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第四章 〜白鳳〜

〜 白鳳 〜




 城内の謁見の間には新調した藍色の絨毯が敷き詰められていて、ラクーンを交えた軍議が行われた。


 スクライド王国側。

 上座にラクーン。

 赤麗と面を向けるように座るジルフードに上将軍が四人。

 この日、スクライドの指揮官は急な任務の為に欠席。


 赤麗側はジルフードの向かいに紅葉が座り、隣にイルラカが座っているだけ。

 イルラカは露出度が高い服を着ていて、自慢の褐色の肌を惜しみなく出している。

 何もふざけているわけではない。

 胸のラインだけを隠す布や、スリットが大胆に入ったパレオは彼女の生まれ故郷の民族衣装なのだ。この民族衣装は成人、つまり二十歳を迎えた者だけが纏う事を許されている衣装であり、昨晩成人したイルラカは早速着てみる事にしたらしい。


 肩の僅か上まで伸ばされた銀髪を掻き上げるイルラカはスクライドの者の視線を集めている。最初に民族衣装という事は説明したのだが、ジルフードは気に入らない様子。

 の、割には視線をちらちら向けている。



「さて、そろそろ軍議を始めますか」

 ラクーンが穏やかに会議の開始を告げると、上将軍らは膝を正す。


「どういった隊の編成をするか。これが今日の議題です。私どもの隊はこれまで通りで良いのですが、赤麗を加えたとなれば別です。

 さて、どちらを土台にしますかね」


 ラクーンがランダムに問い掛けると、上将軍のグリム・ガリムが挙手をする。


「それは勿論、スクライドの隊に合わせるべきです。我々は軍隊として訓練を受けてきています。対して赤麗は個々の意思で戦闘を行っている。考えるまでもないでしょう」


 栗色で坊主頭のグリムはきっぱりと言い切る。彼は幼い頃からスクライドの兵士として国に仕え、上将軍の中でも飛び抜けて腕が立つ猛将。

 不精髭が風格を現し、四十歳を過ぎた今でもその座を揺るがす者はいない。


 そのグリムの言葉に他の上将軍らも頷く。

 しかし、嘲笑うように鼻を鳴らす紅葉。

 グリムは眉間にシワを寄せて、尖る目付きのみで意見を求めた。


「訓練、ねぇ。本当に統率が執れてるの? イルラカ、どう思う?」


 意見を振られたイルラカは頷き、恐れながら、と切り出す。

「以前の戦を見る限り、隊の編成・戦略・指揮。どれを取っても……私が見てきた中で最悪です。そのような隊を土台として構えるのは苦しいにも程があるかと」


 手厳しい意見はラクーンを除くスクライド側の怒りを買ってしまう。それもそうだろう。

 賊みたいな部隊の若輩者にバッサリと切り捨てられたのだから。

 中でもグリムが一番腹を立てているようだ。


「小娘! 貴様、我々を愚弄する気か!」

「私達なら、アンタら如き二晩も掛からずに壊滅出来るわ」

 

 あっさりと、紅葉。

 口は笑っているが、目は据わっている。

 どうやら虚言で言っているわけじゃなさそうなのだが、グリムは呆れたように笑う。


「小娘が何を。軍隊の何たるかをも知らぬくせに良く言うわ」


「知らないのはアンタの方でしょ? 言っとくけど、私達は個々で動いているわけじゃないわ。私の命令で臨機応変に戦闘スタイルを変えているの。私がいないときはイルラカが指揮を執るけど」


「フン、小娘がぬけぬけと」

 まるで相手にしないグリムを前に、気が長くはない紅葉の目に禍々しい殺意が渦を巻く。

 歯はぎりっと食い縛られ、眉が跳ね上がった。



「アンタね、小娘っての……止めなさいよ。殺すよ?」

「駄目です、首領っ」

「黙りなさい、イルラカ。私にも我慢できる事と無い事があるの」


 ラクーンは「おやおや」と他人事のように呟き、ジルフードは冷や汗を掻きながら僅かに椅子を引く。

 

 しかしグリムは態度を変える事無く、見下ろした目のまま。

 そして事もあろうか、また「小娘が」と吐き捨てた。その瞬間。

 歪な衝突音が鳴り響くと共に、鋼鉄で出来た長テーブルに紅葉の拳がめり込む。突き抜けはしなかったものの、分厚い鋼鉄の硬度は人が殴った程度では傷つかない。


 しかし紅葉は手首まで沈めている。


「聞こえないの?」

 俯いた顔をゆらりと上げた。


 その形相にグリムも身を引く。

 紅葉は、拷問器具のように残酷で名刀のように鋭い眼をグリムに突き刺している。

 口は狂気に歪み、牙のような犬歯が頭を出していた。


「黙れっつってんのよ……」

 強制的に死を彷彿させる声。

 

 容姿からは想像も出来ない殺気は、幾多の戦場を支配してきた証。

 イルラカは紅葉を宥めるように肩を抱いて席に戻すが、グリムや上将軍らは凍ったように動けずにいた。


 鋼鉄が凹む程の拳をまともに喰らったら生きているかどうかも怪しいだろう。

 テーブルの陥没の痕を見たジルフードや上将軍らは、改めて赤麗の脅威を知った。


 しかしラクーン。

 凹みを見るなり、コップがはまりますね、などと悠長な事を言っては一人で楽しそうな顔を浮かべる。


「戦地がまだ分からないから暫定で話すけど、私達は四つと一人の隊を編成するわ。スクライド兵は私達のサポート。以上よ。続きはまた今度」



 不機嫌極まりない紅葉はそれだけ告げると、さっさと席を立つ。

 しかしラクーンがその足を止めた。


「四つの隊は解るけど、一人って何かな?」

「一人は……蓮ってコよ。彼女にはサポートなんかいらないわ。勝手に行動させておいて」


 その『蓮』という言葉に、スクライド側に並ぶ顔があからさまに強張った。

 これまたラクーンを除くが。

 ラクーン以外は蓮の不条理とも言える暴虐性の一面を知っている。そして魔剣士である事も。出来れば関わりたくないと思っているのだろう。

 

「しかし、それでは」


 反論しようとするラクーンに、紅葉は視線だけを向けて面倒臭そうに溜め息を吐く。

 そして無責任な口調で話した。


「サポートを付けたいなら勝手にすればいい。でも、そのサポート隊が全滅しても知らないわよ? 蓮の攻撃は『無差別なところ』もあるから。――でもあの樹楊ってバカ剣士なら…………、いや何でもない。それじゃ」


 スタスタと出口に向かう紅葉の後を着いて行くイルラカは戸口で振り返り、頭を深く下げると何も言わずに立ち去る。スクライドの面々は自分等の尊厳など無視され、まるで足手まといとまで言われたようなものだ。


 面白いわけはないのだろうが、あの馬鹿力を見せつけられて反論できる者は誰一人として居なかった。


「あのじゃじゃ馬め……」


 ただ、グリムが歯を食い縛りながら紅葉の背中を見つめていただけで。

 それでも命は惜しいらしく、面と向かって言う無謀さは持ち合わせていないようだ。



 ◆


 

 二日掛けてバイクを走らせ、ようやく着いた帝国・白鳳。途中で仮眠を取ったものの、樹楊は風呂に入りたがっていた。首の隙間から入ってきた砂埃が不快で堪らない。一刻も早く風呂に入って、出来るなら飯にありつきたいものだ。


「さて、行くか」


 少し離れた場所から帝国の門を眺めている樹楊に、門番らしき二人の視線が注がれている。

 大分警戒しているのか、槍を構えている身体に力が入っている。

 樹楊は呆れながら苦笑すると、白鳳に訪れた理由を門番に告げる。しかし、同盟の事については一切口にはしなかった。

 ただ、スクライド王国領政官の使いの者であり、皇帝に話があるとだけ伝えた。


 門番は通信機を取り出すと、訝しげな表情で樹楊をみやりながら通話している。

 心の底から信用していないのだろう。

 目付きが鋭い。


 通信を取っていた門番は、もう片方の門番に向って頷く。

 すると門番は左右に移動し、門を開けて無言で中に促してきた。


「はい、ご苦労さんっ」

 片手を上げて礼を言う。

 蓮もそれに続いた。



 門の中は見た事がない光景で埋め尽くされていて、興味の糸を強く引っ張ってくる。

 スクライド城下町やその近隣の街とは違い、何とも白鳳帝国の特色が掴み易い建物で埋め尽くされているではないか。

 ビルなどのように冷たい建造物などではなく、木を使って建てられている。

 屋根などは色取り取りで、鮮やかの一言に尽きる。民家も店舗も同じに見えるが、店舗に限っては扉の前に何の店か解るように絵が彫られた石板が飾られている。


 食料品だったり、服飾関連だったり娯楽施設だったりと、その種類は多種多様。


 人々の服もスクライドとは大分違っていた。

 民族衣装と言うのか。

 襟元から肩にかけて斜めに紐止めされている上着を着ている。丈は腿辺りまであり、下半身は太めのズボンを履いている。

 樹楊は物珍しそうに店舗や人々を見回すが、逆に注目の的でもあった。正装しているとはいえ、白鳳からすれば他国の者。華やかな街並みの中で藍色の服を纏って歩くのは、真っ白な紙にインクを垂らしたように目立つ。

 その上、スクライド兵士の正装は軍人か賊を思わせる服装だ。白鳳民が向ける視線は、必然的に茨の視線となっていた。


「…………おなか空いた」

「少し我慢しろ」

「……んぅ」


 どうやら蓮はご機嫌斜めらしく、眉根を寄せながら睨む。


「任務が終わったらいっぱい食わせてやるから、そう怒るな」

 蓮は考えた後、コクっと頷く。


 宮廷を目指し、注目を浴びながらも肩を並べて歩く先の店舗の壁に誰かが力なく座っているのを発見した。深緑のローブで身体を纏っていて項垂れている。着ている衣類も汚れまくっている。それを見た蓮は指差すと樹楊を見て、首を傾げた。


「あぁ、こいつは旅人だろうな」


 見たまんまの説明をするが、蓮は一時停止が掛かったように指差したまま動かない。首も傾げたままだ。きっと「そんな事は解ってる。何で死に損なってんの?」とでも言いたいのだろう。それが何故か伝わった樹楊は面倒臭そう頭を掻く。


「ここ、白鳳は排他的思想を持っている。が、愛国心はスクライド国民やクルード国民よりも強いらしい。人と人との繋がりが強いらしく、他人の事でも己のように悲しみ合い喜び合う。白鳳が他国で『義の国』と呼ばれる由縁だ」


 そこで一旦区切ると、蓮の手を下げてやってから行き倒れた旅人に目をやる。


「けどな、余所者に掛ける情けってのはないらしい。今お前が見ているように、ここで余所者がくたばろうがどうでもいい事なんだよ、白鳳にとってはな。……ったく、この国の民の血は零下ですかっての」


 そう言っておきながら、樹楊も他人に差し伸べる手を持ってはいないらしい。

 行き倒れの旅人を横目に通り過ぎようとするが、タイミングがいい事に旅人が目を覚ます。


「う……くっ。どう、か……助け……指一本…………動かせ、な……」


 途切れながら霞む声だが、言いたい事は十分に樹楊へと伝わった。衰弱しきっている事は火を見るよりも明らかだ。

 

 小柄で僅かに高い声。

 少年だろうか……。声変わりもしていない。幼いのだろう。樹楊はそう思いながら目の前にしゃがみ込み、肩に両手を置いてとびきりの笑顔で二度ほど頷くと、少年の口の端が微かに持ち上がり、目に光が宿った。

 少年の目には救世主のように映っただろうか。向ける眼差しが熱い。


 しかし、樹楊。

 すくっと立ち上がると片手を上げて、


「じゃ、達者でな」

 スタスタと歩き始める。


 蓮は唖然とする少年と樹楊を交互に見る。

 そして何を思ったのか、少年をじーっと見始めた。


「お、お願いしま…………水、だけ……でも」


 少年は全く姿勢を変えずに目だけを蓮に向けた。指を一本も動かせないのは本当なのかもしれない。蓮が一歩、少年に向って足を進めると再度少年の顔に笑顔が浮かぶが……。


「おーい、蓮。そいつに構ったら飯一品減るぞっ。いいのかー?」

 少しばかり離れた所から樹楊。


 蓮はピタッ! と、止まり一秒も考えずに樹楊の元へとたとたと走って行く。


 そして少年に向って親指を立てる。

 無表情ながらも誇らしげな顔。


「え……、な……?」


 蓮にとっては少年の命よりも、おかずが一品減る方が一大事らしい。


「ちょ―――――――っと、おにいさん達! 取り敢えず足を止める事から始めようよっ。メシア的笑顔でそれはないんじゃないかな!? びっくりしたよボク。助けてくれると思ったじゃん! 頭に御飯が浮かんだじゃん! それをアッサリこってりもっさり見捨てるのはどうかなぁ! いいのかなーっ、それでっ!」


 行き倒れの少年は樹楊の足にしがみつき、早口で捲し立てる。その声は元気いっぱいで滑舌がいい。涙を滝のように流していて、その必死な表情ときたら浮気を誤魔化す男のよう。

 樹楊はそのヒルのようにへばり付いてくる少年の頭を足で押し、何とか剥がそうとするが全然剥がせない。

 

「お前指一本も動かせねーっつったろうが!思くそ嘘ぶっこいてんじゃねーよっ。俺にすがっていいのはグラマラスなおねーさんだけなんだよっ」


「じゃーボクもグラマラスになるから助けてよ! それならどうかなっ」

「アホかお前は! 男に興味はないっての! 早く離せっ、このくそガキっ。俺は仕事があるんだよっ」


 白鳳内で他国人が騒いでいる事により人だかりが出来始めるが、二人は気付いていなかった。樹楊は少年を剥がす事に必死で、少年はタダ飯を食わせて貰おうと懸命だ。



「俺は仕事があるっつっとろーが!」

「アナタっていつもそう! 都合が悪くなると仕事仕事って、ベッドの上でボクに囁いた愛は嘘だったのッ? 解った! 女の所に行くんでしょ!」


「えぇい、気持ち悪い事を言うなボケ! お前と俺は初対面だろうが! お前が俺の――って、どうした、蓮」


 出来の悪い芝居みたいな言い争いを繰り広げていると、蓮が裾を引っ張ってきた。

 じーっと見つめてきて、一軒の店舗を指差されて頷かれる。

 そこの店舗の扉には食事の絵が彫られた銅版が飾られており、蓮の口の端にはクリームみたいなのが付いていた。


「…………お金、払えって言ってる」

「だ、誰が? つーか、何で?」


 扉の前にはフライ返しを持った小太りのオジサンが腕を組んで立っている。

 そして蓮は「けぷっ」と無表情で曖気をすると満足そうに腹を撫でた。


「美味しかったか?」

「…………なかなか」


 どうやら蓮は、樹楊が揉めている最中に一人でご飯を食べていたらしく、その金を樹楊に払えと言っているようだ。

 樹楊は引き攣った笑顔で店を見た。

 ここはアウェイ。

 払う覚悟を決めて店に向かう。


 一番手前のテーブルの上で山のように重なる皿が、その対象でない事を切に祈りながら。




 

 樹楊と蓮が白鳳に着く前日。


 紅葉は考えていた。

 樹楊という男の事を。

 スクライド王国の兵士でありながら愛国心を持たないのは、理由があっての事だから仕方がない。故郷を思う気持ちで犯罪に手を染めている事も理解しようと思えば理解できる。


 しかし解せない事が一つだけあった。

 それは自分の右腕である蓮に関する事。

 蓮は極度の人嫌い。

 赤麗のメンバーでさえ触れられる者は友であり首領である自分と、イルラカの二人だけ。

 機嫌が悪い時、他のメンバーが触れようものなら斬り捨てようとする。


 それが何故、樹楊はいとも簡単に触れられるのか理解出来ない。

 命の恩人だとか言うのであれば解るが、まだ出会って間もないと言うではないか。

 どう考えても、どう悩んでも答えは出なかった。謎は謎を呼び、深まるばかり。


 赤麗が住まうビルの自室のソファーに深く座りながら大好きな紅茶を口にする。

 最近知ったばかりのピーチティーの香りとほのかな甘さが苛立ちを和らげた。


 自分を落ち着かせようと溜め息を吐くと、そこにイルラカがノックをして入ってくる。


「首領、一応聞き込みはしました」

「ご苦労様。それで……何か解った?」


「いえ。城下町の人々に訊き廻ってみたのですが、きさくだとか兵士らしくないだとか……首領が抱いていたものと同じような答えしか返ってきませんでした」


 紅葉はその報告を聞くと、礼を言って目を細める。心を安らげていたピーチティーの香りはもう気にならなくなっていた。イルラカは隣に座ると心配そうに顔を覗き込む。しかし何も言えずにいる。


「心配しないで。気になっただけだから」

「はぁ。いくら蓮さまが気を許した男とは言え、気にしすぎではないですか? 蓮さまも年頃の女の子です。一目惚れとか、好意を持ってもおかしくはないのではないですか?」


 イルラカの率直な意見だが、紅葉はあっさりと否定する。一目惚れなど蓮に限ってあり得ない事だと言い切った。自分でそう答えておきながら、それでは何故? と考えると答えはやっぱり見付からない。紅葉の頭は混乱し、髪を乱すように頭を掻くと一枚の写真を出す。


 そこには酒を飲む樹楊の顔が写っていた。

 その顔から察するに、不意を衝かれて撮られたのがよく解る。

 その写真にイルラカは興味を持ったのか、黙って見つめてきた。


「ホラ、この男よ」


 写真を渡すと、素直に受け取るイルラカ。

 やはり多少なりとも興味を持っていたらしい。無理もない。あの蓮が触れさせたただ一人の男なのだから。


「この男が、ですか。容姿は悪くないですが、何が蓮さ――」

「そりゃ悪くはないけど、とびきりいい男ってわけでもないでしょ。確かに雲のように掴みどころがなくてミステリアスだけど、蓮が容姿で人を判断するとは思えないでしょ?」

 同意を求めて訊いたのだが、その答えは返ってこない。無視かと思い、口を尖らせて向けた視線の先のイルラカは目を見開いていた。写真を持つ手が震えている。


「ど、どうしたの? そのバカ、見覚えがあるとか? それか吐き気がするほどムカつくとか?」


 部下の異変におろおろするが、またしても答えてくれない。樹楊の後ろに変なモノが写っているのか、もしかして生き別れた弟とかってオチは勘弁してもらいたい。

 散々悪態をついた後だ。

 何てフォローしていいか解らない。


「こ、この人は……」

「こ、このバ――樹楊がどうかしたの?」


 我に返ったように振り返るイルラカは苦笑を浮かべながら写真を返してくる。

 そして困ったような顔をすると指先で頬を掻いていた。罰が悪そうな顔を浮かべて、ちらちらと見てくる。


「どうしたのよ。何かあるならいいなさいよ」

「その、非っ常ぉぉぉぉぉに言い辛いのですが…………真面目に聞いて下さいますか?」


「え、ええ。ちゃんと聞くわ」


 内心ドキドキしているのだが、平静を装った。本当に生き別れた弟だったらどうしようか。それか「私も惚れましたっ」と言い出したらどう反応していいものか。

 鎮静作用抜群のピーチティーを喉に流し込みながら聞く姿勢に入ると、イルラカが薄く口を開く。


「この男は……」

 そう区切ると、首を振って真面目な目付きになった。


 どんとこいっ。

 紅葉は心を強く構えた。


「彼は英雄なんです」

「ぼっはぁ!」


 紅茶が見事に口と鼻から噴射させてしまった紅葉。そして声を失い、イルラカを見る。

 口の端や鼻の穴から紅茶が垂れてきていて、持前の美が六割引だ。


「な、何ですか。その『餌を横取りされたウーパールーパー』みたいな顔は。止めて下さいって。あぁ、もうっ。言わなければ良かった」


 イルラカは俯いて長嘆。


 えーと、何を言ってるのこのコは。

 危ない薬をキメてるのだろうか。それともただの冗談?

 いや、イルラカは下らない冗談は言わない。

 英雄? なにそれ。ばい菌の仲間?


 紅葉は派手に混乱していた。それはもう、目の前で豚がぶひぶひ鳴きながら空を飛ぶのを見るよりも衝撃的だった。実際飛んでいる所を見た事はないが。


 頬に朱を指すイルラカを見て、紅葉は我に返った。我ながら長い旅だった気もする。


 口の端をハンカチで拭きながら、

「え、英雄って、アンタ……。こいつが?」


 躊躇うようにコクリと、イルラカ。

「正しく言えば、私の英雄……です」


 鼻を拭こうとしたが、

「わたすっ……」


 更に絶句。そして停止。

 何が起きているのだろうか。

 部下がどんどんあのバカに寄って行く。

 遠い。部下を遠く感じる。



「ほ、本当なんですよっ。私がここに居るのも、生きていられるのも彼のお陰なんです。首領が言いたい事はよく解ります。彼は弱い。ですが、本当なんですっ」


 肩を掴まれ、ガクガク揺らしながら理解を求めるイルラカだが謝りたかった。

 すいません。あの馬鹿を英雄と思うのは無理です。ごめんなさい、と。


 納得しない紅葉にイルラカは熱心に述べた。

 樹楊との出逢いの話を。

 救われた時の事を。

 その話は一時間にも及ぶ。



「解っていただけましたか?」

「うーん、それってイルラカが十六歳の頃の話だったわよね? じゃ、嘘ね」

「嘘じゃないですって!」

 

 反論してくるイルラカだが信じられない。

 信じられる話ではなかった。


「あのバカは今、十七歳よ?」

「はい。解ってます」


「解ってるなら、自分が嘘をついている事が解るでしょ?」

「どういう、意味ですか?」


 イルラカの顔が怪訝なものになるが、紅葉は引かない。嘘をついていないのなら、人間違いだと思った。紅葉はビシッと指を差して何故嘘であるのかを告げる。


「八年前――アナタが十六歳の頃、樹楊は九歳だからよ。そんな子供に何が出来るのっ?」



 勝ち誇ったような顔を浮かべる紅葉。

 核心を衝いたと思ったのだろう。

 ふふん、と鼻で笑う紅葉に対してイルラカは冷笑する。


 何か怖い。

 

「首領?」

「は、はい」

 思わず敬語になる紅葉。


「問題です。私の今の歳は?」

「えっ……二十…………と、四歳」


 紅葉は頬をポリポリ掻きながら答えた。

 その刹那、ぶちぃ! っと何かが切れた音が聞こえた。確かに聞こえた。聞き間違いじゃない。目の前の二十四歳? の彼女から聞こえた。


「しゅ〜りょぉぉぉぉ?」

 俯きながら肩を震わせて唸るように呼んでくるイルラカ。綺麗な銀髪が蛇のように踊り出した。ように見える。



「は、はい。なんでしょーかっ」


「わ、私は――」と、顔を上げて夜叉を彷彿させる笑み。

「二十歳ですって!」


「う、うっそ! いや、ごめっ、嘘じゃなっ、え、だって、あれ? ちょ、待って。今っ」


 紅葉は両手の指を駆使して「いち、にー、さん、しぃ」と、指折り歳を計算するが、頭の中では無数の数字の羅列が絡み合っていて計算できない。

 その間にも背景に噴火した火山を背負うイルラカがじりじりと迫ってきていた。


「ふ、ふふふふふっ。首領には、ふふふ」

「や、ちょっと待っ、今数えてい――きぃぃぃやぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」



 三十分後。

 部屋をドタドタ逃げ回ったのだが、掴まってしまった紅葉は拳でこめかみを挟まれてぐりぐりされてしまった。

 対悪ガキ用必殺技・ウメボシである。


「うぅ〜。痛いー」

「首領が悪いんです」


 紅葉はこめかみを押さえながらソファーに寝転がる。イルラカの機嫌は和らいだものの、収まってはいないらしく額に青筋が浮かんでいた。


「でも、あのバカがねぇ」

 何気なく呟くと、意外や意外。


「はい、彼は覚えていないでしょうけど。でも、会えるとは思っていませんでした」


 嬉しそうに含み笑いをするイルラカの顔は優しい。そんな顔を見せてくれるのは何時以来だろうか。


「まさか、惚れてるの?」


 お返し、とばかりに意地悪な笑みを浮かべてやるとイルラカの褐色の顔がみるみる赤くなっていく。


「ま、まさか! 彼には感謝しているだけで好きなわけじゃありませんっ。第一、彼は自由奔放じゃないですかっ。私は強くて縛ってくれる男性が好きなんですっ」


 焦りながらも紅茶を勝手に飲み始めるイルラカ。


「強く縛ってくれる――だからイルラカの武器は鞭なのね? 何時でも縛ってくれるように、と。実はМだったとは」

「ぶはっ! ――げほっ」


 今度はイルラカが鼻噴射を披露する。

 若干こちらの方が飛距離・威力共に高い。


「愉快な解釈しないで下さい! 強く縛るじゃなくて、強く『て』縛るです! それに縛るというのは、物理的ではなく心の構えですってばっ。独占欲が強い男性が好きって事です!」


 つん、とそっぽを向くが凄く恥ずかしそうだ。イルラカにこんな一面があるとは。

 思わぬ収穫だ。


 でも、樹楊の謎は深まる一方だ。

 得体の知れない男。目的の秘宝を盗んでいったとは言え、結果的にイルラカの命を救った事には変わりない。気になるのは、その時も精霊を殺していたという事。若干十三歳でそんな大それた事を平気でする男が、正直怖かった。それでも蓮は懐いている。任務にも同行したし、バイクの後ろにも乗せた。


 あの男の何が蓮を引きつけるのか。

 ……全く解らない。

 

「首領、どうされましたか? そんなに強張った顔をされて」

「え、いや何でも。大した事じゃないから気にしないで」


 これはもう少し樹楊を調べる必要がありそうだと、紅葉は強く思う。

 この先、知っておかなければ不安な要素が浮かび上がるだろう。

 あの男が自分達にとって善か悪か。

 善じゃなくてもいい。

 でも悪であれば斬らなくてはならない。

 噂によればあいつは――。


 戦までにはハッキリさせる。

 損得で動く樹楊だ。裏切られる可能性もある。ああいう男がもしクルード側に寝返った場合、始めようとしている戦に勝ち目はなくなる。

 スクライド王国が滅亡しようが構わない。

 だが、仲間を失う事だけは避けたい。


 紅葉は拳を握り締めてイルラカに外出を告げてビルを出ると、樹楊の故郷に向かう。

 詳細を求めに行くのだろう。



 ◇



 自身の髪の色と同じ真紅の軍用バイクを走らせ、部下の事を考えていた紅葉。

 ぶつぶつと呟き、機嫌がいいわけではなさそうだ。


「蓮は身勝手だしイルラカは暴力的だし。ったく、人としてどうなのよ」


 自分は蓮とイルラカを足した性格、身勝手で暴力的なくせに文句をつけている。

 赤麗の首領は自分の性格をよく知らないらしい。

 特に急ぐ必要もなく、到ってマイペースでバイクを走らせていると、崖の下にあるゴーストタウンから騒々しい音が響いてきた。一度停止をし、下を覗くとゴーストタウンの廃ビルの間から砂煙が巻き起こっているのが見える。


 どうやら軍用バイクを走らせているらしいのだが、その数が多すぎる。

 集団ってレベルじゃない。あれは軍団だ。

 よく目を凝らして見ると、最後尾を走っていた者の姿を捉える事が出来た。

 銀色の鎧を纏い、掲げている獅子の旗。


「あれはクルード王国の! あっちにはスクライド城しか――!」


 紅葉は急いでバイクを反転させ、来た道を戻った。しかし、軍団は徐々に離れて行く。


「速い! 何てバイクなのっ。くそ、通信機持って来なかった!」


 イルラカに連絡しようにも通信機がない。自分の口で直接伝えたいが、クルードのバイクはとてつもなく早い。


 でも何でこんなに接近を許したのだろう。

 国境には国境警備兵が居る。

 ましてや相手はクルード。国境からの距離を考えれば、発見時に連絡が来たとしても半日前には何らかの報告があってもいい。


 なのに、何故?


「あぁ、もう! 考えるのヤメ!」



 ◆



「敵襲です! アギ小隊長、敵が攻めてきました!」


 部下に剣の稽古をつけようと城内の鍛錬所に向かおうとしていると、部下が慌てて叫んできた。しかしアギは慌てず、状況の説明を求める。すると部下は肩で息をしながら伝えてきた。

 余程慌てていたのだろう。顎先から床に落ちる汗がみるみる広がっていく。

 敵はスクライド城の近郊にまで攻めてきているが、いち早く察したグリムが部下を率いて応戦していると言う。敵の数はおよそ、千。


 舐められたものだ。

 まさかそんな少数で城を攻め落とせるわけがないだろう。


「ご苦労だった。キミは緊急オペレーターに連絡してくれ。兵を集めれるだけ集めろ、そう伝えるんだ」


「そ、それがっ。実は今日は里帰りをされている方が多いようで、城内に残っている兵は殆ど居ないのです。オペレーターも不在です。

国境警備兵にも連絡を取ってみたのですが、応答はありません。三名を状況確認に向かわせましたが、時間が掛かるかと思います」


 なるほど、慌てるわけだ。

 兵の殆どが里帰り……。里などない自分だからスッカリ忘れていた。

 確か今日は一斉に与えられた休日だった。

 これから戦が続くだろう、とラクーン様が休日をくれたのだった。


 アギは鼻で笑うと、天を睨む。

 何ともタイミングがいい。


「あの、アギ小隊長?」

「あぁ、すまない。キミはすぐに通信室に向かって里帰りをしている兵に緊急招集をかけるんだ。私は現地に向かう。……赤麗にも声を掛けるんだ」


 赤麗と声にすると、部下の顔が青ざめていく。そして申し訳無さそうに俯いた。


「赤麗は、既に現地に着いているらしいのですが首領が不在との事で戦闘には参加していないもようです。正直、戦闘に参加してくれるかどうか……」


 しかしアギ。

 心配ない、と告げると足早に城を出て行く。

 銀色に輝く槍を片手にバイクに跨る。



 ◇



 部下を率いて戦地に着いたアギはグリムの隣で眉根を寄せていた。

 戦の舞台は壁のような一枚岩が無数に入り組んだ荒野の片隅。

 完全にホームだ。

 しかし、完全に劣勢だった。

 武力の差で劣るスクライドが勝る為には数が必要。しかしその数でさえも負けている。


 グリムの部下・約五百。

 アギの部下は約二百。


 せめて里帰りをしていなければ数で負ける事はないのに。

 グリムは威厳を張るように腕を組んだまま低く唸ると、目線を正面に向けたままアギに訊く。


「アギ、どう打破する?」


「はっ。幸いにもホームでの戦。予想以上に持ちこたえています。ですが時間の問題でしょう。報告によれば相手はクルードの兵は機兵隊。対する我が軍隊は将軍の方々を抜く小隊長以下の者ばかりです。上将軍はグリム様しかおられません。ここは私が敵の総大将を打つしか突破口はないかと思います」


 そうは言うものの、自信なんてものはない。

 相手はクルードの機兵隊だ。今まで何度も煮え湯を飲まされてきた相手。それもこちらが精鋭を揃えて、だ。それらを掻い潜り、又は撃破して敵の総大将である機兵隊の指揮官を討つのは不可能に近い。いや、単身で敵陣に乗り込むのは玉砕としか言えないだろう。


 グリムは顎を撫でると俯いて考える。

 風もないこの状況で話が途切れると、この先から猛々しい声が聞こえてくる。

 そして悲鳴も。


「ふむ、それしかあるまい。アギ、お前――」

「ちょーっと待った。功を成せない玉砕って無駄死にって知ってる?」


 背後から聞き覚えのある女の声がした。

 生意気で澄んだ声はこんな時だからこそ頼もしく思える。


 真紅の髪に深紅の長衣。

 右には深紅の長衣と反発しあう銀色の髪をなびかせる褐色の女性。

 その他にも部下が七人。蓮を除く、赤麗全メンバーが揃っていた。



「紅葉さん、イルラカさん! 来てくれたのですね!」


 アギは救世主を見たかのように目を輝かせる。

 隣のグリムは何が面白くないのか、鼻を鳴らすと無視するかのように視線を外した。


「何だか不思議な事になってるわね。状況はイルラカに聞いたわ」


「はい、不可解な事に――」

 アギの言葉を片手で制した紅葉。

 口の端に笑み、目には殺意が見え隠れしている。


 紅葉の戦闘狂が見えた今、アギは息を呑んだ。軽く背筋が凍る。

 

「それは紅茶でも飲みながら話しましょう? 今はダンスの時間のようだし。ね、混ざってきてもいいかしら?」


 アギは笑顔で頷くと、紅葉も笑顔で返す。

 紅葉が部下に対し振り返りもせず、すっと天を指差した。まるで天をも落とさんとする闘将のような仕草、その一つにグリムさえも息を飲む。そして紅葉はその腕を真横に倒すと三本だけ指を立てる。すると背後に居たイルラカが待機する部下に対し、背中を向けたまま指で合図を送る。次の瞬間。


 部下が一斉にバイクのエンジンを掛けて吹かし始める。荒々しい轟音が渦を巻き、全ての者を威嚇するように唸り出した。


 それはまるで、餌を前にした猛獣。

 殺戮を待ちきれない、鎖で繋がれた悪鬼。


 イルラカが最後に親指だけ立て、下に向けるとその鎖が解かれる。

 部下達は紅葉とイルラカを残して二手に別れるようにバイクを走らせた。


「イルラカ、いい?」

「はい、いつでも」



 紅葉は背のホルダーから真紅の剣を抜くと、真正面に向かって走り出す。

 距離はあるが、正面には敵の総大将が待ち受けている。しかもその周りを囲むのは、中でも強者揃いだ。アギは忠告しようとしたのだが、通り過ぎて行こうとする紅葉の独白を聞いて言葉を飲み込む。


 疾風の如く出陣した赤麗に残されたグリムとアギ。冷や汗を流すアギに対し、グリムは腕を組みながら強面の顔を向ける。


「アギ、どうした?」

「あ、はい。正面に構えているのは敵の総大将だと伝えようとしたのですが、その必要はありませんでした」


「……と、言うと?」


 アギは紅葉の幻影を見ながら言う。

 その顔は雲が掛かっている。


「紅葉さんは言いました。『皆殺しだ』と」


 紅葉は元より負けるつもりも撤収させる気もないらしい。

 部下を左右に展開させたのも自分が正面から向かって行ったのも、その理由は至極簡単で、敵を残らず殲滅する為なのだろう。


「ちっ……賊が」


 グリムは怪訝そうに吐き捨てる。

 しかしアギにとってはこの上なく頼もしい事だった。例えそれが狂歌を奏でる少女だとしても。 


 ◆



 予想を遥かに超える出費に樹楊の財布は軽くなってしまった。コツコツと貯めてきたわけじゃないけれど、それでも無駄な出費だけは避けてきたのに。


「いやー、助かったよ」

 

 少年は満足そうに腹を撫でて感嘆する。

 ついさっきまでミイラにでもなりそうな顔をしていたくせに、今は肌に艶がある。

 食べさせるつもりなど毛頭もなかったのだが、トイレから帰ってみれば物凄い勢いで料理にがっついていたのだ。


「…………けぷっ」


 そして何故か蓮まで食べていた。食べ過ぎたのか、こちらは顔色が悪い。

 樹楊は二人の勢いに負け、すっかり食欲が失せていた。


「ガキ、お前に奢るなんて一言も言ってねーんだけど?」


 青筋を立てながら睨む。

 すると少年はケラケラ笑い、


「ホラ、どっかの国では『魚心あれば水心』って言うじゃん? それだよっ」

「……俺、魚心なんかもらってねーんだけど」


 今更何を言っても仕方がない。こんな年下の子供に何か要求する気にもなれないし。

 それよりも仕事がある。早く皇帝に会わなければならない。


「蓮、急ぐぞっ。向こうを待たせてるかもしれん。そしてガキ、さっさと国に帰れ。何かあっても、もう知らんからな」


「んー。ボクはもう少しこの国にいるよ。折角来たんだし、観光ってやつ?」


 少年は頭の後ろで手を組んで陽気に言う。さっきまで行き倒れていたくせに楽観的な奴だ。


「あとボクの名前はオルカ=フォーリン。オルカでいいよ」

 にこっと八重歯が印象的な少年らしい笑顔。

 別に名前などどうでも良かったのだが、名乗られたからには無視するわけにはいかない。


「俺は樹楊。で、この大喰らいは蓮だ」


 仔猫を掴むように蓮の首根っこを掴まえて紹介する。すると、足をブラつかせている蓮がまた曖気。本当に食べ過ぎたらしい。いつも以上に眼が死んでいる。


「樹楊に蓮、か。この恩は忘れないよ」

「どうでもいい、んな事。恩を感じられても困るっつーの。蓮、行くぞ」


 蓮を降ろしてやり、白鳳の象徴ともいえる宮殿に向き直って急ぐ姿勢を見せた。

 しかし蓮は軟体動物のように、へにゃっと座りこむ。


「……きょーくん、おんぶ」

「は? 甘えんなっ」

「一歩ごとにたまご……出ちゃう」


 恐らく吐く、という事だろう。

 樹楊は蓮が最後に食べていたタマゴスープを思い出した。どんぶりいっぱいに広がる卵の量は尋常じゃなかった。スープって言うよりも、だし汁を吸わせた卵と言った方が正確。

 蓮はあの卵が出ると言うのだ。


「食い過ぎだっての! ったく」


 樹楊はお姫様抱っこをしてやり、急いで宮殿に向かう。おんぶなんかしたら胃を圧迫してしまう。背中に吐かれたらひとたまりもない。蓮は不思議そうに顔を見てきていた。


「おにーさん、ありがとねーっ」

 オルカは後ろから大声で叫び、手を振ってきていた。それに応えて手を振る暇などなく、


「もう行き倒れんなよ!」

 ぶっきらぼうに言い返す事しか出来なかった。


 行き交う人々にぶつからぬように避け、それでも急いで宮殿を目指す。

 大分ロスしてしまった。これが凶とでなければ良いが。


「……はいどーはいどー」

 まるで馬を走らせるような言葉を樹楊に掛ける蓮は少しばかり楽しそうだ。


「いいから黙ってろ。喋る暇あんなら一刻も早く胃の中のモン消化しろっ」


 蓮が軽いとは言え、抱えて走るとなれば重く感じる。背負うならば大して気にはならないのだろうけれど、前に抱えるのは少しばかり鬱陶しい。


「ったく勝手に食うわ、無理してまた食うわ。どんな胃袋してんだ、お前は。飯を食いに来たわけじゃねーんだぞ? つーか、お前自分の金はないのかっ。当り前のように俺に払わせてたけどよっ」


 不満をぶち撒けるように言ってやった。しかし答えが返ってこない。ワンテンポ遅れて返事をする蓮だが、何故か今は返事がない。

 前方を気にしながらも、抱えている蓮にちらっと視線を移す。

 

「………………」


 すると蓮は手で耳を塞いでいて、いやいやと首を振っていた。無表情なのが、これまた憎らしい。

「てめっ、散々タダ飯喰らっといて」


 これ以上何かを言っても無駄だと悟った。自分が持っている常識が通用しない相手のようだ。そして、反応が極めて薄い蓮を抱えながらも無事に宮殿に着くと、またしても門番に睨まれた。二度も同じ事を説明するのは面倒だったが、他国民に警戒心を高める国なのだから仕方がない。食べ過ぎで動けなくなった小娘を地に降ろして簡潔な説明を述べると、いとも簡単に門を通してもらえた。どうやら連絡が来ていたらしい。


 案内人に導かれるまま向かうと、赤を基調とした宮殿が視界を超えて広がって見えてきた。


 鮮やかな朱で構成された宮殿は無限に広がる青空に映えていて、趣味の悪そうな装飾品は黄金。その飾りは龍が主で、細部にこだわりを見せているのが解る。鱗や髭。目や身体のラインまで芸術とも言える出来だった。その事から、この国は手先が器用である印象を受ける。


 機楊にとっては無駄な芸術を施すその宮殿の中に足を踏み入れ、大広間を抜けると一室に促された。兵が百人は収容できる間取りの広い部屋の真ん中には朱色の囲いがあり、その中には上質な木材を使用しているだろう長テーブルが置かれている。その囲いの東西には人の顔程の水晶が龍の置物の上に飾られており、何とも悪趣味な印象を受ける。


 この部屋は謁見の間なのだろう。

 軍議をメインとして行うシンプルな部屋のスクライドとは違って煌びやかだ。

 この部屋一つで、国の財力を見せつけられているようでもあった。


「キミがスクライドの使いの者か?」


 現れたのが二人の護衛を連れてきた白鳳の皇帝。

 白い宮廷服には様々な刺繍が施されており、その中でもやはり龍の刺繍が印象強い。


 まさか下っ端に部下である自分を相手に、皇帝が自ら会ってくれるとは思っていなかった。しかし、それはそれで幸運であり手間も省ける。 

 それにしても皇帝。八十歳を超えると聞いていたのだが、鉄の棒でも突っ込んだかのように真っ直ぐ伸びた背筋や、張りのある声からは判断出来ないほど若い。

 そして国を治める者の風格はしっかりと持っているようだ。背負うモノが違いすぎる。


 樹楊は立ち上がると礼儀として低頭。

 蓮もその後に続いてくれた。


「ハイ、本日はラクーン領政官の使いとして来ました、樹楊と申します。こちらは蓮。礼を尽くす次第ではありますが、若輩故、多少の無礼をお許し下さい」


 皇帝は値踏みするような目で樹楊と蓮を見やり、仕方なくといった面持ちで頷く。

 そしてテーブルを挟んで対峙するように座ると、皇帝よりも早く、樹楊が口を開く。


「単刀直入に述べます。我がスクライドと同盟を結んで頂きたい。本日はその件について伺いました」


「同盟? 我が白鳳の国政を知っての事か?」

「えぇ、勿論です。今私達はクルードと抗争をしております。そして赤麗という部隊を招き入れた事により、今後の戦は激化するでしょう。そこで白鳳の力添えが必要と判断しての事です」


 事務的に述べる樹楊だが、皇帝はあしらうかのように鼻で笑う。そして椅子に深く座って踏ん反り返った。


「フン、主らの戦など知らぬ。勝手に国獲り合戦でもするがいい。我が白鳳を頼るなど、器が知れるわ」


 後ろに居た護衛も薄ら笑いを浮かべる。

 それを見た蓮は眉根を僅かに寄せるが、樹楊が白鳳側に分からないように制する。


「勿論、タダでとは言いません」

「ほう、手土産でもあるのか?」

「はい。我がスクライドが誇る技術、伸縮鋼線の生産を一から提供しましょう」


 伸縮鋼線の言葉に皇帝は片眉を跳ね上げ、護衛は驚いたように顔を合わせてきた。

 やはり白鳳としても伸縮鋼線には一目を置いているようだ。護衛が纏っているのは鉄の鎧。それを纏えば自分の体重を背負うようなものだ。その点、伸縮鋼線を縫い込んだ衣服は鉄の鎧と同じ様な強度を持つ上に軽い。厚手のコートと同じくらいの重さしかないだろう。


「それは悪くはない条件だ。だがその強度を見た事はないのでな。些か信用に欠ける。主が今着ている服はどうなのだ?」


「これはスクライド兵の正装であって、伸縮鋼線は縫い込んではおりません」


 皇帝は、ふむ、と俯くと一人で何やら考え事を始める。その表情から意を察する事は難しいのだが、樹楊は口の端が僅かに下がるのを見逃さなかった。


「もしよろしければ実演しましょう」

「実演、とな?」

「えぇ、伸縮鋼線がどれほどのモノかご覧にいれます」


 樹楊がスッと立ち上がり、ポケットから小さな包みを出す。これは愛用している圧縮バッグだ。しかし圧縮バッグの紐に手を掛けた時、皇帝は待ったを掛けてくる。


「実演はやらんでも良い」

「……何故ですか?」


 皇帝の意を確かめるべく、圧縮バックを手にしたまま問い掛ける。

 樹楊の落ち着き払った態度に、皇帝は勝ち誇った笑みを向けると追い返すように手を払った。


「伸縮鋼線などいらん。そのようなモノ、すぐに解明出来るわ」


 伸縮鋼線の技術が安物だとばかりの言い草。しかし伸縮鋼線は簡単に解明できるほどの技術ではない。スクライドとて、伸縮鋼線を作ろうと実験を繰り返したわけではなく、偶然に生まれた産物なのだ。


 皇帝の見限った態度。

 しかしラクーンから命じられた任務は『白鳳と同盟を結ぶ』だ。

 それを十二分に解っていた樹楊だが、何ともあっさりしているのだろう。


「そうですか。では、これにて失礼します」


 低頭し、蓮を招く。

 皇帝は唖然とし、とたとたと走って行く蓮の姿を目で追う。

 樹楊など、軽い足取りで「失敗だな」と蓮に向って笑い掛けている。


「こ、皇帝」

 護衛が焦りながら声を掛けると、


「ま、待たれよ」

 

 皇帝も焦りを顔に浮かべて樹楊を呼び止める。

 樹楊は面倒臭そうに振り向くと、視線だけで疑問を投げ掛けた。同盟の申し出を断られた時点で、白鳳に対して下手に出る事は止めていた。


「主はそれで良いのか? 領政官からの命は我が白鳳と同盟を結ぶ事、であろう?」


「はい。ですが、無理と言われれば無理でしょうし。それに俺が頑張ったところで見返りもないですしね。仕事が終わったらさっさと退散、と考えてますので」


 なんてやる気のない言葉だろうか。

 白鳳でも領政官の役職はある。そしてそれは皇帝に代わって国を治める役職であり、実質右腕とも言える。樹楊はその長から命じられた任務を、相手方から断りの一言を受けただけで止めたのだ。当然、皇帝も戸惑ってしまった。


「せ、折角来たのだ。その実演とやらを見ても良いだろう。気が変わるやも知れん」


 樹楊は口の端を持ち上げた。

 任務を達成したと確信したのだろう。


 へそ曲がりと噂の白鳳の皇帝が、すんなりと頷くわけがないと思っていた樹楊は「実演する」と申し出ても断られると思っていた。


 そこで喰い下がろうモノなら、こちらが下手になる。不利な条件を突き付けられてもおかしくはない。それだけは避けたかった樹楊はあっさりと身を引いたのだ。

 賭けに近いが、呼び止めてくるだろうと考えた上で。それほど伸縮鋼線の技術は評を得ているのだ。ここはもう少しジラしたいところだが、何せへそ曲がりの皇帝だ。怒らせてしまうかも知れない。


「それじゃ見てもらいますか」


 圧縮バックの紐を解き、圧縮解除をすると使い古したバッグが現れ、その中から戦衣を取り出す。そしてそれを手品でも見せるかのように裏表を見せつけ、その後で纏うと、腰に携えていた刀を蓮に持たせる。


 灰色の鞘に納められた打ち刀。

 鞘の先には銀色の獅子の装飾が施されており、鍔も繊細な装飾で模られている。

 見るからに名のある刀だ。


 それを見た皇帝は目を見開いて口を割る。


「そ、その刀は、まさか」

「流石に知っていますか、この刀を」


 樹楊は刀をスラッと抜き、銀色の刃に光を当てた。

 緩やかな曲線に、波状の波紋。

 そして刀身にも獅子が彫られている。


「名匠・カタギリ作、獅子堕とし。大業物の打ち刀です」

「何故、そのような名刀をお主が?」

「これは戦友の形見でして、その戦友というのがカタギリの末裔なのです」


 なんて言うのは嘘で、いつものように戦場で「ラッキー」とばかりに拾った刀だった。

 しかし勿論本物であり、獅子堕としとは鉄の鎧でも両断出来るほどの切れ味を持つ。

 この刀を手入れしている最中に指を落としてしまったという話はあまりにも有名だ。


 その刀を蓮に持たせると、自分は背を向けて座る。そして右腕を横に広げた。


「蓮、その刀でこの腕を斬れ」


 その言葉に皇帝と護衛は驚愕する。いくら何でも無謀だと止めてくるが、樹楊は聞かない。

 蓮はコクっと頷くと、刀を天に突き刺す。

 

 そして――。


「…………ん」


 やる気ゼロの声と共に振り下ろされる刀。

 バシュッと嫌な音を立てて、刀は地面すれすれで止められた。

 皇帝は細めていた目を開くと、言葉を飲み込んだ。


「いっつ〜」


 痛がる樹楊だが、その右腕は健在。

 しかも戦衣には傷一つ付いてはいない。


「どうでしょうか?」

 樹楊は腕を押さえ、汗を見せながら皇帝に問い掛ける。そして蓮から早々に返してもらった刀を鞘にしまうと、腰に戻した。


「す、素晴らしい! 伸縮鋼線とは素晴らしい強度を誇っておるのだな!」


「まぁ、こいつの腕はお世辞にも褒められたモノではないですから、賭けに近かったのですが。結果的に腕を失わずに済んでラッキーだとしか言えません。剣聖と名高い皇帝が振り落としたのであれば、間違いなく腕は飛んでいたと思いますがね」


 ムッとする蓮の視線を無視し、皇帝の名を持ち上げる。


「わっはっは、我が剣聖とな? よく回る口を持っている。しかし、賭けに近いと申したな?」

「はい」

「もし腕が斬り落とされたなら、どうするつもりだったのだ?」


 樹楊は溜め息をつくと、ニカッと笑い掛ける。まだ睨んでくる蓮の頭をくしゃくしゃ撫で、肩をすくめた。


「それは勿論、同盟を結んでもらいますよ。腕が代償になったのに、同盟を結んでもらわなければ割に合いませんしね」


「ははっ。主は面白い奴だな。同盟ごときで腕を賭けの対象にするとは。後先を考えずに行動すると痛い目を見るぞ?」


 こちとら計算の上だ、とは言わずに笑顔で返す。もう一つの細工には気付いていないようだし、さっさと話しを進めるに限る。そう思い、懐からラクーンに預けられた銀板を出す。


「同盟は了承して頂ける、そう判断してもいいですかね?」

「無論だ。主の馬鹿さに呆れたわ」


 樹楊は銀板を二つに折り曲げた。

 すると銀板は粒子状に砕けて、代わりに一枚のフィルムが現れる。

 半透明のフィルムには同盟を結ぶに当たっての条件などが記されており、ラクーンの通信機の番号も記されていた。


「あとの話はこちらまでお願いします。契約上の云々など俺には解り兼ねるので」


「本当に主は変わっておるな。皇帝である我を相手に軽率な言葉使い、態度。呆れて何も言えぬわ」


 そう言う皇帝だが、顔は楽しそうな表情を浮かべており、素直にフィルムを受け取ってくれた。


「あ、あと個人的にお願いがあるんですけど」

「何だ? 何でも申せ」


「明日まで白鳳を観光したいのですが先立つモノがなくて……。宿泊費用と娯楽費を頂きたいのですが。二人分」


 つまりは遊ぶ金が欲しい、と言う樹楊に護衛は唖然とした。勿論皇帝も言葉を失うが、意味を解すと大声で笑う。


「良い良い。おい、この者に金をやれっ。余るくらいで良いぞっ」

「ありがとうございます。俺達の国王も皇帝ほど話が解る人だといいんですけどね、これがまたケチで。なぁ、蓮」


 話を振ったが、蓮はまだ怒っているらしく睨んできていた。だが一応頷いてくれる。


「樹楊だったな。主は面白い奴だ。戦が終わったら酒でもどうだ?」

「色っぽいおねーさんが居るなら、是非」


 とことん我儘な樹楊に、皇帝はまたも笑い声を上げる。今日は良い日だと、護衛にも笑みを投げ掛けていた。



 宮殿を出た樹楊は、さっそく蓮に謝罪した。頭を撫でながらだが。


「さっきは悪いな。蓮の腕が悪いような事を言ってよ」

「…………ん」

「アレはこの刀がいかに斬れるか印象付けたかったからなんだよ」


 蓮は表情を無に戻すと首を傾げて詳細を求める。


「この刀を誰が降っても戦衣は斬れない。刃を落としてんだよ」

「刃……ないの?」


「あぁ。だけどそれがバレたら不味い。だから蓮を落とし、皇帝が剣聖だと持ち上げたんだ」

「…………それって」


 蓮の言いたい事が解るなり、樹楊は頷いて答えを繋げる。


「大業物の剣でも斬れない戦衣だと見せつけたけど、人によっては斬れると伝えたかった。だから蓮が剣の凄腕だとは言えない。もしお前が剣の凄腕であって戦衣が斬れないとなれば無敵だ。それだとあの実演が嘘ハッタリになってしまう。それがバレれば後先面倒になるからな。人によっては斬れる事を知ってもらいたかったんだよ」


 こんな形で役に立つとは思ってもいなかったが、樹楊のコレクションは使えなくなった剣の収集なのだ。それも名のある剣のみで、スネークのところで刃を落としてもらっている。


「さて、金も貰ったし遊ぶかっ」

「ご飯っ」

「まだ食うのかよ……」


 蓮の胃液の消化力は凄まじいようだ。

 既に腹の虫を鳴かせている。自分としてはまだ腹が減ってないし、白鳳の文化を満喫して遊び倒して、その後で食事といきたい。


「あー、蓮。最初はだな、白鳳という」

「ご飯っ」


 両手で作った拳を胸に添える蓮の眼には眩い星が輝いている。


「わぁーったよ、仕方ねぇ……」


 手を引っ張って駆ける姿がニコにダブって見えてしまい、何も言えない樹楊だった。


 

 ◇



 白鳳の文化の中で、食文化を嫌でも満喫させられた樹楊はホテルの一室で徒労感に侵されていた。定食屋やらレストラン。デザートが美味しいファンシーなお店から甘味処。

  合計十軒回ったのだが、樹楊は二軒目から何も口にしてなかった。

 口に出来るわけがない。というか、蓮の食事姿を見ているだけで吐き気も催している。

 あんこに関しては、もう見るのも嫌だ。


 樹楊はベッドの上に寝転がり、枕元のライトだけ点けた。

 室内は仄暗く、一つの明かりだけで光を保ち、心が落ち着く雰囲気が衣のようにふわりと舞い降りる。


「蓮のヤロー。何であんなに食えんだよ。お前の胃袋はどーなってやがるんですかっての」


 ワンテンポ遅れて、

「……デザートは別腹」

「別腹多過ぎだっての」

「……そう」


 蓮が隣に寝転がって足をパタパタさせている。自分とは違い、うつ伏せになって。


「うおっ。蓮、何でお前がこの部屋にっ」


 部屋は二つとったはずだ。

 そして部屋の前で別れたのに、何故か蓮が隣にいる。

 蓮は腕を枕にしたまま首を傾げ、疑問符を浮かべていた。


「……うおっ」

「真似せんでいい」


 どうやら蓮は一室をキャンセルしたらしい。節約だと言う。それだったら食食事も控えてほしいのだが、それは無理と首を振られた。


「ところで蓮、何か土産とか買ったのか?」


 否定の仕草だけで答える。

 どうやら純粋に食文化だけを満喫していたらしい。すんなり任務に同行したのも、これが目的だったのかもしれない。


 どうでもいい事ばかりを考えて天井だけを見つめていると、蓮はいつの間にかシャワーを浴び終えていてローブ姿になっていた。

 身長が低い所為か、男物の衣類を着ているようでブカブカしている。裾も引き摺って歩いているし、何だか子供みたいだ。


 樹楊は風呂上りの蓮から香ってくるシャンプーの匂いに疑問を持つ。

 同じシャンプーを使っても、男からする匂いと女からする匂いに違いが出るのは何故だろう、と。明らかに女からする匂いはいい香りだ。


 全世界の男の疑問を代表して考える樹楊だったが、当たり前か答えは出ない。

 ハンドタオルで髪をわしゃわしゃ拭く蓮を見て、樹楊は気付く。


「目の包帯、取らないのか?」

「……取らない」


「誰も居ないのに、窮屈だろ」

「見せたくないっ」


 相変わらず小さな声だが、蓮にしては張りのある声だった。明らかに拒絶の意を表している。しかしこの樹楊という男。

 へそ曲がりでデリカシーのない男である。

 蓮の後ろからそーっと近付き、子供の頃スリで鍛えた手の速さで包帯を取る。


「えっ」


 蓮は一瞬の出来事で驚くが、目の違和感に気付くと弾かれたように振り返ってくる。

 そして樹楊の手に包帯が持たれている事を確認すると、眉根を寄せた。


「……返して」


 目を覆いながら片手を伸ばしてくる。それに対して首を振ってやると、蓮は初めて悲しそうに眉を下げた。今にも泣きそうな表情は宝物を取られた子供のようで、流石の樹楊も心を痛めたがここで引くわけにはいかない。


 樹楊は包帯をベッドに置くと、胡散臭い笑顔を見せながら蓮ににじり寄って目を隠す手を掴んだ。蓮は覚悟したのか、力を抜いて樹楊の成すがままに従うと俯いた顔を上げてきた。

 蓮のボロボロな視線と樹楊の真っ直ぐな視線が一本の線となる。



「……気持ち悪いでしょ?」

「だから、気持ち悪くねーつっとろーが」

 

 樹楊は蓮の手を離してやると、まだ濡れている髪をくしゃくしゃするように撫でてニカッと笑う。


「前にも言ったろ? 俺はお前の眼が好きだ。何つーか、安らぐんだよな」


 腕を組んで勝手に頷き、もう一度目を見る。

 やっぱり落ち着く。黒に縁取られた純白のビー玉。雪のように柔らかで温かい。これが気味悪いだなんて言えそうにもなかった。


「……きょーくん」

「あぁ、悪い。いつまでも見られちゃ堪んないよな」


 樹楊は圧縮バッグの中を漁ると、一枚の布を取り出した。細長く、艶のある布は濃い紫色でサテン生地。それを人形のように動かない蓮の片目を隠すように巻いてやる。

 

「きょーくん?」

「っし。終わったぞ? 鏡見てみろ」


 蓮は一呼吸の間を置くと鏡の前に立つ。

 その眼を覆う布を見て、残された片眼がゆっくりと開いていく。

 濃い紫の生地は真っ白な髪に映えていて、品のある艶。そして頬を隠している位置には一輪の花が刺繍されていた。


「そいつは蓮の花だ。お前の名前だろ?」

「蓮の花……」


 細い指先が銀刺繍の花をなぞる。

 すると蓮は視線を落とす。


「蓮の花がどんな所に咲くのか、知ってる?」


 尋ねてくる蓮の眼はこちらを向いてはいなくて確認し辛かったが、声色は悲しそうだった。


「泥……だろ?」


 蓮はコクっと頷くとベッドに座って横顔をライトで染める。樹楊にはその姿が一時を生きるカゲロウのように見えた。


 あまりにも儚く、脆い生命。

 蓮がソレと重なる。


「お似合い、だよね。泥に咲く花が私の名前……。泥まみれで泥しか知らない花」

「そうだな」樹楊はそう頷き、下唇を噛み締める蓮の隣に座る。針時計の音が規則的に鳴り、その他の音は身を潜めている。


 優しかったオレンジ一点の灯りだったが、今となっては頼り無い。

 その寂しさに呑み込まれたかのように俯く蓮の頭を撫でてやると、躊躇いがちに視線を合わせてくる。


「知ってるか?」

「……何を?」


「大昔、太古と言ってもいい。その時代から蓮の花は美称されているんだ。

泥から気高く咲くその姿が、真っ直ぐ大きく広がって水滴を弾く葉の凛とした姿が、汚ねぇ世界の欲なんぞ染まらなくて清らかに生きることの象徴。……ってな」


 蓮は唖然とするが、樹楊は構わず続けた。


「そんで、ある宗教では『西方浄土の極楽は神聖な蓮の池』と信じられていたから、寺の境内にハス池をつくって植えるようになった。とも言われている。国花とする国もあったんだぞ? 俺の国、燈神でも国花に定められていたしな」


 頭を撫でてやり、

「花言葉は『神聖』。……泥に咲いたっていいじゃねーか。泥まみれでもいいじゃねーか。その分、お前は綺麗に咲いてる」


 蓮は再度下唇を噛み締めると、何が気に喰わないのか樹楊の胸に頭突きをぶちかます。

 そしてそのまま額を預けて、傍に居る者にしか聞こえない声で呟く。


 樹楊の聞き間違えでなければ「ありがとう」、そんな言葉だった。


 蓮はその言葉だけを残すと、夢路を辿り始め、やがて寝息を立て始める。

 樹楊の膝枕ですやすやと寝る横顔は穏やかだった。


「睡眠中の蓮……睡蓮。水の女神・ニンファーって命名、か」


 髪はまだ濡れているらしく、服の上から湿っぽさが滲んでくる。ちょこんと添えられた手からは暖かさが伝わってきていた。


 その寝顔は……、

「水の女神ってこんな顔してんのかな」


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