第五十章 ~休息~
紙が捲られる渇いた音に樹楊が目を覚ます。
大戦が始まってからというもの、警戒心をゼロにして寝た事が無い樹楊は、意識をまるごと眠りに預ける深い闇からの覚醒にはある種の恐怖を抱く。
一体どれほど寝ていたのか。戦はどうなった? そもそも、今何処に……。
「おはよ。と言っても、半日も寝てないけどね」
声がした方向には本を手にするサクラが椅子に座っており、卓上に設置されたライトの淡い光に横顔を照らされている。銀色の髪がオレンジに染まり、表情に柔らかさを与えられていて、心が安らぐものがあった。
同時に、サクラの言葉に一先ず寝過ぎていない事に安心を覚える。それは兎も角、今、最も気になっている事があった。
「蓮ってコも帰ってきたみたいよ? 姿は見てないけど、気配で解ったから安心して」
どうやら表情にも出ていたらしく、サクラがその事を予想するのも簡単だったようだ。
その言葉をサクラ以外の誰かから聞かせられたのであれば「安心できるか」とでも喰い付いたのだろうが、彼女の言葉には妙な説得力があり、不思議と、それでいて素直に安心できた。
次に気になってる事だが、見渡せば答えは容易に解る。
広くも狭くもない部屋にベッドが二つ。そのベッドに挟まれる備え付けのテーブルと椅子。ここは何処かの宿だろう。
それにしても……。
密かに視線を向けられたサクラはそれに気付き、微笑む。それすらも絵になっていた。
「そう言えば、アンタの名前は?」
「サクラ。で、アナタは?」
「樹楊、ってんだけど。名前、知らなかったのか? 何やら俺を探してたような事言ってたけどさ」
「ああ、それはこっちの一方的な事情だから気にしないで。今の樹楊くんには関係ない事だし」
今の……?
それが気になったが、言うべき事は他にもあった。本来であれば、一番最初に言うべき事であった。それが解らない程愚かではない樹楊だから、内心、自分が情けなかった。
樹楊はベッドから身を起こすと、サクラに身体の正面を向ける。そして深々と礼をした。
「ありがとう。すげー助けられた。本当にありがとう」
きょとん、としていたサクラだったが、次第に笑みを含まる。
「どういたしまして」
そこで頭を上げた樹楊は、今一度サクラを見る。
神に愛されているとしか思えない、その美。線も細く、無駄のないスタイルだ。鋭くも知的な瞳には、手に持つ本が良く似合っている。
「本、好きなのか?」
「まあね」
でも、と前置きし、サクラは広げた本の背を見せてくる。
「これ、エロ本だけど」
しかも表紙から察するに、どギツイ内容の本だ。コアでマニアックで、男の樹楊でさえも石化するような内容の。
「いやー、男って解らないわー。樹楊くん、えげつないのね」
「俺のじゃねー!」
どうやらその本は樹楊が座っているベッドの下にあったらしく、暇だったので読んでみたとの事。いくら暇でも樹楊はその本を手にしようとは思えない。
ちなみに、同じ類の本が二冊ほど樹楊の圧縮ポーチに忍ばされている。それは、あまりにも暇だったサクラが、見つけた『どギツイ本』をいそいそと忍びこませた結果であって、樹楊の意思ではない。
内に秘めるサクラに対しての評価が変な方向へと下がる。てっきり解読不可能な古書やら文豪の書いた小説などを呼んでいるのかと思えば、よりによって思春期男子が好む本だとは。まあ、親しみやすくなったと思えば評価は上がっているのだが。
ったく、お前は。
呆れる樹楊だが、サクラは嬉しそうにしていた。
それもそのはず。
あれだけの力を見せつけ、ネクロマンサーという事を少しでも考えれば、樹楊の接し方は特異と言えよう。その他大多数は畏怖なる眼を向けるか、縮こまるか。そうじゃなければ崇拝するような目を向けるのだ。しかし樹楊とくれば、まるで気兼ねのない友のよう。
そこが樹楊の変な性格の一つだ。
敵か味方か。それだけで樹楊の態度は変わる。
サクラは本を閉じると、淡く微笑んだまま目を見つめてくる。
何だよ、と返すも微かに首を振って、やはり見つめてくる。
見られること自体恥ずかしく思う樹楊ではないが、そこまで見つめられると流石に照れてくる。しかも相手は神話の世界でしか語られないような絶世の美女なのだ。
歳は、いっても二十歳ほどだろう。見れば見る程にその美しさが目に残る。
綺麗な目だな……。
サクラの中でも最も印象的なのは、その瞳だった。英知を得たように知的でありながら、野望を叶える為なら手段を問わないような残酷なまでに鋭い、その瞳。その瞳が今は、柔らかい弧を描いている。
どれだけ無言の時を共有したのか。
やっとの事でサクラが動いた。
樹楊の隣りに座ると、首を傾げるように顔を覗きこむ。
「ねぇ、一つだけお願いがあるんだけど……いい?」
「世話になったし、いいけど……俺に出来る事なんてあんのか?」
「まあね。きっと樹楊くんしか持ってないモノだから」
自分しか持ってないモノ?
イマイチ解りかねる言葉に疑問を感じていると、サクラが顔をにっこーっとさせる。完璧に作り笑顔だ。泣く子供を嘘の笑顔で安心させようとする、狡猾な大人のする笑顔だ、それは。
何かとんでもない要求をされるんじゃないか、と思えば、その通りだった。
サクラが言葉にしたのは。
「樹楊くんの魂を見せてくれない?」
「た、たましー? それって、あの……何かこう、怪談話で出てくる火の玉みたいな?」
「まあ、世間ではそう思われてるんだけど、本当は違うのよね」
ずずっと引き下がる樹楊の手を、がしっと掴むサクラ。
どうやら逃がす気はないらしい。身体も寄せてくる。
「み、見せれるモンなのか、それは」
「うん、そうよ。って、ごめん。もう掴んじゃってるんだよね」
え?
首を傾げる前に視線を下げると、サクラの手が鳩尾辺りに突き刺さっていた。どう見ても手首まで刺さっているのだが、不思議と痛みはない。だが初めて自分の身体に手が刺さっている事に軽く混乱する。
「ちょい待て、どうするつもりなんだっ。つーか、手が刺さっ、ええっ?」
「どうするも何も、魂を引っこ抜くだけよ」
「死ぬだろ、抜いちゃダメだろっ」
「死なないよー………………多分」
さっと目を逸らして最後の方は殆ど呟きだ。
サクラがやる事はどれも常軌を逸していて、手を身体に刺している所までは何とか理解してやれるが、魂を抜くなんて事はしないでほしい。しかも、多分死なないって無責任にも程がある。
一か八かで殺されかけている樹楊は顔面を蒼白に染め、抵抗の姿勢を取っていた。そんな樹楊から魂を引っこ抜けない事に不満なのか、サクラは小さく唇を尖らせていたが、思い立ったように弾けんばかりの笑顔を見せてくる。
ずいっと身体を寄せてきて密着。そして頬と頬が微かに触れあう。背中には手が添えられていて、軽く撫でられると心地良い鳥肌が立った。
「ちょ、しゃくら? 何を、お、おおお俺には心に決めた人が……」
「そ。略奪愛ってイヤラシイ響きじゃない?」
「りゃ、りゃりゃりゃく? ちょ、へ? 何が、うえ?」
サクラの柔らかい唇が首筋をなぞると、濃い媚薬に侵されたかのように頭がくらくらしてきた。紅葉を裏切ろうと思っているわけではない。その証拠となるか否かは判別が難しいが、樹楊は力の入らない身体でも逃げようと必死だ。だが、サクラという媚薬はそれを逃そうとはしない。
あまりにも甘美過ぎる一時に樹楊の頭が働く事を止めた時、
「てい」
サクラの声が耳を刺激し、身体から何かが抜けた。
◆
樹楊の身体から引き抜いた魂を、サクラは懐かしそうに目を細めて眺める。
手の平に収まるほどの大きさで、多面積の立方体で水晶のよう。ただ、世にも珍しいエメラルドグリーンの輝きをしている。だがその輝きこそが、サクラの探していたモノの証拠となっていた。
「やっと……みつけた」
思わず言葉にしてしまうほど、心に安堵と歓喜が広がる。誰かに問う事もなく探してきた魂が、ここに。
「魂ってそんな形してんだ。てっきり火の玉みてぇなモンだと」
弾かれたように振り向く先には、初めて見るだろう魂を興味津々といった様子で覗きこむ樹楊の姿があった。その事に、サクラは素直に驚く。動けるわけがないのだ。ヒトという脆弱な塊を動かしているのは魂だけなのだから。
「な、何で? 樹楊くん、何で動けるの?」
「は? 何で、って。別に痛みとかはなかったし。…………って、俺、死ぬの?」
一気に顔を青ざめさせた樹楊は自分の身体を念入りに確かめ、呼吸が出来る事に溜め息を吐く。脈拍を測ってもいた。
しかしサクラは未だに混乱している。
蓮を封じたはずの術式から抜け出てきた事で、常人とは違う何かを持っている事は解っているが、探してきた魂の持主である事はそれに関係ない。だから、特別な存在と認識はしていたのだが、原動力の核とも言える魂を抜かれてまで動けるわけがないのだ。
サクラは問いかけてくる樹楊の言葉を耳にも入れずに、脳に刻まれてきた経験を高速で蘇らせる。すると、呆気なくそれは見つかった。そしてそれはあまりにも遠い過去で、思い出したくもなかった一つの思い出。
「樹楊くん、ごめん」
断りを入れ、その返答すらも待たずに再び樹楊の身体へと手を入れる。
深く、もっと深く。この魂があった場所に、それはあった。指先が触れると、それは拒むかのように抵抗し、電流にも似た刺激をしてくるが構わず掴む。その感触が不快で堪らない。
そして、それを引き抜くと今度こそ樹楊はベッドに倒れて動かなくなった。死んでいるわけではない。仮死、というわけでもなく、ただ、一時的に人間ではなくなっただけで、何も問題はない。それよりも問題なのは、新しく掴んだ魂にある。
「まさか、双魂の持主だとはね。しかもよりによって……」
左手で暗色に輝く、樹楊の魂は禍々しいものだった。過去に一度は見た事があるけれど、やはり目に慣れるものではない。出来ればこのまま壊したいが、それをすれば樹楊は死んでしまうだろう。何よりも、探してきたエメラルドに輝く魂も、未だ成長途中なのだ。主たる樹楊が死すれば、この魂も消えてしまう。それだけは避けたい。
今にも破壊されそうな暗色の魂はサクラの手の平の中で、嘲笑っているかのようだった。負の象徴でもある、この魂。
「また、会ったわね」
精一杯の皮肉を込めて言い放つと、また手の平を刺激してくる。壊せるものなら壊してみろと、しつこく。
サクラは泣きたい気持ちを堪え、エメラルドの魂を樹楊に戻す。だが樹楊が動く事は無く、暗色の魂の方が樹楊の身体の主導権を握っている事が改めて解った。それを確かめ、心を落ち着かせると、サクラだからこそ破壊出来ない暗色の魂を睨み付ける。
そして、人差し指をそれに侵入させる。これが本当に負の魂であるかを確かめる為に。
「樹楊くん、本当にごめんね? アナタの過去……覗くよ」
瞳を閉じ、神経を集中させる。音は閉ざされ、サクラは樹楊の記憶の奥深くへと侵入する。幼少時から始まるその記憶はサクラの中で映像化され、高速で流れていく。が、少年期に差し掛かった時、サクラは記憶を覗きこむのを止め、慌ててトイレへと掛け込む。そして嘔吐した。
瞳は虚ろに揺れ、呼吸が乱れに乱れる。自分がサクラである事を確かめ、激しい胸の動悸をようやく抑え、やっとの事で深い呼吸を得る事が出来た。
人の記憶を覗きこむ事自体に危険はないが、どうしても自身に投影してしまう。己が経験してしまったかのように感じてしまうが、強靭な精神力の持ち主である事を自負しているサクラにとって、何の危険性もないと判断していた。だが樹楊の経験はあまりにも酷いものだった。常人には耐えられるわけもない、過酷な経験を樹楊は積んでいた。
だからハッキリと言える。もしそれが自分であれば、間違いなく自害していると。
サクラはベッドの上に浮遊している魂を手に取ると、壊したい気持ちをやはり堪え、樹楊の身体へと戻す。その時に、どうしても手の震えを抑える事が出来ない。出来れば、戻したくないのだ。ここで樹楊を殺すのも、万人が認めるだろう慈悲となるのだから。それでも、やはり自分の目的を優先させてしまう。
魂が戻った事により樹楊は目を覚まし、何事もなかったかのように身体を起こす。その際に何かを訊かれた気がしたが、何て答えたのかは解らない。けれど、樹楊が納得した表情をしているという事は、変な回答にはなっておらず、受け答えとしては不自然ではなかったのだろう。
「――って、事で飯でも食いたいんだけど」
ようやく、サクラの意識が暗闇の底から返ってくる。動揺もない。
「それなら、下の階に大食堂があったけど。酒場も兼ねてるみたい」
「ふーん……酒、か。いやいや、今は酔ってる場合じゃねー」
「いいんじゃない? 少し酔った方がよく眠れるよ?」
「でもここでのんびりしてる暇は」
「少しくらい休みなさい。ヘロヘロだったじゃない。あれじゃ何の役にも立てないわよ?」
格が違い過ぎる、それこそ雲の上のような人に言われたからなのか、それともアルコールにありつきたいからなのか、樹楊は素直に頷くと満面の笑みで歩を弾ませて戸口まで行く。
「サクラも飲もう」
「ん……。後から行くから、先に行ってて」
「おう。絶対来いよな。礼も兼ねて驕るから」
子供のように顔を綻ばせる樹楊に、悪いと解っていながらも訊く。
「さっきさ、アナタの過去を覗かせてもらったけど、酷いものだった。だけどアナタは今こうやって笑ってる。何で笑えるの?」
樹楊はプライバシーを侵害された事に腹を立てる事もなく、腕を組むと首を傾げて思案する。記憶を覗かれる事は何となくだが予想していた、というような事を口にしてはいたが、サクラの求める言葉はその先だ。
樹楊は深く、それでも時間をあまり掛けずに答える。
「まー、親父はあれでも二人目が生まれる前までは優しかったんだ」
それは見た。確かに、樹楊の父の顔は我が子に向ける笑顔そのものだった。
「殺されそうになったのはその後で、そん時は訳も解らずに泣いていたけど、俺には母親が居たからな。母さんは俺を助けようとしてくれた」
そこでサクラの覗いた樹楊の記憶と食い違いが出る。しかしそれに気付かずに樹楊は続ける。
「母さんが居なかったら俺はどうなってたか解らない。その母親も精霊に見殺しにされたけど、あの優しさは覚えてる」
違う……。アナタの母親は……。
「勿論、精霊は全て憎しみの対象となったよ。何が護り神だ、って」
違う、違う……。
精霊はアナタを助けた。
アナタを……。
「その後は何とか木の根を喰ったり虫を喰ったりして逃げ延びて、とあるばあさんに拾われて。そこで育てられてここまでこれたんだ、俺は」
それだけじゃない。アナタが食べたのは、それだけじゃない。
確かにいいとは言えない経験だったけど、と笑う樹楊の顔が仮面に見えた。それで何とか気付けた。
樹楊は自らの過去に仮面を被せている事が。
樹楊は先に行く、と機嫌良さそうに部屋を出ていくが、サクラの顔は曇っていた。
それは樹楊の存在が紙一重にあるからだ。
恐らく樹楊は……、いや樹楊の本能は自らの過去を捏造している。過酷な経験に仮面を被せ、強固な殻に閉じ込めている。それは生存本能なのだろう。自らが生きていけるように、本能が樹楊の記憶を偽物とすり替えている。今は良いのかも知れないが、もしその記憶が戻ったら樹楊はどうなるだろう。
ベッドに身体を預けるサクラは、卓上の淡い光に目をやる。
暖かな光が、微かに心の動揺を抑えてくれた気がした。
サクラが見た記憶は、偽りのない本物だ。
自らの居場所を失いたくないが為に、我が子を殺そうとした樹楊の母親。そしてそれを見かねた精霊が割り込み、樹楊の母親を亡き者にした。護衛に着いていた兵士も全て手に掛け、樹楊を助けた。
だがまだ幼かった樹楊にとって急過ぎる展開を理解出来るわけもなく、生きていく為に最も都合の良い記憶がそこで生まれる。
我が子を助ける為に亡命し、追っ手に殺害された母親。そしてそれを見殺しにした精霊……と。
サクラは勢いを付けて上半身を起こすと戸口に目を向ける。
今は考えていても仕方ない。自分が何か出来るわけではないのだから、彼の行く末、それだけを見守るとしよう。
時が来るまで。
◆
本日分の歌の巡業を終えたフェイリスは空腹を訴えてくる腹を撫で、建ち並ぶ飲食店を忙しく見回している。目に飛び込む看板は、丼物や焼肉系。その他は食べ放題などのガッツリ系ばかりだ。
上品でちんまりとした食事を終えて口を拭き、おいしゅうございます、なーんて冗談じゃない。ナイフとフォークで優雅になんて鼻で笑える。女子供じゃあるまいし、肉料理をがふがふと貪り喰うに限る、と女子供のフェイリスは思っている。
しかし、この街の料理店は豊富でどれもこれもフェイリス好みだったりする。
人々が行き交う天下の往来、それもど真ん中で迷惑も顧みずに腕を組んで悩む。人々はフードを深く被った少女をフェイリスだとは思っていないようで、邪魔者を見る目付きをしては通り過ぎていく。
そろそろ誰かがフェイリスに文句を言いそうになる頃、一軒の酒場から怒鳴り声が響いてきた。しかも結構険悪そうだ。その雰囲気に、今入店しようとしていた若者達が顔を見合わせて遠ざかっていく。
それもそうだ。誰も好き好んで争いの真っ只中に飛び込みたくはないものだ。しかしフェイリスは目を輝かせて、蜜に吸い寄せられる昆虫のようにフラフラと歩み寄っていく。
ぴたり、と扉に耳を当てれば聞こえる聞こえる、喧嘩の不協和音が。聞こえた言葉の中に、スクライドやらクルードなどの単語が混じっている。
これはもしや、相当な修羅場なのでは。
むふふ、と気味の悪い笑い声を上げるフェイリスが一番客を遠ざけているのだが、当人にその自覚はなく、みなぎる食欲と好奇心を携えて、いざ入店。
主役の登場よ! とばかりに扉を押し開ければ、集まる客達の目。これが堪らなく気持ちいい。アンタ達の喧嘩は私が預かった、と言ってみたいが、対国同士の争いじゃそうもいかない。見れば、左半分をクルード兵が、右半分をスクライド兵が陣取っている。確か、大戦規約で、街は中立地点であり、争いはご法度だとか。それを無視して、何をしてるんだろ? と、真正面を見たフェイリスは一気にテンションが下がった。
それは、恐らく喧嘩の発端となったであろう者が、ヤツだったからだ。
スクライド軍の偉そうな男に胸倉を掴まれている、冷めた目をした男。
その名も樹楊。
なーーーーーーーーーー…………にやってんだか。
「お前はスクライド軍だろう! 何故クルードの肩を持つ!」
「別に肩入れしてませんって。当然の事を言ったまでですが? …………えと、その」
樹楊は虚空をしばし眺め、
「……上将軍?」
こいつ、絶対相手の名前覚えてない。
上将軍と言えば、樹楊なんかよりも格上の人だ。名前を忘れるなど、あってはならない。
そんな事より、何があったのやら。
フェイリスは近くに座っているクルード兵の足元に身を隠すように屈むと、潜めた声で問う。すると、丁寧に教えてくれた。
どうやら、スクライド兵が後から来たクルード兵達を快く思わず、無言の威圧をしていたらしい。当然敵地であるクルード兵達には居心地が良いわけもなく、気圧される形となってしまった。
そこへ登場したのが樹楊らしく、彼は何も気にせずに空席であるクルード兵の隣りに座ったという。そこで隣人に話し掛け、笑顔を浮かべた瞬間、スクライド軍の上将軍が怒り出し、対して樹楊は「ここは争いの場じゃないんすけど」などと人を喰ったような表情で返したようだ。
そこから先は、クルード兵にも平等であるべきだとか何とか言って、今に至る。
その事に、フェイリスは納得した。
樹楊は何も考えていないのだろうが、彼の言い分は正しい。
規約にあるように、ここは中立地点。ここではクルードもスクライドもないのだ。諍いを持ち込む場ではない。
まあ、弱いスクライド側が、強敵であるクルード兵の戦力をどんな形でも削ぎたいのは解らなくもないが、それにしてもやり方が小者だ。
どうしたものか。と店を変えようと立ち上がると、二階に続く階段から降りてきた女性に目を取られた。
その悪魔的な魅力を持つ女性に釘付けになった両軍の者達だが、フェイリスだけは視線を奪われた意味そのものが違う。
何で……? ただ似てるだけ?
いや、違う。あれは間違いなく本人だ。
あの容姿が歴史上で二度も現れるわけがない。
「どうしたの、樹楊くん」
樹楊の知り合い? 何故?
樹楊は胸倉を掴む手を払うと、何でもないと言う。
「悪いな、サクラ。気にしないでくれ」
サ……ク、ラ?
そんなわけない。本名は違う。けれど、まあ、偽名を使っているのだろう。
本名を名乗れば、歴史に詳しい者が驚いてしまう。それとも、あの名前はもう捨てたのか。どちらにせよ、今は『サクラ』なのだろう。
樹楊はサクラに事の説明をすると、疲れたように溜め息を吐く。サクラも同じようで、上将軍に向かって「器が知れるわね」などと吐き捨ててもいた。それに激昂した上将軍だったが、樹楊が間に立つ。
「止めといた方が身のためっすよ? 何せ、サクラは」
言い掛けてサクラの方を向く樹楊。
言っていい? 言っちゃってもいい?
……と、言いたげに目が輝いている。
そんな樹楊にサクラが噴き出し、頷く。
樹楊は待ってました、とばかりに上将軍に正面を切ると鼻息を荒くし、何故か胸を張る。そして勝ち誇ったような笑みと声音。
「サクラはネクロマンサーだからなっ」
フェイリスはどっと疲れた。あれじゃあ、まるで虎の威を借りてるのと同じだ。何処まで他力本願な奴なのだろう。俺の連れは強いんだぞ、と、情けないにも程がある。逆襲の苛められっ子か、アンタは。
場は一気に静まり返るが、やはりと言うべきか、スクライド軍が失笑し始めた。それはすぐに嘲笑へと変わる。
「っはははは! ネクロマンサーなどという者が居るわけないだろう? あれは単なる言い伝えだ。それに、っくく。その女が――っはははは!」
笑いたいとは思わないが、呆れるのはフェイリスも同じだ。あの――今は、サクラだったか。サクラがネクロマンサーなわけがない。何もその存在を否定するわけじゃないが、サクラは虫も殺せない程、優しいと言うか甘い考えの人だったから。
しかし、そんなフェイリスの期待を裏切るように、または樹楊の期待に応えるかのようにサクラは何やら詠唱を始める。腕を組み、楽しそうな表情なのだが、場の雰囲気はまるで地獄の手前のように底冷えするものとなった。
「な、何をしたっ」
「ネクロマンシー……って知らないよね?」
サクラが爪先で床をノックすると、突然、腐食したような手が無数に飛び出してきた。そしてそれらはスクライド兵達の足を掴む。そして沼から出てくるように姿を現す死人達は、餌を掴まえた事に狂喜し、涎をだらしなく垂らす。だが、まだお預けのようで、サクラの合図を待っているようだった。
「ちょ、俺もかよっ」
「あ、ごめん」
樹楊も巻き添えを喰らっているようだったが、サクラは気にしていないようだ。
「な、なな、何だ、こいつらは!」
「何って……、ネクロマンサーが扱う死人達だけど? ああ、抵抗しない方がいいわよ? 今は私の合図待ちだけど、危害を加える人は合図が無くても食べるから」
「ほ、本当に……、まさか、嘘だ」
どうやら認めたくはないらしく、だが目の前の現実に認めざるを得ない事で言葉に力が無い。上将軍は喉を鳴らすと、懇願するように叫ぶ。
「わ、悪かったっ。この通り、頭を下げるから、こいつらを何とかしてくれ!」
「簡単に下げられる頭に価値があるとでも?」
慈悲も何もない顔で指を鳴らす仕草を取るサクラに、スクライド軍は顔を青ざめさせる。それはこの酒場の店主も同じようで、カウンターに身を潜めていた。バイトの女の子も然り。
「サクラ、止めてくれ」
場を制したのは樹楊だった。
ここは争いの場じゃないとばかりに腕を組んで、サクラを諭すような目をしているが、フェイリスからは丸見えだ。ガクガクと震える下半身を、死人ががっつりと掴んでいるのが。ここでサクラが指を鳴らせば、樹楊も喰われる運びとなるのだろう。
おしっこチビんないかな? と、フェイリスは淡い期待をしてみる。が、それには至らず、サクラは術式を解除した。すると場は一気に平常なものとなり、脅えたスクライド兵は早々と退散を始めた。
「じょ、上将軍、そろそろお時間です」
「う、うむ。では行くとしよう」
お決まりのセリフで去っていく彼らの背中がなんと小さな事か。そんな彼らとは別に、樹楊はどでかい溜め息を吐くと、サクラの肩を掴んで涙目で説教を始める。
奴らはいいけど、俺は勘弁してくれ…………って、おい。アンタの仲間でしょ。そう思ったのはフェイリスだけではないだろう。
必然と注目の的となった樹楊は誤魔化すように咳払いし、クルード兵達を見回す。すると、何かしらの危害を加えられると思ったのか、それぞれが身体を縮め、固くなり始めた。フェイリスはその隙に、隣りのクルード兵の料理である、鶏の唐揚げをくすねてはテーブル下で貪っている。
「何つーかさ、悪かったな。下らねぇプライドでもあんだろうけど、気にしないでくれ。ここは飯を食う所で、争いの場じゃねぇ。クルードの皆も、スクライドの領地だからと言って遠慮はしないでくれ。いっぱい飯食って、程よく酒飲んで、ゆっくり休んで……明日に備えようや」
その言葉と馬鹿っぽい笑顔にクルード兵達も安心したのか、冷め始めた料理に手を付け始める。特殊な食べ方をする民族料理に困れば、樹楊が教えてやり、和気藹々として和やかな雰囲気だ。
そんな壁もへったくれもない樹楊の姿に、フェイリスは思う。
……やっぱり似てるな、あの人に。普通、こんな戦乱の世で敵味方関係なくなんて考える事なんか出来ないのに。それも大戦真っ只中という過酷な状況で……。本当、似てる。
それと、感じる。
あの禍々しい、思い出したくもないアレを。樹楊の中から。
顔を合わせる度に感じる。何時だったか歌った時、二階席に居た樹楊を見つける事が出来たのは、それを感じたから。でなければ見つける事なんて出来っこない。あんなに暗い店内でそれも二階席の客の顔なんて見えないから。
フェイリスは、隣りの者の唐揚げを残り一個にまで追い込むと礼も言わずに席を立つ。そして二階へと上がっていった。ここの宿に予約は入れてない。今から泊まる予定もない。ここに来たのは……。
「私に何か用?」
腕を組んで壁に背を預けるフェイリス。
後をひっそりと追ってきたサクラは少しばかり驚いた顔をするが、懐かしそうに目を細めた。
下には樹楊らが笑う声が溢れ、こちらまで届いてくる。廊下を挟むように扉が等間隔に並び、淡いランプが頼りなくそれらを照らしていた。
「ただ……知り合いに似てたから、気になって、ね」
「そ。私はフェイリスって名前よ?」
「そう……。ごめんなさい、人違いだったみたい」
じゃあ、と悲しそうに背を向けるサクラに、フェイリスは呟く。その澄んだ声が構成した人名に、サクラは再び振り返ってきた。
「この名前を知ってるって事は、サクラってのは偽名だったんだね?」
「アナタこそ、フェイリスって偽ってるじゃない」
互いに不敵な笑みを浮かべ合う。だがどこか、懐かしむような想いが潜んでいた。
募る想いが沢山ある。言いたい事伝えたい事、それに謝りたい事がある。けれど、それを差し置いてどうしても訊きたい事があった。きっとそれはサクラも同じだろう。その言葉を、フェイリスが先に取った。
「で、何でアナタは生きてるの?」
「それを訊きたいのは私もよ?」
サクラは、最も、と一拍置き、
「アナタの場合、どうやって封印を解いたの? っていう方が正しいかな?」
フェイリスはどうでも良さそうに鼻を鳴らす。サクラはきょとん、とするが、それに対して適切な答えは持っている。きっとサクラも気付いてるはず。
「私が封印されたのは、何で?」
「忘れたの? それとも私の口から言わせるつもり?」
「まさか。ただ覚えているか確かめたかっただけ」
そう、自分が封印されたのは……世を壊す畏怖なる存在となってしまったから。なってしまった、というのは元々は特別な者ではなかったからだ。いや、普通のつもりでいたつもりだったが、実は生を受けたその日から畏怖なる存在だったのかもしれない。
だが、自分が壊れるまでは普通のつもりだった。そして自分を壊した根源となるモノは負の魂に侵されていたからだ。
「私はね、封印された事に対して怒ってなんかいない。むしろ感謝してるくらいよ。暗い闇の中でずっと眠っていられたら、って思ってた。けどね、ある日……私はこの世で目覚めていた。最初は朧気だった記憶もすぐに蘇ってきて、自分を見ればまだ十歳になるくらいの子供だったのよ。ホント、びっくりした。そして怖かった。また……嫌な思いをして、世界を憎んで、追われるのかと思ったら……」
一方的に喋るフェイリスだが、サクラは何も言わずに聞いていてくれる。一言一句も聞き逃すまいと真剣な表情で。
その穏やかな雰囲気……懐かしいな。やっぱり安心できる。
「人と会うのが怖くて山の中で暮らしてたんだけど、そうやっている内に解った事があった。それが何か、解る?」
「負の……」
「そ。あれはもう私の中になかった。他の宿主を見つけたんだろうね」
見透かすようなフェイリスの眼差しに、サクラの表情が曇る。それを見て、確信した。
「ねぇ、彼が今の……今の時代の『負の落とし子』なんでしょ? 私と同じ、あの」
サクラは何も答えないが、その沈黙が肯定となった。同時に、気が重くなる。あれに憑かれた者にまともな未来があるわけない。歩んでも悲劇が繰り返されるだけ。それは誰よりもフェイリスが解っている。かつては負の落とし子だったフェイリスが。
「フェイリス……。罪悪感でも――」
「まっさか。ないない」
フェイリスは手をぱたぱたと振り、否定する。
「アレは私が生み出したわけじゃないし、引き受ける手段があったとしてもお断りよ。でも……」
同情はする。
きゅっと唇を締める。
本当に同情はしている。もし樹楊が愛しい人だとしても、アレだけは引き受けたくない。死んだ方がマシと言い切れる人生なんか歩みたくない。こうして生まれ変わったと言っても過言ではない二度目の人生なのだ。もう泣きたくない。それが本心だ。
「で」――フェイリスはサクラに瞳を向ける。
「何で樹楊くんの傍に? その理由が、アナタが今も生きている理由となるんでしょ? ネクロマンサーとなってまで」
それは……と言葉を濁らせるサクラが急に目を見開き、膝を着く。腹部を抑えて、尋常じゃない脂汗が噴き出してきた。呼吸も不規則で荒い。フェイリスは傍で屈み、サクラの腹部に手を重ねた。その瞬間、手が引き千切られる錯覚を見る。
反射的に手を引っ込めたフェイリスに、サクラは力なく微笑んだ。その顔は……嫌いだ。サクラの中で唯一嫌いな部分。
「アンタ、まさかとは思うけど……子宮に」
サクラは頷く。
その返答がフェイリスの頭に血を上らせた。荒っぽく肩を掴み、睨み付ける。
「それは――それだけは人が宿していいものじゃない! 宿せるモノじゃない! 何考えてるの、アンタは! 一体何が――……」
訊く前に、答えが解った……気がした。
フェイリスはよろめき、壁に背を預けると力なく座り、顔を両手で抑える。
サクラが今も生きている理由。
ネクロマンサーとなった意味。
人の、それも女性の子宮のみに宿せる悪神の宝具とも言われる『螺旋の胎児』。
螺旋の胎児は、三百年という長い間、人間の女性の子宮に宿す事で初めて効果を得ると言われる禁忌の宝具だ。恐らくサクラはネクロマンシーで『自分を殺し』て『蘇らせた』のだろう。そして螺旋の胎児を宿した。何て無茶な事を……。
「いくつか……訊いてもいい?」
「勿論」
「キオウくんは、彼の生まれ変わり?」
「うん。さっき確かめた」
「じゃあ、その宝具って……」
「そう、彼にしか扱えない。まだその時じゃないけれどね」
「彼……負の落とし子よ? それを知っておいて生かしておくのは残酷だよ?」
「解ってる。けど、私は殺さない。もし彼が他の要因で死ぬのなら仕方ないけど、自分の手では殺さない」
「そう……。じゃあ、最後に」
フェイリスは項垂れていた顔を上げ、サクラの目を真っ直ぐに見つめる。
「今のこの世界って……偽物?」
「うん。そうなるね」
やっぱりそうだった。
この世界はあまりにも綺麗すぎると思っていた。もしかして時代が流れ、世界が変わったのかと淡い期待をしたのだけど、違っていた。本当の世界はきっとあの頃のまま。淀んだ世界なのだろう。
「サクラ一人でやったの?」
「まさか。私は神様じゃない。他にも数十人のネクロマンサーが関わっていたよ。殆ど死んじゃったけど。私達に出来る事は、世界を隠すだけ。例えるなら、この世界は膜の中。薄い薄い……膜の中」
神様の真似事……か。
きっとその膜が剥がれる前に、その子宮に宿した宝具を使って世界をどうにかしたいのだろう。訊きたいが、訊けない。これ以上は踏み込みたくないというのが本音だ。
それとは別に、訊きたい事があった。完全に私情だけれど、どうしても訊きたい事があった。それを訊けるというならば、サクラが今生きていてくれた事に感謝出来る。
「ねぇ、サクラ」
「うん?」
「私がさ……封印されて世界に脅威は無くなったじゃない? その時、彼は……」
言葉が震える。訊きたいのだが、答えが怖い。
「胸を張って宣言してた。この世から悪は消え去った……って」
その言葉がナイフのように心臓を抉り、フェイリスの瞳が揺れる。だが、続きがあるようで、サクラが手を重ねてくる。
「でもね、毎晩……部屋で泣いてたよ。泣かない日なんてなかった。悔やんで悔やんで、アナタの名前を何度も呼んでた」
…………愛しい人が苦しむ事を嬉しく感じるのは罪なのだろうか。
何も苦しめたいわけではなかったのだが、そんなにまで自分の事を思ってくれていると、嬉しくもあり悲しくもあった。でも、あの日あの場所に自分が居た意味が少しでもあった事に、やっと……。
「そ、か。……うん、そっか。私……愛、されてたんだね?」
「当り前じゃない。あんなに想い合ってたのよ?」
涙が少しばかり流れる。
フェイリスは膝頭に額を添えて、静かに肩を震わせた。
◆
サクラという絶対的な圧力を借りて嫌な奴を追い払った樹楊は既に食事を済ませ、満たされた腹を曖気混じりに撫でていた。
ここの料理は安価で味もいい。量だって大満足だ。これは本当に久しぶりに酒を飲むのもいいかもしれない。ちょっとだけなら寝酒にもなるだろうし。
そう思い、カウンターへと席を変えれば口髭の良く似合う店主が微笑みながら注文を取ってくる。それに対し、店主おススメの酒を注文すると、ピッティオという聞き慣れない酒を出された。
ずんぐりとしたグラスに注がれた琥珀色の酒で、ブランデーにも似た芳醇な香りが特徴的だ。氷はなく、ストレートで飲むのが最高だと店主は胸を張る。
その言葉を信じ、少しだけ口に含む。すると舌の上で広がる上品な甘みと爽やかさ。喉をするりと通り、ブランデーにも負けない香りが鼻腔を突く。
「こりゃ美味い。ピッティオ、だっけ?」
「ええ、私が住んでいた里で作っていたお酒でして。なかなかのモノでしょう?」
「なかなかじゃねぇって。美酒だ、美酒」
褒められた店主は気を良くし、つまみとなる鹿肉の刺身を御馳走してくれた。半解凍で食べる鹿肉も、これまた絶品だ。
明日からまた生死を掛けた大戦が再開されるというのに、樹楊は目の前の美酒に囚われ、ぐいぐいと飲む。明日の事は明日だ、と既に軍人失格もいいところだ。二日酔いになろうなんだろうが、明日になればスイッチを切り替えられるのが樹楊で、本人も良く理解している。
そうやって鹿肉をつつき美酒に溺れていると、左肘の先に指先が添えられた。
誰だ? と見上げると、優しい顔立ちをした少年が控え目に微笑んでいる。金色の癖毛が特徴的で、柔らかい雰囲気に拍車が掛っていた。
「隣り、よろしいですか?」
「断る」
「ありが――ええっ?」
「嘘だ、嘘。いいよ、別に」
初対面の人に対しては悪質な冗談だ。しかしあくまで冗談であり、少年もほっと胸を撫で下ろして席に着く。それから樹楊と同じ酒を注文して飲めば、同じく感動を覚えていた。
「これは美味しいっ」
「だよな。こんな酒が飲めるなんて、今日はいい日だ」
――クルードの兵士、か。それなりに血の匂いをさせてんな、こいつ。
感じた匂いとは、実際にするわけではなく、経験を嗅ぎわける嗅覚から得たモノだ。いくらほろ酔いとは言え、これは間違いではない。このクルード兵は、多くの血を浴びてきている。それこそ、紅葉やクルスと同じくらいに。浴びた血の量が実力に比例するわけではないけれど、それでもスクライドの同年代に比べると、雲泥の差なのだろう。
こいつ、何の為に近付いてきた? その人の良さそうな笑みの中に何を隠している。何を企んでいる。ここは酒を飲んでいる場合じゃなくなったな。充分に警戒しないと。
……と、警戒するのはごく普通の者の思考であり、締めているネジがおかしい樹楊の頭の中では、酒飲み仲間が出来たと、ちょっと嬉しくなっていた。相手の血の匂いを嗅ぎ分ける事は出来ても、頭がそこまで着いていかない樹楊なのだ。
「先程は助かりました」
「ああ、トイレの紙だろ? 足りた?」
「ち、違いますよっ。トイレじゃなくて」
「おー。そう言えば、俺もトイレに行ってなかったな」
ういっ、と頬をほんのり桜色に染め、にたーっと笑う樹楊に、少年は冷や汗を滲ませる。話し掛けるタイミングを間違ったかな? と誰にも聞こえない声で呟いていたが、間違ったのは『タイミング』じゃなくて『話し掛ける人』だ。敵国であるクルード兵からすれば、最も話し掛けてはいけない人だろう。少年が樹楊の事を知らないのが悔やまれる。
「僕が言いたいのは、スクライド軍との件についてですよ」
「あー、ああ。その事か。過去の事だし、礼を言われる筋合いはないって」
夕食前の事を既に色褪せた過去の問題にしている樹楊は、ぐびぐびと酒を飲む。ここで少年も頭を下げて退けばいいものを、何故そこまで健気なのか、改まって礼を告げてきた。深い感謝の気持ちとして下げている頭を、樹楊はど突く。
「痛っ。え、何でですかっ?」
「酒が不味くなる。あんなん、どうでもいいって。俺が気に喰わないから追い払っただけだしよ」
それなりに痛かったのか、少年は涙目で頭を撫でている。
「気に喰わない、ですか?」
「おお。何度も言うけど、ここは飯を食って酒を飲んで寝る所だ。いがみ合うのは街の外だけでいいっての」
ねー? と、バイトらしき女の子に同意を求めれば、可愛らしく首を傾げながら「ねーっ」と、返してくれる。酔っ払いの扱いは慣れているのだろう。樹楊くん、ますます上機嫌。これでは酒代もうなぎ昇りだ。
「アナタは……不思議な方ですね」
「よく言われる。つーか聞き飽きた、それ。俺の頭が変なんじゃなくて。お前らが固すぎんだよ。同じ人間だろうが。戦争だって話し合いが出来る人間が起こす事じゃねーだろ、普通は」
ま、話が出来るからこそ争いもあるんだろうけどな、と人間の在り方を肯定する。クルードの少年は、やはり不思議そうな瞳で樹楊を見ていた。しかし、どことなく嬉しそうで悲しげな色も浮かんでいる。
「つーかさ、お前らクルードなんだろ?」
「はい、そうですが。あっ、やっぱり話し掛けてはいけなかったかったでしょうか?」
「そうじゃなくて」樹楊は否定し、
「あんなん、お前らの方が強いだろ。何気圧されてんだよ。文句あるなら街の外に出ろ、くらい言ってやれば良かったのに」
どちらの味方なのか。そう思わざるを得ない発言だが、樹楊にとってはごく自然の意見だった。何も強い者が怖気づく理由などないだろうに。そう思っている。
だが、それには理由があるようで、少年は僅かに顔を曇らせた。その表情に、樹楊は口元でグラスを止める。
「何か……あったのか?」
「はい……と言うより、大戦中ですので想定内の事なのですが」
少年は樹楊がグラスを置くのを待つかのように言葉を閉ざし、だが沈黙を続ける気もないらしく、唇を薄く開いた。
「僕達の隊長が、戦死したんです」
その声音、顔色。
余程信頼を寄せ、上官と部下とだけの繋がりではない事が容易に解る。
「……こう言ってはアレなんだけどよ、隊長が死んだくらいで動けなくなんのか、クルードの奴らは」
「いえ、きっと僕達だけでしょうね。こんなにメンタル面に隊長という存在が大きく関わっているのは」
「何でだ? ……って、訊いてもいいか?」
少年は頷く。そして答える。
「僕達の隊は、皆、家族なんです。と言っても血縁関係はなく、皆が皆、孤児院で育ち、軍に引き取られた者の集まりなんですよ。そして隊長は僕達の姉であり、母のような方でした。勿論、隊長よりも年上の者もいますけどね」
ははっ、と苦笑を浮かべる少年に樹楊は目を細める。
笑ってはいるが、辛いのだろう。隊の象徴である隊長と同時に家族を失うのは、いくら軍事教育を受けた者とは言え、辛いはずだ。精神状態が不安定になってもおかしくはない。
「すいません、こんな暗い話をしてしまって。いや、スクライドの方々にとって敵の隊長が消えた事は」
「――喜ぶべき事、と思えって?」
言葉の最後を樹楊が引き取り、酒をあおる。
「アホか、お前は。確かに敵の重要戦力が失われた事でスクライドの勝利が近付いたかも知れねぇ。でもここは争いの場じゃない。誰もが美味い飯と酒に喜ぶ場所だ。いくら敵だからと言って、その死を喜べねぇって、俺は」
その少年の瞳に、樹楊はどう映ったのか。
二人のやり取りを見ていた店主は何も言わずに一人静かに微笑む。
「やっぱり、アナタは不思議な人です。話をしていると、今って本当に戦中なんだろうか、って思ってしまいますよ」
「そか。いい事じゃん?」
少年は笑顔で頷き、
「遅れましたが、僕はテンレイと申します」
「俺は樹楊。よろしくな」
二人は握手を交わす。
テンレイは吹っ切れたような笑顔を浮かべるが、それが偽りである事が解る。今日は酔います、などと言っているが、樹楊は笑みを浮かべない。
首を傾げるテンレイを、樹楊は横目で見る。
「で?」
「……はい? で、って、何がでしょう?」
「話したいんだろ?」
「な、何をですか?」
「その隊長の事。違っていたら謝るけど、言い方を変えさせてもらう。隊長の事を訊かせてくれないか?」
誤魔化すように頭を掻くテンレイだが、観念したようで、カウンターに視線を落として話す準備を取る。
「言われて気付きましたよ。誰かに喋りたいんですね、僕は。……ははっ、まいったな」
テンレイは、その親愛なる隊長の事をぽつりぽつりと漏らし始める。孤児院で出会った時の事から、一緒に遊んだ事、喧嘩した事、軍に引き取られた事を自らが思い出し、確かめるかのように。
「僕達は、言わば捨て駒だったんですよ」
「捨て駒?」
『当たって砕けろ、ってやつですね。消耗品と同じ扱いでした。ですから何時も最前線で、皆が突撃兵でした』
「そりゃ酷ぇな。まあ、身内がいないお前らだから、やり方事態は間違ってないという意見もあるだろうな」
「はい。ですが、一つ自慢があるんです」
首を傾げる樹楊に、テンレイは微笑む。
「今まで、戦死した者はいないんですよ」
「え、嘘だろ? 突撃兵で捨て駒のお前らが?」
「嘘じゃないんです。いくら捨て駒扱いされようが、僕達だって死にたくない。それを誰よりも強く思っているのが隊長だったんです。だから隊長は自分で策や陣形、いかに効率よく攻めるかを考え、指揮してきました。それで功績を上げれば上層部も頷かないわけにもいかず、それを繰り返す内に僕達だけの中隊を組まれ、隊長は中隊長にまで上り詰めたんです」
それは本当に自慢していい事だ。その隊長とやらは勇将だったのだろう。知も武も兼ね備えた理想的な軍人だ。
だが、その隊長も今はいない。誰よりも仲間の死を嫌っていたその想いだけを残して、先に戦争を終えたのだ。想いを託されたテンレイ達は辛いだろう。
やはり戦争は嫌いだ。この世で一番必要ない。
やりきれない思いを胸に潜めた樹楊は、失礼かとも思ったが訊いてみる。
「誰にやられたんだ? その隊長は。まー、俺が知らない奴かもしれないけど」
「知っていますよ、絶対。有名な方ですから」
「へぇ、言い切るか。さっきの上将軍の名前も知らないってのに」
「そ、それは問題発言ですよ。ですが、この名前は訊いた事があるでしょう」
――紅葉アゲハ。
「あ、あいつが? いや、まあ……こう言っちゃ失礼だけど、紅葉を相手にして生きてられる方がおかしいけど」
「ええ、僕もそう思います」
「恨んでる……だろうな」
「いえ、全く」
続けて驚愕を与えられる。
いくら戦争だとは言え、仲間を殺されて恨まない者などいない。だがテンレイの顔を見れば、嘘を言っている様子など微塵もなかった。
「俺が変わりモンだとして、お前も相当なモンだと思うぞ?」
「ですかね。けど、本当に恨んでないんです。確かに隊長を殺したのは紅葉アゲハさんですが、意味が違うんです。紅葉アゲハさんは死に逝くだけの隊長の最後を引き取ってくれたんですよ」
「うん? イマイチ解らん。介錯って事か? つーか、それを許したのかお前らは」
「介錯とは違うんです」
テンレイが教えてくれる。
隊長の夢は紅葉アゲハを超す事で、だが、もう夢見る事さえも出来ない命となっていまった。そこへ現れた紅葉アゲハ。
隊長は死に逝く命ならば、とせめて夢の背中に触れたいと紅葉アゲハに告げた。そしてそれを紅葉アゲハは受けてくれた。全力で戦うその姿は、一見情けも何もなかったが、テンレイにとって、それは慈悲という優しさの塊だった。
手を下さずとも死に逝く隊長の、叶えなくてもいい願いを受けてくれた。
「だから僕は、紅葉アゲハさんを恨んでいません。感謝しているくらいですよ」
その事を聞いて、少しばかり嬉しくなった樹楊。
ずっと近くにいた紅葉だから気付けなかったが、随分と優しくなったものだ。出逢ったばかりの時は、何もかも殺しつくす、正に戦の申し子だった。
変わったのは自分だけじゃないんだな……。
紅葉や蓮、クルス。それにサルギナも変わった。成長したかどうかは解らないが、樹楊にとって嬉しい変化をしてくれている事には間違いなかった。
「さて、僕はそろそろ行きます」
「もう?」
「ええ、明日の朝には出なければいけないので。樹楊さんも飲みすぎないで下さいよ?」
「大きなお世話だ。それよか、お前らはどうすんだ?」
「一度本陣に。それから指示を受けます。出来れば樹楊さんとは戦いたくないものですね」
「俺は構わないけどな。戦争だし」
ですね、とテンレイは苦笑し、席を立つ。
酒代は樹楊が驕ると言い、テンレイは遠慮したが、追い払うように手を振ったら申し訳なさそうに頬笑み、頭を下げてくる。
「では、この辺で」
「ああ。っと、そう言えばだな、この宿は防音がしっかりしてるみたいだからよ」
「それが、どうかしましたか?」
「……泣いとけって」
「いえ、僕は……」
もう泣きたくない、とばかりに困った顔をするテンレイに樹楊は嘆息する。
酒を一口挟み、
「死んだその時に泣くのはどうでもいいだけどよ、死者を送ってやる時の涙は浄化、って言うらしいぞ? 何でも人はいきているだけで汚れ、罪を負うって言ってな。そいつを唯一清めてやれんのが、愛してくれた人達の涙らしい。その数が多ければ多いほど、綺麗になれる。だからさ――」
一度だけテンレイと目を合わせ、すぐに逸らす。
「泣いてやれって。隊長を綺麗にして送ってやれよ。それが出来んのはお前らだけなんだからよ」
どっかの何ちゃらっていう宗教の教えらしいんだけど、と樹楊は笑う。
「ま、あながち間違ってねぇと俺は思う」
微かに俯いたテンレイは前髪を掴むように顔を隠し、唇を噛み締める。そして無言で深く頭を下げてきた。鼻をすする音が聞こえた気もしたが、気にしないでおこう。
明日になれば殺すかもしれない相手を送り出した樹楊に店主が問い掛けてくる。グラスを丁寧に拭きながら。
「失礼ですが、その言葉って……」
「ねーよ。あったとしても俺は知らん」
「では、何故?」
「神を信じようが何を信じようが、結局最後は人の気持ち次第だろ。清らかな気持ちで送ってやれば、何つーか、まぁ死んだ方も安心するだろうし。大好きな人を送るってのに、涙を堪えてちゃ駄目だろ。いっぱい泣いてやんねーと。このくらい大好きだったんだ、って伝えられる手段なんだし。ああでも言わなきゃ、あいつ、塞ぎ込んだままにしそうで、少し心配だったからな」
敵を心配する樹楊の言葉にグラスを拭く手が止まっていた店主だが、すぐに聞き慣れた言葉を言ってくる。不思議な方ですね、と。バイトらしき女の子もそれに倣って言ってくる、同じ言葉を。
樹楊は嫌味ったらしく溜め息を吐き、そして。
「だから、聞き飽きたって」
◆
「うー……んっ。いっぱい泣いたぁ」
フェイリスは大きく伸びをしながらサクラの隣りを歩く。ずっと心に詰まっていた小さな欠片は涙に掬われ、気分爽快だ。それを口にしたら、サクラには「相変わらずだね」と笑われる。フェイリスは、はにかみながら少し赤い瞼を擦る。
「くよくよ悩むのはもう嫌だしね。これが今の私の生き方」
「ずっと前からそうだと思うけど?」
「何それ。まるで根っからの能天気みたいじゃない」
階段の手摺に手を掛けて靴底を鳴らし、下へと降りていく。サクラの提案で軽くお酒でも飲む事になったのだ。
サクラは姿勢が良くて背筋も伸びている。元から背丈も高めとだからなのか、見方によっては高圧的に見えなくもない。
「え、と……フェイリスは子供の頃から能天気でしょ?」
どうしても以前の名前が浮かぶらしく、すぐにフェイリスと出て来ないみたいだ。それはフェイリスも同じで、何度かサクラという言葉が出て来なかった。
何も改まって今の名前を呼び合う仲ではないが、それでも互いに決意あっての改名だ。以前の名前は忘れる事と二人で決めた。
それはそうと、真性の能天気だったと決められたフェイリスは少しばかり頬を膨らませ、不機嫌っぽく鼻を鳴らす。だが、機嫌がいい事がバレバレなのか、サクラは気にした様子もなく、笑みを含んでいる。釣られてフェイリスも。
この際、能天気でも何でもいい。
再会できた喜びは多少の事じゃ変わりそうにもないから。
世界一の能天気でもいい。
そう思ってやろうとしたのに、やはりこの男に崩される。
カウンターで顔を真っ赤にして笑いこける、軍人……と呼んでいいのだろうか。自分よりも能天気だ。きっとこの世でぶっちぎりの能天気さだろう。
「樹楊くん、出来あがってるねー」
「あの馬鹿……」
所詮は戦など他人事のサクラは感嘆し、蟻の触角ほどだとしても関わりを持ったフェイリスは呆れる。頭痛もしてきた。
フェイリスは足早に樹楊の傍までいくと、カウンターを叩きつける。勿論片手は腰に添えて、説教モードだ。
「アンタね、今どんな状きょ」
「おふ、フェイリスじゃん」
お、おふ? まあいい。
「私の事はどうでもいいのっ。それよか、アン」
「お、しゃーくらも一緒かやーっ」
絶好調の樹楊に笑顔を向けられ、サクラはひらひらと手を振る。
「サクラの事もどうでもい――」
「てんちょー、ふらりにも『ぴっぴー』出して」
「人の話を聞け!」
「ピッティオですね、かしこまりました」
「マスターも話しの流れを読んでよっ」
「これ、すごく美味しい。ピッピーっていうの?」
「ちょっと、サクラまで人の――」
「ピッティオでございます」
「ぴっぴーおでございます」
呆気なく蚊帳の外となったフェイリスは顔に影を落とし、ふるふると方を震わせ、やり場のない怒りを……。
「てんちょ、もう一杯」
やり場の……ない、怒り?
「くふぁー、うまっ」
怒り……やり場。
「今夜はとことん飲むぞっ」
やり場があった。
フェイリスは固く握った拳を怒りの捌け口及び根源である樹楊の頭に振るった。
鈍器で殴ったような音がしたが、それほど力を込めてないから痛くはないだろう。樹楊も頭を抑えるだけで、特に痛くはなさそうだ。最も、アルコールで感覚が麻痺しているのかもしれないが、知った事ではない。
「アンタ、戦争中でしょ。少しはわきまえなさい」
「せんちょ?」
「せ・ん・そ・う!」
「せ、ん、ちょい」
「飲み過ぎでしょ、呂律も――酒臭っ! ホント、飲み過ぎ!」
あっふぁ、と気の無い曖気に含まれるアルコール臭は濃く、しらふの者からすれば身を引いてしまうほどだった。しかし樹楊はケラケラと笑っている。ろれちゅもまわっちょる、とネジが全て抜けているようだ。
フェイリスは樹楊方を掴んで正面を切る。
「たちつてと! はい、言ってみる!」
「たちつてちょ」
フェイリスの目が引き攣る。
「さしすせそ」
「さしすせ、ちょ」
今度は口元が。
「……あいうえお」
「あいうえ……ちょ」
「何で『お』が『ちょ』になんのよっ。人をコケにしくさりやがってぇ!」
その鼻をぺちゃんこにしてやるわ、と拳を振るうも、サクラに宥められてしまう。
「まあいいじゃない今は、ね?」と、どこまで優しいんだか。じゃなくて、関係ないからそう言えるのだろう。現にサクラもピッピーだか何だか解らないけど、酒を片手に持っている。
「サクラ、アンタも今の状況を――」
酒は酔っ払うものであり、酒場はそれを提供するものだが、時と場合がある。それを説くのはまず深く知る仲であるサクラからと、フェイリスは説教を始めた。その後ろ姿を、とろん、とした樹楊が「ふむ……」と眺める。その視線は後頭部から背中、そして小振りな尻へと移行する。樹楊はそこへ吸い込まれるように手を伸ばす。
「肩入れするわけじゃないけどね、スクライドは危機的な状況なの。信じれないかもしれないけど、樹楊くんはスクライドの命運をっふぁああああぁぁあぁあああぁぁぁぁあぁああああああああ!」
全身を波打つように震わせるフェイリスにサクラはびくっと身を引く。フェイリスとて驚かすつもりなどなかったのだが、尻から首筋にまでかけて寒気が走ったのだ。
何事かと振り向けば、今正に尻を撫で終えた樹楊が片手を眺めて吟味している。
「アンタ、何……してんの?」
わなわなと震えるフェイリスの言葉に怒気が込められているが、樹楊は気にもしていない様子だ。
「うーむ……」
「何よ。人のお尻撫でておいて」
「お前のケツは撫でてもつまらん」
「………………は!?」
何? 何、何何何なにナニ?
つまらない? 何が? え、私が悪いの?
……な、ワケない。
事もあろうか、ソリュートゲニア大陸の頂点に君臨していると言っても過言ではないフェイリスの尻を撫でた樹楊。その感想は「つまらない」だった。もしここに彼女に熱心なファンが居れば袋叩きだろう。
しかし一番怒りを覚える権利があるのはフェイリスであり、当人も沸々と湧きあがってくる怒りに顔を赤く染まらせていく。樹楊は、にやにやにやにやにやにや。どんなに穏やかな高僧でさえも苛立たせるような顔をしている。
「あ、っはぁあああああああああああ……殴りたい。殴っていいよね? 殴らせてって言うか殴るっ。しこたま殴ってやる!」
空になっているボトルを手にしたフェイリスだが、それをサクラが止める。だがフェイリスの怒りは収まらない。羽交い締めにされながらもボトルを振り被っている。
「フェイリス、落ち着きなさいって。酔っ払いがやる事じゃない」
「離して! こいつは今すぐ葬るべきなのよっ。人が心配してあげてるってのに、こいつはぁああああああ!」
「つまらんケツのくせに」
ひっく、と樹楊が吐き捨てる。
「な、ななななな、なあああああああああ!」
フェイリスの限界の臨界点が突破。
罪人になろうと構わない。今はこの無礼なスケベ野郎を撲殺してやる。そう鼻息を荒くしていたのだが、ふと悲しげに目を細めた樹楊の顔に怒りの炎が小さくなっていく。その横顔が、愛しかったあの人に凄く似ている。顔の作りとかではなく、雰囲気が良く似ていた。
「楽しいなぁ。嫌になるくらい、楽しい」
独り言が呟かれる。
思いの丈が込められた寂しい言葉だ。
樹楊も解っているのだろう。感じているのだろう。
戦争がどんなもので、何を残すのか。
そして何を生み出すのか。
戦争の爪痕を何度も見てきたフェイリスにとって、樹楊の呟きは悲しみの波紋を広げるものとなっていた。樹楊は自分の中だけの言葉として呟いたのかもしれないが、フェイリス、そして恐らくサクラにも響いた言葉だろう。
すっかり怒る気も失せたフェイリスの気持ちを悟ってか、サクラはボトルを優しく取り上げると着席を頬笑みで促してくる。
フェイリスはつまらなそうに鼻を鳴らし、サクラと樹楊の間に座った。
そしてタイミング良く出されたピッティオという美酒を一口飲み、笑みを溢す。見れば、マスターが笑顔を浮かべていた。
流石、酒場を切り盛りしているだけはある。客にどんなタイミングで酒を出せばいいのか心得ているようだ。そんな気使いがこそばゆいが、心地良くもあった。
「美味しいお酒ね」
「そうね……」
何気ない、サクラとの会話。
少しばかりうるさく感じる、周囲の賑わい。
小皿のつまみを食べれば、お酒がすすむ。
こんなにも平和なのに、街を一歩でも出れば血に塗れた大地が広がっている。人が人を殺している。死に死を重ね、何が生まれるのか知っているのだろうか。その上に築かれる国がどんなものか、解っていて戦争をしているのだろうか。
少なくとも、隣りで酔っ払っている情けない男は解っているだろう。解っていてほしい。戦争の爪痕がどんなものなのか、知っていてほしい。
戦争は嫌いだ。大嫌いだ。
だけど、どんなに嫌っていても自分は何も出来ない。大き過ぎる力のぶつかり合いを止めるのに、自分という存在はあまりにも小さい。だけど小さな、ほんの小さな安らぎを与える事は出来る。それが、自慢にならない自慢だ。
フェイリスは半分まで飲んだグラスを置くと、樹楊に顔を向ける。樹楊も、相変わらずとろんとした目をしているが、真面目な表情を返してくれた。
何でこの男は人の気持ちを的確に見抜けるのだろうか。こちらが真に伝えたい思いを抱いた瞬間、この男は真面目になる。
……敵わないなあ、ホント。
「ね、樹楊くん」
「うん?」
「私の歌、聞いてくれる?」
頷く樹楊に笑みを向ければ、マスターも了承してくれた。バイトの女の子はフェイリスの歌を生で聞ける、と感激している。他の客もそれに気付いたのか、フェイリスの歩みを目で追う。そこにはクルード兵も混じっており、今この場は敵も味方もない。その人達を前に、フェイリスは歌うと決めた。
今から披露する歌は、フェイリスが一番聞かせたい人に歌ってあげられなかった歌だ。ずっと、ずっと心に残っていた思いが込められた、そんな歌。
フェイリスが酒場の隅に置いてあるグランドピアノに座ると、鍵盤を指で撫でて瞳を閉じる。
今から歌う歌を、覚えていて。
穏やかな日々がどんなに幸せな事なのか。空が青い事がどんなに綺麗な事なのか。月が巡る日々がどんなに当り前な事か。笑える事がどんなに安らげる事なのか。
感じてほしい。気付いてほしい。
今この時代に……「何時までも傍に居る」という言葉を紡ぐのが、どんなに苦しい事なのか。この時代に人を愛する事がどんなに辛い事なのか。
すう……っ、息を吸い、鍵盤を指で優しく押す。
静かで穏やかなメロディーが流れ、場の雰囲気が一気に安らかなものとなった。二階に居た客もぞろぞろと出てきては、フェイリスを目に認め、聞く姿勢に入った。
しかし、紡がれた歌――その言葉は今時代の言葉ではなかった。不可解な言語に客達は首を傾げそうになったのだが、フェイリスの歌はそれを許さない。一瞬にして自分の世界に引き込み、離さない。客達は耳に優しく触れる歌声に瞳を閉じ、聞き入っていた。与えられる世界が、あまりにも穏やかで幸せで……。誰もがその世界に身を委ねている。
樹楊もその一人で、肘を立てて頭を支えている。
「ガーデル時代の言葉……?」
いつの間にか隣りに居たサクラは少しばかり驚いていたが、すぐに優しい弧を描いた瞳をした。
「フェイリスの歌……、もう俺に響かないと思っていたのにな」
「そう思っていたなら、今まで聞いていた歌はきっと偽物ね」
「偽物?」
「そ。フェイリスの歌は無条件で心に響くから」
樹楊はそれ以上何も聞かず、目を閉じた。
「眠くなる歌だな」
「だろうね。これは子守唄だから」
「そっか」樹楊は呟くと口端を僅かに上げ、腕を枕にした。そしてすぐに寝息を立てる。その髪をサクラは撫で、幸せそうに瞳を閉じてフェイリスの歌声に耳を傾ける。
――ねぇ、樹楊くん。アナタには幸せな未来が訪れる事はない。周りがどんなに望んでも、アナタがどんなに願っても、本当の幸せを掴む事は出来ない。
――訪れる幸せの種は芽吹くけど、すぐに枯れてしまう。刈り取られてしまう。それがアナタの歩む道なんだ。愛する人が居たとしたら、きっとその人は死んでしまうだろう。護りたい人が居ても護りきれないだろう。
――アナタには世界を憎む権利が与えられている。誰よりも泣く事を許されている。怒りに身を委ねていいんだ。何もかも憎んでいいんだ。かつての私のように、きっとアナタは訪れる悲劇に心を壊される。それは必然なんだ。そう創られている。
――私には何も出来ない。アナタの運命を変える事なんか出来ない。訪れるだろう悲しみを和らげてあげる事さえも出来ないんだ。
――けどね、せめてこの歌をアナタだけに捧げる。今だけは穏やかに眠れるように願うから。アナタが生きてきた時間、生きていく時間のこの狭間で私が出来る唯一の事だから。
ガーデル時代の言語で歌う、花鳥風月の美しいフェイリスの歌は樹楊だけに届いたのか。サクラの横で、まるで木漏れ日に包まれて昼寝するような樹楊の嬉しそうな寝顔があった。
◆
前触れもなく聞こえてきたフェイリスの歌を余す事無く耳に留めたテンレイは、自室に戻りベッドに腰を下ろした。部屋の明かりは卓上ライトのみで、テンレイの横顔を頼りなく照らしている。そうやって一時間ほど呆けて過ごした。
テンレイはポケットから隊長の形見でもあるネックレスを取り出すと、悲しげに微笑んだ。安っぽい銀細工がトップのネックレスで、去年テンレイがプレゼントしたものだ。
あの時の隊長、レイティーの顔は今思い出しても笑える。
女である事を捨てた、つまり女の幸せを自ら手放したレイティーが、年頃の女性が身に付けるペンダントを見ると顔を赤くしまんざらでもなさそうに、だが口では「贈り物なら仕方ない」と言って首に掛けてくれた。
それをからかえば、やはり恥ずかしそうに怒ってきた。レイティーの部下であり家族でもある皆もその光景に笑みを浮かべ――……幸せだったなぁ。
テンレイは涙ぐむと、ペンダントを両手で包み、それを額に添える。
「姉さん……」
泣いてやれ。
樹楊のその言葉が涙腺を刺激する。
次第に固く結んでいた口が歪み始め、鼻頭がツンとしてくる。遂には肩も震えだした、のだが。
「おじゃま」
ノックも無しに扉が開く。そこには鼻頭を赤くした樹楊の姿があるが、こちらは酒の所為で赤くなっているのだろう。足元も覚束ない。
涙目で呆気に取られていると樹楊が腕を組んで、まずはしゃっくりをする。
「なーに泣こうとしてんだ?」
「え?」
「お前が泣くなんて十年と二日早い」
「え、えぇえ……ええええええええええええええっ?」
泣けと言ったくせに。泣いてやれってカッコよく言ったくせに、今度は泣くなと?
不思議な人だとは思っていたが、こうまで変わっているとどうしていいか解らない。
そんなばかな。
流れそうな涙が引っ込んでしまったテンレイの腕を樹楊が掴んで歩き出す。部屋を出て酒場の裏口を出て、暗い街中をずんずんと進んでいく。
「ど、何処へ連れていくんですか?」
「外。街の外だ」
「外っ? 何を」
「黙って着いて来いって」
と、言う樹楊だが千鳥足もいいところで、結局はテンレイが外まで肩を貸す破目となる。そして街を出ると、樹楊に指示を出されて近くの林の中へと向かう。しかしテンレイは途中で歩みを止める。何故なら、そこにはレイティーの亡骸があるからだ。母国までの道のりの中で腐らないようにと、専用の棺桶に寝かせている。
「樹楊さん、この先は……」
「おお知ってる。お前の仲間に聞いてな。皆も待ってる」
「え? 待って、いる? 皆が?」
こくこくと頷く樹楊が一人で歩き出し、地から飛び出た小石に躓いてこける。それでも起き上がると、ふらふらと林の中に入っていった。それに着いていかないわけにもいかなく、何が目的なのか不思議に思いながら向かう。
そして着いた場所に、確かに皆がいた。レイティーの棺桶を囲むように立っている。樹楊は、と見渡せば。
「お、おぅええええっ」
吐いている。仲間が健気にその背中をさすっていた。
本当に何が目的なのか解らない。中立地点である街の外であるここで殺し合いを、と考えもしたが、樹楊に限ってそれはないだろうと思い止まる。そもそも、樹楊は戦える状態ではない。そして不思議な事に仲間達も樹楊に危害を加えようとはしない。きっと酒場での一連の出来事が効いているのだろう。
だが滑稽な光景だ。クルード兵が酔っ払いのスクライド兵を介護している。本当に戦争中なのか、解らなくなってくる。
介護を代ろう、そして何をしにきたのか聞こうと樹楊に歩み寄ろうとしたのだが、突き刺すような視線を感じて歩を止めた。その視線を辿れば。
「何よ」
「…………え?」
「え、じゃないわよ」
不貞腐れる十歳くらいの女の子が居た。居た、というより、ロープで木に括りつけられている。まるで誘拐されたかのようなその少女はパジャマ姿で、傍にクマのぬいぐるみが落ちている。
「え、ええ? えーと、キミは何でここに?」
「そこで吐いてる馬鹿に聞いてよ」
声もやはり幼い。
本当に誘拐だろうか? それにしても少女は強気で不機嫌だ。
前髪が眉の上でパッツリと切り揃えられていて、薄い眉。そして寝ていただろう証拠でもある寝癖が装備されていた。
「樹楊さん? これは。えーと……」
「お、おおう。ちょっち待って。今説明を、ををおおおぉえ」
えろえろ、と吐いて取り合えずスッキリしたのかペットボトルの水でうがいをする。
「そのガキンチョはな、俺が連れてきた」
「そ、それは何となくだけど解ります」
「無理矢理じゃないっ。今何時だと思ってんのよ」
「お前の仕事だろー?」
「私はまだ見習いだって何度言えばいいのよ」
「仕事って? え、見習い?」
「お父さんが帰ってくるまで待ってって言ってるでしょーがっ」
「知るかっ。急ぎなんだよ、俺は」
「だから、仕事って何のです? ねぇ」
やんややんやと言い争う二人に質問を繰り返すテンレイだが、二人に「うるさい!」と一喝されて押し黙ってしまう。
「だから、私はまだ資格を持ってないの!」とは、木にぐるぐる巻きにされている少女の便。
「資格だのなんだのって、関係あるか」とは、その少女の髪をぐしゃぐしゃに弄る樹楊の便だ。
「解いてよっ。お家に帰るの! 髪を触るなっ、ゲロっぴ!」
「ゲロッピ言うなっ。生意気なガキだな、お前はっ」
「痛ぁ! ま、眉毛むしったね! 今、眉毛むしったよね!」
何と言うか、女子供に容赦ない男である。脛を蹴られて悶絶しているが、どう見ても悪は樹楊だろう。少女は元から薄い眉を気にしているのか、ギャンギャン騒ぐ。
それはもうどうでもいいとして、本当に何をしに来たのか気になり、タイミングを見計らって聞いてみると、樹楊が真面目な顔で振り返ってくる。
「お前の隊長の事だよ」
「姉さん、の事ですか?」
ちらっと少女を見れば、不貞腐れ顔を返される。
「私は葬迷師なのよ。と言っても見習いなんだけど、ね!」
語尾を強め、がるるるっと牙を剥く少女にテンレイは気圧されるが、やっと理解出来た。樹楊はレイティーを送り出そうとしているのだ。
今は大戦中であり、レイティーを自分らの手で母国まで送り届けるのは難しい。かと言ってこのまま傍に置いておくわけにもいかず、派遣される葬迷師に預ける運びとなってしまう。
大戦中に運ばれる死者の数は膨大だ。葬迷師の数は多くはなく、順を追えばレイティーが送られるのは何時になる事か解らない。その間、レイティーは現世で放置されてしまうのだ。死んでまでこの世に留められる事は、どんなに辛い事か。安らかに眠りたいだろうに。
その事を見越した樹楊がわざわざ葬迷師を連れてきたのだろう。その気使いは嬉しいのだが、テンレイは頷けない。頷きたくないのだ。まだ、姉を離したくない。苦しめると解っていても、手放したくない思いに駆られている。
「死者の魂、数え九十九まで」
聞き慣れない言葉に目を向ければ、少女が極めて真面目な顔をしていた。木に括りつけられていて説得力に欠けるが。
「死んだ人の魂は、亡くなったその時から九十九日までしか持たないって事なの。それを過ぎてしまえば、その人は死者でも何でもなくなる。ただの塊になってしまうの。葬迷師に伝わる言葉よ」
九十九日……。
このままクルードの葬迷師に任せれば、明らかにそれを越えてしまうだろう。その定義は何の確証もない言葉かもしれないが、何も信仰していないテンレイにとっても心に突き刺さるものがあった。
「やるな、がきんちょ」
「触んないでよ、えっち! って言うか基本よっ。知っていたところで私には死者を送り出す資格がないの、まだ許可されてないんだからっ。葬魂の儀を行いたいんなら、お父さんを待っててよ」
「何時やってくれるんだ? それはその数え九十九に間に合うのか?」
「そ、それはっ……」
スクライドとてクルードと同じ状況である事には変わりないのだ。少女の父親も、忙しいのだろう。
「でも私はまだ」
「いいんだよ、別に。お前らの決め事なんて、どうでもいい」
樹楊の適当な声音に少女が驚愕し、怒りに顔を染めていく。そしてそれが爆発しそうになるが、樹楊が先に口を開く。
「お前らの仕事を馬鹿にしてるわけじゃない。お前が自分に資格がないって言うのも解る。大事な事だもんな。でもお前がやってくれる事で救われる魂もあるんだ。もし資格がないお前に罰とか何もないって言うなら」
樹楊は深々と頭を下げる。
「頼む。この人に必要なのはお前らの資格とやらじゃなくて、お前らが持っている言葉と力なんだ。だから、頼む」
テンレイは心の底から驚く。
何故この人は敵である者の為にこうまでするのか。確かに少しばかり話しをした仲だけれど、ここまで尽くされる憶えはない。けれど、その心が嬉しい。樹楊の切実なその姿が、テンレイの心をも決めた。
「お願いします。僕達クルードの者が頼むのは間違いかもしれません。けれど、僕は姉さんを……送ってやりたい」
樹楊と同じく頭を下げるテンレイに仲間達も倣い、次々と頭を下げていく。少女は断りの音を口にしていたが、一向に上がらない頭の数々に溜め息を漏らした。
「解ったから、解いてくれる? 胸が苦しいの」
「まだ膨らんでねぇくせに?」
「し、失礼なっ。ちょっとは膨らみはじめてるもん!」
一言余計な樹楊だが、ロープを解く。少女は肩を回してまた溜め息を一つ。そしてテンレイの前に立った。
「大体の経緯は聞いたけど、アナタが一番親しい人?」
「ええ、血縁関係はないですが」
「いいよ、別に。大切なのはお互いの思いだから」
来て、と手を引かれ、レイティーの棺桶の前まで行く。横にあるボタンを押せば、棺桶は静かに開いた。
中で眠るレイティーの姿は穏やかで、愛しい。月明かりが、その姿を照らしていた。
「じゃあ始めるから、これを持っていて。本当は葬迷師に渡すんだけど、アナタなら問題なさそうだし」
渡されたのは、小瓶に入った水色の砂だった。コルクで封されていて、中で煌めいている。
「これは? 本当に僕で問題ないのですか?」
「うん。それは洗魂の砂っていう、まあ、火葬でいう火のようなモノ。それを『送ってあげたい』という気持ちで握っていて」
言われた通り両手で包み、レイティーの横に膝を着く。少女は瞳を閉じて満足そうに頷くと、懐から十字架を出した。魔法陣のような輪の中心に、透明な石の十字架が埋め込まれている、珍しい形をしていた。
「今ここに眠る羽なき子よ。愛しき者の思いを胸に、私の声を聞きなさい」
すると、テンレイが持つ砂が淡い輝きを放ち始めた。その唐突な変化に驚くが、取り乱してはいけないと瞳を閉じる。
「あなたの生はどのような光に照らされていたでしょうか? あなたの歩んだ道はどのような輝きに満ちていたでしょうか?
思い返しなさい。そこには沢山の笑顔がありました。小さな、それでも数え切れないほどの幸せがありました。
覚えていますか? あなたが喜びに微笑んだ日々を。悲しさに流した涙を。それらは全て幸せの欠片なのです。苦しい日も悲しい日も悔やむ日もあったでしょう。でもそれらの全ては、あなたの幸せを紡ぐ欠片だったのです。
今、あなたが悔やむ必要はありません。届いているでしょう? あなただけに捧げられる想いが。あなたを思う全ての者達があなたの安らかな眠りを願っています。愛しき思いを胸に祈っています。それは幸せな事なのです。何も悲しむ事はありません」
テンレイの脳裏にレイティーとの思い出が過ぎった。
葬迷師の少女の言葉通り、沢山の笑顔があった。対して、悲しい事や苦しい事もあった。けどそれが不幸だなんて、本当に思えなかった。それらがあって、ここまで来れたのだから。一緒に歩んで来れたのだから。
レイティーが切り拓き歩む道は輝きに満ちていて、笑顔が溢れていて、本当に幸せだった。ずっと隣りで歩んでいたかった。不器用な姉と馬鹿にしつつ、それでも誰か良い人に嫁いでいくのを夢見た事もある。きっと泣くのだろうけど、それでも幸せを願いたかった。そんな事を思い、歩む道は本当に幸せだった。
姉さん……僕達は幸せだったよ。
明るく駆けていくその背中を追う日々は、本当に幸せだったよ。
その姿を覚えている僕達は、迷わずに歩いて行けるよ。
だから心配しないで。
「子よ、あなたに羽を授けましょう。辿り着くべき場所に迷わず飛んで行ける羽を。そして高く飛び立った時、一度振り返りなさい。あなたを送る人達の愛しき笑顔がそこにあるから」
少女の指示を受け、テンレイは小瓶のコルクを取る。淡く輝く水色の砂は神秘的で、花のような香りがした。
「それを振りかけて」
これは火葬の火のようなモノと少女は言った。となると、レイティーは燃えてしまうのだろうか。それを考えれば、手が言う事を聞かなかった。
だが、樹楊が手を重ねてくる。
「姉さん、待ってるぞ?」
「……はい」
テンレイは頷き、震える手で小瓶を扱う。頭から爪先まで少しずつ、丁寧に砂を振りかけた。それを見届けた少女が何やら短い呪文を唱えれば、レイティーの身体が白っぽい水色の炎に包まれる。
それに飛びつきそうになったが、樹楊が肩を抱いてくれていたお陰で動かずにいられた。その炎はゆっくりとレイティーの身体を粒子に変えていく、花の香りを漂わせながら。燃えているのではなさそうだが、焼かれているようにしか見えない。
家族である皆の泣き声がレイティーに向けられている。
テンレイは膝を着いたまま樹楊に肩を抱かれ、呆け面でレイティーを見ていた。そのまま少女に問う。
「姉さんは、苦しんでないのでしょうか?」
「うん。苦しんでないよ」
「幸せだったのでしょうか?」
「それはあなたが一番良く知っているはずよ」
――テンレイ、ぼさっとするな。
よく言われた言葉が残響となっている。
――プ、プレゼント? 私にか? お、おお。ありがとう。
あの顔、目に焼き付いている。
――幸せになるからな。
良き夫を貰って、聞きたかった言葉。けれど、一度も聞けなかった。
「姉さんは……姉さんは」
声が震える。喉が、肩が、心が震える。
「熱くないのでしょうか?」
「これは燃えているんじゃないの。言葉通り、この世から送っているの。熱くなんてない」
その言葉に安心したテンレイは一粒の涙を流す。目尻から顎先にまで出来た涙の道筋に、一つ、また一つと涙が伝っていく。
「もう我慢すんな」
ゆっくりと向けば、樹楊が優しい顔をしていた。酒臭くもあったが、それが逆にテンレイを素直にさせる。その不可解で型破りな樹楊の在り方に、救われた。
「十年と二日……。もう経ちましたか?」
「とっくに。今は十年と三日目だ」
「早いですね、時は」
テンレイは一度だけ笑うと、徐々に顔を悲しみに染める。これで本当にお別れだと、寂しい気持ちでいっぱいだった。そして顔を俯かせ「……すみません」
そう呟き、ありったけの泣き声を上げた。堪えていた全ての感情を乗せ、テンレイは泣く。泣き叫ぶ。それに釣られ、仲間達の泣き声も遠慮のないものとなった。
それをレイティーは見てくれていたのだろうか。見てくれていたのなら、幸せな気持ちで逝けたのだろうか。
樹楊は夜空を見上げ、綺麗な夜空で良かったと呟く。
良かった、綺麗な夜空で。
良かった、樹楊さんと出会えて。
本当に良かった。
あなたを姉と呼ぶ人生で。
◇
もう悲しむ必要が無いくらいにテンレイは泣き、心は晴れ始めていた。レイティーの亡骸はもうなく、不必要となった棺桶があるだけ。それを見ると、本当に居なくなったんだなと実感するが、悲しみはない。
星空を見上げ、そこに居るだろうレイティーに微笑む。
「姉さん、僕は大丈夫だから。皆も姉さんの――」
「だから、タダなわけないでしょー! このゲロッぴ!」
「いいじゃねーか、初仕事っつー事でサービスしろよ!」
「み、皆も姉さ――」
「馬鹿じゃないの! あの砂、すっごく高いんだよ!」
「解った解った、プリンでいいか?」
「え、と。姉――」
「いいわけないでしょ! プリン百個でもお釣りがくるくらい――」
「じゃあ、二百個だ」
「に、二百……って、食べれないもん!」
「迷ったな? 今迷ったな、食い意地の張ってるガキだな」
「む、むかつくー! 寝ているところを叩き起こして無理矢理連れて来て、その言い草! アルト君を見習えっ」
「誰それ。好きな人? そうなんだろ、なあ?」
「うえ? う、うん……まあ、そうなるかな」
てへへ、と照れ笑いする少女を肘で突く樹楊。
だが話が反れた事を少女が思い出し、再び喰らい付く。
「変わってる奴だよな、あいつ」
「え? ああ、そうだね」
仲間の一人が肩を叩いてきた。彼も思いっきり泣いたのか、瞼が赤い。だけどすっきりした顔をしていた。今も樹楊を見て笑っている。他の仲間達も同じだ。
悲しいはずなのに凄く楽しい。葬迷師の少女に噛みつかれて振り払おうしている樹楊がいる。それを囲んで笑い合う仲間達。この光景こそが、望むべきものじゃないのだろうか。とても小さな規模の平和だが、それでも誰しもが望んでいるだろう世界の縮図だ。
樹楊が言っていた。
言葉を持つ人間が何故争わなければならないのか、と。
その言葉が良く解る。自分も同意見だ。
今までは死にたくないが為に、必死で戦ってきた。必死に敵を殺してきた。それが過ちだとは言わないが、正しい事でもなかった。生き延びる手段が敵を殺す事だけだとしても、決して正しい事ではない。
何時まで続くのかも解らないこの馬鹿騒ぎにテンレイは目を細め、再び夜空を見上げてみる。寒い四期の星よりも綺麗ではないが、心に残る星空だ。その星の間を縫うように、一つの流星が尾を引いていく。
「姉さん、僕達はこんなにも元気だよ。だから、安心して」
そよぐ風が頬を撫でていき、木の葉を静かに揺らす。
テンレイの心には悲しみの爪痕が刻まれたが、その痛みが生きている証しだ。レイティーと共に歩んだ自分である証しなのだ。この痛みを大切にしよう。
いつまでも。