第二章:嵐電と、論理が迷う道
1. 太秦天神川、地下からの脱出
京太郎が地下鉄東西線に乗り込むのは、朝八時きっかり。もちろん、嵐電の始発駅である太秦天神川駅に最も効率よく到着する時間だ。
「恋愛の暗号?非生産的だ。だが、あの六角レイナ氏の番組は、いつも都市のインフラに関する論理的な欠陥を、ミステリーとして提示してくる」
京太郎のターゲットは、「恋の暗号」そのものではない。彼の目的は、その暗号が成立するための論理的根拠を突き止めることだった。もしそれが成立しないならば、なぜ六角レイナが「暗号」として提示したのか、その裏に隠された構造的な意図を知りたかった。
太秦天神川駅で地上に出た京太郎は、すぐに嵐電のホームへ向かう。
「駅の構造、時刻表、沿線の配置…」
彼は手帳と定規を取り出し、嵐電の路線図を広げた。
「ヒントは、『効率とロマンが一つになるとき、それは出現する』。京福電鉄の単線運行は、効率という点で言えば地下鉄に劣る。しかし、公道走行、専用軌道、そして観光地へのアクセスという三要素が、ある駅で『最適化』されている可能性がある」
京太郎は、論理的な最適解を求めて、路線の各駅をチェックし始めた。
2. 帷子ノ辻、けい子の遠回り
一方、赤堀けい子が嵐電に乗ったのは、京太郎から二時間遅れの十時。彼女は京阪の祇園四条からバスと地下鉄を乗り継ぎ、わざわざ遠回りをして京福線にたどり着いた。
けい子の頭の中にあるのは、六角レイナの番組で映し出されていた、嵐電のレトロな木造駅舎だ。
「六角レイナさんって、きっと遠回りの美しさを知っている人よ。『恋の暗号』は、効率じゃなくて、どれだけロマンチックに遠回りしたか、を教えてくれるはずだわ」
けい子は嵐電の「四条大宮行き」に乗り込んだ。車内はがたごとと揺れ、懐かしい木の匂いがする。
京太郎の冷たい論理が脳裏をかすめる。
「(あの京太郎くんは、きっと『太秦広隆寺駅』で降りるわ。あそこは太秦映画村の最寄り駅で、最も集客効率が高い場所だから)」
けい子は直感的にそう確信し、あえて太秦広隆寺を通り過ぎ、嵐電の主要な分岐点である帷子ノ辻駅で下車した。
3. 再会:帷子ノ辻駅の待ち合わせ
帷子ノ辻駅のホーム。二人はここで、再び衝突する。
京太郎は、駅構内の案内図を凝視していた。
京太郎:「太秦広隆寺駅ではない。駅構造の複雑性、そして京福線内での乗り換え効率を考慮すると、暗号が隠される場所は…」
彼がまさに「帷子ノ辻駅こそが最適解だ」という結論に達したそのとき、背後から声がした。
けい子:「やっぱりここにいた。地下鉄くん」
京太郎は振り向いた。けい子は、手に古い路線図と、真新しい一眼レフカメラを持っていた。
京太郎:「赤堀さん。なぜここに?あなたのようなロマン志向の人は、終点の嵐山に行くのが効率的ではありませんか?」
けい子:「嵐山はロマンのゴールじゃないわ。ただの観光地。ロマンはね、分岐点にあるのよ。ここ、帷子ノ辻は、嵐山線と北野線に分かれる場所。私たちは今、どの恋の路線に行くか、選んでいる最中なの」
けい子の言葉は、京太郎の論理にまったく合致しない、情緒的な飛躍だった。
京太郎:「非論理的だ。私はこの駅のホームの配置図に、暗号の根拠を探していました」
京太郎は自分の手帳を広げた。そこには、駅の構造をグラフ化した図が描かれていた。
けい子:「私はね、この駅のホームにある『影』にヒントがある気がするの」
けい子は、ホームの待合室の柱が落とす、細長く伸びた影を指差した。
4. けい子のロマンチックな嘘
京太郎:「影?それは太陽の位置と駅舎の角度で決定される単なる現象です。暗号とは関係ない」
けい子:「いいえ、関係あるわ。ねぇ、地下鉄くん。あなたの持っている地下鉄の時刻表と、私の持っている京阪の時刻表を、重ねてみてくれない?」
京太郎は訝しげに、地下鉄の公式時刻表と、けい子の鞄から出てきた京阪の時刻表を並べた。
京太郎の時刻表は、全て定刻の数字が並ぶ。けい子の時刻表は、それに比べて運行間隔が長く、不規則だ。
京太郎:「重ねても、単に数値の羅列が二つ並ぶだけです。何の意味が…」
けい子:「あるわよ。ほら、見て」
けい子は、京阪の時刻表に載っている「特急 プレミアムカーの料金」の欄を指差した。
けい子:「この料金(例えば500円)を、あなたの時刻表に載っている『定刻から最もずれた電車』の時間(例えば7:58)に、足してごらんなさい」
京太郎は、無意味な作業だと知りながらも、言われた通りに計算した。
京太郎:「500円+7時58分=…500と7時58分。数字の意味はありません」
けい子:「そう。意味はない。でも、私ね、今、嘘をついたの」
けい子は急に真顔になった。
けい子:「この京阪の時刻表、本当は私の恋人からもらったものなの。彼は京阪の運転士で、いつも私に、この特急の時間を教えてくれた。でも、彼はもう、別の路線に行ってしまったの。だから、あなたとの出会いなんて、私はどうでもいいのよ」
京太郎の冷静な表情が、一瞬、凍りついた。彼の論理が、まったく想定しなかった感情的な「嘘」のデータに晒されたのだ。
京太郎:「…あなたの、恋人?それは、いつのデータですか?」
けい子:「過去よ。そして、あなたとは真逆の、ロマンを愛する人だった。だから、私の心はもう誰にも譲れないの。効率なんてどうでもいい。私は、彼のいないロマンを、一人で探し続けるだけ」
けい子の瞳は潤んでいた。それが本当に「嘘」なのか、「事実」なのか、京太郎の論理は判定できなかった。
京太郎:「…非、非論理的だ。なぜ、そのような情報を、今、ここで私に提示する」
けい子:「さあね。ただ、嵐電に乗っているうちに、あなたとは真逆の路線に行きたいと思っただけよ」
けい子は京太郎に背を向け、嵐山方面行きのホームへと歩き出した。
京太郎は、けい子が残した「嘘」のデータに、初めて混乱を覚えた。彼の脳裏で、正確な地下鉄のダイヤグラムが、少しずつ狂い始めていた。
5. 六角レイナの真相
そのとき、京太郎のスマホに、六角レイナからメッセージアプリが届いた。
それは、先ほどのテレビ番組の「裏話」として、嵐電の暗号の解説動画だった。
(レイナ):「嵐電の『恋が始まる暗号』、その答えは簡単です。この路線、実は『電車が走る時間が最も長い駅間』と、『最も短い駅間』があります。その二つの駅のローマ字表記を、つなぎ合わせると…」
動画を再生しながら、京太郎はハッとした。
京太郎:「まさか!私は効率と構造ばかり見ていた!走行時間こそが、この路線の持つ、唯一の物理的な感情…!」
京太郎はすぐに走行時間を計算し、その二つの駅のローマ字表記を組み合わせた。
現れたのは、一つの単語。
それは、けい子の今の心境をそのまま表す、情緒的な言葉だった。
しかし、京太郎には、その言葉の意味を、今、けい子に伝えるべきかどうかが分からなかった。けい子が口にした「ロマンチックな嘘」のデータが、彼の頭を支配していたからだ。
京太郎の「論理」は、けい子の「ロマン」という名のデータによって、初めて道に迷った。彼の選ぶべき路線は、果たしてどちらなのか。




