鬼兎火の目的
今のところ戦う気がないというのは、本当だったらしい。
桜鬼がほっと胸を撫で下ろした所で、途切れていた櫻真との霊的交感が繋がった。
『桜鬼、今なにしてはる? まさか戦ってはるとか……?』
『櫻真、その心配なら不要じゃ。妾と鬼兎火は言葉を少し交えただけで、戦いはしておらぬ』
『あっ、ホンマに……。それなら良かったわ』
声音だけでも櫻真が心底安堵したのが分かる。櫻真の不安が治まったのは良かったが、幾つか櫻真に伝える事はある。
『それでの、今はもう鬼兎火と話してはおらぬ。妾一人じゃ。でも幾つかの報せはあるぞ』
『報せ? どんな?』
『まずは向こうには協力者がいるらしくての……』
向こうに自分たちの情報を流した者がいるという事を話した。
『誰かが俺等の情報を? でも誰が?』
『怪しいのは、葵という奴じゃが……』
自分たちに鬼兎火たちの事を話して来たのも葵だが、蓮条たちにも情報を与えていないという理由にはならない。
そもそも、葵が自分たちに接触してきた理由も曖昧なものだ。
『確かに。姉さんだったらあり得るかもしれん』
『こうなったら、次に奴が妾たちの前に現れた時に、問い質すしかあるまい』
『そうやな。……あとは、何かある?』
『う、うむ……そうじゃな、あるといえばある。ないといえばない』
櫻真に怒られたくないという気持ちと、主である櫻真に聢と全ての事を伝えなくてはという忠誠心が桜鬼の中で鬩ぎ合っている。
『つまり、あるってこと?』
『うっ……』
『桜鬼って隠し事が出来ないタイプなんやなぁ』
『何を言うておる? 妾とて秘め事の一つや二つ出来るのじゃ』
『じゃあ、今もしてはるの?』
『勿論じゃ!』
『どんな?』
『例えば、妾がこの学校に来ている理由とか』
『えっ、それ相手に話したらマズい奴やない?』
驚き混じりの櫻真に聞き返され、桜鬼は本日二回目の失態を演じてしまったのに気付き、愕然となる。
『櫻真……』
『なに?』
『妾はやはり、隠し事に向かぬのかもしれん……』
桜鬼は、櫻真にそう良いながらその場でがっくりと項垂れる。櫻真は必死に『誰にでも心配はあるから』と優しい言葉を掛けてくれているが、このまま櫻真にカッコ悪い所を見せ続けるわけにもいかない。
ここは何かで汚名返上せねば。
『櫻真! これから妾は敵情視察に出向く! そして必ずや櫻真に役立つ報せを持ってくるぞ! それまで待っておれ!』
『えっ、桜鬼! こんなすぐに!?』
驚く櫻真の言葉を訊きながら、桜鬼は右手で握り拳を作り、顔を上げる。
本番はこれからじゃ!
桜鬼は、ほんまに大丈夫やろうか?
櫻真は、桜鬼との霊的交感を切ってから引き続き授業を受けていた。今は体育の授業でサッカーをしていた。
といっても、櫻真はゴールキーパーの前を守るディフェンダー側で、今は敵陣営の方にボールが回っている。そのため、横に居る雨宮と共に櫻真はただ少し遠くにいる味方を見守っているだけだ。
とはいえ、櫻真が気を抜いて桜鬼の状況を確認しようとすれば、マーフィーの法則かの如く、ボールが櫻真たちの方へとやってくるのだ。
こんな調子だと、桜鬼との連絡が取れへん。
自分の陣営にやってきたボールを必死に向こうの陣地に押し返そうとしている雨宮、友人を見ながら櫻真は溜息を吐いた。
すると、その瞬間に自分に向けられている視線に気づき、顔を校舎側へと向ける。するとそこには、男子のサッカーを見守る女子が立っており、その中に千咲の姿もある。櫻真と視線がぶつかった。
視線が合った瞬間、櫻真は反射的に視線を逸らす。見られていたかもしれないという事実に、嬉しさと緊張が一気に胸に込み上げて来た。
あかん、ずっと突っ立ったままの所なんて見せられん。
けれど、ボールはそれこそ既に櫻真たちのコートから敵のコートの方へと飛ばされてしまっている。
やっぱり、現実はそう甘くない。でも、まだこの試合が終わったわけではない。敵の生徒がこっちに攻め込んで来る可能性はまだ十分にある。
よし。そこでちゃんと活躍せんと。
櫻真は微かに赤く染まった顔で、センター辺りで転がされているボールに意識を集中させた。
呑気なもんやな。
窓側の席で蓮条はグランドにいる櫻真に冷めた視線を送っていた。自分が見ていた気配にも気付かず、今の状況にも気付かず、周りの生徒と一緒にサッカーを楽しんでいる。
でも、それは蓮条にとって好都合だ。
鬼兎火からの連絡によれば、まだ櫻真たちはここにある鬼絵巻の存在に気付いていない。それこそ、自分の存在にばかり集中し、何故自分たちがここにやってきたのか? という所にまで頭が働いていないらしい。
「アホらしい……」
ぼそりと呟く蓮条。ただその声は小さく、周りの生徒の耳にまで届いていない。
けれど、霊的交感で繋がっていた鬼兎火の耳には届いていた。
『それは、何に対して?』
『そうなん、あいつ等に対してに決まっとるやろ。他に誰が居はる?』
『なら良いんだけど。蓮条、一度やると決めたなら、自分の行動を卑下しないようにね』
『……ならんわ。それで鬼兎火の方は順調に行ってはる?』
『今、東側の方から順に気配を確認しているわ。今のところ、察知はしてないけれど、それも時間の問題ね、本当にあるかどうかを確認できるのは…………』
鬼兎火が少し含ませるような言い方をしてきた。
おそらく、まだ信じていないのだ。自分たちに情報を与えて来た菖蒲のことを。
しかし、蓮条はそれを責める気にはならない。菖蒲の事は凄く尊敬している。けれどこの当主争いをしている時に限って言えば、痼りがある。自分にも過った不安と、結局この戦いで自分の味方は鬼兎火しかいないという認識があるからだ。
とはいえ、警戒心だけを強くし動けないままでは意味がない。それに……自分よりも先に他の誰かが櫻真を負かすという事態だけは裂けたい。
誰かに負けて、挫けた櫻真を相手にしたって意味はないのだ。
そしてその事態を避ける為には、誰よりも先に櫻真と接触する必要があった。
『時間の問題ってことは、あった場合は向こうよりも先に見つけらるんやろ?』
『勿論よ。さっき向こうの様子をそれとなく調べた限りだとね。桜鬼はここにも繁栄には来てないみたい。けど、向こうに私たちの情報を流した人物がいるみたいよ』
『菖蒲さんが言うてはった桔梗かな?』
『残念ながら、そこまでは探れなかったわ。幾ら桜鬼が少し抜けているとしても、そこは口を割らないでしょうし』
『ふーん、まぁ、ええわ。それは追々調べるとして、あっちが大事な物に気付けてないんやったら、好都合やし。ほな、後の事は頼んだで。察知したらすぐに俺に言うやで?』
『御意』
蓮条がそっと鬼兎火との霊的交感を切る。
切った瞬間に、教壇になっている教師の声が聞こえ、外から聞こえる生徒たちの声も聞こえ始めた。
視線をグランドに移す。
すると、その時……櫻真が運良く自分の前にやってきたボールを相手コートの方へと蹴り上げている所だった。表情は小さくて見えない。けれどボールを蹴り返した後に、両方の腕で小さくガッツポーズをしていた。
唯々、呑気にサッカーだけを楽しんでいる。
結局、俺だけか……。
櫻真から視線を外した蓮条は、憎々しげに奥歯を噛み締めた。
まぁ、ええわ。俺は俺で動くだけや。
そう思いながら、蓮条は前日に用意していた護符の術式を起動させた。
桜鬼は姿を消し、そっと廊下の方から窓側の席に座る蓮条の姿を捉えていた。透過状態をした従鬼は、例え声聞力があったとしても、その姿を視る事はできない。しかし、従鬼と契約した主は別だ。そして蓮条は鬼兎火と契約している。だから、もう少し接近したいという気持ちを抑えて、桜鬼は少し離れた廊下から蓮条を見るしかない。廊下から眺める部屋の様子は、江戸時代の寺子屋のようだ。
白い板の上に、黒い字で横並びの南蛮文字のような物が書かれている。
うむ、櫻真たちはここで南蛮文字やら和算などを学んでおるようじゃのう……。
素直に勉学に励む生徒たちに感心しながら、桜鬼は蓮条へと再び視線を向けた。幸い、この場に鬼兎火の気配はない。
迷っている……?
いや、従鬼の中でも聡明な鬼兎火が道に迷っているというのは考え難い。となると、警戒に当たっているか、また別の場所で待機しているか……
うーーーーむ。なんとも冴えん。冴えぬぞ。
頭の中に靄があり、頭を振ってもなかなか取れない。けれどその靄を払拭した方が良い気がする。確信はないが直感が自分にそう告げている。
考えるのじゃ。考えて、考えて……
両手で頭を押さえ込みながら、考える。何かあるはずだ。けれどその答えは薄い靄に
隠され、はっきりとその姿を捉えることができない。
しかし自分の直感が桜鬼の気を焦らせてくる。
ああ、櫻真の身に何も起きねば良いが……。
焦りでやや涙目になった桜鬼の瞳に、高く上がった鞠のような物が見えた。
蹴鞠……? まさか、平安時代の頃の遊びが色々な物が変貌した現世まで残っているとは、感慨深いものだ……。
感慨に浸りながら、薄汚れた鞠を見る。
櫻真も蹴鞠……するのかのう? ふとそんな事を考えた瞬間、桜鬼の頭の中にあった靄が一気に晴れた。
もしかすると、鬼兎火の奴は櫻真の所へ……!
はっとした桜鬼は、すぐさま櫻真の気配がする方、校庭へと一目散に向かう。そしてそこには案の定、鬼兎火の姿もあった。




