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第五十一章 ~裏切りと忠誠~



 暗闇に包まれ始めた、とある街の小さな病院。

 その中から未だ重傷のスイが力の無い足取りで出てくる。顔色も優れなく、歩く度に痛みに顔を歪ませ、荒い息を切る。それでも大戦規約上、この街に止まっている時間などあと僅かであり、無理にでも出ていかなければならない。

 この近辺にクルード軍が拠点を構えていれば幸運か。


 スイは身体を蝕む痛みを遠ざけるように静かに、深い溜め息をする。額の脂汗を袖で拭い捨て個人病院の敷地を抜け出ると、微かな朱で抵抗をする太陽に染められる夕暮れの街を見渡す。


 命を繋ぎ止める事が出来たのはツキと出会い、近くにこの街があったお陰だ。だが、それでもこの街並みには表情を強張らせてしまう。


 家屋はぼろぼろで経済そのものから見捨てられたように廃れた街並み。そこに住まう人々の目にも光などなく、路上に座り込んで呆け面を天に向けている。

 一度風が吹けば、何処からともなく異臭が漂い、不快になってしまう。治療を施してくれた病院も酷いものだった。

 薬剤を何処にしまったのかさえも忘れた医者と、清潔であるべきベッドは黒く汚れていた。それでも消毒液くらいはあるらしく僅かな安堵はあった。治療してくれた事には感謝しているが、改めて礼をするつもりなどない。


「ねえちゃん!」


 この場に不相応な声に目線を向けると、そこにはツキの姿があった。慌てた表情をしてこちらを見ている。


「んだよ、まだ居たのか?」

「うん、戻ってきた。オイラの任務は終わったし。そんな事よりも、動いて平気なのかよっ。休んでなけりゃ駄目だろ」


「あのな、私がここに来て一日が過ぎた。大戦の規約に反するわけにはいかねぇんだよ」

「そうじゃなくて、ねえちゃん重傷だろ? 搬送手続きを取ればクルードで休む事だって出来るじゃないかっ」


 ツキが言うように、重傷を負った本人、若しくは医師がこれ以上の戦闘は不可能と見なし、申請すれば戦線から離脱出来る。自国の地で治療に専念出来るのだ。

 だが、一度離れた戦地に再び赴くには傷の完治が求められる。戦線離脱こそ本人の意思を尊重するが、戻る権利を握るのはあくまで医師だ。

 そしてスイは間違いなく入院患者であり、三日四日で復帰できる傷ではない。そしてそんな時間を掛けていられるほど、スイはこの大戦を軽視していない。


「確かに今の私に出来る事は殆どないかも知れねぇ。けどな、何もせずに……何の役にも立ってねぇのに、このまま母国の地を踏むなんざ出来ねぇんだよ」


「そ、そんな身体で……無謀だよ! ねえちゃん、死神に連れてかれるぞ!」

「上等ォだ」


 信じられないものを見るかのように、ツキは絶句する。だがすぐに表情を取り戻し、心配そうに眉間にシワを寄せている。何か……野良の仔犬に懐かれた気分で、くすぐったい。

 スイはツキの髪をくしゃっと撫でると、勝ち気な笑みを見せる。


「私は鬼をも滅ぼす殲鬼隊だぞ? 死神なんざ、引き摺り回してやるよ」


 ツキは押し黙るが納得はしていないようで何か言いたげな瞳を向けてきている。だがそれに付き合う気や時間などスイにはない。

 ツキにもう一度礼を言うと、背を向けて歩き出す。


 その歩みを止めるのは、ツキよりも早く言葉を発した携帯端末だった。

 しかしその音の鳴り方が異常だった。設定した規則正しい呼び出し音などではなく、緊急を告げる慌ただしい鳴り方。スイは落ち着いた素振りながらも、内心暴れ始める鼓動を抑えるのに必死だった。


 画面を見れば、発信者はオルカという事が解った。そしてこの通信は一斉送信で行われるものであり、殲鬼隊全隊員へと強制的に通話を始めるものだ。

 間もなく通話が始まる事を知らせるマークが画面に浮かぶと、同時に録音を意味するマークも画面右下に浮かぶ。これは、今聞けない隊員達にも届ける為の機能だ。


 スイはツキの存在を思い出すと、この異常事態である事を漏らすまいと携帯端末に内蔵されているイヤホンを引っ張り出し、片耳に付ける。ツキもその事に気付いてか、慌てて両手で耳を塞ぐ。これが樹楊であれば、耳を澄まして盗み聞きしようと試みるのだろうが、生憎と言うべきか幸いと言うべきか、ツキの心は狡猾に染まっていない。


 スイは早鐘のように鳴る心を胸の上から抑え、言葉を待つ。その言葉は、心の準備を待たずして耳に届いた。

 いつもの天真爛漫な声などではなく衰弱しきった声音に息が詰まり、語られる言葉に吐き気を催すほど目眩がし、震える涙声には心臓を胸の上から抉り出したくなった。


 絶望とは、どんなものなのだろうか。

 今の気持ちが未だ絶望に達していないのならば、何なのか教えてほしい。


 一方的に告げられ、終了させられた通話にスイは立つ事さえも叶わぬほど、身体から力が抜けていた。ふらり、と後方に倒れるが間一髪のところでツキが受け止める。そして背を支えられたまま一緒に地にへたり込んだ。


「ね、ねえちゃん……どうしちまったんだよ? 大丈夫か?」


 心底この身を案じてくるツキを甘ったれだとスイは思えなかった。敵兵に対し、傍に誰かが居てくれて良かったとさえ思ってしまうほど、オルカの言葉は衝撃的なものだった。


 スイは焦点の定まらない瞳で遥か遠くを見つめ、ツキの名前を呼ぶ。有りがたい事に、返事はすぐに返ってきた。


「悪い、もう少し傍に居てくれ」


 か細く震えるスイの声にツキは頷く。すると、スイの肩が震えだした。泣いているわけではないが、それでも勝手に震える。それをツキは何も言わずに包んでくれる。それがここに心を繋ぎ止める唯一の温もりだった。


「ガキ、お前が居てくれて良かった……。もし私……が、独りだったら」


 スイはそれ以上言葉を紡げなく、震える手でツキの腕を掴む。

 ツキは小さい身体ながらも必死に、だが傷を労わるように優しくスイの身体を包んでいる。



 ◆



 日も傾き始め、朱と僅かな蒼のコントラストが美しく空に敷かれている。

 樹楊は宿とした酒場を離れ、街の外れに居た。隣りにはサクラとフェイリス。見ようによっては姉妹にも見える。


「私はこの辺で。仕事があるし」

「あ、私もそろそろ帰るとするかな」

 

 歌の巡業があるらしいフェイリスに倣い、サクラもここで別れると言う。本音を言えば、このままスクライドに加担してくれれば助かる。けれど強制は出来ないし、何よりサクラが戦などには欠片ほどの興味も持てないと解る。


「サクラ、世話になった。本当にありがとう」

 

 改めて頭を下げると、含み笑いが聞こえる。嫌味なものではない。頭を上げれば心地良い微笑みが待っていた。

 サクラとフェイリスは同時に背を向ける。そして二、三歩歩いた所でサクラが何かを思い出したかのように振り返り、樹楊の傍まで歩を巡らせる。


「お願いがあるんだけど、いい?」

「何なりと。俺に出来る事ならな」


 じゃあ、とサクラは一度だけ俯くと見る者の胸を締め付けるような悲しい表情を向けてきた。


「頑張ったね、って……言ってくれる? そうすれば、また頑張れるから」


 その言葉が何を意味しているのかは解らないが、勘ぐる気もない。サクラがそれを望んでいるのなら、そうするまで。樹楊は快く頷き、目を閉じて心持を区切る。それから悪ガキのような笑みで歯を見せる。


「頑張ったな。お兄ちゃんは嬉しいぞ」


 勝手に台詞を変え、頭を撫でてやるといったオプションを付ける。サクラは驚いたように樹楊の手の下で目を開くが、それはやがて嬉しそうな悲しそうな笑みとなっていく。目にはじわりと涙が膜を張っていた。だが、それを樹楊に気付かれる事無く瞼で遮った。


 サクラは樹楊の腰に手を回して抱き着き、ぐっと身を寄せる。しかしそれも僅かなもので、ひらりと離れていった。


「ありがとう。けど、私の事は敵視してた方がいいよ?」

「何で? 助けてくれたじゃん」


 サクラは長い銀色の髪を耳に掛けると真っ直ぐに見つめてくる。フェイリスはその背を陰として目を伏せていた。


「私は……樹楊くんの命を奪うから。嘘じゃない」

「……へー。そうなんだ」


「へーって、それだけ? 何か、私の想像の斜め上を行く答えなんだけど。殺されるのよ? 嫌じゃないのっ?」

「そりゃ嫌に決まってるけど、今じゃないだろ? サクラには助けてもらったし、今更敵視しろって言われてもねぇ。殺されそうになったら改めて抵抗するよ、うん」


 呆気に取られるサクラの肩に手を乗せるのはフェイリスであるが、彼女も頭を抑えて疲れ切った顔をしている。


「こういう奴なのよ、こいつは。一々驚いてたらこっちの頭がおかしくなるよ」


 つつっと冷や汗を流しつつ頷くサクラだったが、再度樹楊を見ると楽しそうに笑い、今度こそ別れの道に歩き出す。手を振るだけの挨拶を互いに済ますが、フェイリスには中指を立ててやった。そしたら立てた親指を地に向けられた。が、最後にはやはり互いに手を振り合う。

 何だかんだ言っても、フェイリスは友達だ。それが素直に嬉しい。

 

 去っていった二人の姿を見送り、これからまた戦だと身を引き締めると、肩を叩かれた。振り向けばそこにはサルギナが居た。しかし表情がおかしい。何か軽蔑するような顔で目を細めている。


「おみゃーは色んな女に手ってを出しおってからに」

「は、は? 何の事だよ」


「ほー、惚けるかこのやろう。銀髪のねーちゃんと抱き合ってたくせに」

「あれは向こうから抱き着いてきたんだっ。俺がそうしたわけじゃねー」


「出た、モテ男の言い訳。どピンクの星の元に生まれた男は違いますなー」

「さっきから何言ってんだよ。つーか、何が言いたい?」


 サルギナは片眉を跳ね上げるが、にやん、と意地悪そうな顔を向けてくる。

 そしてぼそっと呟く。


「紅葉に言ってやろ」


 びし! っと石化する樹楊だが、サルギナの部下達は興味津々の様子で、特に顔に刺青を彫っている男が「どういう事ですかい、頭っ」と嬉々としている。

 サルギナは肩をすくめ、首を振る。


「ちょ、何の事だよっ?」

「おんや? それも惚けるのか? キーワードは『兵糧庫』なんだけど」


 脳裏にその時の記憶が鮮明に蘇る。

 あれは戦が始まる直前、紅葉を連れて兵糧庫にまで行った時の事だ。まさかあの場所での出来事を覗き見されていたとは。


「俺は人にチクる時、背びれやら尾びれを付ける癖があってなー。紅葉には何て伝えるのか自分でも想像出来ないんだよ」

「た、性質悪ぃぞ、サルギナ。確かに紅葉とはキスしたけ――」

「キス!? マジでかっ」


 どうやらカマを掛けられていたらしい。それに気付いた時には遅く、部下達も大喜びで騒いでいる。サルギナはますます笑顔をなり、嫌味なほど口角が持ち上がっていた。正直、殴りたいが実力が違い過ぎる。


「樹楊の旦那、どうでした? 戦の申し子と呼ばれた紅葉アゲハの唇はっ」

「どうって言われてもっ」


 暴れ牛のように興奮しまくるサルギナの部下に後退るが、間を詰められる。どうやら好みの話しらしく、目が輝いている。


「舌! ねじ込みやしたっ? そこんとこ詳しくっ」

「そ、そそそそこまで濃くやってねーよっ」

「じゃあ、乳はっ?」

「何もしてねーってば! ちょ、サルギナこいつを止めろっ。大体何しに来たんだよお前は」


 サルギナは判を押すように手を打つと、部下の襟首を掴まえて引き剥がす。その際に不満が囁かれたが、樹楊としては大助かりだ。最も、根源であるサルギナに感謝する気などありはしない。


「そーだ。えらい情報が手に入った。新鮮情報だ」

「どんなんだよ、そりゃ。俺に伝えるほどのもんか?」

「ああ」


 懐から煙草を取り出して火を点けたサルギナが煙を吐く。その染みついた仕草の一つ一つが格好良く、同時に大人の色香を漂わせている。

 サルギナは半歩ほど間を詰めると、耳打ちするように頬を寄せてくる。


「オルカがクルードを裏切った」


 すっと離れるサルギナは樹楊の見開いた目を直視し、軽く頷く。その真剣な瞳から、真実である事が容易に理解出来る。


「すると、紅葉が?」

「そうさせたのが誰なのかはまだ、な。でも倒したのは間違いなく紅葉だろう。その戦闘を見ていた部下から連絡が入った」


 吸われると燃えていく煙草の灰が地に落ち、風がさらっていく。背からは街のざわめきが届くが、耳には入らない。あまりにも予想外の展開に、正直、頭がついていかないのだ。


「それで、寝返ったのか?」


 極めて端的な質問に、サルギナは満足そうな顔を見せてくる。

 やっぱりお前はいい、と呟きながら。


「それも不明だ。スクライドに付いた、とは言えない状況だ」


 クルードを裏切ったからと言って、スクライドに寝返ったわけではない。そう察した上での質問にサルギナは嬉しかったらしい。

 しかし、これでは手放しで喜べる状況ではない事が解った。

 オルカは第三の勢力となった、というところだろう。いや、スクライド寄りの勢力? 違う。だが目的はきっとクルード王の首だろう。そうとなればスクライド側だが、どうも釈然としない。


「殲鬼隊はどうなった?」

「それも不明だ。何せオルカからの強制送信だからな。隊員の声までは拾えん」


「そっか。でもこれで状況は変わった。オルカの撃破による紅葉の存在感に加えて裏切りだ。士気が乱れないわけがない」


 やはり紅葉は強い。そして頼りになる。単独でクルードを大きく揺さぶったのだ。絶望的な戦に光を灯す、あの存在。樹楊は改めて紅葉を愛おしく思った。それが表情に出てたのか、サルギナが煙草を携帯灰皿に押し込みながら、


「お前はホント、恵まれてる」

「だな」

「それでも俺はチクるけどな」


 モテるのは俺だけでいい、とはサルギナの便。



 ◆



「……ふう」


 時代と人々に捨てられたビルの一室に、オルカの溜め息の音が鳴る。それは一つの区切り。幼いながらも築き上げた全てを裏切るという、人としてはあるまじき行為の決意だった。


「本当に良かったの? アンタは」


 自分から提案したとは言え、良い気分ではない紅葉が訊く。オルカは苦笑混じりに頷くだけだった。

 それきり何も口にしなかった二人だが、こういった重々しい雰囲気に慣れていないのかクレハだけがおろおろとしている。あの、その……と隣りでわちゃわちゃうるさいが、今は構っていられない。何せ、外には複数の気配がある。

 その気配は数え切れない。少なくとも、それらが繋がって大きな膜でビルを包むように存在している。オルカもそれに気付いているらしく、険しい瞳をしていた。


「その……首りょ、首領。首領? …………あう」

 わちゃわちゃ。


「早いわね」

 流石はクルードだ。決断も行動も早い。いくら裏切り者だとは言え、姫君だというのに。議論も何もなかったのか。

 オルカはこの素早い決断を知っていたのか、納得している面持ちだ。


「そうだね」

「もうちょっとゆっくりしてくれれば助かったのに」

「え? そうですか? ならば」


 コホン、と空咳を挟むクレハに妙案があるのかと期待をする。

 クレハは手をゆったりと前に突き出す。


「しゅーりょおぉぉぉう」

「そっちじゃない!」

「びゃ!」


 岩を木槌で殴ったような音がクレハの頭で鳴る。一瞬、クレハの目玉が飛び出た気がしなくもないが、まあ、目の錯覚だろう。

 クレハは頭を抑えてへたり込むと涙を浮かべる。


「早いっていうのはクルードの行動で、あんたの行動じゃないの」

「うぅ……クルードって何がですかぁ?」


 呆れた事に、これ程の殺気の塊に気付いてないらしい。

 紅葉はクレハの頭を撫でつつ、片目を閉じる。


「ここはもうクルードに囲まれているって事よ」

「え? ……え、ええっ? 早過ぎですよ、だってオルカさんが通達したのはついさっきですよ? 決断早過ぎです」


「あるいは、こうなる事を予想していた誰かが居るって事よ」

「首領……」


「そしてそれを言い聞かせられるほどの者が、この戦場に居るって事ね」

「首領が頭いいと変ですね」


 どうにもこうにも思った事を口にしてしまうクレハらしく、お決まりの拳骨でまた涙を浮かべる。まったく、学習してほしい。


「今だから言うけどさ」


 にこやかではあるが、只ならぬ雰囲気を背負うオルカに目を向ける。


「きっと国王はこうなる事を予想していた。そしてこの戦場に居る。アゲハちんの言う通りだよ」


 呼び名は引っ掛かるが、その事実は紅葉の顔を強張らせる。クレハは酷く驚愕するが、叫び声を上げる事などせず、開き掛けた口を両手で抑えて頑張っていた。

 紅葉は考えを巡らせるが、元々戦略に乏しい。結果良い案が生まれるわけがなかった。


 ぼりぼりと頭を掻き、取り敢えずこの状況を打破しようとオルカに向き直る。

 ボロボロの身体だ。言うまでもなく、戦えやしない。ここまで追い込んだのは自分だからよく解る。


「ね、オルカ。ここは――」

 どちゃっ……と、何かが落ちてきた。紅葉とオルカの丁度真ん中に。

 

 はい? と天井を見上げるが穴などなく、ひび割れが広がっている程度だ。次いで落下物を見れば、よくよく知る顔があった。


「れ、蓮」

「蓮ちゃんだね」

「ですね」


 紅葉にオルカ、クレハの順だ。

 蓮はオルカにも負けず劣らずのボロボロの身体だが、すやすやと寝息を立てている。手には魔光跡が握られており、淡い輝きを見せていたそれは徐々に光を失っていく。


「ったく、この子は本当に意味不明ね」


 確かあの時、オルカと戦っていた時に蓮はあの血色の霧を発動させていたはずだ。目に認められなくても、気配で解るあの禍々しさ。それが今は感じられない。そればかりか、本人には言えないが、常時蓮から発せられていた禍々しさが消えている。逆に神聖なるものになったと言えばいいのか、暖かみが感じられる。


 この短時間に何があったのか理解に及ばないが、

「きょー……くん、うにゃ」

 

 その寝言を聞けば、何となく納得してしまう。あの馬鹿は何時だって常軌を逸し、覆す男だから。


「オルカ、蓮を担げる?」

「うん、蓮ちゃんくらいならなんとか」


「なら蓮を連れてここを出なさい」

「でもっ」

「外の連中は任せといて。私を誰だと思ってんの?」


 オルカは唇を噛み締めると「……ごめん」


 悔しさからなのか申し訳ないと思っているのか。

 どちらでもいいが、ちゃっかり一緒に逃げようとしているクレハの襟首は掴んでおく。


「アンタも残る」

「ですよねー…………」


 ぶつぶつと小言を呟き始めるクレハがやけくそになっている。まあ、戦力的には信用に足りるから問題はないが。


「さて、と。もういっちょ暴れますか。クレハは突破口を見つけ次第逃げなさい。その後はイルラカを探し出して合流。オルカが教えてくれた事を伝えて、指示を仰ぎなさい」

「解りました。ですが首領は」

「さあ? 当初の目的は果たしたし、戦いながら考えるわよ」

「考えられるんですか?」


 無理ですって、と軽いノリで肩をポンっと、フレンドリーに叩くと紅葉が振り返ってきた。にっこー、とした笑顔にクレハはたじろぎ、


「え、えへっ」



 ◆



 クレハの目の前に広がるクルード軍の兵達。

 夕焼けに染まるも尚その黒い鎧の威圧感は変わらず、意識しなくても後ずさってしまうものがあった。

 

 隣りの紅葉は胸を張って長い刀を担ぎ、その視覚的な攻撃を真正面から受けている。

 その余裕はどこから来るのかと、クレハは常に思っている。

 少しでも恐怖を忘れたくて、紅葉に少しずつ肩を寄せていった。


 と言うか、状況が解っているのだろうか。

 目の前のクルード兵達は恐らく本隊だ。これまで相手にしてきた者達とは格が違う。対峙しているだけで肌がぴりぴりと痛み、向かい風は重い。

 数は目視で五十ほどだろう。今までの戦闘経験からすれば、その数は多いとは言えないが、質は量に勝る。下手を打てば、もしかすると……。


「クレハ」

 

 名を呼ばれ、ビクッと肩を震わせて横を見れば、紅葉は真っ直ぐに敵を見据えたままだった。その顔が凛々しく、見惚れてしまいそうになる。

 首領はそんな顔で何を言うつもりなのだろうか。

 ここに来て、逃げろだなんて言葉を期待するつもりなどない。願わくば、恐れを抱く自分の背中を押してくれる言葉を――。


 紅葉はやはり目を向けてくれる事はなく、向かい風に前髪を躍らせて薄紅の唇をゆっくりと動かす。その微かな動きに、心臓が跳ねた。

 返事をしなかったからか、紅葉はもう一度クレハの名を呟く。


「クレハ」

「は、はい」


「足踏んでる」

「うい?」


 暫しの熟考の末、理解に及んだクレハがそーっと下を見ると、踏んでいた。がっつりと紅葉の爪先を踏んでいた。


「す、すすすすすっすいまっせーん! わざとじゃないんですよ? ええ、わざとじゃ! 何て言うか、サルも木から落ちれば棒に当たって空を飛ぶと言いますかっ」


 なんだそのミラクルコンボのサル。


 気が動転しまくったクレハは紅葉のブーツを拭こうとするが、何故か老齢の職人のように唾をかけて、また慌てる。

 

「しゅ、しゅりょー……」

「や、もういいよ。これ以上汚されるのもね」


 遂には泣き出しそうなクレハに紅葉も折れたようだ。

 鼻をぐずらせながら立ち上がったクレハに、紅葉は何もなかったかのようにクルード軍に向かって歩き出す。その後ろをちょこちょこと着いて行き、紅葉が足を止めたところで自分も止まった。


「赤麗の紅葉アゲハだな?」


 正面に立つ中年の男が先に口を開けば、紅葉は肯定の仕草で応える。すると、男はこちらを威嚇するように見てきた。

 鋭い眼光と強き者の雰囲気にクレハが紅葉を盾にするように隠れる。


 男は鼻で笑った。

「今、俺達にはお前と争う気などない。やらねばならない事があるんでな。悪いがそこを退いてもらおうか。無論、お前の答えは一つしかない」


「一つ? ああ、そうね。解ってるじゃない」


 真紅の長刀を横に薙ぎ、闘気を膨らませる紅葉にクルード兵達が身構えた。


「邪魔をするのであれば、斬り捨てるまで」

「ここを通ると言うのなら、殲滅するまでよ」


 男が少しの間だけ紅葉を睨んだ後、手をかざすと後ろの兵達が各々の武器を構えた。紅葉も僅かに半身になり、臨戦態勢を整える。

 だが、クレハは恐れから構えられずにいた。その事を見なくても気取った紅葉が説くように言ってくる、目を合わせずに。


「ここで私達が負ければ、オルカが死ぬ。多分、蓮もね。クレハ、いい加減に甘えを捨てなさい。ここは戦場なのよ? 死にたくないのなら、戦いなさい。心配なんかいらないわ」


 ずっと目を向けてくれなかった紅葉が、ようやくこちらを見てくれた。

 夕陽に染まる優しい横顔、赤い髪、そして声。


「あんたが死ぬのなら、私が背負ってあげるから」


 心に寄生していた恐怖という鉛が崩れ、風に消えた。

 まるで麻酔のような鼓舞だ。そして勇気が湧いてくる。


 クレハは頷くと、正面を向いた紅葉の隣りに並ぶ。

 先程の臆病な仔犬だったクレハの変わりように、クルードの男が眉を跳ねさせる。が、有無を言わさず眼前の空間を手刀で縦に斬る。


 直後、クルードの軍勢が一斉に攻めてきた。


「クレハ!」

「はい、背中は護ります!」


 二人は放たれた矢のように突っ込むと、クルード兵に攻め込み、背を合わせるように立つ。不可視の円陣が二人を囲み、それがテリトリーとなる。

 紅葉は紅威を構え、クレハはポーチの中から出したガンレットを両手に装着する。


 雪崩のように攻めてくるクルード兵を迎え撃つが、やはり本隊と言うべきか。

 クレハは勿論、紅葉までもが苦戦を強いられていた。これが一対一であれば、紅葉の完勝になるのだろうが、多対一だ。


 それでも紅葉は戦争の申し子とまで畏怖された戦士であり、クレハはそんな紅葉と引き分けた過去を持つ。

 形勢はみるみる逆転していき、敵に距離を取らせるまでになった。戦闘開始時の立ち位置は、下がるどころか僅かに押している。


 その結果にクレハが安堵した瞬間、恐ろしいまでの寒気が背中を這う。

 反射的にガンレットでガードする動きを取るが、目に見えたのは真紅の太刀筋。

 ガードを中断して慌てて屈むと、刀を振り抜いた姿勢で止まる紅葉と目が合った。


 その瞳は先程までの暖かいものではなく、敵に向けるような光を帯びている。

 クルード兵達も、紅葉の唐突な行動に驚き、目を見開く。

 クレハも何があったのか解らず混乱し、音も上げれずにいると、紅葉が冷たく言い放つ。


「アンタ、何のつもり?」

「な、何がですか? 私、気に障る事でも……」

「私に死ね、とでも言いたいの?」



 紅葉はクレハのガンレットを睨み付ける。それでようやく言いたい事が解った。

 クレハは眉を下げるが、紅葉は引かない。


「力をセーブして、どうにかなる相手じゃないでしょ? アンタが死にたいなら止めないけど、そうじゃないのならいい加減にして。ここは戦場って言ったでしょ? アンタが躊躇う事で私が死ぬ。それだけならいいけど、この先、同じ事を続けたら確実に仲間が危険に晒される。もし言っている意味が解らないのなら、アンタを」


 紅葉の瞳に宿っていた殺意が爆ぜ、鋭い威圧感が押し寄せてきた。


「ここで私が殺す」


 生唾を飲み、一瞬怖気づくが、紅葉の言いたい事が解るだけに脅えているわけにはいかなくなった。クレハは立ち上がると、胸の前で拳を打ちつける。

 

 金属が砕ける音が響き、ガンレットが鉄くずに変わり果てた時、クレハの瞳には確かな決意が宿った。

 

「すみません、首領。ここからは本気でいかせてもらいます」

「ったく、勘弁してよね」

「はい。ですが、攻撃に全てを注ぐので……」

「背中くらい、自分で護れるよ」


 フッと笑う紅葉に笑みを返すと、未だに理解に及ばないながらもクルード兵達が好機とばかりに攻めてくる。

 

「とったぁ!」


 クレハの末路をその脳裏に浮かべたのだろう。

 打ち取った確信を得た顔で剣を振り下ろしてくる男だったが、その手は宙を舞ってた。竹トンボのように、くるくる、くるくると。

 次いで、腕の切断面から血吹雪。そして首が飛ぶ。


 双方の間を遮っていた血の幕が引くにつれ、クレハの姿がクルード兵達に見えてくる。クレハの目は冷たくもなく暖かくもない、まるで温度のない色をしていた。

 構えは素手を前後に広げ、腰を落とすという独特な構え。


「死にたいのなら、それもいいでしょう。私がアナタの死神となります」


 風のように、または穏やかな渓流の流れのような動きでクレハが移動し、素手で敵兵の鎧を切り裂く。掌底を当てれば、そこは陥没する。

 防御もまた流れる川のよう。ゆるゆると捌き、かすらせもしない。


 ガンレットはクレハの気術の拘束具だった。

 人を殺めたくないと胸に抱くクレハの戒めとして、存在していた。

 気を押さえこみ、腕力や技術のみで戦う為の装備であり、決して拳を傷めないようにという脆弱な心から得たものではない。護っていたのは拳ではなく、敵の命だったのだ。


 それが今は解放されている。

 紅葉の言葉によって。


 紅葉はそれを見て満足げに、そして自分の戦いに集中し始めた。

 しかし、二人三人と倒した頃、クレハを見て驚愕の表情を浮かべる。慌てて敵兵を退け、クレハに向かっていく。

 

 まさか紅葉が自分を止めに来るとは思ってもみないクレハは、力の全てを振るうべく、己が持つ最大の技を発動させる準備段階に移行し始めていた。


 目の前の敵兵の胸を軽く掌打し、そこに逆の手でもう一度。

 今度は重ねた両手をまたもや軽く打ちつけ、両手を腰まで大きく引いた。この時の敵兵は、風船のように宙に浮いて足をばたつかせている。


 これで後は気を巡らせた両手を一気に打ちつけるだけ、となった瞬間、浮かせていた敵兵が紅葉によって蹴り飛ばされた。


「首領っ、何をするんですかっ」

「それはこっちの台詞よ! アンタ『それ』を使ったら、私まで巻き添えになるでしょ! ホンットーに私を殺そうとしてるっ?」


 ……ああ、そうだった。

 夢中になっていて忘れていたが、放とうとしていた技の範囲は広かったんだ。いくら『後方』に居た紅葉でさえも、軽く巻き込んでしまう。

 

「てへっ」

「てへっじゃない! 二度も『龍に喰われて』たまるかぁ!」


 過去に紅葉を半殺しにした技が、今やろうとしていた技だ。あの頃は空腹で死にかけていた自分だったが、今は万全なのだ。本当に紅葉を殺めるところだった。


 紅葉は長嘆した後、警戒するクルード軍に向き直る。どうやらお疲れのようだ。

 

「本当に気をつけてよね? 仲間に間違って殺されたくないから」

「善処します」


 頭にたんこぶが出来た。



 ◆



 夕暮れに染まる断崖の川辺を、満身創痍のラファエンジェロが歩いている。

 左足首が折れている為、右手を岩壁に着いて身体を支えたいのだが右腕が折れている所為で、それもままならない。出来る事と言えば、雑な作りとなってしまった手作りの松葉杖を使う事くらいだ。

 骨折の箇所には添え木で応急処置をしたものの、所詮、素人のやる事だ。添え木を当てる箇所が正しいのかすらも解らない。


 それにしても、蓮のあの能力は想定外でありながら規格外だった。こちらの攻撃を一切受け付けず、それどころか干渉すらもしない。それならば本体を攻撃すればいいのだが、近付く事さえも出来なかった。


 それだけならいい。


 何なのだ、あの銀髪の女性は。

 突然キオウの胸元から現れたと思いきや、自らを死霊魔術師と名乗り、その術式をいとも簡単に操っていた。

 全ての術式の頂点だと言うのは解っていたが、あそこまでとは。

 そればかりか血の霧に触れていた。身体能力も計り知れない。


 そして……。

『空間』すらも傷付ける、理解不能な術。

 あれで蓮が沈んだのは納得出来る。あんな術、人が会得出来るものじゃない。


 ラファエンジェロは乱れた呼吸を正すべく、そして負担を掛けっ放しにしている右足を休めるべく、岩壁に背を預け、ずるずると座り込む。

 汗は止めどなく流れ、喉も渇いた。

 なりふり構わず川の水を飲みに行きたいのだが、その気力すらなくなっている。


 ここで目を瞑って少しでも休めば、後に効率よく動けるのは解っているが、そうも言っていられない状況になってしまったのだ。

 オルカの裏切りによって、クルードがそれを罰すべく本隊を動かしているはずだ。

 紅葉アゲハと戦って負けたのだろうが、そもそもあのオルカが負ける事など想像出来ない。


 紅葉アゲハとは、そんなにも強いのか……。


 こうして考えるとクルードが押されているようだが、負ける事はないとラファエンジェロは思っている。

 クルード本隊の個々の能力は殲鬼隊の個には劣る者の、猛者が揃っている。数も多い。

明らかにスクライド兵とは毛並みが違い、その上数でも勝っている。

 オルカの裏切りが、その本隊を動かしてしまったのだ。

 ぼやぼやしていると、状況が悪くなる一方だ。


 今は何が何でもオルカの元へ急がなければ。


 呼吸が整いつつあり、立ち上がろうかと思った矢先、上流からこちらに向かって歩いて来る者がいた。

 サラシを巻いて、レザージャケットをその上から着るその者は。


「久しぶり、ですね……ナーザ」


 今は一番相手にしたくない者、ナーザだった。

 ナーザは答えもせずに、双剣を抜いて目の前に立った。

 見下ろすその瞳には、憎しみと殺意がありありと浮かんでいる。


「ザマァねぇな、ラファエンジェロ。そんなにボロボロでオレに見つかるとはよ」

「全くです。いや、ホント」


 たはっ、と笑うラファエンジェロにナーザは眉一つ動かさずに見下ろしていた。夕陽を背にしている所為で顔に影がかかり、それでもその瞳だけははっきりと見える。


「どうだ? 命乞いでもしてみるか、このオレに」

「ええ、請えるものであれば是非」


 ナーザが奥歯を噛む音が風を切るように聞こえた。ナーザの顔は、怒りとも悔しさとも取れる色を浮かべている。


「ふざけろよ、テメェ。いつからそんな腑抜けに成り下がった! 命乞いなんざ、プライドの塊のようなテメェがする事じゃねぇだろうがよ!」


 その脳裏に浮かんでいるのは、過去の記憶だろう。

 確かに他人に命を請うくらいならば、舌を噛み切ってでも死んでやると思っていた過去があった。頭を下げるくらいならば、首を切り落とすまでと考えていた。事実、賊だったあの頃は、オルカに仕えるまでは人に頭を下げた事などなかった。


「時は人を変えるものですよ、ナーザ。もし見逃してくれるのであれば、いくらでも頭を下げます。靴を舐めろというのであれば、地に頭を擦り付けろと言うのであれば、その通りにします。私はどうあっても、生きなければなりません」


 明らかにショックを受けているナーザに、ラファエンジェロは続ける。


「もしアナタにその気がない、と言うのであればさっさと殺して下さい。勿論、抵抗はしますが」


「オルカってガキに仕えているうちにそうなっちまったってのか? でもよ、そのオルカに裏切られたみてぇじゃねーか。笑えるぜ」


「オルカ様が裏切ったのはクルード王であり、クルードの民や私ではない」

「王を裏切った時点でクルードそのものを裏切ったのと同じだろうが」

「違います。裏切った事実はそうなりますが、オルカ様は国民を第一と考えています。決して心は裏切ってなどいない」


「ココロだと? んなモン、誰にも見えねぇだろうが。それを国民にどうやって説明すんだ? 裏切った行為を棚に上げて、信じろとでも言うのか?」


「ええ、そうです。オルカ様の人徳はそれを可能にします。あの方がやってきた事は、裏切りという最悪な行動の果てでもそれを可能にさせるんですよ。そしてね、私にはオルカ様の心が見えます。しかし、傍に居ないこの状況では推測しか出来ません。だからこそ、いかなければなりません。ですから、ナーザ……見逃して下さい。全てが終わり次第、この命はくれてやりますから」


「断る」

「でしょうね」


 決して交わらない二人の意見があった。

 ナーザは剣を握り締め、ラファエンジェロは術式の展開に備えている。

 川の音がせせらぎ、夕陽は暖かく、風は心地良い。

 沈黙の睨み合いが続くが、風が瞬間的に強くなった事を最後に止んだ。


 そろそろ来るか?

 気を一層引き締めて迎撃に備えつつあったというのに、ふとナーザの瞳が悲しみに変わった。威圧感も薄れ、何がどうなったのやら。


「一つ、訊かせろ」


 目で応えると、ナーザは唇をぎゅっと噛む。それから辛そうな声音で訊いてくる。


「何で……裏切ったんだ? 何でオレは裏切られなければならなかったんだ?」


 ずっと心の奥に押し込んでいたのだろう。

 何故? 何故? 何故……。

 そればかりが彼女の心を巣くっていたのか。

 それを吐いた今のナーザが、とても小さく見えた。


「お前は確かに冷酷だった。けど仲間を裏切るような奴じゃなかった。それにオレはガキの頃から一緒だったろ。それにオレはお前の……恋人だったろ? オレ達の仲はそんなに軽いものだったのかよ!」


 やはり、ナーザは答えを求めていた。

 座り込んだまま動こうともしないラファエンジェロの襟首を、ナーザが荒っぽく引き寄せる。険しい形相で、しかし泣きそうな顔で。


「答えろよ!」


 ラファエンジェロは抵抗する姿勢を見せず、ぽつりと呟く。

 それは、蚊の鳴くような声。


「私は、裏切ったつもりなどなかった」


 ナーザは目を見開いて驚くが、言葉の意味を解し、それが逆鱗に触れたのか歯を食い縛って目尻を痙攣させる。


「本当なんですよ。オルカ様の隊に敗れた時、私は仲間達を全て失ったと思い込んでいました。いくら探しても見つからず、風の噂でも私の仲間達が全滅したと聞きました。遺体も見つからない。アジトにさえ、誰もいない。待っても待っても、帰ってきてはくれませんでした。だから私は、せめてオルカ様だけはこの手で、と思ったんです」


 自分の手の平を見て、それからぐっと握り締める。怒りに染まりきっていたナーザだったが、今は聞き入るように耳を澄ましている。

 最後まで聞く気になっていると判断したラファエンジェロは、当時の事を思い出すかのように語り出す。

 

「復讐に出向いた私ですが、敵いませんでした。でも殺そうとしないんですよ。だから私はまた復讐にいった。それでも負ける、の繰り返しでしたが、何度目だったでしょうか。いつものように戦いを挑みに行った時、オルカ様は街に繰り出していました。流石に街中で暴れるわけもいかず、期を待とうと後を着けていたのですが、ふと目に留まる光景がありました」


 オルカは街の人々に話しかけていたが、ことごとく避けられ、その小さな背中に後ろ指を差されてもいた。見る目は畏怖と恐怖。歩く道に人はおらず、皆が皆避けていた。それでもオルカは笑顔を崩さず、人々に話しかけていた。


 そんな中、一人に子供がオルカ向かって人殺しと叫んだのだ。

 どうやら父親をクルード兵に殺されたらしく、オルカはその怒りの捌け口にされたようだった。

 その子供の母親は慌てて謝罪したが、オルカはやはり笑顔のままで気にしない様子を保っていた。その笑顔が偽物なのは、見て解った。


「それから川の畔まで行き着いたオルカ様でしたが、突然膝を抱え込んで泣き出すんですよ」


「それで同情したってのか?」


 ナーザが口を挟んでくるが、首を振って否定した。


「まさか。悪政を貫く王の娘としては当然の結果だと、馬鹿なガキだと思っていましたよ。訊けば、城内でも兄弟からの苛めに合っているらしく、辛いと泣きながら教えてくれました。良く見れば、腕や顔に痣がありましたね。いくら武に長けていても、兄や姉には抵抗しないようで、されるがままのようでした」


 ナーザは腑に落ちない顔をしている。ならば何故、オルカの元に着いたのか解らないのだろう。それもそのはず。まだ核心に入っていないのだから。

 ラファエンジェロは深い溜め息を吐き、岩壁に背を預ける。すると、ナーザの手が離れた。


「オルカ様に着いた理由の一つはですね。オルカ様は私の仲間達の遺体をクルード領内のとある墓地に埋葬して、時折お参りに行ってたんですよ。私の仲間達だけじゃない。オルカ様が殺さざるを得なかった者達の墓を、一人ずつお参りしてました。今でもそうです。最低月に一度は花を添えに行ってます」


 オルカは夢の道を歩む為ならば、いかなる犠牲をも問わないが心を痛めている。だからせめてもの償いとして、自分の犯した罪を忘れないようにと墓に赴いているのだ。


「優しい子供だと思いました。こんな乱世の中、任務であるが故に抗えない殺人を完全なる罪と感じているんですから。勿論、それで許せるわけもなかったのですが、オルカ様はその墓地で私に言ったんです」


 ボクは王になる。

 王になってこの世界を変えたい。

 生まれてきて良かったと、みんなに思って欲しい。感じて欲しい。

 それでみんなと笑い合いたい。

 そんな世界をボクが望む。

 だから――。


「手を貸してほしい……そう言ったんですよ」

「それだけでお前は――全てを許したってのか!」


「そうです」

「そうですだと? テメェ、ふざけんのもいい加減に」

「ナーザ」

 

 ラファエンジェロが遮るとナーザは言葉を切ったが、拳を強く握り始めた。


「私達が一番恨んでいたのは何か、憶えていますか?」

「……時代だ。こんな時代に生まれ堕ちたばかりに、オレ達は棄てられた。戦災孤児って言や聞こえがいいが、オレ達が味わった屈辱はンなもんじゃねぇ。オレ達はクソみてぇな大人の為に食糧を奪って、ボロクソにぶん殴られ、その食糧すらも奪われる。喰いモンって言や、木の根や良くてネズミだ。そんな中だからこそ、奪う側に回ろうと誓ったんじゃねぇか! 生きて生きて生き延びて! ずっと力を合わせてやってきたんじゃねぇかよ!」


「その結果が、軍による制圧です。私達は死に向かう道を歩んでいたんです。人々を容赦なく殺し、奪い、憎しみや悲しみだけを残してきたんです。そんな私を、何故殺さなかったのか今でも解りませんし、答えてもくれません。が、小さな身体で世界を変えると言ったオルカ様はとても大きく見えました。兄妹に虐げられ、人々に畏怖され、それでも負けないと言えるオルカ様がとても強く見えました。これは私の誓いと願いと、賭けなんですよ」


 この世界をより良いものに変えると言ったオルカへの。

 自分が味わった屈辱が拭えるくらい、素晴らしい世界を作り出せるのならば、どんなに素晴らしい事なのか。


 口にはしなかったが、オルカに仕える事が贖罪でもあった。

 自分が犯した過ちが清算出来るとは思ってもいないが、賊を続けて禍根を生み出すよりはずっと良い事だと思った。


「ナーザ、私はアナタが生きている事を知った時、嬉しかった。ですが、アナタのその性格ではその時の事を受け入れは出来なかったでしょう。全てを奪われたと思い、オルカ様に牙を向く。そうなれば死んでいたかもしれません。それだけは避けたかった。折角助かったのですから、生きていてほしかった。これは本心です」


「ふ、ざ……けんな。オレがどんな思いで今まで生きてきたと思ってんだよ」


 語気が弱々しい。戸惑っているのが火を見るよりも明らかだ。


「生きているじゃないですか。それに笑えている。闇市で浮かべるあの笑顔、とても素晴らしいものです。賊の真似事をやっていた時では決して見せてはくれない、楽しそうで充実した笑顔です。アナタは既に、新しい道を見つけたんですよ」



 何かを喋ろうとしたナーザだったが、首を振ると歯を食い縛って立ち上がる。

 腰に携えている双剣の一本を抜くと、強く握り締めた。


 ◆



 太陽が海の向こう側に沈んだのはもう数時間も前の事で、今や青黒い空が世界を覆っている。そんな中で一度ミミズクが鳴けば、闇夜独特の重圧が身体に圧し掛かる。


 樹楊は夜空を背に、崖の突起に立って下方を見下ろしていた。

 薄暗い林道を、蓮を担いだオルカが歩いている。

 

 サクラが言った通り、蓮もこちらの世界に帰ってきているようで安心したのだが、オルカの事が気掛かりだった。

 夜道を必死に突き進んでいるのだが、辛そうである。

 呼吸は荒く、時折膝を着く場面もあった。


 そんなオルカに手を貸そうかとも思ったが、状況が不明だ。寝返った、いや、裏切ったとの情報はあるのだが定かではない。情報源がサルギナであるからこそ信憑性は限りなく高いのだが、用心するのは悪い事ではないのだ。


 いくら満身創痍であっても、オルカとの力量の差は明白であり、不意を衝いても勝てる気がしない。蓮を担いでいる意味もよく解らないし、訊くにも――……。


「困ったモンだ」


 思わず声にする。

 オルカは樹楊の呟きに気付く事もなく、ひたすら歩き続けている。そして何度目かの転倒を見せた時、樹楊も流石に良心を傷める。


 敵に情を掛けるのは愚かしい事だと解ってはいるのだが、やはり妹である事が頭のどこかにあるのだろう。イマイチ非情になりきれない。


 仕方ない。


 溜め息を一つ。

 何かあったらその時考える事と決めると、丁度真下に来たオルカに声を掛けようと軽く息を吸った。だが、その時になって遠くからの気配に気付く。


 樹楊は地に寝そべり、オルカの進む先を見る。オルカも気付いたようで、足を止めると林の中に蓮を隠す。サバイバル経験が豊富なのか、手際が良く、余程の事がない限り見つかりはしないだろう隠し方だ。

 オルカは近場の岩に手を掛けると、身体を支えながら迫り来る者達を見据える。

 

「チッ……最悪だ」


 舌を打ったのは樹楊だ。

 オルカは迫り来る真影隊を見据え、荒く刻む呼吸を整えている。

 そして充分な間を取ったまま、真影隊は歩みを止めた。その中から、王が、樹楊とオルカの父親が姿を現す。

 オルカは気付いていないようだが、もう一つ、気配がある。その気配の断ち方が玄人であり、薄らとしか感じ取れないが。


 クルード王・ギレオンはオルカを見下ろすような目付きをすると、鼻を鳴らす。


「本当にお前が私を裏切るとはな。愚かだとは思っていたが、ここまでとは」


 オルカが視線を移す先には、ラファエンジェロお抱えの魔術師達がいる。樹楊の記憶によれば、ジュエン……という名の魔術師も。

 随分前に、キラキも樹海でミゼリアやミネニャと共に戦った相手だ。


「本当に……って言う事は、大分前から知っていたみたいだけど? まさか内通者がいたとはね」


「すみません、オルカ様。しかし、全てはクルード王がため。悪く思わないで下さい」


 フードを深く被るジュエンの声音は淡々としており、少しも悪びれた様子などない。クルード王に服従しているのだろう。


「オルカよ、お前は私の愛娘だ。今ここで真の服従を誓うのであれば、その命――」

「嫌だね」

 

 舌を可愛らしく出したオルカは続ける。


「ボクは誓った。例え進む道が反逆者としての末路だとしても、ボクは信念を曲げるつもりなんかない。ここが最後だとしても、ボクは!」


 オルカは腰のホルダーからサバイバルナイフを抜き、構える。


「アンタに屈しない!」


 力を振り絞って突進するオルカだが、紅葉から受けたダメージが身体に残り過ぎている。動きが鈍い。

 それを真影隊の長であるヒドウオが制する。


 オルカは地に叩きつけられると、両手を後ろに取られた。そして無理矢理起こされると、首を落としやすいように両膝を地に着かされる。


 そろそろ出番か。

 そう思うが、勝機などなく、それでも行かなければならない状況に樹楊は身体を起こす。のだが、この場に一人の者が姿を現し、樹楊の出番を横取りする。


「よぉ、待てよ」

 

 僅かだが傷を癒す事が出来たスイである。

 スイの出現に真影隊の面々は警戒するが、ヒドウオは顔色を変えない。反して、オルカの顔が泣きそうに歪められる。罰が悪い顔だ。


「殲鬼隊のスイだったか。何しに来た?」


 ヒドウオが尋ねれば、スイは歩みを止めてオルカを睨み付ける。


「オルカ様は私の上官だ。最後くらい、私の手で終わらせたい」


 ヒドウオは暫く黙してスイの目を見据えた後、傍に居た部下に剣を渡すように促す。クルード王も頷くだけの許可を与えた。スイは剣を受け取り、オルカの元へ。


「何か言う事はあるかよ、オルカ様」

「……っへへ、ないよ。スイの手で終わるなら本望だから」


 スイが柄を握る手に力を込めた。歯も食い縛っている。

 その様子に樹楊はスローイングナイフに手を伸ばしたが、今一度、躊躇う。

 スイの様子が、どことなくおかしいのだ。


「……んでだよ、何でなんだよオルカ様! 何で私達に何も言ってくれねぇんだ!」

「スイ……」


「テメェはガキだろうが! ガキならガキらしく、助けてって言えばいいじゃねぇか! そんなに私達が頼りねぇのかよ!」


 スイの目には薄らと涙が浮かんでいる。鳴き声のような叫びに、ヒドウオは腰の剣に手を伸ばす。そしてオルカはというと、下唇を噛んだまま地に視線を落としていた。


「ごめん、スイ。ごめんね」

「私が聞きてぇのはそんな言葉じゃねぇ!」

「ごめん……それしか言えないよ」


 スイは眉を下げ、ぐっと唇を噛む。肩に釣られて震える手に握る剣を天に向ける。いよいよオルカの処刑とばかりに。

 オルカは安堵したような、それでいて申し訳なさそうな表情を浮かべると、ようやくスイの目を見た。


「ごめんね? 損な役をやらせて」

「ふ……ざけ、んなっ。ふざけんなよ! 何でそんな眼ぇすんだよっ。夢はどうしたんだよ! 諦めんのかっ?」

「もう……見られないよ。その夢は託す事にする」


 堪え切れなくなったのか、あれほど気丈なスイの目から大粒の涙がこぼれ始める。ボロボロと、本人の意思に反しているのだろう涙が止めどなく。


「……私達はアンタが何度も、何度も何度も口にすっからその気になったんだ! ガキみてぇな叶えられそうにもねぇ夢を、アンタが嬉しそうに言うから着いてきたんだよ!」


「スイ、ボクは」

「るせぇ! 諦めちまうような夢なら何で語ったんだ! 何で私達の手を引いたんだ! 期待させんじゃねぇよ! あんなに幸せそうに言うから、柄にもなく夢見ちまったじゃねぇかよォ!」


 喉が切れるような叫びで、所々声が裏返っていた。

 この叫びがスイの全てなのだろう。しかし、オルカは何も言わずに再度目を地に落としているだけだった。

 スイは悔しそうに歯を食い縛ると、突き上げていた剣をオルカの首に目掛けて振るうが――オルカの声――。


 ――助けてよ、スイ。


 ビタッと、剣が止まる。

 オルカは子供のように泣きじゃくり、スイを見上げた。


「助けてよ、スイ。ボクはまだ死にたくない」


 その言葉に、スイと樹楊が不敵に笑う。

 スイは素早く剣の角度を変えると、オルカの腕を掴む者へ斬り掛るが避けられる。

 ヒドウオが剣を抜くが、それよりも早くオルカを抱いて距離を取ったスイが涙を拭ってオルカの頭を撫でた。


「ったくよ、言えんじゃねぇか。ガキっぽい事」

「スイ……スイっ」

「っはは。レアもんだな、こりゃ」


 剣を投げ捨てたスイは鉄扇を両手に構え、紫電を走らせる。それにはオルカさえも驚愕の表情を浮かべていた。


「殲鬼隊……スイ・リジッティア。ここに反逆の意を表明する」

「ほう、武器に魔術とは。変わり種だな、貴様は」

「そうか? スクライドには私よりも優秀な戦士がいるぞ?」


 ミゼリアの事だろう。

 その事を誰でもない、スイに褒められて樹楊は嬉しかった。そして今が姿を晒す時だと信じて止まない樹楊は、勢い良く立ち上がる。


「待ちやがれ!」と、元気良く現れたのは、

「ツ、ツキ。何でここに……」


 翼を大きく広げたツキが、真影隊とスイの間に割って入った。

 ツキは鷹の目を嬉しそうに綻ばせると、人差し指で鼻を擦る。


「スイのねーちゃんの後を着けてきたんだっ。何か役に立てると思ってさ」

「お前……。バッカヤロウ、真影隊を相手にお前なんか何の役にも立たねぇよ」


 そう言うスイの顔は嬉しそうで、何が何だかのオルカはきょとんとしている。そして新たな敵、しかも獣人目の出現に真影隊や魔術師達は警戒を強めた。中でも、魔術師にとって獣人目は天敵中の天敵だ。


 そして、樹楊は。

「あ……れぇ? 出番、取られた? おかしいな。ははっ……おかしいぞ、これ」


 救世主の役をまんまと横取りにされて、強風に髪を遊ばれている。既にいらない子と化している樹楊だったが、そうも言っていられる状況ではない。

 ツキ一人では、スイが言うように何の役にも立たないからだ。

 ツキの実力は未だに発展途中であり、強者を前に策を練られる頭もない。つまるところ、状況は好転していないのだ。むしろ放っておけば死者が増えるだけで、ツキは余計と言える。


 樹楊は溜め息を吐くと、機械弓を取り出して狙いを真影隊に定める。

 黒い幻糸を目一杯に引いて放たれる矢は五本。

 それぞれが真影隊に向かっていくが、やはりと言うべきか流石と言うべきか、何なく弾かれてしまう。が、既に放った別の矢がジュエンを残した他の魔術師達の命を奪う。


「誰だ? 降りて来い」


 落ち着いた重みのあるヒドウオの声に、樹楊は従って崖の突起から飛び降りる。その途中で一度だけ回転すると、羽のように軽やかな着地を決めて見せた。


「誰だ? って、気付いてたくせによォ」

「フン……。やはりお前か」


 未だに状況が理解出来ていないツキやスイ、そしてオルカに向かって肩越しではあるが振り返って笑みを見せてやる。


「よっ。お待たせ」


「お前まで……」と、スイが嬉しそうに口にし、

「兄さん……」オルカは涙を浮かべ、ツキは。


「兄ちゃんっ、助けに来て……って、何で恥ずかしそうなんだ?」

「ばっ、そりゃお前、タイミングがな、ホレ。その……」


 頬を掻き、顔を赤らめるがツキは首を傾げる。

 まあいい、と樹楊はヒドウオや父であるギレオンに向き直ると犬歯を覗かせる凶暴な笑みを貼り付ける。


「まーた会ったな。クソヤローが」

「拾った命を捨てに来たか。愚かな奴だな、名も知らぬスクライド兵よ」


 その声にオルカは眉根を寄せるが、樹楊は馬鹿馬鹿しそうに鼻を鳴らすだけだった。その余裕ぶりに、ヒドウオが眉を跳ね上げる。


「いくら俺でも状況ってモンは理解出来る。ここは退くべきってな。荷物抱えたまま戦う気なんてねーのよ、俺はね」


「この場から逃げられるとでも? 生憎、その気はないのだがな」

「まあ……無理っぽいのは解ってんだけどね」


 そう返す樹楊の顔には、何故か余裕が貼り付いていた。


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