天国の記録
昼下がりの孤児院「つばさの家」は、障子越しに射す光の粒と、炊飯器の湯気と、古びた床板のきしむ音で満ちている。
朝は健太が味噌汁をよそい、太一が皿を運び、美咲がテーブルを掃除する。
食後は洗濯、掃き掃除、学校の宿題。
ふざけて消しゴムを飛ばした健太の頭を、太一が軽く小突く。――そんな毎日が、この家のリズムだ。
台所から見渡すと、古びた家具や棚に誰かの工作が飾られている。
誕生日に作った折り紙や、近所の人がくれた古本。どれも宝物だ。
古い家の中央には、二階へ続く木の階段がある。
十三段すべてがきしみ、上には子どもたちの寝室が並んでいる。
この孤児院「つばさの家」は、三十年ほど前に、前院長の杉本すみえが始めた。
戸籍やパーソナルデータを持たない子どもたち――親に置き去りにされた子や、路上で飢えていた子たちを引き取るための木造の家だ。
入ってくるのは三歳から十五歳くらいまで。
誰もが社会から“いない者”と扱われ、学校に通うのも一苦労だ。
役所とのつながりはほとんどなく、資金は寄付と内職と、近所の顔なじみの支援でなんとかやりくりしている。
それでもここでは、子どもたちに名前があり、誕生日があり、笑い声がある。
私、坂本志乃もかつてその一人で、今は院長として十数人の母親役をしている。
その日の午後、孤児院の古いタブレットを囲んで、子どもたちが何やら騒いでいた。
話題の中心は街で流行っているアプリのようだ。
「今ね、街では“天国の記録”って……AI?が流行ってるんだって」
画面には笑顔の老人と孫らしき少年が映り、「死後も、話せる」という大きな広告文字が載っている。
健太が目を丸くする。
「死んだあとも話せるって、ほんと?」
「声とか動画をAIが学習して、死んでも“あなたらしく”話すらしい。パーソナルデータ?を使って登録するんだって!」
太一がスクロールしながら説明する。
パーソナルデータとは、国が集めた個人情報をまとめた仕組みだ。
身長や体重だけでなく、経歴や年収、性格や交友関係まで記録されているという。
国民のほとんどは番号とともに登録されていて、一定の料金を払えば自分でもそのデータを利用できる。
美咲が眉を寄せた。
「登録って、お金かかるやつ?」
「維持費も高いって。番号がない人は登録できないみたい」
横で聞いていた私は思わず笑ってしまった。
「……死んでからもお金がいるのね。地獄の沙汰も金次第って言うけど、天国に行くにもお金が必要な時代なのかしら……」
子どもたちは難しい顔をし、
「俺たちは番号ないから無理かぁ」
と相槌を打ちながら、タブレットの電源を落とした。
テレビのCMで、スーツ姿の男性がスマホの画面に向かって誰かの名を呼び、涙ぐみながら笑っている。
「言いたかった一言が言えた!ありがとう……」
アプリの広告は、毎朝のバス停の電光掲示板にも出ている。〈“最後の会話”を、あなたに。〉
確かにこのアプリは、後悔を持つ人の救いとなっているようだ。
この町では、死者も月額で生き続ける。
便利で優しいふりをして、貧しい者ほど置き去りにする世界の仕組みを、私はずっと見てきた。
――――
私はときどき、自分の過去を思い出す。
冷たい雨の降る屋根の下、コンビニの明かりが遠くに滲んでいた。
飢えた腹が痛くて、レジから見えないよう、おにぎりをポケットに滑り込ませた。手が震えていた。
ごめんなさい、と心で謝りながら、身体はドアの外へ走り、雨に濡れた床に足を取られ派手に転んだ。
「大丈夫?」
傘の影から声がした。目の前に差し出された手は、骨ばっていたが温かかった。
手の主は、杉本すみえ――この孤児院の前の院長だった。
「お腹、すいたんでしょう?」
頷くと、彼女は私に肩を寄せ、歩幅を合わせた。
温いお粥を食べて、布団をかけられて、泣きながら眠った夜。
翌朝、私は震えながら言った。
「昨日、盗りました」
杉本さんは少しだけ目を細めて、「返しに行こう」と言った。
「でも、お金……」
「働いて返せばいい。ここで食べて、寝て、元気になって、できることから始めよう。人はさ、良い事をすると、きっと誰かが覚えていて、ちゃんと天国に行けるんだよ」
そのとき、私は天国という言葉の意味がよくわからなかった。
ただ、
「ちゃんと天国に行けるんだよ」
その言葉の柔らかさだけは、胸に残った。
それから私はここで暮らし、皿洗い、掃除、赤ん坊のミルク、病気の看病、針仕事、色々教わった。
戸籍がないから外の仕事は限られ、役所の窓口では冷たい視線を何度ももらった。
「番号は?」
「ありません」
「では受付できません」
悔しさもあった。
でも、帰れば、名前を呼ぶ声があった。
「志乃!」
食卓に席があり、やることが山ほどあり、眠る場所があった。
杉本さんが亡くなる前日、私の手を握って言った。
「私は覚えてるよ。志乃、あんたはよくやった。次は、あんたが教えてあげておくれ」
私は泣きながら「はい」と頷いた。
罪滅ぼしは恩返しに変わり、気づけば私は院長になっていた。
――――
ある日の午後。
縁側から小柄な影が顔を覗かせた。
「先生……」
颯太だ。色白で、手首が細く、目が合うといつも少し照れたように笑う。
去年あたりから熱を繰り返し、午前中は寝ていることが多くなった。
けれど午後になると、折り紙と色鉛筆を抱えて現れて、ちいさな絵本を作って下の子たちに読み聞かせをする。
「今日はどんなお話?」
「天国の階段。先生知ってる?天国の階段は十三段あるんだよ」
「ずいぶん詳しいね」
彼は肩をすくめて笑う。
「夢で見たんだ。雲の上に薄い板みたいな階段があって、踏むと音がするの。きし、きし、って。その音が、このお家の階段の音にそっくりなんだ」
――――
数日後、颯太の病状が目に見えて悪化していった。不安に思い、急いで病院へ連れて行った。
午後、呼ばれて医務室に行くと、白衣の先生が静かに告げた。
「志乃さん……検査の結果、小児性の癌がかなり進んでいます。もって、あと数か月でしょう」
頭が真っ白になった。
「……そんな、まだ子どもなのに。もっと、一緒に遊んで、勉強して、夢だって……」
声が震え、泣きつくように言葉がこぼれた。
「なんで、あの子ばっかり……神様なんて、本当にいるなら、どうして……」
先生は何も言わず、ただ目を伏せた。
私は泣きながら、眠っている颯太の小さな手を握った。
その夜、病室のベッドで、か細い声が私を呼んだ。
「先生……」
「どうしたの?眠れない?」
「ううん……最近流行ってるアプリの話。記録されてない僕らは、天国に行けるのかな?」
私は言葉を選び、ゆっくりと答えた。
「データに残らなくても、ここで一緒に過ごした仲間や、私の記憶にはちゃんと残ってる。だから、行けるさ。間違いなく」
彼は小さく笑って、「よかった」と目を閉じた。
数か月後、颯太は静かに旅立った。
役所に届け出る番号がなく、葬儀屋の書類は空欄が多かった。
それでも、ここでは彼の名前が呼ばれ、彼の作った絵本が回し読みされ、庭の隅に小さな木蓮が植えられた。
春が来れば白い花が咲く。
花が咲くたび、颯太の笑顔を思い出す。
――――
ある夜、私は不思議な夢を見た。
孤児院の階段を上がっていく夢だ。きし、きし、と音を立てるたび、段数を数える。……十一、十二、十三。
二階の踊り場には、杉本さんと颯太が立っていた。二人とも柔らかく笑い、何も言わずに手を振った。
目が覚めたとき、頬は濡れていた。
夢を見た日のあと、私はどうしようもなく寂しかった。
子どもたちには言えなかったが、無料体験のある“天国の記録”をそっとインストールした。
颯太と入れて検索してみる。……やはり何も見つからない。
番号も写真もデータもない子だから。
わかっていた。それでも、どこかで期待していた自分がいた。
アプリを閉じて、スマホの画面の隅へスワイプして押しやった。
風の音がして、庭の木蓮が揺れた。
彼はいない。でも、胸の中にはいる。それだけでいい、と思い込もうとした。
年が巡った。
春、また1人2人と、身寄りのない子供を預かった。無事巣立った子もいる。
夏には蝉の声が戸板を震わせ、金木犀の匂いが門まで伸び、冬はストーブの前にみんな集まり、場所の取り合いをする。
通りには相変わらず広告が光り、
「遺された家族へ、最後の会話を」「初月無料」。
健太が横目にぼやく。
「……死んでからもサブスクって、なんか変だな」
「変だね」私が笑うと、美咲が伏せた目で話す。
「羨ましくないってわけじゃない」
太一がゆっくりと本を閉じた。
「俺たちは絶対に颯太のことを忘れない。だからまた天国で会えるんだ」
健太が強くうなずく。
「忘れなければ、きっと会える」
太一が続けた。
「オレらはオレらで、やれることをやろう。いつか会った時自慢できるように……覚えてるって、そういうことだよな」
――――
さらに時は巡り。
やがて、私のほうにもお迎えが来た。
医者は穏やかな声で余命を告げた。
大きくなった子どもたちが見舞いに来た。
太一が手を握る。
「先生、俺たちは先生のことも颯太のことも絶対に忘れないよ。だから安心して」
健太も涙をこらえて笑う。
「先生!天国で、また会おうな」
美咲が静かに言った。
「それとね、先生。私がこの家を継ぐ。杉本さんから先生に繋がったみたいに、今度は私が。だから心配しないで」
夜になると、遠い昔の雨の匂いが鼻の奥に戻ってきた。あの日のコンビニが、目の前に蘇る。
――人は、誰かに覚えていてもらえると、ちゃんと天国に行ける。
杉本さんの声がする。
私は目を閉じ、数えた。いち、にい、さん――十三段まで。
微睡みの縁で、ふと心が空白に触れかけたときだ。
枕元の古いスマホが震えた。
昔、入れたまま忘れていたアプリのアイコンが、懐かしく点滅している。
《天国の記録から新しいメッセージがあります》
指先で通知を開く。
そこには短い一文が浮かんでいた。
『先生、天国で待ってるよ。』
文字の下に、小さな雲と十三段の階段の絵。
涙が頬を伝い、私は小さく笑った。
「……なんだ、やっぱり天国に居るじゃない」
どうしてこのアプリに彼のデータがあるのか、考えなかった。
誰かが登録してくれたのか、世界が間違えたのか、どうでもよかった。
覚えている。私も、彼らも、ここも。
それだけで十分だった。
外で風が鳴り、庭の木蓮が枝を震わせる。
どこかで子どもたちの笑い声がした気がして、私はゆっくり目を閉じた。
階段は、十三段。
一段ずつ、きし、きし、と鳴った。
私は笑顔で、十三段目にあがった。