【BL】ある囚人について
ああ神よ、もし貴方がこの世に在らせられるというのなら、彼等を謳い給え。天よ、どうか彼等の行く末に光が差しますように。
そう言わせる程の者達に、私はあの日出会ったのです。
その日から私は、とある牢獄で働くこととなった。理由はと問われれば、給料が良かった。それだけだ。たまたま、我が家が牢獄の近くにあって、囚人の世話役を探しているとの張り紙を見たから、応募しただけである。私の住む街の中には、大きな牢獄が鎮座している。名をヴァロワ、この地の古い地名を冠する、貴族も王族も、平民も、罪人となった者達が一斉に送られる冷たい石壁の要塞である。
張り紙にはこうあった。今後一生牢獄を出られぬこと。だが、その対価は莫大で、私はそれに飛び付いたのだ。我が家は金が無い。下の兄妹も多かった。それだけのことだ。
なかなか人が集まらなかったようで、私が二つ返事で了承すると、整った身形の男はとても喜んだ。その後は一度自宅へ帰り、家族に説明をして、家を飛び出した。未練はありませんでした。
彼等は、そんな牢獄におりました。金色の髪の従者と、灰色の髪の貴族です。えぇ、本当に貴族かは分かりません。もっと上の身分であるのかもしれません。ですが、私にはそれを知る術はありませんでした。何も教えられませんでしたから。
牢を案内した男が説明する。「生きていくことならば案ずるな、ここでは何の苦労もない。だが、命の保証はできない。あの囚人に関することは、何も知ろうとするな。それが守れるならば、お前は生きていけるだろう」それが、男の言葉でした。
事実、嘘はありません。確かに私個人の部屋があり、必要な物は何でも揃っておりました。灰色の囚人専用の食堂があり、彼は一人特別な食事を提供されているようでした。
外界と隔絶する巨大な壁に囲まれながら、彼等は更に壁に囲われた塔の中にいます。しかし、その生活は市民である私共とは天と地程の開きがありました。
先ず牢獄はまるでとある居城の一室のようです。敷き詰められた毛足の長い絨毯と、窓に垂れ下がる濃紺のベルベット。ベッドは人が数人は寝られそうな程に広く、やはりカーテンが垂れ下がっておりました。
テーブルや椅子などの家具に、花瓶等の飾られた調度品も、どう見ても我々には一生縁の無い物のように見えます。私はどこで働く事になったのか、一瞬忘れてしまいました。
というのも、まるで芝居の大道具、小道具の様に、あまりに整い過ぎていたのです。生活感などありません。全てに温もりがありません。空気は乾いて、何の匂いもありませんでした。
それでも、窓から差す光は明るく、この部屋の主とその従者はまるで絵画のように美しいまま、ただ其処に在りました。しかし、彼等は光を嫌うのか、敢えて影となる場所にいたのです。
とても不思議でした。特に従者の彼は小麦色の肌と金色の髪と翡翠の瞳、白いリネンのシャツという、光が似合う容姿であったのに、彼は笑顔で日陰にいたのです。灰色の髪の囚人は実のところよく分かりません。ただ、彼は朝よりも夕暮れ、夕暮れよりも夜が似合う…。そんな気もしたのです。
ですが、その人は常に黒いビロードの布で顔を隠しておりました。故に私の想像でしかありません。私は終ぞ、彼の顔を知る機会はありませんでしたから、そうするより他ないのです。
また、私は彼の声も知りません。後に知ることとなりましたが、あの方は人前で声を発することを禁止されていたのです。つまり私は、顔を隠した置物のような姿しか知りません。ですが、今でも彼の姿は目に焼きつき、目を閉じればはっきりとその姿を思い描くことができます。それくらい、異質という言葉が似合う御方でした。
光沢のあるとろりとした宵闇の布で顔を隠したその人は、私をとても睨んでおりました。不思議と、私にはそれがわかったのです。灰色の髪を横断する布を固定する黒い絹のリボンと、袖口を飾るシルクレースを用いた白いリネンシャツ。ラベンダー色のシルクのジャボと、それを留める青紫色の大きな宝石のブローチは、その細部まで明確に覚えております。そんな牢獄という言葉と釣り合わぬ出で立ちの男が、シャンデリアに似た硝子細工のランプの下に鎮座していたのです。
黒い細身のシルエットのパンツには金糸の装飾がありました。それに包まれた長い足を持て余すかのように組み、彼はずっと私に敵意を向けていたのです。しかし、その空気は突然、いとも簡単に変わってしまいました。
「あの人は此処より外の雑用をしてくれるだけです。此処には入って来ませんし、私は此処を出ることもありませんから、安心してください」
金糸の髪の従者が、そう言った。それだけで、舞台の上の豪華なハリボテのような牢獄に、僅かな温度が混じる。従者の青年は笑っていた。囚人の男は、その笑顔を見ていた。視線を感じられなくなった新入りの心には、小さな空虚が出来た。しかし、その理由は分からない。
そんな一声だけで、囚人の視線は翡翠色の瞳だけを追っていた。首を動かしたことで、彼の顔を覆っている布が揺れる。ただ、布が顔の前に吊り下げられているだけであるというのに、その布は揺れ動くことはあれども、彼の顔に吸い付く様にその容貌の一切をひた隠しにしていた。
「寧ろ、あの人には感謝をしないと。これで、私が此処を出ることが格段に減るんですから。食事を取りに行くことも、水桶を取りに行くことも、風呂の用意をすることも、彼が全てしてくれます」
私はずっとこの部屋で、貴方のお世話だけをするんですよ。と、青年は言う。影の中にありながら、その笑顔はどこか眩しく、華やいで見えた。それを布越しに感じ取ったのか、男は静かに頷く。布の裾が、僅かに揺れた。
私は何も言えませんでした。言葉を発することさえ烏滸がましい。そんな気持ちが、いつまでも消えませんでした。あの部屋にいるのは場違いという他なかったのです。あの部屋は、確かに牢獄でした。あの2人だけの牢獄でした。
私にとっては作り物の、見掛けばかり上等なハリボテでしたが、彼等にとってはやはり牢獄であったのです。あの牢獄という小さな世界で、彼等は望み通り囚われている。誰の介入も、邪魔も寄せ付けず、2人だけの世界がそこにある。とても美しく、とても残酷で、私にとってはただ冷たい世界がそこにはありました。
その日から、仕事ははじまった。そこはまるで、小さな貴族屋敷のようだった。この塔には、新入り以外にも彼のための働き手が揃っていたのだ。彼一人のための料理人がいて、彼一人のための洗濯室があり、彼一人のための庭師がいる。ここに居る全ての人間が、彼という一人の囚人のために集められ、彼の生活を支えていた。目を見張る他なかった。此処に連れて来られた際に、この塔へ続く渡り廊下の扉の鍵を見たことを思い出す。
銀色の似たような鍵が並ぶ中に、唯一金色の鍵があった。磨かれ、繊細な彫りが施されたそれは、まさに囚人の彼そのもののような姿であった。囚人という大多数の中にあって、絢爛異質な様が、ぴたりと重なる。そして、そんな彼が特別な扱いをしている青年は、一体何者なのだろう。あの青年はあの方の顔も声も知っているのだろうか。それを羨む自分はおかしいのだろうかと、井戸の水を汲みながら、新入りはそんなことばかり考えていた。
私は毎日掃除をし、水を汲んで風呂を沸かし、彼等のための食事を届けておりました。大変でしたが、辛くはありませんでした。何故なら、そこでの生活は普段の生活よりもとても有意義であったからです。
仕事は忙しくも、しっかりと腹一杯の食事をすることができました。硬い木の板と寝藁の上で寝ることもありません。寒さに震えることもなく、清潔なシーツと布団と衣服もありました。そして何より、彼等が居るのです。この塔の中では、確かに彼等が息づいていて、此処で生活しているのです。
まるで城下町のようでした。無論、塔が城です。他にも図書室や応接間等もあるようで、私の知る獄中生活とはやはり無縁の方でした。
私の仕事の一つに、2人のための食事を運ぶというものがあります。サラダに前菜、スープにメインの肉や魚料理、焼きたてのパンとワイン等、それらを一日朝夕運びます。一回の食事だけでかなりの品数が沢山ありました。
その日は特に品数が多い日であったと記憶しています。食事を運ぶのは私だけではありません。そのため数人で、それらを一度に運ぶのですが、その日はその人数でも足りませんでした。誰かもう一人、そうして悩んでおりますとあの金色の髪の従者が現れたのです。
「今日は運ぶのが大変かと思いまして、私も手伝いますね」
やはり彼はあの方の全てをご存知のようで、そう言って置かれていた残りのお盆を手に取りました。彼も我々と同じである筈なのに、どうしてでしょうか。私は彼にそのお盆を持たせることを酷く申し訳ない行いであるかのように感じたのです。彼はそんな私のことなど気にもせず、頬の肉を柔らかく持ち上げ笑っています。やはり彼もまた、私達とは違うのです。
そうして彼を先頭に、私達は塔を登ります。食事ができるだけ冷めぬよう、普段は急いで登るのですが、その日は少しだけゆっくりでした。青年が先頭にいるからです。「急がなくて宜しいのですか?」と、私の後ろの男が声を掛けます。青年は振り返り、「問題ありませんよ?」と、にこやかに返しました。何とも不思議です。温かな料理を食べてほしいとは、思わないのでしょうか。しかし、私の浅はかな考えは、彼の笑顔であっさりと一蹴されてしまいました。
「私が味見をしてから召し上がるので、今冷めても後で冷めても一緒なんです」
あぁ、そうか。彼は、命すらもあの方にお預けしているのだ。私達が彼に危害を加えぬよう、彼の命が簡単に奪われることのないように、彼は全てを差し出せる。だからこそ、あの御方はこの従者だけをそばに置かれるのだろう。羨ましくも、私には到底出来ぬ行いだと、密かに項垂れておりました。私の運ぶこのスープにも、もしかしたら毒が含まれているかも知れません。それを平気で飲めるのは、毒が無縁であるからこそなのです。しかし、彼等は違います。死が常に寄り添っていて、それらを跳ね除けるために自身を差し出す者がいる。そうして漸く、口を付けることができる。やはり彼等は、私達とは違うのです。
食事が運ばれて来る頃には、すっかり白い湯気が消え失せていた。僅かに盆の下に熱はあるものの、殆どは逃げ去っていることだろう。どれもこれも、表面は冷たいに違いない。その食事を誰もが囚人の部屋には運び入れず、その牢獄に続く部屋の長テーブルに置こうとした。それが常であったが、その日は違っていた。
「すみません、数が多いので一人手伝ってくれませんか?私だけでは運びきれません…」
青年がそう言った。また、あの御方の姿を見ることができる。新入りの胸は高鳴った。しかし、それをおくびにも出すこと許されない。酷く悩んだ。しかし、誰も手を挙げる者もいない。そんな様子を見兼ねて、青年は一人を指差した。
「じゃあ、貴方で」
そう言った青年の指先は、新入りに向けられていた。新入りはその指先を舐めるように見て確認し、最後には自らを指差した。
「私…ですか?」
青年は頷いた。
「はい、貴方です。よろしくお願いしますね」
残りの2人は、振り返ることなく階段を降りていった。薄情な者達だ…とは思わない。何故なら新入りの顔には、嬉々とした確かなものが薄っすら透けていた。それを見抜いたのか、将又偶然か、そんなことはどうでも良いことだった。
青年はズボンのポケットから鍵を取り出し、牢獄の扉を開けた。鉄製で、とても重々しく、冷たい扉であった。その奥に広がるのは、鉄扉には似つかわしくない豪華絢爛な舞台の上である。
相変わらずのその場所に、新入りは一つの違和感を覚えた。ハリボテの、乾いた空気の舞台に微かな熱の残り香がある。ベッドが乱れているわけでも、カーテンのタッセルがだらしなく吊り下がっているわけでもない。整然としたままだ。だが、そこには以前に無かった熱がある。
「あぁ、良かった。ちゃんと布をしていましたね」
青年がそう言うと、新入りは日陰の中のテーブルに座る囚人を見た。やはり囚人というには美しい身形をしていた。顔には黒のビロードの布が垂れ下がり、レースが美しいシャツと、薄青色のジャボを青い宝石のブローチで留めている。
その時新入りは、もしかしたら、顔を見られる機会があったのかもしれないと思い至った。
「もし、顔を知られたりすれば貴方も私もこの人も、みんな殺されていたでしょうから、安心しました」
青年はまるで天気の話でもするかのように、淡々と、普段の会話の一部の様にそう言った。そこで新入りは、自身の甘さを自覚するのだ。乱高下するこの心すら、彼等の手の上で転がされているようで、はじめて此処に来た日よりも落ち着かない。そう思いながら、彼は大きなテーブルの上に料理を乗せた。
青年もまた自分が持ってきた分を乗せ終えると、そのままお盆をテーブルに残したまま、男が座る席の斜め向かいの椅子を引いた。椅子は2脚。一つは男が座り、もう一つは最初からそこにあった。今、最も彼に近い場所、そこに青年は当然のように座る。そして、そこに置かれていたカトラリーを手に取り、今持ってきた料理に平然と口を付けはじめた。
「今日はアーモンドスープみたいですよ」
最初はスープからだった。やや深みのある銀のスープ皿に白濁の液体が注がれている。確か、アーモンドをすり潰し、ブイヨンで溶いたスープであった。彼はそのスープを銀色のスプーンで静かに、一周搔き回す。そして、スプーンの色を確認した。そして、その白濁を掬い、一口啜った。
彼は貴族ではない。僅かに音がした。だが、それを男が気にした様子は無い。だが、彼がスープを口にする姿をただ、じっ…と見つめていた。
僅かに突き出される青年の唇。乾いていて、少し皮が剥けている。しかし血色は良く、赤々としたそれが白濁に口付けた瞬間、気が付けば新入りは目を逸らしていた。浮き上がる薄皮の上に、スープの白がついている。それはだんだんと染みていき、薄皮を唇へと馴染ませた。今の彼の唇は、ほんの少し潤んでいる。
全てを見なくて良かったと、新入りは思った。伏せられた翡翠の瞳、それに被さる金色の睫毛と、銀色の匙を手に取る小麦色の指先、どれも見てはいけないものだった。
「うん、美味しいです。はい、ちゃんと食べてくださいね」
そう言って彼は男の前にスープ皿を置く。すると、緩慢にスプーンを手に取り、その匙をスープの中に潜らせる。一度掬い上げてから、細い滝のようにそれを皿に戻した。囚人はそれを繰り返し、口を付ける様子は無い。青年とは違い、その動きはまるで人形か、生気のない生き物のそれであった。
「あ、他の料理も全部持ってきてください。全部味見をしてからじゃないと食べられないので」
もう少し二人の様子を見ていたかったが、言われるがまま新入りは料理を運んだ。
その日の献立は、アーモンドスープ、卵を崩して焼いたもの、香草と魚の酢漬け、鴨のロースト、ミートパイ、子牛と根菜の煮込み、白パン、乳を甘く煮たものという何とも豪勢な食事でありました。それらを全て、ベッドとは反対側の長テーブルの上に置きます。従者はそれら全てを毒見するのでしょう。スープの後には、卵に手を付けます。やはり銀色の匙で掬い、口へと運びました。卵とバターと少しの乳を火にかけたものです。固形と液体の中間にある黄色いとろりとしたものを、彼は一口食べました。
口の端から、黄色が少し垂れています。彼はナプキンではなく、己の指でそれを掬い、口へと運びました。
「うん、これも大丈夫です。どうぞ、美味しいですよ」
スープを口にする素振りを見せないその御方は、やはり卵にも興味がありませんでした。従者がそれを彼の前に置いても、一瞥することすらありません。あの方はずっと、料理を一口味見する彼を、只々見ていたのです。
その後も魚、鴨を一口食べ、ミートパイに手を伸ばします。すると、その皿に彼の手が届く前に、男の手がその皿を手に取りました。食べるのでしょうか、私は素直にそう思ったのです。しかし、そうではありません。あの御方はそれを手に取ると、硝子のない鉄の格子窓からそれを捨ててしまったのです。私は呆気に取られ、ただ見ているだけでした。美味しそうということもありました。ですが、それ以上に従者の言葉が刺さったのです。
「あ!駄目じゃないですか…。誰かが食べて、死んだらどうするんです?」
その言葉に、答える者はありません。私は答えられる言葉は無く、あの方にしてみればそれは些末なことなのでしょう。そして、あの美味しそうなパイは不幸なパイでした。運んだのは私ではありませんが、死が私のそばにもあることに気が付き、末端から冷えていきました。
ですが、そんな私に彼は一つの皿を差し出したのです。それは牛の乳に蜂蜜を入れ、煮たものでした。
「駄目ですよ、その人は関係ありませんから」
止めたのはやはり従者です。私はその場で足の力が抜けました。手を伸ばしていたのです。その時に、意味を知りました。あの御方の行動の意味を、私は彼の言葉で知ったのです。気が付けば、崩れ落ちておりました。絨毯が柔らかく、私の膝を包みます。ですが、その床は酷く冷たいものでした。硬い氷の上に絨毯を敷いたようで、私の芯までも熱が奪われていきます。生が遠退くようでした。首の皮は繋がっても、熱はそうそう戻りません。
「ほら、それは私が預かります。ちゃんと調べてもらいますからね」
従者の青年の手が、しっとりと皿を持つ手に触れました。するするとあの方の手の筋、骨、肌を滑り、最後は銀色の皿へと触れました。ゆっくりと皿が抜き取られ、それは壁際の棚の上へと追いやられていきました。
その後、新入りは暫しそこから動けずにいた。囚人は興味も失せたのか、そのまま見向きもせず席へ戻る。青年もまた席へと戻り、子牛の煮込みとパンを一口食べました。彼等の視界にはもう互いしか居らず、残った全ての皿が囚人の男の前に並べられる。
男の手が徐に、パンへと伸びた。その様子を青年は嬉しそうに見ている。一口分というには、少し大きなその欠片の上に鴨のローストを一切れ乗せた。それを彼は青年の口元へと運ぶ。
「あの…それは貴方が…」
青年の言葉はそこで途切れた。彼がパンを突っ込んだのだ。膨れっ面のまま、青年はパンを咀嚼する。項垂れていた新入りはそんな彼等を見ることはなかった。
その後、酢漬けの魚も、子牛の煮込みも、アーモンドスープも、男はパンと共に青年の口へと運ぶ。彼がもういいと言うまで、それは静かに続いた。男が口にしたものと言えば、スープの一滴だけだった。青年の口の端から垂れたそれを、男の白い指が拭った。それを見て暫し考え、そのままその指は黒いビロードの中へと消えた。微かなリップ音がした。新入りはその音で顔を覆った。
青年の顔には薄っすらと朱が見える。しかし、男は気にせず、布で覆ったその顔を彼の耳元へ近付けた。彼の呼気で布が揺れる。小刻みのそれはビロードの表面にできる皺の天辺の艶で、漸くわかる程度のものだった。何と言ったのかは、青年の耳と布に吸われ、新入りには分からない。それを知るのは彼の口からではなく、代理の口からであった。
「『ところで、お前はいつまで其処に居るつもりですか?』と、仰っています」
それを告げる前に、彼は一度溜息をついていた。男に対する呆れか、宥めるのを失敗した自分に対する呆れかのようなそれを、彼は漏らしたのだ。そして続いたその言葉、それは神のお告げのように感じられるものであった。
気が付けば、私は階段の真ん中におりました。塔の上の牢獄と城下町を繋げるその中腹、そこに私はいたのです。人は兎角浅ましく、その欲望を見抜かれたようで、足の感覚がありません。膝から下へ向かうほどに、どうやら痺れいているようでした。私の足はどんな形をしていたのか、そんなことすら分からぬ程に、私はそこにいたようです。
見てはならぬものを見たい。好奇心という欲望は、簡単に命を要求します。そして、欲に駆られた者達は、あっさり差し出してしまうのです。事実私は、その欲望の中にいました。
ただの食事です。食事というものは、あれほど淫らな行為でしょうか。いえ、本来食事とはそういうものなのでしょう。誰かの命を奪い、それを摂取する行為とは、欲の権化に違いありません。それを、普段の生活の中で、ただ忘れていただけなのです。
血と肉と唾液が彩る口内のなんと淫靡なことでしょう。悩ましい程の艶を帯び、熱を纏った血が張り巡る肉の、なんと柔らかそうなこと。桃色と言うには生々しく、赤というには薄弱として、やはり肉の色というのが相応しい。その中にある硬質な白い歯と、ざらついた赤い下と、その中に入り込む銀の匙。それらを見て沸いた私の血は、本当に彼等と同じものなのでしょうか。
そして、あの白い指と、湿った肉の音。青年から溢れた一雫を、一人の男が貪るあの姿に、私は生きた心地がしませんでした。
その日からずっと、私の喉はひりつくのです。食堂の人間が何人か入れ替わっていましたが、そんなことは些細なことでした。誰も気にしておりません。大切なのは我が身です。
ひりつく喉は、治るということがありません。理由は分かっています。治らなくてもよいのです。あの階段を登る度、それは段々と酷くなりました。風邪の引きはじめの、あの喉の違和感と痛みの境に私はいつもいたのです。これを超えてしまえば痛みへと変わるのがわかるその一線、私には壁か崖のようにも見えました。足は竦み、背筋には冷たいものが流れます。越えてはならぬと分かっています。喉に何かが通る度、声を発する度、呼吸の際ですら、痛みが喉を蝕みます。その辛さを知っているのに、私の足はおずおずと、その際へと近付いていくのです。
喉が乾いて、粘度のある唾液が口に溜まっていくようでした。何れこの喉の壁が貼り付いて、私の呼吸を奪うのでしょう。最後の間際、私の脳裏に過ぎるのは、あの食事の光景なのでしょう。今でも私の鼓膜の奥には、あの湿った肉の音が響いておりましたから。それから数日のことでした。その啓示を告げたのは、金色の髪の青年でした。
従者曰く、話があるとのことだった。彼に呼ばれて向かった先は、塔の上であった。一段登るごとに、足が重くなっていく。階段を一段一段登る毎に、その重りは増えていく。
「大丈夫ですか?」
前を行く青年が振り返る。後ろの足音が遠ざかるのに気が付いたのだ。新入りの目は、白目を向きかけていた。呼吸が荒く、手先が震え、足を引き摺っている。酷く汗をかいていて、それでも必死に後を追っている。
青年は目を見開いた。まさかそんな姿になっているとは思わなかった。
「もしかして、殺されるとでも思ってます?大丈夫ですよ、ただ貴方にお願いがあるだけですから」
彼は笑ってそう言った。死ぬことはないから安心してほしいと、彼はさぁ、行きましょうと彼は上を指差した。新入りの脂汗は引かない。青年が気が付くことはなかった。
部屋に着いてからというもの、私は顔を上げることも、言葉を発することもままなりませんでした。従者の青年は、首を傾げて此方を見ます。あの御方は、此方を見ることはありません。
目を真ん丸にして首を傾げる己の従者が、とてもお気に召したのでしょう。あの方の視線を私が感じることはありませんでした。
「そんなに緊張しないでください。お願いというのは簡単で、貴方に客人の応対をしてほしいんですよ」
彼は人に好かれる笑みを浮かべ、そう言いました。
「いつも食事を置いていく部屋があるでしょう?あそこを貴方の部屋にして、常に誰かが来たら貴方に最初に応対してほしいんです」
私は直ぐに対応できないこともあるので、と言葉を続けた。それが、彼等のお願いでした。
何とも甘美で、それ以上に残酷で、とても狡い願いです。誰よりも近くに置いておきながら、越えてはならぬ境界を誰よりも目の前に見せつける。その鉄扉は重く、固く、堅牢で、唯一の鍵は青年の手中にあります。何とも酷い話じゃないですか。私はただ、鉄扉を見ていることしかできません。
でも、一番酷いのは、私が断ることがないと知っていることでしょう。えぇ事実、私は黙って頷きました。
それから直ぐに、塔の中で簡単な引っ越しが行われた。新入りの部屋は牢の前にある階段と牢を繋げる境の一室となったが、そこでの生活に慣れることはなかった。牢を訪ねる人間など、そう多くはないと思っていたが、それは誤りであったらしい。男の牢には、毎日の様に誰かしらが訪れた。
先ず、新入りの部屋がノックされる。対応するのは当然新入りで、当初は訪れた全員に、難色を示された。あからさまな態度を取られたことは両手両足の指でも足りない。それでも新入りは彼等を通さず、囚人に命じられたことだけを繰り返した。大抵は牢へと彼等を通し、そこでのやり取りを見守って、彼等と共に牢を出て、階段まで見送るのだ。やって来る者は様々で、一番多いのは階下で働く者達とこの牢の管理者と聖職者、その次は定期的にやって来る医者と時折訪ねてくる高い身分であろう者達であった。
何の話をしているのか、新入りは知らない。だが唯一、あの男は神を信仰していないことだけは知っている。聖職者達が神の教えを説き、許しを請えと言う中で、彼はずっと頬杖を付き、チェスの駒を弄っていた。彼等が残していった神の教えが書かれた本は、全て暖炉の火種となった。従者の彼にも神は居らず、長い話を聞く間、新入りの隣でずっと欠伸を噛み殺していた。その光景を、理解出来ぬものとして見ていた。
この牢獄の中で誰が一番偉いのか、私にはわからなくなっておりました。彼等の生活と看守である司令官ですら、あの御方の前では帽子を取り、彼に勧められるまで椅子に座ることがなかったという周囲の態度が、私を混乱させました。
ですが、今思えば最初から、私は既に分かっていたのです。何故ならずっと、私は彼の命しか聞き入れきませんでしたから。そのことに気が付くまでに、酷く時間が掛かりました。
私がそんな目眩を抱えていても、仕事は待ってはくれません。この仕事は、入浴の準備をし、あの御方の夕食を運び入れることで終わります。あの御方は入浴を好まれますので、度々湯を沸かし、浴室へと運び入れました。塔の上まで湯を運ぶと、忽ち冷めてしまうので、その時だけは従者と共に、彼は階段を降りてきます。
それでも毎日は許されませんので、その時はたっぷり沸かした湯を牢まで運びます。ラベンダーやローズマリーを浮かべたその湯で、清潔な布を用いて身体を拭かせておりました。拭くのは勿論従者の彼です。男の身体が冷えぬよう、彼は慣れた手つきでそれをします。それが終わると、彼は自らの身体を拭きました。拭き難い場所は、あの御方が拭いています。彼の背を拭うあの御方の姿を、何度目撃したでしょう。ですが、私は何も言えません。
それらが終わると、私は木桶と布を階下へ運び、そこで残った湯を足して、自分の身体を拭きました。そうしろと命じられたからです。あの御方は、異様に入浴を好まれますので、私もそれを受け入れました。
あの御方のための全てが終わると、私も食事を取り、寝床につきます。勿論、ベッドまでの間に火の始末や戸締まり等、他の仕事も済ませてからです。ですが、一番の苦痛は、そこからはじまるのです。
光が漏れるわけではなく、何かが聞こえるでもありません。ただ、私の頭と心臓が、酷く騒ぎはじめるのです。
その部屋の明かりとなるものは、男がチェスをするために使う小さなテーブルの上に置かれている燭台のみであった。普段は鬱陶しいほどに陽の光を取り込む窓は、熱の遮断のため、分厚い濃紺のビロードが覆い隠している。
小さな蝋燭の明かりなど心許ないものに過ぎず、彼等が居るベッドの中には闇が広がるばかりであった。この部屋の主人である囚人と、彼の従者は寝間着姿でそこにいた。囚人の顔にはまだ、黒いビロードが垂れ下がっている。ベッドに腰掛けたまま、男はそれを外す気配がない。
「外さないんですか?」
青年が尋ねた。しかし、返事は無い。今は2人だけなのに、男は口を開かない。その代わり、青年に手を差し出した。彼は躊躇いもなくそれを受け入れ、自らのものを重ねた。
強引ではない。しかし確かに手を引かれ、彼は男の膝の上に向かい合う形で座っていた。立っているときは完全に見上げる顔が、少しだけ近い位置にある。この厚く、柔らかな壁の向こうにどんな顔が隠れているのかを知っている。その壁を固定するリボンを解けるのは、当人と自分だけだということも知っている。だから自然と、青年の腕は男の首に回り、指先は黒いリボンの端を弄る。だが、その指がリボンを解くことはなかった。男が何も言わないからだ。しかし、男の腕はしっかりと青年の背へと伸ばされ、リネンの寝間着の上を這いずっている。片方は肩甲骨の輪郭を撫で、もう片方は背骨の一つ一つを数え、時折厚手のリネンを邪魔だと払う。2人の視線は布越しに、確かに絡み合っていた。
動いたのは青年からであった。男の布に鼻先から下を潜り込ませたのだ。そして、男の唇を探した。その姿は生まれたばかりの乳を欲しがる赤子のようだ。人ではない獣のようなその仕草を、男は咎めることはなかった。寧ろ、カサつく唇が擽ったいのか、笑いのような吐息を洩らす。鼻先と唇で、男の肌に触れる。唇が輪郭をなぞり、顎に触れ、漸く唇を見つけた。カサついた彼のものとは違い、男の唇は皮膚が薄く、柔らかかった。しかしその頃には彼の唇も己の呼吸と2人の体温により、しっとりと男の唇に吸い付く様であった。
触れては離れてを繰り返し、男の顔が離れていく。翡翠の瞳には薄っすらと膜が張っていた。僅かに寄せられ垂れ下がる眉と、細められた目に、男は静かに笑っていた。
その後は彼の耳元に顔を近付け、彼にしか聞こえぬ程の声で何かを囁いた。青年は下瞼に透明な雫を溜め、目を見開く。そして、目尻からそれが静かに、一筋流れた。その後2人は何も言わず、青年が指に絡めて遊んでいたリボンを、小さな衣擦れの音と共に引き抜いた。
ベッドの中で、私は目を覚ましました。頭蓋の眼球が収まる輪郭を感じる程に瞼が大きく見開かれ、呼吸は荒れています。シーツが汗で湿り、肌に張り付くのが不快でした。暑いのか寒いのか、それは定かではありません。ただ、己の浅ましさに目を覆ったのです。あれは夢でしょうか、妄想でしょうか。あぁ、あと少し。もう少しだけ瞼を閉じていられたら、私はあの御方の顔を見ることができたのでしょうか。ですが、私はそれを許されていません。あの翡翠の瞳だけが、それを見ることができるのです。同じ色であったなら、私も許されたでしょうか。己の色が酷く恨めしく思えます。
その後は、一睡もできませんでした。夜も明けぬ内からベッドを抜け出し、全ての準備を済ませ、私の仕事ははじまります。あの御方の顔を拭くためのお湯を、先ずは準備しなくては。私はそっと、階段を降りました。何も聞こえません。聞こえていても、聞こえません。
男が料理を捨てることはなくなった。少しずつ男の食事の量が減った。一皿、また一皿と品数は減っていく。だが、男が気にした様子はなく、従者も同様であった。
そんな些細な変化に気が付くことはなく、ただ変わらぬ日々が続いていると、新入りだけが思っていた。そんな新入りが変化に気がついたのは、それから更に時が過ぎた頃だった。その日も彼の監獄には聖職者が訪れ、神の教えを説いていた。相変わらず男と従者は興味が無く、チェスの駒を弄るか、欠伸を噛み殺しているかのどちらかかと思っていたが、その日の男はただ頬杖をついて窓の外を見ていた。いや、顔には相変わらず布があったので、見えていたかは定かではない。だが、男の視線は確かに神を見てなどいなかった。
つまらない話を聞き終えると、珍しく男は従者に手招きした。青年は直ぐ様壁を離れ、彼の元へと駆け寄る。そして、見えぬ口元に耳を寄せた。声は誰にも聞こえない。同じ部屋にいる筈だ。だが、まるで彼等の周りにだけ透明な壁でもあるかのように、その空間だけが異質であった。
言葉を聞き届けると、青年は新入りを見据えて口を開いた。
「明日、医者を手配してもらえるよう、看守に伝えていただけませんか?」
「え?」
新入りは返事もままならぬまま、牢を飛び出した。
体調が思わしくないというのです。以前から感じていたと、あの御方は仰っておりました。伝えたのは勿論代理です。私は青年の言葉を聞いて、部屋を飛び出しました。愕然としたのです。見ていたくなかったのです。膝から崩れ落ちそうでした。
あの御方は人間だった。人間でした。白刃を突き付けられた思いです。あの御方は、死を隣に置きながら、死とは無縁の存在なのだと、漠然と信じていたのです。おかしな話だとお思いでしょうか。ですが、私はあの御方をそうだと信じ、今も信じているのです。
階段を降りる際は、まるで転げ落ちるようでした。いえ、落ちたのかもしれません。ですが生きていますので、転がっただけなのでしょう。私は近くにいた兵に頼み、看守に取り次いでほしいと懇願しました。あの御方には死が似合う。ですが、あの御方が死んではならない。どうか、まだ私から奪わないでほしい。唯一を失う時、人とは兎角混乱します。ただ声をあげて叫び、意味のない言葉を繰り返す。番犬の方がしっかり仕事をするでしょう。
あの日の私は、立派に動物以下でした。
新入りは地に足がつかず、心在らずであった。囚人の粥を運ぶ時も、掃除の時も、湯を沸かす間も、常に心は鉄扉の前にあった。中に入ることはない。許されているのはそこまでで、それより奥は踏み入れてはならない。そこは2人だけの場所なのだ。
それでいい。あの御方が奪われないのであれば、川を渡ることがないのであれば、新入りはそれで良かった。
夜は眠れなかった。ベッドに入っても、疲れは感じず、扉の前で祈ろうかとさえ思った。だが、それは許されなかった。扉の前で跪いたその時、扉が開かれた。暗い部屋に光が差した。出てきたのは従者で、彼は温かな光を背負い、顔には暗い影を落として笑っていた。
「休まないんですか?」
新入りは何も言えなかった。寝間着姿で、シーツを纏い、柔らかな絨毯の上に跪く、そんな姿を彼は見下ろしていた。
首を僅かに傾げ、短くも柔らかな金糸が揺れ、碧眼が新入りを映している。新入りは静かに首を横に振る。彼は更に首を傾げた。
「何に祈りを捧げているんですか?神ですか?あなたは誰に助けを乞うているんです?」
やはり、何も言えない新入りは、祈ることをやめた。
そうして私はベッドに入り、目を瞑ることさえできずにおりました。胸の内に、形のない靄のような重しが段々と増えて行くようです。肺か或いは心の臓か、その辺りに重たい何かが呼吸をし、唾液を飲み込む度に増えていくのです。
これほど重たいのに、形は柔らかく、呼吸を奪うことはありません。私のベッドが胸の部分だけ異様に沈んでやしないかと、少し不安になりました。重さは刻々と増えるばかりで、私の肉も骨も、果てはベッドも床さえも、その重さで突き抜けるのではなかろうかと、不安ばかりが増えました。
その元凶は、鉄扉の中にあります。まだ、明かりは灯っているのでしょうか。それとも、もう暗く寝静まったでしょうか。あの御方が、静かな寝息を立てていてくれたなら、私も安息できるでしょうか。叶うことがないので、その疑問は消えません。
目を閉じると、暗闇が広がります。目を開ければ微かに、この部屋の輪郭が見えるのに、閉じれば何も見えません。私は何もわからなくなります。眠りに落ちれば、尚の事。それが酷く恐ろしいと、その時はじめて知りました。
ですが、私も所詮人間です。愚かな愚かな生き物です。こんなに恐ろしいと思うのに、目を閉じているだけで、あっさり眠ってしまうのです。気が付けば、空が白んでおりました。
その日の空気は澄んでいました。そして、普段よりも冷たく、少し湿っておりました。私は不安になりました。ベッドから飛び起きて、靴を履いて、鉄扉の前へと向かいました。意外と冷静だったと記憶しております。何となく、分かっていたのかもしれません。私は取っ手に手を伸ばしました。少し高い硬質な音がして、それからすんなりと扉は開いたのです。
中は普段と変わりません。いつも通りの豪華さです。ですが、空虚でした。いつもの椅子に、あの御方がいないのです。そのせいでしょうか。
私は一歩、足を踏み入れました。恐ろしくはありません。そうせねば…いえ、そうすべきだと思ったのです。何故ならそこに、境界など無いのですから。
静まり返った部屋の中、私はベッドへと足を進めました。カーテンは閉じています。深紅のそれは触れると少し埃っぽく、でもとても滑らかで、手にとろりと馴染みます。高価な布地なのでしょう、確かな厚みもありました。それを、何の躊躇いもなく開きます。
閉じ込められた闇が溶けて、光の中に霧散しました。とても綺麗な光景です。その中に、一人の男がおりました。
真っ白な布の中に、赤と灰色が溶けています。混じっていました。真っ赤な血と肉の色です。顔を隠しておりません。赤と灰色の境には、僅かに肌色が見え隠れしておりました。それただ、私は見つめておりました。従者の姿はありません。その代わり、金色の犬が一匹、男の隣で冷たくなっておりました。とても、静かな朝でした。
私の役目はこれからです。みるみる青褪め、牢を飛び出しました。目指したのは看守の部屋です。伝えねばなりません。全てを如実に、伝えねばなりませんでした。それが私の役目です。
その日の牢獄は、とても騒がしくなりました。
重々しい雲が広がる寒い日に、一人の囚人が死んだ。医者と看守が彼を調べた。顔は潰され、とっくの昔に事切れている。成す術無く、全てが淡々と進み、翌日に男は埋葬された。墓に刻まれた名は見知らぬものであった。そも、誰も名前を知らないので、見知らぬのも当然であった。
金色は、大きな穴に捨てられた。見知らぬ他人と一絡げ、あっさり彼は穴へと落ちた。被さる土は湿って重く、酷く冷たかろうと新入りは思った。
同じ墓に入りたかっただろうか。それとも、神など信じぬ彼等であるから、どちらでも良いのだろうか。寧ろ、男も彼と同様に、同じ穴に捨てられたかったのかもしれない。もう、誰にも分からぬことだ。
これが、全ての顛末です。私が知るのはそこまでで、彼等については、やはり何も知りません。ですが、こうして言葉を紡いでも、何度も何度も積み重ねても、あの御方の御姿は、半分も伝わりはしないでしょう。足りぬのです。言葉だけでは足りぬのです。あの日、足を踏み入れた感触は、私の目に散る火花は、きっと誰も知らぬまま。でも、それでいいのです。これは、私だけのものでしょうから。あの牢獄は直ぐに、家具は捨てられ、壁は壊され、床は張り替えられました。もう何も、残ってはいません。そこに在るのは、別の牢獄だけです。城はもうありません。
今も私は、牢で働いております。死ぬまで出ることは叶いません。それで良いのです。あの塔を見上げる事ができますから。
そこには大きな窓があります。私はそれを見る度に、あの2人の姿を思い出すのです。ですが、少し疑問に思うこともあります。あの日、最期に見た2人の髪色が、少し違って見えるのです。




