3 おじさんの正体
着替えを終え、汗を拭いてさっぱりしたファミリアは、再び部屋に一人きりになっていた。もう少しで夕食の時間だ。
「おじさんが魂の秘術で私に宿ったのは間違いなさそうだけど、おじさんって誰なの?」
《それなんだけどさ、全然違う世界に住んでたことは確かだ。魔法なんかない場所で、会社員やってたんだよ。》
「会社員って何?」
《働いて給料もらって、日々の生活を送る人のことだ。俺の国じゃ会社員が一番普通な生き方だったと思う。》
「ふーん、平民ってわけね。どこの国にいたの?知ってるかもしれないわ。」
《平民って…まぁそうだけど。俺の国にはもう貴族なんかいなくて、昔はいたけど時代の流れでほとんどの人が平民だよ。国の名前は…に、に、》
国の名前を思い出そうとすると、急に意識が白く霞む。霧がかかったように記憶が遠のき、手が届きそうで届かない。
《に、ほん。そうだ!日本って国に住んでたんだよ!で、俺の名前は…》
国の名前をつかめたのに、それ以上は思い出せない。
《名前は思い出せない。年齢も家族も…でも俺は日本って国で会社員だったんだ。》
おじさんが遠くを見るような声で、日本から来たと言った。
「にほん、ね。残念だけど聞いたことないわ。ここはミグ王国で、東の辺境にあるウェルドって街なの。」
《ミグ王国もウェルドも知らないな。他の国を教えてくれ。》
「えっと、アーク帝国、マグ共和国、カルト神聖国、ダイヘン王国やエルフ自治領があるの。今わかってる範囲では8か国はくらいよ。」
《俺のいた場所じゃ190くらい国があった。正確には覚えてないけど、そのくらいだ。アークもカルトもマグも聞いたことない。ここは俺のいた世界とは全く別だろうな。まだ見つかってない場所はないのか?》
「大陸の周りは海で囲われていて、海の先には誰も行けてないの。だから人が住んでるかどうかも分からないわ。」
《なんか頭痛くなってきた。俺の地理の常識、まるで通用しそうにないな。》
「そもそも190も国があったら争いが絶えないんじゃない?どうやって平和を保ってるの?」
《世界が全部平和だったことなんて1秒もないよ。日本は80年近く戦争してないけど、世界じゃいろんな国でずっと戦争が起きてた。》
「80年も戦争がないなんて素敵な国ね。」
《まぁ、かりそめの平和ってやつだ。近隣の国がいつ攻めてくるか分からない。今日は良くても10年後も同じとは限らない世界だったよ。》
「じゃあうちと同じね。アーク帝国が領土拡大を狙って怪しい動きをしてるらしいし。」
おじさんと話し込んでいると、遠くから執事長の魔力が近づいてくるのを感じた。窓の外を見ると、落ちかけていた夕日が完全に消え、薄っすらと星空が顔を覗かせている。いつの間にか薄暗くなり、廊下には魔力灯が灯っていた。
コンコンコンと扉の外からノックが響く。夕食の時間だろう。
「お嬢様、夕餉のお時間です。お部屋にお持ちしますか?」
執事長が扉を開け、落ち着いた声で尋ねる。
「いいえ、少しでも歩いて元気を取り戻したいから、食堂に行くわ。」
病み上がりだけど体は軽く、何よりお腹が空いている。とても…。
食堂では、父と母がすでに円卓に座るところだった。ウェルド家の食卓は伝統的に円卓で、家族揃って食事をすることが多い。ファミリアは一人娘で、家族は3人だけなので、円卓もこじんまりとしている。来客用の長テーブルもあるが、ほとんど使われず、普段は食堂脇の円卓で済ませることがほとんどだ。
「ファミリア、調子はどう?変な悪霊に取り憑かれてたりしない?」
母ミリアが顔を覗き込む。
「大丈夫よ、お母様。今は体が軽いし、病気前より調子が良いくらい。」
《おお、これがファミリアの母上か。ふんわり金髪をボブに揃えた優しげな美人だな。まだ30歳くらいに見える。ずいぶん早く結婚したんだな。》
(誰に向けて解説してるの…。お母様は今年30よ。16でウェルド家に嫁いで、18で私を産んだの。少し抜けてるけど優しい自慢のお母様よ。)
《ってことはファミリアは12歳か。大人びてるな。》
(急にキモいこと言われた気がするわ。)
「ファミリア、無理して動かなくていいんだぞ。食事も部屋に運ばせるし、家庭教師も今月は休みにしよう。」
オリバーが口を挟む。
「お父様、私の体調はすこぶる良いの。ちゃんと歩いて食堂にも来れたし、今まで通りの生活をするわ。先生の授業もすぐ再開しないと、半年後には魔法学院の入学が控えてるもの。」
「うむ、分かった。あまり無理するなよ。」
父はそれ以上追及しなかった。
「さぁ、冷めないうちにいただきましょう。」
ミリアが晩餐の開始を告げる。
円卓には、緑豆のペースト、燕麦のポリッジ、蒸し野菜が並ぶ。どれも湯気を立て、ほのかに香るが、見た目は質素だ。ファミリアの体調を気遣ったのだろう。使用人がそっと器を置き、木製のスプーンとフォークを添える。卓の中央には水差しと小さな花瓶が置かれ、薄紫の野花が控えめに彩りを添えている。魔力灯の柔らかな光が食堂を照らし、円卓に座る3人の影が壁に揺らめく。
ファミリアがスプーンを手に取ると、緑豆のペーストを一口すくう。ほんのり塩味が効いた滑らかな舌触りだが、味は薄く、物足りない。お腹が空いているのに、これでは満足できそうにない。隣でオリバーがポリッジを口に運び、無言で咀嚼する。普段は豪快に肉を頬張る父が、今日は静かにスプーンを動かしているのが妙に新鮮だ。
「お母様、この緑豆のペースト、ちょっと味が薄い気がするわ。塩を足してもらえるかしら?」
ファミリアが小さく提案する。
「あら、そう?私にはちょうどいいと思ったけど…。でもファミリアがそう言うなら、明日からはもう少し味を濃くしてもらおうかしら。」
ミリアが優しく微笑みながら応じる。彼女も同じペーストを食べているが、不満そうな様子はない。スプーンを手に持ったまま、少し考え込むように首をかしげる姿は、どこか愛らしい。
《なんでこんな病人食なんだよ。シャウエッセンが食いたいなぁ。せめてハンバーグでもいいぞ。》
おじさんが味気ない食事にぼやく。シャウエッセンが何か分からないけど、ハンバーグならファミリアも知っている。ジューシーな肉汁が溢れるあの料理を想像すると、余計にこのポリッジが味気なく感じる。
「お父様、明日からは普通の食事に戻してもいいわよね?私、もうすっかり元気だし。」
ファミリアが少し強めに主張する。
「うむ、そうだな。医師ももう大丈夫だと言ってたし、明日からは肉でも出してもらおう。ファミリアが元気ならそれでいい。」
オリバーが頷き、ようやく笑顔を見せる。
ポリッジを一口食べては水を飲み、また一口。泣き虫な父が我慢している様子が、なんだか可笑しい。
ミリアが蒸し野菜をつまみ、「これ、畑で採れたばかりのものなのよ。味は薄いけど新鮮で美味しいわ」と言う。
確かに、にんじんと豆の自然な甘みがほのかに感じられる。でも、やっぱり物足りない。ファミリアは黙って頷きつつ、内心で料理長への交渉を決意する。明日からは絶対に肉料理を出してもらおう、と。
《この野菜、味がしないわけじゃないけどさ、塩コショウかけたらもっと美味いだろうな。マヨネーズがあれば完璧なんだが。》
(マヨネーズって何?)
ファミリアが心の中で尋ねるが、おじさんは答えず、ただ「うーん」と唸るだけ。
普段なら父が領地の話をしたり、母が庭の花の世話を自慢したりで賑やかな食卓なのに、今日は3人とも黙々と食べている。ファミリアだけ特別メニューだと可哀想と思ったのだろう、父と母も同じ質素な食事を共有している。でも、その気遣いが逆に静けさを生んでいて、いつもと違う雰囲気が漂う。スプーンのカチャカチャという音と、時折水差しから注ぐ水の音だけが響き、妙に落ち着いた晩餐だった。