現れた鬼絵巻
やはりか!
鬼兎火の姿を見た桜鬼が、自分の直感に満足しながら鬼兎火へと近づく。
校庭にいる櫻真は、鬼兎火の放つ気配に気付いているものの、いつの間にか張られた結界によって、先程の場所から動けない様子だ。意識の疎通さえも出来ないようになっている。
結界によって、自分と櫻真は完全に遮断されてしまっている。結界を解きたいが、目の前にいる鬼兎火がそれをさせない。
鬼兎火はもうすでに口許を揺らし、術式の詠唱し始めているからだ。桜鬼の鼓動が強く鳴った。鬼兎火が得意とするのは火。その炎で櫻真が巻かれ、焼かれる事など……そんな恐ろしいことなどあってはならない!
鬼兎火たちがどんな細工をしたにしろ、櫻真の身だけは絶対に守る。
桜鬼は、すぐに自分も術の詠唱を始めた。櫻真と意識の疎通が取れない以上、強い威力の攻撃は使えない。
けれど、今は威力などどうでもいい。
桜鬼の詠唱が完了する。
桜鬼の周りで、空気の渦が無数に生じる。桜鬼が得意とするのは風。鬼兎火が得意とするのは火。相性としては分が悪い。
けれど、不意打ちを狙えばたとえ相性が悪くても勝ち目がないわけではない。狙うは鬼兎火が操る火ではなく、鬼兎火本体だ。
桜鬼が生み出した風を弾へ変化させる。鬼兎火がこちらの気配に気付く。けれど遅い。もうすでに風弾は、鬼兎火を襲撃し鬼兎火がその衝撃で後方へと弾き飛ばされる。
おかげで、鬼兎火の術を防ぐ事に成功した。
「桜鬼……」
いつもは温厚な顔を崩さない鬼兎火の顔が憎々しげな物へと変わる。桜鬼はそんな鬼兎火からの睨みを真正面で受け、そして覇気を纏い睨み返す。
「櫻真に手は出させぬぞ、鬼兎火」
「あら、それならとんだ杞憂よ? 私の狙いは貴女の主ではないっ!」
鬼兎火が右手を突き出し、先程とは別の術式を詠唱し術を放ってきた。
櫻真は、校庭のグランドから、校舎前で対峙する二人の従鬼を目にしていた。異変に気付いたのは、桜鬼ではない別の従鬼が術を使う前、このグランドを囲む結界が張られた時だ。そしてその結界が張られるのと同時に、桜鬼ではない別の従鬼が現れたのだ。
あの従鬼はきっと、蓮条に使役する従鬼や。確か……第五従鬼の鬼兎火。
「蓮条たちが、この結界を……」
事実を口に出して櫻真は怖いような残念なような、複雑な気持ちになった。
グランド内にいる多数の生徒は、結界が張られた事にも気付かずにサッカーを続けている。けれど、その中で櫻真の方を捉えている視線があった。
フォワードの位置にいた祝部佳だ。
佳は、透過している鬼兎火の姿は見えていないだろうが、グランドに張られた結界には気付いたのだろう。
櫻真はそんな佳を確認しながら、結界の点を探す。結界には、大まかに術者自らが起点となって張られる物と、護符を起点にする物がある。そして、今回使われたのは後者だろう。
結界はグランドを囲むように、長方形に組まれている。普通、護符一枚か術者を起点とした結界ならば円形の形だが、この結界は長方形。これを踏まえて考えると、この結界の起点は四つの護符から形成されているのが分かる。
護符は、櫻真たち術者にとって便利な媒体だ。事前に自分の声聞力を込めた護符は、設置して起動式を念じれば、込めた力を自然に発動する自動装置となるからだ。
わざわざ、この結界に櫻真を閉じ込めたということは、今この時に何かをしようとしている合図だ。
きっと、蓮条たちは入念に自分たちの事を調べ、護符を配置し、この時を待っていたのだろう。
蓮条たち、何をする気なんやろ?
櫻真は先の読めない相手に臍を噛む。
するとそんな櫻真の視界に、慌てた様子で外へとやってきた桜鬼の姿が映る。
「桜鬼っ!」
視線の先にいる桜鬼の名を呼ぶ。
けれど、桜鬼に自分の声は届いていない。意識を集中させて、もう一度桜鬼の名前を呼んでみる。だが結果は同じだった。
きっと、このグランドに張られている結界が障害となっているのだろう。
「……はよ、この結界を何とかせんと」
焦る気持ちを押し込めて、櫻真が結界の起点となっている護符を探す。結界の起点はすぐに見つかった。一つは校舎に面した部室棟の壁、フェンス、木の幹、裏門だ。
あの四つの護符を無効化すれば……
櫻真が術式の無効化にするための術式を組んでいると……
「櫻真っ! ボール、そっちに行きはったで!」
雨宮の言葉と共に、櫻真の方へ転がるボールとそれを追う、敵チームの生徒一人が走って向かってくる。
こんな時にっ!
焦れったさに、櫻真は歯噛みしサッカーボールと向かってくる生徒を見る。
この状況では仕方ない。
「木行の法の下、軟風よ、万事の物を遠方へと誘え」
小声で櫻真が簡易な術式を詠唱する。すると、サッカーボールをそよ風が巻き取るように囲い、相手の陣地、ゴール際まで転がり飛ばす。
風によって、いきなり逆方向に飛ばされたボールに櫻真たちの方へと走っていた生徒たちが慌てた様子で、方向転換をし始める。
その様子に櫻真は、ほっと胸を撫で下ろす。けれど、そんな櫻真の元に、ボールを追わなければいけないはずの佳が近寄って来た。
「䰠宮、この結界は……」
「俺にも分からん。けど、おかしな事が起きてはるのは分かる。なら、俺はこの結界を破るだけや」
「そうか……なら、俺も手伝う。一人でやるより二人でやった方が時間を掛けずに済むやろ?」
上手い具合に事実をはぐらかした櫻真に、佳が頷き協力を申し出て来た。
そんな佳の言葉に、若干の後ろめたさを感じながら櫻真は頷き返した。
「なっ、なに!?」
紅く燃える炎は、桜鬼の横を擦り抜け、一直線に標的に向かって広がって行く。鬼兎火の炎は、鬼兎火の思うがまま。つまり鬼兎火の意識一つで万物のものを焼くことも、特定の物だけを焼くことも可能だ。
そして、鬼兎火の放つ炎が地面を焼いていない事を見るに、特定物を狙った攻撃に違いない。
桜鬼は急いで奔る炎を追う。その炎の穂先が向かう所に櫻真は……いない。居るのは同じ格好の服を来た女子たちだけだ。
けれど、鬼兎火が何の意味もなく攻撃を放つとは思えない。つまり、そこから導き出せる答えは……
「まさかっ!」
「ようやく、気付いたのね?」
鬼兎火が驚く自分を揶揄するような笑みを浮かべて来た。その笑みは肯定。桜鬼の脳裏に掠めた答えに頷いて来たのだ。
炎の向かう所に、鬼絵巻がある。
咄嗟に桜鬼も意識を集中させた。微かに肌をピリつかせる感触。微弱でありながら、これは確かに自分たちが探し求める鬼絵巻の気配だ。
しかし、この気配からすると、ある程度の場所を特定して意識を集中させなければ気付かない程のものだ。
到底、鬼兎火がすぐに察知できたとは思えない。
炎が蛇のように、一人の女子へと絡み付いた。絡み付かれた女子に鬼兎火が放った炎を視認することはできない。
しかし、それでも身体に異変は現れる。
「うっ、あぁ……ッ!」
炎に巻き付かれた女子が自分を保護するように、両腕で肩を抱きながらその場で膝を折る。背中が小刻みに揺れ、頭が地面の方に垂れさせている。
そして、苦しむ女子の身体からは邪鬼が現れ、鬼兎火の術から逃れようと踠き暴れている。その負荷が、女子に必要以上の苦しみを与えているのだ。
周りの女子も苦しみ出した女子を見て、慌ただしく騒ぎ始めた。
鬼兎火の放った炎も獲物をあぶり出すように火力を強め、女子を覆っている。
「祥さんっ! しっかりして! 先生っ!」
横にいた女子が、身を丸める祥と呼ばれる女子の背中に手を置きながら叫ぶ。叫ぶ声に呼応したかのように、グランドに張られていた結界が一気に決壊した。
「櫻真かっ!」
桜鬼がグランドの方へと視線を移す。すると女子の声に反応した、先生と呼ばれた人物が、慌てた顔で走り寄って来た。それに続いて何人かの男子も走り寄ってくる。その中には心配げな表情の櫻真もいる。そしてすぐに櫻真の視線が自分たちへと注がれた。桜鬼と鬼兎火を見て、混乱している様子だ。
けれど、桜鬼が櫻真に今の状況を説明する間もなく、状況が進んで行く。
威力をあげた鬼兎火の炎は、祥の身体を蝕んでいた。それを知らせるように祥は喉元に手を当て苦しんでいる。
「鬼兎火! このままではあの者が持たぬかもしれぬ! 術を解けっ!」
「断るわ。ここで術を解いたら鬼絵巻は現れないもの」
鬼兎火の言葉には頑さがあった。そしてそれは鬼絵巻を欲する従鬼としては、当然の言葉だ。
そして、その鬼兎火の気配の後ろに別の気配も感じる。
霊的交感で繋がった、蓮条の気配だ。その瞬間、祥の身体から邪鬼の気配が薄まり、変わりに紅色の絵巻が宙に浮かんで現れた。
炎の蛇が瞬時に、鬼絵巻に巻き付こうと動く。
あれをこのまま取らせるわけには、行かない!
桜鬼が術式の詠唱を始める。風を天女が纏う羽衣へと変え、鬼絵巻を包み込もうと動かす。
けれど、初めに出現した鬼絵巻は、鬼兎火の炎と桜鬼の風を擦り抜け、どこかへと姿を消そうとしている。この状態では鬼絵巻は回収出来ない。鬼兎火も悔しみを宿した瞳で鬼絵巻を見ている。
不味い。このまま存在を消されたら、また別の場所へと身を顰められてしまう。
そうなれば、また捜索に時間がかかる。焦燥感が桜鬼を襲う。
『……桜鬼、この状況は一体、どうなってはるん?』
驚いた様子の櫻真が、自分と対峙するように立つ鬼兎火と、櫻真の頭上で半透明になっている鬼絵巻を見て来た。
『櫻真の頭上にあるのが鬼絵巻じゃ。その女子に憑いておった。もう今の状態ではもう収集することは不可能じゃが……櫻真、あの鬼絵巻の気配を覚えるのじゃ。そうすれば、次に見つける時に楽になる』
桜鬼がやや早口で櫻真に告げる。
しかし、櫻真はそんな桜鬼の言葉を聞いてはいなかった。
『それよりも、祥さんを何とかせんと』
『何を言っておる? 今は鬼絵巻の気配を……』
『駄目や!』
櫻真の強い語調に、桜鬼が目を見張る。すると櫻真も少しはっとして、気まずそうに自分の方に視線を向けて来た。
頭上にあった鬼絵巻の姿が完全に消える。
桜鬼は空虚になった場所を見て、それから櫻真の方へと視線を向け、そのまま櫻真の元へと近寄った。
櫻真は自分が怒るとでも思ったのか、硬い表情のまま視線を俯かせている。櫻真の口からは何の言葉も出てこない。
『……案ずるでない、櫻真。この女子の中にある邪鬼は今すぐに抜く。さすれば。この者もすぐに体調は戻り、意識も回復するであろう。鬼絵巻は強い力がある。それ故に邪鬼が集まり易いのじゃ。』
『そうだったんやな。だから邪鬼の気配が……。でも祥さんに大事がなくて良かった』
どこかホッとしたような櫻真の顔に桜鬼は微苦笑し、意識を失ったまま担架に乗せられている祥へと視線を向けた。
そして優しく謳うように、桜鬼が術式を詠唱する。
『汝、呪禁の法の下、その身を浄化せよ。急急如律令』
するとそよ風が横たわる千咲の身体を包み込む。風に包まれた祥の表情から苦悶が消え、顔に生気が戻る。
『後は、これでこの者の回復を待つだけじゃ』
桜鬼が横にいた櫻真にそう言うと、櫻真がぎこちない表情で頷いて来た。
これも、主が望むことじゃ……。
そう思いながら、桜鬼は鬼兎火が立っていた場所を一瞥した。鬼兎火の姿はやはりどこかへ消えていた。