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能楽師として陰陽師として

皆様に少しでも楽しんで頂けたら、幸いです。

 桜は美しい。

 けれど、その美しさは儚く散るために存在している。そして散るという運命があるからこそ、人はその儚さに美しさを感じ、魅せられる。

 しかし、一人の男がその美しさに異議を唱えた。

 散り去る運命が美しいとは限らない。一瞬の美しさなど欲しくはない。もしこの言葉を否定するのであれば、私は一瞬の美しさではなく、醜悪な久遠を望む、と。

 そんな男の言の葉を、一人の女が聞いていた。

 女は小さく哄笑を漏らす。

 醜悪な久遠を望むのなら、男の悲劇を絵巻にでも書き綴ってやろう。

 さすれば、この儚い望みは遠い未来まで続くのだから。

 たとえ、それが歪み呪いになったとしても。



 床板を勢いよく踏み込んだ。

 床を踏み込んだ足の音が静寂さに斬り込みを入れる。それに続けと囃子方の笛が鳴り、掛け声と共に小太鼓が空気を震わせた。

 櫻真がその空気の震えを感じながら、踏み込んだ姿勢からすっと立ち、右手の扇を正面に出す。

 三足という動作で後退しながら、両腕を広げる。

 着物の裾が滑らかに開き、それからシオリの動作で涙を流した。

 観客席から、静かな威圧が放たれる。その威圧は容赦なく䰠(じんぐう)櫻真(ようま)へと押し寄せて来た。ゆっくりと唾を飲み込む。

 落ち着け、落ち着くしかない。

 これまでの稽古の成果を、ただ目の前の観客にぶつけるように。この舞台のシテ役となる、桜姫(さくらひめ)の悲しみを表現する。

 櫻真は細い息を吐き出し、呂中干(りょちゅうかん)の舞を舞台の上で踊り続けた。



 講演が終わり、櫻真は控え室で全身に掻いた汗をタオルで拭っていた。疲労感と安息感が一気に身体から抜け落ちる。


 気持ちが一気に軽くなった。


 櫻真は、能楽師と陰陽師の宗家である䰠宮家の生まれで、小さい頃からそれらの稽古を行っている。


 そのため、もう何度も観客を前に舞台は踏んでいる。けれどそれはシテ役やワキ役などではなくツレ役や子方役での話だ。まさか、こんな形で自分がシテ役をする事になるとは思いも寄らなかった。


 何で、いきなりシテ役なんて……


 櫻真は控え室にあった椅子に座りながら、一ヶ月ほど前の事をぼんやりと思い出していた。


 今から一ヶ月前、櫻真が中学二年に進級したばかりの四月。今回の舞台のシテ役だった䰠宮桔梗(ききょう)や五人囃子の門下生と共に櫻真が稽古をしていると、

「櫻真たち、その稽古一旦、ストップ。やめや」

 師範でもあり実の父親である䰠宮浅葱(じんぐうあさぎ)が櫻真たちの稽古を止めてきた。


 いきなり、何やろう?


 先程の稽古で、おかしな点はなかったと思う。第一、もしそういう点があれば、浅葱は稽古を止めさせずに、駄目出しを口にするだけのはずだ。


 稽古中止の意図が分からず、櫻真が小首を傾げさせる。それは他の門下の人も同じで、櫻真と似たり寄ったりの表情を浮かべていた。


 ただ、櫻真の兄弟子でもあり親戚の桔梗だけは平然としていた。普段、柔和な表情の桔梗は、櫻真にとって昔から知る兄というような人で、今は市内の大学に通いながら舞台に立っている。


「今、君らが稽古してはる『墨染桜』の講演についてなんやけど、確か桔梗がシテ役で入ってはるやろ?」


「入ってますね。それが何か?」


「それな、桔梗じゃなくて櫻真に変えるわ。変更〜〜」


 ケロッとした表情の浅葱の言葉に、櫻真は驚きのあまり言葉を失ってしまう。

 胸中では、疑問と驚きがぐるぐると渦巻いて混乱が起きている。けれどそれを父親である浅葱にぶつけることができない。

 そんな櫻真の代わりに口を開いたのは、桔梗だ。


「いきなりですね。理由は?」


「ちゃんとした理由はあらへんよ。でも強いて言うたら、ふと頭に浮かんで来ただけやな。これこそ神のお告げって奴とちゃう?」


 神のお告げ……?


 適当すぎる浅葱の言葉に、櫻真は頭を抱えたくなった。


 確かに、自分の父親が生真面目でないことは知っている。自分たちや門下生に駄目出しを飛ばしたりもするが、基本的に稽古場では、のらりくらりとした様子だ。


 そんな浅葱の姿は、真面目に稽古をやっている自分にとって、決して好ましいものではなかった。


 けれど浅葱の実力は本物で、いざ舞台に立つと別人のように、いとも容易く人を引きつける完璧な舞台をやってのけてしまう。まさに、鬼才としか言いようがないだろう。櫻真からすると、不公平さを見せつけられている感じだ。

 そんな浅葱がいきなりの思いつきで、意味不明な事を言っている。


「貴方に話しかける神様なんて、いはったんですね」


「そうみたいやな。僕自身もびっくりや。でもまっ、一応僕らの生業に神様は付きものや。なら、その神様の言葉を無視するなんて、できへんやろ? なら、来月の講演のシテ役は櫻真で決まりな。ほな、稽古の続き頑張り〜」


 浅葱は自分の言いたい事だけ言い終えると、そのまま稽古場を去って行ってしまった。

 嵐が過ぎた後のように、稽古場が一瞬静まり返る。


 どないしよう? 何であんな……


 突然の浅葱の言葉に、櫻真は憤りと動揺を感じずにはいられない。

 勝手に人を話題の中心に持ち出した癖に、まるでこちらの意志は聞かない。聞こうという素振りすらしないのだ。


 ホンマに……あんなのが自分の父親なんて、嫌になるわ。


 腹の底から出てくるような嫌気を口から漏らしながら、櫻真は恐る恐る桔梗を見た。桔梗は来月のために、稽古を詰めていたのだ。


 子方として、その姿を見ていた櫻真としては何とも居たたまれない。


 けれど、そんな櫻真の心情とは逆に、桔梗が柔らかく微笑んで来た。


「いきなりの話で戸惑うかもしれへんけど、頑張ってな、櫻真君。僕も君の兄弟子として期待しとるわ」


「えっ、でも……ええんですか? 桔梗さん、来月のために稽古を頑張りはってたのに」


「ええんよ。別に講演は来月だけやないし。僕は君が思うとるより、気にしとらんから」


「いや、でも……俺より桔梗さんが舞った方がお客さんも喜びはると思うし……」


「アカンよ、櫻真君。そんな事言うたら。君は僕らと同じ䰠宮の能楽師なんやから。もっと自信を持つべきや。それに、僕から見ても櫻真君は筋がええよ。きっとお客さんも喜びはると思うわ」


 そう言って、桔梗がにっこりと微笑んできた。


 自分のことを期待してくれるのは、素直に嬉しい。けれど、その気持ちと舞台が上手くできるかは別問題だ。

 けれど、自分の所為で突然シテ役から降ろされた桔梗の事を考えると、ずっと不安な顔を浮かべてはいられない。


 どうして、桔梗さんは……シテから降りるのに頷いてしもうたんやろ?


 櫻真は、浅葱の言葉に桔梗が喰って掛かって反対してくれないかを期待していた。そうすれば、自分がこんな不安になることもなかったのに。しかしそんな櫻真の気持ちとは裏腹に、桔梗は反対どころか賛成してしまっている。


「……不安ですけど、出来るだけ頑張ります」


 不安で顔が引き攣るのを必死に抑えて、櫻真は桔梗に頭を下げた。


 心内ではやはり止めたいという気持ちがある。けれど、その言葉は反射的に下げた頭の所為で、口から出ることはなくなった。


 その変わりに溢れるのは、自分への嫌悪感だ。

 あの父親以上にアホなのは自分やな。


「櫻真君、あんまり自分を過小評価しすぎん方がええよ?」


「過小評価って言われはっても、正直……無理です」


 櫻真が戸惑い気味に答えると、桔梗がやれやれと言わんばかりの苦笑を零して来た。


「さっきも言うたやろ? 自信を持って舞台を踏みはればええねん」


「はぁ……」


 つまりは、頑張れってことやろうな。


 稽古を再開した桔梗の姿を見ながら、櫻真は諦めの境地に入っていた。


 それから一ヶ月の稽古を経て今に至っているのだが、やはり、あの時の役替えに納得はしていない。

 櫻真が休憩しながら記憶に想いを馳せていると、控え室の扉を叩いて桔梗がいつもの様子で部屋に入って来た。


 はっとして、櫻真は背筋を伸ばして椅子に座り直す。


「初めてのシテ役は、どうやった?」


「めっちゃ緊張しました。それこそ、失敗しそうになった所もあって……舞台が終わるまでヒヤヒヤしっぱなしでした」


 今日の感想を言いながら、櫻真が自嘲を浮かべる。

 すると部屋に入って来た桔梗の表情が、少し真剣なものへと変わった。


「感想はそれだけ? もっと他に感じた事はなかった?」


「えっ、あ、いや……」


 いきなり真剣な表情でそう訊ねられ、櫻真は返答に迷った。


 舞う前の拍子にしても、桔梗が響かせる力強さはなかったし、くるっと身を半回転させて着地する動作も稽古の時よりも危なげな物だった。

 だから、さっきの言葉は櫻真が感じた全てだった。けれど桔梗は「もっと他にはないか?」と追求してきている。


 自分はどうやってそれに答えれば良いのだろう?


 必死になればなるほど、きな臭くなる。しかしこのまま黙ったままでも、桔梗の疑問を肯定しているようだ。

 どうすることも出来なくて、櫻真の中で先程の安堵感はなくなってしまった。必死に頭の中で言葉を絞り出し、口を開く。


「あ、いや、確かに上手くいった所もあったような気がします。でも、やっぱり全てを満足しとるわけやなくて……」


 しどろもどろ過ぎて、一語一語を紡ぐ毎に自分への嫌悪感が募って行く。もう話したくない。言葉を止めたい。けれど、桔梗がそれを赦してくれるのだろうか? いや、赦すって何を? 自分が勝手に責められていると思っているだけなのに。


「櫻真君、君……変に勘違いしすぎや。僕の聞き方も下手やった所為もあるけど、僕が聞きたかったのは、舞いの技術とかやないよ。僕が聞きたかったのは、もっと模糊的な感覚の話やねん」


「もこ的な……感覚」


 桔梗の言葉の意図がまるで分からず、櫻真が戸惑いの色を濃くする。

 すると、桔梗が一息吐いてから櫻真へと苦笑を浮かべて来た。


「ごめんな、櫻真君。僕の思い違い……というか、気が焦ってしもうたみたいやわ」


「どういうことですか?」


 櫻真が間髪入れずに訊ねると、桔梗は返事の変わりににっこりと笑みを零して来た。


 これは、はぐらかされるパターンや。


 櫻真は内心でそう予想した。そしてその予想は確定へと変わる。


「覚えといて、櫻真君。質問には答えをすぐに言うても良い物と悪い物があるんよ。そして今回のは、後者や。ほな、櫻真君、初めてのシテ役、おつかれさま」


「おつかれさまでした……」


 踵を返し部屋を後にした桔梗に、挨拶を返しながら櫻真の内心は小さくざわめいていた。


 桔梗さんは、何が言いたかったんやろ?


 技術とかの問題ではないと言っていた。


 模糊的な感覚。


 櫻真は「もこ」という部分をネットの辞書を使って、調べる。


「模糊……はっきりしない、ぼやけているもの……」


 つまり、桔梗が聞きたかったのは今の自分が抱いている、モヤモヤとした気持ちに近いことなんだろうか?

「あっ、桜姫の気持ちとか! ……んー、何かちゃうな」


 一瞬、登場人物の気持ちとも思ったが、なんかそれも違う気がする。

 でももし、自分がシテ役として舞台に立つことがあったら、また聞かれるのだろうか? そうでなければ「思い違い」という言葉をわざわざ「気が焦った」という言葉に訂正しないはずだ。


 なら、櫻真の中で答えを導き出しておかなければいけない。

 分からないからと、白旗を上げて降参する気にもなれない。

 むしろ櫻真が降参したところで、さっきの様な表情を浮かべた桔梗が引き下がるとは思えないのだ。


 なんか、厄介な宿題を出された気分やな。


 櫻真は、胸に沈んでいる澱を掻き出すように深いため息を吐き出す。そして力の抜けた身体を椅子の背もたれに預けた。


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