サワの涙
慶との電話を切るとサワはぼんやりしていた。
誰かを好きになることは今までだってなかったわけではない。
だが、ピアノを弾いてる時間が長過ぎて、相手のことを考える時間がなかった。
慶は穏やかでそばにいても邪魔をしない。これって大事なことだ。人の話を遮ってまで自分の話題を話し続ける同級生の中で、こんな男はいない。もちろんそんなおしゃべりも嫌ではない。しかし、いつも音楽の世界にいるサワにとって、自分のしたいことをゆっくりさせてくれる男は今まで出会った中で慶だけだ。
しかも、弁当まで作ってくれる。最近の慶の弁当は板前の作った弁当のようで実においしい。腕をあげる機会を作ってあげたのだろうか。
サワはふと、そんな図々しい考えが浮かんできたことに恥ずかしさを感じた。
「そんなこと思っちゃダメだ」
自分でこつんと頭を叩く。
ベリーショートの髪をどうしたって美しくなるわけではない。そんなこと気にしたこともなかった。だが、ふと鏡に映る自分の姿に慶にはどう映っているのか気になった。
そんなことより練習だと思うのだが、先程の慶の何か弾いてという言葉が耳から離れない。
ホマレがやって来た。
「サワちゃん、ピアノ弾きたい」
「ホマレもやる?」
膝に抱き上げるとホマレの髪から甘い匂いがする。
最近はホマレも弾きたがるので、ときどき教えるのだ。メロディを弾かせながらサワが和音の伴奏をつけるとどの曲も美しく変わる。アニメの主題歌を弾き始めるとサワはふいに涙がこぼれてきた。
自分でも驚いた。このエンディングテーマの曲が少し豪華にアレンジし過ぎてしまったのか。何だか無性に悲しくなった。
ホマレは背中にサワの涙が落ちてびっくりしたようだ。
「どうしたの? サワちゃん。お腹が痛いの?」
いつも食べ過ぎてるサワのお腹を心配してるのか。サワは少し笑いながら首を振った。
「ううん、胸が痛いの」
「大丈夫?」
「うん」
自然に出てきた言葉だった。そう、胸が痛い。慶がいないのは寂しい。
お弁当が食べられなくなるし、サワの話を聞いてくれる人がいなくなる。
慶のつぶやきも聞こえない。
いつもいつもそばにいた。当然のように思っていたけど、それが消えてしまうのか。ホマレが可愛いしサワもピアノに一生を掛けていく気持ちに変わりはない。
けれど、慶がいない。
困ったことに気持ちが高まって、サワは声をあげて泣きだした。ホマレがおばあちゃんを呼んで来るって飛び出した。
「おばあちゃん、大変だ。サワちゃんが胸が痛いって!」
祖母は慌ててやってきた。
「どうしたの? 病院へ行く?」
額に手を当てて尋ねる祖母に違う違うと首を振りながらサワは泣いた。
「お友達と別れるのが辛いのね」
「うん」
「そうね、これほど仲良くしてくれる友だちに出会ったことはなかったものね」
そうだ、そうだった。いつも風変わりな女の子をみんなは好奇心の目で見てきたが、本当の友だちができる前に転校することが多かった。
防音設備の行きとどいた家はそうなかったから。
昼夜構わず楽器の音が出ることで、いつも苦情が寄せられた。
このマンションになってからは完全な防音ということでやっと落ち着いて練習ができるようになったのだ。祖母の手は優しくサワの背中を撫でた。ホマレはアイスクリームを舐めながらテレビを見ている。サワの落ち着くのを待って祖母は静かに話しだした。
「どうしたいの? あなたが日本にいても練習はできるわ」
「うん、でもホマレも小さいし」
「あなたは親ではないの。向こうに行けばお母さんがいるし、幼稚園もあるわ。行き帰りもバスがあるしベビーシッターも見つけられる」
「うん。でも、ピアノの先生も進めるし」
「そう、本当にいいの?」
「よく分からなくなっちゃった。今までだって転校もしたし、友だちもいなかったわけではないのにこんなに悲しいのはなぜなのか」
「慶君がいなくなるからじゃないの?」
慶の名前が出て、ドキッとしたサワ。
「あんなにいい人はそういないわ」
「うん、慶はとってもいい人よ」
「それは多分恋かもね」
恋?
偉大な作曲家たちが恋に苦しみ作った曲の数々を思い出す。
「ねえ、あなたの演奏にも幅が出てきたなと思ってたわ。特に先程の別れの曲は最高だったわ」
気持ちが入りこんでいた。
今までだって弾きこなせることのできる曲だったはず。
祖母だって気付いてたのだ。サワの気持ちの変化を。
「留学のことはもう少し考えなさい。あなたが後悔しないようにじっくり考えることね」
「うん」
デートだってしたことはない。
だけど、大切にしたいこの気持ち。
「留学のことも何も話さないで進めてきたけど、ゆっくりと慶と話したいの」
「そう、明日にでも話してみたら?」
「うん」
サワは早速メールした。
「明日、会ってくれる?」
慶は余韻に浸っていたショパンの曲に涙した自分に戸惑っていた。
サワがいなくなるんだ。
サワの弁当を作ってやる人はいるんだろうか。
そこへ来たメール。
「いいよ、明日十一時に弁当持ってどこかへ行こう。家で待ってて」
「ホント? 楽しみです」
二人の気持ちは華やいでいた。
慶は二階から叫んだ。
「ねえ、冷凍庫に何がある?」
「ひき肉と海老よ」
肉団子と海老フライができるな。
慶の頭には献立が浮かんでいた。
慶の両親は目を見合わせた。
「あなた、デートかしら」
「さあな。野暮なことを言うなよ」
「そうだわ、いい弁当箱を買っておいたの。黒いのと赤いの」
鼻歌を歌いながら京子は高かった弁当箱を食卓に置いた。