第四十九話 ~たからもの~
雨雲の燃料でも切れたのか、あれほど振り続けていた豪雨も小雨となり、薄れゆくように止んでいく。黒く分厚い雲は空での役目を終えるかのように退散し、隠れていた太陽が主役を担い始める。
サクラは降り注いできた太陽の光をいち早く察し、天を軽く見上げる。
「勝利の陽光……って言いたいけど」
切れ長の瞳を冷酷に細め、唇は緩やかな線で結ばれる。見つめる先には、薄くなりつつある土埃の幕。樹楊もそれに倣い、固唾を呑んで見つめた。蓮が生きている事を願いたい。サクラの口ぶりからすると、蓮は生きている。しかし見せつけられた攻撃に原形を留めていられる者などいるのだろうか。
じっと目を凝らしているとやがて土埃は消え、代わりに赤い霧が現れた。その中心に立っているのは間違いなく蓮なのだが、やはり樹楊の知る蓮ではなかった。
相変わらず狂気に染まりきった笑みを浮かべ、無傷のまま突っ立っている。その姿を見れば、嬉しくもあり悲しくもあった。
「やっぱ効果ナシ、か」
サクラが呆れたように頭を掻く。それから何をしようとしたのか、一歩前へと踏み出すのだがその手を樹楊が取る。サクラは首を傾げるだけの仕草で疑問を浮かべ、それに対し、樹楊は弱々しく首を振るだけだった。そして自然と口から洩れた言葉は、懇願。
「殺さないで……くれ」
「へ? 何で?」
「仲間、友達なんだよ、蓮はっ」
ぎゅっと強く手首を握る樹楊にサクラは目を丸くし、更にきょとんとした顔で瞬きをすると蓮の方を見てから向き直ってくる。
「友達? あの呪刑者が?」
「う、うん」
「へー。珍しい事もあるものね」
呪刑者がねぇ、とぶつぶつ呟くサクラだが、思い立ったように笑顔を見せてくる。その微笑みに、樹楊は根拠のない安堵を覚えた。事実、サクラには打つ手があるようだ。
サクラは樹楊の手を優しく解くと金のバングルを外し、それを指先でくるくる回しながら前へと出る。
「仕方ない。ちょっと面倒だけど、元に戻してあげようじゃないか」
そう言い切るなり、外したバングルを空へと放る。
バングルは太陽の光を反射させながらくるくると回転し、上へ。しかしそのバングルが落ちてくる事はなかった。ある一定の高さまで上がったバングルは空に突き刺さったようにピタリと動きを止める。サクラはそのバングルの中心を目掛けて自身の髪の毛を一本、投げつける。
その髪は、サクラの手を離れると野太い鎖へと姿を変え、際限なく全長を伸ばしていく。そしてバングルの中を通ると今度は八つに分かれ、地を目掛けた。奇妙な刻印がびっしりと刻まれている八つの鎖が槍のように地へと突き刺さると、腕を組んでいたサクラがリズムを取るように爪先のみで地面を二度ほど叩く。
すると。
地が大きく立てに揺れ、樹楊らはバランスを崩すが危なげなく踏み止まる。その間にも地鳴りは響き、その音は地の底から這い上がってくるように大きくなっていく。その音が止む時には、八つの棺が地表に現れていた。
酷く錆びた鉄製の棺が、バングルを通った鎖に引っ張られて地の底から引き摺り出されたのだ。しかしこんな所に、しかも八つの棺など埋めはしないだろう。それくらい解っているだけに、何故棺が現れたのか。混乱する樹楊らにサクラは問う。
「ネクロマンシーを見るのは初めて?」
ネクロマンシー……死霊魔術。
未だに状況が理解できていない樹楊とサルギナだが、少しばかり遠くに居たラファエンジェロが顔を青白くさせていた。遅れてサルギナ、樹楊の順で理解を得ると八つの棺の扉が順に開いていく。中から現れたのは、勿論、死人だ。
赤茶けた長衣を纏い、衣類から出ている肌には汚れきった包帯が巻かれている。中には両目を完全に覆っている者も。それらはだらしなく立ち尽くし、何も喋らない。しかし明らかにサクラの言葉を待っていた。
「死戦徒、かよ」
「しせんと?」
サルギナの言葉に樹楊が問う。
するとサルギナは冷や汗を滲ませて自らが死戦徒と呼んだ者達に目を配る。それから説明をしてくれた。
死戦徒とは、勿論死霊魔術の一つであり、死霊魔術師の戦闘手段でもある。単に死人を蘇らせて操る『屍兵』とは違い、戦闘に特化された魔術だとも教えてくれた。サクラがその言葉に頷いていた事から、事実なのだろう。しかしサルギナの知識はやはり豊富だ。自分の知らない事をその脳に収めている。
感心する樹楊だが、事は進んでいく。
蓮の操る血霧がサクラに襲い掛かった。だが、サクラは干渉を受けないはずの血霧を裏拳気味に払い、消し去る。そして溜め息を薄く吐くと、一人の死人に目線を送る。その動作のみで通じ合えたのか、一人の死人は微かに頷くと背に担ぐように携えていたボロボロの大剣を両手に構え、蓮へと真っ直ぐに突っ込んでいく。
迎え撃つは血の霧。しかし死兵は軽やかな動きで避け、大剣を振るう。蓮は血霧を纏う手の平でこれを受け、流し、回し蹴りを放つ。
蓮の蹴りが直撃したというのに、死人はまるで堪えていない。吹っ飛びはしたのだが、何事もなかったかのように立ち上がる。それを傍観していたサクラだったのだが、一人だけでは対等に渡り合えないと判断したのだろう。もう一人の死人、髪が長く胸部が膨らんでいるところから女性と判断できる死人をも戦闘に参加させた。
死人達は生前、繋がりを持っていたのだろうか。二人の連携があまりにも鮮やかすぎる。攻める時、または防御に転ずる際にお互いをカバーし合っている。互いに足りない部分を補うかのように、ごく自然な連携だ。
そしてサクラと残る六人の死人はと言うと。
それぞれが異なる印を両手で結び、不可解な言語で詠唱を始めた。その詠唱は唱えると言うよりも、歌に近い響きだった。そよ風のように優しく澄んだ音色が幾多にも重なり合い、しかし調和がとれている。まるで交響曲だ。
樹楊は目の前で繰り広げられる未知なる展開に言葉を発せずにいた。サルギナも同じく、絶句していたのだが、樹楊とは違う意味合いを持っていたようだった。樹楊がそれに気付き、どうしたのかと尋ねれば、目線を蓮と二人の死人に注いだまま告げてくる。
「あの死人……尋常じゃねぇ強さだぞ?」
「見りゃ解る。二人掛かりとは言え、蓮と互角にやり合ってんだ」
実際は微かに押している。
確かにそれは驚愕に値するが、生という制限がない死人であれば、という考えも浮かんでくる故、言葉を失うほどではないと思っている樹楊なのだが、サルギナの言いたい事は違ったようだ。
「残る六人もあの二人と同じくらい強いとしても、キョウ、お前は平然としてられんのか?」
樹楊は眉根を寄せ、
「意味……解んねぇよ」
サルギナはハッとすると、一言だけの謝罪を挟み、教えてくれた。
屍兵、及び死戦徒を扱う際には一つの注意事項があるらしい。それはサルギナが文献から得た知識らしいのだが、間違いはないのだろう。その注意事項とは、
『術者は決して、己の力を超える者達を扱ってはならない』
と、言う事らしい。簡単に述べれば、だが。
理由の一つとして、術者の力を超える者が従う事は極稀らしい。大半は召喚主である術者に牙を向くようなのだが、それは当り前だと言う。何故なら、安らかに眠って来世を待つ魂を無理矢理従え、物のように扱うのだ。生まれ変わりを遮られたどころの話じゃない。屍兵や死戦徒などは、来世など未来永劫として訪れないのだ。だからこそ牙を向く。しかし、術者の力が己より強いとなれば話は別となり、従順になるとサルギナは言う。
「それの何に驚いてんだ?」
「キョウ、まだ解んねぇのか?」
サルギナは蓮と激戦を繰り広げている二人を指差し、
「あいつらと同等だろう死人があと六人居るんだぞ?」
「ああ、そうだな。だから何だってんだ?」
「言ったろ? 術者は己の力を超える者達を扱えないって。言っとくが、ギリギリ上回るだけじゃ駄目だ。圧倒的な力量の差が無ければ死人は扱えない」
樹楊は戦う二人の死人と、詠唱を続ける六人の死人を交互に見た後、サクラに目を止める。そしてサルギナの言う事の意味を理解出来ると、冷や汗が滲み出てきた。
「まさか……おいおい、そりゃ嘘だろ」
「だといいんだけどな。信じたくねぇけどよ…………」
サクラは地の底、死の先から呼びだした者達八人を相手にしても圧倒出来る力を持つ、という事実。サルギナの知識に間違いがなければ、そうなる。
魔力を放出した威力を見れば、その力が桁違いだという事は解るが、いくらなんでもソレは信じられない。
あの状態の蓮の相手をたった二人でしているのだ。その二人の力を凌駕するだけでも常軌を逸しているというのに、八人を相手にしても圧倒的な勝利を飾れるのは有り得ないとしか考えられなかった。
最早苦笑いするしか出来なかった樹楊だが、ここでとある事に気付く。
それは死人が纏う長衣の背にある紋章だった。酷く汚れていて見え辛いが、確かに紋章がある。緩やかな曲線と鋭い牙のような絵が重なるその紋章は、見た事がある。実際に、ではなく、文献で。
それは。
「あの紋章……え、確か、でも……」
「どうした? 見覚えでもあんのか?」
問うサルギナに頷き、今度は教えてやる、自分の得た知識を。
「あの紋章、前時代の」
「前時代の、何だ?」
――ガーデル王国の特殊部隊に与えられた紋章。
呼吸を奪われたサルギナに告げる。
「特殊戦場攻略部隊・砕羽。……あの紋章はその証しだ」
「そりゃ、お前らのオリジナルじゃねぇか……って、待て待て。だとすれば、だ。あの女…………何者なんだ? 死戦徒っていや、そいつらと何かしらの繋がりがある者じゃなけりゃ扱えない、はず……だ」
サルギナは額に手を当てながら、自分の言葉を確かめるように言う。
元々、死霊魔術師など存在しなくて当り前の世界で生きてきたのだ。興味本位で文献を読んでいたとしても、全てを覚えているわけではないのだろう。しかし、サルギナが言う事に間違いはなかった。
樹楊はサルギナの知識に信頼を寄せている。霞が掛っている記憶だとしても、それは変わらない。
「何かしらの繋がりって、どういう事だ?」
「あ、ああ。例えばだ、死んだお前を死戦徒として扱うには、互いにその姿や性格などを知っていなければいけない、らしい。深いところまでは解んねぇが、適当に呼び出して使う屍兵とは勝手が違うみたいでな。契約とは違うだろうけど……。まぁ、術者がお前の事を知っていても、死戦徒となるお前が術者の事を知らなければどうにもならないって事だ。……つまり」
サルギナの言葉を樹楊が繋げる。
「あの女と死戦徒には何らかの繋がりがあるって事、か。なるほどね。そりゃ混乱もするわな。砕羽っていや、前時代の奴らだ。あの女は何歳だってーの、って事だろ?」
首肯するサルギナは考える事を放棄したのか、苦笑を浮かべて蓮の戦闘に目をやる。それに倣うように樹楊も蓮へと目を向けた。
蓮は流麗な連携に押されてはいるが、怪我など負ってはいない。ただ単に防戦一方となっているだけだった。顔にも狂気の笑みが貼りついたままで、劣勢である事を感じさせない。
一方で、何らかの術式を複数人で発動させているサクラの足元には群青に輝く紋様が現れ始めていた。その紋様が扉のように見える。頼りなく明滅を繰り返し、それでも確実に形を成し始めていた。
サクラとその死人達は何の術式を構成しているのだろうか。詠唱も気が遠くなるほど長く、地に輝き始めているのは扉のような形をした魔法陣。扉にも見える。
目の前で次々と繰り出される、見た事も聞いた事もない術式に理解が及ばないのはラファエンジェロも同じようで、先程から声も発さずにただ見つめている。樹楊も同じだ。
と、呆けていると。
「おわっ!」
大きな塊が真正面から突っ込んできた。
見れば、それは人であり、薄汚れた長衣を纏うその背中は死戦徒のものだった。
条件反射で抱えてしまったものの、その死戦徒はただの一度も目をくれる事無く立ち上がる。勿論、謝罪もない。
どうやら蓮の反撃によるものだったらしいのだが、この展開にサクラは形のいい眉をぴくりと動かす。そして考える事もせず、術の詠唱を止めた。
「二人とも変わりなさい。門は召喚出来たから後は任せるわ」
二人とも、と言うのは勿論樹楊らの事ではなく蓮と戦っていた死戦徒の事であり、命令を受けた二人は軽く頷くと持ち場に着き、印を組んで詠唱に加わる。
それはそうと、地に輝く紋様は樹楊の推測通り門だったらしい。
サクラは散歩するような足取りで歩を進めると、蓮に向かって微笑む。受けた蓮も狂気じみた笑みを返し、唇に舌を這わせる。
見るからに機動性ゼロのサンダルのようなブーツで軽やかにステップを二度三度踏んだサクラは、予備動作すらも見せずに蓮に突っ込んでいく。まるで滑空するように。
迎撃してくる血の霧を手刀で難なく斬り裂き、ぐんぐんと距離を縮める。血霧を払うのは、やはり当たればダメージがあるからなのだろう。蓮もそれを見て取れているのだろうが、掠りもしないことに笑みを消し、焦りを表情に滲み出していた。
蓮が距離を離そうと後方へ跳躍する動作を見せた瞬間、サクラのスピードが爆発的に加速。まるで瞬間移動したかのように蓮の前へと現れ、腕を掴み、力づくで引き寄せ、薙ぎ払うようなひじ打ちをこめかみに打ち付ける。
「――――っが」
そこへ突き上げるように膝蹴りの追撃。
打ちおろしの殴打。
しかし蓮は地に身体の一部分を着ける事も許されず、嵐のような攻撃を受けた後、横蹴りで吹き飛ばされ、ようやく地に寝転ぶ事が出来た。
樹楊やサルギナは絶句し、息をする事さえも忘れていた。
動体視力には多少自信があった樹楊だが、サクラの攻撃の手が見えなかった。その華奢な身体が激しく動いていたのは解るが、どのような攻撃を仕掛けていたのかまでは解らなかったのだ。蓮が微かに宙に浮きながら小刻みに揺れ、気付けば吹っ飛ばされていた。その程度しか見えない。
所々、血霧の防御を入れていた蓮ではあったが、受けたダメージは余程のものだったのだろう。振るえる膝に手を着きながら立ち上がる。顔は怒りに染められ、犬歯を剥き出しにしている。そして時空に手を突っ込み、荒々しく剣を引き抜いた。
漆黒で時の魔光跡がはめられた機械剣だ。
魔光跡が淡い灰色の輝きを見せると、蓮の身体が陽炎のように揺れる。
蓮は勝利を確信したかのように薄らと笑みを浮かべていた。
相も変わらず狂人であり続ける蓮だが、ここで一つ、樹楊が異変に気付く。
「あ、れ? 血の霧が……消え、た?」
何気なく呟いた一言にサクラはハッとし一拍ほど蓮を見つめた後、振り返って八人の死戦徒達と完成されつつある術式を見た。そして軽く舌を打つ。まだ未完成なのだろう。しかし、何故焦り始めているのか、樹楊には解らなかった。
蓮はサクラが視線を戻すと、夢遊病のようにふらりふらりと歩み、だがすぐに歩を止める。
「っはは……はっ」
僅かな笑みを溢し、それは突然。
十を超える蓮の陽炎がサクラの周囲に姿を現す。そして統率が全く取れていないように、陽炎の蓮達が好き勝手に剣を振るう。
魔光跡の力を初めて見るだろうサルギナは目を見開くのは当り前と言えるが、樹楊すらも目を見開いている。それもそうだろう。
樹楊が目にした事がある蓮の動きはゆったりとしたものだった。しかし、今の蓮の動きは高速としか言えない。あんなの、見切れる訳がない。
サクラは次々と襲い掛かる、それぞれが必殺の力を持つ斬撃を軽やかに避ける。その動きも足運びも常人ではないのだが、消えては現れる蓮の姿と攻撃に手も出せずにいた。それでも、サクラは視線を忙しく動かす。目に映らぬ何かを捉えているかのように、左右上下へと。
このまま蓮による一方的な攻撃が予想されるが、それをあっさりと裏切るのがサクラだった。何もない空間へと片手を伸ばしたかと思えば、空気を潰すように力を入れる。すると、蓮の虚像は消えて行く一方となり、最終的には一体だけとなった蓮の姿がサクラの片手へと吸い込まれるように流れて行く。
「――がっ、ふぎっ」
現れたのは、サクラの片手に首を掴まれている蓮だった。
涎を口の端から流し、憎悪の塊のような瞳をサクラに向けている。
その蓮をサクラは無慈悲に地へと叩きつけ、固く握った拳を振るおうとするが、それは叶わず。後方へと吹き飛ばされた。
規則性のない回転をしながら吹き飛んだサクラだが、一度だけ身体を捻り、軽やかに着地する。それは樹楊のすぐ傍だった。
派手に吹き飛んだはずなのに外傷などは見られない。しかしサクラの表情は曇っていた。どうしたのか、と樹楊が尋ねようとするよりも僅かに早くサクラが謝罪を前置きしてきた。
「ごめんね、って何がだ?」
「うん、約束……守れないよ」
サクラの言う約束とは、蓮を殺さずに元に戻すという事。それが守れないと言う事は、つまり、蓮を殺そうとしているのだろう。その返答には樹楊が喰らい付かないわけもなく、その細い手首を握り締めた。
すると、サクラは。
「あのコ、シキガミって姓じゃない?」
「え? あ、ああ。確かそんなだった。けどそれが何だってんだ?」
唐突な質問に面を喰らいつつも答え、尋ね返せばサクラは嘆息した。
「その一族の事なんだけどね。頭がイッちゃってんのよ。『呪術こそ全て、最強。死霊魔術など我らが呪術に遠く及ばん』……なーんて威張っちゃって。でも、歪んだ思想の所為で淘汰されるや否や、世界を恨んでしまってね。陰でこそこそこそこそ呪術の改良を重ねてたのよ」
「だからそれがどうしたんだよ。それに蓮は――」
「あのコは最大の被害者よ」
蓮の侮辱をされたようで頭に血が上り掛けたが、憐みともとれるサクラの瞳に返す言葉が見つけれずにいた。
しかしサクラはお構いなしとばかりに続ける。
「あのコが一族から受けた呪術は、多分……『壱千年の嘆き』だと思う」
「それ……酷いのか?」
サクラの首肯。
「二度と生まれ変われないように、輪廻をも破壊する呪術よ。本来であれば、あのコはそれを受けた瞬間に死ぬはずだった。けど、恐らく呪術に気に入られたんだろうね。呪いはあのコの中で成長する事を選び、ずっと潜んでいた。精神を蝕んで、けど壊さないようにあのコの中に居た。そうする事で呪いの力が大きくなって、世を呑み込むまでとなった。あのコは呪いにとって、都合の良い入れ物にしか過ぎないのよ」
見て、と指差された方角、蓮を見ると明らかな異変を目に認める事が出来た。
蓮の身体は血の霧で出来た膜に覆われていて、姿が見えない。サクラが言うには、今はどんな攻撃も通じないらしい。そして。
「あの膜が破れた時、蓮と言う子は居なくなる。大雑把に分ければだけど、さっきまで私が戦っていたのは、呪刑形態の第二段階。次に現れるのは最終形態。つまり、蓮ってコじゃなくて、『壱千年の嘆き』そのものなのよ。そうなれば殺す事は不可能になるの。粉々に砕いても無駄。すぐに戻る。私に出来る事と言えば」
サクラが片手を軽く挙げると、死戦徒達の詠唱が大きく変化した。
先程まで綺麗な旋律を奏でていた詠唱は、まるで呪詛のように禍々しくなる。それに影響されたのか、地に浮かび上がっていた門のような模様も黒くなっていった。
「あのコを奈落の底よりも深い暗黒の最果てに落とす事だけ」
ネクロマンシーに詳しくもない樹楊がその意味を充分に理解できるわけも無かったが、サクラが『それ』をすれば、二度と蓮に会えない事だけは理解出来た。
圧倒的なまでに実力差を見せつける蓮を救える術も無く、赤の他人であるサクラに手助けしてもらっている上で言える事ではないが、それでも樹楊は言う。
「蓮を殺さないでくれ……。頼むよ、なあ」
しかしサクラは眉一つ動かさない。樹楊の思いの丈が伝わっていないわけではないだろうに、同情の欠片すら見せぬその表情は、酷く冷たい印象を受けた。
「悪いけど、私にだって目的があるの。それを壊す可能性が高い相手を見逃すわけにはいかない。それにね、蓮ってコはもう助からない。さっきも言ったけど『あれ』はもう呪いそのもの。引き剥がす事なんて出来ないし、殺す事も出来ない。だから、暗黒の牢獄に閉じ込めるのよ」
「そんな事したら、蓮は!」
「二度とこの世に出て来られないでしょうね。けど、アナタにとって蓮てコと」
サクラは地面を指差す。
「この世界全て――どっちが大切なの?」
サクラは言っている。
蓮を取るなら世界を諦めろ。
世界を取るなら蓮を諦めろ、と。
そんなの、比べるまでもない。
樹楊にとって、蓮を護りたい人達と天秤に掛けるまでもないのだ。ずっと前から、それこそ子供の頃から護り続けていたいと思っていた人達。出逢った仲間、友達。それらの全ての人達を見捨てるわけにはいかない。
もしかするとサクラが言っている事は、蓮を諦めさせる嘘なのかもしれないが、不思議な説得力があったのも確かだった。このままでは世界が滅びるかもしれないと、本気でそう思ってしまうほど、サクラの言葉には力や想いがあった。
「蓮は……蓮を諦めるしかない、のか?」
「他の人達を護りたいならね」
樹楊は項垂れたまま続ける。それは確認。
「他に方法は……」
「ない。少なくとも、私は知らない」
蓮を包んでいた膜が溶けるように消えていく。すると、蹲っていた蓮がゆらりと身体を起こす。見た目には変化などないが、雰囲気が更に変わった。樹楊の感覚では、もう人じゃない。サクラの言う通り、禍々しくも悲しい怨念の塊と感じる。
「蓮は……今、苦しんでるのかな?」
「きっとね。それとね、牢獄に閉じ込めると言っても、本当に閉じ込めるわけじゃないの。この世ではない別の空間で眠ってもらうだけ」
「そこに安らぎは?」
「安らぎしかないよ」
「穏やかな夢、見てられるか?」
「そうね、見る夢はきっと優しいよ」
「それなら…………蓮を」
脳裏に蘇ってくる、蓮との記憶が胸を締め付けてくる。
大喰らいで我儘で、危ない奴で……。それでも純粋で、幽かな微笑みには可愛らしさがあった。着いてくるその姿は仔犬のようで愛らしくもあり、不貞腐れた顔には以外と愛嬌があった。何より自分の事を必死で想ってくれた。必要としてくれた。
きょーくん。
その呼び名、結構好きだった。
「蓮を」
死んだ魚のような目が、印象的だった。
出逢った当初より、優しくなっていた。
きょーくん。
もう聞けない。
「蓮を、蓮を――……蓮を」
樹楊の目頭に溜まる涙が、鼻筋を通る。そして、地に落ちる一滴は想いの全て。
ぽたっ……、それは弾けた。
「解放してやってくれ」
サクラは淡く微笑むと樹楊の前で膝を折る。そして涙を人差し指で拭うと、慈愛に溢れた笑みを、一つ、残してくれる。
安心して。と、添えて。
再び立ち上がったサクラだったが、二、三歩ほど歩いた所で頭を大きく横へと振る。一瞬前にあったサクラの顔の残像を蓮の拳が貫いていた。
「後ろ、退いて!」
怒号にも似たサクラの叫びに樹楊はいち早く反応し、言われた通り、素早く横転してその場から離れた。それと同時にサクラの身体が吹き飛ばされ、樹楊の目が捉えたのは蹴飛ばした格好の蓮の姿――その残像だった。
蓮の本体は既に追撃に入っており、五発六発の攻撃を繰り出している。サクラは吹き飛ばされながらもこれをしっかりと防御し、負けじと攻撃を返している。
地に足を着けたサクラだが、じりじりと後退している。激しい攻防により、遂にサクラが岩壁を背にした。傍から見れば押されている。だが、優勢なのはサクラだった。
蓮が一つの攻撃の予備動作から終わりまでに、サクラは二発、少なくとも一発は攻撃を当てている。それからガードか避ける。その繰り返しだ。かと言って一撃も当てられていないかと言えば、そうでもない。所々で相討ちになってもいた。
このままいけば蓮の体力を充分に削る事が出来ただろう。しかし、サクラの履いていたサンダルのようなブーツという機動性が悪い靴が初めて牙を向く。
瞬きも許されぬほどの攻防の中、雨にぬかるんだ地というものもあり、僅かに滑らせてしまう。それを好機と見た蓮はすかさずサクラの頭を砕く勢いの蹴りを見舞った。
地を削り、転がるサクラの身体。
「いっ……たぁ」
むくり、と起き上がるが軽く膝を折り、頭に手を添えている。
「やっぱ素手じゃ限界があるなー」
と、樹楊らに目を配り、
「そこの金髪のお兄さん」
サルギナを指差す。
唐突で意味不明な指名にサルギナは目を丸めて自分を指差す。するとサクラはにこーっとして頷いた。
「ちょっち時間稼ぎしてくれる?」
「時間、稼――って俺がか!?」
「そ。一分もあれば充分だから」
無理無理、とばかりに首を振るサルギナだが「お願いっ」と、高尚な僧ですらだらしない顔をせざるを得ない魅惑的な微笑みをされてしまえば、顔を赤らめながらも腰を上げる。元々女性には弱いのだ。しかし、念を押す。
「一分だな? つーかそれ以上は無理っぽいぞ」
「大丈夫大丈夫。ありがとね」
ごほん、と空咳をし、得物であるハルバードを手放す。重い武器では不利とみての事だろう。それは正解だった。サルギナの目的は時間稼ぎ、ただそれだけなのだから。
歩を進めるサルギナに、樹楊が応援する。
「頑張れ、噛ませ犬」
「誰が噛ませ犬だ、こら!」
勢い良く振り返るサルギナだったが、怒りに歪めていた表情が元に戻っていく。見た先にあった樹楊の顔が、泣き出しそうな微笑みだったから。無理矢理にでも作った笑顔だったから。
サルギナは舌を打つと、
「男にそんな顔されても嬉しくねーよ。やる気を削ぐな、アホ」
拳を鳴らして蓮の前に立ちはだかる。
片手の平を軽く広げて前に突き出し、もう片手は引いて拳を作る。完全に防御に徹した構えだ。蓮はそれを知ってか、すぐさま攻撃に移る。
再度始まる激しい攻撃なのだが、サクラの時とは違い、サルギナの防戦一方が展開される。サルギナの頭は左右へと大きく振られ、腰も時折落ちる。攻撃をまともに受けているのが明らかだ。一つの攻撃を防いだその直後には次の攻撃をまともに受け、まるで相手になっていない。
だが、サルギナという男は真の実力者であり負けず嫌いでもある。明らかな実力差があったとしても、身体の機能が停止しない限り目が死ぬ事はない。
「っめんな!」
渾身の突きは蓮の鳩尾にめり込み、呼吸を奪った。そして頬骨に膝蹴りを見舞う。それでも身体能力の差が縮む事はなく、倍返しとばかりに攻撃を受ける。
誰に問うまでも無く勝ち目のない戦いに身を投じているサルギナだが、それを余所に小声で詠唱をするサクラ。サルギナの限界が見え始めた頃、宣告した通り一分でサクラの詠唱が終わる。
「もういいよ。ありがと」
軽い口調で告げられるや否や、サルギナは受け身を考えずに後方へと跳ぶ。やはり着地は失敗し、背に砂を着けた。いや、今のサルギナに華麗な着地を求めるのは困難な事だろう。
ゴロゴロと転がった先に着いた樹楊の傍で鼻血を拭い捨て、肩で息をしている。安堵から痛みを思い出したのか、酷く辛そうに顔を歪めてもいた。
「大丈夫、じゃなそうだな?」
「ああ。き……きっつー、げほっ! あー、くそっ。死ぬかと思った」
サルギナの身を案じつつも興味はサクラの方を向いていた。一体何の為に時間稼ぎをさせたのか。魔術の類である事は解っている。しかし「殺せない」といった手前、今度はどんな術を使うのかが気になっていた。
何せ、死霊魔術師が扱う術なのだ。常軌を逸しているに違いない。
ふと目をやった先に立つサクラの腰まで伸びた銀髪が微風に揺れる。背後からはどんな表情をしているのかは解りようもないが、その右手に轟々と渦巻く青黒い焔のようなものが生唾を呑ませる。
禍々しいとか、反して神々しいとか。
そのような言葉では表現できない異質な威圧感があった。
青黒い焔はサクラの手の平を中心として不規則に渦巻き、細かく乱舞している。
「瞳を奪われし悪神ディクルト・第弐の涙」
そう呟いたサクラは見えない何かを握り潰すように五指を曲げる。
すると揺らめいていた焔が手の平の中心に集まるように激しく渦巻き始めた。徐々に手の平の上に集約する青黒い焔は、やがて顔ほどの大きさの球体となる。
しかしサクラが更に力を込めれば、その球体が小さくなっていく。ただ小さくなっていくわけではない。
圧縮、圧縮圧縮。
ただひたすら力の圧縮をしていた。
球体が小さなボールほどまでになると、サクラは不敵に口角を釣り上げる。それから不吉でしかない声音を、艶のある唇の隙間から滑り落とした。
――悪神は涙をもって『光を奪い尽くす』
球体は淀んだ暗色で発光し、この場の全ての者を威圧した。
蓮も例外ではない。見れば、じりじりと後退り冷や汗まで流している。膝も微かに震えていた。
あの蓮が恐怖しているのだ。
それでも立ち向かおうとしているのか、奥歯を噛み締めて眉根をきつく寄せてサクラを睨んでいる。
あの球体はどれ程の力を持っているのか。全く想像がつかない。身体を満たすのは得体の知れない不安と恐怖のみ。指一本動かすのさえ躊躇われた。
そんな樹楊の心情など構いもしないのか、球体は更なる威圧を放出する。
球体の周りの空間が歪み、事もあろうか大気が裂け始めた。ビキビキと音を立て、何もないはずの空間に亀裂が入っていく。まるで渇いた泥の膜のように剥がれ落ちた大気は風に溶け、消える。
サクラが扱う『それ』は、間違いなく世界を傷つけている。亀裂から見えるのは闇。それだけだった。幻覚と思い込みたくて目を擦ろうとするも、手が動かない。本能が拒否している。怖い、死にたくない、と。
完全にこの場を支配したサクラが一歩前進すると、蓮は思い出したかのように身体をピクッと反応させた。しかしその顔には恐怖が貼り付いている。
サクラの足はまた一歩前へ。蓮は怖気づく。
しかしプライドというものがあってなのか、それとも恐怖故のものなのか。
「あっ、あぁああああああ!」
戦闘意欲に塗れた声で叫ぶと、ふわりと宙に浮く。その高さは人の身ほど。
その一定の高さを保つように浮遊し、胸を張ると、その胸の中心から無数の真紅の文字が溢れ出す。そしてそれらは蓮を護るように全方位へと広がり、円形となる。
まるで数多の文字で出来た球体だ。その一文字一文字が奇妙な形で、呪詛のようでもあった。
中心で浮いていた蓮が前方へと手をかざせば文字が点滅し、刺のような形状となる。そして順など関係なく、サクラへと向かって飛来。あるものは直線で、またあるものは曲線を描きながら。きりもみのように回転しているものもあった。
蓮はその攻撃に何を見出していたのだろうか。
時間稼ぎかそれとも破壊か。
何にせよ高威力には変わらないのだが、サクラは手にしている青黒い球体を前へとかざすだけだった。それだけで無数の刺達はサクラの遥か手前で砕けていく。無残に、呆気なく。
「どうしたの? 遠距離からじゃなきゃ怖いの?」
サクラの挑発に蓮が眉を跳ね上げ、宙を蹴って突進する。そして初撃をガードさせた事を皮切りに乱打。それは規則性などなくスマートでもない、ただの暴力だった。力でねじ伏せるだけの純粋な暴力。
そんな大振りの攻撃に隙が生まれるのは必然で、サクラがそれを見逃す事などないのもまた必然と言える。
蓮の踵落としを避けたサクラは右手に抑えつけていた球体である悪神ディクルト・第弐の涙を蓮の胸に目掛けて突き出す。だが、それは蓮の罠だった。
通り過ぎたはずの蓮の踵が途中で跳ね返り、サクラの右手を蹴り飛ばす。大きく上へと跳ね上がったサクラの右手には――――何もない。
誰しもがサクラの術が破られたのを確信した瞬間だった。蓮も勝ち誇ったように笑みを浮かべ、サクラの眉間を狙うように貫き手を構える。指先による一点集中の打撃である貫き手であれば、相手がサクラであろうと蓮ならば貫けるだろう。
サクラの右手はまだ戻らず、対して蓮の貫き手は放たれる寸前だ。勝敗は逆転していた。
次の瞬間までは。
サクラは夢にまで出てきそうなほどの不敵な笑みを浮かべ、左手を蓮へと向ける。その手の平には、悪神ディクルト・第弐の涙が。
どんな原理で右手から移動したのかは解らないが、確かにある。
蓮は、蓮を支配している呪いは初めて泣き出しそうな顔を生み出した。拭えない敗北感があるのだろう。その瞳には世界を傷つけている青黒い球体が鮮明に映っていた。
そして、やがて、一瞬の猶予も無く。
蓮の胸にサクラの左手が軽く触れた。
蓮は目を見開き、ようやく地に着地すると、胸を押さえながらよろめく。ふらふらと三歩ほど歩いた所で俯かせ気味だった顔を上げる。その目線の先には樹楊の姿があった。
か細く震える蓮の手が、見えない糸で釣られているかのように上がる。まるで助けを求めているかのように。そして何かを掴むかのように手を何度か開閉させ、それでも何も掴めない事を理解したのか、見ている側が辛くなるほどの笑みを浮かべる。
「れ、蓮?」
樹楊が問えば、蓮の唇が薄く開く。
同時に蓮の背中から大量の血が噴き出す。いや、血ではなく血で出来た霧だ。それらはまるで火山の噴火のように噴き出し、辺りを真っ赤に染め上げる。
それが止まれば、蓮も事切れたように地へと倒れた。
訪れる静寂、その中に死戦徒達による不協和音のような詠唱がひっそりと流れていた。
光の灯らない瞳を開きっぱなしにさせている蓮に樹楊が近づこうとするが、サクラがそれを柔らかく制する。
「死んでないよ、大丈夫。それよりもそこを動かないで。最後の仕上げといくから」
サクラは胸の前で複雑な印を結ぶと、ぼそっと一言だけ呟く。微かだが聞きとる事が出来た樹楊だったが、今まで生きてきた中でその発音の言語などない言葉だった。
次に宙に文字を描くように指を滑らせたサクラが、また印を結び直す。そしてまた理解不能の言語を漏らした。
すると、死戦徒達の前の地に浮かんでいた門が消え、蓮の下に現れる。その模様はハッキリとしたものとなり、途端、眩い輝きを放つ。
あまりにも唐突な発光に樹楊は目を守ろうと眼前で腕を交差させる。そのお陰か、何が起こっているのか、何となくだが解った。
蓮の下敷きとなっている地が白く発光。そして凪の湖面のように蓮の姿を反射させていた。蓮は明らかな異変に気付き、満身創痍の身体に鞭を打って起き上がる。その身体が、底無しの沼に落ちるようにゆったりと地へと吸い込まれていく。
どれだけ暴れようとも抵抗など出来ず、手を伸ばそうにもその範囲から外れる事など出来ないでいた。地に爪を立てようとするも、身体と同じく地へと沈むだけだった。
ずずず、と沈んでいく蓮が直視する者は、やはりと言うべきか樹楊だけ。絶望を浮かべた表情で手を伸ばしてもいる。
樹楊だって解っている。サクラに『あれ』は呪い本体である事を理解させられた。だけど姿は蓮のままで。顔は蓮のままで。樹楊が良く知る蓮のままなのだ。
このままでいいわけがない。だけど仮にも助ける事が出来たら、その後はどうなる? 護りたい人達が居るんだ。それに自分から蓮の事を任せた上で、助けてもらった身の上で、サクラを裏切るわけにはいかない。
見捨てろ、見捨てろっ、見捨てろ!
目を閉じていれば、すぐに終わるんだ。あと少しだけ我慢すれば、全てが丸く収まる。だから、見捨てろ!
そう自分に言い聞かせる。
ぐっと力の限り目を閉じていると、瞼に焼き付いているアイツの顔が見えた。
いつも無愛想だった、アイツの顔が。
アイツは何の為に命を落とした? 自分を助けてくれた?
誰よりも蓮を思い、誰よりも蓮を護り続けていたかったアイツ。
そんなアイツは、何て言った?
『私は多分……間違ってないから』
……いや、間違っている。自己犠牲なんざ、間違いだらけだ。
けれど、これ以上お前の死に過ちを重ねさせやしない。
お前が捨てた命をこれ以上無駄に何かさせてなるものか。
お前なら、お前であれば、お前だから――蓮がどんな蓮であっても助ける事に迷いなんか持たない。
だろ?
――――ゼクト。
樹楊は吹っ切れた顔をすると、蓮に顔を向ける。目があった。救いを求めていた。
まだ立ち上がれる。
樹楊の次の行動をいち早く察したのはサクラであり、サルギナに向かって声を張り上げる。
「そのコを止めて! 呑まれたら終わりよ!」
サルギナは呆気に取られたが、それも一瞬だった。
屈伸させた足を伸ばした樹楊に向かって飛び掛かり、抱き締めて転がる。
襟首を掴み、サルギナが焦りと怒りを混ぜ込んだ声を上から落とす。
「何やってんだ、お前は!」
「決まってんだろ、助ける!」
「聞いただろ、お前も巻き添えを喰らうぞ!」
「知るか、んな事! 退けよ!」
動きを止める事が出来た事に安心したのか、サクラも一息吐く。しかし不安を滲ませているのは、そこを動けないからなのだろう。
「お前はもっと自分の事を考えろ! お前は砕羽の軍師だろォが! 戦はこれで終わりじゃねぇんだよ!」
「だから蓮を助けるんだよ! この先に蓮は必要不可欠だ! 例えどんな蓮であっても俺は味方につけてやる!」
嘘だ。戦の事なんか考えてはいなく、思いっきり個人的な感情を元にしている。
サルギナの表情は更に険しくなり、力を一層込めてきた。
「解ってんのか!」
「何がだよ!」
「お前を大切に思っている奴がどんだけいると思ってんだ!」
サルギナは樹楊の身体を地に打ち付け、殺さんばかりの形相で睨みつける。その間にも蓮は沈み続け、今となっては肩から上が見える程度だ。急がなければ間に合わない。
「お前が死んだら悲しむ奴が大勢いる!」
――勝手な事言いやがって。
「お前にも護るモンがあんだろ!」
……だからこれ以上失いたくないんだよ。
少しも引かない表情で睨み返す樹楊に、サルギナはここぞとばかりに吠えた。
「この戦にはお前が必要なんだ、目の前の犠牲に囚われてんじゃねぇ! 時には見捨てる覚悟も要るんだ! これ以上何かを失わない為によォ! お前が死んだらどうなると思ってんだ、ああ!? ミゼリアやアギ、紅葉達が悲しむだろ! 身を張ってここまで逃がしてくれたクルスもだ! 故郷の奴らにとってお前だけが希望なんだろ! いい加減、理解しろ! お前がいなくなったら誰が、どんだけの奴らが泣くと――」
「今泣いてんのは蓮だ!」
遮る樹楊の怒号はサルギナの時を止めた。
自分が何を背負っているのかは理解している。自分が死ねば、ニコ達の希望が失われる。それに悲しませるだろう。泣かせるだろう。それだけは何が何でも防ぎたい。
だけど、それは自分が死ねばの話だ。今、泣いているのは蓮だ。ニコ達じゃない。
だから救うべくは、まず、蓮。
樹楊はサルギナの隙を衝いて身体を撥ね退けると、今度こそ蓮へと向かって走り出した。
「くそっ」
サルギナの悪態の音を背に受けながら、もう顔の半分まで沈んでいる蓮を目指す。手がこちらに向けられ、今でも救いを求めているんだ。諦めやしない。
サクラは軽く舌を打つと、瞳を強く閉じて集中力を高める。蓮の沈む速度に変わりはないが、遂に蓮の身体は見えなくなる。
しかし樹楊は諦めなかった。
地に転がっている機械剣を手に取り、駆ける。
そして小さくなりつつあるサクラの術式に向かって飛び込んだ。しかしその幅は人の手の平程度。どう考えても樹楊の身体を呑み込めない大きさだ。
サクラが今度こそ心からの安堵の吐息を吐く。が、樹楊は諦めていなかった。
機械剣を淡い光となってしまった術式に突き刺す。
一見、無駄な抵抗かとも見えたが、違っていた。
術式の窄みは無くなり、一時停止する。
その光景にサクラは呆気に取られ、樹楊が持つ機械剣に埋め込まれている時の魔光跡が輝いたのを目に認めると驚愕した。
「しまっ――」
サクラの驚きの音は途絶え、術式が一瞬で膨らみ、そこから真っ白に発光する無数の腕が樹楊の身体に纏わりつく。瞬きも束の間、無数の腕達が樹楊を地に引き摺り込むと、術式が閉じた。
何の変哲もない地面に変わり、樹楊は姿を消し。
辺りには沈黙が流れる。
そんな中で崩れるように膝を折ったサクラに、サルギナが戸惑いながらも訊く。
「き、樹楊は?」
返された返事は否定を意味する力ない首の動きだけ。
サルギナはふらっと後退すると、サクラと同様に膝を折る事しか出来なかった。
◇
世界の意思の中。
樹楊はそこに身を投じた。
全身を包む世界は純白の色彩で、重力など感じられなかった。浮遊感はないが地と呼べるものが見当たらない上に、落ちている感覚なども無い事から、やはり浮いているのだろう。白一色だというのに、目も痛くはなかった。
本来であれば人が訪れる場所ではない。
後先など考えずにこの場所に飛び込んだのだが、隔離されたこの世界に訪れて見れば、何とも肩すかしを喰らった気分になる。
奈落の底よりも深い暗黒の最果て、とサクラが言うもんだから、待ち構えているのは漆黒の闇だとばかり思っていたのだ。
それはそうと、蓮の姿が見当たらない。
すぐに追い駆けてきたというのに、目を凝らして上下左右を確認したのだが何処にも見当たらないのだ。
もしかすると、蓮とは別の場所に飛ばされたのかもしれない。サクラの術式とこの世界の概念を知らぬ樹楊にとっては、至極当然の疑問だった。
それでも蓮を捜し回ろうと歩く素振りをしてみても進まず、泳いでみるも結果は何も変わらなかった。ただここに居るだけ。ひょっとして景色が変わらないから進んでいないと錯覚しているだけなのかも知れないが、兎に角、何も体感は出来なかった。
「……困った」
頭を乱暴に掻きながら、思わず独り言を呟く。そして取り敢えず剣を圧縮ポーチの中に収めた。
しかし本当にどうしようか。このまま退き返す気などさらさらないが、仮にそう決めたとしても向かえばいい場所も解らない。
正に八方塞がり。
重い重い溜め息を吐き、項垂れると、遥か下に何やら小さなモノを見つけた。
ここに来て初めて見る景色の変化に目を凝らしていれば、その小さな点は徐々に大きくなってくる。やがて、それが人である事に気付いた時は嬉しさと安堵が胸の奥から込み上げて来、自然と笑顔になった。
ここに居るのであれば間違いなく蓮だろうと根拠のない自信を胸に、その名を呼ぼうとしたが思い止まった。
その理由は、見えるのは頭なのだが、その髪の色が黒いからだった。身体も小さく、三歳くらいの子供だろうか?
……誰?
そう思いながらも黙っていると、自分の身体がその者の前に降り立った。
どうやらゆったりと下降していたらしい。
変わる事も無く一面純白の世界なのだが、足の裏に固い地を感じる。
樹楊は目の前で膝を抱えて俯く子供らしき者の顔を覗こうと膝を折り、首を傾げて見る。泣いているらしく、それでも堪えているのが解る哀しげな泣き方だった。
堪え切れない嗚咽が聞こえる。
自分には探さなければいけない人がいるから放っておいても良かったのだが、子供にそんな泣き方をされていれば、見捨てるわけにもいかなかった。
……いつからこんな道徳がある人間になったんだ。
自分に呆れながらもその子供の小さな頭を撫でる。すると、ぴたりと泣き止んだ。
「どうした、がきんちょ。何かあったのか?」
なるべく優しい声音を心掛けたのだが、反して子供は震え出し、恐る恐る顔を上げてくる。痛んだ髪がはらりと肩から滑る。だが、その顔は。
「れ、蓮?」
幼いが、間違いなく蓮その人だった。
その蓮と思しき子供は大きく身を引くと、顔を庇うように腕を交差させ、ぎゅっと目を瞑る。まるで恐怖そのものから身を護るように。
「ごめんなさい、ごめんなさいっ」
樹楊の心がその言葉に締め付けられる。
「もう泣かないから……だから、だから」
振るえる声で許しを請う、その少女。
蓮……なのだろうか。
あまりにもイメージからかけ離れ過ぎていて、疑ってしまう。だけど、蓮以外の誰でもないと心が教えてくれた。
「うーっ……うぅ……」
ボロボロに泣き、繰り返し繰り返し、何度も繰り返し許しを請う蓮。
この手で触れていいのだろうか? この血塗れの手で触れても大丈夫なのだろうか? 蓮は壊れてしまわないのだろうか。
今まで見た事のあるどんな生物よりも脆弱な蓮の姿に酷く戸惑った。ここに居る事さえも躊躇われた。いっその事見えない何処かへと姿を消した方が、安心してくれるのではないだろうか。……そう思ってしまうほど、蓮の姿は痛々しかった。
けれど、自分は蓮を見捨てるわけに来たわけじゃない。救う為だ。だから目の前に居る蓮が幼き姿でも、この手を差し伸べなければ。
「蓮」
「やっ、ごめんなさいっ。もう泣きません、ほんとうです。だから許して下さい……おねがい、おねがいします」
「なぁ、蓮」
そっと手の平を肩に重ねると、蓮は更に震え出し、慌てて口を押さえる。
「んうっ! ――――ぅえっ」
しかし、蓮は胃液を吐いた。つん、と刺激臭がする胃液は蓮の手の隙間からボタボタ勢い良く溢れ出し、真っ白な地に広がる。
簡単に吐くほどの恐怖を感じていたのだ、蓮は。こんなに幼いのに、どんな経験を積み重ねればこうなるのだろう。
樹楊の心は締め付けられるというほど優しいものではなく、握りつぶされそうなほどの圧力に侵されていた。目頭が熱くなる。唇が震える。
どうすればいい? どうすればいいんだ? 何て声を掛ければいいんだ? ここに居ていいのか? 救えるのか? 泣き止んでもらえるのか? むしろ傷付けるだけじゃないのか? どうすれば、どうすればどうすればどうすればどうすれば……。
重なり、連なり、打ち消し合う疑問に混乱していると、胃液を吐き終わった蓮が樹楊の足を見て息を呑む。顔を蒼白に染め上げ、再び震え上がった。
胃液が樹楊の靴の底に着いていたのだ。それもほんの少しだけ。
「あ、ああっ……、今拭きます、今、今っいますぐにっ」
異常なほどに震える手を伸ばしてくるが、樹楊はその手を取った。すると蓮はやはり身体を震わせて目を瞑る。歯を食い縛ってもいた。
樹楊は圧縮ポーチの中からハンカチを取り出して蓮の口を拭いてやり、手も拭いてあげた。丁寧に、優しく。これで警戒心と恐怖心を和らげてあげる事が出来るとは思っていないが、やはり蓮は眉を下げて恐怖に駆られた泣き顔を見せてくる。
人の善意を素直に受け取れもしないのか……。必ず裏があると思っているのだろう。それを心に置くのは、もっと大人になってからでもいいのに。捻くれた大人になってしまうが、それでも幼い子供が心に留めておくものではない。
歯を打ち鳴らし、樹楊から逃れようと弱々しく手を引いている。肩を縮ませ、背を丸め、膝を胸に。
樹楊が言うべき事と決めていた言葉はただ一つ。
「帰るぞ、蓮」
蓮は呆気に取られるも、すぐに震え始める。だが、掛けた言葉は正解から遠かったものの、間違いではなかった。
「お、……おうちに?」
帰ってきたのは、繋げる事が出来る言葉だ。
「違う。スクライド、だ」
「……すくらいど? ど、どこ? こわい?」
断る事もせずに疑問ばかりを投げかけてくる。本当は拒絶したいのだろう。だが、断れば返されるのは言葉ではなく暴力と考えているのだろう。蓮はその証拠とばかりに身を固めて暴力に備えている。
樹楊はにっこりと笑う。なるべく、少しでも恐れられない事を願う。
「俺が住んでいる国だ。怖くなんかない」
裏表のない性格から滲み出た故か、それとも詐欺師のように欺いてきた過去の経験が生み出した故か、蓮の震えが微かに小さくなる。
「おにいちゃんの? ほんとにこわくない?」
「ああ、本当だ」
「ぶたない?」
「勿論」
「笑っても……いい?」
「当り前だ」
「れん、悪い子だよ?」
「俺も悪い子だ」
「おにいちゃんは子供じゃな――っ!」
言いかけて、蓮はハッとしまた泣き出しそうになる。微かに警戒心が薄れていた蓮は、口答えをしてしまったと思ったのだろう。だがそんな事で怒る樹楊ではない。そもそも、子供相手に腹を立てる大人などいないだろう。だから樹楊は笑った。怖がらせないように、静かに柔らかく笑った。
「っくは。っはははっ。確かに俺は子供じゃなかったな。でもまだ若いんだぞ? ぴちぴちだっ」
「ぴち? ……新鮮?」
俺は魚か、と思いつつも笑顔のまま頷く。
ほんの僅かだが蓮も口元を綻ばせる。けれど、それが愛想笑いだと気付けるほど不自然な笑顔だった。相手の性格を無意識の内に読み、なるべく怒らせないようにしているのだろう。
また、胸が締め付けられる。
樹楊はすかさず両手を差し伸べるように広げた。
「蓮、お前が俺を信用できるなら一緒に来い」
蓮は両手を胸に添え、戸惑いの表情を浮かべる。だが、迷っているのだろう。何度も樹楊の顔色を窺って、呼吸を整えている。しかし踏み出してこない。
素直に信じてもらえないのは悔しいが、それでもこちらに攻撃性がない事だけは解ってくれたみたいだった。思案するのが、その結果だろう。
「一つだけ、約束する。それは絶対に破らない」
蓮が目を合わせてくるのを待ち、
「俺はお前を見捨てない」
確固たる思いでそっと伝えると蓮はハッとし、困惑しながらも手を伸ばしてくる。指先で樹楊の腕に触れては離し、また触れては離す。まるで、触れても怪我をしないか確かめるように、それは慎重だった。
呆れるくらい確かめた後、蓮はもう一度樹楊の目を見る。柔らかく微笑んでやれば、蓮はおずおずと近付いて来て、胸に手を添えてきた。
もう抱き締めてやりたいが、まだ我慢する。蓮はまだ警戒しているのだ。
やがて、蓮は胸に頬を当ててくる。息が荒い。
ここでようやく、樹楊は羽を閉じるように蓮を抱きしめる。まだ微かに触れる程度だが、包んでやる事が出来て涙が一粒だけ零れ落ちた。
「おにいちゃん……」
「何だ?」
囁き合うような言葉を交わし、蓮は訊いてくる。
「……泣いてもいい?」
さっきまで泣いていただろ、とは言わない。
「いいぞ。いっぱい泣け。泣き止むまで待っててやる」
「……ほんとに泣いてもいいの?」
声が震えている。
「ああ」
「いっぱい泣いてもいい?」
もう既に涙声だ。
「いい。もう、いいんだ」
「怒っ、らない? れんの――れんの事、ぶたない?」
嗚咽混じりの声に、樹楊の声も震える。
「当り前だ」
蓮は樹楊の胸に顔を埋める。
「あの、ね? もう……もう、ね」
息が苦しい。それほどまでに、蓮の悲しみが伝わってきた。
「れん………がまんしなくて」
「いいっ。我慢なんかすんなっ。馬鹿かお前は!」
我慢できなかった。蓮の言葉を最後まで聞くつもりだったのだが、もう我慢の限界だった。堪え切れる訳がない。
「……うん」
蓮は一度だけ頷くと、ひっく……と、肩を震わせた。
それを皮切りに、蓮の感情が徐々に漏れ始めてくる。まるでダムが決壊したかのように、蓮は……。
「んうっ…………うぅ。うあ――――ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ、っあああぁああああああぁぁぁっぁあああああ! あっ、あぁ、あああああああああああああっ、あああああああああああああああ!」
鼓膜が破れそうなほど、大きな泣き声だった。血を吐くような、獣のような……一体どれ程の悲しみを味わえば、堪えれば、こんな泣き方が出来るのだろうかと思わざるをえないほど、悲痛なものだった。
その爆発した泣き声は樹楊の胸を振動させる。そこでやっと、樹楊は蓮を強く抱き締めた。悲しみが広がっていくこの胸の中に、蓮に信じてもらえたという嬉しさが波紋のように広がっていく。
蓮の身体は当り前だが、それでも小さい。
酷く小さな身体だ。
抱き締めても抱き締めても腕に足りない程、小さな身体だ。
蓮は泣き叫ぶ。ありったけの感情を込められた思いがこの純白の世界に響き渡り、暫くの間、この時この場所は蓮の悲しみに彩られる。
蓮が泣き止むまでこうしているつもりだったのだが、突然、腕に感じていた温もりが消える。真っ白な世界が暗転し、漆黒の闇に染まりきった。
唐突な変化に戸惑いながらも、この世界は常軌を逸している事を思い出すと当然の結果かと変に納得する自分もいた。
折っていた膝を伸ばし、辺りを見回して瞼を閉じる。そして嘆息。その時、後方から淡い光と人の気配を感じる。だが、冷や汗を誘う妙な気配だ。決して心地いいものではない。
まずは視線だけを動かして首を連動させる。
「っな!」
見えたのは蔑む目をした無精髭の男だった。背中に張り付くように立っている。
樹楊は反射的に離れる。
男は松明を片手に、黙していた。
その奇妙な男と同じような輩が横一列に並んでいる。見れば、反対側にも同じような列が成されていた。
松明を持つ人々で出来た道の中央に樹楊はいる。どちらが進むべき道なのかは解りかねるが、尋常な雰囲気ではない事は確かだ。
「何なんだよ、お前らは」
返ってくる言葉など期待もせずに問うが、当り前に目の前の男からは返答など得られなかった。代りに、後方から返される。
「見るのは初めてか?」
中性的で甘い声に振り返ると、左頬に歪な紋章が描かれている女性が立っていた。
白い着物の袖に両手を入れ、冷え切った瞳を向けてきている。楽しげに歪む唇が狂人のそれにしか見えない。
警戒心から何も返せない樹楊に、女性は嘲笑うかのように鼻を鳴らす。
「阿呆面だな。初めて会うわけではなかろうに」
「は? 何処かで会った事ある、か?」
「っくく、まあいい。しかし、お前は見た目よりも阿呆だな。見捨ておけば良いものを、何故我を助ける気になどなった? 気でも触れたのか?」
我を……助ける?
いまいち理解に及ばない樹楊に、女性は遂に呆れた吐息を漏らす。
「壱千年の嘆き。織上の小娘に宿っていたのが我だ。解るか?」
「って、ええっ? あの血霧のか、お前。女……だったのか。つーか、性別なんてあったのかよ。その前に、人だったのか」
女性は可笑しそうに喉を鳴らし、自らの頬を撫でる。
「我の姿は、壱千年の嘆きにより死んだ最後の者の姿となる。この容姿の者が、最後に殺された者、というだけだ。ちなみに次の予定では織上の小娘の姿、となる」
女性が言うには、壱千年の嘆きという呪術は、この世で一つしか使えないらしい。つまり、何処かに壱千年の嘆きが存在していれば、使う事が出来ないという事だ。そしてその術は呪術でありながら召喚でもあるという。使用する時には術を構成するのではく、召喚する。故にこの世で一つしか存在出来ない。
それにより、壱千年の嘆きは時を経るにつれ使用されるにつれ、強大になっていく。多くの恐怖や憎悪などか力を増幅させる。
簡単にだが、そう説明された。
松明を持つ人々に自分達は見えないのだろう。当然だが、それが気味悪い。
しかし女性の姿をする呪いは気にも留めていないようだ。
「しかし、あの銀色の髪の女……。何処かで見た事があるような気がする」
不可解な事を言い出す。
「ま、それはどうでもいいが」
「なあ……………………えーと、何て呼べばいいのやら。まあ、呪。ここは何処なんだよ」
「随分簡単な名前を付けるな、お前は。それに粗末だ」
不満を述べるも、名乗る気はないらしい。ただずっと薄ら笑いを浮かべていて不快だ。最も彼女を構成する全てが負の念であるからなのかも知れないが。
「ここは織上の里だ。我とて、招かれたばかりでな」
「招かれた?」
「言ったろう? 我は召喚であると。教えるが、我はずっと前からお前を知っておる。我に時の概念など存在せぬからな。織上の小娘が呪刑される時、我はお前と出会っておった。この会話も二度目だ」
最も、今まで忘れていたがな。と、呪いは言う。
会った事もない存在に覚えられても忘れられていてもどうでもいいが、気になる言葉を吐かれた。
それは、織上の小娘――つまり、蓮が呪刑される時に出会っていた、と。そしてこの呪いは召喚される事で初めてこの世界に存在出来る。その結びつきは、つまり。
「まさか、今から蓮の呪刑が?」
「そうだ。この先に祭壇があってな、織上の連中が必死に呪詛を唱えておるわ」
「ちょっと待てよ!」
歩を進める呪いの肩を掴むと、冷たい瞳が向けられた。その異質な威圧感に気圧されるが、退くわけにはいかない。
「考え直してくれないか?」
「何をだ?」
「蓮の呪刑だよ。ここで呪刑されなければ、蓮は普通の人間でいられるんだろ? お前さえ思い止まってくれれば、この先――」
「やはり阿呆だな、お前は」
言葉を遮り、振り返ってくる呪い。俯いて唇を歪ませている。その呪いが顔を上げた時、樹楊の冷や汗が一気に増幅する。
呪いの顔は、狂気に染まりきったものだったからだ。
「我は呪いだ、壱千年の嘆きだ。人を苦しませ、憎悪させ、悔やませ、絶望させるのが我であり、我の楽しみだ! 存在意義だ! 思い止まる? 何を酔狂な事を。折角の得物を見逃せというのか、お前は。先程得物を見たがな、『アレ』は良い。憎悪の塊だ。悲しみに満ちておる。今は僅かな希望を親に抱いていおるが、呪刑された時、この世の全てを呪う。希望が砕け、全てが絶望と憎悪に染まった時――解らぬだろう、あの甘美な一時が! それを見逃せ、と? っははは! 阿呆よ、お前は! お前は我が助けを請うて、それに応じた。それでも我は感謝などせぬよ。お前が助けたかったのは織上の小娘であって、我などではないからな。感謝などする心は我にないわ」
そうか、と樹楊は思う。
こいつは呪術であって、人ではない。ここが特別な世界だから、人の形をしているのだろう。ただそれだけで、人ではないんだ。
それに、呪いが言う事が真実であればここは蓮の過去だ。過去など変えられない。もしかすると、呪いはそう言いたいのかもしれない。これはただそう思い込みたいだけなのだろうが。
「お前は悪役、というわけか」
「何の事か、お前の言う事は理解出来んな。最も、人からすれば悪には変わりないが」
純粋に疑問符を浮かべる呪いに、樹楊は続ける。
「銀髪のねーちゃんの術に吸い込まれる時、俺はお前も助けたかったんだと思う」
「………………」
「蓮はお前と一心同体なんだろ? お前は蓮の一部だ」
「我がここで思い止まれば、織上の小娘は普通の人間でいられる、とお前は言ったが? ここで思い止まらない我を、お前は助けに来て良かったと思えるのか?」
「過去は変えられない……だろ? それによく考えてみれば、さっき会った蓮は酷く人間に脅えていた。蓮がそうなったのも、織上の一族の所為だって事は簡単に想像がつく。ここで呪刑が失敗すれば、仮に過去を変えられたとしても、蓮はこの先もっと酷い目に合うんじゃないのか?」
「そんなのは知らぬ。ま、我で呪刑しようとするくらいだ。まともな人生は歩めまい。そもそも生きていられるか、それすらもな」
思った通り、呪いは悪役だ。それを演じているように見えてならない。この壱千年の嘆きを受けた人々も、元は人間だ。希望を持っていた人間だったのだ。何もかも憎んだ事があるだろう。でもそれは、希望の裏返しなんじゃないのかと思う。希望を持っているからこそ、憎んでしまう。樹楊はそう思う。
「この先、織上の小娘は我で暴走し、一族を根絶やしにする大量殺人者になるのだぞ? それでもお前はあの小娘を見捨てないと言うのか? ただの暴走ではない。醜いほどの憎悪で人を殺す。親も、兄弟も」
「そんなのは俺に関係ない」
眉根を寄せる呪いに、樹楊は続ける。
「俺は見知らない奴が死んで痛む心は持っていない。それに蓮をあそこまで追い込んだ奴らなら、尚更だ。見知らない奴よりも蓮の方が遥かに大事だからな。正当な防衛方法だ。例え蓮が悪魔の化身だとしても、俺は仲良くなっちまった。助けたいと思っちまったからな。だから、呪……蓮を頼む」
呪いは悲しげに目を細めると、背を向けて歩き出す。そして目線だけを向けてきた。着いてこい、と言っているのだろう。樹楊も倣って歩を進めれば、何も言わずに歩き出す。その背中に樹楊は願った。
蓮を助けてやってくれ、と。今蓮を救える者は、呪術である壱千年の嘆きだけなのだから。
ふと、呪いが足を止める。
「先程も言ったが、お前とはこれで二度目の会話となる」
「ああ、そう言ったな」
「だからこの先、お前が返す答えも解りきっておる」
「それがどうかしたか?」
うん、と呪いが眉根を僅かに下げた。
「お前という人間を解ってはおる。返す言葉を知っておる以上、訊く必要などないのだが、それでも訊かせてほしい」
呪いは、消えそうなほどか弱い声音を怪しい赤の唇から漏らす。
「もし我が……織上の小娘とは別に存在出来たとして、お前は何を思う?」
答えを知っているというのに、瞳が不安に揺れていた。何を思っているのかは解らない。どんな答えを期待しているのかは解らない。けど、やはりこの呪いも元は人間だったんだな、と思えた。憎んで憎んで憎んだ先に、小さな希望でも持っていたのだろうか。
もし、力になれるとするのなら――いや、今は考えるのは止めておこう。答えを返してやるのが先だ。
そうだな。そう、樹楊は呟き、
「美味い飯でも食いにいこうか、その程度だ。お前に思う事は」
「……そうか」
素っ気ない言葉を漏らす呪いであり、樹楊から表情を隠すように背を向けて歩き出す。その顔を樹楊は見る事は出来なかったのだが、振り返る際、口元が綻んでいたのは見えた。一瞬だったから見間違いかもしれないが。
この呪いは確かに畏怖なる存在なのかもしれないが、樹楊にとっては違うと言える。
蓮を救った初めての存在なのだ。
もしかすると、蓮がラファエンジェロと戦った時に暴走してしまったのは、この呪いが蓮を救おうとしたからなのではないだろうか。見境がつかなくなり、こちらにも牙を向いてしまっただけなのかもしれない。
先程「蓮を頼む」……と、自分がそう言い、呪いはその約束を守ってくれただけなのかもしれない。深読みである事は否めないが、それでいいと思う。これが勘違いであればそのままでいい。そう思う。
呪いに連れられ、何も出来ずに見た蓮の呪刑は酷いものだった。
四、五歳くらいの蓮は引き摺られながら祭壇まで連れて来られ、泣き叫んでいた。両親に救いの手を伸ばすも、蔑む目で見下され、手を払われる。そこで蓮の瞳は生気を失った。くりくりした瞳にぽっかりと穴が開いたような瞳孔。止まる涙。それは絶望を表現していた。
そして人形のようになった蓮は祭壇に寝かされ、周りでは術者が嘔吐を誘う気味の悪い詠唱を唱えて始める。
どんな思いに駆られるも、樹楊は黙って見ている他なかった。何も出来ないのだ。もし未来を変えられたとしても、自分で言った通り、ここで蓮が呪刑されなければこの先どんなに酷い目に合うか。それを考えれば、爪が手の平に突き刺さるほど拳を握り締めても、黙って見ているしかなかったのだ。
やがて詠唱が終わると、蓮の周囲に闇色の霧が羽衣のように踊り始める。そしてそれはいつの間にか姿を消した呪いであり、あっという間に蓮の身体の中に溶けていった。
蓮の胸が大きく跳ねると、絶叫する。それに乗じて周囲も宴のように騒がしくなるが、次の瞬間、それらの歓声が悲鳴へと変わりゆく。
蓮の中に入ったはずの霧が溢れ出し、周囲の者へと襲い掛かったのだ。
他の者の目にどう映ったのかは解らないが、樹楊の目には先程の呪いの顕現である女性の姿がハッキリと見えた。
素手で首を刈り取り、貫く。狂気の沙汰に、屍の山が累々と築き上げられた。
樹楊の隣りを蓮の母親が走り去ろうとするも、呪いは見逃さない。
背後から首根っこを掴むと、そのままへし折り、胸を貫き手で貫く。
「愚かな奴らよ……」
呪いはそう呟くと、次の者へと襲い掛かる。
悲鳴が重なり、夜空へと贈られる。それでも続く殺戮の宴。
それが終わると同時に蓮が起き上がる。無機質な目は屍の山に向けられるが、揺れる事はない。野畑の石ころを見るような目だ。だが、蓮は涙を流した。
その涙は悲しみからか、自らが生きながらえてしまったからか。
恐らく後者だろう。
樹楊は触れられない屍のを避けて通り、蓮の傍で膝を折る。何となく頭に手を添えると、触れる事が出来た。だが蓮は反応しない。虚空を眺めて涙するだけ。
「蓮……」
そう呟くと、また世界に異変が起こり始める。
闇が砕け、無数の木の葉のように落ちてくる。
樹楊は焦らず、圧縮ポーチの中から機械剣を取り出して時の魔光跡を外した。そしてそれを蓮に握らせる。
「……だれ?」
どうやら見えてはいなが、こちらの存在には気付いているらしい。微かに生気が戻った瞳が樹楊を探していた。
「蓮、この球を持ってろ」
「なんで?」
「御守りだ。いいか? この先、お前には友達が出来る。そいつは目付きの悪い女だけど、お前の事を心の底から大切にしてくれる女だ。そして更に時が立てば、赤い髪の女と出会う。そいつもお前を大切に思ってくれる」
崩れていく世界の中、蓮は何も喋らない。今更希望を持てと言った所で、何の慰めにもなりはしないだろうが、それでも伝えるべき事だ。
「そして俺もお前の味方であり続ける。今は一緒に居れないけど、この先、お前の未来で待ってる。絶対、待ってるから」
そこで世界は蓮と樹楊を切り離す。
しかし、再度訪れた真っ白な世界で、蓮が待っていた。それも殲鬼隊長衣を着た、今の姿のままで。
「きょーくん。やっと会えた」
「だな。やっと会えた」
蓮は微笑むと抱き着いてくる。そして胸の頬擦りすると、朗らかな表情で目を閉じる。樹楊も柔らかく抱き締め返してやり、頭を撫でた。
蓮は満足するまで抱き着いていると、そっと離れてポケットに手を入れる。その手は時の魔光跡を持って出てきた。
「これ、きょーくんが私にくれたんだね。知らなかったよ」
蓮は魔光跡を撫でると、また目を合わせてくる。
「これね、私の宝物なの。呪刑者となったあの日から手元にあって、何が何だか解らなかったけど、これを持ってると暖かい気持ちになれた。ずっと大切にしてた。けどね、きょーくんに出会う前、捨てられたの」
樹楊はゼクトの言葉を思い出した。
当初、赤麗は三十人ほど居たが、三分の一は蓮に殺された事。それは、蓮の大切な物を奪ったからだと言っていた。
……そういう理由か。
以前、白鳳から帰還する途中でブラスク族に襲われた事があった。その時、スネークから譲り受けた魔光跡を蓮が使った事があると言い、手渡した事があった。
この魔光跡の持ち主は、蓮だったのか。
でも、そうなると……。
「この魔光跡……どこから生まれたんだろうな? 子供の蓮が俺に渡され、捨てられた。そしてそれをスネークが手に入れて俺が譲り受ける。そんで俺がさっき子供の蓮に渡して……。あれ?」
疑問だ。魔光跡が構成される原理などは解らないが、あまりにも謎すぎる。しかし蓮は首を傾げる樹楊を見て、くすくすと笑い出す。
「きょーくん、かわいい」
「な、かわい……。だってそうだろうが。不思議に思うだろ」
「いいよ、そんな事」
蓮は微笑を浮かべ、
「これはきょーくんと私を繋いでくれる為に存在した。それだけでいい」
気恥ずかしくなった樹楊は、そっか、と頬を掻く。
ふふっと笑う蓮を見て、思った事があった。
よく笑う、表情が柔らかくなったなと。
蓮は上機嫌であり、手を差し伸べるのなら今しかない。
「蓮、帰ろうや」
「…………んう」
途端に曇る表情。
明らかに嫌そうで、首を縦に振ろうとはしてくれない。
「帰らなきゃ、駄目? ここにずっと……」
服の端をきゅっと握ってきては懇願の表情を向けてきた。それでやっと理解する。
サクラはここには安らぎしかない、と言っていた。樹楊にとっては何もない空間でつまらないが、蓮にとっては違うのだろう。ここには外敵がいないのだ。つまり、傷付ける者がいない。臆病な蓮が何処よりも安心できる場所なのだろう。
その気持ちが解らないわけではないが、樹楊にとってはここに残る選択などない。蓮を助けに来たのは確かなのだが、留まるつもりなど毛頭ないのだ。
「蓮、俺はこんな寂しい所は嫌だ」
俯く蓮だが、続ける。
「俺は意外と向こうの世界が好きなんだ。戦争なんてもんは嫌いだけど、俺の好きな世界なんだ。何でか解るか?」
「……馬鹿、だから?」
「ちが、言うに事を欠いてお前っ……。んーとな、俺はガキの頃、旅に出た事がある。こう見えてあの頃は強さばかり求めていたんだ。誰よりも強くなりたい、そんな目標を持っていたんだけど、ある日、それが変わっちまった。何でだと思う?」
「馬鹿だから?」
純粋に首を傾げる蓮を見れば、ふざけているわけではなさそうだと解るだけに少しばかりショックだったが、樹楊は気を取り直す。ついでに拳骨も落としておく。
「……んう。きょーくん、嫌い」
ぷるぷる震える蓮の頭に手を重ね、空咳を一つ。
「夢みたいな世界を見たからだ」
「夢? 解らない」
「だろうな。俺も何て言っていいか解らないんだけどよ、兎に角綺麗な所だった。ある森を抜け出て見たそこは、海みたいに広い湖。その湖を半円に囲むのは無数の滝で、湖面は鏡みたいだった。丘には色んな果物の木が立っていて野草も豊富でな、信じられねぇ事にそれを草食動物と肉食動物とで仲良く喰ってんだ。……驚いたよ。同時に人間の愚かさを知った。言葉が無い動物同士でさえ解り合えてんのに、人間ときたら争いばかりだ。どれだけ血を流せば解り合えるのか、心底不思議に思った」
蓮は聞き入るように、じいっと見つめてきている。それが素直に嬉しい。
「強くなりたい、自分のその思いが砕けた。代りに出来た目標……夢と言っても過言じゃないものが自分の中に生まれた」
そこで区切ると、蓮がうずうずした面持ちで服の裾を引っ張り、続きを催促してくる。興味津々といった様子だ。
樹楊は上を向く。果てしなく続く白い世界を見上げ、目を細めた。
「色んな世界を見たい、知りたい。そこには何があるのか。何もないのか。穏やかだろうか、それともソリュートゲニア大陸以上の乱世なのか。どんな文化があるんだろう……色んな想いに駆られた。それを考えただけでわくわくしてきてな、今、それを実現させる為に動いてくれている人がいる。俺はその世界に戻りたい。……蓮、お前が向こうの世界を怖がるのは解る。けどな、怖いだけじゃない。俺が見た世界があるように楽しい事だって沢山あるんだ。ただ今は見えてないだけ。この戦が終わったら旅に出てみるのもいいと思うぞ、俺は」
蓮は再度俯いて考えていたが、左程時間を掛けずに瞳を向けてきた。
「でも、私は色んな人を裏切ってばかり……」
今更受け入れてくれるのか……。そう問いたいのだろう。樹楊は優しく目を細めると、髪をぐしゃぐしゃと撫でる。
「大丈夫だ。人ってのは、本来優しいもんだ。蓮が過ちを心の底から謝罪すれば許してくれる。それにクルスはお前の味方だろ? イルラカだって心配してる。紅葉もお前の事を想っているから怒ってんだよ。大丈夫、お前の味方は多い」
「きょーくんは?」
「言っただろうが。俺はお前を見捨てない、味方であり続けるって」
伝えたい事は全て言葉にした。あとは蓮がどう思い、答えを出すか。それ次第になる。臆病な蓮だからこそ、解ってほしい事がある。知ってほしい事がある。それが伝わっただろうか、少しばかり不安な樹楊だった。
しかし蓮はさっぱりとした表情を浮かべると、こくりと頷く。
「きょーくんがそう言うなら、戻りたい。少し怖いけど、頑張る」
その決意があったからなのか、真っ白だった世界が急に歪み始める。傍に居るはずの蓮が遠くに感じたり、立っているのかも解らない状況に陥る。胃の中をかき混ぜられるような浮遊感が襲ってくると吐き気も催した。
「蓮! 大丈夫かっ」
叫ぶも、答えは返ってこない。
だが、頭の中に蓮の声が染み込んできた。
また会えたらいいね、と。寂しげに。
樹楊は叫んだ。蓮の名を何度も繰り返し呼ぶ。
だが自分の声すらも聞こえなくなり、遂には意識さえも混濁してくる。
最後に見たのは、蓮の優しい笑顔だった。
◆
サルギナが地に膝を着け、樹楊が消えた場所を虚ろな目で眺める。
消えてしまった。初めから何もなかったかのように、樹楊が消えてしまった。
何故手放してしまったのだろうか。蓮が泣いているからと言って、離してもいい手ではなかった。勿論、蓮の事も大事だ。犠牲にしてもいいと思ってなんかいない。けれど、樹楊までもが死んでしまったら、皆に合わせる顔が無い。
愕然とし、一度だけ樹楊の名を呟いたサルギナ。
そして天を仰ぐ。……と。
「っおおお!」
何か降ってきた。
「ぐはっ」
その何かに潰されたサルギナは身じろぎ、正体を確かめる。重さからして成人男性くらいの白い何か。まさか野生の動物が奇襲を仕掛けてきたわけでもあるまい。
「何だこのっ」
布団をひっくり返すように退けると、今し方消えた奴が穏やかな顔で気を失っているではないか。こいつは間違いなく樹楊だ。しかし、何故ここに?
疑問を解消できずにサクラを見たが、首を傾げられる始末だ。どうやらネクロマンサーでも解らない現象が起きたらしい。そうなれば、サルギナが考えても解るわけがないのだ。
「何で……? 確かにこのコは私の術で。戻ってこれるわけないのに」
「納得出来ねーかもしれないけど、こいつって前から変な奴でね。こいつならではのやり方で帰って来たのかも」
「そんな、嘘っ」
「でも現に帰ってきてるし」
そう言うとサクラは黙りこみ、樹楊の顔を覗く。その顔には徐々に安堵が広がり、愛おしさが滲み始めていた。その気持ちが何なのか知りたいサルギナであったが、訊くのも野暮かと黙っておく事に。
それはそうと、傷付いていたラファエンジェロがいない。
先程の戦闘に乗じて逃げたのか、忽然と姿を消している。
サルギナはサクラに樹楊を預けると首を鳴らしてハルバードを手にした。
ラファエンジェロは驚異的な力の持ち主だ。手負いだろうとなんだろうと、今の内に息の根を止めておかなければならない。
◆
「オ、オオオオオオオオォォォォォォォォォ!」
オルカの咆哮が大気を震わさんばかりに響き渡る。
その凄まじさにスクライド兵はおろか、味方であるクルード兵ですら身震いするものだった。
心を勇気で満たそうにも、その奥底から恐怖という感情を引き摺りだす威圧感を、紅葉も例外なく感じていた。
雨は既に上がり熱を帯びる陽射しに当てられているというのに、身体を覆うのは寒気のみだ。オルカが背に負うものはそこまでのものなのか。誰かに託せないのだろうか。いや、託せない。それくらいは解る。
だが、オルカはあまりにも幼い。その小さな身体で背負う夢などではないはずだ。
これまで幾度となくダメージを与えてきた。それなのに、オルカは倒れる事なくその華奢な二本の足で大地に立っている。紅葉もダメージを負ってはいるが、倒れる程ではない。
一度殺したくらいでは、終わりとは言えない。
そう感じるほどオルカという存在は大きかった。
肩で息をしているオルカが大きく息を吸うと、直線的に迫ってくる。
大鉈が袈裟切りに振るわれるが、紅葉は切っ先のみでその軌道を変えた。が、オルカはそれを先読みしていたのか、大鉈の軌道を修正しないばかりか全身で体当たりしてきた。
紅葉とてまともに喰らうほど弱くはなく、後方に自らも跳んで衝撃を和らげていた。そこへオルカによる炎の弾丸が乱舞しながら追撃してくる。これを交差させた腕でガードして何とかやり過ごすが、後方に現れたオルカの斬撃に体勢を崩して交わすしかなかった。
オルカはその紅葉へ手をかざすと、またもや炎の弾を放つ。紅葉はこれを避けるが、その先に待っていたのは、氷の隆起だった。
「――っか、は」
鳩尾にまともに入り、呼吸が止まる。一瞬、意識を途切れさせた紅葉に火炎弾が強襲してくる。無防備のまま火炎弾の餌食になった紅葉の背を、氷の飛礫が襲う。
息がまたもや止められ、よろよろと前によろめく紅葉の瞳は虚ろだ。これを好機と見たオルカが素早く距離を詰め、大鉈を横薙ぎに構える。
一閃。
誰しもが紅葉の負けを見たはずだったのだが、その本人が未来を裏切る。
寸前で屈み、避けたのだ。
次の瞬間にはオルカの身体がくの字に曲がり、また次の瞬間には頭が弾けたように後方へと振られる。見れば、紅葉が肘を空に突き出していた。
オルカは後方回し蹴りを喰らうと吹き飛び、ビルの壁に叩きつけられるが、何事もなかったかのように立ち上がる。
しかし、五歩も歩かないうちに両手を地に着いた。
「あ、あれ?」
オルカの目と耳から血が流れてくる。
それは身体の悲鳴だ。見るからに限界をとうに超えている。
「あっはは……。まいったなー、もう」
オルカはすくっと立ち上がり、恥ずかしそうに後頭部を掻く。
「オルカ……。あんた、もう……」
「やっだなー、これからだよ」
にゃっははは、と陽気な笑い声を上げるが、吐血するオルカ。目と耳からの血も止まってはくれない。
その姿を見るなり、紅葉は紅威を鞘に収め、終戦を無言で告げる。
「もう終わりよ、オルカ。終わり……なのよ」
「ちょっと待ってよ、ボクはまだ――……げほ!」
また吐血。
それを受け止めた手をオルカは見て、泣き出しそうに眉を下げる。
「まだ……ボクは、まだ」
どしゃっ……、水溜りに身体を倒すオルカだが、目はこちらを向いていた。まだ負けていないつもりなのだろう。指も動かせないくせに、瞳だけは強く激しい光を放っている。
「ボ、ク……まだ…………勝て……」
紅葉は身体を翻すと、クルード兵全員を見渡す。
「次」
相手になる。その意を込めた、極めて短い言葉を発するとクルード兵達は悪夢を見たかのように顔を青ざめさせ、一人また一人と後退を始める。スクライド兵は今こそ攻め込もうとするが、紅葉に制された。
今はアンタ達も退きなさい、と。
しかし、納得できないスクライド兵達は足を竦ませるクルード兵を睨み続けるばかりだ。紅葉は呆れ、溜め息を一つ落とすと、今度は声を張る。
「クレハ、出て来なさいっ」
しーん。
スクライド兵達も顔を見合わせては首を傾げる。クルード兵達もまた然り。
こいつ、何言ってんの? とばかりの視線が紅葉をぷるぷると震わせる。
紅葉はもう一度、しかし押し殺した声で。殺しているのは怒気だが。
「クレハ……。出て来なさい。ねぇ?」
またも場は静まり返るが、紅葉が拳に息を吐きかければ、
「ひっ」
女性のか弱い悲鳴が漏れた。
そして名を呼ばれたクレハが、一人のスクライド兵を盾にするかのようにおずおずと姿を現す。
ぶ、ぶたないですか? と、訊かれれば、
「来ないならぶっ飛ばす」
悪魔の笑みで返すとクレハは隠れた。
しかし盾にされたスクライド兵はたまったものじゃない。何せ、鋼鉄のテーブルさえも陥没させた拳をちらちらと見せつけているのだ。あたふたしたそのスクライド兵は背中にへばりつくクレハを何とか剥がそうと必死だ。
「おまえっ、ちょ、早く行けっ」
「や、やですっ。殴られますっ」
「俺を巻き添えにすんなっ。俺には、えと――そうだ、妻子が待ってんだよ」
「妻子はアナタを待ってませんっ」
「なっ、おま……」
何時までも進まない展開に、紅葉は紅威の柄に手を掛けると、クレハはぶるぶる震えながら生まれたての子羊のような足取りで出てきた。それを指で招くと、頭を両手で抱え、ぶたないでのアピールをしてくる。仕方なく頷く。
警戒しながらも向かってくるクレハだが、彼女の気性を良く知る紅葉は、弱気なのは何時もの事だから仕方がない事か、と気長に待つつもりでいた。
しかし人には我慢にも限界というものがある。紅葉に至ってはそれに達するまでの速度は常人の倍以上速い。つまり、短気、となる。
だから、クレハが到着するまで口の端を何度も痙攣させながらも堪えるが、拳骨を落とすのは必然だった。
「ぶ、ぶちましたっ。今、ぶちました!」
「るさいわね、待たせ過ぎなのよっ」
「だって、怖かったんですよー」
「笑顔だったでしょ!」
「それが逆に怖いですっ」
「何ですって、この!」
「ま、まままままたぶちましたっ」
横暴です、と涙ぐむクレハは頭を撫でる事で痛みを飛ばそうとしているのだろうか。必死にしゃかしゃかと撫でている。その姿を見ていると溜め息が出そうになるが、ここは堪えておこう。別働隊であるこのクレハが何故ここに居るのかは、十中八九、方向音痴だからと紅葉は既に解っていた。
紅葉がクルード兵達に向かって降参を促せば、彼らは素直に従ってくれた。屈強なクルード兵達が素直に従うのは、紅葉が見せつけた力の差があっての事だろう。表情は曇り、スクライド兵らに乱暴に捕縛されたとしても決して反抗しない。それほど、オルカという存在が大きいという事になる。
一部の、ほんの小さな終戦を見ていたクレハが陰で安堵の溜め息を吐く。誰も殺されなくて良かった、とでも思っているのだろう。どこまで優しいのやら。
そのクレハが思い出したかのように瞳を向けてくる。
「あの、首領。私は何故呼ばれたのでしょう?」
「ん? ああ、そうね。アンタの力が必要……となるかは」
紅葉は既に意識を閉ざしていたオルカに目をやり、
「このコ次第になると思うけど、ま、着いて来なさい」
クレハは、オルカの後ろ襟を掴んで引き摺りながら歩いていく紅葉に首を傾げるが、言われた通り後を着いていく。紅葉から溢れる僅かな殺気に気付く事もなく。
◆
意識がゆっくりと覚醒していく。
上手に働く事もないオルカの脳だが、瞳は光を受け入れた。
じんわりと身体に滲んでくる光が何と心地良い事か。
「命に別状はないようです」
「けど、すっごい血が出てたよ? 耳とか目とかから。あと吐血も」
「あれは身体から発せられた一種のブレーキみたいなものです」
「ブレーキ?」
「はい。魔術師には過度な力の放出を抑える機能があるんです。元々人間には余りある力でして、それを進化という長年の時を経て得た機能なんです。昔は力の暴発を抑えきれなくて死んじゃった魔術師が多かったんですよ?」
「ふーん。アンタ、やっぱ博識ね」
「全部ゼクトさんの受け売りですけどね」
ぼんやりとする中、呑気な会話を耳が拾う。一体何の事か、とぼやける意識に身を委ねていると、視界の端に紅く揺れる髪が見えた。太陽の加護を受けて、煌びやかに輝くその髪は、虹彩に焼き付きそう。
綺麗だな、と思っていると徐々に意識がハッキリしてくる。
その紅い髪の持ち主である者、紅葉アゲハの横顔を目が捉え、意識が自分という人格を呼び戻すと同時に全身に激痛が走り回る。
「ぐっ、痛……」
あ、起きた。とはオルカが寝そべるベットの枕元に腰を掛けている紅葉であり、傍の椅子に座るクレハは嬉しそうに微笑んでいた。
「紅葉、何で……。ボクは」
「そ。私に負けたの」
その言葉が胸に突き刺さる。やはり負けたのだと嫌でも自覚させられた。
あの戦いの後、紅葉はクレハを引き連れて近くの廃ビルにオルカを運んだ。そして手頃なベッドを見つけるとそこにオルカを寝かせ、紅葉も少しばかりの休息を取って今に至る。
オルカはここが何処であるかなど微塵にも気にせず、思った事を訊く事にした。どうやら紅葉には、それを尋ねるだけの時間は与えられているようだし。
「何で殺さない?」
頭を抱えるように起き上がろうとするが、やはり動けなかった。動こうとするも、身体に痛みが寄生しているかのようで、自分の意思じゃどうにもならない。
問われた紅葉は顎に手の甲を当て、目を瞑って考えを巡らせており、低い唸り声を上げる。
「何で……って訊かれると何て答えればいいのか解んないんだけど、取り敢えずアンタに訊きたい事があってね」
眉根を寄せるオルカに、紅葉は無警戒に顔を逸らす。
「単刀直入に言うけど、アンタ、こっちに寝返らない?」
はい? と驚きの音を上げるのはクレハであり、オルカは絶句していた。何を言っているのか理解に及ばないからだ。
場が鎮まると紅葉はほんのり頬を朱に染め、
「い、今は大戦中でしょ? ほら、スクライドは弱っちい国だし、このままじゃ勝ち目は薄いわけじゃない? だから戦力を増やせれば、と、その……えと、うん、その」
ごにょごにょと口籠る紅葉にオルカは嘲笑した。
「そんな事言うガラには見えないんだけど?」
紅葉も己というものを知っているのだろう。気まずそうに息を呑むが、唇を尖らせて言い訳をまた始める。
「私としては考えたくもない事なんだけどっ、ほら、あの馬鹿ならそうするかなーって思っただけよ!」
三者の頭に浮かぶ顔はきっと同じ顔だったのだろう。クレハもオルカも納得した顔で二度三度頷く。しかしオルカはその提案を受け入れる気はなかった。元より、自分が持つ夢がスクライドで叶うとは思っていない。だから、そちら側に行く理由がないのだ。
「もし、断ったら?」
紅葉の顔からは恥じらいが消え失せ、代わりに穏やかな殺気が全身から溢れてきた。目を微かに細め、その唇を小さく開く。
「その時は、殺すわ」
心に沁みるのは真っ直ぐな言葉だからだろう。紅葉の覚悟が伝わってくる。
死にたいと思うわけではないが、断れば終わりとなる。それでも仲間を裏切る気持ちなどなかった。何も抵抗できないのであれば、潔くあるべきだと思うオルカに紅葉がまた口を開く。
「アンタの野望は知ってる」
不意を衝かれた。
「きっとそれは、アンタ自身の為のモノじゃなくて虐げられている国民の為だって事も、何となくだけど理解はしているつもり」
どうやらスクライドに自分の野望が漏れていたらしいが、樹楊をクルードに招いた事を考えれば当然の結果だ。
オルカは足掻く事無く、素直に頷く。だが、その夢は自分自身の為でもある。平和な世界が見たい。そういう国にしたい。その方が楽しそうだから、という自分の気持ちを押しつけた夢だ。それが国民の為に繋がるとも思っている。だから、誇れる夢だとも思ってきた。
「アンタがここで死ねば、国民はどうなるの?」
「揺さぶっているつもり? ボクが仲間を裏切るような人間に見えるかな?」
「そうじゃない。けど、アンタがスクライドに来てクルードを倒せば、同じ結果を手に入れる事が出来るでしょ? だけどこのままクルードに居続けると言うのであれば、私はアンタを殺す。脅威的だからね、アンタの力は。それを見逃す私じゃない」
紅葉が言っている事は解る。確かにその手もあるとオルカも思った。十人聞いても全員が納得する手段だとは思っていないが、夢を手にする一つの方法だとオルカも思う。
だけど、思い浮かぶのは仲間達の顔だ。自分の夢を掴むまでの道を共に歩んでくれた殲鬼隊の皆の笑顔が、どうしても離れない。
だから、頷けなかった。
そんな仲間達を裏切るのであれば、死を選んだ方が、よっぽど――。
「アンタに一つだけ、言葉を教えてあげる」
覚悟を決め始めたオルカに紅葉が口を挟んでくる。最後ならば、と耳を傾けた。
「これはね、とある馬鹿の言葉で私の言葉じゃない。勿論、私の心が作り出せる言葉じゃないけれど、今は共感できる」
紅葉は目を優しく細め、オルカのふわふわの髪を撫でた。
「アンタのちっぽけなプライドで国民を見捨てないで」
その言葉はオルカの心の大事な部分に柔らかく触れてきた。それは、先程まで強固なまでに固めていた決意すらも砕く。心が揺らぐ。何て卑怯な言葉なんだ。そんなの、ずるいじゃないか。こちらの思いを逆手に取るような、卑怯者の言う言葉だ。
それでも、凄く暖かい。
オルカは顔を紅葉から逸らすと、腕で目を覆った。込み上げてくる嗚咽を漏らしたくなくて、歯を懸命に食い縛る。
どうすればいい? 仲間も大事だが、国民も大事だ。
この戦場には国王である父も来ている。そいつを討てれば、夢は叶う。だが、その為には仲間を裏切り、その上で勝たなければならない。裏切った上に負けてしまえば、殲鬼隊の皆は反逆者の仲間として酷い扱いを受けてしまうだろう。
その想いに紅葉は気付いたのか、先程の優しい声音から一変させて呆れた口調になる。元に戻った、と言う方が正しい。
「アンタと私が組めば、最強だと思うんだけど?」
オルカが涙目で見れば、紅葉は清々しいまでの笑みで迎えてくれる。そして隣りのクレハの頭をパフパフと叩く。
「それに、このコも居るしね」
「強いの? そうには見えないんだけど」
あたふたするクレハをそっちのけで紅葉は腕を組んで不機嫌そうに思いを語り始める。眉がぴくぴくと動いている事から、余程屈辱的な事があったのだろうと簡単に予想できた。
「私ね、このコに半殺しにされたのよ。あれは生涯忘れないわ。それも一発よ、一発。このコの力はハッキリ言ってアンタよりも上。勿論、私を超える存在だと思う」
「あ、あれはっ……不意打ちでしたし、その後私も半殺しにされましたし。と、兎に角、私が首領やオルカさん以上なんて事は絶対に有り得ませんってば」
クレハは後にオルカに語る。
あの時の首領は魔獣のようでした、とガクガクと震えながら。
だが、クレハが紅葉を戦闘不能にまで追い込んだのは事実。クレハが生きていられるのも、その時の紅葉が途中で意識を失った為である。同時にクレハも気絶したが、あれは引き分けとしか判断出来ないだろう。
「私はこのコに後を継いでもらいたいと思っている」
「えへっ? ええ、えええええええ!? 私にですかっ? そんなの無理ですし、初耳です! 無理無理無理です、絶対に無理です!」
「ボクも、無理だと思うけど。実力じゃなくて気性が……」
そう? と紅葉は首を傾げるが、意味深な笑みを見せつけてくる。その笑みが邪悪なものに見えたのか、クレハは椅子の音を鳴らしながら後退る。
「私の名前は紅葉アゲハ。赤麗にあつらえたかのように名前に『紅』を持っている」
うん知ってる、と頷くオルカに紅葉も頷き返す。
「このコは捨て子で姓は覚えていないらしいけど、クレハという名前。その字は紅羽。私と同じ、名前に紅を持つコなのよ」
紅羽。
確かに名前に紅を持っているが、それだけで自信満々に語られても困るものがある。しかし、その実力は紅葉のお墨付きのようだ。オルカの分析では、紅葉はあまり他人に高評を付けない、と出ている。その紅葉が認めているのだ。本当に真の実力者なのだろう。
オルカは、ハムスターにかじられただけで泣きそうなクレハをまん丸い眼で直視した挙句、信じられないでいた。どう見ても弱そうなのに。今も紅葉に少しばかり睨まれただけで脅えているのだ。
人には見かけによらないな、と思っていると、紅葉が話しを原点に戻す。
「だから、こっちに来なさい」
「………………約束出来る? 必ず勝つって」
「私を信じて。元から負けるつもりなんてない」
少しばかり戸惑うオルカを、紅葉は大切なものを扱うように傷だらけの身体を慎重に起こす。そしてそっと抱き締めた。
「アンタのプライドは私が護る。アンタは夢を護りなさい」
その囁きが心を軽くしてくれた。
それに紅葉の身体はなんて暖かいのだろう。何もかも預けても許してくれそうな安心感もある。
この人に自分の夢を半分持ってもらってもいいのだろうか。ずっと大切にしてきた夢を、この人は途中で手放したりはしないだろうか。叶うまで、傍にいてくれるのだろうか。
様々な疑問が浮かぶ。しかし紅葉の暖かさはそれを肯定してくれているようで、嬉しくて、本当に嬉しくて、思わず涙が零れる。頬を伝う涙を紅葉の胸が受け止める。
オルカは自分が幼い事に喜びを感じていた。
……甘えて、いいんだよね?
頭を優しく撫でられると、オルカはそのまま眠りについた。
――ボクの夢は『たからもの』……。まだ壊れてなかったんだね。まだ壊しちゃいけないんだよね? ボクのたからものは美しいだろうか。醜いのだろうか。解らないけど、大切なんだよ、すっごく。だから大切にするよ。絶対、壊したいなんかしない。それを許してくれた人がいる。真っ赤な髪の…………。
「れ? 寝た?」
「寝ちゃいましたね」
「ちょ、答えまだ聞いてないっ」
「どうどう――じゃなくって、まあまあ、いいじゃないです……って、睨まないで下さいよぉ。間違えただけですってば」
暴れ牛を落ち着かせるもの言いをされた紅葉は不満げに鼻を鳴らすが、すやすや眠るオルカを見れば自然と笑みを浮かべていた。
「可愛い寝顔ですね」
「そうね。まだまだガキなんだし、当然じゃない?」
「目を覚ましたら、本格的に治療をしますね。その為に連れて来られたんですよね、私は」
解ってるじゃない、と紅葉は感心する。
「けど」
「けど?」
「治療が終わり次第、十発は殴るから」
「オルカさん、死んじゃいますよっ」
「アンタを殴るのっ」
「な、何でですかあっ」
その理由は、先程の「どうどう」という暴れ牛扱いの言葉からだろう。鼻息を荒くする紅葉にクレハは、訪れるだろう痛みに涙を浮かべながら、蚊の鳴くような声で文句を漏らす。
「ホントに暴れ牛みたいです……」
「何ですって!」
「うわあ! おまけに地獄耳です!」
当然、ど突かれた。
次章
~休息~