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プロローグ

スマホの液晶が放つ毒々しい白光が、埃の積もったフローリングの上で虚しく明滅していた。


 カーテンを閉め切った真昼の暗がりのなか、その光だけが唯一の現実であり、俺という人間をかろうじて現世に繋ぎ止めている細い蜘蛛の糸だった。


だが、そこに表示された文字列は、その糸を無慈悲に、そしてあまりにも呆気なく断ち切った。

『……送金は今月で終わりにします。お父さんの体調も良くないし、これ以上の無理はききません。自分でなんとかしなさい。もう三十でしょ。いい加減、現実を見てください』

 母親からの、事実上の絶縁状。

 三十歳。職歴は二年前で止まったまま。貯金、数千円。

 「現実」という言葉が、耳の奥で嫌な耳鳴りとなって反響し続けた。

 現実なら、二年前からずっと見ている。見すぎて、耐えられなくて、心臓が握り潰されるような恐怖に四六時中追い詰められたからこそ、俺はこの四畳半の牢獄へ逃げ込んだのだ。

 部屋を見渡せば、そこにあるのは俺の人生の無残な成れの果てだ。


 床に散らばったコンビニ弁当の空き殻、中身の透けたゴミ袋、数週間分も溜まった洗濯物の山。


 それらは俺がこの二年間で築き上げた「逃避」の結晶であり、俺という人間の価値を雄弁に物語っていた。

 

 指先が、目に見えて震えていた。スマホを握り直そうとしたが、手のひらにかいた脂汗のせいで、端末が滑り落ちそうになる。


 返信を打たなければ。謝らなければ。いや、泣きつくべきか? だが、画面に並ぶ「現実を見て」という文字が、俺の指を金縛りにした。どの言葉を選んでも、今の俺には「嘘」にしかならない気がした。


 「来月から本気で働くから」「面接の予定があるんだ」――そんな、吐き捨ててきた安っぽい言葉の在庫はもう、とうの昔に底を突いている。


 「っ、あ……」


 喉の奥が、熱い鉄を飲まされたように焼けていた。

 呼吸が浅い。

 空気が、この部屋の淀んだ空気が、肺の奥まで届かない。


 焦燥感という名の猛毒が、指先からゆっくりと全身を蝕んでいくのがわかった。


 立ち上がろうとして、足がもつれた。膝が、ゴミ袋の山にめり込む。カサカサという乾いたビニールの音が、俺の無様な姿を嘲笑うように静かな部屋に響いた。

 俺は這いつくばるようにして、床の隅に置いた飲みかけのペットボトルに手を伸ばした。しかし、中身は数日前に空になっていた。ぬるい水の一滴すら、俺には残されていない。


 壁に背中を預けると、冷たい感覚がシャツを通り越して背骨に伝わった。その冷たさに触れた瞬間、ダムが崩壊するように、抑え込んでいた「過去の光景」が脳内に溢れ出してきた。

 今、この惨状に至るまでの、すべての起点。

 三十歳の無職。親に見捨てられた男。

 そんな化け物を造り上げた、あの日の、あの「逃亡」の記憶。

 

 俺は、目を閉じた。

 瞼の裏には、あの冷徹な職場の蛍光灯の光が、今でも鮮明に焼き付いていた。




---




瞼を閉じれば、視界は瞬時にあの日のオフィスへと切り替わる。


 二十八歳。中堅の商社で、俺は自分のすべてを仕事に捧げているつもりだった。


 冷房が効きすぎたフロアに響く、無機質なタイピング音と電話のベル。淹れたてのコーヒーの匂いと、誰かが苛立たしげに貧乏ゆすりをする音。


 そこは、俺にとっての戦場であり、同時に唯一の居場所だった。


 俺は要領の良い方ではなかった。同期が器用に上司の懐に入り、効率よくタスクを捌いていく横で、俺は泥臭く時間をかけることでしか期待に応えられなかった。


 誰よりも早く出社し、深夜まで残業し、作成した書類を何度も、それこそ穴が開くほど見直した。そうすることでしか、自分の無能さを覆い隠せないと知っていたからだ。


 だが、運命というやつは、たった一回の「綻び」を逃してはくれなかった。


 その日は金曜日だった。三日連続の徹夜と、次々に降りかかるクレーム対応で、俺の精神はすでに磨耗しきっていた。モニターの文字が霞み、思考は粘り気のある泥の中を這うように遅滞していた。


 そんな中で、俺は一通の発注データの数値を入力した。

 たった一つの「0」の過不足。


 指先がキーを叩いたその瞬間には、何も起きなかった。


 世界は相変わらず回り続け、外では夕闇が街を塗り潰していた。


 異変に気付いたのは、翌週の月曜日の朝だった。

 出社した瞬間、フロアの空気が凍りついているのを感じた。

 

 俺の席に着く間もなく、部長から会議室へ呼び出された。


「……君、これ、説明してくれるか?」


 机に叩きつけられた資料。そこに並ぶ赤字の羅列が、俺の網膜を灼いた。

 数千万円。

 それが俺の犯したミスの代償だった。協力会社への過剰発注、それに伴う納期の大幅な遅延。


 長年の取引先との信頼は一夜にして瓦解し、会社は存亡を揺るがすほどの損害を負っていた。


「申し訳、ございません……。何度も確認したつもりで……」


 絞り出した声は、自分でも驚くほど震えていた。

 だが、部長の瞳に宿っていたのは、怒りですらなかった。


 それは、汚物を見るような、あるいは使い古された道具を捨てる際のような、決定的な「拒絶」だった。


「君さ、期待してたんだけどな。真面目なフリして、結局中身が伴ってないんだよ。君がこれまでやってきた『努力』なんてのは、ただの自己満足だ。結果に繋がらない頑張りに、一円の価値もないんだよ」


 その一言が、俺の人生のすべてを否定した。

 会議室を出た俺を待っていたのは、地獄のような一週間だった。


 リカバリー作業に追われるフロアで、俺の席の周りだけが真空地帯のように静まり返っていた。誰も声をかけない。誰とも目が合わない。


 これまで一緒に酒を飲み、「頑張ってるな」と肩を叩いてくれた同僚たちが、今では俺を腫れ物のように扱い、あるいは隠そうともしない失笑を背中に浴びせてくる。

「あーあ、あいつやっちゃったよな。真面目だけが取り柄だったのに、それすら嘘だったわけだ」

 トイレの個室で聞いたその声が、最後の一撃だった。

 俺は必死だった。ミスを挽回しようと、不眠不休で謝罪資料を作り、取引先の玄関で何度も頭を下げた。


 だが、どれだけ謝っても、どれだけ泥を啜っても、失われた信頼も、自分自身への誇りも戻ってはこなかった。

 金曜日の朝。

 いつものように駅のホームに立ち、電車を待っていた。

 スーツを纏い、ネクタイを締め、形だけは「社会人」としての装いを保っていた。


 だが、心の中は空っぽだった。線路から吹き抜ける風が、俺の背中を優しく押したような気がした。

(――ここで一歩踏み出せば、もう謝らなくて済むのか?)

 ホームの黄色い線の内側。電車が入ってくる不快な轟音。

 その瞬間、俺は激しい不快感が襲う。

(俺には死ねるほどの勇気はない....)

 気づけば、俺は会社とは逆方向の電車に乗っていた。

 どこへ行くのかもわからない。ただ、あの冷たい視線がある場所から、一分でも、一秒でも早く遠ざかりたかった。


 それが、俺の「逃走」の始まりだった。

 一度逃げると、二度目は容易だった。

 退職の手続きはすべて郵送で済ませた。会社のパソコンに残った私物も、返却すべき社員証も、すべて段ボールに詰めて無機質な配送業者に託した。

 

 「少し休んで、心が落ち着いたら再就職を探そう。俺ならまだやり直せる」

 そんな甘い嘘を自分に打ち続け、俺はこの四畳半の部屋に逃げ込んだ。

 それから二年。俺が向き合ってきたのは、履歴書の空白期間と、次第に増えていくコンビニ弁当のゴミだけだった。



---



 瞼の裏に焼き付いていた職場の蛍光灯が消え、意識は再び、淀んだ空気の漂う四畳半へと引き戻された。


 二年前のあの朝、駅から逃げ出した瞬間の「解放感」は、今や俺を縛り付ける「絞首刑の縄」へと変わっていた。

 逃げ続けた足跡の終着点が、このゴミに埋もれた万年床だ。

 「はぁ……はぁ……っ」

 呼吸がうまくできない。喉に何かが詰まっているような閉塞感。

 スマホの画面には、依然として母親からの最後通告が光り続けている。


 送金の中止。


 それは、俺をこの「安全な檻」に繋ぎ止めていた唯一の生命線が絶たれたことを意味していた。

 今さら外に出たところで、誰が俺を拾う? 履歴書に刻まれた二年の空白は、社会から見れば「死んでいる」も同義だ。二十八歳で一度死に、三十歳で二度目の死を迎える。ただそれだけのことだ。

 「……水。水を飲まなきゃ」

 

 極度のパニックが、俺の思考を支離滅裂な方向へと飛ばした。

 まずは水分を摂って落ち着こう。そうすれば何か名案が浮かぶはずだ。親に送るための、もっともらしい「嘘」の続きが。

 俺は這いつくばるようにして立ち上がり、サンダルを突っ掛けて部屋を飛び出した。水道代さえ滞納し、蛇口から出るのは錆びついた沈黙だけだったことを思い出したのは、ドアを閉めた後だった。

 共用廊下に出ると、数日ぶりに吸い込む外気が肺を突き刺した。

 午後三時の、あまりにも平穏な街の風景。遠くで子供がはしゃぐ声が聞こえ、近所の主婦が談笑する音が風に乗ってくる。そのすべてが、今の俺には鋭利な刃物となって降り注ぐ。

 

(見ないでくれ。俺を見ないでくれ。俺は、ここにいない。俺は、死んでるんだ)

 誰かと目が合うことへの、異常なまでの恐怖。

 俺は頭を深く垂れ、足元だけを見つめて階段へと向かった。

 築四十年のボロアパート。鉄製の階段は至る所が錆びて剥げ落ち、昨夜降った雨のせいで、ぬらぬらとした不気味な光を放っている。

 一歩、二歩。

 一段ずつ、慎重に下りるべきだった。だが、俺の意識はスマホの中にあった。

 ポケットの中で震えたスマホを取り出し、求人サイトの通知を確認する。「未経験歓迎」「アットホームな職場」。そんな甘い言葉を、すがるような思いで見つめていた。その言葉の裏側に隠された、俺をあざ笑う社会の顔から目を逸らすために。

 その時だった。

 

 サンダルの底が、雨に濡れた鉄板の上の「滑り止め」ではない、ただの「滑り」を捉えた。

 

「――あ」

 

 内臓が浮き上がるような、奇妙な浮遊感。

 視界が、青い空と錆びた手すりの間を、コマ送りのように回転した。


 手から離れたスマホが、スローモーションで空を舞い、光を反射してキラキラと輝いている。それは俺がこの二年間、命よりも大切に握りしめていた「逃げ場所」だった。


 止まるはずだった左足が空を蹴り、右足の支えも呆気なく外れた。


 重力が、俺という残骸を地面へと引きずり下ろす。

 思考が、人生のどの瞬間よりもクリアに加速した。


(ああ……俺、また踏み外したんだ)


 仕事でも、人間関係でも、家族の期待でも。

 肝心なところで目を逸らし、足元を固めることから逃げてきた。

 そのツケが、今、このコンクリートの地面に向かって支払われようとしている。

 最期くらい、逃げずに、ちゃんと前を見ておけばよかった。

 「現実」を、ちゃんと直視しておけばよかった。

 ――次の瞬間。

 

 バキリ、と。

 湿った薪を叩き割ったような、鈍く、重い音が頭蓋の芯に直接響いた。

 

 痛みは、想像していたよりもずっと短かった。


 ただ、凄まじい衝撃が脳を揺らし、視界が真っ白な光に塗り潰された後、急速に「夜」が訪れた。


 首が不自然な角度で折れ、コンクリートの地面に吸い込まれていく。

 口の端から温かい液体が溢れ出し、冷たい地面の温度を奪っていく。


(嫌だ……。こんなの、嫌だ……!)


 誰にも看取られず、アパートの裏階段の隅で、ゴミ袋のように転がって終わるのか。

 数日後、ハエのたかる死骸として発見され、大家に舌打ちされ、親には泣かれ、かつての上司には「最後まで期待外れだった」と鼻で笑われる。

 

 そんなの、あんまりじゃないか。

 俺は、俺はまだ、何も成し遂げていない。

 誰の記憶にも、爪痕一つ残していない。

 自分という存在を刻み込んでいない。

 両親は自分が死ねば、悲しむだろうがそれだけだ。

 この世界は、変わらず回り続ける。

 

(やり直したい……。もし次があるなら、次は……絶対に……!)

 

 逃げない。

 ミスをしても、笑われても、どれだけ不器用だと罵倒されても。

 泥を啜ってでも、その場に踏みとどまって、一歩ずつ自分の足で歩いてやる。

 たとえ足元がどれほど滑りやすくても、目を逸らさずに、この二本の足で地面を掴んでやる。

 

 「……つぎ……は……」

 

 血を吐き出すような、魂の叫び。

 それは言葉になる前に、急速に遠のいていく意識の波間に消えた。

 俺の、三十年の無価値な人生が、冷たいコンクリートの上で完全に幕を閉じた。

 



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