11 試行錯誤
侯爵家の庭に朝陽が差し込む中、ファミリアはムシカレ草の束を手に持っていた。彼女は小さな火鉢に草を放り込み、火をつけて煙を立ててみる。だが、期待したほどの煙は上がらず、風に流されてすぐにかき消えていく。
「ムシカレ草を燃やしてみたけど、煙が弱いよ…このままじゃ使い物にならないよ。おじさん、どうすればいいかな?」
少し焦った声で呟くと、頭の中でおじさんの声が響いた。
《専門的なことになると俺もわからないが、線香のように一定時間は燃えて煙を出し続けるのが理想的だな。俺のいたところじゃ線香はメーカーといってもわからねぇか、職人集団が作ってたぜ。城下町にそんな所が無いかか探してみろよ。》
「線香職人?それならムシカレ草を混ぜて強い虫よけが作れるかも!お父様に相談してみよう。」
ファミリアは目を輝かせ、草の束を手に持ったまま屋敷へと駆け戻った。
執務室では、オリバーが植物紙の書類に目を通していた。赤い髪を短く刈り上げた領主は、娘が勢いよく入ってくるのを見て眉を上げる。
「お父様、城下町に行きたいの!」
娘がなにか思いついたらしい…
「まて、ファミリア。なにがなんだかさっぱり分からん。説明しなさい。」
「開拓地で使えそうなものを作るの!ムシカレ草で虫よけ線香を作りたいの。お香とかを作る職人を探したいの。おじ…私の考えなんだけど、とにかく城下町に行けば協力してくれる職人がいるかもしれないわ。」とファミリアが早口でまくし立てる。
オリバーは口髭を撫で、赤い瞳でファミリアをじっと見つめた。
「開拓地に行ったことが随分と刺激になったようだね。お香を使った虫よけのアイデアか…面白い」
「そうよ、煙で虫を追い払う道具を作るのよ!」
「城下町か…行っても良いが護衛が必要だな。今日今すぐには無理だ。適任の護衛を探そう。そしてお香職人とやらも探しておくから待っていなさい。」
「わかったわ、お父様よろしく!」とだけ告げて執務室を飛び出していった。
「嵐のようだな……」とオリバーはポツリと呟いた。
「本当にお嬢様はお元気になられたようですな、なによりです。」と傍に控えていた執事長が笑いをこらえる。
「そうは言うが、あまり行動的になるのも困りもんだな。」
オリバーは紅茶をグイッと飲んで、指示を出した。
「領軍から護衛を選定しよう。ここ半年は魔獣が出ていないな、魔獣対から適任者を探せ。できるだけ早くな。」
「かしこまりました」と執事長が告げて執務室を出ていった。
翌日の午後、ファミリアのもとに一人の壮年の男が訪ねてきた。
「はじめてお目にかかります。魔獣対策隊から出向してきました、ライムハルト中尉と申します。以後、よろしくおねがいします。」と気を付けをして敬礼する男がいた。
「あ、どうも…ところで魔獣対策隊がなぜ私のところへ?人違いじゃないかしら?」口をぽかんと開けて目の前の男を見上げるファミリア
「ファミリアお嬢様、オリバー閣下からの指示より隊長が『城下町に慣れた者が良い』と私を選び出向命令を受けました」とライムハルト中尉が言う。敬礼を下すタイミングを失って目が泳いでいる。
「もしかしてお父様に頼んでいた護衛のことかしら?」
「城下町へご視察に行く際の護衛と聞いております。」
「やっぱりそうだわ!よろしく、ライムハルト…中尉?」と指を顎に当て小首をかしげるファミリア
「ライムハルト・マーティン男爵、階級は中尉です。親しい者からはライムと呼ばれております。」
「じゃあライムね。早速城下町に行きましょう!」と気が早いファミリア
ライムハルトは長身で細身ながらも筋肉質な男だ。革鎧に身を包み、制帽の下から薄緑の髪の毛が見えている。瞳の色も薄緑色で、鼻筋の通った冷たい印象の顔立ちをしている。見上げるような大男ではないが、ファミリアよりも頭一つ分は高い。
馬車が侯爵家の門を出て、城下町へと向かう。車内にはファミリアが座り、窓の外には護衛騎士ライムが立っていた。薄緑の短髪がそよ風に揺れ、鋭い薄緑の瞳が周囲を見据えている。揺れる馬車の上でも姿勢を崩す事はなかった。
城下町に近づくと、露店の香ばしい匂いや職人たちの掛け声が聞こえてきた。馬車が石畳の道を進む中、ファミリアは目を輝かせて外を眺める。
「ライム、馬車に乗らなくていいの?」
ライムは馬車の横を歩きながら、淡々と答えた。
「お嬢様、馬車の中では何かあった時に対応できません。このように人が多い場所では降りて周囲を警戒します」彼は鋭い視線で周囲を見つつ、馬車の進路を確保する。
おじさんの声がファミリアの頭に響く。
《こういうタイプは仕事はきっちりやるぜ。冷たいように見えるが、信頼できそうな気がする。》
ファミリアは笑顔で頷き、馬車から身を乗り出してライムを見た。
「ライム、目的地は近いの?」
「はい、職人街の南端に調香工房があります。貴人向けに匂い消しのお香を作っている工房で、まもなく到着予定です」とライムは丁寧に答えた。
職人街の裏路地に佇む工房は、煤けた木造の小屋だった。開け放たれた戸口からは焦げた木の匂いと香の煙が漂い、壁には乾燥中の草や木粉の束が吊るされている。工房の中では、白髪交じりの職人が作業台に向かい、煤けた手で線香を丸めていた。ファミリアとライムが入ると、彼は手を止めて立ち上がった。
「おや、お貴族様がこんなところへ。何かご用で?」
「失礼する。こちらは領主様のご息女ファミリア様だ。私は護衛を務めるライムハルト、貴殿に用事があって来た次第である。」とライムが朗々とした声で述べる。
職人が話し出す前にファミリアはムシカレ草の束を差し出し、目を輝かせて説明を始めた。
「こんにちは!このムシカレ草で虫よけの線香を作りたいんです。開拓地の子供たちが病気で苦しんでて、水に虫がいるのが原因で…煙でハエや蚊を追い払えたらって思って!」
苦笑しながら職人はムシカレ草を手に取り、鼻に近づけて匂いを確かめる。
「ムシカレ草ですか。聞いたことがありませんが、確かに虫が嫌いそうな香りがしますな。だが、お嬢様、線香は燃え方と煙の持続が大事でして…ただ混ぜるだけじゃ難しいですよ。試してみますか?」
「ぜひお願いします!私、開拓地の皆を助けたいんです。失敗してもいいから、一緒に作ってみたいです!」
ファミリアの熱意に、職人は小さく笑って頷く。
「ご領主様のご要望なら断れませんな。さっそく、やってみましょう。まずは少量で様子を見ますよ。」
彼は石臼でムシカレ草をゴリゴリと砕き、木粉と少量の粘土に混ぜて水で練り上げる。
「草の油分が燃えすぎるとすぐ消えちまうんで、初めは控えめに混ぜてみましょうか。」
細長い形に整えると、魔道具らしい乾燥機にかけて試作品を作った。火をつけると、煙が立ち上るが、チリチリと音を立ててすぐに消える。
「うーん、やっぱりそう簡単にはいかないか…」
ファミリアが肩を落とすと、職人が言う。
「草が少なすぎたか。明日までにいろいろと実験をしてみましょう。もう少しお時間をいただけますか、お嬢様?」
「うん、お願いします!また来るね!」
ファミリアとライムは職人に任せて領主邸に帰っていく。
翌日、ファミリアとライムは再び工房を訪れると、職人は既に作業台にムシカレ草を広げて待っていた。
「いくつか試作品があるので試してみましょう。」
そういって試作品に火をつけて比較していった。いものや細いもの、様々な見た目の線香からモクモクと煙が上がる。工房の中にどこか懐かしいような素朴な土っぽい香ばしい匂いが立ちこめた。
「なんか安心感のあるような、ほっとするような、そんな匂いがするわね」
《これだよ、これ!蚊取り線香の匂いだ。夏の夜の匂いがする。懐かしいな》とおじさんが大興奮している。
その時、工房の隅にいた小虫が煙に反応して飛び回り始めた。
ファミリアが「効果を見たいから煙を広げたいな」と呟くと、ライムが一歩進み出る。
「お嬢様、少しお手伝いします。」
彼は軽く手を振り呪文を詠唱した。「風よ吹け"Venti, flare"(ベンティ,フラーレ)
」微かな風が渦を巻き、煙を工房全体に広げた。虫がポトリポトリと地面に落ちて、這いまわる。効果がありそうだ。
「おお、お嬢様、なにやら虫が落ちていますな。本当に虫に効く草なのかもしれませんな!」と職人が大興奮している。
「しかしながら、風魔法で煙を広げないと効果が薄いとなると、庶民には使い勝手が悪いですね」とライムが呟く。
「というかライムは風魔法が使えるんだ。すごいなぁ」とファミリアが憧れの眼差しでライムを見つめる。
「魔法学園で学べば、お嬢様はもっと強い魔法使いになるでしょう。」とライムは謙遜する。いつも感情が読めないライムだが、心なしか柔らかい表情に見えた。
《なあファミリア、この線香は棒状だろ。もっと太くして渦巻き状にしてみろよ。そうすれば煙も多くなるし、燃焼時間も長くなる。》
(おじさん、ちょっとまって。作ってみるね)
ファミリアがいきなり線香の原料を手に取って捏ね始めた。
「お嬢様、なにを…お手が汚れますぞ!」と職人も啞然とする。
貴人は料理すら自分でやらない、ましてや臭いの強い線香を自ら作り始めるとは、ここにいる誰も思っていなかった。
「ちょっと難しいわね。こんな感じで長くすれば良いかしら?」と線香の原料を手で伸ばしていくファミリア
不細工な形だが、ファミリアの小指の半分ほどの太さになった線香を渦巻き状に丸めていった。それを見た職人が感心したように「ほぅ…」と呟く。
「こんな形で乾燥させたら煙も多くなるし、燃える時間も長くなるわよ」
職人が感心したように言う。
「これはすごい発想ですな。考えもしませんでしたぞ。」まじまじとファミリアの作った不細工な試作品を見つめる。
「貴人向けに作る匂い消しの香とお嬢様の作りたいものとは真逆ですから無理もないでしょう。」とライムが職人をフォローする。
この世界の香は主に貴族が服に匂いを付けたり、体に匂いを纏わせるためのものだ。煙が多すぎると焦げた臭いになるため、出来る限り煙が少ないほうが良いのだ。少ない煙で香りを出す線香が良い物とされている。ファミリアの求める煙が多く長時間使えるものは真逆の発想である。
《俺のいた所では夏場によく使っていてな、蚊取り線香と言うんだ。》とおじさんが懐かしい、懐かしいと呟いている。
「私がお嬢様の試作を改良して調整しましょう。また明日いらしてください」と職人が告げる。何かに感化されたように黙々と作り始めた。
三日目、工房に着くと職人が笑顔で迎えた。
「お嬢様、出来上がりましたぞ。」と火をつける。
濃い煙がモクモクと立ち上り、工房の隅の虫が逃げ出した。
「おおっ、やった!これなら使えそうだよ!」ファミリアが手を叩く。
職人が満足げに頷く。
「瘴気を払う煙ですな。ムシカレ草がこんな力持ってるとは。お嬢様、これはなんていう名前にしましょうか?売れますぞ!」
ファミリアが目を輝かせて答える。
「“虫取り線香”というのはどうかしら?」
「良い名前ですな。夏になり虫が増えると重宝されるでしょう。」
「お嬢様、売値などは領主様と相談させていただいて決めましょう。」とライムが言う。
「ライム、これは庶民のための発明よ。侯爵家は関与しないわ、専売なんてもってのほかよ。」とファミリアが厳しい口調で反論した。
「しかし、これはお嬢様が発明した物です。専売にすればどのような莫大な利益になる可能性が…」
「ライム、貴族に二言はないわ。便利なものは早く安く手に入るべきよ。できるだけ安く売るようにしなさい。」とファミリアは形のいい眉をキリリと上げて断言した。
ことの成り行きを見守っていた職人が口を開く。
「お嬢様の御意向に従います。これは独占せずに技術を職人ギルドに公開いたします。これが安く手に入れば虫に悩まされることも減るでしょう。」と深々と頭を下げた。
この年から、ウェルド領を起点としてミグ王国に虫取り線香が広まっていくこととなった。夏の時期に発生して我慢するしかなかった蚊やノミ、シラミなどの害虫に悩む人々が減っていくのであった。
三日間の試行錯誤を終え虫取り線香を完成させたファミリアは、侯爵家の厨房で乳液作りに挑戦していた。カモミールの煮汁に香油と少量の石鹸を混ぜるが、魔道具の攪拌器を使っても分離してしまう。
「うわっ、失敗…水と油が分かれちゃった。」
肩を落とすファミリアの横で、ライムが静かに指摘する。
「お嬢様、水と油が分かれてますね。もっと混ぜた方がいいかと。」
彼は風魔法で空気を送り込んで攪拌を手伝う。
「ライム、ありがとう!職人さんとの試行錯誤みたいに、何度もやればできるかもしれないわ」
ファミリアは何度も挑戦し、魔道具の速度を上げて念入りに混ぜる。何度も割合を変えて配合した結果、白濁したサラッとした乳液が完成した。
彼女は小さな壺に詰め、ミリアに持っていく。
「お母様、これ試してみて!」
ミリアが手に取り、腕に塗ると笑顔が広がる。
「サラッとしてて気持ちいい。ファミリア、こういうのが欲しかったのよ。油だとべたべたして不快だったのに、これは大丈夫そうだわ」
「お嬢様、努力が実ってよかったですね」とライムは親子を見ながらポツリと呟いた。
その夜、ライムは三日ぶりに城下町の小さな家に帰宅した。ライムハルトは男爵位だが、一代限りの称号であり領地をもたない貴族である。木造の簡素な住まいには、妻のエリナが待っていた。薄茶色の髪を束ねた彼女が、鍋をかき混ぜながら振り返る。
「おかえり、あなた。例の侯爵家のお嬢様の護衛はどうだった?」
ライムは革鎧を脱ぎ、椅子に腰を下ろす。
「三日間、工房に通った。お嬢様がムシカレ草で虫よけ線香を作りたいってさ。」
エリナが目を丸くする。
「三日も?お嬢様がそんなことに?」
「ああ。毎日通って職人と試して、今日やっとできた。俺も微力ながら風魔法で手伝ったよ。」
エリナが笑いながら鍋を火から下ろす。
「へえ、あなたが手伝うなんて珍しい。お嬢様ってどんな子?」
ライムは少し間を置いて、静かに答えた。
「…熱意がすごい子だ。開拓地の子供たちを助けたいって、何度も失敗しても諦めなかった。最初は面倒だと思ったけど、…悪い気はしなかったよ。」
エリナが微笑む。
「ふふ、あなたがそんなこと言うなんて、お嬢様に嫉妬しちゃうわ」
「別にそういう感情はないよ。ただ、庶民のことを本気で思いやれる貴族に初めて会ったんだ。お前が心配するようなことはないさ。」と言うライムの顔は優しかった。




