第九話 虚繚
「天乖、終わりだ」
東三局が始まる直前、高点狙いがそう発言する。
「どういう意味だ?」
天乖が高点狙いにそう聞く。
「言葉通りの意味だ。特別試練、中止だ」
高点狙いが席を立ち上がる。
そうして、部屋の扉に手をかけた。
「俺はこの対局に意味を見出せない」
そう言って、高点狙いは部屋を出て行った。
「…どうするんだ、天乖」
友希は呆れたように天乖にそう聞く。
天乖の方を見ると、頭を悩ませていた。
「高点狙いは、自分のためになる麻雀しか打たない」
「高点狙いがこうなった以上、おそらくこの対局に戻ってくることはほぼない」
天乖は座っていた椅子から立ち上がる。
「今日は一旦終わりだ。特別試練、中止だ」
「中止、か…」
張は椅子に寄りかかりながら呟いた。
友希が天乖に向き直る。
「それでいいの?この試練のために張をここに呼んだんじゃないの?」
天乖は無言で友希を見つめた後、重い口調で答えた。
「試練は四人で行う前提で設計されている。高点狙いが抜けた時点で成立しない。無理に続けても意味はない」
「でも…」
友希が何か言おうとしたが、張が手で制した。
「まあいいさ。こんな中途半端な対局で天鬼杯の資格を得たところで、意味がないからな」
張の言葉に友希は驚いたような顔をする。
「張…それ、本気で言ってるの?」
張は肩をすくめ、卓の上の牌を指で軽く弾きながら答えた。
「本気さ。天鬼杯は強者が集まる場だろう?だったら、それにふさわしい試練を乗り越えてこそ価値がある。それに…」
張は少し間を置き、椅子に深く座り直す。
「正直、あいつらと打ってみて分かったことがある。まだ俺は、ここで生き残るための要素が足りなすぎる」
友希は眉をひそめた。
「足りてないって、何が?」
張は笑みを浮かべながら答える。
「すべてさ。もっと磨く必要があるんだよ、この感覚をな」
天乖が張の言葉に静かに頷いた。
「確かに、お前にはまだ磨くべき部分がある。だが、今回の試練が無駄になったわけじゃないだろう。高点狙いが抜けたことは残念だが、お前が対局で見せたものは確かに響いていた」
張は天乖を見て軽く頷く。
「だったら明日以降、また次を用意してくれ。今度は、もっと骨のある試練をな」
天乖は少しだけ笑い、張に向き直った。
「分かった。期待して待っていろ」
そうして天乖は部屋を後にした。
友希が張を見つめ、溜め息をついた。
「本当にあんたってさ、何考えてるのか分かんないよ」
「あのまま三人で打ってれば勝てる確率が上がっていたかもしれないのに」
張は苦笑しながら立ち上がる。
「それはあくまで結果論に過ぎないだろ。考えるだけ無駄だ。俺はただ勝つだけ、それだけだよ」
友希は呆れながらも笑みを浮かべた。
「次の試練、もっと厳しいのが来ても知らないからね」
張は部屋を後にしながら振り返り、友希に笑いかけた。
「望むところだ」
張と友希は一度、天乖から借りている家に戻った。
まだ午後になったばかりだ。
時間はまだまだある。
「張、どうするんだ?」
部屋の中で呆然と立ちつくす張に友希がそう聞く。
「少ししたら、雀荘に行く」
「友希はどうするんだ?」
部屋の前で寄りかかりながら話す友希にそう聞く。
「天乖と話してくるよ。元々、この特別試練は私と天乖で考えたものだから」
「まあ、あの二人が来るのは予想外だったけど」
「そうか」
二人の間に沈黙が流れる。
そんな中、友希が口を開く。
「それに、こんなとこで終わると思ってないんだよ。私も天乖もきっと」
張はその言葉に応えるように彼女をじっと見つめた。
「終わらないさ。俺がここにいる限りな」
友希はわずかに笑みを浮かべ、軽く頷く。
「それならいいんだけどね」
彼女は寄りかかっていた壁から体を離した。
「じゃ、あとは任せたよ。あんたがどこまでやれるか、楽しみにしてる」
張は無言で彼女の背中を見送り、部屋に再び静けさが戻る。
数分間立ち尽くしたあと、張は深呼吸をしてから、ゆっくりと準備を始めた。
「さて、俺も行くか」
そう呟く声が、静かな部屋にかすかに響いた。
家を出たが、どこに行くかは全く決まっていない。
とりあえず、散策することにした。
改めて伏籠街を見ると、玄人たちの街だとゆうのが再認識できる。
しばらく歩いていると、空き地があった。
張はそこで一旦休憩することにした。
空き地の中にある小さなベンチに腰掛ける。
「散策ってのも、案外時間を持て余すもんだな」
そう呟きながら、街の天井を見上げる。
コンクリートの無機質な天井が広がっている。
「…特別試練か」
張はポケットから取り出したタバコを眺め、手の中で回してみた。
吸うわけではなく、ただただ手に持つ。
「俺にとって何の意味があるんだろうな」
そう言って軽く笑う。
自分でも、何を求めているのか曖昧だった。
天鬼杯に出ることは、単なる偶然に過ぎなかった。
友希に負けたから。
期待に応えるために出る。
本当にそれでいいのだろうか。
どこか違うような気がする。
しばらくすると、隣のベンチに一人の老人が座った。
その老人は静かに将棋の駒を手に取り、指先で遊びながら張に話しかけてきた。
「お兄さん、散歩かい?」
張は驚きつつも軽く頷いた。
「まあな。特に行く宛もないが、な」
老人は微笑みながら、自分の手元にある将棋盤を指差した。
「暇なら、一局どうだ?」
張は一瞬迷ったが、何となく興味を惹かれた。
「将棋か…久しぶりだな」
そう言いながら、ベンチの隣に腰掛けた。
老人の手つきは熟練しており、駒を動かす音が心地よく響く。
張は集中して盤面を見つめた。
「麻雀の玄人ってのは、将棋も強いもんかね?」
老人が不意にそう言うと、張は少し笑みを浮かべた。
「いや、どうだろうな。ただ、頭を使うのは嫌いじゃない」
数手を進めた後、老人がぽつりと呟いた。
「勝負事ってのは、自分との戦いでもあるんだよ」
その言葉が、張の心に妙に響いた。
対局とは、相手を打ち負かすだけではなく、自分の限界や迷いを乗り越えるためのものでもある。
将棋の一局が終わり、結果は老人の勝ちだった。
老人は満足げに笑いながら立ち上がる。
「いい一局だったよ、ありがとう」
張は軽く頭を下げた。
「こちらこそ。少し気分転換になった」
老人が去り、張は再び一人になった。
だが、先ほどまでの焦燥感が少し薄らいでいることに気づいた。
「自分との戦い、か」
その言葉を反芻しながら、張は再び歩き出した。
次に向かう場所が、なんとなく決まってきた気がした。