第四十七章 ~赤き蝶と白の花~
天の号泣により、視界は雫の幕で塞がれる。無風である事が一つの幸いだが、戦火はみるみる広がっていく。そして今ここに、最大級とも呼べる戦の炎が柱を立てようとしていた。
「ようやく会えたね、紅葉アゲハ」
お気楽な口調で話し掛けてくるのは、殲鬼隊の首領であるオルカ。
受けるのは、赤麗のトップに座す紅葉アゲハ。
雷鳴は激しさを増し、空気を震わせる。それは二人の出会いに悲鳴を上げているかのようであり、先程まで激突していたスクライド兵とクルード兵達は己らの戦を余所に固唾を呑んで距離を取っていた。
その中心には紅葉アゲハとオルカが充分な間合いを開けて対峙している。
紅葉は手の震えを誰にも悟られる事無く抑え、雨に隠さされた冷や汗を拭うと冷笑を浮かべた。以前の敗北が頭を過ぎる。
「アンタも私を探してたとはね。相思相愛じゃない?」
「当然でしょ。この戦でネックなのは――と、ゴメン。ちょっと待って」
いやーはははっ。と、悪びれた様子も無く、腰に巻いているポーチから通信機を取り出して会話を始めるオルカ。こちらが不意打ちなどしない事を知ってか知らずか、随分と余裕な態度だ。オルカは頷きながら時には笑い、それでも長引かせる事はなく通信を終えて再度向き直ってくる。
「うーん、こうなっちゃうとはね。予想外だったなぁ」
「どうしたの? 結構深刻そうだけど」
「深刻も深刻だよー。部下に怒られちった」
まるで友のような会話に周囲の兵達は唖然とするが、紅葉は極めて冷静だった。内に燻ぶる闘志があるが、暴れ狂おうとは思わない。何せ、相手はオルカだ。冷静さを欠いたら負けは確実。
オルカは頬をポリポリと掻くと、舌をペロッと出す。
「蓮ちゃん、そっちに寝返ったね。元の鞘に戻ったって言うか……兎に角、厄介な相手が増えたよ」
それは予想外だ。
一体何のつもりでこちら側に戻ってきたのか。今更受け入れる余地などないが、そんな事も言ってられない。恐らく、樹楊絡みで事に進展が起きたのだろう。そうであれば、取り敢えずはこの戦が終わるまで蓮は味方でいるはずだ。正直、それは心強い。オルカが苦笑してしまうのは仕方がない事だ。
蓮の存在に心強さを再確認していると「――でも」
オルカが自信満々に切り出す。
「ボクの側近は異常なくらいに強いからね。蓮ちゃんはもう終わりだよ」
その言葉に唖然とする紅葉だが、次第に込み上げてきた笑いを口に含み、遂には声にして響かせる。頭がおかしいと思われたかもしれないが、これを笑わずにはいられない。蓮が終わり? 全く、馬鹿げた事を。
「アンタねー、蓮の全て……見た事ないでしょ? あの子は――まあ、いいや。ここで何を言っても変わんないし、そろそろ……ねぇ?」
愛刀・紅威を抜くと、その水晶のように透き通った赤い刀身が現れる。丈も長く、馬をも両断せんばかりの刀に、オルカは一瞬驚くが自らの大鉈を構えた。その鉈も規格外の大きさであり、熊でさえも両断しそうなほどのものだ。
「今度は生きてられないよ? 紅葉」
「解ってるって」
担ぐように構えるオルカに対し、紅葉は柄を大きく引いた刺突の構えを取る。肩を内に入れ、瞳で敵を射抜く。
いよいよか。
誰しもがそう思ったであろう瞬間、二人の中心、誰もいなかった空間で激しい金属音が重なり合う。見れば、とうに二人は何合もの打ち合いを始めていた。
無数の雨すらも弾き飛ばし、幾重もの残像を残すが如くハイスピードの攻防戦。
斬る、避ける。髪は大きく揺れ、地には高速のステップを残し、互いに攻防を結び合う。瞬きを一度でもすれば二人の身体は入れ替わり、耳を突く音は途絶えない金属音。まるで打楽器を打ち鳴らすかのように連なっている。
紅葉は周囲の兵達が剣を地に落とすほどに驚愕している事すら構わずに、オルカ唯一人を見ている。オルカも然り。
互いに蹴りを浴びせ、僅かな距離が出来ると、打ち合わせをしたかのように走り出す。向かう先は斜めに倒れているビル。
そこに向かう間にも斬り合いを止める事はなく、それに連れられるように金属音も響く。二人はビルに足を掛けると坂道を登るように疾駆し、その間も手を休める事はない。そして頂上に差し掛かったその時、態勢を崩した隙を衝くようにオルカの斬撃が襲い掛かる。
しかし紅葉は刀の切っ先をその刃に添え、力の流れを優しく変える。そしてそのまま突き上げるような刺突。これをオルカは辛くも避けるが、返しの逆袈裟を繰り広げてきた。だが、紅葉は先を地に向けるように刀を斜に構えて受け流す。
まるで潤滑油に滑ったように流されたオルカの鉈は虚空を切り、身体が微かに浮く。紅葉は弧を描くように斬り掛るが、流石はオルカと言える。
笑みを口端に浮かべ、身を捻ると斬撃を易々と避ける。身の軽さは樹楊並みだ。加えてクルスが高評する戦闘能力もある。
オルカは重量に任せた攻撃を紅葉の頭に見舞う。
これを紅葉は刀で受けるが、とてつもない衝撃に身体が軋む。その僅かな隙に、オルカは目を光らせ、鳩尾に蹴りを突き刺し、浮いた紅葉の身体に更なる回し蹴りの連撃を繰り出した。
ビルから落ちる寸前で踏ん張った紅葉だが、顔を上げれば既にオルカが大鉈を横薙ぎに振り被っている。呼吸など整える暇などなく、刀を盾に被害を最小限に留めたが、ボールのように吹っ飛んだ。
ビルの傾斜を転がるように落ち、乱れる視界の端にはオルカが追撃してくる姿を捉えた。地を突き飛ばすかのように伸ばした手で跳び、距離を取る事が出来たが、オルカは待ってはくれない。
大鉈の重さなど感じさせない高速の連撃に、紅葉は劣勢となり始めていた。
自分の中のプライドがズタズタになり、冷静さが失われていく。屈辱により、怒りの炎が心に宿り始める。そうなれば、負けは必至だ。だが、気性というものがある。
紅葉は歯を食い縛り、獰猛な輝きを目に浮かべ始める。だが、樹楊の顔が浮かんだ瞬間、一瞬で心が凪いだ。
紅葉はオルカの攻撃を避けると、大きくバックステップをし、ジグザグに離れる。
そして口に溜まった血を吐くと、呼吸を整えた。
そうだ……。もう負けられないんだ、自分は。
プライドなんかよりも、大事なものがある。それを護らなきゃ。
その為には、自分の弱さを認めなければ。
すうっと息を呑み、ゆっくりと吐き出す。それからゆったりを構えをとった。
肩に力を入れず、柄を軽く握る。心は適度な緊張に満たされるが、身体はリラックスしていた。視界は……問題無い。足も軽い。
その瞬間、轟々と燃えていた紅葉の闘志が、ぷつりと消え失せた。
◆
場所は大きく東へと移り変わり。
人の手が掛らぬ森の中、獣専用の通路を蓮は風のように疾駆する。老齢な樹木達が大きく両腕を広げているお陰で大雨の被害は最小限に留められていたが、先に見える平原には森の加護など無く、野ざらしにされているかのよう。大粒の雨が、重く重く落下し、バラバラと耳障りな音楽を奏でている。
拓けた平原にはいくつかの丘があり、その一つを登っている二人組を目に認める。
一人は藍色の長衣で金髪。もう一人は、純白の長衣で……。
「きょーくんだ」
思わずその名を口に含み、より早く駆けていく。
樹楊は何やらサルギナと揉めており、雨音に大声を混じらせている。サルギナは樹楊の襟首を引っ掴み、何やら説いているが、蓮は首を傾げる他ない。
どうしたんだろ?
そんな思いを胸に二人の視界に入るまでに到ると、蓮は足を止めた。
そんな蓮に気付いた二人も驚いたように振り返ってくる。そしてサルギナがハルバードの柄を握り締めたが、それを制する樹楊。
「蓮……。クルス、は……どうした?」
どうした、と訊かれても、何て答えればいいのか。
助けたには助けたのだが、本人の希望通りとは言え、森の中に置き去りにしてきてしまった。傷も浅くはないし、本当に大丈夫なのか。
説明がこの上なく苦手な蓮が答えあぐね、じーっと樹楊を見つめていると、サルギナが顔を青ざめさせて前に出ようとする。しかしそれをも樹楊は制した。雨に打たれながらも目の前まで来てくれると、ぐっしょりと濡れた髪を撫でてくる。
「そっか。お前、帰ってきたんだな? クルスも無事、だろ?」
こくこくと蓮が頷くと、サルギナが樹楊に説明を求めた。樹楊は思った事を口にしただけだろうが、全部本当の事だった。
蓮がスクライド側に着いた事やクルスが今は無事な事。
そしてそのクルスに願われ、ここに来た事を解ってくれた。
サルギナは安堵にも似た溜め息を吐くと、ハルバードを担ぎ、こちらを見てくる。先程まで瞳に貼り付いていた警戒心はもう消えている。
「しっかしまー、よく解ったな。蓮が黙りこくったもんだから、俺はてっきりクルスがやられちまったもんだと思った」
「まー、慣れだ慣れ。それはいいとして、蓮がこっちに着いたとなれば、戦況も大きく変わるな」
「いえいえ、それほどでもありませんよ?」
自然な形で会話に割り込んできた声は、とても穏やかなものだった。しかし樹楊ら三人は声のした方角から離れるように跳び、各々の武器を手に構える。
油断してたとは言え、気配がなかった。その事に今更驚きはしないが、何故、こいつが戦場にいるのだろう。それが気になる。こいつは軍師のはず。
蓮が、樹楊が、サルギナが睨む一人の男は漆黒の長衣を纏い、短い金髪を雨に濡らし、淡いブルーの瞳をこちらに向けてきている。オルカの側近であり、殲鬼隊の軍師、ラファエンジェロだ。
ラファエンジェロは樹楊に向かって一礼すると、蓮に瞳を向ける。
「これはこれは。本当に寝返ったのですね、アナタは。それがどういう事か、お解りなのですか? アナタはキオウさまばかりか命をも諦めなければならない、という事ですよ?」
「…………そう」
素っ気なく返すと、ラファエンジェロは苦笑を浮かべて頭を掻く。が、再度向けられた瞳には明らかな敵意が込められていた。冷たく、鋭い殺意がそこにはある。
「アナタはイイ人。近くにいてそれが解った。けど、私はここに居たい」
ラファエンジェロは、そうですか、とだけ呟くと短剣を二本手に取る。そして構えもせずに殺意だけを膨らませ始めた。
先の言葉通り、ラファエンジェロという男はオルカに従順であり、それに全てを懸けている事が解った。第一に主君を思い、行動する。自分の事など二の次で、全てはオルカの為にと動いている。それをどう見ても悪人とは言えない。けれど、正面を切るように立てば、争わなければならない。それが自分の選んだ道だから。
樹楊とサルギナは目の前の強敵に怖気づく事も無く、武器を構えるが蓮は制した。元より、連携と言うのは苦手だ。それに自分の能力は味方を傷つける恐れもある。ここは一対一でやり合いたい。
「きょーくん。それと……、それと…………………………んぅ」
困った。名前が解らない。
サルギナがスクライドの者である事は解っているし、何度か名前を聞いた事もあるのだが、自分には不必要として頭の中から排除していた。だから名前が解らない。
サルギナは蓮に意味ありげな視線を向けられ続け、首を傾げている。
何て呼ぼうか。
金髪……じゃ、可哀想かも。
雑魚……じゃない。明らかに腕が立つ男だ。
部外者、でもないし、スタッフ……何のだ。
暫く悩んだ後、蓮はポンっと手を打ち、びしいっと指差す。まるで天啓を得たり、とばかりに死んだ魚のような目に力がみなぎる。
「そこのタレ目」
「は!?」
言うに事を欠いて、外見的特徴を述べる蓮に樹楊は顔を逸らして肩を震わせる。確かにサルギナの軽薄そうな垂れ目は特徴的なのだが、他にも色々あるだろう。せめて金髪と呼ばれた方が本人にとっても良かっただろうに。
しかし蓮は「どーよ」とばかりに鼻息を荒くしている。対してサルギナは口端を痙攣させ、茫然としていた。樹楊は歯を食い縛って震えているし、蚊帳の外になりがちなラファエンジェロはと言うと。
「あっはっはっはっは! 何故そこっ、解りますけどね、ええ、解るんですけどねっ、ぶひゃっ」
バカウケであった。
周りの反応から失敗したと悟った蓮は頬をほんのりと赤く染めながら、樹楊とサルギナに背を向ける。
「こ、ここは私一人でいい」
サルギナはようやく我を取り戻し、蓮に向かって口を開く。
「ちょ、待てよっ」
が、樹楊は肩を掴んでそれを阻止する。
「まあ、待てって。タレ目でもいいじゃねーか」
「そこじゃねぇっ。俺が言いてぇのはそこじゃねぇ! 蓮一人で大丈夫かって事……つーか、ほっぺた膨らみ過ぎだっつーの!」
樹楊はスマン、と空咳を挟み、
「蓮は連携が苦手なんだろ。俺達はいざって時の為に控えておこう」
口元が緩んでいるが、言う事は一理あり、サルギナも渋々引き下がった。
これで心置きなく戦えるようになった蓮は一本の両刃剣を左の奥に流し、構える。
笑い終えたラファエンジェロも深呼吸をすると、再度、敵意を剥き出しにしてくる。
時空の魔法を駆使しながら、という戦法もあるが、アレは集中力が乱れる。生半可な集中力じゃラファエンジェロは相手に出来ない。ここは純粋な剣技のみで行くべきか。取り敢えず様子見を兼ねて……後に戦法を再構成しよう。
蓮は地を柔らかく蹴ると、ふわりと宙に舞う。全く速くもない速度で、ラファエンジェロを目掛けて跳んだ。ゆるやかに舞い降りていく蓮に、ラファエンジェロは短剣で応戦するも、その身体はまるで柳。迫りくる剣の力の流れに逆らう事無く、身体を回転させてやり過ごす。そして着地間際に、下から振り子のような斬撃を繰り出す。
ラファエンジェロはこれを剣で受け止め、上から突き刺そうとするが、蓮はくるくると横へ回転し、制空権から外れる。
そこから繰り出される蓮の攻撃と動きは実に軽やかで、羽が舞うようであった。流れに逆らわず、手数で圧倒する事もせず、一撃一閃を大事に振るう。ラファエンジェロはその柔らかな攻撃に翻弄され始め、遂には肩を斬り裂かれる。浅いが、意味のある一撃だった。
ラファエンジェロは左肩を押さえ、血が付く手を見ると口角を釣り上げる。
「驚きましたね、ホント。アナタは力やスピードを頼りに攻撃するタイプかと思っていましたが……とても洗礼された剣技です」
蓮は答えず、散歩するような足取りで円を描き始める。その足運びにも一切の無駄など無く、いつでも攻撃あるいは防御に移行する事が出来る。ラファエンジェロは蓮の強さを再認識すると、短剣を一本だけ収め、片手で複雑な印を組む。
「少しばかり本気を出しますか」
途端、ラファエンジェロの周囲の雨が一点に集中するように集まりだす。ラファエンジェロの頭上で大きな球体となり、渦を巻き始めた。
「私にとって自然災害とは自分の武器となり得る力の一つです。火災が起きれば炎を、暴風が吹けばその風を、氷点下になれば氷を、土砂が崩れるのであればその地を。そして今振り続けるこの雨を。アナタは無限に襲い掛かる水の刃を何時まで防ぎきれますかね」
ラファエロは二本だけ立てた指を蓮に向け、何やら小さな声で呟く。すると、大きく膨れ上がった水球から無数の水の刃が出現し、一気に蓮へと襲い掛かった。
当たるを幸いとした水の刃。
蓮はこれを弾き、避け、防いでいく。しかしそれは何時までも続かず、一本を弾き損ねた事をきっかけに、防ぎようもないほどの数の刃が眼前に広がった。身体を捻って避ける隙間など無い。弾いている時間も皆無だ。――ならば。
終わりの見えない刃の強襲は、大雨であるにも関わらず土埃を舞い上げるほど高威力で、その中に蓮の姿が隠れた。それでも足りない、と言うのか。ラファエンジェロの魔法攻撃は止まる事を知らず、今も尚、刃は目標に向かって閃光のように襲い掛かっている。一方的な暴力としか例えようのないその攻撃が止んだのは、土埃が樹楊らの元まで広がりかけた時だった。
煙幕のようにもうもうと広がる土埃のベールは、やがて雨に押し潰されるようにゆっくりと消え始める。ラファエンジェロは勝利を確信したように笑みを浮かべるが、途端、土埃が内側から爆ぜる。
弾け飛ぶ土埃が雨をも巻き込みながら四散すると、まず最初に現れたのは、薄紫色の霧だった。火炎旋風のように捻じれた火柱の如く旋回していたが、弾く対象がなくなると打って変わって穏やかに揺らめく。
次に目に着くのは、水の刃によって抉られた地だった。数十人で無作為に掘り起こしたように、辺り一面がボロボロに抉られている。しかし、中心だけは無傷のままだった。そこに蓮が何事も無かったかのように突っ立っている。
しかし、蓮の様子が変わったのは一目瞭然だった。
ラファエンジェロはその姿を認めると、渇いた笑い声を短く発する。
「愚かな。それに身を委ねると言う事が何を意味するのか、アナタ自身が誰よりも知っているはずでは?」
「……委ねる? 勘違いしないで」
蓮はこめかみから流れる一筋の地を拳の背で拭うと、それを舌先で舐め取る。その後、衣類に塗された土埃に気付いて払い落した。
いかなる時も世界に晒されていた左目は健在なのだが、顔の半分ほど覆っていた布が取られている。その下に隠れていた呪刑者の証しである瞳が失くなっていたのだ。眼球全体が真っ白く塗り潰され、瞳の代わりに黒く奇っ怪な紋章が浮かび上がっている。それはかつて、クルードの防呪の部屋で蓮が狂乱に陥った際に現れた瞳だ。しかし、今の蓮は酷く冷静で、ラファエンジェロを見据えていた。
「何時までも呪いに支配されている私じゃない。受けた呪いが枷となっても、私はそれをも力とする」
薄紫の霧を纏う蓮の姿は、誰の目から見ても異常だった。
その霧が視覚に影響を与えるのか、時折、蓮の姿がノイズに掛ったように歪む。
樹楊は勿論、サルギナも開いた口が塞がらない状態となり、目の前に凛と立つ呪刑者の少女を、ただただ見つめていた。
その時、ラファエンジェロが戦闘とは別の動きを見せた。
片耳を押さえ、何か交信をしている。そして短いやり取りの後、満足そうに口を開いた。
「オルカ様と紅葉アゲハが出逢ったようですね。まあ、オルカ様の勝ちは揺るがないでしょうけれど」
蓮は首も傾げず、
「何でそう思うの?」
「以前、オルカ様が圧勝したでしょう? 記憶に新しいはずですが」
お忘れですか? と、嘲笑じみた声を投げてくるが、瞬きのみで動じない。
「それって、素手でだよね?」
「そうですが? 今回は武器を持ています。オルカ様の武器捌きは超一流です。以前とは比べ物にならないほど、鮮やかな勝利を得るでしょう」
主君を信じるのは良い事なのだろうが、相手は些か情報を欠いているようだ。剣を持っているのは紅葉も同じ事だと伝えてやるも、その確信は微塵も揺るがない様子。ここで蓮は気紛れを起こし、少しばかり詳しく教えてやる事にすると決めた。ラファエンジェロには恩もある。後先、オルカが負けて大きなショックを受けるよりはマシになるはずだ。
「超一流ごときでアゲハは倒せない」
「ほう……。何やら自信がお有りのようですが、紅葉アゲハは剣を手にして初めてその実力を引きだす、とでも? 剣聖、というのですかね、それは」
蓮は一度だけ首を振る。
「まず、アゲハの怖さを解ってない」
「話を聞く限りでは、余程の戦闘狂だとか」
「そう。でも『そのアゲハ』は弱い。強い奴と戦えなきゃ怒るし、戦えたとしても見境なくなるし、劣勢になれば怒るし。アゲハって……アレだもん」
アレ、という言葉に樹楊とサルギナは深く頷いた。ようするに、馬鹿。と言いたいのだ、蓮は。戦闘狂で、キレるのは毎度の事。追い込まれれば更にキレる。相手が弱くてもやっぱりキレる。強くても……もういいだろう。
しかし、その時の様子は目に焼きついたら十日は脅えて暮さなければならないほど、邪悪な姿であり、夢にも出てきそうなほどだ。現に、キレた紅葉と目を合わせて戦場に立てなくなった者もいる。
だがそんな紅葉は弱い、と蓮は言い切る。
「アゲハの本当の怖さは、冷静になった時。そうなれば、私は勝てない。百回挑んでも百回殺されるのがオチ」
ラファエンジェロが何か言い返そうとした時、蓮は言葉を繋げて――「それに」――許そうとはしない。
「剣聖、剣豪。その他にも色々な称号があるけど、この世にはアゲハにしか当てはまらない称号だってある。それはアゲハが冷静な時にだけ、現れる。だからオルカごときじゃ勝てない」
口数の少ないはずの蓮がこうまで言葉を並べ、言い切る様に、ラファエンジェロは目を鋭くさせた。多少なりとも気に掛るのか、一度だけ唾を呑み込むと、その、アゲハにしか当てはまらない称号とやらを訊いた。
蓮は一拍ほど置いて、唇を薄く開く。
「それは――」
◆
――身剣一体。
オルカはその言葉を紅葉に当てはめる事しか出来なかった。
まるで剣が身体の一部だ。紅葉が手にしているのは武器などではなく、間違いなく彼女の身体の一部にしか見えない。剣とその持ち手が互いに足りない部分を補うように戦う剣聖とは次元が違いすぎる。あれは、そんな生半可なものなどではなく、己の一部として自由自在に操っている。米粒を摘まむ指のように、歩く為に動かす足のように、言葉を発する為に開く唇のように、瞬きをする瞼のように、ごく自然で当り前に操っている。
だが、そのような事は有り得ないとされていた。
何十年肌身離さず手に巻き付けていようとも、それはただの武器であり道具なのだ。自分の骨にもなれない、血も通わせられない、ただの道具でしかない。だからこそ、人は技術を磨く。より自在に精密に操る為に、地道な努力を必要とする。
しかし、目の前の紅葉はどうだ。
まるで己の指じゃないか。もしあの剣で髪の毛一本を持ち上げろと言えば、それを容易く可能とするだろう。オルカはその剣が鬼が宿っている事など知る由もないが、それが要因などではない。それは、紅葉アゲハだけが持つものだ。
これが蓮の言う、紅葉アゲハの本当の怖さなのだろう。
当初の爆発的な威圧感を自らの意志で捨て去り、無風の湖面のように穏やかな心が満たす、紅葉アゲハの本当の力。何も魔法や特殊能力などではない、純粋な技術だ。いや、紅葉にとっては技術などではなく、ごく当たり前の事なのだろう。
今は戦闘中。
オルカは、紅葉が構えを取る事でようやくそれを思い出し、自らも構えを取った。雨は弱くなる事を知らず、濡れている長衣を更に濡らしていく。もうこれ以上水分は含めないと言うのに。
敵味方、多くの兵達が見守る中で動きを取ったのはオルカだった。持ち前のスピードを駆使する事で、あっという間に制空権を奪い、雨をも切り裂く一閃。しかし紅葉はこれを剣腹で優しく受け流し、風が流れるように攻撃に転じてきた。
それを避け、斬撃。僅かに距離を取り、フェイントを交えた動きから切り上げ、切り落とし。
その攻撃は並みの兵では目に映す事の出来ないスピードだった。強者とて五感と経験を活かして、それでも辛うじて防げるかどうかの瀬戸際だろう。それなのに、紅葉は全て危なげなく防ぐ。剣を盾にする防御などではない。
赤子が挙げた手を優しく下ろしてあげるような、柔らかい受け流しだ。ある時は峰で。またある時は太刀の切っ先でそれをやってのける。
呼吸を止めてまで攻撃を雨霰と繰り広げるも、手に得られる衝撃など些細なもので、心が得るものと言えば敗北感だった。時間が経つにつれ、その感情は大きく心を喰い荒していく。当初に持っていた自信など、叩き割ったグラスだ。原形などない。有るわけがなかった。
オルカは僅かな隙を衝かれ、腹に突き上げるような蹴りを見舞われ、そこを押さえる暇などなく、後ろ蹴りで大きく吹っ飛んだ。
「オ、オルカ様!」
遠くから身を案ずる声が聞こえたが、それに答える余裕などなく、震える下半身に力を込めて立ち上がる。紅葉は追撃を必要とせず、静かにこちらの動きを見ていた。その瞳には驕りや優越感などなく、挑む者の輝きを止めどなく発している。
あまりにも強いその輝きにオルカは弱々しい苦笑を浮かべた。そして思った事を素直に口にする。
「紅葉アゲハ……」
「……何?」
「負けだよ。ボクの負け」
唐突な敗北宣言にクルード兵達は驚きの音を隠せずに騒ぎ出し、スクライド兵達はじわじわと満面の笑みを浮かべ始める。だがそれでも紅葉だけは表情を少しも変えなかった。オルカの気持ちが解っているかのように。
「けどね」
一呼吸置いたその声に、辺りはまた静まり返る。オルカの言葉を聞き逃すまいと、全身を耳にしているかのようだ。
「退くわけにはいかないんだ。相手が鬼だろうと悪魔だろうと、神だろうと……ボクは退けない。負ける事が必然だとしても、勝たなきゃいけないんだ」
「何それ。言ってる事が滅茶苦茶じゃない?」
「ははっ。かもね」
紅葉アゲハは強い。強すぎる。
以前相手した紅葉とは別人のように強い。背に負うものの重さや胸に抱く覚悟は劣る事はないのに、それでも明らかな実力差が見える。こんなの、反則じゃないか。どうやれば、そこまで強くなれるんだ。
オルカは、初めて自らの幼さを悔やんだ。
あと少し、一年でも経験を積めていたのらきっと……、などと言い訳なども考えた。だがそれを言っても何も変わらない事だということも解っている。
だから、オルカは再び構えた。
自分の足は後戻りする為のものじゃない。目は伏せるものじゃない。少しでも悔やむ暇があるのなら、前へ!
心は戦ぎ、闘争心が身体を駆け巡る。
紅葉は殺しつくさなければならない相手を前に、重心を落とした構えを見せた。
オルカは大地を一蹴り――制空権内。
二蹴り――相手の側面、軸足を回転させ、背後を取る。
そして死角からの袈裟切りに、やはり紅葉は反応し、ふわりと流してくる。だが、それは想定済みで、オルカの片手は紅葉の胸に触れていた。
「オ――ォオオオオオオオオオオオオ!」
カッ、と手の平が輝いた瞬間、圧縮された爆発が起き、紅葉は目を見開いて腰が落ちる。続けて二発目。
今度の爆発は放射状と化し、紅葉の身体が傾いたビルに向かって吹っ飛んでいく。だが、衝突までには至らず、力の流れの軌道から外れて猫のようにしなやかな回転の後、地面に着地した。それなりのダメージがあったのか、胸を押さえて咽ている。
「へぇ。単純な魔力の放出でここまでとはね」
「驚いた? ボクだって魔剣士なんだよ」
余裕ぶって見せるも、少しばかりショックだった。
単純な魔力の放出の威力とは、潜在する力に比例する。それを二発もまともに喰らわせて立っていられるとは、どんなに強靭な身体なのだ紅葉は。
オルカは次なる手を考えながらも紅葉へと突っ込んでいく。休ませては駄目だと強迫観念に駆られながら。
鬼気迫るオルカの形相に、紅葉はやはり動じる事はなく、また静かに構えるだけだった。
◆
「ふーむ……、どうしましょうかねー全く。外は雨ですし湿気が強いし蒸し暑いしお腹も空きましたし眠いですし」
早口で愚痴を捲し立てるラクーンは、本陣とした廃虚ビルの片隅で溜め息を吐く。机に地図を広げ、各隊の侵攻日時を記したノートを片手に持っている。背後には、赤麗のカヲルがひっそりと立っていたりするのだが、ラクーンは気付いていない。
カヲルが声を掛ければ良い事なのだが、彼女にそれを望む事は強要となっていしまう。ついでに言えば、気配を殺す事も標準装備らしい。ラクーンが鼻の片方の穴に、ずんぼっとペンを突っ込み、「し、って何回言いましたっけ?」と、独りごちるも突っ込んだりしないのが彼女だ。
なので、こっそりとおやつでも取ってこようと振り返ったラクーンが、
「――――ぃぃぃぃやああああああああああああ!」
などと、猫もびっくりの全身の毛を逆立てて驚く事は必然だった。何せ、幽霊のようにひっそりと真後ろに立っていたのだ。これで少しでも尿意があったのなら、ちびっている自信はある。
内側から破裂しそうな胸を押さえ、ようやくカヲルだという事を理解すると胸の鼓動も収まっていくのだが、怖かった。ホンットーに怖かったのだ。腕を組んで、何でか偉そうな態度のカヲルは顎を少しだけ下げる程度の低頭をすると、「おほっおほっ」と未だ興奮冷め止まないラクーンを直視する。そこへ、見張りの兵が大慌てで駆け寄ってくる。
「ラクーン様! どうなされたのですかっ」
「はいいっ? いえ、いえいえいえ! ええ! 何でもございません!」
激しく気が動転してもいた。
「こちらが赤麗のカヲル殿ですっ」
「え? 存じ上げておりますが……」
カヲルも面倒臭そうにぺこりと頭を下げる。見張りの兵は、紹介されたカヲルと鼻からペンがブラブラしているラクーンを交互に見ると、状況が理解できていない間抜けな顔で再度。
「え?」
「はい?」とは、ラクーン。
ぺこり、とカヲル。
「…………」
「…………」
「………………」
三者三様の沈黙を有し、ラクーンの鼻からペンが落ちると見張りの兵は断りを入れて仕事に戻った。しかし顔は腑に落ちない顔で振り返ってくる。そして微かに首を傾げてようやく持ち場へと戻っていった。
足元に落ちた鼻水付きのペンを「私のじゃありませんよー」とばかりに蹴り飛ばし、改めてカヲルに目を向ける。顎から鼻先まで隠したマスクに動きは見られない。
「えー……と、ですね。私に何か御用でしょうか?」
カヲルは前髪に隠れていない片目をゆっくりと瞬きさせると、ようやく組んでいた腕を解いて一枚の紙切れを差し出してくる。それを素直に受け取り、目を通す。
「これは、ミゼリアさんの収容先ですか。なるほど、国立の病院……。ふんふん」
どうやらミゼリアはスクライド城下町の中央、北寄りに位置する国立の病院へと収容されたらしい。そこは設備が整っていて、腕のいい医者も多い。しかし、ミゼリアの容体は極めて重体であり、危篤状態が今も続いているようだ。と、メモから理解を得る。
「これで一安心――とまではいきませんが、ありがとうございます。アナタも赤麗の任が――」
話しの途中だと言うのに、カヲルは影を滑るような足取りで移動し、ラクーンの背に回る。しかし、目線はこちらを向いておらず、二階に通ずる戸口を見ていた。どうしたのか、と問うよりも早く、暗闇から一人の男が姿を現した。
「やー、気付かれてたとはね。流石と言うべきかな?」
無邪気な声音にラクーンは思わず後退りをする。
その者がスイの双子でる、漆黒の長衣を纏うサイだったからだ。鉄の棒を担ぎ、ゆったりと歩を進めてくるが、大分距離を保ったところで足を止めた。
「何故ここにアナタが? 確かサイ……でしたよね?」
「そ。いかにも僕が殲鬼隊のサイ、なんてね。や、本当だけど。って言うか、今は戦争中なんだから、敵が本陣に攻め入る事は有り得るでしょ。僕みたいに優秀ならなおさら、ねー」
やはは、と頭を掻くサイ。
ラクーンは見張りの兵達を呼ぼうとするが、暫し思い止まった。命は惜しいが、それは早計だとも思えたからだ。何らかの行動も起こさず黙りこむラクーンを見たサイは感心したように頷き、親指を立ててくる。
「アンタはなかなか。いいね、うん。いいよ」
「それはどうも。して、何か御用でも?」
サイは「うん」と頷くも、視線をカヲルに向ける。
にこにこしている所為か、何を考えているのか解らない。
沈黙したままのカヲルに、サイは言葉を並べ始める。
「いつからボクの存在に? ってか、アンタ気配消すのうま過ぎ。全然気付けなかったよ」
いやー、ホント流石だよね。と、笑みを浮かべるが、突然鋭くなった瞳をカヲルに向けた。対して、カヲルに動きはない。
「アンタの立ち位置はそこだっけ? 僕の記憶によれば、アンタの仕事は赤麗に肩入れする事じゃないでしょ。ねぇ、ヨツメ一族の――」
サイが言葉を紡ぎ終える前に、ラクーンの背筋に寒気が走り回った。まるでこの部屋の気温が零下に落ちたように、寒気が身体を駆け巡る。サイの顔色も僅かに変わり、冷や汗を浮かべ始めた。どうやらこの寒気の原因はカヲルにあるらしい、とサイの顔から理解する。
「うっそ、ごめんごめん。何でもないよ。僕は争いに来たんじゃないんだ」
慌てて謝罪を口にするサイにカヲルも気を静めたのか、ラクーンの身体も軽くなる。しかし、気になるワードがあった。聞き間違えでなければ、サイは『ヨツメ一族』と口にしたはずだ。それは訊いた事がある。確かあれは二十代前半の頃……。
と、記憶を遡っていると、それを読み取ったのか、カヲルが切れ長の瞳を向けてきている。その冷淡に輝く瞳が「勘ぐるならば殺すぞ」と言っているようにしか見えないのは勘違いではないはず。
「あ、っはははは。何でもないですよ? ええ、気にしません思いだしません。と言うよりも今この瞬間、色んな記憶をなくしました」
両手を胸の前で振ると、目を伏せたカヲルが横に移動する。すると、サイの全身を目に捕らえる事が出来た。サイは礼を述べると、無警戒な足取りで近づいてくる。そして右手を差し出してきた。
腕に巻かれている銀のバングルは、総大将の証し。勿論、ラクーンの腕にも巻かれている。
「こ、これは。まさかアナタが総大将だとは」
「うんにゃ。これは奪ってきた」
「奪っ? え? どういう事です?」
当然戸惑うラクーンに、サイはここに来るまでの経緯を口にした。
任を放棄した挙句、自分達の総大将を手に掛け、バングルを奪ってきた事を淡々と。それはすぐに理解出来たが、何故そのな反逆を侵すのかが理解できない。軽い混乱をしていると、サイはバングルを外してラクーンの腕にはめる。
「あげるよ、それ」
「はい? でもこれを私が取ったら、アナタ方の敗戦は決まりますよ?」
「うん、そうだね」
そうだね、って。
彼は自分達が負ける事を何とも思わないのか。至る所で仲間達が奮起し、戦に勝とうとしているというのに。ますます意図が解らない。しかし、これで勝てるのだと、ラクーンは渡されたバングルに手を掛けるが、サイがそれを止める。
「止めといた方がいいかも」
「何故です?」
「それを外せば、確かにスクライドの勝ち。だけど、本当の勝ちにならないよ?」
「確かにそうかもしれません。これは兵達が死に物狂いで求める勝利の証し――」
そうじゃない、とサイは遮ってくる。そして溜め息を一つ。
「クルード王を侮っちゃいけないよ? あいつを殺さなきゃ、いずれまたクルードは復興する。あいつはね、やっぱり王なんだ。自分勝手だけど、カリスマ性がある。この戦に参加してない北東の上将軍たちは、王を絶対の君主だと思っているからね。王が生きている限り、何度でもクルードは蘇るよ」
「しかし、どうやってその首を取れ、と? 彼はクルードの居城にいるのでしょう? まさかそこへ兵を派遣しろとでも言うのですか?」
「いや、そんな事しなくてもいいよ。何せ、クルード王はこの戦を見物に来ているからね」
あっさり重要な情報を吐くサイにラクーンは言葉を失う。だが、すぐに我を取り戻すと、気付けばサイに詰め寄っていた。
「何故そんなにも重要な事を敵に知らせるのですかっ」
「何故……か。うーん、何て言うかね、僕には未来が見えるんだ。ああ、予知とかじゃないよ? こうなるだろう、って確信がある。ま、絶対じゃないだろうけど」
「それは、クルードが負けるという事ですか?」
「うん、そうだね。でもそれは、真っ向勝負した時、かな。僕がクルードの総大将を殺して、今の情報をアンタに教えた今、未来は変わるだろうけどね。この先はまだ解らない」
ふと、サイの瞳に悲しみが帯びた。
「アンタらスクライドがクルード王の首を取れれば、アンタらの勝ち。取れずにそのバングルを取っても勝ちだろうけど、また戦は起きる。そうなった場合、今度こそスクライドは滅びると思う。根拠のない憶測にしかすぎないけど」
全て伝えきったのか、それでもキリを悪くしたままサイが戸口へと足を運び始めた。それをラクーンは止めた。そして何を考えているのか、問う。
サイは暫く沈黙した後、何も答えずに足を進め始めるが、闇に半身を溶かした所でようやく目線だけを向けてきた。
「僕はね、実際のところ……クルードがどうなろと知った事ではないんだ。愛国心なんかないし、仲間だってどうでもいい。何か大切な感覚が欠如してるんだ。時々、そう言われるし理解もしてる。けど……」
寂しげな瞳のまま、サイは微笑む。
――姉ちゃんには笑っていてほしいんだ。
そんな優しい言葉を残された室内には再び静寂が訪れる。何をどう考えていいか解らなくなったラクーンを余所に、カヲルも無言のまま闇と同化するように去っていった。
一人残された、いや、元に戻っただけか。
ラクーンは椅子に深く座ると背を預け、長嘆する。
気になる事は色々ある。
その内の一つが、ヨツメ一族の事だ。
記憶が確かであれば、ヨツメ一族とはクルード王直属の護衛を任されていた一族ではなかったか。表立って護衛する真影隊と、影で護衛するヨツメ一族。だがヨツメ一族には別の役目もあった。
それは、脅威となり得る反乱因子を暗殺する事だ。闇に紛れ、影と同化する爪。そこから名が由来したのか、その一族は夜の爪、夜爪一族と呼ばれる。言わば、暗殺のエリートだ。
しかし、とある任務を期に、当時の頭目が行方不明となり、力を失った夜爪一族は衰退、滅び、時代の光を受けずに消えたと訊いている。
まさか彼女が……カヲルがその頭目? であれば、何故赤麗に? 解らない。だが味方である事は解る。わざわざミゼリアを運んでくれたりするくらいだ。敵意はないのだろう。
ラクーンは冷めきったコーヒーを一口。ほろ苦さが心地良く口の中に広がる。
「それはそうと……」
右腕を見つめる。
そこには二本のバングルが鈍く光っている。
「スクライドばかりか、クルードの総大将にもなっちゃいましたねー」
ラクーンはクルードの総大将のバングルを外そうとするが、やはり思い止まる。サイの「本当の勝ちとはならない」……その言葉が引っ掛かるのだ。彼を信用していいものか。ここまで足を運んだという事は、少なからず信憑性を持たせる為の策かもしれない。でも、最後に見せた微笑には切実さが感じられた。
スクライドが真に勝つには、何処に居るかも解らぬクルード王を討たねばならないのか。ここに来て難易度が上がった気もする。いや、確実に上がっているだろう。そして今、スクライド兵がやっている事は無意味じゃなくとも、的がずれているに等しい。どうすれば良いものか。
「ふう……。面倒臭いですねー、ホント」
ラクーンは苦笑を浮かべ、やがて決意めいた表情となる。不敵な笑みは、見る者の居住まいを正させる威圧感があり、知略の将たる風格が見え隠れしていた。法衣を荒く脱ぎ捨て、髪を掻き上げる。威厳に満ちた足取りで靴底を鳴らし、首を鳴らした。そして向かった先のベッドの布団を力任せに剥ぎ取り、身体を滑り込ませ…………。
「取り敢えず寝ます」
すやすやと寝息を立て始め、夢路を辿るラクーン。
考えるのは後にするらしい。
◆
樹楊は、蓮の本気を初めて見た気がしている。隣りのサルギナも唖然として蓮とラファエンジェロの攻防を見ていた。
幾多の術式を駆使し、そればかりか双剣をも巧みに使いこなしているれファエンジェロの戦闘能力は予想を遥かに上回っていたが、蓮が纏う紫色の霧は……何と言えば良いのやら。
蓮の意識に従っているのか、あらゆる攻撃の防壁となり、時には武器にも変化する。その内の一つは、剣のように形を変えて刃を受け、敵を斬り裂けと振るわれる。
高速でありながら互いに一歩も引かない攻防が展開されていたが、状況が変わりつつある。それはラファエンジェロが放つ風の術式と水の術式に蓮の防御が遅れ始めた時だった。
左右から幾重にも斬り付けるラファエンジェロの身体が突然虚像と化し、蓮は見切れずにそれに攻撃を加えた。しかし、対象は虚像であり、すぐさま透明に消えていく。蓮は前傾姿勢に、ラファエンジェロはその背後に姿を現した。
短剣を逆手に持ち、その切っ先を蓮の頭に突き刺そうと振り被っている。蓮もそれに対処しようとするが、時間差で足元から襲ってきた大地の隆起を防ぐ事で精一杯のようだ。
背後を取り、嘲笑うかのようにラファエンジェロの剣が蓮の頭に吸い込まれていく。蓮は振り向けない。サルギナは声にならない叫びを上げた。
刃は止まらない。蓮の頭を串刺す事に喜びを得るかのように。
樹楊は叫ぶ。
「蓮! 避け――」
その瞬間。
刃は蓮の頭に突き刺――「いてっ!」
蓮は反射的に目をぎゅっと瞑って声を張った。
……いて? 痛い?
頭を突き刺されて、痛いだけ? は?
激しく混乱したのは樹楊だけではないらしく、サルギナも声にならない叫びを上げたまま固まっており、冷や汗だけを流していた。それは雨かもしれないが、十中八九冷や汗だろう。しかし、一番驚いたのはラファエンジェロらしい。「え?」と短い驚愕をし、取り敢えずといったように距離を取る。そして何か硬い物でも突いて痺れたかのように手を振っていた。
驚愕の的である蓮はと言うと、両手で頭のてっぺんを押さえ、ぷるぷると震えていた。見れば、涙目にもなっている。
「…………んう」
結構痛かったのか、頭を大事そうに押さえながらも、ぎっとラファエンジェロを睨み付ける。鼻息も若干荒い。
「頭……悪くなったらどーするの?」
「元からだろ」
反射的に突っ込む樹楊に蓮は死んだ魚のような目で「……なに?」
「いや何も」
目の前で手をぱたぱた振って否定すると、蓮は野良犬のように唸り、しかしラファエンジェロを睨む。
「……三割増しで殺すから」
「私に八つ当たりですか」
「蓮、三割引きにしてやれ」
「……解った」
「お得な感じですね」
樹楊、蓮、ラファエンジェロのやり取りにサルギナは嘆息し、
「どっちにしろ殺すんじゃねーか」ぽりぽりと頭を掻いている。
それはそうと、蓮は何故頭を貫かれなかったのか。ラファエンジェロが片方の剣を捨てた所を見れば、切っ先でも欠けたのだろう。その疑問はラファエンジェロがいち早く解決し、口にする。
「呪刑の恩恵ですか。瞬時に局所だけを硬化させた、のでしょう? その霧を」
なるほど。
確かに剣と攻防を重ねられるほどの硬度を持たせられるのであれば、それも可能なのだろう。それでもその反応が少しばかり遅れたのか、結果として死は免れたが、頭を打たれたような衝撃が走ったのだろう。だが剣をも通さぬその硬度、最早敵なしではないのだろうか。それでもラファエンジェロは余裕の笑みを崩さない。
「今の一手で決める事が出来れば、このような術を使う事はなかったのですが」
ラファエンジェロは右手のみで複雑な印を組み、次に宙に文字を書く。そして再び印を組んだ。
「呪刑者対策にと編み出した術が役に立つとは思いませんでしたよ」
ラファエンジェロが瞳に強い力を込めると、蓮は不快そうに眉根を寄せて自らの手足に目を配る。そこには禍々しい文字が紋章のように浮き出てきた。
蓮の動きがぎこちなくなっていく。霧も風に吹かれようものなら消えてしまいそうなほど薄くなってきている。
「蓮、どうしたっ」
「て、手足が……重い」
術式が完成した事にラファエンジェロは安堵したように溜め息を吐く。サルギナは慌てて駆け寄ろうとするが、突如として現れた結界にその行動を阻止される。
「い、何時の間にっ」
シャボン玉のように揺らめきながら輝いてはいるが、恐ろしく硬い。サルギナがハルバードを力任せに叩きつけても傷一つ付かなかった。
蓮は耐え切れなくなったのか、片膝を着いて、それでもラファエンジェロから目を離さずにいた。
ラファエンジェロは今まで使用した術に呪術を編み込み、更には特殊三系統とも呼ばれている重力の術までも混ぜ込み、蓮の手足に少しずつ刻んできたのだと言う。炎や風などの術と呪術は質が違う。水と油のようなものだ。それなのにも関わらず、それらを混同させ、重力の術までも……。
天才。紛れもなく天才だ、ラファエンジェロは。この大陸で彼を上回る術者などいないだろう。そう思ってしまうほどの展開だった。
ラファエンジェロは最早話す事などないらしく、短剣を手に蓮へと襲い掛かる。蓮はこれを霧で何とか防ぐも、受ける回数を重ねる度に反応が遅れ、次第に切り刻まれていく。手足の動きも目に見えて遅くなっていた。致命傷は避けている。だが、このままでは殺されるのも時間の問題だ。
鋭い蹴りで飛ばされた蓮は宙で身体を捻るも、態勢を整えられずに地に落ちた。ごろり、と転がってフラフラと立ち上がる。肩や太腿、腕からは出血し、その量は少なくない。
「切り札というのはですね、こうやって使うものなんですよ。少しずつ布石を打ち、重ね、整った時にこそ最大限に威力を発揮する。それこそが切り札なのです」
ラファエンジェロは勝ち誇ったように蓮へと歩み寄る。左手で剣の刃を跳ねさせながら、ゆっくりと。
樹楊は結界を壊そうと試みるも、びくともしない。ここにツキが居れば何とかなったのかも知れないが、自分は術に通じていない。どうにもならなかった。
「蓮、逃げろ! 逃げてくれ!」
叫ぶも、遠くの蓮は目線を合わせてきて微笑むだけだった。蓮を理解していない者から見れば、死を覚悟した瞳だろう。だが樹楊という男は、蓮が無言でもその意図を理解する男である。よって、樹楊が蓮の瞳から感じた意図は。
「あいつ……何かやろうとしてる」
「は? あんな状態で何をするってんだ」
サルギナが説明を求めるも、何て答えていいのか解らなかった。でも、蓮は何かしようとしている。絶対的に不利なこの状況を覆す何かを。
「……ババ抜きって、知ってる?」
蓮は囁くように問う、ラファエンジェロへと。
「知っていますが?」
ラファエンジェロは返す、蓮に。
……そう。
それだけ呟いた蓮に異変が起きた。正しくは蓮本人にではなく、蓮を纏う霧に変化が起き始めた。その紫の色合いが濃く、より濃くなっていくと黒に染まり切り、一旦弾け飛ぶ。そして今度は蓮の傷という傷から洩れるように姿を現した。
その色は紅く、
「切り札って言うのはね」
蓮を護るようにゆったりとその身体に巻き付く。
「……使うものじゃない」
異変に気付き、ラファエンジェロは弾かれたように後方へと跳ぶ。間髪遅れ、そこへと紅い霧が突起になって突き刺さった。
「ジョーカーは引かせるもの」
炎だというのか、その紅き霧は。
火柱のように蓮の身体を包むと、禍々しくも翼のように広がる。ラファエンジェロは目を見開き、後退りを始めていた。恐らく本人の意識とは別の、防衛本能がそうさせているのだろう。
蓮の紋章が浮かぶ瞳に変化が訪れる。
白い眼球は黒へ、紫の紋章は紅へと変わる。
「黒の黙示録・終焉の序章第七節」
――――血霧。
破壊の声音と共に、紅い霧が手のように変化する。その数、十を超えていた。それらは次々にラファエンジェロへと襲い掛かる。ラファエンジェロは戸惑いながらもそれを斬り裂こうとするが、干渉を受けてはくれなかった。実態がない虚像のように刃を受けず、そのままラファエンジェロへと襲い掛かる。
「っく、何――うわっ」
ラファエンジェロは軽い身のこなしで避け続け、僅かな時間を得ると術式で対抗しようと試みる。しかし、それも無駄なようだった。紅い霧はどんな干渉も受けない。
それを見ていたサルギナが、ハッとし、呟いた。
「サディズム・ミスト……」
は? と、サルギナを見れば、彼も結界から離れるように後退りしているではないか。顔色も優れない。
「解らねぇかキョウ。サディズム・ミストだよ、ありゃ」
「サディズム……って、あれか? 前にサラが説明してくれた、あれ」
「ああ。マッド・ミストにラスティ・ミスト。あと一つは何だったか、キョウは覚えてるか?」
ブラッティ・ミスト。
その言葉がすぐに浮かんだ。
サラでさえも知り得ない、もう一つのサディズム・ミストだ。
時代を破壊するその災厄の霧。それが今、目の前に?
確かに蓮はこう言った。
『血霧』と。
すると、あの紅い霧は本当にブラッディ・ミストなのか?
蓮を見れば動かず、ただ血霧がラファエンジェロを追い詰めていく様を眺めていた。
「っく、何ですかこれはっ。そもそもアナタの呪術は封じたはずです」
「……これ?」
蓮は手足を見つめ、軽く振る。その途端、刻まれていた文字が粉々に砕ける。
驚愕しか出来ないラファエンジェロに蓮は面倒臭そうに言う。
「僅かでも呪術が組み込まれてれば私には通じない」
「ですが、先程はっ」
「演技」
ぽつり、と呟く。
あの重そうな動きも何もかも演技だと言うのだ、蓮は。そしてそれを、相手にジョーカーを引かせる為のものとも言う。ジョーカーを引かせると言うのは、蓮の身体を傷つけると言う事らしい。自傷から得た出血では発動出来ないとも付け加えた。
それから樹楊達に目をやる。
「……動かないで」
遠くの蓮が心配そうに見てきた。その言葉は、抑えきれないという意味が込められているのだろう。恐らく、動く者を標的と見なしているから。
樹楊はそれを理解すると、サルギナに告げた。サルギナは全力で動かないと固い決意を見せる。
こうなった以上、ラファエンジェロの勝機は一切ない。
それは揺るぎようのない事実として、そこにあった。
◆
オルカとの死闘を繰り広げる紅葉だが、ある種の懐かしい感覚が胸に突き刺さる。
北東の空を見れば、やはり嫌な予感が当たった事に気付いた。
「……っはぁ、く。余所見とは、ボクもなめられたモンだ、ね?」
「そうじゃないわよ」
オルカはしぶとい。
肩で息をしながらも動きには鋭さがあり、攻撃の手も緩まない。流石、殲鬼隊の首領なだけはある。紅葉も無傷とまではいかなかった。裂傷もあれば、内出血を起こしているところもある。優勢とは言え、気など針の先ほども緩められない。
胸騒ぎは当たってる。
この感じ、蓮は…………何て事だ。
早く止めないと全滅する、この大陸の人々が。
「ねぇ、オルカ。一時休戦ってのはなし?」
「ふざけないでよ。ここまで……っぐう」
オルカは傷を押さえ、それでも睨んでくる。
「ここまできて休戦はなしだよ」
「でもねぇ、このままだとヤバいのよ」
「知らないね。ボクは退かない」
そう言うと思った。
オルカは気高い。そして純粋だ。その想いを汚したいと思って告げたわけじゃない。
本当に危ない状況なのだ、蓮は。
あの紅い霧だけは不味い。この嫌な感じは間違いなくそれだ。
赤麗の半数以上も一瞬で骸に変えた、あの……。
おぞましい記憶が蘇る。あの時は何とか自分が抑えたけれど、死ぬかと思ったほどだ。アレは世界が選ぶ終焉に相応しい災いだ。どんな破壊よりも素早く、この大地を死体の山で覆い尽くせるだろう。
紅葉は蓮の事も気になったが、意識を目の前のオルカへと切り替える。一層神経を研ぎ澄まし、集中力を高める。
「早く終わらせるから」
そう告げ、紅威を引いて構えた。
オルカは満足げに微笑み、やがて大鉈を構える。
空からは、変わらずの豪雨。
雷鳴轟き、世界が濡れる。
世界はまた一つ、終わりを迎えようとしているのか。
答えはまだ、曇天の向こうにある。
次章
~神≪すべて≫を超えし者~