上位種の邪鬼
佳は、ずぶ濡れの状態で何とか竹生島へと辿り着いていた。
佳がいるのは竹生島の港から少し離れた所に空いた、小さい洞窟の様に窪んだ穴だ。
水を多く含んだ服は、肌にくっつきずっしりと重い。幸いなのは、日が落ちた夜でも気温が高いということだ。
佳はその重い服に顔を顰めながら、暗い洞窟内をただひたすらに歩いて行く。風が背中から吹き抜けるという事は、どこかに抜け穴があるに違いない。
そしてその読み通り、佳は木々が鬱蒼と茂る林の中へと出た。
林の中とはいえ、すぐ背後には湖が広がっており、佳が歩いてきた洞窟は本当にただの短い抜け穴だったのだろう。
「……他の二人を探さへんと」
外に出られたことに安堵し、佳は辺りを見回す。
辺りはしんと静まりかえり、聞こえるのは野鳥の鳴き声や、揺蕩う水の音だけだ。人の姿は見えない。
佳は急いで点門を開き、一枚の護符を取り出す。
「陽連の法の下、我が指し示す二者の行方を探せ。急急如律令」
詠唱し護符を湖面へと投げる。
佳が投擲した護符が湖面に落ちる寸前に、護符が青い炎を上げて燃え始めた。護符の灰が水中へと消える。それから水面に変化が起きた。
渦が巻き起こり、その中から白い桃の花が咲き、そのまま散った。
それを見てから、佳はもう一枚の護符を同じように地面へと護符を投げる。
すると先ほどのように護符が燃えて、灰となり、そこから赤い桃の花が咲いた。今度は枯れず、そのまま咲き続けている。
つまり、逸れた二名はこの島にいるということだ。
(溺れたりはしてへんみたいやな……)
二人の所在が自分と同じくこの島にあると知り、佳は一先ず安堵した。
「でも、何でいきなり……渦潮が?」
激しい干満などがあるようには思えないこの場所で、佳たちが乗っていた船を飲み込むほどの渦潮が起こるとは思えない。
人為的なものだとは思う。けれど、誰がそれを起こしたのか、犯人像が浮かんでこない。
予想外に体力を使ってしまったのもある。けれどそれ以上に佳の中で動揺していた。
(まさか昨日と同じく鬼絵巻が……?)
けれど、それ以外で先ほど起きた事を説明することができない。
頭を振りながら、佳は船上であった事を思い返した。
佳たちは、船乗り場から船に乗り北東に進んでいた。竹生島が見える頃までは何事もなく、ただ清々しいほどの夜風に吹かれていただけだ。
満月ということもあってか、船上はとても明るく、灯りがなくても隆盛や船を操縦する紫陽の顔が見えるほとだった。
けれど、竹生島にあと一〇メートルを切るか、切らないかくらいで異変は起きた。
最初に異変に気付いたのは、船を操縦していた紫陽だ。
「何か嫌な気配がする! 下からだっ!」
叫び声が聞こえたのと同時に、今まで安全な乗り物だった船が大きく揺れ始めた。
佳や隆盛の口からも、情けない声が漏れ出す。
しかし、何かの術式を掛ける余裕すらなく、ただ船から空よりも暗い水の中へ引きずり込まれないように、船にしがみ付くのに必死だった。
船は水中の中にいる牛鬼が大口を開いて、自分たちを喰らおうとしている。そんな感覚にすらなった。
そして強ちそれも間違いでもなかったのだ。
一瞬の出来事だった。体験した佳ですら夢だったのでは? と考えてしまう程の。
揺れていた船の底に、ぽっかりと大穴が空いたのだ。巨大な渦潮の中心、その上に船は置かれていた。浮力を失った船体は重力に引き摺られるように湖の下へと落ちていく。
そして落ちた船に大量の水が覆いかぶさる様に頭上に降ってきたのだ。
船に捕まっていた佳たちは、有無も言えずその水の力に負けた。負けたままその流れに巻かれたのだ。
気絶した自分が奇跡的に竹生島に辿り着けたのは、偶然かそれもと必然か?
考えを巡らせた佳は自然と眉根を寄せていた。
不幸中の幸いだったのは、自分と同じようにあの事態に巻き込まれた二人が、この島に辿り付いている事だ。
あとは二人が自分のように、どこかで起きてくれている事を祈るしかない。
なにせ……探すより先に倒さねばならない刺客が現れたからだ。
幽鬼のように現れたのは、薄暗い顔の女だ。女は虫の垂衣を被り、口元には薄笑いを浮かべている。
顔がよく見えずとも、すぐにこの世のものではない事は分かった。
佳は護符を構えて女と対峙する。佳が女へと攻撃を放つため術式を詠唱しようとした瞬間、女の姿が煙のように消えた。
「何処に行きよった?」
慌てて辺りを見回そうとした佳の首元に嫌な気配を感じ、守護の結界を張る。張った結界に何かが衝突したような、甲高い音が響き渡る。
結界に衝突したのは、弓形の曲線を描く黒い大鎌の穂先だ。
そして自分の背後には、一瞬で姿を消した女人の姿がある。
佳の背筋を一気に冷たい悪寒が駆け抜けてきた。危険を知らせるように心臓が早くなり、手の先が微かに震えている。
(このままやと、駄目や)
震える意識を叱咤し、佳は握り拳を作った。幸いなのは、一撃を食らわせてきた女がスーッと後ろに体を後退させ、追撃してこなかった事だ。
けれど、女は佳から目を逸らさず、ずっとこちらを見据えている。
あの一撃だけで終わりだとは思わない。
突如現れた女からは、敵意も殺意も悪意も感じ取れない。けれど深く考えれば、逆に恐ろしく、厄介だとも思う。
相手に何の意図もないのだとしたら、それは無差別行動にしか過ぎず、放っておく事などできないからだ。
点門を開き、数枚の護符を取り出し詠唱する。
「呪禁の法の下、霊符よ、我を阻む悪霊を祓う剣となれ。急急如律令!」
詠唱が完了すると、手に持っていた護符が剣の形を変化した。剣と言っても、本物の刃になるわけではない。護符が両刃剣の形を象っているだけだ。
しかし、その切れ味は本物の剣と同じだ。
この術式は陰陽院に来てから紫陽に教えられたものだ。簡易の式鬼神を使い、練習はしていた。しかし修練以外の時に使用するのは今が初めてだ。
これは、練習ではい。実戦である。
静かに深呼吸をし、佳は自分自身にそう云いきかせた。
両手で護符剣を構えながら、佳は悪霊らしき女との位置を変える。横に移動し、相手の隙を観察する。ただ黙々とこちらを睨め付けるだけの相手には隙など幾らでもあった。
これは誘き寄せか、それとも本当に隙だらけなのか?
考えが混迷する。けれどこのままの状態を続けるわけにも行かない。先方の思考が読めない以上、またいつ姿を消し、こちらに矛を向けてくるか読めないからだ。
(迷うな、ただただ相手を倒す事だけを)
一意専心の気持ちで、佳は女へと肉薄した。自身へ近づいてくる佳に対し、女が再び口元に弧を描いてきた。
佳は上段の構えで振り上げた剣を、女の垂衣を切り裂くように真下に振り下ろす。
自分に振り下ろされる剣を見ても、女はその場を動こうとはしない。そして剣に石でも当たったかのような感触が伝わる。それは女の頭部の硬さだ。
それと同時に女が頭に被っていた笠が左右の地面に落ちる。
佳が振り下ろした護符剣は、女を文字通り一刀両断にしていた。
身体を真二つに切られた女が煙のように消える。さっきまで手に伝わっていた感触も嘘かのようだ。
「倒せた……?」
あまりの呆気なさに佳が肩透かしを食う。けれど、何となく腑に落ちない。
そしてその佳の考えは当を得ていた。
少し屈み気味だった身体を元に戻し、佳が後ろに振り返る。するとそこには、先ほど斬ったばかりの女が立っていた。
地面に落ちたはずの笠も綺麗に治り、女の頭に乗っている。
(何なんや?)
この悪霊は? いや、もしかしたら悪霊ではなく邪鬼の可能性もある。
もしそうなら、ただ剣で斬っただけではなく、浄化の術式を組まなければいけないだろう。
すぐに佳は浄化の護符を取り出し、邪鬼である女へと放り投げる。
「呪禁の法の下、この地に根を張る邪鬼を払え。急急如律令!」
内包された声聞力の力が溢れ出し、女を浄化せんと働く。
するとそんな護符を見て、女が再び手に黒い大鎌を手にしていた。女は躊躇う素振りも恐れる素振りもなく、大鎌を横薙ぎに走らせた。
浄化の護符が、奇しくも先ほどの笠の様に、あっさりと切り捨てられる。
普段、佳が浄化している邪鬼たちならば、こうはならない。けれど、浄化の護符を斬ったということは、浄化の力を恐れたということだ。
つまりこの女は、やはり悪霊ではなく邪鬼なのだ。しかも邪の力が他のより強い上位種だろう。
(これも、鬼絵巻の影響なんやな……)
初めて自分の目の前に現れた、上位種の邪気に佳は下で唇を舐めた。




