
しかし佳はまだ十二神将レベルの式鬼神を召喚することは出来ていない。戦いはずっと厳しいだろう。
けれど、それでも……
「絶対に払って、䰠宮に追いつく」
諦めるわけには行かない。例え邪鬼と渡り合える従鬼や式鬼神がいなくても、自分はこの場を乗り越える。乗り越えてみる。
力が足りないのなら、頭を使うだけだ。
邪鬼にも急所は必ずある。そこを突けば、邪鬼の動きも止まるはずだ。
(考えろ、考えろ、考えろ……)
必死に目の前の邪鬼の急所が何処かを考える。邪気は執着性のある気性だ。だから、邪鬼が何に対して、執着しているのかが分かれば……奴を倒す糸口になるはずだ。
自身の急所について考える佳に気づいてか、今まで目立つ動きを見せなかった女が動きを見せてきた。
手に持った大鎌を携え、目にも止まらぬ速さで佳へと疾駆してきたのだ。
「速いっ!」
自分の眼前に振り下ろされる、鋭利な刃。守護の護符を取り出す暇もない。佳は結界を張るのを諦め、護符剣で大鎌の刃を受け止めた。
剣と鎌の刃から、細い火花が散る。
鎌の刃を受け止める手には力を込め、地面を踏みしめる足にも力を込める。
けれど、敵の膂力は凄まじく恐ろしい。術式で通常の時よりも肉体を強化しているとしても、分があるのは、邪鬼である女の方だ。
『ケケケ、ケケケ……』
人が出す物とは思えない笑い声で、女が佳を嘲る。その声は、卑しく部屋に入り込むすきま風のように、佳の背中を撫でてきた。
邪鬼に感情などはない。そのはずだ。
けれどこの上位種の邪気は、自分の事を弄び、楽しんでいるーー。
目の前の邪鬼に対して、畏怖の念が沸き起こる。感情よりも身体は素直だ。相手に対して抱いた畏怖が身体を強張らせてしまう。
その瞬間。邪鬼が先ほど以上の力を鎌へと込めてきた。元々、相手に傾きかけていた天秤が、一気に相手へ傾いた。
横へと吹っ飛ばされたのは、一瞬の出来事だった。ボールの様に地面を二、三回、跳ねてそのまま転がり倒れる。
一度跳ねた時に左肩が脱臼した。二度目に跳ねた時に、右腕の皮膚が裂け、血が吹き出した。
全身が痛い。巻き上がった土の臭いと自分から流れた血の臭いが、佳の鼻をつく。
精神を削る臭いだ。佳は思わず鼻で息を吸うのをやめた。ここで気持ちが折れてしまったら、自分に待つのは絶望的な死だ。
幸い、鎌で胴体を真っ二つにされず、あの鎌で切り落とされた部位は一つもない。
佳は身体を起こし、大きな呻き声を上げながら、脱臼した左肩を何とか元に戻す。余りの痛さに額から脂汗が出た。
『ケケケ、ケケケ……』
声が近い。
ハッとして、起こしていた上半身を佳が低く屈める。
するとそんな佳の頭上を鋭い鎌の刃が滑るように横切ってきた。
あともう少し反応するのが遅ければ、自分の首は体と離れていたに違いない。荒い息を吐き、佳は身体に走る痛みも忘れ、自分から少し離れた所に落ちていた護符剣の所まで走った。
自分の動きに、邪鬼が敏感に反応する。
再び大きな鎌が自分へと近づいてくる気配。
自分が相手の首を取るのが先か、相手が自分の首を取るのが先か。
迷っている暇はもうない。
遮二無二、佳が護符剣を傷だらけの右手で掴む。けれどその時には、邪鬼の刃が自分の首を狙い、迫ってきていた。
(こうなったら、腕を犠牲にしてでも……!)
佳がそんな覚悟を決め左腕を上げた瞬間、邪鬼の動きがピタリと止まった。いや、止まったというより、鎌が佳の首を斬ることを見えない何かに邪魔されているようだ。
多くは考えていられない。佳は護符剣を握りしめ、背後にいた女の首へと剣を突き立てた。
護符剣が女の首を貫くと、女がかつてない程苦しそうな奇声を上げてきた。
佳は女の異変にすぐに反応し、浄化の術式を詠唱した。
この護符剣は浄化の護符で作られた剣だ。術式さえ詠唱すれば、そのまま浄化の力を持つ剣となる。
佳が浄化の術式を唱え終えると、先ほどまでのしぶとさが嘘のように光に包まれ、その姿を消した。
恐ろしい邪鬼が居なくなった後に残るのは、静寂と自然の中から発せられる小さな声だ。
思い掛けない死闘に佳は、肩で息を吐き……地面に膝をついた。心臓は痛いくらいにドクドクと早鐘を打っている。
そんな佳に追い討ちを掛けるように、横の茂みがガサガサと音を立てて揺れてきた。
(まさかっ! 別の邪鬼がっ!?)
護符を取り出し、一気に警戒心を高めた佳だが、そんな少年の耳に聞き慣れた声が聞こえてきた。
「そんなに警戒しなくても良いよ。僕だから」
「紫陽さんっ!」
揺れた茂みの中から現れたのは、自分と同じく服や髪を濡らした紫陽だ。
タイミング良く現れた紫陽の姿に驚きつつ、佳が思い考えついた事を口にしていた。
「紫陽さんが……あの邪鬼の動きを止めはったんですか?」
自分の首を掻き切ろうとした鎌が止まった時の事を思い浮かべ、佳が紫陽に疑問を口にする。
けれどそんな自分に紫陽が小さく首を横に降ってきた。
「いいや。僕は何もしてないよ。邪鬼の気配を感じて、ここに来た時には……君が邪鬼を祓っている所だったからね」
「でもそしたら……何で邪鬼の動きが鈍くなったんやろ?」
あの時、邪鬼の動きが止まってくれたからこそ、佳は無事に浄化する事が出来た。
けれど逆に言えば、向こうの動きが止まってくれなければ死んでいたという事だ。今さら噛み締めた生死の境に、佳は顔を強張らせる。
「じゃあ、治療の間に詳しい事を聞かせて貰えるかな?」
押し黙っていた佳に紫陽が治癒の術式を掛け始めた。陽の気が込められた術式は、仄かに暖かい。傷口を意識すれば、先ほど頭の隅に追いやっていた痛みが蘇ってくる。
その痛みに顔を歪めながら、佳は先ほどの話を紫陽に語った。
「なるほどね。確かにその邪鬼は上位種だよ。僕の見解にはなるけれど、この島の伝承を模った個体なのかもしれない。竹生島には、多々美比古命が斬った浅井比売命の首から出来たという伝承もあるからね。本物の浅井比売命ではないにしろ、邪鬼が土地に染み付いた伝承を模様してもおかしくはない。だからこそ、君の首にも拘った」
紫陽に首元を指差され、佳は反射的に自分の首元に手を当てた。手に脈の動きが伝わってくる。
「逆に言えば、あの邪鬼には首以外の場所を斬る事は出来ないーー」
紫陽の言葉で、佳は「あっ」と小さい声を上げる。すると紫陽が真面目な顔で首肯してきた。
「佳君が左手を上げたから、それ以上鎌を動かせなくなったんだ。つまり、向こうからすると君の作戦勝ちって事だね」
茶目っ気を含んだ紫陽の言葉に、佳は苦笑を零す。
紫陽のようにすぐに邪鬼の正体に見当を立てられれば良かったが、自分のは単なる紛れだ。
「正直、式鬼神もなしに上位種の邪鬼を相手にするのは無謀だったと思うよ。幾ら急所を狙えば、倒せると言っても……そう簡単に急所を晒す奴はいないからね」
紫陽からの手当てを受けながら、佳は頭を俯かせた。先ほど出来た傷は、紫陽のおかげで殆どよくなっている。
自分が邪鬼と戦ったという残骸は、所々が破けた服にべったりついた土の汚れと少量の血痕くらいだ。しかしこれだけでも、自分がどれくらい危険な身に置かれていたのか、よく分かる。
「幸運やったとは思います。けど、それでもあの邪鬼から逃げたくなくて……」
あれほどの強さを持った邪鬼を放っておいたら、いつ人々に影響を及ぼすか分からない。
自分たち陰陽師が邪鬼を祓うのも大小あれ、人々に悪影響を与えるからだ。
それこそ、何らかの形で人の命を取ることも出来るだろう。
「生真面目な事は良いけれど、君は僕よりも青二才だ。それに、今回の目的は邪鬼を祓うことではなく、鬼絵巻を彼らより先に手に入れる事だ」
分かるね? と最後に念押しされ、佳は小さく頷いた。




