青年剣士
個人サイトからの転載です。
ヴェンダが目覚めたとき、既に、日は傾き始めていた。
前日の徹夜と、王女様の起こした悶着がよほど応えたのだろう。
あれから、すぐに部屋に帰ったところまでは覚えていたが、そのあとの記憶がほとんど無かった。確か、ベッドへ倒れ込んだような気もするが、目の覚めた場所が部屋のソファだったので、確かな記憶ではないようだ。
一晩程度の徹夜ならどうということがないと自分では思っていたのだが、思っていたより、体力がなかったらしい。
ヴェンダは、重い頭を掻きながら身を起こしてみた。
そして、そこで初めて自分の格好と部屋の有様に気がついた。
部屋は、昨日の服が脱ぎ散らかしてあった。
普段なら、夜着に着替えてからベッドへ入るのだが、どうやら、そこまで体力がもたなかったらしい。彼女は、腰を覆う下着一枚という格好でソファに転がっていた。
母親のイゼルダが生きていたなら、女の子らしくないはしたない格好をするんじゃありませんと諫められていたところだ。
それに、夏場だから良かったものの、寒いときなら風邪を引いていた。
ヴェンダは、自分のやった失態に呆れながら、これからどうしようとぼんやりと考え出した。
とりあえず、この失態の後片付けをしなくちゃいけない。
そんな風に考え出した直後だった。ノッカーを叩く音がした。
寝不足と起き出したばかりで、良く回っていない頭が条件反射で返事を返す。
「どなたですか」
「輝ける剣士団のバド=アルターナスです。入りますよ」
そこまで言われてハッとなった。目の前を、昨日の剣士の顔がよぎる。今の自分の格好と部屋を見回す。しまった。ドアに鍵をかけた記憶はもちろん、閉めた覚えもない。
「ちょ、ちょっと待って!」
ヴェンダは、慌てて床の服を拾い始める。
こんなみっともない格好を他の誰にも見せられたものではない。なぜか、特にバドには醜態を見せたくなかった。
スカートを拾ったところで、目の前に誰かのブーツがあることに気づいた。
視線を移動して、ブーツの持ち主の顔を捜す。
赤らめた顔でどんな表情をして良いのか困っているバドの目線とかち合った。
初め、どう反応して良いかと惑っている自分に気付いた。
そして、やっと、裸身を男の人の前に曝していることに気付き、慌てて胸を覆うと、後ろを向いてしゃがみ込んだ。心の中でもう一人の自分が、バドの頬をひっぱたけと叫び始める。
一方、バドはヴェンダの動作をしばらく眺めてから思い出したようにあわてて後ろを振り返った。
やがて、長い沈黙が訪れる。
ヴェンダにとって、悪夢であってほしい長い数秒間であったし、バドにとっても居所の無い数秒間だった。
やがて、沈黙を破ったのは、バドである。
「や、やあ・・・・・・」
バドが、やっと絞り出したという声で言った。
ヴェンダは、バドの声を背中に聞きながら、体中の白い肌が真っ赤に上気しているのを感じた。こうして、背中合わせにいるのも恥ずかしい。盛んに心の中で、この男に制裁を加えろという声がしたが、ヴェンダは必死にそれを押さえ込んだ。
「ゴメン」
バドがゆっくりと言葉を選んで話し出した。
「その、着替え中だなんて思わなかったから」
「出てって」
ヴェンダは消え入りそうな小声で言った。そして、心の中で、バドは間違えただけだと何回もくり返して、深い部分についた怒りと言う名の火を揉み消そうとする。
バドは、ヴェンダの言葉をかみ締めるように時間を置くと言った。
「わかった」
そして、彼は、ヴェンダの部屋を出ていった。向こうで、扉を閉める音が響いた。
ヴェンダは、しばらく服を抱えながらうずくまっていたが、ややあって小さな声で呟いた。
「どうしよう」
そして、同じ年頃の娘より小振りな胸を覗き込んだ。
「・・・・・・見られちゃった」
ヴェンダは気持ちが落ち着くと、部屋の前の看板を不在に直すと、まだ日のあるうちからベッドへ入ってしまった。
そして思う。どうしてあの時バドを叩かなかったのだろうかと。
やがて、うとうととする頃になって出てきた答えは、何となく、バドに嫌われたくないという気持ちがあったからだろうということだった。
それから時間は過ぎ、バドは、日が暮れてから謝りに戻ってきたが、戸口の不在の表示を見て、仕方なく、翌日に出直してくることにした。
そして、その翌日、ヴェンダは朝早くに目が覚めてしまった。
無理はない。前日の陽のある内からふて寝していたのだ。
もう一度眠るにも、目がさえてしまっていた。それにそんな気にもなれない。
ヴェンダは、窓から差し込み始めた朝日を横目に見てから、ふと、昨日は体を拭いていないことに気がついた。
それに、髪の毛もずいぶん汚れていた。
だから、行水することにした。
いつもなら、厨房の裏の部屋を借りて水浴びをするため、水運びはしなくて済むのだが。そろそろ、厨房では、料理番が朝食の準備を始める頃なのでおいそれと井戸を借りる訳には行かなかった。
夜着を着替えると、両手に汲み桶を下げて部屋を出る。水汲み場は厨房と中央庭園、それから、兵舎の脇に備えてある。厨房の井戸は使えないのは判っていたので、中央庭園の井戸と、城の外の兵舎近くにある水汲み場のどちらかから汲んでくるしかない。
中央庭園は、リスティとの一件から、しばらく足を遠ざけたかった。
だからヴェンダは、兵舎の水汲み場へ向かうことにした。
兵舎までは、誰とも会わずにたどり着くことができた。別に、秘密にすることもないが、夏場とはいえ、朝早くから行水しようという物好きはそうそういない。
ヴェンダは、水汲み場に桶を投げ入れようとしてふと手を止めた。水中を何かが横切ったからだ。
目を凝らしてみて合点した。めだかの一種だ。結構な数が泳いでいる。
この水汲み場は、川から水を引いてきているため、こんな小魚達が時々迷い込む。
ヴェンダは、小魚をすくわないように注意して桶を下ろして、汲み桶二つを水で満たした。
さてと。
ヴェンダは、桶を両手に下げてみた。意外と重い。でも、何とか行けそうだ。
短い気合いを入れると、彼女は両手に水を満たした桶を下げて歩き出した。初めは速足だったが、やがて、このペースでは水を大量にこぼしてしまいそうなので、ペースダウンをする。しかし、それが返ってあだになり、跳ね上がった水がスカートをズブ濡れにしてしまった。
ヴェンダは、一度、桶を地面に置くと濡れたロングスカートをつまみあげた。そして、水桶を覗いてみた。
まだ、水は七分目ほど入っており、ちょっと少ない気もするが、行水に足りないほどではない。
再び、両手に桶を下げての行軍が始まった。ただし、今度は濡れたロングスカートが両足にまとわりついて大きな障害になった。
おかげで、ヴェンダは何度も休憩を取りながら水を運ぶはめになったのだが、そのお陰か、それ以降、ほとんど水を溢す事なく最後の難関の階段に差しかかった。
最後の難関は、全部で七段の小さな階段である。この階段さえ抜ければ、彼女の部屋はもう目と鼻の先だ。
ヴェンダは、階段の前で小休止を取ると、最後の難関を突破すべく、階段を登り始めようとした。
そして、最初の一段を踏み出したとき、スカートのまとわりつきのため、思ったより足が上がっていないことに気がついた。
でも、気がついたときには、もう遅かった。一段目に乗せたはずの右足は、思わず空を切った。続いて、ひざに体重を預け損ねたせいで、踏んばり切れずに重心があらぬ方向へ流れる。
短い悲鳴とともにヴェンダは階段の上につぶれてしまった。桶が転がる盛大な音が彼女の耳を打った。
水桶から投げ出された水が、どうした弾みか、ヴェンダの上に降ってきた。
ヴェンダは、つぶれたと同時に右足の臑を抱えてうずくまる。激痛のために声もない。
どうやら、階段の角に向こう脛をしたたか打ちつけたらしい。
息を詰め、涙目になって必死に痛みをこらえた。俗にいう弁慶の泣き所を打ちつけたのだ。忍耐の限界をとうにつき抜けた激痛が、右足から発せられて嵐のように駆け回った。
やがて、痛みが引き始めると、ヴェンダは大きなため息をついて体内にたまった空気を吐き出した。
濡れた髪から幾筋もの水滴が滴って行く。
頬をつたう水滴を感じたとき、ヴェンダは不意に泣きたい衝動にかられた。
惨めだった。魔女だの、悪魔だの世間から畏怖の目で見られていても結局は女の子なのだ。
こんな惨めな濡れ鼠になった気分は初めてだった。
泣き崩れて、このまま何もしなくても良ければどんなに楽なことか。
でも。
ヴェンダは膝頭に額を押しつけて、目をきつく閉じた。
心を空っぽにして、沸き上がってきた悲しみの衝動を押し流そうとする。
悲しみの色は、自分のポーズだったじゃないの。
感情に負けたら駄目。
ヴェンダは何度も念じて、悲しみの色を塗り潰すと、顔を上げた。
立ち上がり、水を吸ってすっかり重くなったスカートの裾を絞る。
その時、気付いたのだが、階段の角に打ちつけた向こう脛が青紫色をした痣になっていた。白い肌の上にくっきりと青紫色の痛々しいあとが浮かんでいる。
これで、当分の間、短めのスカートを履くことができそうにない。
スカートを絞り終えると今度は桶を拾いに行った。打ちつけた向こう脛がまだ痛んだがとりあえず、我慢する。
宮廷魔女が、道端で転んで濡れ鼠になってたなんていう醜態は、誰にも見せられたものではない。ヴェンダがあざ笑われるだけならまだしも、公国自身の不名誉となりうる。
転んだとき、結構大きな音を立てたから誰かが様子を見に来るかも知れない。
ここは、早めに片付けるべきだろう。
汲み桶は、一方は地面に転がっていたが、もう一方は、どうした弾みか、階段の三段目に辛うじて立っていた。水も、六分目ほどに減っていたが、一応、残っている。
これなら、身体を拭くぐらいのことは出来そうだ。
不幸中の幸いね。
ヴェンダは、明るい材料にほっとした。
幸運の女神たちは、完全にヴェンダから目を離してしまったわけではなさそうだ。
ヴェンダは、汲み桶を拾うと、今度はさっきの轍を踏まないように慎重な足取りで部屋へ戻っていった。
部屋に戻った彼女は、濡れた衣服をすべて脱いで、全裸になると、汲み桶の水を洗面用の小さな桶へ移した。
そして、手拭いを浸そうとしたとき、桶の中を元気に駆け回るものがいることに気付いた。
注意してみると、それは、とても小さな魚だった。どうやら、水汲み場で汲んだときに汲み桶の中に紛れ込んでしまったらしい。
しかし、運のいい小魚だった。もう一方の桶に入っていたら間違い無く石畳の上に投げ出されていただろうに。
とりあえず、この桶の中から掬ってあげよう。
ヴェンダは、カップを取りに戸棚へ向かった。そして、木製のカップを手に取るが、考え直して、その隣にあるガラス製の透き通ったグラスを取ってきた。
このグラスはナルタ王妃からヴェンダの十才の誕生日に送られた品物だった。今まで使い道もなく戸棚の奥で眠っていたのだが。
グラスには、ガラスで出来た本体の周囲に金属性の飾りがついている。丸で、金属性の柱に、ガラスが支えられているように見える。適度に品があり、ある程度の値打ちがある工芸品であることが伺い知れる。
ヴェンダは、タイミングを計って小魚を桶から汲み上げると、グラスを目の高さに掲げてみた。中では、小魚が元気に泳ぎ回っている。
「小魚の分際で、こんな美人の裸を見ようなんて一千年ぐらい早いぞっと」
ヴェンダはそう言って小魚を睨つけるふりを一瞬すると、テーブルの上にグラスを置いた。そして、手拭いを固く絞り、この二日間でたまった垢を拭い出す。
汚れていた髪は、先ほど被った水を有効に活用して手拭いできれいに拭いた。
本当なら、ガシャの木の樹液とたっぷりの水で洗い流したかったのだが、水はさっき、散々溢したし、ガシャの木の樹液はちょうど切らしていた。
ガシャの木は、闇烏の森まで行かなくても比較的簡単に見かけることのできる木だ。背は、2メートルぐらいで、春に黄色い花をつける。実は、砕いてつやだし用のワックスになり、樹液は、石けんのように泡立つ。
仕入れてこなければと思いつつも、ついつい忘れがちだった。今度町に出たときにでも手に入れてこよう。
やがて、ヴェンダは、身体を拭き終えるとタンスのほうへ歩みを進めた。
引き出しの中から、下着類を選び出して、身に付けた。
そして、いざ、服を選ぶ段階で彼女は考え込んでしまった。
問題は、向こう臑にある痣だった。
そうそう何本も、夏向きのロングスカートがあるわけではない。
ロングスカートは、ヴェンダの好みだったので普通より多く持っていると思うが、夏物のスカートは、長くても大抵、膝下十センチぐらいが関の山だった。濡れてしまったスカートのように踝まであるものはもう無い。
少々悩んだ末に、彼女は、長めの靴下で足を隠すことにした。夏場のハイソックスは不自然のような気もするが、この際仕方がない。痣が消えるまでの辛抱だ。
白のブラウスと、茶系の落ち着いた色使いのエプロンスカートを身に付け、白のハイソックスを履く。
濡れたままの長い髪は、タオルできれいに水分を拭き取ると頭の上にヘアピンで束ねておいた。
足の打ち身に、魔女特製の湿布薬を塗込みガーゼを当てた。そして、その上からカモフラージュ用の靴下を履いた。
気がつけば、もう陽は昇りきっており、あまり早い時間ではなくなっていた。
ヴェンダは、濡れた服を片付けると、朝食の用意に取りかかることにした。
お腹がペコペコだった。
朝食は、極簡単に済ませることにしていた。城の料理長からパンを分けてもらい、簡単なおかずを自分で作る。
使い魔に命じてパンを取りに行かせている間に、ヴェンダはベーコンに火を通して、野菜とともに皿に盛りつけた。
そして、山羊のミルクをコップに注ぐ頃になって使い魔が戻ってきた。
使い魔からパンを受け取ると、ヴェンダは席に着いた。その時になって、初めてテーブルの上にのっていたグラスを思い出した。
彼女の着替えを見ていたであろう、小魚の泳ぐグラスだ。
どうしたものか、少しばかり考えを巡らせてみたが、他に答が出ないので、食事を終えたら川へ逃がしてやることにした。
そして、ヴェンダは、食事を始めた。
極上というには程遠いが、まあまあおいしく食べられた。此処、二、三日の中では、最高の気分だった。
やがて、食事を終えたヴェンダは、鼻唄交じりで後片付けを始める。
小さな頃に、母親のイゼルダから教わった「空色の鐘」という曲の旋律を口ずさんでいると、ノッカーを叩く音がした。
「どうぞ。開いているわ」
ヴェンダは、皿を洗い場へ運びながら声をかけた。
注意してノブを回し、朝の来訪者が入ってきた。
バド=アルターナスだ。朝のトレーニング中だったのか、薄めのトレーニングシャツに、麻のトレーニングパンツ姿だ。
バドは、後ろ手に扉を閉めてから口を開いた。
「・・・・・・おはよう」
ヴェンダは、ちらりと視線をバドのほうへ走らせると、何事もなかったようにあいさつを返した。その一方で、両の手は朝食の後片付けに忙しく動いている。
「あの、ヴェンダさん」
バドが、恐る恐るといった風に切り出した。
ヴェンダは、手を止めると振り返った。そして、一呼吸ついてから言う。
「そこにかけてちょっと待ってて。すぐ終わりますから」
そして、返事を待たずに、再び洗い物を再開する。
バドは、猫騙しを食らった猫のような顔をすると、虚ろな返事をして部屋の奥へ歩みを進めた。
ヴェンダは、バドのそんな様子を背中に感じながら、心の中で笑いを堪えていた。
昨日のことを気に病んでいるようだが、もうヴェンダにはどうでもいいと感じられた。
見られても減るものではないし、もうあれは事故だったのだからと自分では割り切っているつもりだ。
それ以前に、ヴェンダにとって嬉しいことがあった。
バドがこうして、ヴェンダのことを気に留めていてくれて、しかも、気を使って来てくれた。
その気持ちが何となくこそばゆかったが、嬉しく思えた。
ヴェンダは、洗い物を片付けると、茶器のセットを持ってバドのいる部屋へいった。
バドは、借りてきた猫のようにソファへ浅く掛けて、居心地が悪そうにしていた。
そして、ヴェンダがやってきたことに気付くと、慌てて立ち上がる。
そして、どぎまぎと、彼女へかける言葉を探し始めた。
そんなバドの様子を察しながらヴェンダは、気付かないふりをしてみた。
「どうしました?」
バドは、すぐに自分の態度を否定すると、立ち上がっていたことに気付いて、ソファへ浅く掛け直す。
ヴェンダは心の中で、噴き出しかけた自分を押えつけると、何事も無かったようにティーセットの準備を始める。
カップを二組テーブルの上に並べて、オイルランプに火を灯す。そして、五徳と、フラスコをセットしてお湯を沸かし始める。
ティーポットへ紅茶の葉を入れようとポットのふたを取ったころになって、バドが意を決した様に口を開いた。
「あの、ヴェンダさん」
ヴェンダの反応を見るように、バドは一拍の間をおいた。
そして、飛び下がると、床に突っ伏して額を擦り付けた。
「昨日はすいませんでした!」
ヴェンダは、バドがこんな大げさな反応をするとは思わなかったので、一瞬、びっくりしていた。
しかし、驚きが去ってしまうと、今度は、笑いが込み上げてきた。
多分、バドは随分と悩んだのだろう。真正面からしか物事を捕らえることができない彼は、直接、本人に会って謝ることが最善の方法と思ったらしい。
私は妥協したが、彼は妥協できなかった。ただそれだけのことなのに。
何か、昨日ふてねしたことが馬鹿らしく思えて仕方なかった。
そう思ったら、笑いが込み上げてきた。だって、自分が妥協できたことを、自分以上に真剣に悩んでいる不器用な人がいたのだから。
一方、バドは、取り残されて反応に困ってしまった。
土下座をして謝ったはいいが、ヴェンダはいきなり笑い出してしまった。何か、狐につままれたような気分だった。
こういった場合、どうしたらよいのか。剣の師匠や先輩方は何も教えてはくれなかった。 ただ、唯一、師匠の言っていた言葉「何事にも誠実なれ」が彼の唯一の拠り所だったのだが、今回に限っては参考になりそうもない。
どうしようか。
バドは困惑していた。
ヴェンダが笑いだした原因はわからなかったが、何となく自分が笑われているような気がしてきた。
そう思うと、床に伏せているのが馬鹿らしく思えてきた。
バドは、立ち上がって軽く膝の上の埃をはらう。
その頃になってようやく、ヴェンダは笑いやんできた。
「ごめんなさい」
ヴェンダは、バドへ顔を向けた。
「何か、昨日のことが馬鹿らしく思えたの」
そう言ったヴェンダの顔には、優しげな微笑みが浮かんでいた。
そこには、バドの知っているヴェンダの表情はなかった。綺麗だという表現は、この時のこの人にこそ相応しく思えた。
バドは、自分がヴェンダに見惚れていることに気がついた。
魅入られるというのは、こういうことなのか。
バドの脳裏にそんな考えが浮かび上がる。
しかし、彼はそれを否定しようとした。ヴェンダは、ただ魔法が使えるというだけで、本当は普通の少女なのではないかという思いが彼にはあったからだ。
怒りもすれば、泣きもするし、そして、人に恋い焦がれることもあるはずだ。
しかし、今のバドには到底、町中に流れるヴェンダの黒い噂を肯定することはできなかった。
やがて、いつまでもバドが、自分を見つめたまま石のように硬直しているので、しびれを切らしたヴェンダが口を開いた。
「あの、何か顔についてますか」
「あ、いえ、ただ・・・」
バドは、急に我に帰って慌てふためいた。急にわきあがってきた猜疑心が、もしかすると、今のはヴェンダの魔法だったのではないのかと疑り始める。
「ただ?」
ヴェンダが、いぶかしげに聞き返した。
バドは、「ただ、君に見惚れていた」と言いかけて、慌てて、何でも無いと打ち消した。さっき、ヴェンダに抱いていた気持ちを、いま、本人に悟らせるのは何となく避けたかったからだ。
ヴェンダは、それ以上のことを聞こうとせずに、バドに再びソファをすすめた。そして、言葉をつなぐ。
「せっかく、いらっしゃたのですから、お茶ぐらいはあがっていってくださいね」
そして、紅茶の葉をティーポットへ入れる。
「昨日は、何もおもてなしできませんでしたしね」
バドは、ヴェンダの微笑みにいつもの陰りがないことに気がついた。
悲しげに微笑みを浮かべるのが、イメージとしてあったので、普通の微笑みが新鮮に見えたのか。いつもの悲しげなヴェンダよりも、今のヴェンダのほうが余程良い表情をしていると感じた。
バドが、優しげな表情でヴェンダに見入っていると、それに気がついた彼女が何事かと問いかけてきた。
彼は、茶化すつもりで言った。
「君も、女の子らしい表情を持ってるんだって感心してたのさ」
「あら、私のどこが女の子らしくないんですか」
ヴェンダが軽い気持ちでそう切返すと、二人の間に笑みが込み上げてきた。
それから、二人は取り留めない世間話を始めて、気がつけば一時間ほどの時間が経過していた。
煎れたてだった紅茶はすっかり冷めてしまい、二人のカップの六分目ほどを満たしている。途中に持ってきた木の実のクッキーも手付かずのまま盛り皿の上で佇んでいた。
今のヴェンダにとって、こうして話を続けていることが唯一無二の幸せのように感じられていた。
しかし、その幸せに感じられた時間を中断しようとする者が現れた。
唐突に、ノッカーが叩かれる。
ヴェンダは、はじめ、聞こえないふりをしようとした。
しかし、訪問者は、執拗にノッカーを叩き続けた。
バドも、訪問者が来たことに気がついたようだ。彼は、近々行われる「歌姫の降臨祭」のことを熱心に話していたのだが、ノッカーの音で口を閉ざしてしまった。
「誰かしら」
ヴェンダは、内心苛立ちながら席を立った。
自然と、挙動が乱暴になるのを必死で押さえる。
なるべく早く用件を済ませてバドの元へ返ろうと、早足でドアへ向かった。
そして、そのままの勢いでドアを押し開けた。
「あら?」
ドアの外には、侍女を従えたリスティが立っていた。
「おねえさま。おはようございます」
リスティは、両手でスカートの裾を摘むと、半歩だけ右足を前に出して初々しく頭を下げた。
そういえば、すっかり忘れていた。ナルタ様との約束があったんだ。
ヴェンダが、二組の客をどうしようかと迷っているうちに、リスティは、ヴェンダの部屋へ足を踏み入れてきた。
無論、慌てて制止しようとするが、そんなことはお構いなしだった。
ヴェンダの慌てた声を聞きつけたのか、バドが客間のほうからやってきた。
そして、リスティと鉢合わせする。
一瞬、バドは、リスティが誰だか思い出せなかったらしい。しかし、一拍の後に彼は慌てて膝を落として、国王の姫君に敬意を表す。
「あら、おねえさま。このお方は?」
奥から現れたバドを見て、リスティはヴェンダに聞いた。
バドは、ヴェンダが答えるよりも早く口を開いた。彼自身、あとになって思えば、滅多に会えない王族を前にしてあがっていたのかも知れない。
「輝ける剣士団のバド=アルターナスと言います」
リスティは、気の無い返事をすると、ヴェンダのほうへ向き直った。
「おねえさま、この方は、私が習いごとをしているときにも此処にいらっしゃるのですか」
あからさまに、邪魔にした言い方だった。
ヴェンダは、困り顔で一つため息をついた。そして、困ったような表情で視線をバドへ投げかけた。
バドは、そんなヴェンダの様子に気がついた。まあ、理由はどうあれ、王女様は頗る付きで機嫌が悪いらしい。
ここは、自分は引き下がったほうが良さそうだ。そう結論したバドは、ヴェンダに目配せをすると、口を開いた。
「王女様。私は、使いで此処に来ただけですので、用が済めば退散いたします」
「では、早く、その用事を片付けてくださいね」
言葉はやさしいが、有無を言わさぬ口調でリスティは言った。
ヴェンダは、やれやれと言った風にリスティを客間のほうへ案内した。そして、侍女にテーブルを片付けてくれるように頼んだ後で、バドの元へ戻ってきた。
「ごめんなさい。王女様がいらっしゃるのを忘れてたの」
後ろ髪が引かれる思いに駆られながらヴェンダは切り出した。
「いや、良いんだ」
バドは、ポケットから紙切れを取り出して、ヴェンダに握らせた。
「実は、師匠が関節痛の薬を切らしたもんだから分けてもらいに来たんだけど、いろいろあって言いそびれてた」
ヴェンダは、紙切れを開いたそこには、輝ける剣士団のオーナー兼師範のオキナ=カルアチーノの名前で関節痛の魔法薬の注文がかかれていた。
ヴェンダは、少し気を落としたように返事をした。
バドは、ヴェンダの瞳に影が落ちたことに気がついた。いつもの、少し悲しげな瞳に戻っている。
バドは、リスティからこちらが見えないのを確認すると、ヴェンダの耳元へ唇を寄せた。
「もしよかったら、一緒に「歌姫の降臨祭」を見に行かないかい?」
えっ?
驚いたようにヴェンダの目が見開かれたのがわかった。
バドは、身を翻してドアのノブに手を掛けた。そして、思い直したようにヴェンダに聞いた。
「薬、いつ出来るかな?」
ヴェンダは、すぐに返事を返した。自信に溢れていて、今すぐにでも作って差し上げますという態度が見えた。
「多分、今日の夜半には出来るわ」
「そうか。じゃ、明日にでも取りに来る」
バドは、ドアを開けると肩越しにヴェンダを見て「返事は、その時にもらうよ」といって、そそくさと彼女の部屋を出た。
出てから、バドは、あんなことを言わなければよかったかなと心の中で小さく後悔した。
部屋を出る時、ヴェンダとまっすぐ顔を合わせなかったのは、恥ずかしくて合わせられなかったからだった。
自分でも、はっきりわかるほどに彼の顔は色づいていた。
お話自体は完結してます。転載にあたり加筆など行ってますので修正しだい次を掲載します。