9 母の笑顔と知らない兆し
ハーブ石鹸を作って数日後の朝、侯爵家の食堂でミリアがパンを手に持ったまま、「最近、疲れるのが早くてね」と呟き、半分残した。顔色が少し青白く、いつもより笑顔が少ない。
ファミリアが「お母様、大丈夫?」と目を丸くすると、おじさんの声が頭に響いた。
《健啖家のミリアが食欲ねぇ?おかしいな、どっかで同じようなことがあった気がする…》
(おじさん、何か変だよね?お母様、病気じゃないよね?)
ミリアが笑う。「どうしたの、ファミリア?急に黙っちゃって」
「あ、いや、なんでもないよ!ただ…お母様、顔色悪いから心配で!」
オリバーがスープの匙を置いて、ミリアをじっと見つめる。
「確かに、最近元気がないな。俺も気になってたんだ」
数日が経ち、ミリアの様子がさらに気になり始めた。朝食のパンを残すだけでなく、夕食のスープを飲んだ後に「気持ち悪い」と席を立つ日が続いた。オリバーが眉を寄せ、毎晩のように「無理するな」と声をかけていた。ファミリアが厨房に駆け込み、マルスに相談する。
「マルス、お母様が最近ずっと食事を残してるよ。気持ち悪そうで…パンかスープが悪かったのかな?」
マルスが眉を寄せ、「お嬢様、俺の料理が原因だと思うか?そりゃ看過できねぇぜ」と立ち上がる。厨房長のプライドをかけて屋敷中の者に聞き回り、数時間後に戻ってきた。
「お嬢様、安心しろ。屋敷の使用人も庭師も厩係もみんな元気だ。奥様以外に食わねぇ奴はいねぇぜ。こりゃ食べ物じゃねぇな」
おじさんが呟く。
《吐き気が何日も続く…どっかで聞いた気がするな。妊娠した時って、こんな感じじゃなかったか?》
(おじさん、妊娠って…まさか!でも、病気じゃないなら良かったけど…)
ある朝、ミリアが朝食の席で肉料理を見ただけで顔をしかめ、席を立った。オリバーが立ち上がり、静かに言った。
「ミリア、数日様子を見てきたが、ただ事じゃないな。俺も薄々心当たりがあるが…医者を呼ぶか」
ファミリアが勢いよく頷く。
「お父様、私も心配だよ!お母様が気持ち悪そうで、パンもスープも残してる。マルスは食べ物じゃないって言うし、医者を呼んでいいよね?」
オリバーが口髭を撫でつつ、重々しくうなずく。
「ああ、俺も同じ気持ちだ。吐き気が続きすぎる。13年前を思い出すよ。呼んで確かめよう」
昼前、侯爵家付きの医師が馬車でやってきた。禿頭の老医師は、ミリアの手を取り、脈を診て質問を重ねる。「月経は遅れておらんですかな?」「吐き気はいつからでしょうかな?」と。
ミリアが少し考えて、「そういえば、今月はまだ来てないわ…吐き気は数日前から」と答える。医師が懐から小さな水晶を取り出し、ミリアの腹に軽くかざす。水晶が淡い緑に輝き、かすかな脈動のような光を放った。医師が穏やかに言った。
「奥様、おめでとうございます。魔力反応で新たな命が確認できました。子を宿しておられます。まだ早いですが、兆しは確かですよ」
ミリアが「まぁ…!」と目を丸くし、オリバーが静かに笑う。
「やっぱりか。12年ぶりだな。ファミリアが生まれて以来だ」
ファミリアが飛び跳ねてミリアに抱きついた。
「弟か妹ができるの!?お母様、すごいよ!」
ミリアが照れ笑いを浮かべ、「まだ信じられないわ。でも、嬉しいわね」と娘の頭を撫でる。おじさんが頭の中で呟く。
《やっぱりか。妊娠って、こういう感じだった気がするな…なぜだか知らんけど懐かしいなぁ》
その夕方、オリバーは執務室にこもっていた。大きな木製の机に植物紙の書類が山積みになり、燭台の灯りが揺れている。領主としての仕事に追われ、税金の帳簿を手に眉間に皺を寄せていた時、扉が軽く叩かれた。事務官のトマスが入ってきて、植物紙の報告書を差し出す。
「旦那様、東の開拓地からの報告です。衛生が悪く、子供たちが病気で次々に倒れているようです。開拓も計画から大幅に遅れております」
オリバーが報告書を受け取り、目を細めて読む。
「ふむ…水が不足し、汚物が溜まってるだと?領主としてなんとかしなければいかんな。計画の遅れはともかく、子供が病気になるのは見過ごせん」
トマスが頷き、「はい。このままでは開拓民の不満も増えるかと」と補足する。オリバーが口髭を撫で、静かに呟く。
「植物紙の報告書だけでは何もわからん。やはり現地に行ってこの目で確かめる必要があるだろう」
その夜、食堂で家族が再び集まった。妊娠が発覚したミリアは少し元気を取り戻し、「何か酸っぱいものが食べたいわ。スーリの実みたいな」と呟く。オリバーが「順調な兆しだな」と笑いながら、厨房にスーリの実の果汁を頼む。ファミリアが目を輝かせて言う。
「お母様、大事にしないとね。私、にできることがあれば何でも頑張るよ!」
「あら、ファミリアは半年後に入学を控えた魔法学園に専念なさいよ。気持ちだけで十分よ。そうだ!最近肌荒れするようになったのよ、何かお薬作れないかしら?石鹸作った時の香油でなんとかならない?」
「そうね、ショーンだったら肌荒れに効くハーブを知ってるかもしれないわ。香油を混ぜた軟膏が作れないか考えてみるわ」とファミリアが安請け合いする。
(おじさん、というわけだからよろしく!)
《結局俺がやるのかよ…保湿乳液とか作ればいいのか?ちょっと考えてみる》とおじさんがしぶしぶ承諾した。
話がひと段落したとき、オリバーが話を切り出した。
「今日、事務官から報告があった。東の開拓地の衛生状態が悪いらしい。子供たちが病気で苦しんでると聞いてな。領主として放っておけん」
「あなた、それでどうするのかしら?」ミリアが不安そうに尋ねる。
「開拓地に視察に行く。改善できるところを直接確認せねばなるまい」とオリバーが答えると、ファミリアが目を丸くし、すぐに手を上げた。
「お父様、私、見に行きたい!家族が増えるなら、領地の子供たちも元気でいて欲しいよ!」
オリバーが少し驚きつつ、娘を見つめる。
「ファミリアが?危険もあるが…」と一瞬考え、口髭を撫でて笑う。
「これもいい経験になるだろう。領主の娘らしい意気込みだな。考えてみる」
《いいね、実際に見てみねぇと分からねぇこともある。幹部は椅子でふんぞり返ってるだけじゃダメだ。現地現物を確認して直接指揮をとることも必要だろう》とおじさんが呟いた。過去に何かあったのだろうか。
夜、ファミリアが部屋で石鹸を手に持つ。ミントの香りを嗅ぎながら、おじさんに問いかけた。
(おじさん、家族が増えたらもっと頑張らないとね。どうすればいいかな?)
《そうだな。妊娠って大変なもんだよ、確実に生まれるとも限らねぇ。ちゃんとした知恵と知識が必要だな》
ファミリアが少し考え、「ねえ、おじさん。魔法学園って知ってる?国境にある中立の学園で、13歳になると魔法を学びに行くの。私、半年後にそこに行くんだよ」と呟く。おじさんが興味深そうに返す。
《ほう、学園か?何だか学校みたいだな。魔法って何を学ぶんだ?》
「うん、この世界じゃ、庶民でも簡単な生活魔法は使えるの。水を出したり火をつけたり。でも魔力が低い人は魔道具に頼ってて、私みたいな貴族はもっとすごい魔法が使えるんだって。魔法学園は、ミグ王国とかカルト神聖国、マグ共和国の国境にある中立都市にあるの。そこは軍事力が強くて、どの国よりも魔法技術が高いの。各国の貴族や魔力の高い子が集まって魔法を学ぶんだよ」
おじさんが驚いたように言う。
《軍事力って、魔法の強さなのか?俺のいたとこじゃ、火力と物量が軍隊の強さだったぜ》
ファミリアが目を輝かせて続ける。
「うん、強力な魔法使いは平民の軍隊を一蹴できるの。強力な魔法使いの人数がその国の強さってのが常識よ。魔法学園で学べば、領地も家族も守れる力がつくよね。もっと知恵が欲しい、家族のために!」
おじさんが笑う。
《おう、そしたらもっとすごいことができるぜ、知らんけど。魔法ってのは俺には分からねぇが、お前ならできそうだな》
ファミリアは窓の外を見た。燭台の灯りが揺れる執務室で働くオリバーの姿と、ミリアの笑顔、まだ見ぬ弟か妹の小さな手が頭に浮かぶ。領主の娘としての小さな決意が、彼女の心に根を張り始めた。
おじさんはどんな過去を背負っているのでしょうか。いろいろと思い出しそうで、思い出せないようです。