母の遺産
個人サイトからの加筆転載です。
日もとっぷり暮れた頃になって、ヴェンダは王城の奥へ向かった。
本当に待ちかねていたのだろう。
王室親衛隊の隊長が出迎えた。
「なかなか苦労したようですな」
ヴェンダが持ってきた鞄を受け取りながらウリアンが言う。
「私も、こういったことはなれていないので」
ヴェンダはウリアンに鞄を持ってもらうと王城の中へと進んだ。
ウリアンの話では、国王は謁見の間にいるという。
ヴェンダは、まずそこへ通された。
謁見の間は、物々しい警戒だった。
十名ほどの王室親衛隊が軽甲冑を身に付け各出入り口を固めている。
身分確認があって親衛隊長がヴェンダの身分を保証するとようやく謁見の間へと入る事が出来た。
「よくきてくれた」
国王自らが、魔女を出迎えた。
「難しい時期だけに警備に手を抜くわけには行かぬのでな。非礼があったらわびよう」
「お気遣いただきまして、ありがとうございます」
出迎えたユノ王を前にヴェンダはスカートを摘み上げると軽く会釈をした。
「魔術時間まで時間もあまりありません。早速、準備にかかりたいのですが」
ヴェンダがそういうと、ユノ王は小さく頷いた。
「そなたの母が使っていた儀式の間が用意してある。そこを使うがいい」
ヴェンダは礼を言うとウリアンから預けていた鞄を受け取った。
「儀式が始まる前に陛下にお知らせしたほうがよろしいでしょう」
ウリアンが促すように耳打ちする。
ヴェンダは、わかりましたと返事を返す。
「では、陛下。儀式が始まる前にお知らせします」
ヴェンダは国王にそういうと、ウリアンが呼んだ親衛隊員の後について謁見の間を後にした。
儀式の間は、王の屋敷から離れた塔の天辺に設けられた部屋だった。
母イゼルダが死んでからここ十年ほど使われていなかった部屋だ。
今宵昇った二つの月から、月明かりが差し込んで母の面影の残る品々のシルエットを浮き上がらせる。
ヴェンダは懐かしさと同時に、異様なまでの力強さをこの部屋に感じた。
物理的な強さではなく、空間的、かつ精神的な力強さ。
前に入ったときは、彼女が幼かったからか、こんな感触は受け取る事が無かった。
案内してくれた親衛隊員が部屋中の蝋燭に火を入れる。
そして気が付く。
この部屋全体が、魔法陣のようなつくりになっていた。
「この印は…?」
ヴェンダは各柱の配置や模様、机の位置などに目を配る。
間違いない。結界系の魔法陣。それも、魔力は流入するけど、外へは逃げにくい構造になっている。
この魔力があれば、間違いなく、烏の王は答えてくれるはずだ。
いざとなれば、強制の呪文を掛けてもいい。
ヴェンダは周囲に満ちた魔力に、自信を取り戻した。
なんとか、国王の期待にこたえられそう。
ヴェンダはほっと胸をなでおろした。
正直言えば、自信が無かったのだ。方法は見つかっても自分にそれを実現するだけの魔力を引き出せるかどうか…
この部屋に入って、やっと、気持が固まった。
お母さんが残してくれたこの魔法陣は、術を行うときに術者に力を付加するもの。
いわば、母がヴェンダに力添えをくれる。
後押しされる気持ち。
不安な気持がまた目覚めないうちに準備をしてしまおう。
まず、ここまで案内してくれた親衛隊員には退室を御願いした。
親衛隊員は、部屋の外にいるので、何かあったら呼ぶようにとヴェンダに念を押すと退室してくれた。
続いて、魔法陣の上に魔力を集中させるための結界を張る。
暗黒鉄を鍛えて作った短剣を床の上に置いてゆく。暗黒鉄は、時々、空の上から降ってくる星のかけらに含まれている。この金属は真っ暗で一切光る事が無い。しかも、万物の中にも等しく存在するマナを打ち消したり反射させたりする性質がある。
今回は、このマナを反射させる性質を利用して結界の中心にマナを集中させるのだ。
持ち込んだ道具で正確に距離を測りながら短剣をおいてゆく。
十数本の短剣を設置して結界は完成した。
その頃には、もう、夜も更け魔術時間が始まろうとしていた。
さて、最後の仕上げとヴェンダは結界の中央に依代となる烏の羽を置く。
あとは、呪文を唱えれば烏の王が現れるはず。
ヴェンダは、魔法の準備が整った事を部屋の外にいる親衛隊員へ伝えた。
親衛隊員は戻るまで待つように言うと国王のもとへと戻っていった。
「さてと」
ヴェンダは、自分を奮い立たせるようにそういうと結界のもとへ戻ろうとした。
そして、結界のあたりにある何かの影に気がつく。
この部屋には、ヴェンダ以外誰も居ないはず…
誰!?
自分しかいないはずの部屋に動く気配を感じてヴェンダの心臓が大きく跳ねた。
どうしよう…
声にならない恐怖が、ジワリと押し寄せる。
足がすくんで動けない。
やがて、影は、ヴェンダの元へと跳ねるようにやってくる。
近づくにつれてそのシルエットがはっきりした。
薄暗い蝋燭の光に浮かび上がったのは烏。
ただの烏ではない。普通の烏より三回りは大きい。
その翼は、広げれば大人の背丈よりも大きいだろう。
やがて、その巨大な烏はヴェンダの手の届く範囲までやってくるとヴェンダの顔を覗き込む。
ヴェンダの顔には、怯えの色が浮かぶ。
すると、烏が笑い出した。
そして、独特の訛りがある濁声で喋りだす。
「おまえ、いぜるだのむすめだな?」
烏は、その円らな目でヴェンダを見つめる。
その頃になって、ヴェンダは、その優しそうな瞳に見覚えがあることに気が付く。
遠い記憶。子供の頃の記憶だ。
「貴方、烏の王ね?」
記憶を探っているうちに言葉が出てきた。
すると、烏は、一声、甲高い鳴き声をあげると言った。
「おれさまが、さきにきいている」
翼を数回あおる。
「おまえ、いぜるだのむすめだな?」
巨大な烏がそう聞き返す。ヴェンダはその質問に肯定した。
その返答に満足したのか、烏は声高に数回鳴き返すとヴェンダの質問に答えた。
「からすに王がいるかはわからないが、おれさまは、このあたりいったいのからすをたばねてる」
巨大な烏はヴェンダを見上げるようなしぐさをする。ちょうど、彼女から頭ひとつ低い位置にある烏の頭は、後頭部に異様な張り出しがあった。
「おれさまは、ウル。たばねるもの。からすは、なかまをやくしょくでよぶ」
再び、烏が羽根をばたつかせて一声鳴いた。
「いぜるだのむすめ。なをなのれ。にんげんは、なでよびあうと、いぜるだからきいた」
烏にそう聞かれた。そのころになって、やっと、ヴェンダの恐怖心が薄らいできた。
ウルと名乗ったこの烏は、イゼルダが、使い魔として使っていた烏なのだ。
たぶん、ヴェンダの命令にも服従するだろう。魔法は、血で使うものだから。
ヴェンダは、自分の名をウルに告げた。
つづけて、使い魔と契約するときに使う言霊を唱える。
「私の名において命じます。貴方は、以後、私の求めに応じて私の手足となることを誓いなさい」
言霊にマナが集中する。
イゼルダの魔法陣から、マナが送り込まれてきた。かなりの量だ。
しかし、言霊に集まったマナは烏の王へ届く前に霧散してしまった。
どうして…?
ヴェンダは、自分の魔法が失敗した事に驚きの色を隠せなかった。
今まで、こんな事は無かった。自分の手足のように扱えた魔法が発動もせずに失敗するなんて…
目の前で起こったできごとに驚いたのは、ウルも同様だった。
大きな声で鳴きたてながら、何度も何度も大きな羽音を立てる。
ヴェンダはそのウルの大騒ぎに恐怖を感じた。魔法を掛け損ねた自分に怒りを表しているように見えた。
後退ろうとするが、恐怖からか、足が動かない。
ウルは、ひとしきり大騒ぎすると、落ち着いたようだ。
ウルが落ち着くと殆ど同じ頃、ヴェンダの後にある扉が開かれる。
抜き身の剣を持った親衛隊員が飛び込んできた。
すかさず、ヴェンダとウルの間に割って入る。
身の危険を感じたウルは、翼を使って飛び下がる。
「お怪我はありませんか?」
背中越しに親衛隊員が聞く。彼は、国王を呼びに行ってくれた親衛隊員だ。
ヴェンダは小さな声で無事な事を伝える。
ヴェンダの背後の扉から、また別な人影が現れた。
今度は二人だ。
ユノ王と、親衛隊長のウリアンである。
ユノ王は一瞥して状況を把握すると抜き身の剣で今にも切りかかろうとしている親衛隊員の肩に手を置き剣を収めるように促した。
親衛隊員は躊躇しながらも、剣を治める。しかし、その目はウルを見つめていて怪しい挙動があれば切って捨てる構えを崩してはいない。
そこで、やっと緊張が解けたのか、ヴェンダは、ふと我に返ったように言う。
「申し訳ありません。陛下」
ユノ王は片手を上げてそれに答えると、一歩だけ烏の王へ歩み出た。
「貴公は、ウルであるな?」
ウルは、いぶかしむ様に何度か首を振ると言った。
「そうだ」
「私は貴公に何度があった事があるが、覚えておられるか?」
ユノ王は、丁寧な口調でウルに問う。
「おぼえる?…わすれていない。いぜるだにおしえられた。にんげんの王、ゆの」
ウルが一歩前に出てきた。漆黒の艶を持った羽根が、蝋燭の明かりの中に浮かび上がる。
「貴公をウルと見込んで頼みたい事があるのだが」
「ゆの、はなしをきく」
ウルのその言葉にユノ王はヴェンダを促す。自分が始めた事なのだから、最後まで責任を持てというのだ。
ヴェンダは、出来るかどうか自信を失っていた。あの、ウルという烏はヴェンダが呼び出しもしないうちに彼女の魔法陣を破ってやすやすと侵入したうえ、使い魔の契約を破棄されてしまった。
自分の力が、まるで役に立たない。
しかし、ユノ王は続けろという。
ヴェンダは、かなりの間、葛藤を行った後、ようやく、ウルに向かってこう切り出した。
「貴方の知識に尋ねたいの」
ウルがヴェンダのほうへ振り向く
「この国に、他の国から敵意を持って侵入してきた人たちがいるはずなの」
ウルは、一声無くと答える。
「にんげんのくにをわたってきたやつらはいる。にげてきたように」
「にげてきた?」
「そうだ」
ウルは、そういうと、羽根をばたつかせた。
「では、その人たちは、どこにいるの?」
ヴェンダが再び問い掛けた。
すると、ウルは、首を横に振る。
「おれさまは、ゆののたのみだから、ひとつだけこたえた。あとは、こたえる、ない」
ウルの答えに、場の雰囲気が険悪になる。
見かねたユノ王が間に入った。
「貴公は、ヴェンダに呼び出されてここに来たのではないのかな?」
すると、ウルは、否定した。
「おれさまは、じぶんから、きた」
たしかに、ウルは、ヴェンダが魔法陣を発動させる前にこの場にやってきた。たぶん、呼び出そうとする雰囲気を悟ったのだろうか。
ウルは、翼でヴェンダを指差した。そして、こう続ける。
「うえんだによびだされても、くることはない」
「なぜかね」
ユノ王が聞き返す。
「うえんだは、まほうにたよりすぎる。そのわりに、じぶんのしごとにはじしんがない」
その場に居合わせた全員の視線がヴェンダに注がれる。
そこで、初めて、全員がヴェンダが魔法に失敗した事を悟った。
「すくなくとも、いぜるだは、じぶんのしごとにだけはほこりをもっていた。うえんだのつかうまほうは、いぜるだとちがう」
イゼルダとは違う…
私は、お母さんほど認められていない?
母親を引き合いに出されたとき、ヴェンダは、鼻の奥がきな臭くなるのを感じた。
私の魔法のどこがいけないの?
必死でこらえようとすると、涙が溢れ出してきた。
私…
言葉では言い表せないが、くやしさに近い感情が湧いてきた。
私、何が悔しいの?
おかあさん? おとうさん? ユノ陛下? ナルタ妃? 烏のウル? 親衛隊の人たち? 町で私のよからぬ噂を立てる人たち?
やがて、混乱が押し寄せてきて、ヴェンダはその場に泣き崩れてしまった。
結局、その後、ウルはあまり多くを語らずして去っていった。
ユノ王は、泣き崩れたヴェンダのために、ナルタ妃を呼ぶ。
ナルタは侍女を二人ほど引き連れてきた。
そして、ユノ王から一通りの経緯を聞くと、侍女の一人にゲストルームを準備させるように命じた。
ヴェンダは、激昂がよほど酷かったのか、まだ、嗚咽を漏らしていた。
ナルタは、ヴェンダにハンカチを差し出し、涙を拭くように言った。
そして、今にも儀式の間をあとにしようとしているユノ王を呼び止めて、男手を貸してくれるように言う。
ユノ王は、ウリアンに命じてヴェンダの護衛をしていた親衛隊員をその場に残させた。
「さて…」
ユノ王が去ったあと、ナルタは親衛隊員の元へとやってきた。
「あなた、お名前は?」
親衛隊員は一瞬動揺したが、すぐに名を告げた。
「クルナティオ=アースノーツといいます」
「よし、では、クルナティオ。ヴェンダを運んでくれるかしら?」
ヴェンダは、脱力していて到底立てるような状態ではなかった。
クルナティオは軽甲冑を脱いで下地の布鎧だけになるとヴェンダを背負い儀式の間を後にした。
そして、侍女が用意したゲストルームへと運びこむ。
ベッドへ寝かし付けられてもヴェンダの涙は止まらなかった。
ナルタは、このまま、ヴェンダが泣き疲れて眠るまで待とうかとも考えたが、侍女に薬品庫へ薬を取りに行かせた。
ナルタは、ヴェンダの涙を拭いてやりながら、優しく語りかけた。
「もう終わったのよ。難しい事は…」
ヴェンダは、その言葉に頷いて見せるが、哀しさはおさまらない。
堂堂巡りの思考。
何がそんなに哀しいの・・・・・・・・・?
くやしいの・・・・・・・・・・・・・・・
なにがくやしいの・・・・・・・・・・・?
・・・・・・・・・・・・・・・わからない
わからないけど、とてもくやしい・・・・・
あの、烏に言われた事が悔しいのではない。それははっきりしていた。
あの烏の言葉は、切っ掛け。
私の気持を揺さぶる切っ掛け。
じゃあ、何がそんなに哀しいの・・・・・?
ヴェンダが、堂堂巡りの思考を幾度繰り返した頃だろうか。
ナルタが、ヴェンダの鼻腔付近に小ビンを近づけた。侍女に取りに行かせた薬品である。
甘い香り…
ヴェンダがそう思った直後に、彼女は深い眠りへと落ちていった。
ナルタは、誘眠薬の蓋を閉じて、元の場所へと戻すように侍女へ手渡した。
そして、まだ、居残っていた王室親衛隊のクルナティオに託を頼む。
「国王に伝えておいて。ヴェンダはやっと眠ったってね」
クルナティオは早速、国王のもとへと戻っていく。
やれやれね。
やっと収まった一騒動にナルタはため息をついた。
ユノ王は、ウリアンと、文官のウィルバート、それに、ケルベス軍務大臣の三名を一室へ集めた。
そして、魔女の占いで不法な侵入者はいるようだが、目的は、わが国には無いようだと報告した。烏のウルは、イゼルダが良く使っていた精霊の一種だ。彼は、嘘を知らない。すなわち、嘘をつくことが無い。精霊の本質は月日がたっても変わる事が無い。それは、不老不死だからだ。だから、ウルは信用に値する。
ヴェンダが、魔法に失敗した事は伏せた。別に、公表すべき事でもなかったし、ライニング公国の建国時のエピソードを考えれば、宮廷魔女が魔法に失敗したことは、国の力が落ちたというイメージに繋がり易い。
目的は、達する事が出来たのだから、特に支障は無い。
問題は、その後の対応だ。状況がわかっただけ、好転したと考えたい。
「しかし…」と、ケルベス軍務大臣が切り出した。
「いまだ、隣国の侵入者は本国に留まっている」
軍務大臣は一堂を見渡した。
「これに対しての対応を考えねばなるまい?」
「それならば…」
早速といわんばかりにウィルバートが地図を取り出した。
そして、王都[ヘニングリート]の位置を指差して、続ける。
「ここが、王都で、こちら側が『ストルデニア皇国』です」
ウィルバートは奢侈山脈の南端近くの国境を指した。
「単純に考えれば、ここから、ここの間に彼らは、隠れているわけです」
「それは、わかっている」
ケルベスが苛立ったように言う。
ウィルバートは、軍務大臣をなだめると、続ける。
「要するに、彼らの脅威が王都に向かわなければいいのですから問題はそれほど複雑ではありません」
軍務大臣が、不服そうに鼻を鳴らした。
文官のウィルバートは続ける。
「[黄金色の風と碧い大地]平野には、その恵みをもたらしてくれる河があります。彼らが王都に向かうにはこの流れを必ず渡らねばなりません」
「要するに、河を渡る要所に関を設けよというのだな?」
ウリアンが聞いた。その答えは肯定だ。
[黄金色の風と碧い大地]平野には、幾重にも支流を持つ河が奢侈山脈より流れている。
人々は、大地に恵みを与えるこの河を敬意をこめて[麗しの恵み]河と呼んでいた。
「この方法なら南方からの来客以外は検問する事もなく、他方はすんなりと入って来れるので大きな障害も無いでしょう」
「しかし、この策は消極的に感じる。…こうしてはどうだろう。先ほど、取りまとめた案を手直しした上でこの作戦と同時に進行させては?」
ケルベスが切り出した。彼にしては恐ろしく低姿勢な口調だった。
「古事に倣った、敵を誘い込んで一網打尽にするという案ですか?」
ウィルバートの言葉に軍務大臣が頷く。
「あの作戦なら、敵がどう動くか簡単に予測できる。その上で関を設ければ余計な手間を掛ける事も無いのではないかね?」
「軍務大臣のお言葉とも思えなせんな」
ウリアンが言う。ケルベスは微笑でそれに答えた。
ケルベスの立案する作戦は大変派手な事をで知られている。
「私とて、悪戯に兵を消耗させるより、効果的に使いたいものです。ましてや、今は「歌姫の降臨祭」が間近に迫っていて警備の兵が一人でもほしいところ。限られた兵を有効に使うためにも敵の動きは予測できたほうがいいですからな」
軍務大臣のセリフは国王を納得させたようだった。
「三人のまとめた詳細を聞こうではないか」
ユノ王は、頷くと言った。しかし、国王の胸中には別な思いがあった。
この不法入国が、「ストルデニア皇国」の大規模な侵攻の前触れではないかという思いだった。
ヴェンダは夢をみていた。
ここ暫く見た事のない鮮烈なイメージの夢だ。
夢の中で、人が死んだ。
とても、大事な人だったように思う。
私は、彼が死ぬまでただ見ていただけだった。
何も出来なかった。
大事な人・・・?
誰・・・・・・?
シルエットは男の人だった。
お父さん?
でも、お父さんは私が小さな頃に死んだ。そう聞かされた。
それに、シルエットは、もっと、若い…。
そして、顔を覗き込んだときに大きな驚き。
そこで、目がさめた。
目がさめると、見知った女性の顔が目の前にあった。
誰だったかしら?
彼女はエプロンスカートを身につけてメイドの様な格好をしている事に気が付く。
女性はヴェンダの目が開いた事に気が付くと誰かを呼びに言った。
すると、金髪の少女がやってくる。
「お姫様・・・?」
やってきたのはリスティだった。すると、あのメイド風の彼女はリスティの侍女のワーニャだったのかな?
「おねえさま、お目覚めのご気分はいかがですか?」
リスティが心配そうな顔でヴェンダに聞いた。
「昨晩は、何か、事件があっておねえさまが倒れられたと・・・」
ヴェンダは力なく、頷いた。リスティの話に合わせたのではない。状況が、よく思い出せなかった。何故、自分がここにいて、一緒にリスティがいるのかわからない。さらに、頭の中は、先ほどまでみていたであろう夢のイメージが鮮烈に焼きついていた。
「リズは、心配しましたわ。おねえさまにもしものことがあったらどうしようと…」
リスティがそういったときに、ナルタが入室してきた。
「あらあら、リスティ。ヴェンダはお目覚めかしら?」
ナルタは、動き易そうな部屋着で現れた。
リスティが振り返り、ナルタに答える。
「お母様」
ナルタは、リスティにはかまわず、ヴェンダの顔を覗き込んだ。
ヴェンダのぼぅっとした顔をみたナルタは笑みを浮かべで言う。
「やっと、お目覚めのようね。さぁ、湯浴びの用意をしておいたから体の汚れを落としてくるといいわ」
「私、どうして?」
ヴェンダは、状態を起こしながら聞いた。
ナルタは、ちょっとリスティに目をやると言った。
「ちょっと、混乱しただけよ。別に、難しく考える事は無いわ」
リスティが不思議そうな顔をして、母親の顔をみた。
「おねえさまはどうなさったのですか?」
ナルタは、リスティの頭を撫でながら言う。
「ヴェンダは魔法の反動で混乱しただけよ。さあ、そろそろ、家庭教師がいらっしゃる頃でしょう?」
リスティは、しょうがないなといった風な返事をすると侍女を伴って退室していった。
可愛らしく一礼して退室するリスティを見送って、ナルタはひとつため息をついた。
「あの子は、貴方を信じているのよ」
ナルタは、ヴェンダのいるベッドの縁に腰を下ろした。
「貴方は、世界一の魔女だってね」
「私がですか?」
ヴェンダは、俄かに信じられなかった。魔女といえば、周囲から畏怖の目で見られても尊敬や、信心の対象ではないと思っていた。
だから、人から好かれることもない。
好かれる…
その単語に結びついて人の顔が浮かぶ。
頬に小さな傷。意外と整った顔立ち。
バド=アルターナス。
その顔を持つ男の名前。
そのとき、気になっていた夢の記憶が蘇ってきた。
夢の中の死人が、バドの顔と重なる。
「ヴェンダ?」
声が聞こえた。
ふと我に返る。
ヴェンダは自分が異常に汗をかいていることに気が付いた。
傍らにいるナルタが心配そうに顔を覗き込んでいた。
「私、怖い夢をみたんです」
ヴェンダが、震える手を見つめ、自分に言い聞かせるように言う。
ナルタは、ヴェンダの傍らに座りなおすと彼女の髪を撫でながら言った。
「多分、誘眠薬の影響ね。大丈夫よ。夢は夢よ」
ナルタは、震えるヴェンダの手に自分の手を重ねると続けた。
「貴方のお母さんもね、呪文の影響や、魔法を失敗して倒れたりしたものよ」
ヴェンダは、顔を上げ、ナルタの目を見つめた。
「お母さんが魔法を失敗した事があるんですか?」
「もう、しょっちゅうよ。あの頃は、まだ、国の情勢がうまく安定して無くてね。良く、無理難題を押し付けては、イゼルダの出来る限界以上の魔法を使わせていたものよ」
ナルタは、懐かしそうに思い出話を始めた
「失敗するとね、よく、錯乱してたり、記憶が混乱してたり。だから、誘眠薬で一眠りさせて落ち着いてもらったわ」
ヴェンダは、自分が落ち着いてゆくのを感じた。ナルタの気持のあたたかさが心にしみてゆく。
「でもね、大体、翌朝には、また、別な魔法を使うべく準備をしてたわ。気丈な人だったのね」
ナルタは、遠い目をした。やさしい表情。
その視線の先には青空をたたえた窓が、心地よい風を吹きいれていた。
「さあ、せっかく用意した湯浴びの湯が冷めてしまうわ。さっぱりしてらっしゃい」
ヴェンダは、ナルタの薦めにしたがって湯浴びをすることにした。
浴室へ移動して、衣服を脱ぎ捨てた。
たっぷりと張られた、少しぬるめの湯船につかり、一息つく。
その頃になって、記憶の整理が付き始めた。
昨日の夜にあった事。
烏のウルとの出会い。
魔法の失敗。
激昂。
そして、悪夢。
悪夢は内容が具体的なだけに気になった。
ナルタ妃は、夢は夢でしかありえないし、多分、誘眠薬のせいで悪夢を見たのだろうと言った。でも、ヴェンダは、そんなふうには割り切れない。
彼に何事もなければいいのだけれど…
不意に、バドの顔が見たくなった。
数日前に交わした和やかな会話が思い出される。
心地よい時間。
大切な、宝物のような時間。
そんな、思い出を一つ一つ思い出していると、結構な時間が過ぎ去っていた。
湯船はかなり、温くなってしまっている。
ヴェンダは、湯船からあがると肌寒さを感じながらバスローブを羽織った。
着替えを済ませて、ナルタに礼を言うと、ヴェンダは自分の居所へ戻っていった。
途中、お腹がすいていることに気が付いて厨房に寄り道をして、少し食べ物を分けてもらった。
パンを二つ。
ヴェンダは、貰ったパンを抱えて、自室へと戻ってきた。
普段のように、食事の準備をする。
パンを並べるお皿を出して、汲み置きしておいた飲料水用の瓶から、木製のマグカップで水を汲んでくる。
そして、パンを食べようと席についたところで気が付いた。
グラスがひとつ、テーブルの上に出しっぱなしになっていた。
昔、十歳の誕生日のときにナルタ様から頂いた飾りグラスだ。
何故出したのだろう。
ヴェンダは、そういぶかしんで水のたたえられたグラスを覗き込んだ。
グラスの中では何かが水面付近を漂っている。
それをみたとき、ヴェンダはすべてを思い出す。
桶の水を汲みに行った時に紛れ込んできた小魚。
グラスの水面で、死んだ小魚が浮いていた。
ヴェンダは、自然と涙が溢れ出すのを感じた。
昨日、あれほど泣いて枯れたと思われた涙が、あとからあとから溢れ出してくる。
私は、ユノ国王の頼みはおろか、こんな小さな命すら救う事も出来ない。
自責の念が押し寄せてきた。
自分の唯一の取柄だった魔法も否定され、仕事も否定され、さらに、こんな小さな命ですら忙しさにかまけて救ってやる事すら出来なかった。
ヴェンダは、再び、泣き崩れた。
そして、その翌日に、彼女の部屋の前には暫く休業しますとの札が掛けられた。
お話自体は完結してます。転載にあたり加筆など行ってますので修正しだい次を掲載します。