第二話 覚悟
「張、どうしたんだ。手が止まってるぞ」
張の脳裏に浮かんだ光景は友希の声によってかき消される。
「悪い…」
意識を目の前にある卓に集中させる。
だが、依然友希のリードが大きすぎる。
おそらく、同卓者である二人も友希の言いなりだろう。
さっきの山積みと言い、おそらく素人ではないだろう。
そのまま局を進めて行っても、箱下で負けるのがオチだろう。
どうにかして対策を考えていかなければいけない。
だが、イカサマをしたとこで友希の前では全て見透かされている。
「諦めたらどう…?」
友希がそう諭す。
「お前はそんなの望んでないだろ?全力でやろうぜ」
張はそう言うが、結末は分かっていた。
今の張に、全力を尽くす力は残っていない。
友希から見ると、今の張には現役時代にあった勝ちへの貪欲さ。
覇気を感じられない。
「張…」
友希はそう言葉をこぼす。
そのまま対局が進んでいき、あっという間にオーラスになった。
オーラスになるまでは友希と上家が安点で和了し、あまり点数状況は最初から変わっていな。
結局、張は放銃も和了もすることもなかった。
『東四局 0本場 一巡目 張の残り点数 12000点』
東発の友希の和了がまだまだ響いている。
『このまま、なにもしなくても…』
張の脳裏にはそんな考えがよぎる。
だが、そんな考えはすぐに打ち消されることになる。
「張!」
友希がいきなり大きな声を上げた。
「本気、魅せてくれよ」
友希のその言葉には様々な意味がこもっているような気がした。
友希のその言葉に張は目をそらす。
友希のその言葉に、張自身が答えられる気がしなかった。
張は手の中にある牌を見つめる。
「本気、か…」
張の中の麻雀への情熱は消えかかっていた。
だが、友希のその言葉で思い出す。
最期になるかもしれない一局、残っている力全てを使い全力を尽くす。
「いいぜ、やろうか…」
その言葉を言った瞬間、張の目が鋭くなった。
積み込みもなにかを仕込んでいるわけでもない。
だが、自分の中に眠っていた雀力を奮い立たせる。
イカサマもふんだんに使い、最後かもしれない一局に意識を集中させる。
ただ、状況は最悪だ。
手牌も高くなるわけではない。
安手で和了したとしても、三着止まりで終わりだろう。
『活路を見出さないと…』
手牌をもう一度見やるが、まともな順子もなく么九牌のターツばかりだった。
だが、この配牌は育て甲斐がある。
「悪くないな…この緊張感」
張は呟き、少しだけ口元が緩んだ。
そんな微細な変化に友希は気づいたようで、わずかに口角を上げて微笑む。
「それでこそ張だよ。見せてみな」
張は深く息を吸い、静かに牌を切った。一牌一牌が慎重かつ正確に場を動かしていく。
安手で終わるのを避けるため、すぐに捨てるべき牌を決めながらも、高打点を狙える形へと手を育てる。
一巡、一巡と刻々として局が進んでいく。
だが、状況は依然として厳しい。
友希の点数は圧倒的で、他の二人も完全に友希のペースにされている。
まるで牌そのものが彼女の意志に従って動いているようだった。
『覚悟を決めろ、俺…!』
張は他家の河を見始めた。
かつての「札幌の鬼才」と呼ばれた技術が再び目を覚ます。
他家にある河から使える么九牌を凝視し始める。
『次…!』
上家が山から自摸る瞬間、三人から見えない一瞬の死角が生まれることを見ていた。
『今、だッ!』
一瞬のうちに河から手牌にある中張牌をすり替える。
このイカサマはかなりの練度がいる。
張は実際に使ったことは数えるぐらいしかない大技だ。
『どうだ…!』
他の三人の動向を伺うが、どうやら気づかれていないようだ。
イカサマの甲斐あってか、張の手は見事に整った。
一向聴、純チャン三色が確定し、和了さえできれば点数もトップが狙える状況に。
さらに、河を読むことで相手の危険牌を誘い込む準備を進める。
しかし、友希はそんな張の動きを見逃さない。
「やるね。でも、その程度じゃ足りないよ」
友希の手は、他家の動きを完全に封じる形で進められていた牌の流れを支配し、誰も彼女に逆らえないような雰囲気を漂わせている。
それは張も同様だ。
十巡目、場の空気が一層緊迫していく中、友希は静かに宣言した。
「立直」
友希の河にゆっくりと横向きの牌が佇む。
張の表情が一瞬引き締まる。
友希は安手で和了できてもトップは揺るがない。
そんな状況だからこそ、張はさらに燃える。
張は現役時代の読みを駆使し、わずかな可能性を掴もうとする。
だが、友希もそうそう甘くはない。
河にある捨て牌たちは張の読みがわからないほど洗礼され、安牌以外なにが当たってもおかしくない状況にあった。
それに抗うように、張の中に眠っていた熱が蘇っていく。
かつての栄光、そして敗北を乗り越えた自分自身を思い出すように。
張と友希の間には静かな戦争が起こっていた。
実際に見えるわけではないが、互いに目線を向け合っている。
だが、対局が進んでいるわけではない。
ここは勝負の世界だ。
時間が過ぎていけば勝者が生まれ、敗者も同様に生まれる。
それは今までの経験で分かりきっていることだった。
張は友希の立直後、山から牌を引く。
その所作は大振りながらかなり洗礼されている。
「カタッ」
張は引いてきた牌を自分の手配の横にそっと置く。
音がない世界の中、その音は卓上に鳴り響く轟音のように聞こえた。
持ってきた牌は八索。
友希の河には幺九牌と字牌の類しかない。
張の手の中に安牌はあるが、いずれにしろ使う牌。
『ここで和了できなかったら…』
そんな考えが脳裏をよぎる。
張が友希の圧に屈しここで降りると、勝負はすでに決まったような状況になってしまう。
だからこそ、負けられない。
負けたら天鬼杯に出るなど、今更どうでもいい。
今は、友希に勝つことだけを考える。
張は八索をそのまま河に捨てる。
友希は一瞬反応を示したが、そのまま発声をすることなく下家に順番が流れていった。
なんとか助かったが、このまま張が和了できるまで運良く続くとは思えない。
早く聴牌をしなければ、いずれとして時間の問題だ。
下家が山から自摸ってくる。
緊張が走る。
河に捨てられたのは南。
友希の安牌だ。
友希が山から自摸をする。
下家が自摸る時よりも緊張感が高まる。
静寂が場を支配している。
「こつッ」
友希が取った牌が河に置かれる。
どうやら自摸ではなかったらしい。
置かれた牌は一索。
惜しくも安牌は増えなかった。
三巡後、友希が和了することもなく依然として聴牌はしていない。
これまでにないくらい対局に緊張感が漂っている。
上家と下家は友希とグルだ。
実質三対一の勝負だ。
勝ちの確率は著しく低い。
だが、諦めるわけにはいかない。
自摸が張の番まで回ってくる。
『ここで聴牌できれば…!』
なんとか勝つビジョンが見えてくる。
張の山にかかる手にかなり力が入る。
所作は静かだったが、それでいて剛健だ。
『くっ…!』
盲牌で感じ取る。
おそらく、七萬だ。
手の内にある牌を見る。
牌には『七萬』と書いてあった。
『これで、いける…!』
そうして、手配にある不要牌に手をかける。
もちろん、友希の安牌ではない。
だが、ここで通さなければ勝機はない。
『行くぞ、友希っ…!』
そう心の中で唱え、友希に眼光を送る。
「ふっ…」
友希は張の思いに気がついたようで、口から息が漏れる。
「立直」
張は牌を横に曲げて、そう宣言する。
「来いよ友希。ねじ伏せてやる」
「それを待っていた。やろうか」
友希がニヤつく。
十五巡目、場が動き始めた。
ここからは精神勝負だ。
自分が勝てると思えば、自ずと勝利がやってくる。
おそらく、あと数巡で決着がつくだろう。
そう考えると、手配にかかる手の力が次第に強くなってくる。
『ペン三萬待ち 立直、純チャン、三色、ドラ1』
友希から出あがりできれば問答無用で逆転。
あと二役乗れば誰から和了しても逆転だが、そう簡単に和了できるとは考えにくい。
友希も同じ考えなのだろう。
張の立直が入ってから顔が強張っている。
お互いに冷や汗が滲み出ている。
同卓者も微弱ながら緊張を感じていることだろう。
下家が山から自摸をする。
だが、捨てられた牌は完全安牌の西だった。
おそらくベタオリだろう。
『完全な一対一ってわけか…』
「面白い…!」
張がそう言葉を漏らす。
現役時代の光を取り戻してきているかのような感触に襲われる。
まるで全ての牌が透けて見えるようだ。
周りの時間の流れが遅くなっているような気がする。
僅かな呼吸の音も感じ取れる。
友希が山に手をかける。
その手は僅かに震えているように見えた。
「こつっ」
卓と牌が接触する音が鮮明に聞こえる。
そして河に牌が捨てられる。
捨てられたのは五萬。
惜しくも当たりではない。
静寂ながらも、緊張感が最高潮になる。
その中、上家が山に手をかけるが、河に捨てられたのはラス牌の西だ。
そして張のツモ番がやってくる。
山に手をかける。
震えがあるどころか、かなり高揚している。
盲牌をするが、おそらく当たり牌ではないだろう。
牌がある手を見ると、持ってきた牌は東だった。
『まずいぞ…』
まだ東は場に一枚も出ていない。
かなり危険だ。
だが張は立直をしている関係上、切らなければいけない。
張はそっと卓に『東』と書かれている牌を置く。
「ふっ…」
その瞬間、友希がニヤリと笑う。
「ロン」
部屋に友希の発声が木霊する。
その声が張の体を頭からつま先まで巡る。
「1000点、勝負アリだな…」
身の毛がよだつ。
だが負けたのは事実だ。
張は1000点棒を友希に差し出す。
「あと一歩だったな。だが負けたのは事実。天鬼杯出てもらうよ」
張は友希の要求を飲むことにした。
「分かった…」