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第四十八章 ~神≪すべて≫を超えし者



 世に名を轟かせている赤麗のメンバーに相応しい実力を持つタシュアは、川辺を左手に歩いていた。川の流れこそ緩やかで、晴れていれば川魚の魚影も見れただろうが、生憎の豪雨だ。川面は無数の波紋を広げ、淀んでいる。右を見れば、延々と続く断崖絶壁の岩壁が威張るように胸を張っている。


 上流へと歩き続け、いい加減、飽きてきた。初めこそ綺麗な川を視界に入れての移動は楽しくもあったが、今はつまらない。と言うよりも不機嫌である。それには自慢であるサラサラの金髪が、罰ゲームのように濡れている事も密かに含まれているが。


 タシュアは唇を尖らせて隣りに歩く仲間に問い掛ける。

「ねー、本当にこのまま進んでもいいの?」


 その仲間、スレートは組んだ手を後頭部に添えたまま返してくる。

「いんじゃね? ってか、いんじゃねぇか? 本当にいいと思うよ、うん」


 幼い頃からの付き合いだからこそ解ってはいたが、相も変わらず適当な返事だ。

 タシュアとスレートは正反対だ。何が、と訊かれれば、全てと答えられるほどに。


 見た目も育ちもお嬢様であるタシュアは細かい性格で綺麗好き。

 対してスレートは見た目通り姉御肌であり、山で育ち野性的で大雑把。土汚れなど何のその。


 髪だってそうだ。

 背まで伸び、綺麗に手入れされた金髪を持つタシュアだが、スレートの髪は短めに切り揃えた栗毛。背だってスレートの方が頭二個分ほども高い。


 まあ、スレートに訊くだけ無駄かと思いつつ、この道を示したのもスレートだった事を思い出すと若干イラッとくるものがある。気持ち良さそうに歌を口ずさまれれば尚更だ。


 せめて雨でも上がれば……空一面暗色。

 どうしようもなく溜め息が出る。


「どーした、溜め息なんかついちって。小便?」


 また変な解釈なんかして。

 タシュアは二度目の溜め息を盛大に披露し、

「そんなわけないでしょ?」


 スレートは、じゃあ大の方か、などと意地の悪い笑みを含む。付き合っていられないので無視。砂利道を大股で歩き進み、距離を離そうとすると、先にとある人物を発見して思わず声が出た。


「あっ」

「どしたっ? 漏らしたか?」


「漏らしてないって、バカっ」

「どっちだ? 大か? 小か?」


「どっちも!」

「どっちもかっ。そ、それは女として――うん、まー、何だ。上手くは言えないけど、それもアリって事で」


「変な気を使わないでよっ。距離を取るな鼻を摘まむな笑うなっ。って言うか、どっちも漏らしてないってば!」


 おかしなやり取りを繰り広げていると、先に居たとある人物が笑顔で近づいて来、そのまま嘆息する。相変わらずね、と苦笑するのはイルラカ。


「すみません、お見苦しい所を」

「すんません、お見苦しい奴で」


 タシュアが、ぎっ、と睨むと冗談だと手振りでアピールしてくる。

 イルラカが手を軽く上げると、タシュアらは下げていた頭を上げる。低頭していたのはタシュアだけだったりするのだが、そこは割合だ。

 それはそうと、とタシュアが切り出し、イルラカが何故ここに居るのかを尋ねた。すると、ここは敵陣の中なので戦力を固めて行動する策に変えたと告げてきた。更に紅葉を抜かすメンバーを一度集結させる、とも。


 三人肩を並べて歩き、ここまでの経緯を教え合う。イルラカはガガを下したが、オルカらしき人物から逃げてしまったと悔しそうに言っていた。イルラカの実力を知るタシュアだけに、逃亡してきた事実には少々驚いた。同時に、未だ知らぬオルカの実力にも鳥肌が立つ。自分の実力じゃ相手にされないのかも知れない。そう思えば悔しくもある。


 タシュアの見た目は育ちの良いお嬢様だが、実力は本物であり鋭い剣技を持つ。ヨシュアを例えるなら薔薇という花がぴったりだろう。

 突剣を扱う流派の宗家の元に生まれ、その才能を幼き頃から開花させ、大会などでは常に優勝してきた。スクライドで言えば速突兵にあたる役割を担っているが、実力差は雲泥の差とも言えよう。


 細い突剣から繰り広げられる刺突の速さは常人の三倍以上もある。その速さと正確さは赤麗でもトップだ。紅葉が一突きする間に、タシュアは二度突く事が出来る。それを武器に、実力の低い敵をより多く倒すのがタシュアの役目である。幼馴染み兼相棒のスレートはその補佐であり、重厚な剣で敵を薙ぎ払う。二人のコンビネーションは紅葉も舌を巻くほどであり、赤麗でも重宝される人材である。


 だが、二人で紅葉と戦っても結果は見えている。予想せずとも、紅葉の方が上手だ。だからこそ、タシュアは紅葉の下に着く事を誇りだと思えるのだ。そしてイルラカの事も尊敬している。いつも隊の中心になって指揮を執ったり、紅葉をコントロールしたりと、イルラカが居なければこの隊もバラバラだろう。そんなイルラカの近況が気になりもしている。だが今は戦中であり、プライベートの事は訊き辛い。だが気になる。

 イルラカが英雄視している樹楊の事をどう思っているのか。場合によっては紅葉と三角関係になるかも知れない。もんの凄く気になる。


 どうやって訊こうか。

 タシュアがしかめっ面で歩いていると、スレートが明日の天気を訊くような口調でイルラカに切り出した。


「イルラカさん。首領と樹楊っての、どうなのかな? やっぱ付き合うのかなー?」


 その手があったか!

 タシュアはここ五年の間でスレートを一番見直した瞬間だった。


 イルラカは眉を跳ね上げ、鋭い目付きとなる。その表情に失敗かと思った。が、しかし、イルラカは満面の笑みに変換させ、手を胸の前で打ち鳴らす。


「勿論、恋仲となるでしょう」


 キラキラと輝く瞳は、己が言った事を信じて止まないと感じさせる。

 イルラカは紅葉アゲハ第一主義者なのだ。誰よりも紅葉を敬愛し、信頼を寄せている。布教活動してもおかしくないほどに。もしかしたら、既にパンフレットくらいは製作済みなのかもしれない。

 いくら戦中だとしても、イルラカは紅葉の話しになると仕事をコロッと忘れるようで、スレートの切り出し方は正解だったようだ。もし「イルラカさんは樹楊の事をどう思う?」と切り出せば「今は戦中だよ?」と返されていただろう。


 しかしイルラカは樹楊の事を恋愛対象と見てはいないようで、紅葉と樹楊が恋仲になる事を激しく望む言葉を連ね始めていた。力説と言っても過言ではない。


 それを耳にしながら、イルラカがどれだけ紅葉を慕っているのか改めて解った気がする。それは以前からも知っていた事なのだが、今、改めて。


 タシュアは隊に所属して間もなく、紅葉の気性とやり方に度が過ぎる厳しさを感じた事があり、脱退しようともしていた。命を救われ、高みを目指す飽くなき執念に惚れて入隊したのだが、辛いと思っていた。それを一番の古株であり側近のイルラカに涙ながらに相談した時、優しく慰めてくれた事を覚えている。


『首領は厳しいですが、誰よりも隊の事を考えているのですよ? タシュアの事も大事に思っています。厳しさは愛情の裏返しだと、私は思います』


 その言葉に救われた感じがした。した……のだが、いつの間にか慰めから説教に変わり始めた事も鮮明に覚えている。やれ「首領がどれだけアナタ方の事を」だとか「誰も首領の事を理解していない」だとか、いつの間にか正座させられていた。


 はは、懐かしいな……。と思いを巡らせていると、イルラカが唐突に足を止めた。そして射抜くような目を川を挟んだ向こうの森に向けている。まるで不可視の弓矢を構えたかのように。どうしたのか訊こうとすると、それを悟られたのか手を上げるだけの制止を流してくる。


 仕方なく、イルラカの目線の先を見つめていると、森の中から獣のように一人の女性が姿を現した。サラシを巻いただけの肌にレザージャケットを着た、鋭い目付きの女性だ。目にしてやっとその殺気の大きさに気付く。それはスレートも同じようで、臨戦態勢に入っていた。


 そして誰よりも早く、その女性が口を開いた。

「ラファエンジェロの居場所を知っているか?」


「ラファエンジェロ? ああ、クルードの……。知らないが、アナタは誰? 見たところ、スクライド兵でもクルード兵でもないようですが」


 イルラカが返すも、その女は薄い溜め息を吐くだけで何も答えず、知らないなら用はないとばかりに背を向ける。

 その態度にタシュアは腹を立て、抜剣。


「アンタね、質問に答――」

「タシュア!」


 イルラカの焦りが滲み出た声と同時だった。

 目の前に銀色に輝く点が見えたのは。

 それを剣先だと理解した刹那、下からも銀色の閃光が跳ね上がってくる。


 鈍い金属の衝突音、そして身体が横に吹き飛ぶ。理解を得られぬままの流れだったが、惨めに地に転がるほどタシュアは愚鈍ではない。地に髪が触れるよりも早く態勢を整え、更に次なる行動に出られるよう身構えもする。タシュアの視界の中心にイルラカと急襲してきた女が自然と映る。

 どうやらイルラカが間一髪のところで助けてくれたらしく、右手に蛇節剣を持っていた。


 女はイルラカに標的を変え、双剣を振るう。

 イルラカは流し、受け、肘で女の顎を跳ね上げる。そして投げ飛ばすが、女は片手を使って地を弾き、距離を取った。


「私達はアナタと争う理由も意思も無い。剣をしまえ」


 女は口に溜まった血を吐くと、イルラカを睨む。しかしイルラカは剣を収め、ポーチの中から地図を取り出した。雨から護るようにフィルムで挟まれている。


「ラファエンジェロが何処に居るかなんてのは解らないが、赤い枠で括られたところが大戦の範囲だ。……これを」


 女はきょとんとするが、やがて剣を収め、警戒も無く近付いてくる。タシュアやスレートは身構えるが、イルラカに微笑まれ渋々剣を収める。

 女はタシュアらに目も向けず、イルラカから地図を受け取ると目を伏せ、信じられない事に頭を下げてきた。


「恩に着る」


 傲慢そうな女だとばかり思っていただけに、驚いた。

 女はイルラカに謝罪の音を呟くと、また森の中へと消えていく。


「イルラカさん、いいのですか?」

「構いません。地図くらいで恩を返せたとは思っていませんしね」


 恩を返す?

 何の事だか、と思っていたが、以前ダラス連邦でオルカから紅葉を救ったのが賊っぽいサラシの女だという事に気付いた。道理で強者の雰囲気を持っているわけだ、と納得。イルラカは自分の首に出来ていた赤い筋を撫でている。血が薄らと滲み、もう少しだけ深ければイルラカは首から血を噴き出していただろう。


 投げ飛ばされるその一瞬で付けられた切り傷。

 何て恐ろしい反射神経なのだろう。

 今更ながら身を震わせると、イルラカが微笑み、先を促してくる。


「さ、行きましょう。早い所、仲間と合流しないと」


 進む先は雨に制圧されているが、それでも歩かなければ。

 この戦は負けに等しい。ならば、自分達で突破口を開くまで。

 三人は意思を疎通させると、足を動かし始める。

 それはそうと。


 タシュアが呟く。

「クレハ……何処行ったんだろうね」


 スレートが苦笑交じりに返してくる。

「アイツ、方向音痴だしな。気付けばはぐれているのは何時もの事なんだけど」


 すっかり忘れていたが、本当はクレハを交えてスレートと三人で行動していた。はぐれるのは何時もの事だから、また会えるだろう。気性こそ赤麗に不相応だが、実力は確かだ。心配など不要。


 今頃捨てられた仔犬のように泣きべそをかいて、よたよたと歩き回っているのだろう。クルード兵に囲まれているのかもしれない。だが、それもいい。何も問題はない。

 何せ、あの紅葉を半殺しにした事もある唯一の隊員だから。



 ◆



 真っ赤な血色の霧が凶悪なる力を振るうこの空間で、樹楊も少なからず恐怖を抱いていた。蓮にではなく、全く別の生き物のようなその霧にだ。


 ラファエンジェロは対抗する術を持ってはおらず、ひたすら回避に専念している。ラファエンジェロという魔術と武芸に長ける天才は、世界を喰らう血霧の前では脆弱過ぎた。雨に打たれ、人が知る全ての角度から襲い掛かる霧に逃げ惑うが命乞いなどせず、打開策を得るべく瞳を忙しく動かしている。


 それでも人には体力という制限があり、極度に緊張した中ではその減少は加速する。ラファエンジェロも例外ではない。反応速度が遅くなり、動きも鈍くなっている。

 傷付いた羽で跳ぶ鳥を狩るのは容易く、血霧にとっても同じ事が言える。ラファエンジェロには決まった結末しか待っていないようで、今この瞬間、その一手が亡骸への道を切り拓いた。


 右腕と左足首に血霧が絡まり、ラファエンジェロは血相を変えた。振り払おうと手足を大きく振るが、どうにもならない。だがラファエンジェロは諦めず、強く振るう。その時、骨が力任せに折られる音が響いた。


「――――っ、くあっ」


 苦悶の表情を浮かべるラファエンジェロ。

 その右腿に槍のような血霧が突き刺さる。そうしてようやく、ラファエンジェロは力なく地に倒れ込んだ。


 血霧はおぞましく動いていたが、蓮が命じたのか主の身体の中へと消えていく。その消え方も名残り惜しそうで、樹楊は無意識の内に固唾を呑み込んでいた。

 蓮が溜め息を一つ、天に贈る。それから無垢なる瞳を向けてきた。右目は呪刑者の証しである白濁した瞳に戻っており、樹楊は深い安堵を覚えた。そして駆けていく。

 サルギナはラファエンジェロから遠くない位置で足を止め、何時でも止めを刺せるようにハルバードを担ぐ。


「蓮、スゲーなお前っ。あんなモン、反則じゃねーかっ」

 言いつつも、喜びが隠せない。アレがブラッディ・ミストだとしても、蓮が自在に操れるなら構わない。寧ろ喜ぶべきだ。アレなら、もしかするとこの大戦は……。


「きょーくん……」


 蓮は嬉しくなったのか、両手を控え目に広げたまま走ってくる。相変わらずの無表情だが、背景に百花繚乱を引き連れているかのように喜んでいるのが、何となくだが解った。だが、蓮は足を止めると目を見開き、一度だけ全身で脈を打つように揺れた。そして右目を押さえ、背を丸める。


「あ……あ、あっ――――あああ!」

「れ、蓮っ。どうした!」


 足を速め、蓮の元に辿り着いた樹楊は抱えた腕に大きな振動を感じる。蓮が震えていたのだ。恐怖からではない。寒気からでもなさそうだ。異質な震え……そう直感した。


 蓮は虚ろな左目を揺らし、顔の右半分を潰すように覆っている。呼吸も荒く、必死に声を掛けるも届かない。いくら名前を呼んでも返事などなく、蓮の状態は悪化を辿る一方だった。それでも諦めるわけにはいかず、今一度名前を呼ぶ。すると、やっとの事でこちらを見てきた。


「きょーくん、きょーくんっ」

「蓮、大丈夫か? どうした?」


 蓮は混乱しているのか、首を振る。そして胸を何度も押してきた。その力は弱々しくて胸が痛んだ。


「蓮……なあ、蓮!」

「う、うぅ……あ、う」


 ぐいぐいと押してくるその手を握れば、振り払おうとする。だが離さない。放っておけるか。こんなにも苦しんでいる蓮を放ってやるわけにはいかない。


 樹楊が離れない事に蓮は涙を浮かべ、

「逃げて……お願い」

「何でだよ、何でそんな事っ」

「お願いだから、お願いだから……おねがいだから」


 きょーくん。


 それが最後の言葉だった。

 蓮は意識を失うように後方へと倒れ、自然と樹楊の腕に背を預けた。

 樹楊は蓮の首に負担が掛らないように腕の位置をずらし、大事そうに抱える。肩は狭く、両腕の中に難なく収まるほどの小さな身体。その身体が再び、一度だけ大きく鼓動する。


 そして、蓮の瞳が覚醒するように開く。

 目を覚ましてくれた事に安心が出来なかったのは、その口元が狂ったような曲線を描き、釣り上がって居たから。舌先が得物を見つけた猛獣の如く唇をなぞる。白濁した瞳は樹楊を見つめている。


「れ――――」

 

 名前を呼ぼうとした瞬間、蓮の姿が小さくなった。まるで小豆のように。

 何故そんな不可解な事が? その疑問を解消出来たのは、自分の身体が地で弾み、地を削り、地を背にしてから。豪雨を降らせる曇天を見上げてからだった。


 ああ、そうか。

 蓮が小さくなったんじゃなく、自分が吹き飛ばされたのか。


「キョウ!」


 サルギナが駆け寄ってくる。

 名前を呼び返そうとしたが、声が上手く出ない。胸が苦しい。呼吸がし辛い。


 焦りを全面に浮かべたサルギナが身体を抱えてくれ、蓮の方角を見る事が出来た。

 蓮は開いた爪先の間に腰を下ろした女の子らしい座り方で項垂れている。だが、彼女に纏わりつく血霧の濃さが先程と比べ物にならないくらい濃く、禍々しさを感じた。


 樹楊は二度三度咽ると涎を袖で拭い、サルギナの力を借りて立ち上がる。

 項垂れていた蓮は今目が覚めた少女のように目を擦ると肩を小さく震わせ始める。


「あ……ああ、う」


 呻き声が零れた。

 そして、


「あああ、ああっああああ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――っはははははは! ふふ、ははっ。あぁああああああああああああああああああああああああああっははははははははは!」

 

 世の全てを嘲笑うかのような声を天に突き付け、愉快そうに肩を震わせて立ち上がる。どす黒い眼球には血のように滲む紋章が薄らと輝き、凶悪に歪んだ唇を舌先でなぞる。


 樹楊とサルギナはその変わりようを相談する間もなく、蓮から血霧の攻撃をけしかけられた。八頭の蛇竜のような血霧は見境なしに飛来してくる。地を抉り、丘を削るその様は破壊者の力に相応しい。


 二人は互いを庇い合う事すら出来ず、それぞれに攻撃をかわしていく。目に捉えられないスピードではないのだが、こちらの攻撃を干渉してくれない。避けるだけの展開が強制される。


 こんなの、何時まで続くんだ。

 まともな悪態も吐けず、血霧を避ける。

 蓮は首を斜に、こちらの逃げ惑う姿を楽しげに見つめていた。


 あれは蓮なのか? 違う、違うだろあんなの。

 確かに蓮は情緒が不安定で世の中を憎んでいるのかもしれない。自分に触れる者を敵とみなし、攻撃してきたのかもしれない。だけど、それは怖かったからだと思う。傷つけられたくなくて、必死に考えた結果なんだと思う。

 だけど今の蓮は、無価値な破壊を好んでいるかのよう。


 樹楊は、想像した。

 あの身体の中で、小さく丸まるように膝を抱える蓮の姿を。


「キョウ、一旦退くぞ! 展開が急過ぎる!」


 サルギナが叫ぶ。

 しかし樹楊はその言葉に応じようとはせず、蓮の姿を視界から離さない。縦横無尽に迫りくる血霧の攻撃を避けながらも、少しずつ距離を詰めていた。


 サルギナの言いたい事は十二分に解っている。こんな状況に陥り、必要な情報もなければ策も皆無。ここは一度退いて状況を整理し、可能であれば立ち向かうといった選択をすべきである事くらい解っている。だが、自分が訊いてくる。


 それでいいのか?


 ……解らない。

 このまま退けば、自分の身の安全は保証できるかもしれない。でも、蓮は?

 放っておいていいのか? 自我が崩れたような、あの状態のままで無事と言えるのか? 


 樹楊は軸足にありったけの力を込めて地を蹴り飛ばす。向かう先は退路なんかじゃない。その行動にサルギナが怒号を上げていたが、それどころではなかった。一刻も早く、蓮を正気に戻したかった。


 しかし、避けても避けても避けても、避けても。

 雨霰と襲い掛かってくる、その真紅の霧。軽々しく行く手を阻まれ、悔しさが込み上げてきていた。それに焦りも上乗せされ、徐々に視野が狭くなっていく。余裕を持って避けれていたのだが、それは時を追うにつれ、危なげな場面も生まれていく。


 そして。


 着地した際に顔面を目掛けて迫ってきた血霧を避けた時、足が絡まり、肩を地に打ちつける。不味い、と思うよりも早く、血霧は喉を突き刺さんばかりの勢いで迫ってくる。起き上がっている暇などない。防御も出来ない。


 向かう先は――死。


 空虚のような死を感じた瞬間、その後だった。

 胸元からガラスが軋む音が聞こえた。そして鎖骨の間を突き破ったかのようにスラリと細い手が伸びてき、血霧を『掴まえた』。見れば、ミネニャに貰った御守まがいのペンダントが禍々しく輝いている。そこから手が時空を無視して伸びていたのだ。


 それでも視覚からのみで得られた情報を上手く理解出来ず呆けていると、か細い手が血霧を難なく砕いた。これには流石の蓮も驚いたようで、波が引くように血霧が窄んでいく。


「間一髪――ってところかな?」


 色香が乗る声が豪雨の中に滲む。

 徐々に世界へと現れ始めた手は、肘、肩を連れてくる。そして遂に声の主であろう人物の後頭部が現れ、上半身までもが時空から姿を現す。

 光沢を纏う銀色の髪は長く、線の細い身体つきだ。その姿が全て現れるまで、誰もが絶句していた。


 それも無理はないだろう。何せ、時空の中から唐突に現れたのだ。言えば、亜空間から現れたと言っても過言ではない。例えそれが何らかの術だとしても、そんな術式がこの世には存在し得る事はないとされている。蓮が得意とする術は、時空の中に武器を収める事が出来る特性を持つが、生命体を収める事は出来ない。だからこそ、術に精通するラファエンジェロが誰よりも驚愕していた。


「ったく、もー。こんな雨の日に何で……」


 天気に不満があるようで、ぶつぶつと文句を言っていた銀髪の女性だが、何かを思い出したかのように手を打つ。そして振り向きざまに抱き着いてきた。花のように柔らかくて甘い香りがふわりと舞う。


「タマーっ、久しぶりだね! 元気にしてた?」


 抱き着かれたかと思えばわしゃわしゃと頭を撫でられる樹楊は状況が解らず固まっていた。その間にも嬉々とした声で髪をいじくりまわされる。それに『たま』って……何だろう?


「うりうり、このニャン公めっ。耳を触らせなさい、耳を――――……れ? 耳…………みみ、耳っ? あれ、もげてる」


 確かめるように頭のてっぺん付近を触られるが、何と返せば良いのやら。取り敢えず、耳は横、なのだが。……一応は。


「ねぇ、タマっち。耳ないんだけど」

 その良く解らない女性は両肩を掴んで離れ、目を合わせてきた。


「……誰、あんた」

「え? ……俺ですが?」

「うん? タマ……じゃない?」

 

 その問いに頷けるほど、心に余裕が無かった。

 状況が理解出来ないからではなく、その女性の容姿に原因があったのだ。


 知的ながらも鋭い眼は宝石。

 濡れる銀色の髪が良く似合っていて、指を滑らせてみたくなる。

 神に造形されたかのような目鼻立ちと輪郭。


 そこには触れる事さえも罪に問われそうなほどの美があった。性別を問わず、無条件で支配下に置くような美が。

 しかしそれは眼福とは成り得ない。あまりにも完成されすぎて、寧ろ、毒素の強いものに見えた。もし本人の意思とは無関係に人間を魅惑してしまう悪魔がいるとすれば、この女性こそがそうだと言えるだろう。


 そうやって樹楊が呆けていると、銀髪の女性は不思議そうに首を傾げる。そしてミネニャに貰ったペンダントを引き千切った。


「ねぇ、何でこれを持ってるの? 私はタマに上げたんだけど」


 女性の指から下がり、揺れるペンダント。


「あ、ああ。それは貰ったんだ、けど」

「んー? タマに?」


「い、いや。タマじゃなくミネ――獣人目の女に、だけど。メノウって種族の」

「赤褐色の?」


 頷けば、疑いを持った視線を送ってくる。どうやら獣人目がただの人間に懐く事が稀である事を解っているらしく、強奪疑惑が吹っ掛けられているようだった。しかし本当に貰い物だと頑なに告げると、渋々ながらも理解してくれた。


「…………まぁ、解った」

 不貞腐れ顔で。


「一度助けたんだから、もういいよね? 私は帰るから、あとは自分で――」


 言い掛けて、女性は目を見開き、両手で頬を挟んできた。そして顔を近づけ、まじまじと見てくる。その距離は鼻先が触れ合う寸前で、樹楊の心は早鐘もいいところだ。柄にもなく焦りまくり、これは目を閉じた方がいいのかっ? などと、期待を込めてもいる。紅葉には言えないが。

 しかしこの銀髪の女性にその気がない事が、見せてきた笑顔で解った。


 愛おしそうなのだが悲しみが全面に浮き出ていて、泣き出しそうなその笑顔には、求めていた砂の一粒を広大な砂漠から見つけたかのような疲れ切った色も滲んでいる。きっと様々な思いがあるのだろう。一人の人間には背負いきれない程の何かが、彼女にはあった。


「やっと……やっと見つけた」

「え、え?」


 何処かで会った事があったか、と思っていると女性はコロッと表情を一変させて透明な笑顔を見せてくれた。そしておもむろに立ち上がると蓮の方を向く。


「ここは私に任せてよ」

「任せて――って! 解ってんのか、今の状況っ」

「うん」


 さらっと言い切る女性に樹楊は勿論、駆け寄ってきていたサルギナも言葉を失う。確かに血霧を掴んだのは見たけれど、相手は蓮だ。今は理性が壊れているのかもしれないが、その実力はこの大陸でもトップクラス。正直、紅葉以外の者が勝てるとは思えない。しかし、その女性は大丈夫だと言う。でも不安で仕方ない。


 素肌にざっくりと着た半袖のニットにショートパンツ。そして爪先が露わになっているロングブーツのようなサンダルという格好だ。戦いからかけ離れている服装の上、身体の線も細く、頼りない。彼女が持つ金属類と言えば、腕にはめたシンプルなゴールドのバングルくらい。つまり、丸腰なのだ。


「大丈夫だってば。ちゃんと消してあげるから、アレは」

「消すって……?」

「そのまんまよ。呪刑者でしょ? 楽勝だって」


 甘く見るな。

 そう言おうとした時、女性は片手を前にかざす。その何気ない動作の直後、青黒い閃光が放出される。それはただ単純な魔力の放出なのだが、その威力はオルカのものとは比べ物にならない程だった。


 成人の男性二人が並んで両腕を広げた幅よりも広い青黒の閃光は瞬時に蓮を巻き込み、その後方の丘を二つほど吹き飛ばす。眩くもなく、寧ろ目に残るくらい淀んだ暗黒の閃光はその軌道上にあった地も無残に深く削られている。土煙りが舞い上がり、視界が遮られる。それでも樹楊らはその先を見つめるように、言葉も失ったまま驚愕していた。


 あまりにも無慈悲。

 音などなかった。

 それでも結果として目の前の光景がある。あんな攻撃、避けられるはずもない。

 素直にそう思った時、全身に寒気が走った。


 蓮……は?

 まさか…………。

 うそ、だよな…………こんなの。


 樹楊はぎこちない動きで首を動かす。

 顔の中央に付いている目玉は、銀色の髪を雨に濡らす絶世の美女を映していた。


 彼女こそ、ゼクトが命を落としてまで倒した巨大なムカデをあっさりと葬った者。

 彼女こそ、白鳳の皇帝が世界の頂点と認めし者。

 彼女こそ、すべてを超えし者。


 名はサクラ。

 死霊魔術を扱うとされるネクロマンサーであり、せかいの敵でありながら世界を誰よりも愛する女性。そして、樹楊を探し求めていた女性だ。


 サクラが何を求めているのか、何を目的としているのか。

 今はまだ、誰も知らない。



 ◆



 大戦の舞台となる大陸のそこらかしこで激戦が繰り広げられている最中、重傷を負った身体を引き摺るスイが未だ森の中に居た。赤麗のクレハに治療を施してもらったとは言え、剣で斬られたのだ。安静に出来ない状況下では回復も見込めなかった。その上、つい先程までスクライド兵と戦い終えたばかりで、傷口も開いて胸から血が滲み始めてもいる。


 先程のスクライド兵には何とか勝てたものの、次こそ危ないだろう。例え見習いが相手だとしてもだ。それほどにスイは弱っていた。足は覚束なく、視点も揺らぐ。呼吸は乱れ、体力が減っていく一方だというのに豪雨ときた。これでは体温は奪われ放題だ。


 スイは何処か近くの街へと足を運ぼうとしたが、敵であるスクライド王国の者達に命を預ける事など出来そうにも無く、ただただクルードの拠点を目指していた。大戦の条件としてスクライドの街々に訪れるのは認められているが、自分が一番良く知る下らないプライドが許してはくれない。損な性格だとは思うけれど。


 スイは一度膝を折ると胸を押さえて呼吸を整える。

 酸素を取り入れた胸が重い。それに喉が渇いている。生唾を呑もうにも、血の味がしていて吐き気を催すだけだった。


 ふと視線を横に流せば、少しばかり遠くに街が見えた。一瞬戸惑うが、やはり足を運ぶ気になれない。ここでプライドを捨て、命を繋げる事が正しい事は解っている。死んでしまえばオルカの夢の手伝いが出来なくなるからだ。その為なら、自分のプライドなどゴミも同然。


 何の為に殲鬼隊にいるのか。

 それを考えれば答えはすぐに解り、だが悔し涙も流れてくる。

 スイは歯を食い縛り、涙を雨に拭わせる。そして立ち上がった。

 しかし、自分の運命とやらは、ここで終わりなのかも知れない。


 葛藤の末に生き延びる事を最優先と考えたスイの前に、一人の敵が姿を現したのだ。

 それも人間じゃない。記憶が確かであれば、その少年は鳥類の獣人目だ。真っ赤なアイシャドーを施した瞳に、大きな翼を持っている。


「て、敵っ? 殲鬼隊かっ」


 どうやらその少年――ツキもスイとはち合わせた事に驚いており、片翼を大きく羽ばたかせて急停止した。見たところ、戦には慣れていない様子。で、あれば。


 スイは鉄扇を構え、目に闘志を宿らせる。すると、ツキは打って変わって戦士の眼差しを送ってきた。二振りの小太刀を逆手に、静かに構える。強者ではなさそうだが、弱者でもない。未だに完成されぬその器の実力が、スイには解らなかった。しかし、自分がここで終える事だけはハッキリと解る。

 

 それでも、スイは最後の最後まで抵抗する気構えだった。

 腰を落とし、今の自分が持てる力を出し切る。


 地を強く蹴ったスイは、ツキを真正面から襲う。

 二本の鉄扇を上段から振り下ろし、それを防がれるが、押し潰すつもりで力を込める。胸からは血が二度三度噴き、眼下のツキを睨み付ける。


 重傷とは言え、仮にも殲鬼隊に抜擢されたスイだ。未だに成長期にも入らない子供の力では太刀打ち出来ないものがあった。……が。


「……あ」


 一度視界が歪むと、身体はあっさりと沈んでいく。スイが見る世界はぐるりと回転し、乱れまくった視界が定まれば、森の木々を抱く雨空が広がっていた。ツキは突然の出来事に呆け、言葉もない表情でスイを見下ろす。


「殺せよ、ガキ……。私の首を取れば、それなりの武功になるだろうよ」

「わ、解ってらっ。言われなくても、お前なんかっ……」


 ツキは、うぅ……とだけ唸り、何を思ったのか小太刀を鞘に戻す。本当に戦に慣れていないらしく、目前の敵を殺す事も出来やしない。スクライドとは、とんだ甘ったれだとスイは思う。


「ここで殺さなければ、後悔するぞ?」

「う、うるさいっ。オイラは弱った奴なんか目じゃないんだ」

「馬鹿かてめぇは。今は大戦中なんだ。弱ってるもクソもあっかよ」


 ツキは眉根を寄せるが、誤魔化すように鼻を鳴らして去っていった。急いでいるようなのだが、ここで自分を殺さないのは過ちとしか思えない。そう言いたいところなのだが、今の僅かな抗戦で力が入らなくなってしまっていた。たった一度鉄扇を振ったばかりなのに。どうやら思っているよりも重傷のようだ。


 止めを刺されようが見逃されようが、結局は同じかよ……。


 スイは最早死ぬのを待つ事しか出来なく、また涙を流す。込み上げてくるのは、オルカへの謝罪の音と自分の弱さへの嘆き。鼻をすすり、呆けた顔で泣くスイに雨は降り続ける。


 オルカさま、ごめんな。

 ここで終わっちまうみてぇだ。

 アンタの夢……叶ったところを見てみたかったよ。それを一緒に喜びたかったよ。

 でも、もう無理だ。それが悔しい。誰に負けるよりも、オルカさま……。アンタの傍でアンタの夢を叶えられない事がめちゃくちゃ悔しいよ。


 ゴメン、本当にゴメン。

 どうか……どうかオルカさま、その夢を――。


「っこいしょ」


 突然、身体が持ち上がった。

 スイはお姫様のように抱き上げられている。驚く事に、それはツキの手によって。

 ツキは視線も合わせず、ここから見えている街の方角へと歩き出す。


「てめぇ、何の」

「うるさいっ。オイラはオイラが思った通りにする。ねえちゃんは敵だけど……敵だけど、そのっ」


 訝しげな表情をするスイの目線に、ツキは頬に朱を散らせる。

 しかしすぐに悲しそうな顔を見せてきた。


「弱ってて、泣いてる女の人を放ってはおけない。嫌なんだ、そういうの。甘ったれだって思うけど……。でも何か……ねえちゃんを死なせちゃ駄目な気がする」


「はぁ? 何言ってんだ、ガキ。死にたくねぇのは誰だって同じだろうが。死にかけりゃ、誰でも泣くさ」


「違う。ねえちゃんはそんなんじゃない…………と思う」


 馬鹿か、こいつ。

 そう思い、それを口にしようか殺してやろうか迷っていたのだが、ツキに放たれた一言が胸に染み込み、何も出来なくなった。


「ねえちゃん、誰かの為に生きてる」


 目を丸くするスイだが、ツキは恥ずかしさからか咳払いをし、歩を進めながらも言葉を並べ始めた。


「た、ただの思い込みだろうけどさっ。ホラッ、ねえちゃんにも彼氏とかいるんだろ? そいつが泣くにはまだ早いかなーって。家族とかもさ、そのっ、解るだろ? あ、そうだ。言葉使い、直した方がいいと思う。何か怖いし、折角綺麗なんだからさ。オイラも好きな女の人がいて、まあ暴力的だけど可愛いところもあるって言うか。言葉使いも女らしくていい――」


「ガキ」


 訳の解らない事ばかり並べ始めたツキの言葉を遮り、鼻で笑う。ツキは挙動不審のまま訊き返してくる。それに対して、スイはもう一度鼻で笑い捨てた。それから言ってやる。


「女は優しく扱えよ?」

「お、おう」


 にひっと笑うツキに釣られ、思わず笑みを浮かべてしまったが悪い気分ではない。


「私はスイだ。お前は?」

「ツキっ」


 ったく、スクライドの奴らときたら甘いにも程がある。情けなどいらないというのに。本当、変わった奴らばかりの変な国だ。


「ツキ」

「うん?」

「ありがとう、な」


 ツキは笑顔で頷く。

 この少年を教育したのは、きっと馬鹿だ。手に握り締めている鉄扇を振るえば、ツキを殺す事だって可能だ。それでもスイがそうしなかったのは、ツキの人柄にあてられたからなのか、それともそれほどの力もなかったからなのか。本人以外の誰にも解らない事なのだが、スイの穏やかな寝顔を見れば、何となくではあるが……。


 ――オルカさま、スクライドってのは変な奴らばかりだけどよ、何つーか……羨ましい国だよ。クルードとは全然違うんだ。こんな事言ったら怒られっかもだけど、スクライドに生まれてみるのも良かったかもな。オルカさまも、少しはそう思うだろ? 

 だって楽しそうなんだ。それが羨ましい。


 何で、戦があるんだろうな。

 前はその答えが解っていたけど、今はまた解らなくなってきたよ。

 アンタの兄さんやミゼリア、赤麗のクレハとかこのツキを見てるとな……もしかすると争わなくても、解り合えるんじゃねーかって思ってしまう。そんな淡い期待をしてしまうほど甘いんだ、こいつらは。殺したくない、って馬鹿じゃねーの? 敵だろ。戦争中だろ。そうは言ってみるんだけどな……。


 オルカさま、今だけは情けねぇこの想いを抱かさせといてくれよ。

 目ぇ覚めたら、また殲鬼隊らしくあるからよ。

 だから、今だけは――。


 悲しさからか憧れからか、眠るスイの頬に涙が伝う。ツキは眉を下げた。一度俯き、重い雨空を見上げる。思うところが多々あるのか、ツキも涙ぐみ、呟くように樹楊を呼んだ。



 ◆



 ダラス連邦が所有する鉱山で働く労働者の中にバリーの姿もあった。他の者達より一回りも二回りも大きな身体を動かし、額に汗を流している。

 鉱山の中はただ突っ立っていても汗が滲むほど蒸し暑く、そんな中で重労働をすれば半日も立たずに着ている衣服で汗を絞れる。しかし誰も不満など漏らさず、反対に気持ち良さそうに働いていた。


「よし、この辺で休憩だ」


 皆に休憩を促したバリーも近くの岩に腰を下ろし、タオルで汗を拭う。それから持参の水筒で喉を潤した。

 

 仕事を終えた後の酒も美味いが、こうやって休憩の度に呑む水は格別だ。キンキンに冷えた水が喉を通り、胃を冷やす心地が何とも言えない。

 ささやかな感じているバリー、その元に一人の少女が手を振りながら現れる。


「バリューさーんっ」


 今日はお得な感じの名前か。

 いくら正しい名前を教えてやっても覚えない、シィである。

 シィが呼ぶバリーの名前は日によって違うのは他の労働者も知っている。バリーはシィに名前を覚えてもらう事を既に諦めていた。バリューでもバルーでもバムーでも、何でもいい。日替わりランチのような呼び名にはすっかり慣れている。


 バリーは悪人面を歪ませると水を一口。

「どうした? アシカリで何か問題でも?」


 シィは笑顔で首を振ると、見学に来たと言う。

 現在、アシカリの区画整備の監督はシィに任せてある。シィはアシカリの全てを把握する唯一の少女なのだ。そのシィに任せれば、区画整備も難なく進むだろうとはバリーの考えであり、事実、今のところ滞りはない。そればかりか、シィの提案でより良い環境を生み出せる希望が湧いてきてもいる。


 シィは好奇心が旺盛らしく、よく鉱山にも造船場にも顔を出す。そして色々な質問をしてきてはその辺りを見学し、目を煌めかせている。


「今日もお疲れ様です、バリューさん」

「おう。と言っても、まだ半分残っているけどな」

「ガンバですっ。アシカリの方は、生憎の雨で作業は中断してますが、順調ですっ」


 御苦労、と労ってやると屈託のない笑みを浮かべる。

 本当に良い国となっていくな、ダラス連邦は。そんな事をすぐに思える。何の疑いも無く、胸の奥から出てくるのだ。少し前の悪政が蔓延るダラス連邦とは思えないほどに。


 それから他愛もない話をしていると、シィがとある石に目を付けた。それはただの石なのだが、鉄分を含んでいるのか少しばかり輝いている。親指の先くらいの小石で、見た目よりも軽い。


「バリューさん、この石……どこから取れたんです?」

「どこも何も、岩壁から取れてな。磨けば少しは綺麗になるかと思ってとっておいたんだ」


 説明をしてやるも、シィはその石をライトにかざしたり、壁に打ち付けて見たりと何かの疑いを持った目をしている。そしてバリーが首に掛けていたタオルを勝手に取り、それで磨き始めた。


「おいおい。そんなただの石を俺のタオルで拭くな」

「…………ちょ、バリューさん。これって」


 シィは磨き終えた小石を見せてきた。

 小石は金色に鈍く輝き、所々に水晶のような透明の筋が入ってもいた。その珍しい石にバリーは目を見開くが、対して驚きはしなかった。これまた珍しい、としか思わなかったのだ。だが、シィは違うようだ。


「バリューさん……これ、これっ」

「何だ? どうかしたのか?」

「どうかしたのか、じゃないです。その坊主頭は飾りですか」


 頭は関係ないだろう、と言いたいバリーにシィは詰め寄り、声を潜めてきた。


「これ、水掌金ですっ」

「スイショウキン? 何だそれは」

「レアメタルですよっ。金よりも遥かに価値のある金ですっ。水掌金の価値は普通の金の――」


 と、シィは指で六の数字を現してきた。

 六倍? と訊くも首を振られ、六〇倍? と訊き直すも頭突きを喰らう。だがバリーの頭は固く、シィは自滅してへたり込むと、涙の上目づかいで睨んできた。バリューさんの頭もレアメタルです、との呟きは無視しておいて、バリーは訊く。


「ろ、六〇〇倍だと言うのかっ?」

「そうです。六〇〇ぶぁいです」

「な、何でこんな鉱山にそんな物が……」


「あまりにも発掘数が少ないレアメタルなので確証はないらしいのですが、水掌金という石は、どうやら質が悪くて荒い鉄分の中にしかないみたいです。他にもその地域の気候だとか湿気だとか、色々な要素が絡んでこそ、らしいのですが、これは滅多に取れる物ではないですっ。これ一つで私の笑顔が一年見れますっ」


 シィの笑顔の価値がどれ程かは解りかねるが、金の六〇〇倍という数値は解る。もしこれが大量に取れれば、ダラスの景気の回復も見込める。しかし、そんなに都合良く見つかるわけもなく、水掌金はバリーが見つけた一つだけだった。シィは肩を落とすが、まぁ、仕方のない事だろうとバリーは潔く諦める。


「残念です」

「レアメタルなのだろう? それならば仕方のない事だ。この鉱山を全て崩せば多くの水掌金を得られるかも知れないが、この鉱山にはそれ以上の価値がある」


 そう言って談笑する労働者を見るバリー。

 ここで働き、給料を得、笑顔になる人々が居る。それを崩してまで得る金銭に何の価値があると言うのか。シィはバリーの気持ちを寸分も違わぬ形で理解したようで、明るく笑顔を弾ませる。


 バリーは残る時間でシィに鉱山業に使用する道具の名称やら使い道を教えてやり、楽しい時間を過ごした。そして休憩が終わりかけた時、シィが大きなハンマーを両手に持つ。バリーは片手で振るえるが、成人男性でも両手を使わなければ満足に振るえない。シィに至っては胸の辺りまで持ち上げるのが限界のようだ。


「そいつはな、硬い岩を叩き割る為に使うんだ。掘削機で一気にやるよりもスムーズに掘れるんだ」

「お、重いですっ。よく、こんっなの……お、おおおおっ」


 よたよたとするシィの後ろを、二人の労働者が通る。手押し車の荷台の中には砂利が山盛りになっていた。


「それ、捨てんのか?」

「ああ。磨けば金っぽいけど駄目だ」

「何でだよ」


 シィとバリーは目向け耳を傾ける。


「透明な筋が入ってんだよ。こりゃ金じゃねぇ」


 ごしゃっ。

「でゅっ!」


 ハンマーがバリーの爪先に落ちた音。

 バリーの悲鳴の順である。


 シィはハンマーを落とした事にすら気付かず、ぱくぱくと口を開閉している。バリーはバリーで激痛にのたうち回り、脂汗を盛大に流していた。


「バリューさん! 遊んでる場合じゃないですっ」

「お、おおぉおま、おま、おまっ。あし、あし足っ、俺のぉおおおお」

「ああ、もうっ」


 シィは焦りまくった面持ちで二人の労働者を追い掛ける。

「待って、待って下さいっ。それは捨てちゃダメですーっ」


 今日に限って安全靴を履いてこなかったバリーは、保護具の着用は労働者の義務である事を痛感した。


 そして肝心の石なのだが、正にレアメタルである水掌金であり、ダラス連邦の国内留保として活用される事となった。国の宰相らは大いに喜び、鉱山への投資資金も増大してくれる事なり、今よりも多くの労働者を囲える事となった。レアメタルの発見は国内を豊かにしてくれる。それにより、貧困の差も縮まっていく。


 犠牲となったのは、バリーの足の爪三枚ほどだ。

 その犯人である少女は今日も色々なものに好奇心を働かせている。


次章

~ たからもの ~

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