1話 死
死はいつもすぐそこで待ち構えている。
ただ、それに気が付かないだけである。
「行ってきます」
そう言って吉田奏は家を飛び出した。
連日降り注いだ雨がコンクリートの上に大きな水たまりを作っている。空を見上げれば澄んだ青色と輝く太陽が白い雲の合間から覗く。
「虹だ」
雨上がりの空を描くように架けられたそれは、美しく空を彩った。しかし、虹をゆっくり眺めている時間はない、と高校に向けて駆けだした。
今日は夏休みの登校日である。けれど、奏はうっかりアラームをセットし忘れて寝坊してしまった。登校日はホームルームと課題の提出があるくらいで普通なら少し遅れた所で気にしないだろう。しかし、品行方正、成績優秀な優等生としてやってきた奏にとって寝坊して遅刻するということは大問題に値する。
家から学校までは徒歩20分。走ればまだ間に合うと、ズボンの裾を濡らしながら全力駆けた。
この時の自分は本当に馬鹿だった。たった一度の遅刻にムキになる必要なんてなかった。けれど、寝起きの頭と焦りと不安とちっぽけなプライドが邪魔をして、足を止めることができなかった。
しばらくする分かれ道に辿り着いた。まっすぐ行けば高校の正門に辿り着く。右の道に行けば高校の裏門に辿り着く。 しかし、現在右の道には立入禁止の看板とロープが張られている。この道は数日前に土砂崩れが起きた場所だ。幸い小規模で怪我人も出なかったが、危険なため整備するまでは立入禁止となっている。ここを右に行けばホームルームにまだ間に合うだろう。
一瞬通るだけだ。危険なことなんて起こるはずがない。奏は周囲に人がいないことを確認してロープを乗り越えた。
上り坂を息を切らしながら走る。時間を確認すれば、後5分でホームルームが始まる。この坂を登り切れば、すぐ高校の裏門に辿り着く。この時間ならぎりぎり間に合うだろう。奏がほっとしたとき、カーブの先にしゃがみ込む男を見つけた。
男は土砂崩れで道路に土が流れ込んだ場所の近くにしゃがみ込んでいる。何かを探しているのか土を掻き分けているようだった。
「あの、ここ危ないですよ」
「……」
心配して声をかけてみたものの、男は顔を上げることもなく無視される。少しイラッときたが、同じく立入禁止の場所にいる人間に注意されたくはないだろう。
この男に構って遅刻したら意味がない、と走り出そうとしたとき、コロコロと転がってきた石が足に当たる。
まさか――
嫌な予感がして崖を見れば、土がパラパラと道路に転がってきている。これは土砂崩れの前兆だ。
俯いて地面を見つめている男はこの事態に気が付いていないのか、逃げようとしない。
「おい! あんたここヤバイ、逃げ――」
その言葉を言い終わることなく、奏と男は土に飲み込まれた。
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気が付くと、奏は花畑の中にいた。側に大きな川が流れているのが見える。
学校の制服に汚れや傷一つ付いていない身体をみまわして、奏は己が死んでしまったのだと確信する。
一瞬だった。逃げる間もなく崩れてきた土砂は、しゃがんでいた男と奏を一気に飲み込んだ。幸いなことに痛みや苦しみはよく覚えていなかった。覚えているのは死ぬことに対する恐怖だけだ。
「あの男も死んだんだろうな……」
奏もあの男も立入禁止の場所に勝手に入ってしまったのだから自業自得である。文句を言うことはできない。だが、どこかやるせない気持ちがあるのも事実だった。
もしかしたらあの男も死んでこの場所に来ているかもしれない、と奏は辺りを見渡すが、男どころか誰一人見当たらない。どうしたものかと川岸まで移動する。
もし、ここがあの世とこの世の狭間でこの川が三途の川だとすると、川を渡って向こう岸に行けばあの世に行けるはずだ。
「だとすると、この川を渡るしかないってことか」
問題はどうやって渡るか、ということだ。向こう岸はそこまで遠くないものの、泳いで渡るのは無理がある。しかし、幾ら見渡してもこの川には橋も渡し船もない。誰もいない。
川の流れは緩やかで、透き通った綺麗な水がそよそよと流れている。時折花弁が流れてきて川を色づける。指先を水につければ、心地よい冷たさが身体に伝わった。
ふと、水面に映った自分の顔を見ると、頭の上に光る輪が映っていた。手で触っても特に何か触れることはなかったが、水面には確かに輪が映っていた。これは、死んだという証だろうか。
その後しばらく川沿いに歩いてみるが、景色は全く変わらなかった。
「泳いで行くしか、ない……?」
最悪の予想をしながらも、誰かが迎えに来てくれるかもしれないと川岸でしばらく座って待つ。
一体どのくらいの時間が経ったのか。何度足元に咲く花を使って花弁占いをするも、誰かが迎えに来てくれることはなかった。
「誰かが迎えに来てくれる……来てくれない……来てくれる……」
言うたびに花から花弁を一枚ずつ散らしていく。
「来てくれない……来てくれる気はあるのか……どうせ来てくれない……」
一枚一枚花弁が舞う。
「来てくれるはずだ……なのにどんなに待っても来てくれない……でも来てくれるかもしれない……」
そして、最後の一枚。
「……やっぱり来てくれない」
最後の花弁を千切ると、奏は意を決して立ち上がる。いつまでもこんな女々しいことをしていても仕方がない。
奏は向こう岸に行くために、ゆっくりと川の中に足を入れた。