真っ白な思い。
「ねぇねぇお父さんっ変なの見つけた変なの!」
夏の暑い暑い日曜日。家のドアを勢いよく開けて、リビングで寝ているお父さんのもとに子供が 駆け寄ってきました。
「なんだ朱美、変なのって。お父さん、虫は苦手だから虫だったらしょうちしないぞ。」
「虫じゃないもの、あたしお父さんが虫苦手なの知ってるから虫は拾ってこないよ!それより見て!これ!」
朱美がふんわりと優しく閉じた両手をゆっくりと開くと、そこにはなにやら真っ白な綿毛のようなものがありました。タンポポにしては少し大きいそれは、風もないのによゆらゆらと揺れていました。
「お父さん、これなにかわかる?」
お父さんは少し驚いた表情をしました。
「朱美、これは多分ケセランパセラン…じゃないか?」
「けせらんぱせらん?」
「なんか久しぶり見たなぁ…。」
「ねぇケセランパセランってなに?」
「うーんとねぇ、ケセランパセランを見つけると幸せになれるって言われてるんだ。お父さんも昔見つけてな。少しの間だったけど飼ってたこともあるんだよ。」
「えっ!飼えるの!?」
「うん、朱美、ちょっと待ってなさい。」
そう言うとお父さんは寝室へ行ってタンスを開けました。
「あーあれ、どこに行ったかなぁ…」
「お父さん何を探してるの?」
「あー、ちょっと待ってなさい。……あ、あった。」
お父さんはタンスの奥から桐の箱を見つけてきました。
「木の箱……?」
「桐っていう木でできた木の箱だよ。ケセランパセランはこういう桐の箱でしか飼えないんだってさ。」
「へー。」
お父さんは乱暴に箱の中身を出すと、それを朱美に差し出し、朱美はケセランパセランを中に入れました。
「これでどうするの?」
「いや、まぁどうする…とかじゃないんだけど、これで飼えるんだよ。でな、ケセランパセランを飼ってると、幸せな事が起こるらしいんだ。」
「へー。」
「あ。おしろいないやな…。」
「おしろい?」
「化粧品なんだけどなぁ、お母さん化粧薄いからおしろいなんて使わないしなぁ。」
お父さんは少し考えました。
「あ、朱美、ちょっとおつかいだ。おしろい買ってきなさい。あそこ、多分、明星堂なら売ってるだろ。」
明星堂はこの町に古くからある雑貨屋で。食料品と日用雑貨以外は大抵そこで揃います。
「わかった!」
「あー、おしろいっていくら位だったっけな…」
お父さんは財布を覗きます。お札が3枚ほど。金がないな、お小遣い増えないかなと思いつつ1枚取り出しました。
「はい、これ。多分これで足りるだろ。いってらっしゃい。」
「はーい、行ってきまーす。お父さんありがとう」
と朱美はお父さんの頬に軽くチューをすると、可愛らしい財布に千円札を入れました。
そして靴を履いて外へと出ました。
朱美を送り出したお父さんは、頬をさすりながら、「へへ…さっそくいいことがあったな…。」と、小さく呟きました。
朱美が家からしばらく歩くと明星堂に到着しました。古くも、しかし貫禄がある建物はどことなく立ち寄りがたい雰囲気はあるものの、この町の人達は古くから親しんでいるお店でした。
「こ…こんにちはー…。」
朱美が恐る恐る扉を開けると、年期の入ったドアの軋む音と、その上につけられた風鈴の音が店内に客が入った事を告げる。
「いらっしゃぁい。明星堂えよーこそーぉ」
と、朱美が入ると店の奥からおばあさんのかすれた声が聞こえてきました。朱美はお父さんやお母さんとは来たことがあるものの、ひとりで来るのは初めてだったので、その独特な雰囲気や音に敏感に反応しました。
朱美が店の奥まで歩いて行くと、レジの前で店主であるおばあさんが座布団に座っていました。
「あの…。」
「おやおや、なんだい誰かと思いきや御堂さんとこの子じゃないか、名前は…えっと朱美ちゃんだっけかねぇ。」
「うんっ。」
親しく話しかけてくれるおばあさんに朱美の表情は明るくなりました。
「賢坊は元気かい?賢治だよ、朱美ちゃんのお父さんの。最近顔を見てないからねぇ。」
「うん、お父さんなら元気だよ!今日はお仕事ないからってお家で寝てるの!」
「そーかそうか、元気でやっとるならそりゃええこった。ところで朱美ちゃんは今日はひとりでどうしたんだぃ?なにを買いに来たんだい。」
そう言われて朱美はハッとした表情でケセランパセランの事を思い出しました。
「えっとね、あの。おしろいくださいっ」
「おしろい?ひぇっひぇっひぇ。朱美ちゃんもお化粧する年頃になったかえ。」
「私まだそんな年じゃないよ。」
「おや、じゃあお母さんかね。」
「お母さんお化粧薄いからおしろいは使わないってお父さんが言ってた。」
「ひぇっひぇっひぇっまぁーあの賢坊がかね。でもはて…じゃったら何に使うんじゃて………。」
おばあさんはちょっとだけ考えてニヤリと所々黒い歯を見せて笑いました。
「朱美ちゃん。まさかとは思うけんど、ケセランパセラン飼っとるんかえ?それでおしろいが必要なんじゃろ。」
「えっなんでわかったの!?」
朱美は凄く驚いた表情を見せました。
「ひぇっひぇっひぇっ。なんでかってなぁ…それはなぁ賢坊も昔飼っておったからじゃよケセランパセランを。懐かしいのぅ…。」
「お父さんも!?」
「そうじゃよ。まぁ親子二代に渡ってめぐり合うとはなんの因果かのぅ。ひぇっひぇっひぇ、これはサービスじゃ、ただでええよ。」
「えっ!?いいの?私ちゃんとお金持ってきてるよ!!」
「ええのええの。お父さんによろしくのぅ。」
そう言っておばあさんは袋に大きめの、一番シンプルなおしろいを入れて朱美に渡しました。
「あ、ありがとう…ございます。」
そう言って明星堂を後にする朱美をおばあさんは優しい笑顔で見送りました。
「あの家族は、恵まれとるのぅ。」
夕方になる頃、朱美は家に帰ってきました。
「おとーさんおしろい買ってきたよー。」
「おー、そうか。」
「で、これをどうするの?」
朱美は紙の袋からおしろいが入っている缶を取り出しました。
「うわっ懐かしいなこれ。」
「おばあちゃんが選んでくれたんだよ?」
「おばあちゃん…って明星堂のか?」
「うんっ。」
朱美の笑顔に反して賢治は無表情…というかなにか考えて居るような表現だった。
「おとーさん?」
「うぇ!いや、な、なんでもない。あの婆さんまだ生きてたのか…すげぇな。お父さんが朱美くらいの子供だった頃からあの婆さんはおばあちゃんだったんだよ。」
「へー。」
「まぁいいか。でも怖いな。ほら朱美、そのおしろいを開けてケセランパセランにひとつまみかけてごらん?あ、かけるときにお願い事をするんだよ。一晩経ってケセランパセランが消えてたら、お願い事が叶うかもしれないよ。」
「そうなんだ!」
朱美はわくわくしながらケセランパセランにおしろいをかけました。かけるときになにかを呟いてたようです。
「朱美ー。どんなお願い事したんだ?」
「ひ・み・つ」
「なんだよー、お父さんには教えてくれてもいいだろー。」
「秘密なんだったら秘密だもーん。」
その日もお母さんは帰ってくる事はなく、夜もふけ、朱美とお父さんは寝ることにしました。
次の日、朱美はお父さんよりも早く起きました。
「あっケセランパセラン!」
うとうとしていたと思いきや、突然思い出したかのようにリビングに駆け出しました。
リビングについた朱美はワクワクしながら桐の箱を静かに、ゆっくりと開けました。
「あっ!」
そこにはまだケセランパセランがいました。相変わらず風もないのにゆらゆらと揺れていました。
「ケーキ…。」
そう朱美が呟くと、残念そうに箱を閉じました。すると寝室からのそのそとお父さんがでてきました。
「おーぅ、ケセランパセラン消えてなかったのか。」
「あ、お父さん。お父さん今日もお仕事休みなの。」
「そうだよ朱美。どこか行きたいところはあるか?」
「大丈夫だよ、お父さん。気を使わなくても。お父さん、早く新しいお仕事見つけてね。」
「朱美。何度も言うけどね、お父さんはお仕事がないんじゃなくて、今は夏休みをとっているだけなんだよ?何回言ったらわかるのかな?」
「知ってるよ、冗談。」
「朱美…誰に似たんだか。」
お昼頃、朱美は友達と遊びに外に出ました。お父さんは相変わらず家の中でゴロゴロしています。テレビをつけながら横になり、いつの間にか寝ていたりしています。
ふと、お父さんは机の上の桐の箱に目が行きました。よっこいしょと重い体を起こしたお父さんは少しだけ箱を開けました。
「懐かしいなぁ…。俺もあの時、2回だっけ。1回目は忘れちゃったけど、2回目はプロポーズが成功しますようにって願ったっけな。あいつ、今大丈夫かな?」
お父さんは懐かしいような、それでいてどこか遠い目をしていました。
夕暮れが目にしみるようなオレンジ色。町全体に響き渡るヒグラシの鳴き声。商店街のスピーカーからはどこか懐かしい曲が流れてきました。
その曲に合わせてお父さんが歌詞を口ずさんでいました。
「そろそろ、朱美帰ってくるかな。」
日が沈む頃になってもまだ朱美はお父さんの待つ家に帰ってきませんでした。
机の前に座っているお父さんは少し心配そうにしています。手元が寂しくなったのか、桐の箱を触り、そして開けました 。
「あ。」
中のケセランパセランは二つに増えていました。
「朱美早く帰ってこないかな…ケセランパセラン増えたぞー。まだかなーご飯作っちゃうぞー。」
箱を閉じたお父さんがご飯を作るために立ち上がると同時に家の電話が鳴りました。
何か嫌な予感がしたお父さんは急いで電話を取りました。
「はい、もしもし…。」
「け、賢治さん!?私、千里だけど!」
「千里さん?どうしたんですか?」
お父さんの電話の相手は公園の近くに住む家族ぐるみでの付き合いがある柳葉家の奥さんの千里さんでした。
「朱美がまだ…」
「そのっその朱美ちゃんが車にひかれたのよっ!今病院なんだけど、今から来れるかしら!?」
お父さんの顔から血の気が一気になくなったのが見てわかります。顔の筋肉は一気に下に落ち、瞳孔が開き、目に光がなくなりました。
「そんな…」
「賢治さん!賢治さん!聞いてる!?大学病院に搬送されたからっ!賢治もすぐに来て!」
「はい…わかりました。」
お父さんは鍵と財布と携帯だけ持って車を走らせました。
車の中でお父さんは自然と、不思議とケセランパセランに祈っていました。
「お願い…お願いだ。朱美を…朱美を死なせないでくれ…。頼むから。」
夜の暗闇の中、車を飛ばすお父さんが病院につく頃、誰もいない家では桐の箱の中でケセランパセランが一つだけ、誰にも見られず消えました。
「朱美っ!!」
お父さんが病院のドアを勢いよく開けると、ロビーに頭に包帯は巻いているものの、それ以外はいつもと変わらない元気な姿の朱美が千里と、その息子で朱美の友達の克己と一緒にいました。
「えっと……朱美………。」
「あ、おとーさーん。」
朱美はいつもと変わらない無邪気な笑顔をお父さんに見せました。お父さんの目からは自然と涙がこぼれ落ちました。それもかなりの量です。
「えと…おとーさん?あたしは大丈夫だよ?」
「朱美ぃぃぃ無事でよかったぁぁぁぁぁ。」
お父さんは朱美に駆け寄り抱き締め持ち上げました。
「お、お父さん、痛いし恥ずかしいよ。」
それからちょっとの間、お父さんの涙は止まりませんでした。
お父さんの涙が止まってから、千里から今日あった事を教えてもらいました。
「そうか…危ないな。無事でよかったものの、朱美。気をつけなきゃだめだぞ。」
「はーい。あ、お父さん。そういえばお母さんって今この病院に居るんだよね。」
「ああ、そうだな。会いに行ってみるか。」
「うん。お父さん。あたし、弟がほしいな。」
「ははは、どうかな。」
朱美がそう言った時、また、誰も見てない家でケセランパセランが消えました。
お父さんと朱美はお母さんのいる病室へと行きました。
お母さんは窓際のベッドに寝ていました。しかし、お父さんと朱美に気がつくと起きました。
「あら、二人ともどうしたの?朱美の頭に包帯…」
お父さんはお母さんに最近あったことを沢山沢山話しました。お父さんとお母さんが盛り上がる中、朱美は暇そうにしていました。
「朱ちゃん朱ちゃん。ちょっとおいで。」
「なーに?お母さん。」
「朱ちゃん退屈でしょう?これあげる。」
と、お母さんが取り出したのはイチゴのショートケーキでした。
「どうしたの?これ。」
「まぁちょっとねー。」
朱美はお母さんからショートケーキを受け取ると、夢中で食べ始めました。それでまたお父さんとお母さんは話しを続けました。
入院中、会えなかった時間を埋めるかのように二人が話しをしていると、いつの間にか朱美は寝ていました。
「あらあら、朱ちゃんたらお口にクリームつけて。」
お母さんが朱美の口についているクリームをティッシュペーパーで拭いました。お父さんは笑っています。
「なぁ、そろそろ次の子の性別がわかる頃か?」
「ふふっそうね、私は昨日教えてもらったわよ。知りたい?」
「あぁ。教えてくれ。」
「へっへー。なんと男の子よ。よかったじゃない?アナタいつか息子とキャッチボールしたいって言ってたから。」
「そうだな、でも一番喜ぶのは朱美かもな。」
「そうなの?」
「ああ、さっき朱美が弟が欲しいって言ってた。」
「そう、最高のプレゼントができたんじゃないかしら。」
「そうだな…。もうそろそろ帰らなきゃ。」
「いやっ。泊まってけばいいじゃない。」
「でもお前…」
「看護婦さんにはいつでもいいって許可とってあるのよ。」
「そうなのか。それなら。」
「…んっ。」
夜はふけてゆく。昨日も、今日も。変わらない毎日が明日もやってくる。子供の成長は早いものだ。いつの間にか親をも越している。しかし、親から見れば子供はどれだけ大きくなっても子供。それは変わらないもの。変わらない愛情。受け継がれて行くなにかがそこにある。
「ねぇ、ケセランパセランで思い出したんだけど、アナタも昔ケセランパセラン飼ってたよね。」
「あぁ…でも一つ目を何に使ったか覚えてないんだ。二つ目はお前へのプロポーズだけど。」
「あ、ひどーい。一つ目も二つ目も私の為に使ってくれたじゃない。私が生死の境をさまよったとき!」
「あ、ああ!思い出した。なんでこんな大切な事を忘れてたんだろうな。ごめん。」
「いいわよ。これからも私を大事にしてちょうだいね、旦那様っ」
「ああ。」
星が瞬いている。夏の大三角形。鈴虫の鳴き声と涼しい風が窓から入ってくる。いい夏の空気。
今日も夜がふけていく。明日を迎えるために。