ずっと
36歳の誕生日の朝、ぼくは母親から「そろそろ結婚して人並みの暮らしをしてちょうだい」と言われた。「時間なんて、あっという間にすぎてしまうものよ。わたし達だって元気なうちに孫の顔も見たいし。ね」
「わかったよ、ごちそうさま」
ぼくは使い終わった食器を手に席を立った。そして2階の自室に入ってベッドに身を投げた。
自分でいうのも何だが、ぼくは自分のことを結構カッコいいと思っている。
そんな自己評価が間違っていることに気づかなかったからこの年まで独身なのだ。そんな単純なことすらわからないから大馬鹿野郎なのだ、ぼくは。
しかし、そんなぼくにも恋人がいた時期があった。大学1年生の、季節が夏から秋にかけてのころだ。
ウチは裕福な家庭ではなかったが、私立の大学に通わせてくれた。
ぼくはちょっとでも、というか、自分のこづかいくらいは自分で稼ごうと、アルバイトをすることにした。
ぼくは大学構内にある事務所の脇に貼られた『アルバイト募集のお知らせ』の中にあるさまざまな求人から物色して、セメント工場を選んだ。
理由は実にシンプルなものだ。給料が日給1万5千円と飛びぬけてよかったからだ。
そして、その旨を事務員の女性につげると、「では、さっそく連絡してみましょう」といって、その事務員はすぐ後ろにある電話の受話器をとった。
「もしもし河野セメント工場様でいらしゃいますでしょうか? 有明大学の者ですが」
「あぁ、いつもお世話になっております」
「そちらで働かせていただきたいという学生がいるのですが、いかがでしょうか?」
ぼくは生まれて初めてのアルバイトをするという状況にもかかわらずまったく緊張しなかった。
「はい、はい」事務員の女性が電話を続けていた「えぇ、はい、わかりました。それではカナヤマサトルくんという生徒です。よろしくお願いします。それでは、はい、はい失礼します」事務員の女性が続けた「カナヤマくん、履歴書も何も必要ないから今すぐ来てほしいって」。
「今すぐですか?」
ぼくは学生のバイトというのはこんなにも簡単に採用されることに正直驚いた。
「えぇ、河野セメント工場。場所、わかる?」
「地図を書いていただければ多分わかると思うんですが、ここから遠いんでしょうか?」
「そんなことないわ。じゃあすぐに地図を書くので、そこで待っててくれる?」
事務員の女性は自販機の横にあるソファーのような椅子を指さしながらそういった。
「はぁ」とぼく。
ぼくはこれから生まれて初めての「労働」をするというのにあまり真剣ではなかった。何というか、「ひまつぶし」程度にしか感じられなかった。
大学の最寄り駅からふた駅先。そこからゆっくり歩いて15分程のところにそのセメント工場はあった。看板のたぐいのものは無かったがぼくはすぐにそこが河野セメント工場だとわかった。
工場の敷地のいっかくに事務所らしき建物があった。ぼくはそこに行けば何かわかるだろう、とそこへ向かって歩き出した。
プレハブ小屋のようなその建物のドアのところに、インターフォンではなく鈴がかかっていた。
「すみませぇん」といいながらぼくはその鈴を鳴らした。ドアのガラスの奥を覗きながら中をうかがった。 すると、中から女の声が聞こえた。
「はい、はい、はい」
出てきたのは50代なかばくらいのおばさんだった。
ぼくはこころの中で、かわいい女子大生が出てくることを期待していたが、その期待はあっさり萎えてしまった。一瞬、自分のことを、馬鹿、だと思った。
「有明大学のカナヤマサトルくんでしょ? あなた」
「はい、よろしくお願いいたします」
事務のおばさんは芸能人の誰かに似ていたが、それが誰かを思い出すことはぼくにはできなかった。
「大学の事務員さんから聞いてると思うけど、さっそく今日から働いてちょうだい。仕事はいたって簡単だから」
「はぁ」
「カナヤマくん、あなたの身長とウエストのサイズ教えてくれる?」
「身長は170くらいでウエストは80くらいだと思います」
人間という生き物は自分のことをあまり知らない動物なんだなとぼくはその時思った。
「それじゃ、そこのソファーにすわって、ちょっと待っててくれる」
そういうとおばさんは、事務所の『関係者以外立ち入り禁止』と白地に赤いゴシック体の文字で書かれたプレートが貼ってある部屋の中に姿を消した。
ぼくはうすねずみ色のソファーに腰をおろした。1日に2度もソファーにすわったのは人生で初めての経験だった。そうしてぼくはおばさんが戻ってくるのを待った。
10分くらいぼんやりしていると、おばさんは、おそらく作業着だろうビニール袋に入った荷物を脇に抱えて戻ってきた。おばさんは、なぜか、ニヤニヤ笑っていた。
「はい、これ。ちょっとそこの更衣室で着替えてくれる」
ぼくはおばさんが出てきた『関係者以外立ち入り禁止』の隣の部屋に入るように促されて『更衣室』に今度は白地に青い文字でそう書かれた部屋に入って、一応鍵を閉め、おばさんにわたされた作業着に着替ようとした。
が、中には8つのロッカーがあってどれを使えばいいのかわからない。ぼくはかったばかりの更衣室のカギを開け、あの~ぼくはどのロッカーを使えばいいんすかね? と質問した。
「あっ、そうか、わたしったらバカなことを……キーホルダーに番号が書いてあるでしょ?」
「あ、ホントだ」
ぼくのその時の声は世界一素っとん狂なものだったろう。キーホルダーには「10」と印字されていた。ロッカーは8つなのにキーホルダーの番号は「10」。どうしてだ?
他のロッカーの番号を見てみると、38、とか、1234、とか、2、とか、どうしてそんな番号でそのロッカーが誰のものか決めているのか、ぼくにはさっぱりわからなかった。でもぼくは子どものころサッカーをやっていたので、その「10」という番号がとても気に入った。ブラジルのペレ、ジーコ、アルゼンチンのマラドーナ、イタリアのロベルト・バッジョ。カッコいいサッカー選手は、みな、10番をつけることが多い。そして最近ではサリエAのA.C.ミランの本田。
ぼくは10番のロッカーにカギを入れ、回した。そしてすぐに黒いジーパンとオフホワイトのパーカーを脱いで、作業着に着替えた。ドアの横に設えられた鏡で背中をみてみると深緑色の作業着に白く河野セメント工場とプリントされていた。決してカッコいいとは思えない。
その時ドアの向こう側からおばさんの声が聞こえた。
「どぉ?」
「ちょっと大きい感じがしますけど大丈夫だと思います」
ぼくはもう一度カギを開けて更衣室を出た。
「やっぱりちょっと大きいわねぇ。ウチみたいな仕事してる人はみんな恰幅がいいから」
そうだ、ぼくはどちらかといえば、やせている方だ。
「じゃあさっそく働いてもらいましょうかね。ついてきて」
「はい」
連れていかれたのは専用の麻袋に入ったセメントを積んできたダンプトラックからそのセメント袋を30メートルくらい離れた場所に運ぶ、それだけだった。履歴書のいらない理由がよくわかった。
セメントの入った麻袋はひどく重かった。日給1万5千円の信ぴょう性がよくわかった。
その翌日のことだ。
きのうはおばさんがすわっていた事務椅子に若い女がすわっていた。そしてきのうのおばさんと同じようにパソコンのキーボードで何かを打っている。その若い女はぼくに気づくと、カナヤマさんですか? とぼくの方へ微笑みを見せながら確認した。
ぼくは彼女の問いに「YES」とも「NO]とも答えず、あなたは……と問い返した。
女は黒いジーパンに桃色のブラウスを身に着けていて、茶色に染めていないショートカットの髪型がとてもよく似合っていた。
「はじめまして、わたし、フクイアキコといいます。短大の一年生で、週に3日、サイトウさんがここに来れない時に働かせていただいてます。よろしくお願いします」。
「こちらこそよろしくお願いします。ぼくは有明大学の1年生です」。
「有明大!? 頭いいんですね」
「たいしたことありませんよ、大学受験の裏ワザを知っていただけです」。
「大学受験に裏ワザなんてあるんですか?」
「えぇ、マークシートは正解しかチェックしないから、全部ぬっときゃ満点だ、て噂が高3の時三年生中にひろまって、ウソだと思ったんですけど、全然勉強しなかったからどうせ落ちるんだから暇つぶしにマークシートを全部ぬったんです。自分でも信じられませんが、合格しちゃったんです」。
ぼくはウソをついた。「本当は女の子にモテたくて、有明大学を志望して猛勉強したんです。でもちっともモテなくて……」
ぼくは自分のしゃべるペースと顔に笑みが浮かんでいるのに気がついていなかった。それぐらいフクイさんはキレイだった。いや、キレイというよりチャーミングという言葉の方が正確に彼女のことを表現できると思う。
「あっ、ぼく、仕事しなきゃ」
ぼくは少し慌てて更衣室に入った。私服から作業着に着替えている間、ずっと、ウキウキした気分に浸ってしまった。
あんなかわいい子と一緒に働けるなんて。
恋は人々のモチベーションをあげる……何でかわからないが気合いが入るのだ。仕事だけじゃなく、勉強でも、部活でも、放課後も……
ぼくは10番のロッカーを開け着替え、更衣室を出た。
すると、フクイさんは破顔一笑した。ぼくも笑ったが、彼女が笑ったのはぼくに好意があるかではなくて
大きすぎる作業着のみっともなさを笑ったのだった。
「服、大きすぎますね」
「笑わないでもらえますか」
「ふ、ごめんなさい」
ぼくの鼓動が激しくなった。
「それじゃぼく、仕事行きますんで」
「がんばってください。でも無理は禁物ですよ、腰が痛くなりますから」
「やさしいんですね」
「ふつうですよ。フツー」
「それじゃ」
ぼくはフクイさんに笑顔とちからこぶを見せて事務室を出た。
ちょうどその時ダンプトラックが工場内の敷地内にバックで入ってきた。その後方にぼくと同じ深緑色の作業着をきた恐ろしくデカい男が「オーライ、オーライ」といいながらダンプトラックを誘導していた。
ぼくはその方へ、走って、向かった――仕事だ。
ぼくは自分と同じ作業着を身につけたそのデカい男に、今日からこちらで一緒に働かせていただくカナヤマと申します。どうぞよろしくお願いします、と自己紹介した。
「あぁ、学生のバイトか?」
「はい、精一杯働かせていただきます」
「この仕事ナメんじゃねぇぞ」
その男は、歳でいえば50代くらいだろうか、肩幅が恐ろしくひろくラグビー選手のような体躯をしていて、ぼくは一瞬恐怖を覚えた。
「何突っ立ってんだ! 早く仕事しろッ!」
「あ、はい、すみません」
長い物には巻かれろ――ぼくはこの人には逆らえないなと、直感、した。もし逆らえば、半殺しになるほど殴られるだろう。
いったいいくつかわからないが、ぼくはダンプトラックからセメント置き場、会社の人間はみな「置き場」と呼んでいる場所にセメント袋を運んだ。
今日でやめようか。そう思うほどセメント袋は重量があった。きっと、本当に1日でやめてしあうアルバイトの学生もいるかも知れない。それとももっとシンプルに、ぼくが非力なだけだろうか?
一時間くらいたったころ、ラグビー選手のように筋骨隆々とした男がぼくに向かって、おい15分休憩だ、といってタバコに火をつけた。
ぼくは一旦事務所に戻って、パソコンと格闘しているフクイさんに、
「お疲れ様です」
といって事務所の中にある自動販売機でコーラを買って、ニコチンの強いタバコを吸った。ぼくはまだ20歳になっていない。そんなぼくと同じように十代のころからタバコの味と快感を覚えてしまう男は日本中にはいくらでもいる、はずだ。ぼくはそう確信している。
フクイさんは帰宅の準備をしているようだった。
事務所の掛け時計を見ると、まだ4時前だった。
「仕事、もう終わりなんですか?」
「えぇ、事務の仕事は4時までなんですよ。その分時給も安いんですけどね」
そういってフクイさんは少し慌てたようすで紫色のカバンに荷物を詰め込んでいた。
ぼくはコーラをひと口飲んで、あー、といって、タバコをひと口吸って、あー、と息を吐いた。
「それじゃ、あたし帰りますんで、また明日、よろしくお願いします」
その時フクイさんはふたつに折った一枚のメモをぼくの方へ差し出した。
「あと1時間、仕事終わったら」
そういい残してフクイさんは事務所を後にした。
フクイさんに渡されたメモを開くと、そこにはケータイの電話番号トメールアドレスが書かれていた。
やった! と思った。フクイさん、ぼくのこと好きなんだ。
「オイ、新入り、もう15分すぎてるぞ! 早く仕事に戻れ!!」
「はい、すみません」
ぼくはその後の1時間、天にものぼるほどのハイテンションで仕事をした。
一時間は、一瞬にも感じられたし、千年の秋にも感じられた。そしてバイトを終えると私服に着替え、こんなことになるんだったら、もっと、おしゃれしてこればよかった。ぼくは今日もジーパンにパーカーを身につけていた。そうしてフクイさんから受け取ったメモに記された携帯番号に電話をかけた。
発信音はけっこう長く続いた。その時、誰かがぼくを尾行しているのを感じた。ケンカでもしようってのか?
「誰だッ!」
次の瞬間女の声で「キャー」と悲鳴があがった。フクイさんだった。
ぼくの心臓は固まってしばらくほぐれなかった。
「どうしたんですか、フクイさん?」
「いや、わたし、ブスだから、カナヤマさん連絡してくれないと思って……」
ぼくは、そんなことないって、というと、お互い緊張していたのがほどけたようだった。
ぼくはひとつ大きなため息をついた。
腕時計で時刻を調べると6時を少しまわったところだった。
「ふくいさん。おなか空いてませんか?」
「うん、空いてる」
フクイさんは両方の手の平でおなかに「〇」をいくつも描いた。
「それじゃあ、一緒に夕食どう?」
「うん」
急に元気な声になった。その声を聞いてサトルは、
「あ、今おごってもらえると思ったでしょう?」ぼくは歩きながら一回転した「金ないからファミレスだよ」
「うん、いいよ」
ぼくもアキコも、いつの間にかともだち口調にになっていることに気づいていなかった。
ファミリーレストランで、ぼくは、リブステーキのドリンクバーセットを頼んだ。アキコはペペロンチーノと和風サラダのドリンクバーセットを注文した。
その帰り道アキコはサトルに悟られないように暗い場所へといざなった。そしてアキコはぼくのくちびるを奪った。
そして、ぼく、サトルとアキコは、付き合い始めた。
デートコースはいつも同じだった。
池袋まで電車で行ってゲームセンターで何枚もプリクラを撮り、「赤い風船」という若い夫婦が営んでいるパスタがメインのレストランで、まず、パスタを選び、それから、サラダ、ドリンク、デザートのケーキ。それで税込み価格で850円。ふたりとも、体型のわりには意外と食いしん坊だった。そして山手線で渋谷まで足をのばして、ひとつ、になる。そんな感じ、だ。
初めてのその時は大変だった。
そのころぼくは大学の近くの古めかしいアパートでひとり暮らしをしていた。
そしてアキコが自宅に帰らずぼくのアパートに泊まるいい訳を親に電話する時、
「ルリコとキョウコが縁切るか切らないかで大変だから今日は帰らない」
すぐウソだとバレるいい訳だ。
しかしその一夜を境にアキコの態度が急変した。
プレゼントを要求するようになったのだ。しかもグッチやプラダなどの高価なものばかり。
ぼくのバイト代はほとんどアキコへのプレゼント代に消えていった。しかしいくら時給がいいといっても所詮学生のバイトだ。たかが知れている。
そしてぼく達ふたりの距離は少しずつ離れ、最後は電話で終わった。
アキコはバイトをやめてしまった。ぼくも、だ。ぼくは大学も中退してしまった。
それがぼくの人生唯一の‟恋〟だ。
ぼくはアキコに未練タラタラだった。アキコにフラれたぼくはまさに生きる屍のようだった。そして信じられないことにアキコは死んでしまった。自殺らしかった。ぼくは通夜にも葬儀にも出席せず家で穀潰しのような生活をしていた。
そんなぼくを見かねて気づかった父が就職先を見つけてくれた。税理士事務所だ。しかし大きなミスをおかして、すぐ、解雇された。
ぼくはダメな人間だ。何をやってもダメな人間だ。もう死のう。死んだ方がマシだ。アキコも死んだんだし。
部屋の掛け時計を見ると、午後の6時をすぎていた。そろそろ夕飯の時間だ。でも食欲なんてない。
ぼくは部屋を出て、母親に、ぼく、今日、晩飯いらないから、と告げて家を出た。そして自転車にまたがって海へ向った。
もう死のう。
30分ほど自転車を走らせ、海についた。ぼくは浜辺にすわって、泣いた。そうしてそれから靴を脱ぎ、服を脱ぎ、下着を脱ぎ、それらをキレイにたたんで、海に向かて浜辺を歩いた。
(……くそッ、くそッ……)
その時、遠くで女の声がした。ぼくはその声を無視して歩きつづけた。
「ちょっと待ってー」
どこかで聞いたことがある声だと思った。それでもぼくは海に向かって歩いた。
「ちょっと待ってー、サトルー」
声の主が自分の名前を知っている。数秒後サトルは左手をつかまれた。
「アキコ……か? お前何で」 アキコはサトルに抱き付いて、泣いた「ごめんね、ごめんね、わたし死んでないよ、ただの噂だよ、ウソだよ、わたしのお兄ちゃんがすごいヤンキーでわたしと付き合ってる男なんて何されるかわからないから、だからだから、サトルにひどいことして、嫌われようと思って、ごめんね」
ぼくもアキコを抱きしめた。
「ごめんね、ごめんね、死んじゃダメだよ、生きよう、生きよう、ふたりで生きよう、生きよう」
ふたりは号泣し、慟哭した。
そして、ふたりは……。
「この話で完結します」