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第五十二章 ~狼は目覚める~


 樹楊はスイやオルカといったかつての敵やツキを背に、真影隊やクルード王を正面に置き、余裕の笑みで逃げ道はないと口にした。

 その発言が腑に落ちないのか、ヒドウオは警戒を強めている。


「そうビクビクすんなって。誇り高き真影隊なんだろ? 胸を張れ、胸を」


 挑発にも似た声音だが、ヒドウオは当り前に乗ってこない。依然と冷静な面持ちでこちらの出方を窺っている。

 

「良く解らない奴だな、お前は」

「そうか? 自分ではえらく単純だと思ってんだけどな」


「あれほどまでに牙を剥き出しにしていたお前が、今は冷静だ」

「そりゃーね。自分の所為で仲間が傷付いたとなりゃ冷静にもなるさ」


 そうは言ってみるが、内心、そこで高みの見物を決めている父親を殺したくてたまらなかった。それでもクルスの事を思えば、不思議と心を落ち着かせる事が出来てもいた。

 今は目の前の標的よりも、仲間達と逃げる事が最優先だと判断出来る。


「まー、策はないんだけどな。心構えくらいはあんのよ」


 にやっと口元を持ち上げた樹楊は腕を伸ばして天を指差す。

 その動作に真影隊が身構えるが、構わず続ける。


「天からは天の知恵を」

 

 そのまま腕を真横に倒し、二本の指を伸ばす。

「人へと紡ぐ人並みの知恵は知の恵みとし」


 そして地を人差し指で差す。

「大地へと返すものとする」


 最後に再び天を差した。

「それこそが人があるべき姿なり」


 風が吹き、背後のツキが首を傾げた。スイやオルカも意味を理解出来ずに怪訝そうな顔をしている。目の前のヒドウオも然り。

 ぶっちゃけ、言っている自分ですら意味が解っていない。

 何故なら、並べた言葉に意味などないから。


「ッ伏せろ!」


 ヒドウオの叫びと共に、彼らの背後から数本のナイフが飛来する。

 勿論、正面に居る樹楊が仕掛けたトラップなどではなく、人為的なものだ。


 クルード王はヒドウオがしっかりと護ったものの、真影隊の二人は的確に命を奪われ、その場に横たわる。ジュエンは素早く防御壁を魔術で展開し、間一髪、危機を逃れたようだ。

 そして後方に注意が反れた瞬間、樹楊もナイフと同時に眼潰しの煙玉を投げつける。コショウをミックスした子供じみた煙玉なのだが、効果はてきめんのようでクシャミが聞こえる。


「蓮、やっちまえ!」

「あい」


 がさっと茂みから出てきた蓮はいくつもの時空から剣を出して、煙の中へと突き刺す。


「っし! 退くぞ!」


 突然の出来事についてこれないツキらに撤退を促す。

 樹楊がスイを抱え、わさわさと出てきた蓮がオルカを背負う。ツキは急いで翼を動かして後を着いてきた。


「何をやってるか、追え!」


 クルード王は怒声を上げるが、ヒドウオが冷静に制する。

「なりません。深追いは禁物です」


 その対処にクルード王は激昂するが、ヒドウオが深追いの危険性と揺るがない勝利を口にすると、怒りを収める。

 正直、樹楊としては追ってきてほしかったのだ。そうすれば大きく迂回して手薄になったクルード王を討つ段取りまでしていた。


 木々の枝を足場として跳び、闇夜を突っ切っていく。その途中で背に抱えたスイが口を開く。


「お前、何やったんだ? トラップか?」


 スイの疑問はオルカも感じているらしく、目を向けてきている。ツキも背後から疑問を口にしてきていた。


「トラップじゃねーって。答えは――――おーい、姿を見せろって」


 突然上空から現れ、行動を共にし始めた者。

 それは、樹楊が感じていたもう一つの気配を発していた人物である。


「流石だな、ナーザ。ハンドサイン、まだ憶えていてくれたとはよ」

「オレを侮り過ぎだ。ま、ご希望に添えて何よりでございます、だ」


 真影隊を背後から強襲したのはナーザだった。

 ナーザとはダラス戦を共にしており、その時のハンドサインを忘れてはいなかったようだ。


 並べた意味深な言葉に意味などはなく、大振りな手振りこそがナーザに送るサインだった。言葉は単なる飾りだ。

 

 目標への奇襲を最優先。

 退路を確保する、応じろ。


 といった複合サインだったが、的確に行動してくれたナーザの背にはラファエンジェロが。


「や、どーもどーも」

 

 照れ笑いを浮かべるラファエンジェロに、オルカが顔を綻ばせる。蓮は素知らぬ顔をしているが、ラファエンジェロの怪我は蓮が原因である。


「生きて……いてくれたんだ? 良かった、本当に良かった」


 蓮が生きている事で、ラファエンジェロの事を案じていたのだろうオルカが涙目を擦る。ナーザは苦虫を噛み潰したような顔をしていたが、オルカの顔を見るなり諦めたような笑顔を薄らと浮かべた。


「どういうこった、ナーザ。お前はラファエンジェロを憎んでるって聞いたが」

 

 そこに突っ込むのが樹楊であり、ナーザはぐっと息を呑む。


「るせぇな。この戦が終わるまで見逃してやんだよ」

「元恋人のよしみってやつですねー」


 ラファエンジェロの軽口にナーザが目を鋭くする。しかし迫力は半減だ。

 そして一行は木々から降り立つと、見つけた山小屋に避難する。


 樹楊は怪我人の手当てをスイに任せると、ナーザを連れて周囲にトラップを張り巡らせ、それからようやく山小屋に身を潜めた。


 ペットボトルの水を一口飲み、皆の顔を見渡す。

 ツキに蓮。スイとナーザにラファエンジェロ。そして膝の上にはオルカが居る。


「オルカ、降りろって」

「やだよ。少しくらい兄さんに甘えたっていいじゃないか」


 ずっとこんな他愛のない兄妹の触れ合いを夢見ていたのだろう。オルカは頑なに降りようとはせず、樹楊に背を預ける。

 そんな微笑ましい光景に皆が笑みを浮かべる中、唯一人、折れんばかりに首を傾げるツキがいた。


「にい……さん? なんで?」


 そう言えばツキは知らなかったし、こんな事でもなければ一生言う気もなかったのだが、そうも言っていられないだろう。

 ツキだってオルカがクルード王の娘である事くらいは知っている。その姫様に兄と呼ばれているのだ。

 そろそろ教えてやらないと、傾げているツキの首が折れそうだ。


「これは他言無用だぞ?」


 そう前置きし、了解を得てから簡潔に説明してやった。

 すると、ツキはアホの代表のような顔をする。


「へ? 樹楊のにいちゃんってば、王子なの?」

「元、な」

「クルードの?」

「元、な」

「おーじ?」

「元、っつってんだろ」


 衝撃的過ぎたのか、ツキは呆けたままだった。

 しかし我を取り戻すと、まじまじと樹楊を見つめて一言。


「……似合わねー」


 どうやら樹楊がクルードの王子である事の重大さよりも、見た目の印象を優先させてくれたらしい。それはそれで助かるのだが、拳骨は落としておく。

 悶絶するツキだが放っておき、全員を見渡した樹楊は立ち上がる。


「取り敢えず、ここで寝ろ。行動は朝になってからだ」

「兄さんはどうするの?」

「見張りをしてくる。俺は充分に寝たからな。心配しなくても、戻ってくる」


 捨てられそうな仔犬のような目をしていたオルカの頭を撫でてやり、安心させる。そして寝付くまで傍に居てとの我儘を受け入れた。


 オルカは疲弊しきっており、すぐに寝息を立てる。ラファエンジェロも、ずっと動き回っていたナーザもすぐに眠りに入り、やがてツキや蓮も夢路を辿る。

 そんな中、スイだけが起きており、外に出た樹楊の元に足を運んだ。


「寝てろって。フラフラじゃんかよ、お前も」

「ん……そうなんだけどよ。お前に礼を言いたくて」


「礼? ああ、それならいいって。俺は俺なりに戦力の確保として動いたまでだ」

「例えそうだとしても、嬉しかったからよ。ホラ、私はミゼリアを……」


 真っ直ぐな瞳を向けてきた。そこには気負いはないが、純粋な疑問が浮かんでいる。そんなスイだからこそ、好感が持てた。

 もしミゼリアを追い込んだ事を悔やんでいるのなら、ここで殴り飛ばしていただろう。


「あん時は敵同士、そんで今は仲間だろ。何も問題はない。ミゼリンもスイも全力だった。自分の意地と誇りを貫いただけの話だろ」


「ああ、そうだな。やっぱお前は――」

「変わってる、か?」


 あまりにも聞き慣れた言葉だ、と最後を引き取ったが、スイは首を振る。


「私が思った通りの男だ。何も変わっちゃいない」

「そか。そう言ってくれるか」


 スイは自分を変わり者とは言わなかった。それがくすぐったい。

 自分の欠片を認めてくれた気がして、少しばかり嬉しくも思う。


「じゃ、私も寝るよ。何かあったら言えよ? 交代してやる」

「サンキュ。そん時はお言葉に甘えさせてもらうよ」


 手をひらひらさせて山小屋に入っていくスイを見届けた後、近くの倒木に向かう。付かず離れずの距離を保てる倒木で、寝心地は悪そうだが我儘など言ってられない。


「あ、ポーチ忘れてら」


 細かな装備品を収めた特製ポーチが腰に巻かれていない事に気付き、特に慌てる事もなく踵を返す。振り返った際、視界一杯に広がっていたのは、前髪で片目を隠してマスクで鼻まで覆うカヲルの顔だった。


「――――っ、か、おおぉ」


 まともな言葉が出て来ない。

 自分たち以外の誰かが居る事など予測していないばかりか、気配すらもなかった。一瞬、心臓が止まり掛けたというのに、どアップのカヲルは表情を微塵にも変えず、それでも瞬きを挟んで微かに首を傾げるだけのリアクションを取ってくれた。


「おまえ、どうやってここに?」


 得意ではないが、結構な数のトラップを張り巡らせていたはず。あれを回避するのは容易ではない、と思いもしたが、口を開き掛けただろうカヲルを手を挙げるだけの仕草で制する。


 カヲルの事だ。

 避けて来ました、とだけ言うのだろうし。


「まあ、いいや。俺に用でも――じゃねぇ。先ずは礼だな」


 瀕死だったミゼリアを運んでくれた礼として、せめて頭を下げようとするが、何故か悲しげな瞳で首を振られた。


「礼など、私には不要です」


 その真っ直ぐな瞳に何も言えずにいると、ミゼリアが取り敢えずは命を繋ぎ止めた事だけを教えてくれた。

 それから、まるで従者のような低頭をしたカヲルがこの場を離れようとするが、樹楊が引き止める。背を向けたカヲルの細い手首を握る、つもりが指先を握り締めてしまった。


「お? 悪い。手首を掴むつもりが……あれ?」


 カヲルの指先を掴んだ樹楊の手の平に懐かしい感触が広がる。

 何て事の無い、女性の指だというのに、不思議と懐かしさが蘇った。


 暫くカヲルの指先をにぎにぎしてみるも、その疑問の紐が解ける事はなく、樹楊は首を傾げるばかりだった。


「うーん……。どっかで、いや……うん?」


 カヲルは何も喋らず、ただ黙ってこちらを見ている。何かを期待しているようにも見えたが、思い違いだろう。


「うん、解らん」


 悩む事が好きではない樹楊はあっさりと諦めてカヲルの手を離す。


「それよか、今さっき思った事なんだけどよ」

「はい。何でしょう?」


 樹楊はカヲルをじっと見つめた後、

「今この戦場にクルード王が居るんだけどよ。カヲルって、そいつを殺れちゃったりすんのかなーって思って」


「はい、可能ですが」

「……え」


 あっさりと返され、樹楊は困惑する。

 そんな簡単に返されると思っていなかったのだ。


「真影隊もいるんだけど……。俺の見立てによれば、ヒドウオってのがめちゃくちゃ厄介っぽいんだけど」


 ヒドウオの名前を口にした途端、カヲルの目付きが微かな鋭さを見せる。反射的に謝りそうになった樹楊だが、何とか堪える事が出来た。


「ヒドウオ、ですか。となれば、先程の返答を『不可』と変えさせて頂きます」

「あいつ一人の存在でそんなにも変わるのか?」


「はい、彼は守護のエキスパートです。崩すのは容易ではありません。恐らく、紅葉アゲハをもってしても、崩す事は出来ないでしょう」


 はっきり言って、そこまでの奴とは思っていなかった。確かに防御技術に優れているとは思っていたが、紅葉を退けるほどの実力を持っているとは。


 それにしても、だ。


「カヲルって、詳しいのな。ヒドウオの事も」

「ええ、彼の片目を奪ったのは私ですから」


「へ? 何時?」

「彼が二十歳くらいの時でしょうか」


 そりゃ随分前の話だろう。

 まだ全盛期にも差し掛からないとは言え、守護神であるヒドウオの片目を潰すとは、カヲルの実力が解らない。肌で感じ取れるはずの威圧感も殺気もない上に、血の匂いがしないのだ。


 暗部に所属していたという事は、数え切れぬほどの人を殺めたはずだ。それなのに、彼女からは血の匂いが全くしない。それも彼女を構成する疑問の一つだ。


 と、待てよ。

 彼が二十歳くらいの時、とカヲルは言った。確かに言った、うん。

 ヒドウオは、若く見ても三十前半だ。見方によれば、四十前半。となれば、カヲルがヒドウオの目を潰したのは、今から十年から二十年前となる。


 すると、カヲルは今何歳になっ――。

「お、おうっ?」


 カヲルの瞳は酷く凍てついており、思わず後退りしてしまった。まさか心を読まれたのだろうか? 樹楊はごくっと生唾を呑むと、確かめてみる事にする。


「あ、あのさ」

 取り敢えず逃げる為に数歩下がる。

 しかし、カヲルが樹楊の腕をがっしりと掴み、

「何でしょう?」


 力は込められていないにしても、謎の圧迫感が掴まれた腕に纏わりついている。

 冷や汗を流す樹楊がその腕からカヲルへと目を移せば。


「な・に・か?」

「お、おお……」


 身も心も凍り付かせるような目がこちらを向いているではないか。

 女性に年齢を訊くのはタブーである事くらいは知っているが、意外にもカヲルにとっても当てはまる事だったらしい。


 そんな事など気にもかけないような雰囲気を持っているのに。

 だからこそ樹楊は可笑しくて、軽くだが、つい噴き出してしまった。


 その反応が予想外だったのか、彼女にしては珍しく、きょとんとした表情を浮かべている。あれほど尖っていた目が丸くて、ますます可笑しくなった。


「お前でもそういうトコ、あんのな? くはッ」

「な、それは――ッ、その」


 更に珍しく、頬を赤く染め始めるカヲルの姿がとても新鮮で、意地悪くもそれを指摘してみる。すると、カヲルは鼻まで覆っていたマスクを更に上げ、頬骨まですっぽりと隠してしまった。


「赤くないですっ」

「赤いって。照れてんの?」

「赤くないですったら、ですっ」


 にやにやしてカヲルを見ていると、怒らせてしまったのか、低頭後、素早くこの場を離れようと駆けていく。こうやってからかわれるのに慣れていないらしい。

 かなり動揺しているのか、高く飛ぼうとした際の足場がぬかるんでいて、屈伸させた脚を伸ばした瞬間、べちゃっと前のめりにコケる彼女がいた。


 慌ててこちらを振り返るカヲルの動きに合わせて樹楊は顔を逸らす。しかし堪え切れなくなって噴き出すと、カヲルは更に顔を赤くして、それでも今度こそ高く跳躍し、この場を離れていく。


 その時、木の実が頭にぽこんっと当たったのは、彼女なりの怒りの表現なのだろうか。それとも照れ隠しなのだろうか。

 どちらにせよ、紅葉と比べて可愛らしいものがある。紅葉の場合だと生と死を考えなければならないのだ。


 カヲルのお陰ですっかりリラックスした樹楊は、今度こそ倒木に腰を下ろすと夜風に吹かれながら空を見上げる。

 もうすぐで雨季が訪れる。その前にはこの大戦に終止符を打ちたいものだが、簡単にはいかないだろう。


 大きく伸びをし、固まっていた筋肉をほぐしていると、ポケットに入れていた通信機がけたたましい音を立てた。

 この静寂の闇にはあまりにも大き過ぎる音に慌てて取った樹楊の耳に入った言葉がある。


 ――本陣、陥落寸前。



 ◆



 岩壁をくり抜いたような洞窟の中で身体を休めている紅葉の元に、水浴びを終えたクレハが戻ってきた。

 返り血に染まりきっていたクレハだったが、綺麗に洗い流した今となっては元の姿に戻っている。


 違う点と言えば、サイドへと一纏めに結び直した髪くらいだろう。

 クレハがちょこんと正面に座り、首を傾げてくる。


「首領は水浴びしないのですか?」

「今からそうしようと思っていたけど、先にアンタに伝えなきゃならない事が出来たからね」

「はあ……」


 何とも気が抜けた返事だ。

 これはいつもの事であり、今更気にもしないが、少しは気を引き締めてもらわなければいけない。


 紅葉はカロリー補給の為の携帯チョコレートを一欠けらだけ口に放ると、羨ましそうに見てくるクレハに告げる。それは明日の天気を告げるように。


「スクライド本陣が陥落寸前だってさ」

「そうなんですか。それよりも、私にもチョコレートを……お? おおおっ? って、不味いじゃないですか! 本陣が陥落すれば負けなんですよねっ?」


「そうよ。当り前じゃない」

「ええっ? 首領は何でそんな落ち着いてっ、こうしちゃいられないです!」


 紅葉は重い溜め息を吐くと、組んだ両手を頭の後ろに持っていく。


「ここから本陣までどのくらいあると思ってんのよ。私達が急いだところで何も変わらないって。イルラカには連絡を取ったし、ここで合流する手筈を整えたから、今は身体を休めるのが先決ね。必要なら近場の街に移動するから」


 そうは言うも、焦りは感じている。

 ラクーンは頭がキレるも、軍師としては頼りないと樹楊が言っていた事もある。


 悟らせまいと堪えていた闘争心だが、クレハはそれを感じ取り、落ち込んだ表情で何も言わなくなった。

 それからほどなくして、タシュアやスレートを連れたイルラカが姿を現す。


 クレハは心細かったのか、スレートを見るなり胸に飛び込んで顔を埋めていた。

 それを目に留める事なく流し、イルラカに尋ねる。


「状況は? それとイルラカ、あなたなりの見解も」

「状況は依然として変わりません。このままでは、陥落も時間の問題でしょう」


 部下達の息を呑む音が聞こえる。


「ですが」

 イルラカが続ける。


「本陣の動きを他の者から逐一報告させているのですが、その動きが不可解――と言いますか。私には解せません」


「不可解? 説明してくれる?」


 イルラカは頷くと、タシュアから地図を借りる。何処かで失くしたのだろうか。

 それはどうでもいいとして、イルラカが広げた地図に集中する。

 部下達もイルラカが地に広げた地図を囲むように覗き込む。紅葉も同じだ。


「本陣はクルードの攻撃により、南下したとの事。それもあっさりとです。最終防衛線の戦力が僅かに削がれたほどで、ダメージ事態、少ないと見えます。そして本陣の動きですが」

 

 本陣の場所を差していた褐色の指が、南東へと移動する。それも、街や森を避けて河の方角へと。


「河? そんな場所に出たら不利になるだけじゃない」


 こればかりは流石に解る。

 行動範囲が制限される河川に移動すれば、益々不利になるだろう。軍勢を引き連れているのなら尚更だ。

 イルラカが不可解と感じたのはこの事だろう。


「何か策でもあれば別なのですが、ここは以前、老朽化された吊り橋や地盤の弱さが問題視されていた場所のようですし。とても戦に向いているとは……どう良く見ても防衛には不向きです」


 そんな場所をラクーンは何故目指したのか。

 いくら戦事に乏しいからと言って、その選択をするとは思えない。

 本当に不可解な動きに考え込んでいると、スレートが口を割る。


「崖の下に突き落とすとか? 確かそこって、ソリュートゲニア大河だっけ? めちゃ荒い流れの。ホラ、落ちたらタダじゃ済まなそうだし」


 スレートらしく敬語を忘れている。

 そんな事はどうでもいいが、隣りのタシュアがその事に焦り出した。

 紅葉はそれを柔らかく制し、イルラカに目を向けた。


 すると、首を振るイルラカ。

「それでは効率も悪い上に危険性が高い。火薬を使って敵の足元を爆破、ともなれば話は別ですが、火薬を戦に使用するのは知っての通り固く禁じられています。そもそも、スクライド本陣が移動したのは高さこそありますが、流れが緩やかな場所なのです。落とした所でダメージなどないでしょう」


 だからこそ不可解なのです。

 そんなイルラカの言葉を最後に、一同は言葉を見つけられずにいた。だがこんな状況だからこそ、あいつの顔が思い浮かぶ。

 紅葉の心境をいち早く察したイルラカだが、その仕草は首を振るだけのものであり、解決の糸口が見つかる事はなかった。


「あー! もうヤメヤメっ。私達が考えても無駄ね。今から本陣に向かっても遅いだろうし、今は身体を休めるのが先決っ。イルラカ、街に移動するよ」


 そう言うと、タシュアが激しく同意してくる。

 綺麗好きのタシュアだ。こんなに長引く戦闘は初めてであり、自分の汗臭さに耐えられなくなったのだろう。自慢の金髪が少し痛んでいる。


「首領、アタシはご飯が美味いところがいいなー」

 にしし、と嬉しそうにするスレート。それに着いて回るクレハも頷いている。


「私はお風呂に入れるならどこでもいいです。うー、ようやくお風呂だぁ」

 タシュアはやっぱりお風呂に入りたいらしいが、それは同感だ。水浴びや濡らしたタオルで身体を拭くのも限界だし。


 イルラカに至ってはどちらでも良いらしく、今のスクライド本陣の状況を第一に考えているようだった。


「イルラカ、今は休めなさい。身体も頭も。本音を言うと、私も限界に近くってね」


 信頼を寄せているイルラカが傍にいる安心感からか、緊張の糸が解けるのが自分でも解った。その糸が身体を固めていたのかどうかは解らないが、急に膝から力が抜けていく。


「首領っ」


 倒れる寸前で、イルラカが身体を支えてくる。タシュアやスレートも慌てて寄ってきた。


「やー……怪我とかじゃないから安心して。タダ、ね」


 それ以上言うのは億劫だった。

 何も言わずイルラカが背負ってくれたお陰で、益々力が抜けていく。


 オルカとの戦闘に続き、クルード本隊との戦闘は正直辛いものがあった。身体は疲弊しきっており、クレハが居てくれたから「しっかりしなければ」と意識を繋ぎ止める事が出来ていた。そうでもなければ、そこら辺でぶっ倒れていただろう。


 イルラカに背負われ、下に見えるクレハが心配そうに呼んできている。それが少しばかり愛らしく、軽く微笑んでやるとクレハも泣きそうではあるが笑みを返してくれた。


 それを最後に、紅葉の意識は暫し途絶える事となった。



 ◇



「う、ん……」

 少しばかり寝たくらいではやはり万全とまでは回復しないらしく、気だるさが身体に残っているのが解った。

 体質上、それか傭兵という稼業の所為か、どんなに疲れていても三時間以上は眠る事は出来ないのが紅葉の悩みでもある。二度寝は出来るものの、一度でいいからぐっすりと眠ってみたいものだ。


 まあ、オルカにぼろぼろにされた時は死んだように眠っていたが、あれは別だ。


 身体を起こすのも面倒で、暫くの間、ゆっくりと瞬きを繰り返す。

「早い目覚めだな」


 勝ち気な声がして、自分以外の誰かが居た事に気付く。余程無警戒だったらしく、勘が鈍っている事が少しばかり悔しかった。


 ぼーっとしながら横を見れば、先ず、黒い服が目に留まる。

 ゆっくりと見上げていけば、女性である事が確認できた。

 海のように澄んだブルーの瞳に、扇子の骨組を広げたように纏められた後ろ髪…………って、あれ?


 紅葉は勢い良く起き上がる。その際に目眩がして身体をふらつかせると、溜め息が聞こえた。


「おいおい、大丈夫かよ? 赤麗のトップであろうお方が、低血圧か?」

「うっさいわね。そんな事より、何でアンタがこんな所にいるのよ?」

「何処に居ようが、私の勝手だろ」


 肩を竦めるのは、殲鬼隊のスイだ。

 スイは敵のはずで、目覚めを指摘し合う仲ではない。確かに大戦規約上、街の中は中立地帯だが、それでもこのスイが敵と慣れ合う者ではないと思っている。


「何処に居ようとそりゃ勝手だけど、何で私の部屋に居るのって事」

「私だって居たかねーさ。でも頼まれたからな、仕方なくだ」

「頼まれた? 誰によ?」


 眉根を寄せる紅葉にスイは呆れ顔を浮かべる。


「一々噛みつくなって。今じゃ私達は反逆者だ。目的を同じとするお前達と争うつもりもなければ、理由もない」


「反逆? って事は、アンタもオルカの……」


 スイは深く頷き、病院に搬送されたラファエンジェロや殲鬼隊の隊員も同じである事を明かしてくれた。

 そしてオルカは別室で休んでいるらしく、そこには蓮も居るとの事。

 どうやら樹楊を先頭に、この街まで移動してきたようだった。


「ま、そうは言っても私達は所詮反逆者だ。大戦から外れちまった事に変わりはない」


「じゃあ、どうすんのよ?」

「他のモンがスクライドの軍事管理に交渉しに行ってる。許可が下りれば、私達はスクライドの管理下で大戦に参加する事になるな。大戦規約上、傭兵やそれに準ずる部隊の途中参加は認められているわけだし、あとはスクライドのモンが私達を信じるかどうかってところだけどよ」


 気長に待つさ、とスイは席を立つ。そして大食堂に誘われ、空腹である事を思い出した紅葉は鳴き出した腹の虫を連れてスイの後を追う。


 大食堂に近付くにつれ大きくなる賑わいの声と、様々な料理が混じり合った匂い。安価な店の取り柄でもあるその賑わいに、紅葉の気分も高まってくる。何せ、大戦が始まってからというもの、まともな食事を摂っていないのだ。

 口にするモノと言えば、日持ちするように加工されたドライフードや栄養バランスを保つためのサプリメントなどが主だ。料理など、以ての外。


 ポケットに両手を突っ込んで歩くスイが僅かに早く食堂の光に包まれ、数歩遅れて紅葉もその光の元へと辿り着く。


 東西に厨房を持つ大食堂は想像していたよりも広く、しかしテーブルが無駄に離れていない為、そこに客が着けば狭い印象も受ける。

 今日は何の祭りなのか、と思わざるを得ない賑わいだが、この食堂にとってこれが日常だ。安価で味も良い。そこにボリュームと調理の早さが加われば非の打ちどころがない。


 そんな大盛況を見せる食堂の隅を目指して突き進むスイの向こうに、見慣れた顔ぶれが揃っていた。

 いくつものテーブルを合わせて大きなスペースを確保している者達は、オルカや赤麗の隊員達だ。


 その中からイルラカがすぐさま立ち上がり、駆け寄ってくる。


「首領、お身体の方は……」

「大丈夫よ、怪我じゃないし。それよりも、ね」


「はい、な、なんっでしょう?」

「アンタ、酒臭い」


 ひっく、と酒気帯びを見せるイルラカが、さっと視線を逸らす。駆け寄ってきてくれたのは嬉しいが、にまーっと半笑いで身体を案じられても、嬉しさと心配を掛けた申し訳なさは半減だ。


「こ、これはですね。ひっ、く……謀られたと言いますか」

「もういいわよ、別に。そろそろガス抜きさせなきゃと思っ――」

「みなさーん、許しが出ましたっ」


 いやっほーい、とばかりに身を翻したイルラカがはりきって拳を突き上げると、赤麗の面々がテーブルの下に隠していただろうグラスを持ち上げる。


「かんぱーいっ」


 さも今から飲みます、と言いたげだが、揃いも揃って顔を赤くしている。

 その中で、オルカだけがふくれっ面でオレンジジュースをちびちび飲んでいる。まあ、成人していないわけだし、仕方がない。


「ったく、陽気なモンだな。緊張感の欠片もねぇ」


 頭を片手で抑えたスイが嘆息し、オルカの隣りに座る。紅葉もオルカを挟むように隣りに座り、呼び止めた店員にお茶を注文した。


「あれ、首領。酒飲まないっすかぁ?」


 ほろ酔いのスレートが尋ねてくる。酒豪であるスレートが頬を赤く染めているという事は、かなりの量を飲んだのだろう。


「気分じゃないのよ。私はいいから、アンタ達だけで楽しみなさい」

「あーいっ」


 隣りのオルカが羨ましそうにスレートが持つグラスを眺めている横で、スイがカクテルで唇を湿らせる。


「アンタも飲むんだ?」

「久しぶりだしな。ま、酔うまで飲む気はない」

「あー! スイ、ずるいっ。飲まないって言ってたくせにっ」


 身体のダメージは何処へやら。

 オルカがスイの腕を振り回さんばかりの勢いで引っ張り始める。

 細長いグラスの中でエメラルドのカクテルが揺れ、何とか溢さないようにスイが片手を添えている。


「スイもジュースでいいじゃんかっ。そんな美味しそうなの、ずるいよ!」


 ダダっ子のようなオルカを静めるにはそれなりの労力が必要と見えたが、それを難なくこなす者が背後から現れる。

 オルカのふわふわの金髪を、片手で荒くも優しく乱すのは樹楊。


「お前はまだガキなんだから我慢しろって」

「兄さんっ」


 オルカの態度は一変し、樹楊に抱き着いては満面の笑みを浮かべる。本当に兄妹にあるべき光景だ。

 樹楊はオルカの頭をもう一度撫でると、紅葉に視線だけを移して悪ガキのような笑みを浮かべる。


「よ、久しぶりだな。活躍してんじゃねーか」

「当然の働きでしょ? それよりも、本当に久しぶりね。随分と会ってない感じがするよ」


 樹楊は行儀など気にせずに、長椅子の背を跨いで座る。スイと紅葉の間を陣取り、その隣りにオルカが座る。

 久しぶりに会う樹楊と何を話せば良いのか解らずにいる中、スイが待っていたとばかりに口を開く。


「で、状況は?」

「駄目だ、囲まれてる。それぞれの出口に、解るだけでも中隊レベル。伏兵を考えればそれ以上だ。一点突破も不可能だろうな」


 何やら危機的な状況になっているらしい。

 何故囲まれているのか、と考えるも答えはすぐ目の前にあった。


「や……ははっ。ごめんね」


 申し訳なさそうに頭を掻く、オルカの存在だ。

 クルードとしても、早期に処分したいのだろう。当然、これは酔っている場合じゃなさそうだ、と考えた紅葉が赤麗の隊員を見るよりも早く、樹楊が手を掴んでくる。


「問題ない」

「問題ない……って、そんなワケないでしょう? オルカ相手なら本隊を動かしているはずよ? そこにスイも私達も加わってるのよ?」

「そこに私も入る」


 にょきっと生えてきたのは蓮であり、樹楊の股の下から竹の子のように出てきた。蓮の不可解な行動に慣れていないだろうスイはカクテルを噴き出しそうになり、赤麗の面々は嬉しそうに蓮へと手を振る。


 蓮はもそもそと椅子に座ると、器に入っているツマミの乾燥豆を一気に頬張り、ごりごりと咀嚼し始めた。


「蓮、どうだった? いけるか?」

「ちょっぴ数が多い……」

「もう呑み込んだのかっ?」


 最後はスイの驚愕の音である。

 ハムスターのように膨らんだ頬の中にある乾燥豆を五、六回噛んだくらいなのだから仕方がない反応と言えるが。

 それを余所に、樹楊は思案に入ったようだ。

 ここに軍師と呼べるのは樹楊とイルラカだけだ。しかし、イルラカは策士と呼ぶに相応しくない。その上当人は酒でご機嫌のようだし、今現在の脳みそは使い物にならないだろう。


 頑張って考えているところを悪いが、紅葉にはもう一つの懸案事項があり、それを樹楊に確かめたかった。


「ねえ、本陣の事は知ってるでしょ? あっちはいいの?」


 樹楊はきょとんとし、思い出したかのように数回、細かく頷く。


「ああ、策ならもう打ってある」

「何時の間にっ?」

「大戦が始まる直前。あとはラクーンが気付くかどうかだけど……ま、気付くだろ」


 あっさりとした樹楊の回答に、紅葉やスイは当然、オルカや酔っ払っている赤麗の隊員も驚きを隠せずにいた。蓮だけはもりもりと何やら食べているが。


「ちょ、ちょい待てよ。大戦直前ってこうなる事を想定してたってのか?」

「当り前だろ? どんなに戦力を整えたところで所詮はスクライドだ。クルード相手に本陣の危機が展開されないって事は有り得ないだろ」


 スイの疑問にも樹楊はあっさりと答え、今度は赤麗のタシュアが口を開く。


「そうは言っても、状況ってものがあるでしょ? 何処からどう攻められたとか、策によっては天候や布陣、人数や経過時間も関係するんじゃないの? 私は詳しいってわけじゃないけどさ、そのくらいは解るよ」


「だから――ああ、言い方が悪かったな。言い直せば、だ。今頃こうなる事を予想してたんだ。その上での策だ。残存兵力や経過時間、敵が攻めてくる方角や人数も多少の誤差はあるけど、想定の範囲内だから問題はない。解ったか、ター坊」


「ターぼっ、誰がター坊よ! 私は女ッ」

 両手でテーブルをバンバン叩くタシュアだが、隣りのスレートが面白がって「ター坊」を連呼している。相方の新たなニックネームが気に入ったのか、スレートはタシュアをからかい半分で宥めるが、当人は頬を膨らませていた。


 赤麗のメンバーだけでは、こうも下らない話に盛り上がりを見せる事が出来ない。やはり樹楊は不思議な安心感をくれる。それが再確認出来ると、心地良い暖かさが胸の奥で広がっていく。


 旧友との再会のような盛り上がりを見せてはいるが、そんな中、スイだけは冷や汗を掻いて震える腕を抑えていた。良く見れば鳥肌も立っている。


「スイ、どうしたのよ。気分でも悪い?」


 何気なく訊けば、スイは苦笑を浮かべながらも尖らせた瞳を樹楊へと向ける。そこに殺気はないからか、蓮もオルカも、そして紅葉も特に反応は見せない。


「こんな事を今の状況で言うのもなんだけどよ……」

 

 スイの瞳に射抜かれている樹楊がグラスを持ったまま頷きを見せる。


「私はお前の事が怖い。もし今敵対してんなら、殺しているところだ。中立地帯

だろうが規約違反だろうが、関係ねぇ。そのくらい、お前が怖い。お前は一体、どのくらい先まで見えてんだ? ハッキリ言ってまともじゃねぇ」


 それには同意だ。

 もし樹楊が敵であれば、自分だってそうしているだろう。

 樹楊は色んな事が見え過ぎている。今もだが、ダラス戦も然り。

 皆同じ思いを抱いているのか、スイの発言を批判する者はいなかった。


 だが樹楊は、あっけらかんとしたもので、思い付きだとしか言わない。

 本人は解っていないだろうが、それが怖いのだ。


「兄ちゃん、何で起こしてくれないんだよっ」


 重くなった雰囲気に飛び込んできたのはツキであり、どうやら寝ていたらしい。


「オイラだけ仲間外れにして……おお! 紅葉っ、起きたのかっ?」

「相変わらず元気ね、アンタは」


 仔犬のように近寄ってくるツキの頭を撫でてやり、座るスペースを作ってやるとそこに座ってくる。そして恥ずかしそうに頭を掻くと、やはり満面の笑みを向けてきた。


「アンタ、この戦で変わったね。戦士の目になってきたんじゃない?」

「うん、心構えって言うか、大切な事を兄ちゃんに教わったからな」


 瞬間、皆の目が樹楊に向いた。その中にイルラカや蓮の目はないが、全員が信じられないといった様子だ。だがスイは何故か納得した面持ちでカクテルを口に含みだした。


「道理で甘っちょろいわけだ」

「どういう事だ?」


 樹楊が難しい顔で訊くと、スイは鼻で笑う。そこに嫌味など微塵にもなく、そればかりか優しさが込められていたように感じた。

 耳を傾ければ、スイはツキに助けられた事を恥ずかしげもなく語る。ツキがいなければ死んでいた事も。

 ツキがスイに対して取った行動は、結果としては良かったものの、その状況下では褒められたものではない。何せ、敵を見逃すばかりか進んで命まで助けたのだ。軍法会議ものだろう。


 それを軽く注意してやろうかとも思ったが、実は樹楊も同じ事をしていたらしい。ミゼリアにやられたスイの治療をクレハに頼んだと言うのだ。

 クレハは慌てて樹楊に口止めしようとしていたが、席も遠くてままならなく、結果として紅葉に睨まれるはめとなった。


「まあまあ、済んだ事だし、見逃してやれって」

「それもそうね。今更攻めても仕方がないか」


 樹楊に宥められた紅葉を見て、クレハは安堵の溜め息を吐く。

 イルラカやスレートも笑い、紅葉寄りの考えを持つタシュアは呆れて溜め息を、ツキと樹楊は当然ながら笑っている。そこにスイとオルカも加わり、楽しげに乾杯をしていた。蓮はそっちのけで肉料理を貪っている。


 楽しい時間が流れるが、街を出ればクルードの、恐らく本隊が待ち構えている。一層厳しい戦闘が強いられると予想されるが、樹楊の笑っている顔を見れば、何とかなるような気がする。


 本当に不思議な奴だ。


 

 ◆



 ソリュートゲニア大陸・中心部。

 戦火が広がるこの大陸の中心にクルードの本陣はあった。

 森林の奥深くでありながら拓けたその場所には、総大将を欠きつつも冷静な隊員が駐屯している。今、この場を仕切るのは本隊の大将であり、当然ながら歴戦の猛者である。


 自軍の隊長であるレイティを失ったテンレイは、樹楊と別れた後、仲間達と一緒にこの本陣へと戻っていた。任を賜る為である。


「解ったのなら行け」

「……はい」


 片膝を着いて低頭していたテンレイが立ち上がり、踵を返す。

 四十を超えても尚その武を見せつける本隊の大将は座したまま、まるで睨むようにテンレイを見送る。


 威圧する眼光だが、テンレイは臆することなく立ち去り、少しばかり遠くで待機している仲間達の元へ。

 そこに辿り着くと駆け寄ってきたのは、同年齢でありながら身体つきが一回りも大きい隊員だった。


「どうだった?」

「どうも何も、何時も通りの命令……じゃないな。僕達にとっては『懐かしい』命令だったよ」


 仲間がぎりっと奥歯を噛み締めて険しい表情になる。


「当たって砕けろ、か?」

「まあ、そうだね」


 隊長を欠いた自分達には何も期待していないのか、敵の戦力を削げればそれで良しと考えているのか。消耗品であった自分達にはお似合いの命令だ。

 テンレイは自軍を纏めようと気持ちを引き締めるが、木の陰から一人の女性隊員が不機嫌そうな顔で姿を現す。


「テンレイ、私さ、聞いたよ」

「何を?」

「あいつら……姉さんの事を侮辱しただろ?」


 怒りを押し殺した声音に、全隊員が驚愕したのも刹那であり、すぐに怒りを露わにした顔付となった。そしてテンレイに真相を求めてくる。まるで責められるような口調だが、仲間達の気持ちを汲み取ると落ち着く事も出来た。


 テンレイは片手を挙げて静めると、真面目な顔となる。


「黙っていてもバレちゃう事だし、言うけど。……うん、そうだね。こう言われたよ。『大した働きもせずに死ぬとは、消耗品にもならん』って」


 瞬間、全員の怒りが爆発するのが解った。

 ここは本陣であり、声を荒げるのは不味い。それも自国に対するものであれば尚更だ。

 

 だからこそ、テンレイは誰かが声を発するよりも早く剣を地に突き刺して場を収める。

 深々と突き刺さる剣の柄に手を置いたテンレイが静かに瞳を開けば、聞こえてくる、生唾を飲む音が。


 怒りの炎が渦巻いているのはテンレイとて同じだ。

 いや、レイティと最も親しかったテンレイこそが、誰よりも怒りを感じている。

 その怒気に当てられた隊員達は何も喋らなくなったが、一人だけ、肩を叩いてくる者がいた。


 初めに駆け寄ってきた男である。

「テンレイ、俺の意思はお前に預けるぜ」


 その言葉を受けて全員を見渡せば、誰もが同じ顔つきをしていた。自分に全てを預けてくれるという固い意志が伝わってくる。


「隊長は……姉さんはクルードの為、ひいては僕達の為に今まで戦ってきた。僕達は姉さんの剣となり、盾となりこれまでを生きてきた。姉さんは僕達の誇りだ。亡き今もそれは変わらない。その誇りを踏みにじられた僕達は、このままでいいのか?」


 訊かずとも解るテンレイの問い掛けに仲間達が目を鋭くする。


「そうだ。僕達の場所はクルードではなかった。姉さんが居る場所、そこだけが僕達の家だった。家族だった。クルードという国に姉さんが居たからこそ、僕達はそこに帰っていた。姉さんは何を思ってクルードについていたのか。皆も解ると思うけど、それは僕達が居たからだ。僕達と姉さんは互いを思うからこそ、クルードという」


 テンレイは言葉を切り、奥歯を砕かんばかりに噛み締める。温厚なテンレイがここまで怒りを露わにするのは極めて珍しい事だ。

 拳を固く握り、肩を震わせる。押し殺そうとしていた怒りが、言葉を発した所為で表に出てきてしまったようだ。

 こうなると、もう抑えが効かない。


「クルードというクソッタレの国に仕えてきただけだっ。姉さんがいなければ、人を人と思わないあんな国に仕える義理も義務もないっ。僕達のたった一つの宝物で誇りで! 最愛の家族を汚されてまで、僕は!」


 不意に手が優しく伸びてきて、その指先が頬を撫でる。どうやら涙を流していたらしい。怒りのあまりに気付けなかった。


 涙を掬ってくれた女性隊員は微笑むと、真正面から抱き締めてくる。一つ年上だからか、レイティと同じ姉としての優しさが感じられた。


「テンレイ、私達も同じ気持ちだよ。アンタはもう少し感情を見せていいんだよ。私達、家族でしょ?」

「うん……。そうだね」


 背中を二度三度叩かれ、離れていく頃には心は落ち着きを取り戻していた。

 テンレイは地に刺した剣を抜き、ホルダーに収めると胸を張った。


「これより僕達はクルードに反旗を翻す。僕達の歴史の中でも、唯一の汚点かもしれない。国民には蔑まれるかもしれない。けれど、僕はクルードを滅ぼしたい」


 仲間達は何も言わず、同意の笑みを見せてくれる。


「クルードの首は、本隊の大将ではない。恐らく、クルード王が首だ。皆も知っての通り、オルカ様が反旗を翻したのが証拠の一つだ。王はこの戦場に居る。僕達の狙いは、クルード王の首それのみだ。行くぞ」


 仲間達と拳をぶつけ合い、先頭を歩いていくテンレイ。

 彼は、たったの一度も本陣を振り返らなかった。

 未練などもうない、とばかりに。



 ◆


 空が白み始めた頃。

 赤麗のメンバーとオルカやスイ、そしてツキは樹楊の狡猾な策によってクルード本隊の包囲網から抜け出す事が出来た。単純な陽動作戦と発光弾を使った作戦だったが、針の穴ほどの抜け道を作る事が出来たのだ。

 そこに一点突破を掛けて猛攻を仕掛けたのが功を成したのだが、陽動班であった樹楊と蓮は窮地に陥ってしまう。


「蓮! 大丈夫かっ?」

「っん! 平気」


 そうは言ってくれるものの、平気じゃない事は解っている。樹楊は本隊の実力を計り違えていた。

 蓮の時空魔術と自分の素早さを合わせれば、何とか脱出出来るものと思っていたが、本隊の統率力や個々の実力が想像を遥かに上回っていた結果だ。


 樹楊は蓮と共に森林へと駆け込む。


「っはぁ! やべぇ、マジでやべぇ」

「ふう……そうだね」


 近場の大岩に身を潜め、息を整える二人。

 大きな怪我こそないものの、体力が大きく削がれている。

 今も肩で息をしているというのに、敵の包囲は狭まるばかりで。


「居たぞ! こっちだ!」


 こうもあっさりと見つかってしまう。

 

「蓮、行――っ!」


 蓮はがくっと膝を着く。

 まだサクラとの一戦で負ったダメージが抜けていないのだろう。顔に疲労がありありと浮かんでいる。


「蓮、背中にっ」

「大丈夫だから、きょー」

「早くしろ!」


 蓮は肩を跳ねさせるも、素直に樹楊の背から腕を回す。

 樹楊は大岩を足場にして木の枝に跳び、獣のように跳ねまわる。


 下方に見えるのはクルードの軍勢で、その数は少なくない。

 少し先を見ても、景色が変わる事はなさそうだ。


 ツキが応援を呼びに向かっているが、期待出来ないだろう。何せ、クルード本隊が相手だ。自分一人の為に戦力を裂く事など……。


「クソ、クソ!」

「きょーくん……」


 抱き着いている蓮の腕が少し強まる。不安を与えているのだろうか。それとも自分の事を情けなく思っているのだろうか。どちらにせよ、樹楊には何か気の利いた言葉を生み出す余裕などなかった。


 聞こえるクルード本隊の声とその姿が、絶望を叩きつけてくる。

 そして、森が終わる瞬間がやってきたと同時に前方から何かに反射した光を目が捕らえる。それが何か解るわけもなく、突如として死角から矢が襲来してくる。


 樹楊は空中で身を捻るも、無理な体勢の所為で着地を決めれずに転げる破目となってしまった。辛うじて蓮だけは正面に抱き締める事で衝撃を和らげる事が出来た。


 しかし咽ている暇などなく、すぐさまに起き上がるのだが、正面にはクルード本隊がずらっと並んでいた。黒い鎧の塊が朝焼けに染まり始め、重厚な音が迫ってくる。


「……っはは。きっついな、こりゃ」

「平気。まだ……死ねない」

「だな。蓮、逃げ延びるぞ」

「うん」


 樹楊も蓮も立ち上がり、剣を抜く。

 敵わない。死が感じられる。

 どうにかしないと、力押しで勝てる相手じゃない。

 どうにかしないと。

 ……どうにか。



 ◆



 知らぬ内にナーザに連れていかれた街の病院では設備が不十分として、ダラス連邦へと搬送されていたクルスは、朝日を目覚ましとして重く感じる瞼を開く。

 重傷であったクルスだが常人よりも優れた回復力で、今となっては歩く事も難しくはない。


 今もリハビリを兼ねてダラス連邦の城内を散歩している最中だ。

 靴底を鳴らすと奏でられる音は、冷たい鉄の音。そのリズムは怪我人とは思えぬほど軽快だ。


 これなら戦場へ復帰できる日も遠くはない。

 勝手に確信を得て歩くクルスの身体は包帯に包まれている。


「クルスさんっ、また勝手に歩いて! 大人しく寝ていて下さい」


 城内の看護婦の中で、唯一クルスを恐れていない女性が腰に手を当てて行く手を遮ってくる。まだ若いのに肝が据わっており、同僚からは感心されている。

 クルスは苦虫を噛み潰したような顔で頭を掻く。


「大丈夫じゃんね。黙ってるのは苦手で」

「リハビリのつもりでしょうけれど、無理をしたら退院が延びるだけです。そうなれば本末転倒でしょう?」


「でも」

「でも、じゃありません。早く病室に戻って下さい」


 看護婦は横に来ると身体を寄せてきて腰に腕を回してくる。


「ひ、一人で歩けるじゃんねっ」

「駄目です。もう、無理ばっかりして」


 この看護婦には敵わない。

 クルスは愛想笑いを浮かべると、素直に身体を預けて歩を進める事にした。そうすると、この看護婦も笑ってくれる。患者を大切に思っているのだろう。


 誰かにこうして心配してもらえるのが少しばかりくすぐったくて、それでも悪い気分ではない。長身であるクルスを懸命に支える彼女が、眩しく見える。


「今日は特別に、少しだけ遠回りしましょうか」

「え? いいの?」

「私が着いてますからね。特別です、特別」


 礼を告げ、一緒に歩いていく。

 殺風景な城内ではあるが、こうして歩く分には文句などない。

 浮かれ半分で歩いていると、とある一室から賑やかな声が聞こえてくる。

 野次馬根性があるクルスは、光に吸い寄せられる蛾のように、ふらふらと向かう。


「ちょ、そっちは駄目ですって! 軍関係者しか、ちょ、待っ、クルスさ、もう! だから、ちょちょ、だーめーでーすってば!」


 クルスを抑えていた看護婦も、最終的には引き摺られる形で部屋に入ってしまう。まるで、言う事を聞かない大型犬に引き摺られる飼い主のように。

 元々力のみで生きてきたクルスに敵うはずもないのだ。


「何か面白い事でもあるのか? 随分と騒がしいじゃんね」

「じゃんね、じゃありません! 帰りますよ、ホラ」


 室内に居たのは、ダラス兵と思しき面々であり、大きな画面の前に集まっていた。映りは悪いが、何かの映像だ。


「あ、クルスさんでしたか。実は試験的に電波で飛ばした映像を見ているのですが、やはり映りが悪いですね。ここから近い場所なんですが、どうにも上手く行かなくて困っているんですよ」


「くーるーすーさんっ。これっ」

「電波で映像? 何だそれ」


 最早看護婦は空気のような存在となっている。懸命なのは良き事だが、クルス相手ではどうにもならない。

 ダラス兵も共に戦った事があるクルスを咎める気などないらしく、普通に受け答えしていた。


「通信機の技術を利用したものです。遠くの地で移した映像を電波に乗せて、電子フィルムに投影しているんですよ」


「ほーっ。すげぇ技術じゃんねっ。つー事は、今映ってるのは、実際に起きている映像なのか?」

「はい、そうなりますね。多少の時間差はありますが……今映しているのはクルード軍とスクライド軍の大戦なんですよ。ですが、映りが悪くて」


 興味津々のクルスは看護婦を引き摺り、ダラス兵の隣りに座る。

 そして皆と同じく画面を見つめるのだが、映っているのは砂嵐に遮られる映像で何が何だか解らない。戦闘中である事は理解出来る。せめて音声があればいいのだが。


「うーん、訳解らん。もっと鮮明に映らないのか?」

「ずっとこのままですね……。もっと改良しなければならないかも、です」


 看護婦はクルスを連れて帰る事を既に諦めた様子で、立ちながら画面を興味深そうに眺めている。怪我人であるクルスを支える義務がある、という名目があるからなのか、随分と堂に入った様子だ。


 それから暫くの間、画面を眺めるも変わり映えなどなく、段々と暇になってきたクルスは立ち上がる。


「ちゃんと見れるようになったら教えてくれるか?」

「はい、解りました。必ず――」

「う、映った!」


 一斉に画面へと目が集まる。

 セピア色の画面には相変わらず砂嵐が膜を張っているが、まともな映像が流れている。


 そこに映っているのは、

 大勢のクルード本隊と抗戦中の、黒い長衣を着ている女性……スイだった。


「こいつって、殲鬼隊の……だよな? 反逆したって噂は本当だったのか」

「みたいだな。と、ちょい待て」


 言葉を交わしていたダラス兵の一人が画面の端を指差す。

「このちっこいのって、蓮とかいう……。ほら、クルードに寝返ったけどまた戻ってきたとか何とか」


 クルスは勢い良く画面を掴み、指差された箇所を見る。すると、本当に蓮が映っていた。小さくて解り辛いが、間違いなく蓮だ。クルード軍を相手に奮闘しているが、怪我でもしているのか動きにキレがない。


「蓮……」


 クルスの呟きの後、画面が激しく揺れる。

 どうやら撮影をしているダラス兵に詰め寄った者がいるらしく、手が画面いっぱいに広がって映っている。


「だ、誰だ? まさかクルードのっ?」

「そりゃないだろ! 撮影許可は下りてるし、非戦闘員なんだ。手を掛けられるわけがない」


 撮影者の身の安全は保障されているらしく、それぞれが不安を抱えながらも互いを納得させているみたいなのだが、そうとなれば撮影者の身に何が起きたのか。それを思案するも、答えは映像から見て取れる。


「キョークン……」


 樹楊が撮影者のカメラを掴み、物凄い剣幕でこちらを睨んで何かを叫んでいる。左目は頭部から流れている血に塞がれ、同じく口の片端からも血が流れていた。


 今すぐにでも駆け出したい衝動に駆られるが、それを察知した看護婦が不安げな顔で服の裾を掴んでくる。小さく首を振って、クルスの気持ちを拒んだ。


「解ってる。今の俺が行っても足手まといじゃんね」


 拳を固く握り締め、自分の気持ちを殺す、殺す。殺し尽くす。


「しっかし、何を叫んでんだ?」

「あ、俺、読唇術なら少しだけ。子供の頃、ばあさんの介護でちょっとだけなら」


 クルスの気持ちを余所に会話をするダラス兵達だが、これ以上ここに居るのは辛すぎて立ち去ろうと踵を返す。友の樹楊の言葉だが、今は聞かないでおこう。


「えー……と。――なん、だ。……くれ、た、の、む? えと」

「全然駄目じゃないか」

「ちょっと待てよ。えーとだな……『来て、くれ。頼む。お前の力が必要な、んだ』」




『――来てくれ、クルス』

 



 読み終えた瞬間、場の音が消えた。

 背後からダラス兵の唇を伝わって届いた樹楊の叫びに、クルスの力が抜けていく。燻ぶっていた心に穏やかな風が流れていく。まるで木々の梢を揺らすように。


 ダラス兵達は冷や汗を掻きながらクルスの背を見つめ、看護婦は何かに気付いたかのように両手を目一杯広げて行く手を遮ってきた。


「駄目です、クルスさん! アナタは戦える状態では」

「退いてくれ」


「ど、退きません! クルスさんは患者です、怪我人なんですっ。命に携わるものとして、私はっ」

「頼む、俺は行かなきゃならないじゃんね」


「だ、め……駄目です! そんな身体で行ったら!」


 クルスは暴力に訴えるわけでもなく、懇願するわけでもなく、ただ微笑んで看護婦の頭に軽く手を置いた。

 裂けた口端をピアスで留めている凶悪な人相が嘘のように優しく、緑色の瞳が柔らかい光を灯していた。


 揺るぎようの無いクルスの決意に、看護婦は薄らと涙を浮かべて力なく膝を着く。それでも、駄目です駄目です……と弱々しくも制そうとしていた。


 クルスは一言だけ、それも囁きのように小さな礼を告げると部屋を出る。そこに待っていたのは、壁に背を預けて腕を組むバリー。顔付は険しい。


「行ってどうする。その身体では無意味に散るだけと解っているだろう?」

「解ってる。解ってるじゃんね、そんな事くらいは」


「なら今は一刻でも早く怪我を治す事に専念するべきだ」

「ああ、その通りだ。でも俺は行く」


 バリーが正面を向け、壁のように立ち塞がる。看護婦はへたり込んだまま戸口に寄り掛り、バリーへと眼差しを向けている。止めてくれ、と。


「クルス、お前は強い。お前が行く事で戦局が変わるかもしれん。樹楊の命も助かるかもしれん。だが、その命と引き換えになる。解るか? 今お前を手招きしているのは、勝利の女神と死神なんだぞ」


「……そうだな。俺にもハッキリと見えるじゃんねー。色っぽい勝利の女神と、おぞましい死神が仲良く肩組んで手招きしてらァ」


 ズキ、と腹の傷が痛みを訴える。動くなと訴えてきている。

 脂汗を浮かべるクルスは、バリーの目を真っ直ぐに見据えた。

 決して笑みの無い強面の顔で、冷たい目で見下ろしてきている。


「それでもお前は行くと言うのか?」

「当り前だら? 呼んでるじゃんねー……。キョークンが、呼んでる。勝利の女神と死神の手前で、きょーくんが俺を呼んでる。来るはずがないと解ってるくせに、俺を呼んでんだ。それが嬉しいじゃんね。それに応えたいじゃんね」


 

 クルスは歯を見せて笑うと、バリーの胸を拳でノックする。


「キョークンが誇れるダチであるために、俺は行く」


 そう言って、バリーのすぐ横を通り過ぎる。

 バリーは掴んでくる事もなく、背を向けたまま名前を呼んできた。


「クルス、病室は予約しておいてやる。存分に暴れて来い」

「個室で豪勢なメシ付きなら来てやるじゃんね」


 バリーは肩越しに目を合わせてくると、嘲笑じみた笑いを鼻でする。


「フン、厚かましい奴だな。医師からの戦線復帰許可証は俺が何とかしておく」


 クルスは背を向けて一度だけ手を振る。


「バリー様! 何故っ、クルスさんは戦える状態では……あの身体で行ったら……クルスさんはっ」

「あいつはしぶといからな。死神を引き摺ってでも帰ってくる」



 何か失礼な事を言われた気もするが、今はそんな事はどうでもいい。

 自分を必要としてくれる友の為に、再び戦地へと向かうまで。


 ダラス連邦の要塞のような城を出て、街を出る。

 傷を抑え、懸命に歩くクルスの前にバイクの軍勢が停車した。ボロボロの車体に、壊れかけたライトという見慣れた、懐かしいバイクであり、それは傭兵団・砂嵐のシンボルでもある。


 その中から後を継がせた現・頭領がバイクから降りて前に出てくる。


「重傷を負ったってのは本当だったんスね」

「まーな」


「入院中と聞きましたが?」

「今出たとこだ。それよか、退いてくんねぇか? 急いでんだ」


 砂嵐の頭領は眉を寄せ、道を譲ろうとはしない。


「あんだけ強いアンタが、何で怪我なんかしてんスか。困るんスよ、クルスの名前が弱くなると俺達の看板に傷が付く。俺達は砂嵐の名前で飯喰ってんスよ」


 それもそうだろう。

 悪名とはいえ、名高いクルスが重傷を負ったともなれば、後任の者はそれよりも下に見られる。ネームバリューが下がってしまう。ここでクルスが倒れたともなれば、必然的に依頼が減っていくだろう。


 これも自分の残した責任か。

 クルスは自分の歩いてきた道の重さを感じながら、罰の悪い顔をした。


「悪いな。俺もこんなつもりは――」

「だったら!」


 力強く吠える頭領に遮られ、目を丸くする。

 

「だったら負けんで下さい! 無敗でいて下さいよ! アンタは、何時までもクルスでいて下さいよ、俺が憧れたクルスでいて下さいよ! クルードの奴らなんかに負けんで下さい! 俺が追い駆けたクルスの背中は、背中は!」


 頭領が大粒の涙を流し、睨んでくる。そして犬歯を剥き出しにし、大空に吠えた。


「誰よりも強い無敵の頭領なんっスよ!!」


 ボロボロと泣く頭領に唖然としていたクルスだが、やがて笑みを見せる。そして俯くと頭を掻き、一度だけ笑う。


「そのつもりじゃんねぇ」

「クルスさん……俺は、俺はっ」

「おお、サンキューな。力が入った」


 頭領は顔をくしゃっと歪ませ、袖で荒っぽく涙を拭う。そして部下に何やら命令を出し、一着の長衣を手にして渡してきた。


 深緑色で、真新しいその長衣は砂嵐のもの。


「これ、着て下さい」

「懐かしいじゃんね。この感じ」


 クルスが受け取った長衣に袖を通すと、頭領は一台のバイクを預けてくる。ボロボロだが、馬力のあるものだ。クルスはそのバイクも受け取り、跨る。そしてエンジンを荒っぽく唸らせる。


 自分こそが覇者だと世に叩きつけるように。

 騎士のように気高く、賊のように荒々しく。



「俺達が通る道に神なんか居ねぇ! 相手が誰であろうとねじ伏せろ、捻り潰せ、ぶっ壊せ! 恐怖を叩きつけろ! 全部呑み込んじまえ! 巻き込め、吹っ飛ばせ! 砂嵐の力をもって世界を喰らい尽くせ!」


 クルスの咆哮に、かつての仲間達が応える。

 エンジンを吹かし、獣のような声を上げて。

 野獣の叫びはダラス連邦の街にまで響き、地を揺るがす。


「行くぞ、テメェら!」

「オオオオオオオオオオオオオオオ!」



 深緑の長衣が身体に馴染む。

 築き上げた悪名が心を高ぶらせる。

 仲間達の声が血をたぎらせる。

 クルスという当り前だった自分の名前が頼もしく感じる。



 この時のクルスの瞳には、砂嵐の頭領として過ごした日々の暴力的な光が宿っていた。雄々しく、荒々しいその瞳。それでも友を護る為にと、暖かな光も混じっている。


 残虐でありながら優しいという不可解な光。

 それこそが、真のクルスという姿となった瞬間だった。

 


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