第18話 初日 16:00-7
「いや、重いんだけど」
「あ、あぁ。ごめん」
春夏の潰れた声を聞いて、謝りつつ身体を転がして、腹を天に向ける。
……生き残ったんだよなあ。
危機を脱した実感が熱となって湧いてくる。ひんやりとした床が気持ちいいと思えるくらいに。
「おつかれ」
「おつかれさん」
「ほんと、助かったわ」
「それはこっちも同じだ」
お互い顔だけ横を向いて話していた。
どちらかともなく笑みが零れる。それは次第に大きく、声を発するようになって、
「ふふ、ははは、っていったーい!」
「阿呆か」
「阿呆って失礼ね」
春夏が口を尖らせて非難する。
その顔色は少しだけ白さを増したように見えて、
「薬と包帯取ってくる」
そう言って、颯斗は気だるさの残る身体を起こす。
バッグだけは死守したが、中身は全て捨て置いてきた。身軽さを優先したためだったが包帯の一つでも残しておけばと、後悔する。
「私も──」
「寝ておけよ。まだそこら辺にマーダーがいるかもしれねえんだ。怪我人じゃ足手まといなんだよ」
起き上がろうとする春夏の言葉を遮って、颯斗は血まみれのTシャツに手を伸ばす。一瞬上裸とどちらがマシか悩んで、諦めて袖を通す。
血に忌避感はないが、べとっと腹部にへばりつく感触が気持ち悪い。替えの服がないためあと一日以上このままというのは気分が下がる。
……乾いたら乾いたで厄介なんだよなあ。
「じゃあ、行ってくるから。なるべく早く戻る」
「よろしくねえ」
表情を切り替えた颯斗がバッグを待って扉に向かう。その後ろ姿を笑みと、震える瞳で春夏は見つめていた。
……きっと大丈夫。
小さく呟かれた声は誰にも届かなかった。
三階から一階までの移動は驚くほどスムーズだった。
颯斗は慎重に、それでもなるべく早く階段を駆け下りる。
途中で見たスマホはまだそれほど時間が経過していないことを示していた。
……もっと経ってるもんだと思ってたんだけどな。
体感では集合時間に間に合うかというほど濃い時間だった。
だからまだ拠点には誰もいないと思って、一階のフロアに飛び降りる。
やばっ……
着地の瞬間、足の力が抜ける感触があった。上手く足の裏を地面に着くことが出来ず、颯斗は前傾のまま地面に向かっていた。
咄嗟に両手を前に出すが、力はこめない。下手に衝撃を食らうと肩が外れる可能性があったためそのまま前転へ移行する。
それでも、予期せぬ動きは痛い。高速で二回転する間に身体の細かな突起が削れるような痛みが走る。
「だ、大丈夫!?」
ぐわんぐわんと揺れる脳みそが人の声を拾う。
聞いたことのある声色に警戒をといて、数度の瞬きの後声の方に視線を合わせる。
見覚えのある男性二人が立っている。目と目が合い、そして少し下を見られていた。
ああ、とピンとくるものがあって、
「俺のじゃねえ。春夏のだよ」
そう言いつつまだあと引く痛みに顔を歪ませる。
少なくとも痣にはなっているだろう。特に肘が酷い。それでも動くには支障がないと判断する。
しかし好都合だった。誰もいないと思っていただけに人の手があればそれなりに安全に春夏を移動させられるからだ。
「薬と包帯、あと人手もいる」
颯斗はバッグを背負い直して端的に告げる。
浅く切っただけとはいえその範囲は広い。あの様子だと夜は熱が出るはずだから時間に制限がある部屋より拠点の方へ連れて行きたかった。
ふと、視線を感じて颯斗は顔を上げる。真っ直ぐ、睨みを効かせる益人は、
「わかった。何があったか移動しながら話せよ」
なんであんな怖い顔してんだ?
颯斗は眉を寄せながらぎこちなく頷いていた。
「初めに言っとくけど、だいぶ端折るからな。質問すんなよ」
颯斗はそう前置して、経緯を話しながら、三人はセーフゾーンへ向かっていた。
特に反応が良かったのは和仁で、随時感嘆や悲鳴をあげていた。特に太刀が投げられた時の話をすると、あまりに騒ぐものだから益人が後ろからどつくほどだった。
そんな彼は話中終始無言を貫いていた。ただ眉間に出来た皺をより深くするばかり。怒っているのか呆れているのか判断に困る顔だ。
まじで身に覚えがねえ……
どちらにせよ、不機嫌な表情をいつまでも眺めているのは不愉快に感じて颯斗は前を向いていた。
ただ三階へ向かうだけの移動は時間がかからず、話が終わらないうちに踊り場にたどり着く。
特に目を引くのが壁に深く刺さった太刀の存在だ。刀身の三分の一程が埋まっていて、これがしっかりと当たっていたとなると怪我という言葉では済まない事態になっていただろう。
「うわっ……」
和仁は大口を開けて惚けていた。
「これ相手によく突っ込んだな」
「運が良かったんだよ」
颯斗がため息混じりに言うと、違いないと益人が久しぶりに笑みを見せていた。
太刀を尻目にセーフゾーンへと足を動かす。五歩も歩けば床に飛び散った血痕が見えてくる。
『セーフゾーンを解放します──』
颯斗はアナウンスを無視して足を踏み入れる。続いて和仁、益人とスマホをタッチするたびにアナウンスが律儀に音をまき散らしていた。
そして、部屋の中央で倒れている血まみれで横たわる春夏の姿を見つけると、
「し、死んでる……?」
「……生きてるわよ」
眠っていたのか、目を細めたまま顔だけ向けて春夏は答えていた。
「背中、いや腰か。運が良かったな」
「そうね。見た目ほど酷くは無いわ」
けだるさをにじませながらゆっくりと上体を起こす春夏は、颯斗に目を向け、
「包帯の巻き方知ってる?」
「テーピングなら」
「そ。思いっきりキツくお願いね」
そういうと血まみれのシャツのボタンをはずし始めた。
当然の行動に、和仁が、
「な、なにしてるんですか」
「何って応急処置だろ。失礼だと思うんなら壁でも見てな」
益人はそう言って和仁の肩に手を回し部屋の隅に連れて行った。
……やるか。
颯斗はそう思うと春夏に近づく。
肌に手を伸ばす。薄桃色のブラが目に入るが劣情を覚える余裕がない。
バッグを漁りまず取りだしたのは水だった。時間が経って少し固まり始めた血液を溶かすようにゆっくりとかけていく。
「っくぅ」
「我慢しろ」
「してるわ、よ」
水が傷口に当たるたびに体が小さく跳ね、皮膚がひきつる。それを無視して洗い流した傷口に比較的きれいな布を当て、その上から包帯を巻いていく。
要望通り、きつく締めあげる。しばらくは息をするのもつらいだろうほどに。
最後は先端を二股に割いて結ぶと、
「お疲れさん」
「雑」
「テーピングなんてこんなもんだ」
もう一つ、バッグから取り出した痛み止めの錠剤ともう一本水の入ったペットボトルを手渡しながら颯斗は鼻で笑う。
後はしばらく安静にしていればいい。
春夏は受け取った水を口に含むと、一口目は床に吐き捨てていた。そしてもう一口、薬とともに嚥下する。
胸に溜まった息を盛大に吐いてから、
「はぁ、痛すぎ。死ぬかと思ったわ」
軽く颯斗をにらんでいた。
その様子に和仁が遠くから、
「大丈夫、何ですか?」
「言ったでしょ。見た目よりはましって」
春夏は肩を回して見せる。
……余計なことすんなって。
バッグから取り出した大きめの布、カーテンだったものを広げて颯斗は春夏の肩に乗せる。
濡れた体のまま放置していたら良くなるものも良くならない。
だから、
「一時間くらいはセーフゾーンも持つみたいだし、ちょっと寝てろよ。そしたら拠点に戻るから」
「了解」
その提案に春夏は笑みを投げ返すと、ゆっくり体を床に預けていた。
……あぁ、疲れたな。
限界だった。
颯斗はそのまま後ろに倒れて気絶するように眠っていた。