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第四十六章 ~今、咲き誇る蓮の花~


 雲一つとしてない青空、と見上げる事が出来たのはつい数十分ほど前。

 今や黒い曇天が青空に悠々と座し、世界を薄暗く染めている。

 時刻を数える暇など無く広がる雨雲に顔をしかめ、家屋へと非難するのは一般市民だけであり、戦場に立つ、戦人は例え豪雨でも気に留める事など出来ない。


 少なくとも、眼前に敵が居る者達は。


 炎のような髪が特徴的な紅葉アゲハにも同じ事が言えた。

 少しばかり遠くには黒い鎧を纏うクルード兵が行く手を阻むように陣を組み、こちらを注視してきている。既に剣を抜いており、臨戦態勢も整っているようだ。


 戦の申し子とまで呼ばれた紅葉の髪は雨に打たれ、ぐっしょりと濡れている。髪から無数の水滴が地に落ち、弾ける。その姿は、血に塗れた鬼のよう。

 立っているだけで見る者の動揺を誘い、防衛本能を引き摺りだすほどの力強さがそこにはあった。現に大勢で囲んでいるはずのクルード兵の中には、固唾を呑んで身体を強張らせている者も少なからず存在していた。


 紅葉は敵兵達にざっと視線を走らせると、真紅の太刀・紅威を抜き、虚空を一閃。同時に雷鳴が重なる。そのタイミングの良さと言ったら、クルード兵の若輩者が短く悲鳴を漏らすほどであった。大方、紅葉の姿が世評の効果もあり、化け物にでも見えたのだろう。


 しかし紅葉としては、殺戮と破壊を好む以前の自分ではなく、今や護りたい人達を護るべく戦う戦士……のつもりだ。そういう自覚はある。今だってただ単に臨戦態勢を取っただけであり、そこにタイミング良く雷が落ちただけなのだ。


 だから、そこまで脅えられるとちょっぴり傷付く。以前の自分からは想像出来ない事だが、顔面を蒼白に染められて歯を打ち鳴らされると…………なんだかなぁ。

 紅葉は取り敢えず、指摘してみる方向に事を運ぼうと試みる事に。


 脅える若輩者を指差し、薄紅の唇を開く。


「そこ、女の子を化け物を見るような目で見るな」……そう言うつもりだったのだが、天は自分の味方をしてくれているのか。それとも馬鹿にしているのか。


 指を差し、口を開いた瞬間、クルード兵達と自分との間に雷が落ちた。

 眩い閃光と、鼓膜を突き破るような轟音。

 勿論、紅葉だって度肝を抜かれるくらい驚いたのだが、クルード兵にはてきめんの効果があったようだ。


「な、ななななっ。あの女……」

 ガタガタと情けなく震える指で差してくると、

「雷を吐いたぞ!」


「んな! 吐くかぁ! つーか吐けるか!」 

 びしっと指を差し返して叫ぶも、「うそだっ」と叫び返される。挙句の果てには隊の指揮官らしき者も大慌てで距離を取るように命じている。

 その行動の早さは引き波のような素早さであり、無駄に統率が執れているな、と紅葉は感心半分呆れ半分で冷や汗を流す。


 そして指揮官らしき中年の男は自らが纏っている鉄の鎧、その胸部を忌々しそうに見つめながら手を添えると、次いで歯を食い縛って睨んでくる。


「くっ……卑怯者め。まとめて稲妻の餌食にするつもりかっ」

「知るかぁ! アンタらが勝手に防具に鉄を選んだんでしょうがっ。って言うか、雷なんて吐けないって言ってるでしょ!」

「お前も戦士であるのなら、剣で勝負しろ!」


 堪忍袋の緒がぶちぶちと切れ始めた紅葉が大口を開けるや否や、またしても雷が双方の間に落ちる。今度は驚かない紅葉。薄々だが、予想通りのタイミングだった。

 指揮官らしき中年は目を庇うように交差させていた腕を解くと、眉間に縦筋をぎっちりと刻み、見据えてくる。


「お、おのれっ。まだ吐くか!」

「だから雷なんて――」

「ええい、黙れっ。例え相手が物の怪だろうと、我々は屈せん!」

「ちょ、物の怪って!」

「皆の者、戦闘準備だ!」


 オオオ!


 鼓舞された兵達は臆していた心を撥ね退けるように叫んだ。その瞳には猛々しい闘志が輝き始める。対する紅葉は、吊り上った口の片端を痙攣させた笑みに影を落としている。そして密かに思う。


 取り敢えず、全滅させなければ。


 このまま一人でも生きて返そうものなら、口から雷を吐く化け物――物の怪として語り継がれそうな気がしてならないからだ。どんなに悪評が流れそうと構わないが、本物の化け物扱いは、ちょっと……。


 紅葉は斬馬刀の如く刀身の紅威を構えると、改めて相手を見渡す。

 そこで気になる事が一つ。

 兵法に詳しくは無い紅葉だが、陣形に違和感があったのだ。

 攻撃に特化した矢じりのような陣でもなければ、護りを固める陣形でもない。どことなく、何か特定のモノを護るような、円形の形をしている。


 と、そこまで思うも、関係のない事だと決め込むと攻撃に入るべく、姿勢を落とす。引いた足に微かな重心を乗せ――――いざ!



 ◆



 実力主義であるクルードの中隊を預かっているレイティーは、二十代半ばであり、女性でもある。力こそ男に劣るが、持ち前の戦闘センスで中隊の隊長にまで上り詰めた、れっきとした猛者だ。

 陶酔するわけではないが、これまで培ったものは間違いなく誇れるものであり、しかし満足するほどでもなかった。彼女は野心を衰えさせる事無く、常に高みを目指している。


 奢らない姿勢と竹を割ったような性格は部下からも大きな信頼を得ており、上部からは更なる成長を期待されてもいる。

 レイティーはそれに応えるべく、今回の大戦には一層気合いを入れていた。

 スクライドの要となる赤麗を自らの手で制圧し、大きな功績を残そうと張り切っていた。勿論、自信もあった。


 しかし、その夢とも言える思いは、たった一人の女性の手によって砕かれてしまった。


 名も知らぬ、一人の女性。

 凶悪で冷え切った瞳が印象的で、サラシを胸に巻いただけの身体にレザージャケットを羽織る、賊のような女だった。

 

 その女は出会うなり、

「ラファエンジェロの居場所は知っているか?」

 そう、訊いてきた。


 一瞬、誰の事か解りかねたが、殲鬼隊の軍師に就任した男の名を思い出した。

 しかし、居場所など知らなかった。

 いや、知っていたとしても教える気になどなれそうにもなかったと言った方が、より正しいだろう。


 何故ならその女の瞳には、異常とも言える殺気が溢れていたのだ。

 ラファエンジェロは別働隊と言えど、紛れもない仲間だ。そんな彼を売るような真似など出来るレイティーではない。


 正面を切りながらも押し黙るレイティーに、賊のような女は時間の無駄だとばかりに踵を返したのだが、生憎、その様子を静観する気などなく、呼び止めた。

 思えば、それが運命の分かれ道だったのだろう。


 振り返ってきた際に射抜くような視線を刺され、防衛本能から剣を抜いたレイティー。それを抗戦の合図と即座に見なしたその女は背の双剣を素早く抜き、疾風のように突っ込んできた。


 ……落ち着いていた。当然、返り討ちにするつもりで剣を振るったのだが、一瞬その後には片腕の肘から下が斬り払われ、呻き声を上げる暇も痛覚を得る暇さえもなく、腹を刺されてしまったのだ。


 そして、地に崩れ落ちる。

 女は剣に付いた血を払うと何事もなかったかのようにこの場を去っていった。途中、激怒した部下が数名襲い掛かったのだが、その全てが返り討ちにあってしまった。

 身を案じてくれた部下の中に衛兵が居た事は、幸いだったのか。

 手早い処置のお陰で何とか今も生きているが、死は免れない事だと解ってしまった。


 空からは大粒の雨が降ってきて、体温を奪っていく。

 まるで天が昇っていくだろう自分の魂を拒むかのようだ。生きろ、というものなどではなく、嘲笑い、踏みにじるような拒絶だ。全く、酷い扱いだ。

 しかし部下が涙目で見護ってくれている事が、少しばかり嬉しかった。どうやら、近郊の町まで運び、設備が整った病院で治療を受けさせたいらしいのだが、それは無駄と言えよう。この腹の傷は浅くは無い。加えて片腕もないのだ。奇跡的に助かったとしても、二度と戦場には立てやしないだろう。


 そんな悔しさを胸に抱き続けていると、雷鳴が聞こえた。

 次いで、部下達の怒号も。


 何かと傍の部下に目をやれば。

「どうやら赤麗の紅葉アゲハが……。くそっ、何でよりにもよってこんな時に!」


 ぐっと拳を握り締める部下の肩が大きく震えている。

 余程悔しいのだろう。

 だが、レイティーは真逆の思いに駆られていた。


 赤麗の紅葉アゲハと言えばこの大陸中に名を轟かせる、最強の称号を得ている者だ。

 この手で打ち破りたいと願っていたその存在が、今ここに?


 レイティーは歯を食い縛ると残った片腕を地に着いて身体を起こす。

 その行動に慌てた部下が止めに入ったが、目線のみで制する。


 極めて優しいその瞳に部下は鼻頭を赤らめ、物も言わず肩を貸してくれもした。

 物分かりが良くて助かる。

 微弱な身体の震えが伝わって来、傷が痛むが何故だか心地良く感じる。


「……すまない」

「レイティー隊長……、私は、私はっ」


 レイティーは微かに首を振り、笑みを向けてやる。

 すると部下は大粒の涙を一つだけ溢すと強引に笑みを作り、白い歯を見せてきた。鼻水が垂れ、顔中を雨に濡らし、何ともみっともない……しかし愛すべき顔だ。その顔を目に留めておこう。決して忘れなどしないぞ。


 レイティーに肩を貸し、立ち上がったその部下は前方で紅葉と対峙している兵達に向かって声を張る。


「レイティー隊長が通るっ。道を開けろ!」


 全員その声に驚き、弾かれるように振り返ってくるが、レイティーの朗らかな表情と手に握られた剣を見るなり、全てを察してくれた。そして道を開けてくれる。


 開かれた一本道の先には、きょとんとした紅葉アゲハが居る。

 道の壁となった兵達は、剣を垂直にして胸に添える。


 レイティーはその道の先端まで肩を預けていたが、その先は自分で歩くと言い、部下から離れる。支えが無くなり、倒れそうにもなったが何とか踏みとどまり、重い頭を上げてようやく相手を瞳の中に収める事が出来た。


 聞いた通りの真紅の髪に、冗談のように長い打ち刀を手にしているその少女こそ、最強の名に恥じない存在である紅葉アゲハだ。

 初めて見るその少女は、何とも可憐な事か。同姓でありながらも目を奪われてしまう。雨に濡れれば惨めに成り果てる自分とは大違いで、雨すらもその美の支配下にあるようだ。


 それでも紅葉の可憐の中に潜む風格は総毛を立たせるものがあった。

 見られているだけなのに、心臓が握りつぶされそうなほど苦しい。

 全く、馬鹿げたプレッシャーだ。


 誰が見ても死に掛けているレイティーに紅葉も呆気に取られていたが、やがて長嘆し、刀を肩に担いだ。


「アンタねー。介錯なら他を当たってくれない?」

 本当に嫌そうな声音だ。


 だが、レイティーは引き下がらない。

「そう、嫌がるな」

 

 げほっと吐血するが、その血を疎む事もなく続ける。

「介錯を待たずしても、私は死に逝くだろう。だが、納得出来ないんだ」

「死ぬ事が? それとも、その過程が?」


 レイティーは微かに首を振り、

「……死に方だ」


 紅葉は眉をほんの少しだけ寄せただけで、何も喋らない。

 構わず続けるレイティー。何かを待てるほどの時間などないのだ。


「死ぬのであれば、せめて夢の背中に触れてみたい。指先だけでも……」


「夢?」

「ああ……。赤麗を、紅葉アゲハを……上回っ……る存、在……に、私は…………」


 目が霞む、身体が重い、息が苦しい。

 ……嫌だ。まだ死にたくない。こんな終わり方は嫌だ。

 死ぬのであれば、紅葉アゲハと戦って死にたい。名も知らぬ輩に殺されたとあれば、後悔してもしきれないのだ。だから、お願いだ――紅葉、どうか私と。


 赤麗と言う存在は、紅葉アゲハと言う存在は武人にとって畏怖なる存在でもあれば、レイティーが抱くように憧れの存在でもある。脆弱な人が見上げる高みに辿り着いているだろう、紅葉アゲハ。

 当人は気付いてはいないだろうが、あるいは望んではいないだろうが、剣を交えたいと思う輩は多くいる。


 フラフラと身体を揺らすレイティーに、紅葉は面倒臭そうに溜め息を吐く。

 もう、駄目か……。そう思った時、紅葉アゲハが目を覚まさせるような威圧感を放出してきた。ぼやける視界だが、その姿だけはハッキリと見える。

 剣を引くように構え、すっと尖る瞳。雨に濡れても尚、鮮やかな真紅の髪。

 そしてその闘志。正に戦の申し子だ。


 ……ああ、紛れもない紅葉アゲハが、目の前に。

 レイティーは力を振り絞り、片手で剣を構える。腰を落としたつもりだが、傍から見ればただの前傾姿勢で不格好だった。


「言っとくけど、私に慈悲はないからね」

「あ……あ」


 レイティーが柄をぐっと握ると、紅葉が閃光のようなスピードで眼前に現れた。あまりのスピードに巨大化したのかとも思ったほどの速度だった。


 部下達が涙を堪え、死に逝く隊長を見守る。

 その想いが背中に集まる。


 心地良い。先程まで全身を蝕むような痛みが嘘のように消えていく。それは、死ぬ直前だからなのだろうか。……良く解らないが、心地良い。

 だが、このまま不格好には死ねない。部下達に見せる姿は何時だって誇り高き姿でありたい。自分に従えて良かったと思って欲しい。勝手な思いかも知れないが、許してほしい。これが、最後だから。

 その強き思いが、レイティーに最後の、本当に最後の力を与える。


 覚醒したように目を開いたレイティーは死に掛けているのにも関わらず、鮮やかな足運びで紅葉の身体を捌き、斜め後方を取った。そして見下ろしている首筋に、剣を振り下ろす動作に入る。が、紅葉は既に身体を反転させており、刀を振り切っていた。対する自分は、剣を上げたままの姿勢だった。


 レイティーと紅葉の瞳の間には、不可視だが、紛れもなく一本の線が結ばれていた。それは互いを敵視するものとは程遠い、二人以外の誰も解らぬ思いで結ばれた線。


 紅葉の瞳は力強く、それ以上に澄んでいた。凪ぎの湖面と同じく、世界を映す輝きの中に自分が居る。その顔は、満足感で満ち溢れていた。


 終わった、か。それしにても、何と言う強さだろう。

 まるで赤子のように扱われた。……でも、何でだろうな。

 悔しくはない。

 そう思ったレイティーが微笑む事を合図に、袈裟掛けに血が噴き出す。

 そして最早支える事の出来ない身体を地に預けようと力の全てを抜いた。


 なのに、身体が得る感触は柔らかなものだった。

 必死に目をこじ開ければ、真紅の髪が目に入る。

 どうやら、紅葉が正面から受け止めてくれているみたいだ。


「アンタ、名前は? フルネームで」

「ふ、ふふっ。わ、たしの名前……も、背負って…………くれ、るの、か?」

「今更、一人や二人増えても変わんないでしょ」


 紅葉アゲハは、自分の死をも背負ってくれると告げてきているようなものだった。それが素直に嬉しい。でも、疑問も生まれる。これが紅葉アゲハなのか? と。

 暴虐性など、欠片もないじゃないか。慈悲など無いと言ったくせに、何て優しいのだろう。涙が出てくるじゃないか。


 最後にくれた優しさだったのだが、レイティーは紅葉の申し出を拒否する。

 背負われずとも逝けるさ、と添えて。

 

 だが、今一度、目を開けよう。

 この少女の身体の一部だけでも目に焼き付けたい。噂に違わぬ最強の少女を、この目に、消えゆく記憶に。


 ぼんやりと紅葉の背中が見える。


 ああ、何て華奢な背中なのだろう。この背中に一体何を負っているのだろうか。……きっと自分なんかとは比べ物にならないほど大きなものを背負っているに違いない。

 華奢なのに……けど、暖かい背中だ。

 まるで、夕陽のよう――――に。


 カラン、と剣が地に落ちる。同時に、クルード兵達の顔にも悲しみが広がった。


 途端、クルード兵達が次々に構えを取り始めた。

 仇討なのだろう。それぞれが怒りにも似た輝きを瞳に宿している。しかし、それを即座に止める一人の兵が居た。


「隊長の誇りを汚すつもりか!」


 その大喝を発したのは、先程肩を貸していた男だった。

 場はしんと静まり返り、遠くに聞こえていたようだった雨音が大きくなり始めた。


 男は背筋を伸ばしたまま紅葉に近付くと、レイティーの亡骸を引き取る。その穏やかなレイティーの顔を見た男は、泣き出しそうな顔を一瞬だけ歪め、強く目を閉じる。その極めて短い黙祷の後、紅葉へと目をやった。


「ありがとうございます。隊長は幸せでした」

「殺したのは私よ? 恨まれる事はあっても礼を言われる事なんてないと思うけど」


「いえ。アナタは隊長を殺したのではありません。軍人としての最後を引き取ってくれたのです。心から礼を言わせて頂きます」


 その男は鼻をぐずらせながらも低頭し、肩を、声を大きく震わせる。

「ありがとう、ございました」


 すると、後方に控えていた兵達も嗚咽混じりに頭を下げ始める。

 紅葉は怪訝そうな顔つきで頬を掻くと、紅威を鞘に納めてクルード兵が開けた道を歩み始める。その間、クルードの者達は頭を上げる事は無く、静寂を護っていた。


 最後に男は呟く。

「隊長、お疲れ様でした」


 レイティーは心の底から慕われていたのだろう。

 クルードにとって最大の敵とも言える紅葉を討とうともせず、レイティーの想い、ただそれだけを重視したのだから。


 天は彼女を拒絶してはいなかった。寧ろ、悲しんでいるかのよう。

 雨は、血に塗れてしまったレイティーの身体を止めどなく洗い流す。

 もう、苦しまなくていいんだと言わんばかりに、強く優しく。

 ――雨音。


 

 ◆


 

 仮眠を終えてから半刻ほどが過ぎようとしていた頃、クルスは水分を補給すると、吊り橋を見下ろせる場所にまで足を運んでいた。とは言え、樹楊が眠っている場所からは左程離れてはいない。だからこうしてツキが樹楊を放ってまで隣りに来ている事を咎める事はなかった。


 風には僅かな湿気が乗っており、雨が来る事を告げている。恐らく、豪雨となるだろう。そうなる前に移動をしておきたいのだが、地図を見る限りじゃ近くに町など無く、無警戒で休息を取る場所なども皆無。加えてここは敵地に深く入り込んだ場所だ。常に神経を集中させる事が強いられていた。


 クルスは小さく見える吊り橋を、眉根を寄せて見るがハッキリとは見えない。何人かいる事は把握出来るのだが。


「うーん……。敵、じゃんね」

「だろうなー。オイラでも解るよ、そんくらいは」


「せめてどんな奴か解ればいいんだけど。これ以上、キョークンから離れるわけにはいかねーし、かといってツキに任せるのもなぁ」


 頼り甲斐がないと遠回しに言われたツキはむっとした表情を見せるが、己の力量を理解したのか渋々頷く。だが、ツキは。


「今のオイラにはどんな奴らかハッキリ見えるぞ?」

「……は? マジで?」


 ツキは下瞼に真っ赤なアイシャドーを引いたような目を無言で指差す。

 その鷹のような瞳がクルスをあっさりと理解させた。


「おお、そうか。今のツキはララアじゃんね。鷹の目か。……んで、どんな奴らだ?」


 ツキは偉そうに鼻を擦ると、勿体ぶった表情をくれてから得意げに敵兵達を目で漁り始める。


「んーとね、真っ黒な鎧」

「アホ。クルード兵は全員真っ黒の鎧じゃんね」


「う……。で、でもでも、何かちょっと違うぞ? 何つーか、ごっついんだ」

「ごっつい? ああ、そりゃ重装兵じゃんね。護りに特化した部隊だ」


「そんな部隊があるのか?」

「クルードにはな。多くはねーけど、拠点に配置する為に設けられてんだ。攻撃だけじゃ強国は名乗れねーじゃんね」


 しかし、軽く説明したものの、厄介な相手には間違いない。

 重装兵の鎧は通常の鉄と違い、硬度の高いグレ鋼鉄という金属を使用している。稀少である為に、全員の鎧に使用する事は出来ないが、重装兵であれば納得だ。

 その硬度は、いくらクルスとは言え、簡単に貫けるものではない。


 だが、その重装兵が居ると言う事は、だ。

「やっぱり、この辺りに重要ポイントがあるのか」

 

 独白に、ツキは感心したように頷く。そしてクルスから視線を外すと、また吊り橋を眺め始めた。


「でも、悪趣味っつーのかなー。胸に獅子の紋章が彫られてら」

 それはツキの独白だった。


 クルスもそう認め何も返さないつもりだったのだが、記憶が勝手に遡り、ある事を思い出させる。それは今の立場からしても、好ましくはない記憶だった。


「ツキ、その中に坊主頭で片目が無い奴はいないか?」


 冷や汗を流すクルスの様子にただならぬ雰囲気を感じ取ったのか、ツキは大慌てで視線を忙しく動かす。秒数にしても、ほんの僅かな時間の後、ツキはクルスの言葉に首肯した。その答えにクルスは舌を打ち鳴らす。


「ツキ、もう一つだ」

 ツキはサングラス越しに送られる真剣な眼差しに固唾を呑みこみ、ぎこちなく頷く。冷汗も頬を伝い、拳を握ってまでいた。

 そんなツキにクルスは聞く。


「獅子の刺繍がされた皇帝服を着たおっさんは居るか?」


 重々しい声音にツキはゆっくりと顔を動かした。そしてもう一度固唾を呑み込み、冷や汗を拭うと、また目を合わせてくる。


「……居た、よ。その坊主頭の後ろで、何か偉そうに座ってるけど」

「マジかよ……。何のつもりだ、こんな戦地によォ」


「な、なあクルス。誰なんだよ、そいつ」


 半ば脅え気味に聞いてくるツキにクルスはゆっくりと溜め息を逃がし、後ろの岩に背を預ける。ツキは視線のみで追い駆けてきただけで、動こうとはしなかった。


「そうだな……。片目の坊主頭のやろーはな、真影隊っつー、クルード最強の部隊の隊長サマだ。名前は確か……ヒドウオ、だったか」

「真影、隊? 何だよ、それ。殲鬼隊よりも強いのか?」

「強い、つってもだ。攻撃センスはそこそこあるものの、防御センスだきゃこの大陸でもトップクラスだろうな。昔、やり合った事があるんだけどな、一撃も当てられなかったじゃんね」


 意味を噛み締め、ようやく理解して驚くツキに事の詳細を掻い摘んで教えてやった。

 真影隊にスカウトされた事、そしてその話を蹴り、挙句その隊長と揉めに揉めて剣を交えた事を。


 しかし、結果は先程口にした通りだった。

 こちらも攻撃は喰らわなかったが、一撃、それすらも与えられなかった。

 どんなに攻撃を繰り広げようにも、あっさりと防がれ、最終的にはこちらの体力が切れてどうにもならなかったのだ。

 結果からみれば引き分けなのだが、あれは敗北と同義の引き分けだとクルスは思っている。幼きオルカともやり合った事があるクルスの感想としては、こうなる。


 攻撃センスはずば抜けてオルカの方が上。

 しかし相手の防御センスはそれをものともしない程のものだ。

 もしオルカとヒドウオがやり合えば、結果は自分の時と同じだろう。


「な、なあ。その真影隊ってのは何なんだよ」

「真影隊、ってのはだな、王直属の守護隊だ。ちなみに、ヒドウオ以外の奴らを相手にしても、俺は勝てる気がしないじゃんねー」


 強気なクルスがあっさり負けを口にする事に落ち込むツキだったが、引っ掛かるワードがあったらしく、戸惑いながらもクルスの長衣の裾を引く。

 いつの間にか空には曇天が迷い込み、薄暗くなってきていた。


「あの、さ。王直属って言ったよな?」

「ああ、言ったな」


「じゃ、じゃあ…………あの偉そうなおっさんて、もしかして」

「もしかしなくても」


 クルードの現国王だ。


 口にはしなかったが、理解したツキは混乱し始めた。

 その様子をクルスは傍観しようとはせず、先ずは肩に手を置いてやってから落ち着かせ、それから自分の見解を述べる事に。


「何で国王がここにいるのか、それも直属の部隊を連れて――だろ?」

 コクコクと頷くツキ。


「恐らく、この大戦に負けはないと思って傍観者気取りで来たんだろう。今回の戦は野戦じゃなく、そこら中で殺し合いが起こってるからな。見方を変えりゃ、スリルのあるショーのようなモンだ。下劣らしい考え方だけどな」


 普通の者――真影隊の存在を知らぬ者は、またはその実力を知らぬ者はクルード国王が居る事に奮起し、その首を狙いにいくだろう。

 しかし、傲慢な王がふんぞり返れるように、真影隊が居る。その実力を知るクルスは、進んで討ちに行こうとは思えないのだ。


 近くに居る国王よりも、何処に居るのかも知れない総大将を狙った方が勝機があるのをクルスは十二分に理解しているからだ。それを説いたところで、何人が納得してくれるかは知った事ではないが、兎に角、不意打ちでも破れるほど軽い相手じゃない事は確かだ。しかもここは敵陣営内ときた。

 多くの応援を呼んだところで、クルード側の移動の方が早い上に、手薄にならざるを得ないスクライド本陣が落とされる。


 クルスは歯痒さから舌を打つが、これで突破した攻性結界の意味を理解出来た。

 敵は十中八九、国王を安全に移動させる為に結界を張ったのだろう。相手もこちらもここで休憩をとっていたのは万に一つも得られないほどの偶然なのだろうが、どうにも出来やしない。ここは一先ず、スクライドが占める拠点に帰った方が良さそうだ。


 クルスはツキにその事を軽く説明し、最後に真影隊を目に留めてから立ち上がろうとした。しかし、その帰還を拒むように、樹楊が突っ立っていた。


「キョークン、目が覚めたのか?」


 珍しくワンテンポも遅れ、

「ああ」


 その態度に引っ掛かるものがあった。何も腹が立ったわけではない。その穏やかな雰囲気の中に、拷問器具のような残酷さが見え隠れする。国王の存在を知ったのかも知れないが、情報に長ける樹楊が真影隊を知らな――――不味い!


 クルスが慌てて手を伸ばし、掴んだ樹楊の姿は残像だった。

 くそっ、遅かったか!


 呆気に取られるツキにクルスは振り返る。

「ツキ、この事をラクーンにっ。行け!」

「え、あ、それなら通信――」


 そうかっ、と閃いたようにツキは強く頷くと別れも告げずにスクライド本陣を目指して駆けて行った。通信機は傍受される可能性がある上に、位置を割り出される懸念もある。そして今得たばかりの情報は、特級に分類されてもおかしくはない情報だ。

 ここは慎重に慎重を重ね、ラクーンの指示を仰ぐ必要があるのだ。


 物分かりが早い事にクルスは安堵し、自らは樹楊を追い駆ける。

 樹楊はクルード王の息子である事の情報を知っていたクルスは、当然、キオウが樹楊に成るまでの過程も知っている。そして、樹楊がクルード王にどのような感情を抱いているのかも。


 気持ちは解るが、ここで手を出すべきじゃない。

 相手は殲鬼隊を上回る部隊、真影隊なのだ。策も無しに当たったら、間違いなく死ぬだろう。感情が高ぶり、冷静さを失った状態なら尚更だ。


 クルスは急斜面を前傾姿勢で駆ける。勿論、全力疾走だ。

 それなのに、樹楊の背中はぐんぐんと離れていく。

 草木が乱雑に生え伸び、足場も悪いと言うのに、一直線に駆けていく。


「っく、何つー足してんだ、キョークンはよォ!」


 樹楊を準えるかのように一直線に走るクルスの頬や身体に、草木が鞭のように襲ってくるが足を止める暇などない。気付けば、樹楊は斜面を下りきる直前にまで達しており、一本の倒木を踏み台にし、大きく跳躍していた。


「――――ギレオン!」

 何年ぶりに発したのだろうか、その名前。憎悪に染められた声は我が子を失った獣のようであり、それだけで殺したいほど憎んでいる事が容易に解った。


 樹楊はゼクトの形見である、内側に湾曲した機械剣でクルード王に襲い掛かった。

 しかし、洗礼された動きでヒドウオが前に立ち塞がり、力の込めていない動きで易々と樹楊を受け流す。幾年も積み重ねた憎悪を込めた一撃を、無価値に。

 樹楊は地で一回転すると、持ち前のフットワークを駆使する事も忘れ、牙を剥き、再度正面から斬り掛っていく。目にはヒドウオなど映しておらず、ギレオン唯一人を映していた。


 だが、目の前の守護者は一歩たりとも下がらず、無数の剣撃を受けては流し、時には弾き返す。金属音が激しくぶつかり合う独特の音はほとんど無く、その事からヒドウオの防御技術の高さが窺えた。


「テメェ、邪魔だ!」


 樹楊の咆哮にも眉一つさえ動かさず、ヒドウオは隙を見付け、肩の当て身で吹き飛ばす。その様子をクルード王は嘲笑うかのように見下ろしていた。

 そして真影隊の隊員の一人が無駄のない足運びで樹楊に詰め寄り、虫けらを見るような目付きで剣を振り下ろす。樹楊は態勢を崩したばかりのタイミングだった。


 しかし、それを許すクルスではない。

 咄嗟に割り込み、剣を盾にして樹楊を護る。

 そこでようやく、ヒドウオが口を開いた。


「ほう……クルス、か。随分と久しいな」


 低く、威圧感のある声にクルスは荒れていた呼吸を整えずに不敵に笑う。

「ハッ、相変わらずいけ好かねぇ顔じゃんねぇ」

「それは互いにだろう?」


 クルスは眼前の敵の剣を弾くと、剣を斜に構える。そして振り返りもせず、樹楊に撤退を進言するのだが、やはり聞く耳を持ってはくれないようだった。

 まるで野犬のように唸り、クルード王を睨んでいる。


「アイツはここで殺す!」

「キョークン、相手が悪すぎるっ。討つのは次の機会を――」

「待てるか! ようやく……ようやくこの手で」


 言葉を遮る樹楊の恨みの音を遮るのは、クルード王だった。

 偉そうに胸を張り、白い口髭を撫でて。

「はて? 私と会った事があると言うのか、お前は。すまぬが、記憶にない。恨まれる事は慣れてはいるが……。どうだろう、理由を教えてはくれぬか?」


 ――白々と。

 火を見るよりも明らかに挑発している。

 口の減らない樹楊だというのに、得意の口喧嘩を選ぼうとはせず、砕けんばかりに歯を食い縛っている。


「テメェはァ! 殺してやる、殺してやる! 欠片も残ると思うな、下衆が!」


 血を吐くような叫びだった。ヒトがどれほど憎しみを抱けばこのような声を出せるのかと思わざるを得ないほど、禍々しい叫びだ。

 しかしそれさえもクルード王は笑うだけで流し、その周囲を真影隊が囲む。

 こうなれば最早、指先すらも届かないだろう。元より、突破不可ではあったが。


 樹楊はその事さえも気に留めず、クルスの背を突き飛ばすように向かっていく。

 だが、立ち塞がるのは真影隊の隊員達だ。果敢にも攻めていく樹楊を、鮮やかな連携で防ぐ。クルスが樹楊へと振るわれる兇刃を防ごうにも、既に限界は見えていた。

 

 不味い、このままじゃ本当に――。

 

 その思いはすんなりと実現されようとしていた。

 胴を払うように薙いでくる剣に、樹楊は気付いてない。


 ここで! こんなところでやられてたまるかっ。


 クルスは自らの防御を捨て、樹楊の背中から抱き着き、勢い任せに跳んだ。

 その際に、わき腹と背に焼けるような痛みが走る。


「クルス、離せっ」

 クルスは一度着地すると、もう一度地を蹴り――――、

 ――――崖の下、流れる大河へと真っ逆さまに身を投じた。


 自殺行為とは言え、逃げ延びるにはこれしか手段がなかった。樹楊を抱えて走り去るよりも、確実性が高い。そもそも、真影隊が見逃すはずはないだろう。

 重力には逆らえず、この瞬間に振りだした雨にも追いつかれず、底へ、底へと。

 風が切れる音は悲しく耳を触るだけだった。


「ギレっ――くそっ、くそ! クソがぁ!」


 落ちていく事に、ギレオンから遠ざかる事に理解が及んだのか、樹楊は悔し涙を流し、最後の最後まで崖の上を睨んでいた。轟々たる怒りの音をぶちまけ、落ちていく。

 水面に触れるその時の樹楊の顔には、悲しみと苦渋が貼り付いていたが、クルスは見る事が出来ずに心の中のみで謝罪する。


 邪魔をして悪かった、と。



 ◆


 

 崖から落ちた場所は幸いにも深く、底に身体をぶつける事はなかったが、それでも大量の水を呑み込み、岸辺に這い上がると同時に大きく咽た。

 

 樹楊は落ち着かぬ呼吸を何とか整え、睨むように上を見上げる。

 だが、大分流されてしまったらしく、吊り橋が遥か遠くに見えた。


「げほっ、っご……うえっ」

 クルスは川から這い上がると同時に呑み込んだだろう水を全部吐き出す。下半身は川に晒したまま、肘で身体を支えている。落ちた拍子にサングラスを失くしたのか、緑色の目が露わになっていた。


 その姿を見た樹楊は怒りを思い出し、未だ川から出られぬクルスの襟首を荒く掴んだ。


「クルス、何で邪魔した! 少し、あと少しで!」

「落ち着けよ、キョークン。真影隊が居たんじゃ無理だ」

「無理でも何でもいいんだよ! アイツを殺せりゃ何でもいいんだ、俺は!」


 最早大戦中である事すら忘れている樹楊の目をクルスは直視した。樹楊はその瞳に言葉を詰まらせるが、眉間は深い筋を刻み、目尻は痙攣していた。抑えきれない感情が表立って出てきているのだろう。

 それでもクルスは落ち着き払っており、小さく呼吸をすると樹楊の名を呼ぶ。

 樹楊が苛立ち混じりに返答すると、再度、クルス。


「落ち着いて欲しいじゃんね」

「落ち着ける……かよ」


「今は大戦中だら? 目的を履き違えたら終わりじゃんね」

「アイツを殺れりゃ、俺達の勝ちは――」


「それに」

 穏やかな声で遮ったクルスは樹楊が黙るのを待ち、ニカッと屈託のない笑みを浮かべる。


「俺は友達を失いたくないじゃんね。何があっても、俺は失いたくないんだ」


 流石の樹楊も言葉を詰まらせた。

 それでも怒りは収まらず、何か返そうにも、やはり言葉が浮かばない。

 だけど、この遣る瀬無さ、憎しみ、苦しさはどうすれば…………。


 思わず視線を外した樹楊は膝で立つクルスの膝元を見た。

 太腿まで川に浸かり、流れを邪魔している杭のよう――――そこで、ある事に気付いた樹楊は目を開き、弾かれるようにクルスの顔を見た。

 すると、へへっと笑ってくれたが顔色が悪い。

 もう一度膝元を見れば、透明な川に赤く淀んだ液体が混じっている。

 クルスの純白の長衣の右脇腹が赤く滲み、広がっている。


「クル、お前何でっ」

「ははっ、ちいっとばかし痛ぇかも」


 ぐらっと倒れてくるのを慌てて支え、背に手を回せば生温かい感触がした。

 樹楊はクルスを抱くように片手で支えたまま、おかしな感触を得た左手を見る。

 すると、川の水で薄まっているも、確かな赤がべっとりと付着しているではないか。


「クルス! おい、大丈夫かよっ」

「ま……死にはしねーだろ」


 そういう顔は苦しそうで、息を呑むのも辛そうだった。

 この時既に、樹楊の怒りは消えうせ、代わりに罪悪感が心に侵食していく。

 勝手に暴走する自分を庇って、クルスは深手を負った。自分は何をやっているのだろう。真影隊を前にしておいてヤツを殺すだと? 驕るにも程がある。


 樹楊はクルスの長衣を脱がせると傷口を地に着けないように寝かせてやり、応急処置を施す。臓器などは傷付いていないと思うが、これは深い傷だ。止血剤とガーゼじゃ心細いものがある。


 どうにかして近くの町へ運ばないとならない。しかし、樹楊の身体も回復しきってはおらず、成人男性を軽々と運べるほどの力が出なかった。

 このままじゃ不味い。どうにかしないと、どうにかっ。


 焦りから汗を流し辺りを見回せば、

「どったの?」


 兎のように草むらからひょっこりと顔を出してきたサルギナと目が合った。

 ぱちくりと開いた目は間抜けで、いつもの軽薄そうな感じはない。どちからかと言うと間抜けの部類に入るのだが、この状況下では頼もしく思えるから不思議だ。

 樹楊はじわじわと、やがて破顔し、明るい口調で呼ぶ。


「サルギナ!」

「タ、タイミングいいじゃんねぇ」

「え? どったの?」


「クルス、もうちょい踏ん張れよっ」

「ああ、頑張れる子じゃんね、俺」

「え、え? どったの?」


「サルギナ、現在地は解るか?」

「解るけど、どったの?」


「と、遠いのか? 近いとありがたいじゃんね」

「そこそこ遠いけど、どったの?」


 クルスは辛そうに溜め息を吐くが、それでも安堵からか笑みを浮かべてもいる。つられて樹楊も笑みを見せた。ついでにサルギナも笑ってみてはいるが、未だに現状を理解出来ずに、


「だから、どったの?」



 ◇



 地図上の位置としてはダラス連邦寄りの、とある森の中。


「なるほどね、んな事があったのか」


 一通りの説明を受けたサルギナはクルスの肩を担ぎ、納得したように頷いた。

 思わぬ救援に安堵したものの、樹楊は叱られた子供のように落ち込んでいる。


 サルギナは自分の部下達には別の侵攻ルートを与え、自分は気になる場所があるからと単独で行動していたらしい。本来であれば尖兵や偵察兵の役割なのだが、先の戦い――グリムとの一戦――でその部下を失ってしまい、他に頼れる奴がいなかったとサルギナは気楽な顔で言う。


 落ち込む事をそこそこに、樹楊はサルギナの情報戦の強さには今一度感心する。

 こちらが「クルード王が近くにいる」という特級にも値する情報にも眉一つ動かさず、寧ろ知っていたような顔で、ふーん。と、流された。

 こんな男の選ぶ戦法の事だ。

 恐らく部下達にも、特別な侵攻をさせているに違いない。


「クルス、もーちっと踏ん張れよ。この森を抜けりゃ、すぐに街だ。確か腕のいい医者もいたな」

「セクシーな看護婦が居りゃ最高じゃんね」


 二人のやり取りは、旧来からの友を感じさせるものがある、と後ろを歩く樹楊は思っていた。何がどうなってここまで仲が良くなるのかは解らないが、この二人が手を取り合うのは心強い。


 この二人を見ていれば、そしてそこに赤麗という要因を加えれば、この戦に負けはないと思ってしまう。それほど頼りになる二人だ。と、心を和ませていた矢先。


 三人は同時に足を止めた。

 いや、樹楊が歩みを止める方が僅かに早く、二人はそれに倣ったようにも見える。


 しかし、今樹楊が感じている事を前方の二人も感じ取っているのだろう。

 何しろ表情は険しく、冷や汗まで流しているのだから。


 三人が動かなくなって、ほんの数秒後、前方と両脇から草木が揺れる音が聞こえ始める。幸いにも後方に退路はあるが、数が多い。加え、この肌を突き刺すような威圧感は間違いなく強者だ。


 その思いを正すかのように、次々と姿を現す者達が纏う衣類は、漆黒の長衣だった。砕羽の純白とは正反対の闇色のそれは、殲鬼隊の証。それを知らぬ三人ではなく、相手としては最悪の部類に入る者たちとの接触に舌を打ち鳴らす。


 全員が全員、見た事のない顔だが、紛れもない殲鬼隊だ。スイ並み、あるいはそれを上回る者達が十三、四……十五人、だ。こちらが万全を期していたとしても、勝ち目は薄い、と先程の真影隊との一戦からは考えられないほど冷静な樹楊。


 その目線の先に。

 これから進むべく道の真正面には。


「きょーくん」


 蓮が姿を現した。

 蓮は、いや、蓮も漆黒の長衣に袖を通している。そしてその両脇に広がる殲鬼隊は彼女の部下のよう。


 樹楊ばかりか、サルギナとクルスも言葉を失って蓮ただ一人を見開いた瞳で見ていた。赤麗を抜けたのは言わずとも知れている事だが、まさかクルードの殲鬼隊に所属しているとは微塵にも思わなかった。

 彼女の気性から考えても、誰かの下に属する事はありえないと踏んでいたからだ。


 硬直する中で、いち早く素に戻ったのは、クルスだった。

 鼻から溜め息を逃がし、納得した面持ちで問い掛ける。


「なるほどね、キョークンに着いていればいつか会えるってのは、この事か」

「……そう」


 どういう事だ? と、サルギナが目で問い掛けると、クルスはあっさりと言葉を連ねた。

 キラキ樹海、ゼクトが命を落とした場所で蓮と会い、そこで樹楊を護ると約束した事を、簡単に説明してくれた。


「と、まあ、俺がスクライドに足を運んだ理由がそれだ」

「……約束、ありがと。もういいよ」


 と、蓮は動かず、手を差し伸べる。

 樹楊を引き渡せ、という事だろう。

 これでクルスは約束を守った事となり、樹楊を防護しなくても良くなる。最早スクライドに肩入れしなくても良くなるのだ。殲鬼隊の面々も、クルスがスクライドに味方した理由が解ると何処か納得したような表情を浮かべていた。


 クルスは罰が悪そうに俯き、緑色の目を細めている。

 だが、サルギナや樹楊はまるで動じてはおらず、

「何言っちゃってんの?」とでも言わんばかりに長嘆する。そしてその思いを知っているかのように、クルスは不敵な笑みを浮かべ、蓮と視線を結んだ。


「キョークンは渡せねぇじゃんね」

 純粋な疑問に首を傾げる蓮にクルスは続ける。


「最初は蓮に好感を持ってもらう為に動いてたんだけどな、これまたどうした事か。いつの間にかキョークンを護る……じゃねーな。キョークンやツキ、ミゼリン。それに赤麗だのなんだの……。失いたくねぇと思ってしまったじゃんね。そこにサルギナを加えてやってもいい。鬱陶しい事に、それが今の本音だ。何もスクライドを護るってワケじゃねーんだけど、ただ単に、仲間と思っちまった奴らが、クソ弱ぇスクライドに居たってだけじゃんね。だから――……蓮」


 クルスは真っ直ぐに見つめ、

「お前にキョークンは渡せねぇ」


 クルスは誰から見ても変わった。

 砂嵐の部下達から見れば尚更だろう。

 剣を振るう理由が、略奪から守護に変わったのだから。


 蓮はクルスの返答に瞬きをするのみで、動じてはいないようだ。差し伸べていた手を引っ込め、視線をやや斜に落とし、それから瞳を閉じた。そして、そよ風の囁きのように呟く。


「……そう。それならそれで構わないけど」


 すうっとこちらに視線が動いたと同時に、死を彷彿させる程の圧力をもった瞳を向けてくる。クルスはサルギナを後方に軽く突き飛ばし、背の剣を抜いた。


「サルギナ……キョークンを」


 頼む、とでも、ここは任せろ、とでも言うのか。そんなボロボロの身体で。

 樹楊は勿論納得がいかず、クルスへと詰め寄った。しかしクルスは振り向きざまに小さな缶スプレーを樹楊に向かって射出させる。

 それを肺の奥深くまで吸った樹楊の世界がぐにゃり、と捻じれる、歪む、潰れる。


「クル……な、」


 何を? と訊く間もなく、樹楊の意識はぷっつりと切れる。

 その身体をサルギナが受け止め、穏やかなクルスの瞳を見た。


 いいんだな?

 ああ、行ってくれ。


 そんなやり取りがあったのか、サルギナは微かに首肯すると、樹楊を担いで背を向ける。だが、残したい思いや伝えたい言葉があるのか、歩み始めない。一度だけ振り返り、クルスの名を呼んだ。

 いつもは逆立っている髪は濡れた所為で垂れ下がり、緑色の瞳を僅かに隠している。口の片端を留めている三連のピアスは木漏れ日に輝いて……。

 冷酷なまでの光を放っていたその瞳は、この森と同じく優しい緑を広げている。


「俺もお前を失いたくない、と思ってやる」


 サルギナはそれだけ言うと、さっさと逃げ始める。それを追おうと殲鬼隊も動くのだが、行く手を阻むようにクルスが立ち塞がった。

 クルスの顔には笑みが、そして背中には血が広がり、森はそよ風に揺れ始めていた。



 ◆



 サルギナの気配を欠片も感じなくなるとクルスは安堵を覚え、ようやく戦いに全てを注げる事が出来ると、その目を尖らせた。眼光は底冷えするような殺気に塗れ、数では優位に立つ殲鬼隊ですら肩に力を入れるほどだった。


 スクライドに肩入れし始めてからというもの、クルスは腑抜けたと囁かれてはいたが、それは間違いだと殲鬼隊の面々は感じただろう。行く手を阻む男は、紛れもなく傭兵団・砂嵐の頭領であるクルスだった。手負いであるのにも関わらず、その事すら感じさせない堂々とした立ち振る舞いは、正に絶対強者。クルスが殺意を持って一睨みすれば、人喰いの虎でさえも耳を伏せ、身体を縮めるだろう。


 しかし、負った傷は深い。

 クルスとしては、威嚇だけで退いてくれれば、と考えていたのだが、それはやはり甘い考えであったと思い知らされる。


 相手は数多くいるクルード兵の中でも戦のエリートである殲鬼隊だ。元・赤麗の蓮を加えた今、負けはないと気持ちにも余裕が出来ているのか、瞳に力がある。

 当の蓮といえば、樹楊を連れていかれた森の奥をじっと眺めているだけで、動きを見せない。誰よりも早く追い駆けていくと思っていたから、少し拍子抜けだ。


 クルスは蓮の行動に気を配りつつも、じりじりと間合いを詰めてくる敵兵に剣を向け、姿勢を整える。樹楊と同じく、だらっと下段に構え、深呼吸をする。


 森の澄んだ空気が肺を満たし、身体に特上の酸素が巡る。

 痛みは遠のき、身体が軽くなっていく。

 クルスが左に目線を流せば、それを受けた者が気を入れた。その刹那、クルスは右のへ敵兵の懐へと潜り込んでいた。そのスピードは揺れ落ちる木の葉をも弾き飛ばすもので、目の前にクルスが現れた兵は何も出来ずに心臓を貫かれる。

 そして流れるような足運びで隣りにいた者の命も易々と奪うと、次いで三人目。


 大上段から振り下ろした剣は、終着点を地と定めていた。

 しかし、それを阻止するのは横から伸びてきた一本の槍。

 衝突する金属音に、命を救われた敵兵も我に返り、クルスへと斬り掛る。だがクルスはこれを後ろへ跳んで避け、距離を取る。


「そー、上手くはいかねぇか。流石殲鬼隊じゃんね。いつもならこれで五人はいけるんだけどな」


 苦笑を浮かべるクルスに殲鬼隊は気を引き締めた顔付となり、次々と襲い掛かる。それはがむしゃらなものではなく、統率が執れた連携で、クルスでさえも危うい場面が重なるように生まれる。

 それでも大事に至るような傷は負わず、しかし、背中と脇腹の傷が目を覚ましたように痛みを訴えてくる。激しく、無理な体勢での攻防を繰り広げた所為もあり、血は思った以上に流れ、脂汗が止めどなく頬を伝っていく。


 迫りくる斬撃を避け、転がり、蹴飛ばされ、いつの間にか防戦一方となっていた。

 呼吸も乱れに乱れ、細かく、鋭く吐き出ている。剣も重い。


 だけど、こんなところで死ぬわけにはいかない。

 ここで死のうものなら、樹楊に要らないものまで背負わせてしまう。何より、また皆で安酒を片手に騒ぎたい。殺されてなるものか。


「クルスよ、もういいだろう? ここで倒れたとしても誰も咎めはせん。今なら楽に逝かせてやろう」


 敵兵の一人から諭すように漏らされたその声音には優しさがあった。けれど、受け入れようとは思わない。


「それ、はっ……困るじゃん、ねぇ。お前らは、ここで……」


 クルスはフラつきながらも大木に手を添えて身体を支える。

「こ、こで……俺が」


 敵は、蓮を含めて十二人。どうあがいても、クルスの死は免れない――と見えた。

 しかしクルスには、とある覚悟があった。


 それは、人間ではない事を認める事。


 クルスは自らが手を添える大木に目をやる。すると、それに答えるかのように微かな振動が手の平に伝わった。これは錯覚なんかじゃなく、森の言葉。大自然の子である木人にしか感じられぬ言葉だ。


 しかし、クルスはそれが原因で辛い幼少時代を過ごしてきた。

 森の言葉が聞こえると口にすれば、からかわれ、苛められてきた。緑色の瞳を気味悪がられ、誰一人としてこの目を綺麗だと言ってはくれなかった。そればかりか、化け物とまで怖がられてきた。

 それに加え、森はクルスを護ろうとし、苛めていた者達に制裁を与える。


 それ故に、独りぼっちになってしまった。

 何度この瞳を抉り出そうと指を突っ込んでも、翌日には完治しており、自分は化け物だと思い知らされる。いっそのこと、純血の木人であれば、あるいは皆と同じ人間であればこんな思いはしないと、何度も何度も森を憎み、母と父をも憎んだ。


 そして木人の力が常人をも上回ると気付いた頃には、破壊衝動に心を侵されきった頃だった。力があれば、世界を制する事が出来る。自分だけの王国を築けば誰もが従う。誰も文句を言わない。……そう思い、その野望として結成したのが傭兵団・砂嵐だった。その理由には、国をも傾ける力を持つ傭兵団・エンドラインを喰う、といったモノも含まれる。


 その国をも脅かす存在の筆頭であるサルギナを喰えれば、きっと自分が築くだろう王国も崩れない。だからこそ、サルギナを討つ必要があった。だがそれも、今はどうでもいい事だ。


 今は、この状況を……。

 そこまで思いを巡らせ、クルスは思わず笑いを含んだ。


 その様子に殲鬼隊も訝しげな表情となったが、構わない。

 気付いてしまったから。いや、気付かないふりをしていたのか?


 何が『砂嵐』だ。全く、笑える。

 砂塵の如く、全てを覆い尽くすようにと名前を決めたつもりだったのだが、それは嘘だ。ただ単に、森といった緑を連想させないようにと、逃げていただけだ。自分は化け物じゃないと、抗いたかっただけだ。一端の人間のつもりでいて……情けない。肯定も否定もせずに、逃げてきただけ。弱いな……ホント。


 ――けれど。

「なあ、お前ら……知ってるか?」


 クルスの唐突な問い掛けに、殲鬼隊は耳を傾けた。

「ダチと飲む酒ってよ、美味いんだ。高級なモンを奪って飲むより、ずっと」


 ――自分には護る力がある。

「ヘロヘロになって馬鹿騒ぎして、川に落っこちて……。最高じゃんね」


 ――それを認めれば、自分は。

「腹の底から笑えるのって、何でなんだろうな」


 ――それでも構わない。

「俺は、キョークンを……俺が護れるモンを全部護りたい」


 ――例え自分が。

「それを護る為なら、俺は……」


 ――化け物になろうとも。

「化け物にでもなってやるじゃんね」


 クルスは剣を地に突き刺し、フラッと前に躍り出る。

 何故、木人がエルフや獣人目よりも上位の立場に居れたのか。それは、大自然の象徴だからだけではない。

 木人の女性は同種の傷を癒す能力を持ち、男性は圧倒的な能力を持っていたからだ。


「見せてやるじゃんね。木人の力を」

 両手を祈るように組み、目を瞑るクルスに森が大きく騒ぎ出す。異常とも言える数の木の葉が舞い、クルスに寄り添う形で舞い始める。


 明らかな森の異変に殲鬼隊は動揺し始め、誰しもが辺りを忙しく見回し始める。蓮だけは穏やかにクルスを見ているが。


 クルスは森に囁く。

 ――受け入れるよ、自分を。だから認めてくれ、自分を。

 ――散々否定してきたくせに、都合がいい事は解ってる。けど、今は必要なんだ。自分という存在が。護りたいものがあるから。


 森は悩む間もなく、答えてくれる。

 ――私達はいつでもアナタの味方ですよ。頼りなさい、いつまでも。


 その回答にクルスは優しく、そして申し訳なさそうに笑みを浮かべた。

「サンキュ」


 その言葉を呟いた瞬間、クルスの身体に異変が起こり始める。

 髪が瞳と同じ色の緑に染まっていき、肌は木々のように褐色となっていく。頬には木の音のような筋が二、三本ほど現れ、眠りから覚めたように開かれた瞳は、虹彩のみが緑で、あとは真っ黒に染まっている。


 その姿は、誰から見ても化け物だった。

 しかし、この力はれっきとした木人のもの。

 エルフの魔法をも、獣人目の武芸をも凌駕する特殊能力だ。


 その人体強化の能力の名は。

「――樹鱗変化きりんへんげ


「なっ! 何をしたっ」


 クルスは言葉ではなく、行動で答える。

 ざあっと風が吹くと同時に、クルスの身体は無数の木の葉と化し、散り散りとなって世界を舞い始める。


 まるで悪夢を見ているかのように青ざめ始める殲鬼隊は後退り、必要以上に周囲を見回した。しかし、クルスはいない。

 そして一人の者が恐れからか、覚束ない足取りで大木に背を預けた。すると、その大木の中からクルスの手が現れ、荒っぽく掴むと木の中へと引き摺りこむ。その身体は、まるで沼に消えるようにずぶずぶと木の中へと沈み始めた。


「――っ! ―――……」


 声も出せずに引き摺りこまれた者は脚をばたつかせていたが、やがてその抵抗も沈黙へと変わり果てた。微かに痙攣していたのも束の間。今や、木から生える奇妙な装飾と化している。


「な、何だ今のはっ。何が――うわああああああ!」


 その悲鳴の後に、その者は、突如伸びてきた無数の木の枝に串刺しにされ、絶命。

 ある者は、伸びてきた枝に掴まれ、上空へと引っ張られたかと思うと、落ちてきた時には身体が両断されていた。

 またある者は、木の葉の刃に切り刻まれて命を落とす。


 殲鬼隊は互いに背を合わせ、周囲を見回す。そこに蓮が組み込まれていないのは、仲間意識が薄いからなのか、それとも蓮が加わらないからなのか。

 森の災厄に脅え始めた面々は、一時撤退を口にするが、全方位に木の枝が張り廻らされており、脱出は不可能に近かった。


 クルスは暫くの静寂を与え、次なる行動に出始める。

 しかし、ここで人間の血が邪魔をしてきた。


 元より、この能力は木人のものであり、人間の身体には規格外のものだ。混血のクルスがその力を全て使いこなせるわけでもなければ、拒絶反応が起こる事も知っていたのだが、傷を負っていた事が災いしたのだろう。


 クルスの樹鱗変化は崩れ始める。

 木の葉が一か所に集約してくると、それがクルスの形を成し始めた。

 誰かが目を擦る時間など無くクルスは元に戻り、そればかりか悪化した傷を押さえてまでいた。長衣は赤く染まり、血が服を伝って血に斑点を作る。


 クルスは片膝を着き、蹲って呼吸を荒く吐き出していた。

 もう少しで全員葬れたのに、何で身体が持たない。こんな時に、こんな時に!


 悔しさから拳を強く握ると、殲鬼隊は状況を理解したのか安堵の表情を浮かべて冷や汗を拭い捨てると、溜め息を漏らす。脅威は去った、とばかりに。


「ったく、驚いたな。まさかそんな力があったとは」

「全くだ。もしあのままであれば、こちらが全滅していたところだ」

「おい、クルス。お前も終わりだろう? 何か言う事はあるか」


 クルスは項垂れていた頭を上げ、奥で突っ立っている蓮を見る。

「俺は……ダチを失いたくない。絶対にだ」


 何を今更、と殲鬼隊は顔を合わせて肩を竦める。そして最早時間の無駄だとばかりにクルスへと歩み寄り、首に剣を当てた。しかしクルスは蓮から目を離さなかった。己の命を奪う刃には目もくれずに。


「俺は護るんだ。自分が化け物になっても、そう呼ばれても、俺は護り通すじゃんね」


 刃は振り上げられ、それでもクルスは抵抗せず、瞬きのみの蓮に向かって微笑む。

「だから俺は――」


 その言葉を遮るように剣は振り落とされ始める。

 風が切れ――。

「――幸せだったじゃんね」


 すっと潔く目を閉じるクルス。

 心に友の笑顔を思い浮かべ、ごめんな、と胸に秘める。


 その耳に届いた音は、無数に折り重なるような金属の接触音。

 まるで百本の剣を同時に打ち鳴らしたかのようなその音に、クルスは目を開けた。

 目に飛び込んできた光景は、銀色の刃の籠だった。その中に自分が居る。それと、剣を握り締めた片腕が、無価値に落ちている。


「っぐあああ! うで、腕がぁ!」


 もがき苦しんでいるのは、自分を殺そうとした男だ。

 理解に及ばず、呆気に取られていると、小さな手の平が肩に乗ってくる。


「……蓮。どうして、お前……」


 刃の籠の中には蓮もおり、布に隠されていない瞳を向けてきている。その色はほんのり暖かく、敵意は感じられない。籠の外では殲鬼隊の誰かが、蓮に対して怒号を浴びせているが、気にならなかった。そんな事よりも、蓮の気持ちが知りたい。

 蓮は首を傾げ、クルスの頬に手を添えた。


「友達……だもん」

「俺……の事、か?」


 こくこくと頷く蓮。

「もう、失いたくないから」


 きっとゼクトの事を言っているのだろう。微かに悲しみを帯びたその声がそれを肯定している。クルスは、ははっ、と笑うと身体の力を抜いて蓮に預けた。ちょっぴり冷たいが、どことなく心地が良く、愛しさが溢れる。


「きょーくんを、ありがとう」

「……やっぱキョークンには勝てないじゃんね」


 蓮は小さく首を振り、

「アナタはきょーくんと同じくらい大事」


 その言葉が呟かれた瞬間、蓮の中にハッキリと仲間意識が生まれた。これまで私利私欲のままに行動していた蓮が、仲間意識が皆無と言えた蓮が初めて仲間を意識した瞬間だった。


 樹楊への愛しさが蓮の心を変え、

 ゼクトの死が蓮の心の傷となり、

 クルスの存在が蓮の心を染めた。


 酷く遠回りだったが、ここでようやく人間らしさが生まれた瞬間にクルスは今まで以上に蓮を愛おしく思う。自分も樹楊と等価だと言われ、凄く嬉しかった。堪えなければ、涙も出ていただろう。

 

 クルスは蓮に目を向けて不敵に笑う。

 蓮も幽かに微笑み返してきた。


「俺、カッコイイだろ?」

「うん」


「じゃ、付き合う?」

「それは無理」


 やっぱり、どうあがいても、雰囲気には流されない蓮だった。

 あわよくばと考えていたクルスの首を絞める蓮の額には青筋が浮いている。


「ちょ、蓮っ。きゅびっ、げひゅ」

「……むふぅ」


 助けたいのか殺したいのか解らない蓮の行動だが、解放されたクルスは咽ながらも笑みを浮かべて横たわる。土の香りが心地良く感じ、心が凪ぐ。蓮はそのクルスの頭を一撫ですると、刃の籠を解き、重厚な大剣を時空から引き摺り出した。


「すぐ終わるから」


 そうとだけ告げた蓮は、怒りに顔を赤くしている男に向かって鋭い眼光を向ける。

 

「やはり裏切ったか! 恥を知れ!」

「うん」


 蓮が素直に頷くと、男は更に激昂して斬り掛る。しかし蓮は危なげなく避け、片手で大剣を横に薙ぐ。男は下半身を置き去りに宙を舞い、あれ? と疑問符を浮かべていたのだが、地に転がる頃には物も言わぬ骸と化す。


「悪いとは思うけど、ここが私の立つ場所だから」


 クルスの傍に、樹楊の傍に、赤麗の名の元に立つ。

 赤麗の面々がどんな反応をするのかは解らないが、それでもクルスは嬉しく思う。蓮はようやく居場所を見つける事が出来たんだと、そう思った。遠回りでも、裏切りの連続でも、自分だけでもこの不器用な少女の傍にいよう。そう誓う事が出来る。


 蓮はやはり強く、殲鬼隊が相手でもその武勇を見せつける。時空の魔法は改めて見ると脅威で、敵も翻弄されっ放しだ。せめてクルスの命だけでも、と襲い掛かる者もいたが、時空から生えるように突き出てくる剣に阻まれ、どうする事も出来ずにいた。

 加えて、時の魔光跡を駆使する蓮の姿は陽炎のように揺らめき、実体なのか虚像なのかさえも解らない。


 万全の状態だったとしても、ここまで殲鬼隊を圧倒出来そうにないとクルスは苦笑を浮かべていると、敵は一時撤退を余儀なくされた。それだけでも驚いたのだが、蓮の行動にはもっと驚かされる。


 まるで苛めっ子のように、逃げる敵を追い駆け始めたのだ。クルスとしては、それは流石に困る、と蓮の名を出来るだけ強く呼ぶ。すると、何事も無かったように振り返ってきた。


「俺、死にそうじゃんね」

「…………………………知ってる」


 忘れてたな。

 目が泳いでいるのが証拠だ。

 蓮はいそいそと簡易医療セットを取り出すのだが、クルスはそれを止め、川の音が聞こえる方角を指差した。


「俺も木人じゃんね、半分は。綺麗な水があれば大分良くなる。だから――――っおおおおお!」


 蓮は言い切る前のクルスをひょいっと担ぎ、猪でさえもぶっ飛ばす勢いで走っていく。それはいいのだが、身長の低い蓮がクルスを担ぐというのはやはり無理があった。やはり頭が良くはない蓮が、クルスの膝裏に手を回し、下半身だけを担いでいる所為もある。地に頭をぶつけそうになっているクルスは傷の痛みを堪えて背筋を駆使し、しゃくとり虫のような格好で担がれなければなかった。その際に血が噴き出たような気もするが、気にしない方向で考えておこう。


 蓮は見つけた川にクルスを浸からせ、その傍にちょこんと座る。

 クルスは身体の半分以上を川に晒し、空を見上げた。


 森の秘境とも呼べそうなこの川の岩には苔が生えており、泳ぐ魚も大きい。太陽の光を遮るように伸びる木々の枝は日傘。木漏れ日が心地良く、耳触りの良い川のせせらぎ。本当に、自然だ。忌み嫌っていた自然が今は心地良い。

 そう思うと、やはり自分は木人寄りなんだと思う。だけどそれを悲しくは思えず、寧ろ誇りであるとさえも感じてしまう。


 蓮はクルスの髪をいじるように撫で、心配そうに眺めている。

「俺は大丈夫じゃんね。少しすれば、元気になる」

「ホント? 死なない?」

「ああ、本当だ」


 嘘だ。

 いくら木人の血があるとは言え、澄んだ水なんかで回復するような便利な身体ではない。このまま放っておかれれば、死ぬかも知れない。そこまで傷は浅くないから。それでも最後くらいは森の全てを感じる事が出来る場所で、と思い、運んできてもらったのだ。

 クルスは閉じそうな目を無理にでも開き、何でもないような顔をすると蓮の頬に手を添えた。


「キョークンを頼む、じゃんね。今はサルギナ一人だ。ここでクルード兵に出くわしたらやばい。あの二人を助けてくれ」

「うん」


 蓮は頷くと音も無く立ち上がり、最後にぽつり。

「帰ったら遊ぶ」


 それは、戦を終えたら皆で騒ごうという事だろう。

 クルスは笑い返す事で答え、去っていく蓮の姿を最後まで見届けた後、川に手を突っ込む。掬いあげた水はとても綺麗で、木漏れ日を反射させていた。それは手首を伝い、やがて消えていく。


「あーあぁ……。疲れた、じゃん……ねぇ…………」


 ゆっくりと瞳は閉じ、意識もそれに倣う。

 川は相も変わらずせせらぎ、クルスの身体を優しく包んでいた。


 そこに人影が一つ現れる。

 サラシを巻いただけの肌にレザージャケットを羽織る、一人の女。

 女は蓮の消えた方角を一度だけ見ると、クルスに視線を落とした。そしてすぐに去ろうとするが、数歩歩いただけの場所に止まると舌を打ち、歩を巡らせる。川に浸されるクルスを荒っぽく引き上げて担ぐと、眉根を寄せながらこの場を後にした。


次章

~赤き蝶と白の花~

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