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第六章 〜あの言葉をもう一度〜



 蓮は剣を杖の代わりにしなければ、満足に立ち上がる事も出来ずにいた。

 片目は血で視界を奪われ、身体には無数の切り傷があり、そのどれも浅くはない。

 我ながら無駄な事だと、バカな事だと思う。この腐りきった世界でこんなに必死になってどうするのかと、そればかり頭の中で何度も何度も皮肉に唱えた。


 剣を構えれば、霞狼の猛攻を受けて吹き飛ぶ。それでも身体は立ち上がってしまう。身体は限界を超えているのに、上から釣られるように立ち上がってしまうのだ。


 何故だろう?

 蓮は剛腕に薙ぎ倒され、思う。

 何故なんだろう?

 蓮は突進を喰らい、宙を舞いながら思う。

 何がしたいのだろう?

 何をしているんだろう?

 蓮は定まらない思いを繰り返した。

 

 最早意識は薄れ、痛みも感じなくなっているというのに。自分の身体のどこに力を入れれば何が動くのかさえも、解らない。地に寝そべり、横目で荒野の奥を覗くと鮮やかなオレンジ色の世界が目に飛び込む。重なる雲の切れ間から差す、朱色の光がとても綺麗だった。


「アゲハ……、どこ?」


 その色に紅葉を重ね、ぼやける視界に手を伸ばす。その何処かに友が居る気がして、それでも居なくて寂しさだけが蓮の心に積み重なっていく。

 だが身体を霞狼に踏み潰されるとその気持ちは吹き飛び、視界は揺らいで苦しくなってきた。

 

 何で自分がこんなに苦しい思いを?

 誰の為に? 何の為に?

 答えが出ない。

 答えが解らない。


 このまま死ぬのかな?

 だけど……それでもいいと思った。

 大切な友はここに居ない。独りで死んでいくのがお似合いだと、そう思った。どうせ生まれてきた時から独りぼっちだったから。


 霞狼が体重をかけると、蓮は濁った血を吐いて目を見開く。ゴキゴキと骨が壊れていく音が否応なしに響いた。


「……あ……んぅ」


 蓮は天に血染めの手を伸ばした。

 分厚い雲が、嘲笑う曇天がすぐ傍に居る。

 待っている、自分を。

 曇り硝子越しに見るような世界。もう世界の輪郭が分からない。ただ身体が重くて苦しい。それだけだった。


 死に逝く事を理解した時、身体は軽くなり、暖かく包まれる。

 まるで羽衣に抱かれたようだった。

 もう終わったんだ……。もう苦しまなくてもいいんだ。もう、この世界に耐えなくてもいいんだ。でも、楽しかった事もあった気がする。嬉しかった事もあった気がする。

 この包んでくる暖かさのように、安らいだ場所もあった気がする。


 だけどそれが解らない。

 身体が揺れる。

 そして、何だろう?

 雑音らしきものが耳に引っ掛かる。


 でも、雑音にしては心地良い。

「――んっ、俺――、蓮!」


 呼ばれた自分の名に気付いた蓮の視界はクリアになっていく。しかしまだボヤけていて、ハッキリ解らない。


「蓮! 解るか? 俺だ!」

「…………あ」


 周りがぼやけてもハッキリ解った。

 

「きょーくん……」

 樹楊は胸を撫で下ろし、蓮の髪を優しく撫でた。浮かべる笑顔は尊く、柔らかい。


 蓮は思い出した。誰の為に、何の為に闘っていたのか。

 楽しい事、嬉しい事、そして安らぎをくれたのはこの人だった。自分の罪を刻んだこの目を少しだけ好きになれたのは、この人が言ってくれたから。


 この人を護りたかった。

 

 羽衣に包まれたかと思っていたが、それは樹楊が抱き締めてくれていたから。

 樹楊の体温がとても心地良かったからだ。

 でも……。


「なんっで……戻って、きっ……」

「ばっかやろー、道間違えたんだっ。方向音痴なんだよ、俺はっ」

「またばかって言っ、た……。ばかは……あなた。死ん、じゃ……う」


 途切れ途切れの言葉だが、樹楊にはしっかり聞こえていた。樹楊はまた頭を撫でると、上等な笑みを浮かべる。


「俺は死なないし、お前だって死なせない。けどもしお前がここで死ぬなら、そん時は」


 その笑顔は優しかった。

 涙が出そうになった。


「俺も一緒に死んでやる」


 あぁ……やっぱりこの人はバカだ。

 あのまま逃げていれば助かっただろう。何も戻って来なくても、生きてくれていた方がいい。それでも嬉しい。その言葉が、笑顔が。


「解ったら寝てろ、ばか」


 今まで生きてきて汚れた思いもあった。憎しみに流される事もあった。だけどその全ては間違いなんかじゃないと、強迫観念に駆られるように生きてきた。あの日からずっと隠しきれない後悔の破片で傷を負っていたけど、アナタは蓮の花が咲く優しさでふんわりと包んでくれた。


 何処かに暖かい世界があると信じて、宛てのない理想を描き歩いてきた。

 いい加減、歩き疲れていたけど……待っていてくれたアナタの輝きに、その笑顔に今……。

 後悔の念も、悲しかった事も取り返しがつかない事も……、

 何もかもが報われていく。

 生きてこれて…………良かった。


「ばか……って、言わない、で」


 それだけ言うと、蓮は目を閉じる。

 瀕死ではあるがまだ息をしている。

 死んではいない。


 樹楊は蓮を優しく寝かせると機械剣を持ち、片目を潰してやった霞狼を睨む。

 その表情はかつてない、決意を表している。


「この人間風情がっ。生きて帰れると思うなよ!」

「っせーな、聞こえてっから吠えるな駄犬。生憎骨っこは持ってないんでね、こいつで遊んでやるから尻尾触れ」


 刺すように突き出した剣の向こうには、怒りに満ち満ちた霞狼。


「さァ、遊ぼうや」



 ◆



 樹楊は半身になり腰を落とす姿勢を取った。剣の切っ先は地面スレスレで止められている。

 対峙するは、体長五メートルはあるだろう霞狼。尻尾を入れれば七・八メートルにはなるだろう。勝算? そんな大層なモノなんてない。相手は幻と言われつつある魔獣だ。


 霞狼は潰された目を力強く閉じ、尻尾を地面に叩きつけて怒りを見せる。

 尻尾に叩かれた地面は陥没し、もうもうと砂煙を上げている。

 あんな攻撃を喰らったらひとたまりもない。打ちどころが悪ければ一発で死んでしまうだろう。だけど、蓮はその攻撃を耐えていた。いや、耐えざるを得なかったのだ。

 自分という無価値な人間を護る為に。


 樹楊はギッと歯を食い縛り、摺り足で間合いを詰める。

 霞狼は威嚇するように唸っているのだろう。ひ弱な自分には効果てきめんだが、臆病風に吹かれるのはもう止めたていた。


 後ろに引いていた足にありったけの力を込めて最初の一歩を踏み出す。

 地を抉るような踏み足から生まれるダッシュは、瞬時に間合いを奪った。

 走り幅跳びのように宙を跳び、剣を大きく振り被る。そして性能を発動。

 ボタンを押された機械剣は樹楊の腕を軸とし、漆黒の残光を伸ばしながら縦回転を始めた。樹楊はその剣を手放さぬよう、両手で固定しているだけ。


 電動の丸ノコギリのような回転をしながら霞狼の眉間に迫る樹楊。

 凄まじい回転の所為で視界もクソもあったもんじゃなかったが、それでも樹楊は霞狼だけはしっかり見据えていた。時間など掛けていられない。こうしている間にも蓮は苦しんでいる。


「っらァ!」


 驚いたように目を見開く霞狼の眉間を剣先が捉え、止まる事無く回転を続ける。

 蓮の大剣を切り捨てた時も思ったが、この剣だと斬った時の独特な感触が得られない。

 まるで空気を斬っているようだ。樹楊は霞狼の頭から尻尾の先まで綺麗に両断すると、地面の上を転がってスピードを抑える。そして両足でブレーキをかけながら振り向いた。


「ハッ、手応えねーな、オイ」


 霞狼は断末魔を上げる事無く、ミスト状になり、吹かれる風にその全てを運ばれ――、

「あるわけないだろう?」――樹楊の真後ろに姿を現した。

 

「霞狼と知っていて何を驚いている?」

 優しい母の様な声は殺気に満ちていて、身体の芯まで寒気を走らせた。

 後ろを振り返ろうともせずに間合いを取ろうとしたが、霞狼がそれを許すわけがない。

 大男を丸呑みにしそうなほどの口を開き、樹楊の肩を噛んで軽々と持ち上げた。


「うおっ、離せっ。このデカ犬!」


 霞狼は一度唸ると強靭な顎で締め付けてきた。無骨な牙が樹楊の肩に突き刺ささる。

 そして、ゴキリと不快な音が激痛と共に脳天まで響いた。


「――――――――――っ!」


 砕けるかと思うほど歯を食い縛り、痛みに耐える。樹楊の口からは悲鳴など漏れず、代わりに荒くなった息が激しく吐き出されていた。


「どうした? 可愛い悲鳴を上げれば私も優しくなるかもしれんぞ?」


 霞狼の口内へ、だくだくと血が流れていた。目が眩むほどの激痛。こんなに痛い思いをしてまで強がるなんて、らしくない。


「はっ、ワンちゃんの甘噛みなんざ痛くねーよ。気持ち良くて喘ぐとこだったぜ」


 目を涙で滲ませているクセに大口を叩く樹楊。

 しっかり中指を立てている。


「それによォ、うちのお姫様は寝起きが悪そうなんだわ。騒いでたら怒られるかも、なんでな」


 霞狼は視線を気絶している蓮に向けた。


「フン」


 霞狼は鼻で笑うと、顎に力を込める。

 軋んでいた骨は今まで聞いた事のない音を鳴らした。太い枝を力任せにへし折ったような音が身体中に響き渡る。


「――――――――うぐっ!」


 そして小枝の束を踏み折る音が続く。

 しかし樹楊はもう片方の腕を噛み締めて、喉奥から押し出される悲鳴を堪えた。

 腕には自分の歯が突き刺さり、血が流れてきている。


「へ、へへ……痛くねぇ。ワンちゃんの甘噛みなんざ痛くねーんだよ……」


 強がるものの限界だった。だけどたかが腕一本。ボロ雑巾みたいになるまで耐えた蓮を思うと、命を請う事など考えもしなかった。 何とか反撃のチャンスを生み出さないと。

 樹楊はそればかりを考えていたのだが、その隙さえ見せない霞狼は残酷に目を光らせる。


「ほう、お前はそっちの腕の方がいらないのか。すまないな、気付いてやれなくて」

「なっ、何をっ」


 霞狼は樹楊を上に放り投げ、一度口を離したがもう一度噛みついてきた。

 今度は反対の腕。剣を握り締める腕だ。

 冷笑する霞狼に、樹楊の顔から血の気が引いていく。何をされるのか、それが解ってしまった。その恐怖は身体を震える事さえ許してはくれず、身体中の毛穴に氷をぶち込んだような寒気を与えてくる。霞狼の眼に反射する自分は、何とも情けない顔で怯えていた。


 霞狼は樹楊の腕に噛みついたまま嘲笑い、

「甘噛みしてやるから喜べ」


 ザリュッと、得体の知れない音。

「う、うあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ! ああぁぁぁぁぁぁぁぁ!」


 牙が腕に突き刺さった感触などなかった。

 ただ、気がおかしくなるほどの激痛が、右腕を中心に波紋を広げてきた。


「うあぁっ! あぁぁああぁぁぁ! あ、あぁぁぁああああああああぁあぁあああぁぁ!」


 樹楊は狂ったように絶叫し、眼球が飛び出すくらいに目を見開きながら首を激しく振った。涎がだらしなく口から流れ落ち、目は虚ろになる。


「はぁっ! はぁっ! っぐ、がっ」


 霞狼は満足気に口端を吊り上げると、樹楊を地面に叩きつけた。

 樹楊は蓮の傍まで転がったが、起き上がる事は出来ない。

 頭は割れてそこから血が溢れ、肩には穴が開いて折れた骨が飛び出ている。


 もう片方の腕は、

「う、ぐっ、があぁぁ! う、腕っ、おれっ……何、でっ、うぅ……ぎ」

 肘の骨ごと食い千切られ、僅かな筋肉組織と皮で手首が繋がれているだけだった。


 目が霞む。吐き気がする。身体が壊れたように震える。

 腕が食い千切られた……腕が、腕がっ。

 圧倒的な恐怖。今すぐにでも逃げ出したい。

 いっその事、気を失いたい。悪い事じゃないんだ。気を失ったって、何も…………っ。


 だけど……。


 血塗れで目を瞑っている蓮の顔を見ると、弱音が出てこなかった。

 諦める事が、難しく思えた。頭を撫でてやりたい。頭を撫でられている時の蓮は気持ち良さそうだった。日向でくつろぐ猫のようで、見ているこちらが和んだ。あんなに表情に変化がないと何を思っているかなんてよく解らないが、それでもそう思えた。


 だけど腕が動かない。単純な事すらしてやれない自分に苛立ちが募る。


 込み上げてくる吐き気を堪え切れなかった樹楊は、急いで蓮から顔を背けて嘔吐する。出てくるモノは今朝食べた、消化しきれていない食べ物。口いっぱいに広がる不快な酸味と、更なる嘔吐を誘う匂いに、樹楊は苦笑する。


「へっ……。たまご、出ちまった。ったく、目玉焼きなんざ食わなけりゃ良かったぜ」


 勝てるわけがない。蓮でさえ歯が立たなかった相手だ。それなのに、皮膚に繋がれただけの自分の腕は……自分の手は未だに剣を握り締めている。闘え、と言っているように。


「闘えるわけ……ねぇだろ? 逃げ腰上等の俺によォ……」


 独りごちる樹楊は剣を握り締めている腕――肘がない腕を自らの口で咥えて立ち上がった。涙は止まる事なく鼻水は垂れ流し。両膝は恐怖と激痛に大笑いしていてあまりにも無様。だが、そんな事は関係なかった。


 しかし霞狼はそんな樹楊を、小虫でも相手にしているかのように払う。

 樹楊が吹き飛び、動かなくなるまで見続けた霞狼は蓮を見下ろした。

 ピクリとも動かぬ蓮だが、小さな胸だけが微かに上下している。

 霞狼は何を思っているのだろうか、歯に付いた樹楊の血を舐めると小さく唸る。

 しかし、霞狼と蓮。その間に息絶え絶えの樹楊が割って入った。


 蓮を庇うように覆い被さり、未だ消えぬ反骨の瞳で霞狼の真紅の瞳を刺すように睨む。

 呼吸は不規則に途切れ、限界は超えているはず。何度か意識が飛びそうになるが意地で繋ぎ止めていた。


「その娘を差し出せばお前は見逃してやろう」


 思いもよらぬ申し出だった。

 樹楊は唖然とした後、馬鹿馬鹿しそうに鼻で笑い捨てる。

「そりゃ、ど……も。けど、な…………一度見捨て、ちまったこいつ、を」


 押し寄せてくる呼吸と吐き気を呑みこみ、強かな笑みを浮かべ、

「二度も…………見捨てらん、ねーよ。俺ァ…………」


 逢う魔が時、護ると言ってくれた蓮。

 自分を逃がすために犠牲になった蓮。

 タダ飯喰らいの蓮。

 泥まみれに生きてきた蓮。


 こいつの笑った顔が見たいと思った。それは興味本位で軽い気持ちだった。

 だけど、あんな……。あんなに悲しそうな微笑みなんか、もう見たくない。ボロクソになる姿なんか、もう二度と……。


「二度と……。俺ァ、もう二度と」

 樹楊は腹に力を込めた。


「こいつを見捨てるわけにゃいかねーんだよ! 殺すなら殺せよ……そん代わりテメェの目ん玉ァ、潰してやる。来いよオラ、来いっつってんだろうが!」


 どちらが獣か。樹楊の咆哮は手負いの虎そのものだった。

 上等を切る樹楊から目を離さず、霞狼はゆっくりと近付く。


「愚かだな、お前は」

「あぁ。愚かじゃなきゃここには居ねぇよ」



 ◆



 太陽が地平線の下に落ち、空も浅黒くなった頃、ミゼリアは一軒の酒場へと足を運んだ。

 普段であれば安いだけが取り柄の酒場へと向かうのだが、今日は美味しい酒が飲みたくて、そこそこ値が張る酒場を選んだ。これは自分の昇進のお祝いを兼ねての酒だ。無駄遣いをしないミゼリアにとって、多少奮発しても生活には支障がない。


 本当は誰かと一緒に飲みたかったのだが、人付き合いの苦手なミゼリアには、親しく飲める友というのが兵の中には居なかった。慣れたものだと自分に言い聞かせるも、寂しさを感じている事は否めそうにもない。


「おっ、ミゼリア。この酒場に来るなんて珍しいな」


 気を取り直して入った酒場の戸口の傍に座っている、将軍のサルギナが気さくに話しかけてきた。


「私でも時には美味しい葡萄酒でも飲みたくなるんですよ」


 サルギナは指輪だらけの手でプラチナの髪を鬱陶しそうに払うと、垂れている目を更に下げた。横にはグラマラスで化粧が濃い女性が座っている。その魅惑的な身体から、ミゼリアが好まない香水の匂いを漂わせている。


「ふーん、酔いに任せて男を口説く、とか?」

「サルギナ様と一緒にしないで下さい」


 引き攣った笑顔で返すと、サルギナは腹を抱えて笑う。サルギナは女癖が悪い。

 持前の甘い顔立ちだからこそ、女性も寄ってくるのだろう。しかし寄ってくる女性はいつも化粧が濃い。人を食ったかのように真っ赤なルージュは何処で買っているのやら。


「手厳しいねぇ、ミゼリン」

「ミゼリアですっ」


 人付き合いは苦手だが、このサルギナは別だ。この人は人懐っこく、二等兵とも親しい。よって格下から好まれる将軍である。

 だがやはり女癖が悪い男だ。ここは早めに席に着くに限る。ミゼリアも過去に何度か食事に誘われたが、それは全て丁重にお断りした。しかし彼には諦めるという言葉がないのか、顔を合わせる度に食事に誘われる。鬱陶しいを越えて健気にも思える。だが、断る。


「あぁ、ミゼリン。ちょっと」

 足早にその場を後にしようとするミゼリアをサルギナは止める。


「なんですか、もうっ」


 サルギナはグラスを上げ、ニッコリ。

「二階級特進、おめでとう」


 ミゼリアはまんざらでもな顔をすると低頭し、

「まだ気が早いですよ。武昇の儀も済んでいませんし」


 武昇の儀とは昇進を全兵の前で公表する式典であり、その式典が行われない限り昇進した事にはならない。前例はないが、武昇の儀までの期間で昇進を取り消される事もある。

 ミゼリアは祝いの言葉をくれたサルギナにもう一度頭を下げると、奥のテーブルに座って葡萄酒を注文した。


 店内は満席で賑わいを見せているが、少し落ち着かない。周りは貴族やら大隊長以上のクラスばかりの人達で、小隊長という身分の兵は自分しかいないからだ。店内に流れる音楽も緩やかで上品なものばかりで、自分に合う音楽は兵達の荒っぽい笑い声なんだな、と今更になって痛感。いつも行っている店が、少しばかり恋しい。


 それでも酒の質はこちらの酒場の方が上で、甘味が深くてしつこくない。果実の質から加工まで、手間暇をかけたのが解るほど芳醇な葡萄酒だ。

 ちんまりと縮みながら飲んでいたが、いつの間にか美酒の魔法に掛かり、普段と変わらない堂に入った姿勢で飲んでいた。だからと言って、足を組んで踏ん反り返るわけではなく、肩の力を抜けよ、と言われるような正しい姿勢だが。


 久々の酒に気分良くなっていると、二人の女性が相席を持ち掛けてきた。

 気分もいい事だし、と気軽に承諾したのだが、その相手を見て驚く。


「ったく、この国は酒好きばっかね。どこも満席じゃない」

 真紅の髪を揺らす、幼さ残る女性は赤麗の首領・紅葉アゲハ。


「そういう首領もでしょう? 我慢して下さい」

 銀色の髪で褐色の肌。切れ長の目で強気に見えるが、声はおしとやかな女性は赤麗のナンバー・スリーのイルラカ。


 批判する声が多い赤麗だが、同じ闘う女性としてその強さには憧れていた。

 何て声を掛けていいのか分からず俯いていると、イルラカは葡萄酒を注文して紅葉はカクテルを注文した。イルラカが自分と同じ好みである事が少しばかり嬉しい。


「イルラカは本当に葡萄酒が好きね? 葡萄になっちゃえば?」


「私の故郷が葡萄酒作りに力を入れてましたからね。それよりも首領こそ、またカクテルですか? 何ともまぁ、お子様みたいですね」


 何よ、と紅葉。

 何か? とイルラカ。

 仲が良いのか悪いのか解らない二人である。


「ねーイルラカ。あのバカまだ帰って来てないの?」

「樹楊さまの事ですか? それでしたらまだですけど」


 樹楊『様』……?

 何か聞き間違えだろうかと思い、ミゼリアは聞き耳を立てた。


「あの馬鹿に『様』なんてつけなくていいって」

「彼は英雄ですっ。何と呼ぼうと私の勝手でしょう」


 え、英雄?

 新種のばい菌だろうか。


 イルラカは美味しそうに葡萄酒を飲んでいる。同じ酒だというのに、ミゼリアはちっとも美味しく感じなくなっていた。そんな事は知らない二人は思い思いの会話を続ける。


「それよりも、首領?」

「な、何よ。何その意味深な笑みは」

「ふふっ。蓮さまよりも樹楊さまの事を気になさるんですか? まさか惚れている、とか」


 紅葉とミゼリアは同じタイミングで酒を吹き出す。

 紅葉はスカイブルーの酒を口から、ミゼリアは紫の酒を口から。

 見方によっては、二人とも変な液体を出す化け物みたいになった。


「お二方……え、と。何て言うか……軽い化け物ですね。テーブルを溶かさないで下さいね?」


 イルラカは、互いに謝りながらテーブルを拭く二人に毒を吐く。


「イルラカが変な事を言うからでしょ!」

「そうですよ、あんなポンコツ兵に好意を持つ者が居てなるものですかっ」


 ミゼリアもつい突っ込んでしまった。

 失礼だったかと思い、謝るよりも先に紅葉が笑い声を上げる。


「何か気が合いそうね、私達。私は紅葉アゲハ。で、こっちがイルラカ。アナタは?」


「私はミゼリア・クライド=セレアです。その樹楊という男が属する隊の小隊長を務めております」


 そう名乗ると、紅葉もイルラカも驚いたように顔を見てきた。ここまで見られるのも照れてしまう。特に紅葉がしつこいくらいに見つめてきて、思わず背筋をのばしてしまった。

 紅葉はカクテルを一口飲むと、ニッコリ微笑んでから口を開く。


「ねぇ、あのバカの事……聞かせてくれる?」

「それは構いませんが……」


 ミゼリアは、紅葉が何故そこまで樹楊の事を訊きたがるのか解らなかったが、自分の知る限りの事を愚痴交じりに話した。だが、出逢った頃の、子供の時の話は不必要かと思い、時間を無駄にするだけだと判断して口にはしなかった。



「ふーん、思った通りの情報しか得られない、か。まぁ仕方ないわよね」

 紅葉は残念そうに、しかし納得しながらカクテルグラスを傾ける。


 自分の知る限りでは、不真面目で忠誠心が薄く、何を考えているのか解らないのが樹楊だった。だが、イルラカの話に出てくる樹楊はまるで別人だ。

 イルラカの命を救った樹楊は当時十三歳。弱いのは変わらないが、困る人を見捨てるような男ではないと言う。


 紅葉とミゼリアはイルラカの話を訊いて熱が出そうなほど悩む。しかしイルラカは自分が知っている樹楊を信じると言っている。つくづく訳の解らない男だ。


「ま、今はそんな事は置いといて、美味しく飲もっ」


 紅葉が悪戯っぽくウインクをし、グラスを上げる。

 それに倣うようにグラスを手に取った時、酒場の扉が勢い良く開かれた。

 その扉へと、一斉に視線が集まる。


「首領! 大変です!」

 それは紅葉の部下だった。


 集まる冷たい視線を無視して駆け寄ってくる紅葉の部下の表情は青ざめている。

 そして汗もびっしょり掻いていた。余程の大事なのだろう。何故か外も騒がしい。

 紅葉は訝しげに部下に尋ねた。


「何よ。化け物でも見た?」

「違いますっ。そうではなくてっ、そうではないのです! げほっ」


 咽る部下の背中を擦るイルラカは、水を飲ませて落ち着かせる。


「どうしたの?」

 落ち着いたのを確認してから再度尋ねる紅葉。


 対し、部下が涙を溜めた目で何かを訴えながら呟く。


「蓮さまが……蓮さまがぁ…………うぅぅ」

 そこまで言うと、ガクッと膝を着いて堪えていた涙を溢した。

 紅葉は膝を着き、穏やかな声で急かさず詳細を聞く。


 ミゼリアの所までは聞こえなかったが、紅葉は血相を変えると疾風のような速さで酒場を出て行った。ざわつく店内を鎮めようとするサルギナだったが、そこに現れたラクーンの血相に、再度ざわめいてしまう。


「ミゼリアくんっ、早く来てくれっ」

「ど、どうしたのですか?」


 ラクーンはつかつかと足早に寄って来て、普段では見られないような悲痛な顔を浮かべた。そして両肩を力強く掴むと震えた声を出す。


「キミの部下が……樹楊くんがっ」

「樹楊が……何かしたの、ですか?」


 鼓動が強くなり、肺が締め付けられた。

 あの樹楊が何か大それた事をしたのだろうか。それとも彼の身に何かが……。

 固唾を飲んで待った言葉にミゼリアは――。


「――――っえ、……そ、そんな」


 世界が暗転し、足元が覚束無かった。

 嘘だ、そんなのアイツに限って……。

 そればかりが何度も頭の中で廻る。



 ◆



 消毒薬の臭いが隅々まで広がる部屋の中で、蓮は目を覚ました。真っ白な部屋は、目覚めたばかりの眼には少しばかり痛みを与える。蓮は何度か瞬きをすると天井をぼんやりと眺めていた。思考回路が働かないのだろう。何も喋らず、身動き一つ取らない。


 何故点滴されているのかさえも解らない。

 ここは城内の医療施設。街にある一般の病棟とは違い、病室の数も多く設備も充実している。その中の一室、個室に蓮は入院していた。そこに、紅葉が深紅の長衣のポケットに手を突っ込みながら現れる。


「蓮、起きたのね? 身体はどう? まだ痛む?」


 身体? 痛む? 何の事か解らない。

 取り敢えず上体を起こそうとすると、胸部に鋭い痛みが走った。続いて脇腹の上にも。

 自分の身体を見ると、胸から腹まで包帯が巻かれている事に気付く。頭にも巻かれ、腕や足にも……。ズキズキと痛みが覚醒していくと共に、記憶が薄っすらと輪郭を現してきた。

 荒野をバイクで駆けてブラスク族を倒し、逢う魔が時を斬り抜け、そして……。


「アゲハ、きょーくんはっ?」

 蓮は痛む頭を押さえながら弾かれたように振り向く。


 蓮の意識を支配するのは樹楊の事だけ。看護師が居るのに、コンプレックスの塊の眼を隠す事すら忘れている。尋ねられた紅葉は一瞬だけ影を落とした表情を見せるが、すぐに笑顔を取り戻した。


「蓮の事、イルラカも心配してたんだけどさ、平気みたいだから心配ないって言っておくよ。でもまだ無理はしないでゆっくり――」

「アゲハっ」


 誤魔化そうとしていた紅葉の裾を引っ張り、懸命に樹楊の事を訴える蓮。

 紅葉は、こんなにも必死な蓮を見るのは初めてだった。それ故に、もう誤魔化せないとでも思ったのだろう。視線を外しながら吐露する。


「アイツはこの施設の最深部に居る」

 

 それだけ聞いた蓮はシーツを跳ね退けてベッドを降りた。しかし紅葉が手を引っ張り、それを止める。蓮は眉根を寄せ、無言で苛立ちを告げるが紅葉は手を放さない。


「アイツ……蓮が寝ていた三日間ずっと危篤状態なの。この先も…………回復の見込みは薄いらしいわ」

「……それって」


 紅葉は頷き、手を放す。

「今のままだと、アイツは確実に死ぬ」


 それを聞いたからには黙っていられなかった。自分が気を失った後、何があったのか分からない。樹楊が今、どんな状態になっているのかなんて分かるわけがない。それを確かめるべく、蓮は施設内を駆け回り、エレベーターで最深部まで辿り着いた。


 最深部の廊下はコンクリートが剥き出しの壁で覆われていて、誰もが医療からは遠く離れている印象を受けるだろう。しかし、蓮はその通路を気にする事もなく、一本道の奥にある扉まで駆けていく。鋼鉄製で重厚な扉が物々しい音を立てて自動で開き、その先には――。


「きょーくん!」


 樹楊は楕円形状で強化ガラス製のカプセルの中に居た。目は重く閉じられ、黄色いジェルに溶け込むように浮いている。身体中に管が刺さっており、得体の知れない液体が送られていて、口には酸素マスクが付けられていた。

 カプセルの横には線グラフを映すディスプレイがあり、その中でハートマークが点滅している。恐らく、樹楊の心拍数や血圧を表示しているのだろう。


 蓮はそのカプセルにすがるように手を着いて中の樹楊を見つめた。

 右腕は肘から半円状に失っており、左肩は残酷にも潰されていて骨が飛び出ている。

 脇腹にも三本の爪痕。この傷も浅くはないのだろう。下の肋骨が見えている。


 突然現れた蓮に、白衣を着た男が驚いたようだが、不審者ではない事を確認すると己の仕事に取り掛かった。


 蓮は言葉を失い、後退りする。目が困惑に震え、力が抜けた足は役目を放棄し、蓮はペタンと座り込んだ。神々しく輝くジェルに包まれる樹楊が人形のように思えてならない。蓮の鼓動の速さは無機質に鳴っている心拍音よりも速く、強い。


 愕然とする蓮の肩に手を乗せるのは、後を追ってきた紅葉。

「これはヒーリング・ジェイムって言う物質らしくてね、どんな怪我でも治せるらしいわ」


「……それなら、きょーくん…………治る?」

 紅葉は瞼を閉じると、無情にも首を横に振る。


「この医療法はまだ開発段階らしくてね。でも今だって、コイツのデータを取りながらだけど治療中なの。上手くいけば治る……って言ってたけど」

「上手くいけば……って、データって……」


 蓮は辺りを見回す。

 並べられた机の上にはディスプレイがあり、その一つ一つに訳の分からない文字の羅列や、計算式が表示されている。その脇には研究員らしき男がノートを片手に、考え事をしながら頭を掻いていた。この暗い部屋の中、樹楊が入るカプセルが一際明るい光を放っており、中のジェルもレモン色に光っている。


「それって実験でしょ! 何でっ、何できょーくんを実験体に使うの!」


 蓮は空間に手を荒々しく突っ込み、長剣を引き抜く。研究員達は蓮の形相に恐怖を感じ、身を引いた。紅葉は驚きもせずに、暴れようとする蓮の手を掴んで押し倒す。力では叶わないとは分かっていても、それでも蓮は抵抗する。樹楊を実験体とする事が許せなかった。


「蓮、落ち着いてっ」

「何で? 何できょーくんに普通の治療をしてあげないのっ?」

「蓮っ。落ち着いてってば」


 しかし蓮は聞かない。怒りの矛先を目に映る研究員達に向けたまま吠える。

 それを紅葉は必死に止めていた。


「こいつには普通の治療は無理なの! 普通の治療技術しかなかったら、とっくに死んでるっ。アンタが望もうが望むまいが、こいつが助かる為にはもうこれしかないのよ!」


「…………ウソ」


 蓮は弱々しい声を洩らして、紅葉にぎこちなく視線を合わせた。紅葉はおどおどする研究員達に謝ると、蓮に「嘘じゃない」と告げる。


「三日前の夜、蓮は知らないだろうけど……」


 紅葉は蓮を座らせて三日前の事を切々と語り出した。その話を信じられるわけがなかったが、その結果として今の自分が居るし、樹楊も居る。



 三日前の夜、樹楊は自分の身体に蓮を紐で縛りつけてバイクで帰ってきた。

 しかし樹楊の右腕は肘ごと食い千切られていて、左肩もぐちゃぐちゃ。普通なら物を握る事すら出来ないというのに、それでも左腕で運転してきた。だがスクライド城下町の入口で横転し、近くの店舗に突っ込んでしまった。

 何事かと駆け付けた見回りの兵に「蓮を助けろ」と言う血塗れの樹楊の形相は凄まじく、その兵曰く「殺されるかと思った」らしい。

 でも明らかに樹楊の方の怪我が酷い。駆けてきた衛兵もそう判断し、樹楊を運ぼうとしたのだが、しつこく「蓮を、蓮をっ」と食い下がる樹楊に気圧され、仕方なく蓮を先に運んだのだ。それを見た樹楊は安心したのか、糸が切れたようにぷっつりと意識を失い、その場に倒れ込んだ。


 その後はラクーンや樹楊が属する隊の小隊長に見守られる中で、樹楊は埋葬される死者のように運ばれた。



「きょーくん、何で……」


 全てを知った蓮は、顔を蒼白に染めながら身体を震わせる。紅葉に支えてもらっていなければ、地に寝そべっているだろう。その時ディスプレイからハートマークが消え、代わりにピーっと間延びした音が全てを終えたように悲しく鳴り響く。その音に研究員達は大慌てディスプレイに駆け寄り、近くのスイッチやボタンを色々操作し始めた。少し離れた位置では、それをメモする研究員も見られる。


「きょーくん…………?」


 蓮が見つめる先、ジェルに包まれた樹楊は当たり前と言うべきか、指一本おろか眉すら動かさない。研究員は冷や汗をながしながら対処するが、そのディスプレイにハートマークは蘇る事はなかった。


 研究員達は四苦八苦し、最善とも言える対処をしたのだが、状態は変わらない。

 メモを取る研究員は溜め息をつき、機械を操作している研究員は項垂れて首を振った。

 紅葉の蓮の肩を掴む手に力が入る。


 研究員達は早々と立ち退く準備を始め、誰かと連絡を取っていた。


 カプセルの中、樹楊は神々しい光に包まれたまま眠っている。苦しんでいる様子もなく、ただ人形のように。傷だらけで、痛々しくて……それでも勇敢とも無謀とも言える二等兵。

 蓮はよたよたとカプセルに近寄り、亡骸と判断された樹楊を見つめた。そして自分と樹楊を隔てている、邪魔で役立たずなカプセルに寄り添うと静かに嗚咽する。


 上擦る声で樹楊の名を呼び、起きて、と願いを乗せた言葉を届け始めた。しかし、樹楊は応えてはくれずに穏やかな顔で目を閉じているだけ。それでも蓮は何度も、何度も何度も何度も樹楊の名前を呼ぶ。肩を掴む紅葉の手を払い、心肺停止の音も認めず、認めたくなくて。


「きょーくん、きょーくんきょーくんっ」


 ただ名前を呼んだ。

 壊れたように……。

 親を呼ぶ雛鳥のように。


「起きて。お願い、きょー……くん」


 面倒くさがりな樹楊。だけど奥底には優しさを秘めていた。

 笑い掛けてほしい。一緒に御飯も食べたい。

 またバイクで遠出したい。頭を撫でてほしい。


『俺も一緒に死んでやる』

 

 耳の奥に残響となった言葉。悲しいくらい嬉しかった言葉だった。


「私は生きてるよっ。ねぇ、生きてる! だから、だからぁ!」

 勝手に死ぬなんてズルイ。そんなの、ズルイよ。


 蓮は震える唇を噛み締めて、無反応な樹楊に笑顔を送る。そうすれば応えてくれると思ったから。でも……応えてはくれそうにもない。

「だから、起きて……」

 

 その体温を伝えてほしい。その眼差しが欲しい。

 その優しさが欲しい。その声を聞かせてほしい。

「きょーくん、言ってよ。……また…………ばかって言ってよ。お願い……」


 カプセルを叩き、額を添える。何度も言われた言葉。

 その度に見せてくれる顔は、多様だった。


「お願いだから、ばかってもう一度っ」


 蓮の涙はカプセルの緩やかな曲線を伝い、床に落ちる。蓮が叩く度に中のジェルは揺れ、同時に樹楊の身体も揺れる。どんなに呼んでも願っても、樹楊は応えてはくれない。

 もう我慢の限界だった。気が狂いそうになった。全てを壊したい衝動に駆られ、自分の弱さを憎み、ガタガタ震えながら自分の頭を潰すように挟む。


「うぅ、うあっああぁぁぁあぁぁぁぁ!」

「れ、蓮! しっかりして!」

「きょーくんが! きょーくんがきょくんがきょーくんがきょーくんがぁ!」


 この部屋の中に居る者全員に、頭が割れるんじゃないのかというくらい鋭い耳鳴りが走り抜けた。蓮の純白の瞳に薄っすらと、紋章とも言えない奇怪な模様が浮かんでくる。


「あぁっ! うぅああぁぁっ! あぁぁあぁぁあぁぁぁぁっぁっぁあああああああぁぁあああ!」


「蓮! 落ち着いて! まず、呪刑のっ」


 その時、カプセルの上部にある蜂の巣状に開いた穴から、切れてしまいそうな糸のようにボロボロの声が漏れてきた。


「……っせぇ、よ。取、り乱してっ……じゃ、ねぇ」

 くぐもった男の声。

 蓮はハッとし、樹楊を見た。


 途端に全員の耳鳴りは止み、耳を押さえて座り込んでいた研究員達は息切れをさせて汗を流す。紅葉は耳を塞いではいなかったが、全員の倍の汗を流していた。

 樹楊はジェルの中、薄っすらと片目を開けた。同時にディスプレイの音は止み、ハートマークが蘇る。霞んではいるが、ちゃんとマークが点滅していた。


「きょーくん?」

「れ、ん。……よか、た……無事…………」

 ニカッと、弱々しい笑み。


「おい、息を吹き返したぞ! 急げ!」


 研究員は驚きの音を上げ、戻ってきた。スイッチを操作し、レバーを上げる。するとジェル全体に微量の電気が流れて樹楊の身体に纏わりつく。


「きょーくん、きょーくんっ」

 

 蓮は涙をボロボロ流し、カプセルの中に入りそうな勢いで表面を猫のように引っ掻く。

 その行動だけは流石に紅葉が止め、研究員達にお望みの安堵を与えた。


「きょーくん、大丈夫? 痛くない? お腹すいてない? 熱は? 動ける?」

「そ、んな……いっぺん、に答えれるか、よ。や……っぱバカだ、な」

「ばかだもん、ばかなんだもん。でも、きょーくんはもっとばか」


 蓮は泣きながら『心からの笑顔』を浮かべた。それを見た紅葉は驚き、目を見開く。

 しかし樹楊は驚かない。


「や、ぱ可愛い……な。お前が笑、うと」


 ふふっと、笑みを漏らし「やっと見れた」と眼を閉じる。動こうとしているのか、指が微かに動くが、それ以上は動かないみたいだ。薄っすらと嘆息し、また目を開けた。


 蓮はカプセルをぱしぱし叩いて樹楊を呼ぶ。

「質問……答えて」


 樹楊は「鬼か」と突っ込む。喋るだけで辛そうな樹楊に答えろという蓮は、確かに鬼だ。紅葉も阻止するが蓮は唸る事で不満を表現する。


「じゃあ、一つだけ」

「何、だよ」


 蓮は修道女が祈るように胸の前で手を組み、樹楊の目を真っ直ぐに見つめる。その視線には強い意志が込められていて、揺るがない。


「……無事に帰ってきてくれますか?」


 樹楊は少しの間沈黙する。

 そして柔らかい表情を見せると、笑顔で答えた。


「ったく、アンタってしぶといわね」


 紅葉も安堵からか、悪態を吐いた。偉そうに腰に手を添えてカプセルを叩く。研究員達はオロオロするが、その意が紅葉に届く事はないようだ。


「るせ。……そ、の乳揉む、ぞ?」


 いくら瀕死でも言ってはいけない事だったのか、紅葉が背景に悪魔を背負って睨む。そして何故か蓮も眉根を寄せた。


「な、んでお前、も?」

「……んぅ」


 蓮は一唸りすると、カプセルを蹴って足早に部屋を出る。

 しかしその時に浮かべた笑顔は暖かいモノだった。



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