第四十五章 ~クルスの思い~
世界に朱色が灯り始めると共に風が冷気を帯びてくる。それは樹楊が歩き続けてきた森の中も同じで、辺りは既に明るくなり始めている。右足にはまだ痺れが残っていて上手く動かせずにいたが、それでも足を止めるわけにもいかず、ひたすら森の出口を探して歩き回った。しかし満足に動かない身体で動くのは想像以上に体力を消費し、いくら拭っても汗が噴き出してくる。
いつの間にか右足を引き摺っており、左足はそれを庇い続けていた所為で痙攣を始めている。いっその事倒れてしまおうかとも考えたが、このポイントはクルード軍の陣に深く入り込んだ場所だ。迂闊に立ち止まろうものなら見つかってしまう可能性が高い。かといって突き進んできた道は今から引き返せる距離でもない。つまるところ、何が何でも歩き続けなければならないのが現状だ。
肩を大きく上下させ、大木に手を添えながら歩き続けてきた樹楊。体力が大幅に削られた身体は、寝不足との相乗効果で鉛のように重く、沼地に肩まで沈めて歩いているような感覚に近かった。疲労で瞼が閉じかけている樹楊だったが、その半開きの眼に一つの光が映る。何だ? と思い、目を擦って凝らして見れば二つ、三つと光が見え始める。そして人の会話も耳に引っ掛かってきた。
樹楊は半ば倒れ込むように倒木を盾にして身を隠す。先ずは深呼吸をしてから水を飲み、それから観察するように光が灯る場所を見やる。
鬱蒼と生え伸びる雑草や力強く育った大木の所為でよくは見えないが、その場所には多くのクルード兵が居る事を確認出来た。そして近くには大きなテントが張られていて、何かを隠している。
いや、違う。
あれは兵糧だ。あの大きなテントの中には飲食物が入っているはずだ。となると、ここが兵糧ポイントだったのか。ミゼリアが教えてくれた崖を大きく迂回したこの場所にクルード兵は兵糧ポイントを敷いていたのだ。入り組んだ森の中にある兵糧拠点とは、見付けにくいわけだ。じっと目を凝らせば、東側に渓谷への細道もある。あそこを進めば、恐らくクルードの陣があるのだろう。
樹楊はポーチの中から紙とペンを取り出すと、現在地の場所を素早く記し始める。本来であれば早急に仲間へ連絡をし制圧に掛るのだが、傍受される可能性が高い通信機での連絡は選択肢に組み込めなかった。せめて足に自由があれば良かったのだが、こんな状態で敵に居場所を知られるとなれば命を落としかねない。
餌を目の前に「待て」を強制される飼い犬の気持ちを理解した樹楊。方角や日時を詳しく書き込んでいると、背後から物音が聞こえた。振り返れば、そこにはクルードの兵が三人。見るからに下っ端で気配のなんたるかをも知らぬ駆け出しのようなのだが、樹楊は気づかなかった。
焦りや悔しさなどの感情を上手にコントロール出来ていなかったのだろう。
痺れている足では逃げ切れない距離にまで接近を許していた。
クルード兵は樹楊の存在に驚きもしたが、その状態を見て自分達が優位と判断したのか、薄ら笑いを見せつけてくる。ゆるゆると抜剣しては、だらしのない足取りで近づいてくる。絶体絶命の危機に暗色を浮かべる樹楊なのだが、その三人の後方にもう一人の姿を確認すると顔を引き攣らせた。正直、笑えない。
その四人目なのだが……仲間、と呼ぶには少し抵抗がある。
何がしたいのかは解らないし、解りたくもない。
その者とは、手の平で顔を左右に引っ張ったり指で豚の鼻を真似てみたりと、笑わせようとしてきているクルスだ。クルード兵はそんなクルスの存在に気付いた様子もなく、呆れ果てている樹楊に向かって剣を構え始めた。改めて危機に陥ると、そこでようやくクルスが重厚な剣を抜いて大袈裟に振り被る。
「よいしょーっ」
楽観的な声なのだが、威力抜群の一閃は一人の胴を薙ぐ。続けざまに袈裟切りでもう一人を斬り捨て、次いで最後の一人の胸を軽々と突く。
樹楊は血の雨を嫌がるように横へと転がり、身を起こすとクルスと目を合わせた。
「サンキュー……ってか、よくここが解ったな?」
「それはシンパシーってやつじゃんね。……つーのは嘘で、スイって女に訊いた」
「……殺した、か?」
「うんにゃ。キョークンの居場所を知ってるって事は、一戦交えたって事だろ? それなのに、スイって奴は死んでない。つー事はだ」
クルスは指を一本だけ立て、得意げに「キョークンが生かしておいたって事だら? だから殺しはしないじゃんね」
随分と偉そうなクルスの救援に安堵しきり悠長に会話をしていたのだが、兵糧拠点を警備していたクルード兵にこちらの存在を気取られたようだった。しかし、完全にではない。何か動いたな、程度だろう。その兵はこちらに歩んでくる事はなく、踵を返す。
「キョークン、取り敢えずこの場から離れるじゃんね。流石に庇いながらの戦闘はキツイ」
一人であれば制圧出来る。
そんなニュアンスを吹っ掛けてくるクルスが頼もしく思えた。やはり、スクライドに招いたのは間違いではないようだ。同時に、もし敵であればと考えれば寒気もする。クルスは正しく一騎当千の強さを持っている。そしてそれは――樹楊の見立てではあるが――成長途中である。
クルスは樹楊を軽々と担ぐと、足音を消してこの場から離れた。太陽が主役となる朝に隠密の行動は不向きなのだが、それでもクルスの足運びや気配の断ち方は見事としか言えない。まるで森が……そう言えばそうだった。
クルスは木人の血を継ぐ者なのだ。森が味方をしても不思議ではない。
それを知ってか知らずか、クルスは森から出ようとはせずに吊り橋が見えるポイントまで移動すると、ようやく樹楊を肩から下ろす。
樹楊の状態が麻痺だけだと知ると大した心配もせずにミネラルウォーターを口に含んで辺りを探り始める。
「ここなら心配ないかもな。って事で、何があったのか教えてくれるか?」
サングラスに隠れた瞳が真っ直ぐに向いてきていた。
樹楊は逸る動悸を堪え、ぽつぽつと話し始める。
それを聞いたクルスだが、顔色を変える事はなかった。しかし穏やかではないのだろう。拳が握られ、そして微かに震えている。樹楊はそれが嬉しかった。クルスがミゼリアの事を思ってくれている事が、素直に嬉しかった。
だがそれを顔に出すことはなく、茂みの中、大木に身を預けて座っている樹楊はクルスの肩越しに何かを確認する。
地肌が露わになった崖に掛る吊り橋。それを渡った向こうに何かが居る。向こうは木などはなく、荒野を思わせる景色だから余計に解った。クルスもそれに勘付くと、身を低くして警戒心を高める。
「クルード兵じゃんね。また三人……。早いとこ消しちまうか?」
「いや、ここはまだクルードの布陣内だ。なるべくやり過ごしたい……と、俺は思って………………」
樹楊は視覚に捉えたもう一つの姿に言葉を尻すぼみに消されてしまう。茂みを壁にしている所為でハッキリとは見えなかったのだが、目を細めるとそれが誰なのか嫌でも解ってしまう。
吊り橋の正面には岩の壁の突起が突き出てきていて、左の方向から右側が見えないようになっている。逆に右側からも左側を確認出来ない。その右側から吊り橋に向かうのは、クルードの兵が三人。対して、左側から吊り橋に向かっているのは。
「あれ、ツキじゃんねっ」
「まずいっ。このままじゃ鉢合わせになっちまう」
互いの存在に気づかぬまま歩を進めているが、このままでは樹楊が言う通り、鉢合わせになってしまう。ツキは樹楊の期待通り獣人目ララアに昇華していて、背には茶色い翼が生えていた。そして下瞼は、アイシャドーを引いたかのように真っ赤になっている。瞳も鷹を思わせる鋭さがあった。……のだが、当人は警戒心ゼロで辺りをキョロキョロ見回していた。その姿は気高き鷹というよりも、餌を探している雀のよう。
「クルス!」
「おう、任せろっ」
クルスは茂みから飛び出すと、吊り橋を目掛けて走り出す。クルード兵は勿論それに気付いて素早く戦闘態勢を整える。そしてツキもクルスに気付いて満面の笑みを浮かべて手を振り始めた。
「クルスーっ。やっと見つけた!」
「ツキ! そこから離れろ!」
「何でだよっ」
会えた事が余程嬉しかったのか、ツキは手を振りながら駆けてくる。それはツキの実戦経験が不足している所為もあるのだろう。もしこれが樹楊であればクルスの警告を受け入れ、同時に自分が危機に瀕している事を理解も出来ていた。
それが未だに解っていないツキがひょっこりと出てきた事にクルード兵は驚いたが、クルスよりも近い位置に居る事から標的を変えたようだった。そこでツキもようやく気付き、慌てて翼を動かそうとするが片翼しか動いていない。
クルスはようやく吊り橋に足を踏み入れたところなのだが、ツキとクルード兵の距離は近い。五歩も踏み出せば剣が届く位置に居る。
このままじゃ間に合わない。
そう判断した樹楊は口に手を添えて大口を開けた。
「ツキ! お前にやった太刀があんだろ! それを抜けっ」
樹楊の声にツキは慌てながら腰に携えていた小太刀を二振り抜刀する。
「二本とも逆手に持て!」
「う、うんっ」
あわあわと持ち直して敵と対峙するツキなのだが、既に相手の制空権内に入ってしまっていた。幸い、相手も力量が少ない兵であり、堅い動きで剣を振り被っている。
「ツキ! 相手の首元から――」
樹楊の指図に。
「財布をすれ!」
ツキの瞳が変わる。
鋭角に尖るツキの瞳は、かつてソラクモで財布をすって生き延びてきたものになった。そこに戸惑いや恐れなどは微塵にもなく、ただ生への執着心だけが残る。
迫り来る敵兵、三人。
ツキはその間を風のように流れた。
決して速いわけではない。しかし、その動きには鮮麗さがあった。
柳の間を抜けるそよ風のようにゆるゆると。しかし、無駄など一切なく、流れるように。
ふわり、と髪をなびかせたツキは流れる勢いを殺さずに振り返る。ブレーキを掛けた足元からは微かに砂塵が舞い上がり、風の流れに消えていく。次の瞬間、敵兵の首元から鮮血が吹き出す。そして糸が切れたように、順を追って膝を折っていく。敵兵は痙攣していたが、やがてその動きすら失い、声もなく天へと堕ちていった。
クルスは唖然とし、吊り橋の中央で足を止めていた。手にはスローイングナイフが握られていたが、目的もなく、そこにあるだけ。そこに樹楊が足を引き摺って辿り着き、クルスの肩を許可もなく借りる。
「キョークン……何だ? 今のツキ」
「まんま、だよ。あいつはスリの動きをしただけだ」
クルスはまだ直らぬ呆け面でもう一度ツキを見た。ツキもツキで、張りつめた緊張が解けたのかへたり込んでこちらを見てきている。自分で何をしたか理解できていないのだろう。クルスにも負けぬ呆け面だ。
だが樹楊は未来の片鱗を見た気がしていた。
きっとツキは未来を背負う戦士となるだろう。ここに居るクルスを超えるかもしれない。もし英雄という器があるとすれば、それは意外と情けない面をした過去を持っているのかもしれない。そう、そこで呆けている少年のように。
「スリってのはな、クルス。相手との間合いが重要な事は当り前だけど、もっと重要なのは呼吸を合わせる事なんだ」
「呼吸?」
樹楊は頷いてやり、
「シンクロって言えば大袈裟だけど、剣での打ち合いも同じだろ? 攻撃、防御、攻撃、防御の繰り返しだ」
「確かに、そう言われればそうじゃんね。相手の攻撃の呼吸に合わせて防御するのは基本だしな。って事は、スリも相手の呼吸の乱れを突くって事なのか?」
「いや」樹楊は軽く否定し、
「スリの場合は『静』と『動』の呼吸からなる人間の動きに合わせるんだ。静に対して動で対応すれば間違いなく失敗に終わる。静には静、動には動だ。だけど、人間ってのは静から動に移る瞬間、一瞬だけ空白の呼吸がある。その時、初めて自分の呼吸を『割り込ませる』んだよ。人間ってのは完全じゃない。強者であれ弱者であれ、必ず隙が出来る。単にその時間が短いか長いか、それだけの差だ」
ま、強者であればあるほど隙が出来ている時間は短いんだけどな。と、樹楊はクルスを納得させる。そして、キョークンはスリが出来るのか? と問われたが、答えは否。スリほど単純で高等な技術は持ち合わせていないのだ。
しかしツキは生きる為にスリを覚えるしかなかった。そうする事でしか金を得ることが出来なかった。そして繰り返してきたスリは芸術とも言える業となったのだ。
樹楊はクルスの肩を借りたまま、未だに放心状態であるツキの元へと向かった。
ツキは樹楊の顔を見ると安堵を浮かべる。
「ツキ、大丈夫か?」
「あ、うん……オイラは平気、だよ」
唇が微かに震えている。顔色も優れない。
だがそれは想定済みだった。
人を殺すという事は、思っている以上にショックが大きいのだ。ツキ自身、それをじわじわと実感し始めているのだろう。樹楊は死に絶えた一人の兵の元へ行くと、おもむろに鎧を外し、目当ての物を見つけるとそれを引き千切り、ツキへと放る。
しかしツキは受け取る事もせず、足の間に落ちたそれを見つめているだけ。それも、ツキを見上げるように朝日を鋭く反射させている。
「ツキ、それを取れ」
「何だよ、これ」
「ロケットだ。中を見ろ」
樹楊が放ったのは、クルード兵が首に掛けていたロケットだった。銀メッキの安物で、手の平に収まる円形のロケット。ツキは樹楊の強制するような眼差しに眉を下げ、震える手付きでロケットを開く。
すると、単音のオルゴールの音が鳴り出した。随分と鳴らされてきたのだろう。時折歪んだ音を出すが、それでも優しい奏でだ。
「何が入ってる?」
「しゃ、写真」
「誰が映ってる?」
「お、おお、女の人と赤ちゃん」
「父親は?」
樹楊の問いに、ツキはぎこちなく視線を地に這わせ始める。そしてその先にある一つの亡骸を見た瞬間、ツキは口を手で覆い、それでも耐えきれるわけもなく背を向けては嘔吐する。その痛々しい姿を、クルスも樹楊も平然と見つめていた。
腹に入っていた物を全て撒き散らしたツキは口元を拭い、振り返ってくる。しかし、また嘔吐。今度は胃液を吐き出した。
「ツキ、お前が奪ったんだ」
肩で息をするツキは顔を青ざめさせて地面を見つめていた。樹楊の言葉の意味が理解出来ていないのか事実を認めたくないのか、微弱に首を振っている。しかし樹楊は続ける。
「その女と赤ん坊の父親を、お前が殺したんだ。それが事実だし、曲げちゃならねぇ事なんだよ」
「や、やめてくれよ兄ちゃん」
「いくらその女が願っても旦那は帰ってこない。そりゃそうだ。たった今、お前が殺したんだからな」
「やめてくれって言ってんじゃんか」
「見たところ、下っ端だ。でも夢はあったんだろうな。もしかすると、出世してやるって奥さんに話していたのかもしんねぇ」
「兄ちゃん!」
もう聞きたくない、とばかりに声を張って涙を浮かべるツキを樹楊は荒っぽく振り向かせ、射抜くような瞳で睨む。しかし責めているわけではない。
「これが戦なんだよ、ツキ。俺達が殺すのは同じ人間なんだ。こいつらにだって人並みの夢がある。想いがある。そいつを蹴飛ばして踏みにじってないがしろにして……そうやって掴むのが生なんだ。勝利って言葉は綺麗じゃねぇんだよ。むしろ、薄汚れた血塗れの言葉なんだ」
こう言うのも酷な事であると樹楊は理解している。大人でさえも、初めて人を斬れば嘔吐するし、人によっては二度と剣を持てなくもなる。悪夢を見る者もいる。しかしツキはまだ幼いのだ。恐らく、この大戦で最年少だろう。そんな年端もいかない子供に戦の何たるかを教え込むのは少々厳しいものがある。
ツキは鷹のような瞳に涙の膜を張り、唇を強く噛み締めた。ぶるぶると震えて、まるで虐待を受けた子供のような顔をしている。いくら武芸に優れている獣人目とはいえ、人殺しに優れているわけではない。戦に向き不向きはあるのだ。
樹楊はツキの表情から、時期尚早であった事を悟り、同時に戦には向いていないと判断し、地に落ちていた小太刀を手に取る。ツキは愕然とし、間延びしている音を鳴らすロケットを見つめた。
「ツキ、スクライドに戻ってろ。誰もお前を責めたりなんか出来ない。人殺しなんて、不向きな人間の方が多いんだ。もしお前を責める奴がいるんなら俺が許さねぇから安心してスクライドに戻れ」
本心だった。
流麗な動きを見て、英雄となれる器かとも思ったが、心は違っていた。人を殺す英雄なんかよりももっと美しい、優しさ溢れる人間なのだ、ツキは。少々惜しい気もしたが、嬉しく思っている。それが凄く不思議な感情で、どうにもこうにも歯痒い。
樹楊はツキの頭を撫でてやり、背を向けようとする。しかし、それよりも早くツキが樹楊の腕を掴んでそれを制した。
「兄ちゃん。戦って、こんなに惨めなのか?」
「そうだな。……うん、そうかもな」
「死んだ人間には何が残るんだ?」
「何も。ただ居なくなるだけだ」
「その家族には?」
「何も残らない。何にも、な」
そうか、とツキは呟く。
諦めにもよく似たその声音だったが、
「それでもっ」ツキは強く言い放つ。
「オイラは戦場に立つ。オイラにだって護りたい人がいるんだ。死ぬのは怖いし、殺すのはもっと怖い。だけど、オイラは負けたくない。オイラの剣で誰かが泣いて、誰かが笑って……色々あってよく解んないけど…………でも、オイラは自分が選んだ道を後悔したくはない。選んだ未来から目を離したくはないんだっ」
歯を鳴らすほど脅えているくせに、よく吠えるもんだ。
だけど伝わってくる。強い決意が、ひしひしと。
きっと逃げ出したい衝動に駆られているんだろう。だけど、一生懸命に堪えているのが解る。
樹楊は「そうか」とだけ呟き、小太刀をツキに手渡した。ツキはそれをじっくり見つめると力強く頷いて腰に携える。そして、ロケットを握りしめた。
「これ、貰ってもいいのかな?」
「別に構わないけど、どうしてだ?」
「忘れたくない」
ツキは樹楊を真っ直ぐに見つめて無垢な色を瞳に宿す。
どこまで優しいんだか、と樹楊は心内で呟き、
「ご勝手に」嫌味ったらしく吐き捨てる。
この時、樹楊は初めてツキとの間にある壁を目にした。
それはとても綺麗な透明で、例えるなら磨きたての硝子だ。
決して自分が手を触れてはならない壁なのだ。自分の指紋を付けてはならない、透明無垢な硝子の壁。それに触れていいのは、アギやミゼリアといったツキと心を同じくする者だけだろう。
樹楊は寂しい思いを感じながらも笑みを浮かべてクルスに身体を預ける。クルスはその思いを感じ取ってか、何も言わずに身体を支えてくれた。
「肩ならいつでも貸してやるじゃんね」
「……サンキュ」
吊り橋を渡っていく樹楊の後を着いていくツキだが、最後にもう一度だけ後ろを振り返る。そこにあるのは、血溜まりを作る三体の亡骸。
ツキは目を袖で擦るとロケットをポーチに押し込んで力強い眼になる。それから再度、樹楊の後を追っていった。
◆
生まれて初めて人を殺めた罪悪感に心を折られかけていたツキだったが、目に見えぬ道の先を行く二人の背中を追うと決めた事で、何とか歩を進める事が出来ていた。
今後の予定などを話し合う樹楊とクルスの顔は真剣そのもので、見慣れたものではない。いつもはふざけている事が嘘のようである。
いつもこんな調子なら女にモテモテなんだろうけどなー、と失礼な事をツキは思う。と、同時に好きな人はいるのかな、と思いもした。
まだ子供とは言え、色恋に興味を示し始める年頃なのだ。スクライドへ移住して出来た同年代の友達がよく話す「お泊まり会」というものにも興味がある。それを提案したいところだが、この二人の答えはノーだろう。
そんな場違いな事を考えていると、二人は唐突に足を止めた。
どうやら崖に挟まれた渓谷に着いたみたいで、二人はその入り口を見ている。
「何か……変な感じがするな」
「確かに。嫌な感じがするじゃんね」
樹楊とクルスはそう言うのだが、ツキにとっては何がなんだか。
普通の渓谷じゃん? その程度だ。
「何かあるのか? オイラにはただの崖にしか見えないんだけど」
クルスは何かを思い出すかのように首を傾げると、樹楊を肩から下ろして注意深く辺りを観察する。
見つめる先は、崖に挟まれた細道。
ツキも倣って注視してみるが、やはり何も感じない。
こいつは多分……、クルスが独りごちると、樹楊が口を開いた。
「何か解ったのか?」
「ん、ああ。俺、元は傭兵だら? 何度かクルードの戦争にも加担した事があって、こんな感じの風景を見た事があるじゃんね。いや、風景っつーか雰囲気か」
クルスは転がっている石を選ぶ事もせずに手に取ると、何度か手の上で弾ませる。
「俺の勘じゃ、こいつは」
言葉を区切ると、力強く石を放るクルス。
投げられた石は一直線に崖と崖の間に向かうのだが、地に落ちる事はなかった。
渓谷への入り口。何もなかった空間だったのだが、そこへ石が放られると、何の前触れもなく稲妻のような閃光が何本も現れる。そして石を粉々にしてしまった。
「な、なん、何なんだ今のっ」
ツキは驚きのあまり目を見開くが、樹楊は納得した面持ちで、クルスは疲れたような嘆息をするだけだった。
ツキは力の入らない足で樹楊の元へと向かうと、服を弱々しく摘んで震える指で石が砕かれた空間を指差す。
すると樹楊。
「あれは結界の一種だ」
「け、けけけけけけっ?」
「ああ。攻性結界っつってな、内部を護り外部を攻撃するっつー二つの性能を持つ結界の事だ。三人ないし四人掛かりでやっと張れるって言われてる」
ま、超高等魔術だな。と、どうでも良さそうに鼻から溜め息を逃がす樹楊だが、ツキにとっては未知なる領域で恐怖を感じる。手に収まるくらいの小さな石とは言え、その硬度くらい解っている。金槌で叩くくらいの事をしなければ割れない硬さだ。しかしその攻性結界とやらは、粉々にしてしまうほどの威力を見せつけた。人間など炭になるだろう。あのクルスですら頭を掻いて困り果てた表情を浮かべている。
しかし樹楊は臆した様子など微塵も見せず「ふむ」と、偉そうに腕を組んでいた。
何か策でもあるのか、と思うや否や、視線を合わせてきた樹楊が頼りがいのある笑みを向けてくれた。
「ツキ、やっぱりお前がカギだな」
「へ? オ、オイラ?」
「どういうこった。ツキでも放り投げるのか、キョークン」
え!? と弾かれたように振り向くと、クルスは冗談だと口にする。
「び、びっくりさせんなよーっ。オイラ、本気にしたよ」
「悪い悪い。ちょっとしたお茶目じゃんね」
「黒こげになるだろーっ?」
「クッカカカ。ツキの丸焼きじゃんね。今は獣人だし、焼き鳥みてぇになるんじゃねーの?」
あっはっは、このやろーっ、等と笑い合う二人に、樹楊も加わり、和やかとも言える雰囲気になるのだが、その空気は一瞬にして凍る。
それは樹楊がしれっと言い放つ一言で。
「まあ、近いものはあるけどな」
三人には三様の沈黙が舞いおりる。
笑顔のまま青ざめるツキにクルスは合掌し、
「お前の事は三歩歩くまでは忘れないじゃんね」
鶏のような事を言う。
ツキは樹楊に説明を求めた。
それはもう必死に。近いもの、とは何なのか。死ぬのか生きていられるのかなども含め、矢継ぎ早に質問を繰り返す。
口やかましいツキを拳骨で落ち着かせた樹楊は目に見えぬ結界を、その先を遠目で見て薄く口を開く。
「こんだけ大掛かりな結界を張るって事は、この先に重要ポイントがあるって事になるんだけどな、守護兵もいなけりゃ術者もいない。って事は、この結界が強力だって証拠になる。誰にも破られないって自信があるんだろ」
押し黙るツキに樹楊は言い切る。
「だけどそいつは間違った選択だ」
「まち、間違った……選択?」
「ああ。向こうはここに攻め入られても突破できない、させない為に看破不能とも言える強力な攻性結界を張った。けど、それこそが間違いだ。ここに結界を張るなら強力じゃなくても、術者や守護兵を付けるべきだったんだよ。なのに、強力な結界をはってしまった所為で、変な自信を持って無人にしてしまった」
樹楊は勝ち誇ったような笑みを浮かべた。その微笑は敵からすれば邪悪なものだろう。
「ま、攻め入るのが俺らじゃなけりゃそれで良かったんだ。けど、な……。こっちにはツキがいる。あいつらもツキの存在を知らなかったんだろうな。ざまあみろ、だ」
ツキにとっては未だに意味不明だった。こんなにも強力な結界を前に、何故余裕でいられるのかは勿論、何故自分が関係するのか、と。しかしクルスは納得した表情を見せる。
樹楊は地面にへたり込んでいるツキに視線を合わせるように膝を曲げる。そしてツキの小さな肩に手を乗せた。
「ツキ、お前の出番だ。やれるな?」
「う、うんっ。オイラが……って、何をすればいいんだ?」
「うん、何つーか。羽をくれ」
何と言うか、直球だった。
何の為に? と訊き返そうとするも、樹楊のアイコンタクトを受けたクルスがツキを地面に倒し、肩を押さえてくる。うつ伏せになったツキは訳も解らぬまま翼を動かす。そして樹楊は邪悪な笑みで――そう、何処かのイカれた科学者が実験体に対するかのように両手をわきわきさせている。
「ちょ、何をっ。へ? え、なっ。待って、待っ、ままま待ってくれよっ」
「うひ」
奇妙な含み笑いをした樹楊はツキの羽を数枚摘まむと、
「おりゃっ」
「い――――――だぁぁぁああああ!」
ぶちっと、勢い良く抜いた。
涙目になるツキを余所に、樹楊は羽の先に指を当てる。
「おお、刺さる刺さる。しかも硬いのな、結構。薄い鉄板みてぇだ」
そう呟き、文句を並べるツキを思いっきり無視して何やら準備をし始める。
機械弓と矢を取り出し、伸縮鋼線も取り出して手早い作業。
最初は不満つらつらのツキだったが、理解不能な作業だけに目を奪われていく。そしてそれは完成の音と共に軽く掲げられた。
矢の先にツキの羽を括り付けただけの、単純な矢。矢じりを囲むようにツキの羽が括り付けられている矢だ。
ツキが何のつもりか尋ねようと思うも、樹楊は機械弓に幻糸を張り、弓を引く。狙う先は攻性結界の中心部のようで、しかし的を絞った様子もなく、試し打ちのように放った。
フォン、という独特な音が空気を微かに揺らせば、矢は目にも止まらぬ速さで飛んでいく。しかし、本来はないはずの余計な空気抵抗の所為でその軌道は緩やかな曲線を描く。
結界は飛来する矢を対象とし、即座に攻撃へと入る。
例の如く、稲妻のような閃光が何本も現れては矢に向かって襲いかかる。だが、その矢はその閃光を難なく撥ね退けた。そして目視では確認不可だった薄い膜のような結界へと突き刺さると、そこを中心にシャボン玉のように幻想的な輝きが揺らめきながら広がる。
樹楊が勝ち誇った笑みを浮かべ、クルスは納得した表情を見せる。そしてツキが目を丸くしたと同時に、矢は爆ぜる。
「クルス、見たかっ?」
「おお。効果あり、じゃんね」
嬉々として訊く樹楊に、不敵な笑みを浮かべたクルス。
しかし、ツキは未だに理解不能だった。
何故、結界の攻撃を弾いたのか。その一点がどうしても解らなかった。
あまりにも唐突な出来事に茫然としていると、それを見かねたのか、樹楊が告げてきた。
「獣人目にはな、ある程度の魔法を無効化する体質がある……らしい」
樹楊は頭を掻き、
「まあ俺も詳しくは知らねぇんだけどな。どの程度から有効か、なんてのは知らねぇ。ましてや、お前の羽が無効化する力を持つのか、あったとしてもお前の身体から離れてもそれを持続出来るのか、なんてのは正直賭けだったんだ」
「おいら……獣人目がそんな体質を持ってたなんて知らなかったよ」
まるで狐に摘ままれたようなツキに樹楊は答える。
「昔――まだ人間が存在しなかった時代は魔法に長けるエルフと、武芸に長ける獣人目が大陸に存在していたらしくてな、両者は対立関係にあった。普通に考えれば魔法を扱えるエルフが優位だ。だけど、力関係は五分。それは獣人目が、さっき見た通りある程度の魔法を無効化する体質だからだ。そしてツキ。獣人目の血を濃く継ぐお前にもその体質が備わっているって事だ」
目の前の結界などは樹楊の予測の範囲内だったようだ。
ラファエンジェロの取り巻きである魔術師の存在を知った樹楊は、このような展開を見通していたらしく、それを打ち破るにはツキの獣人目への昇華が必要不可欠だった事もここで初めて明かした。
ツキは、結界を見下すように見る樹楊の横顔を眺めていた。
思う事が色々とある。中でも一つ、強い思いがあった。
この人は、何時から何処から戦場を見通してきたのだろうか。
尋ねれば、返ってくる答えは何となくだが想像出来る。
「考えれば解るだろ」
きっと、こう言うのだろう。屈託もない笑みで、さらっと言ってのけるのだろう。
しかしスクライド側に、そしてクルード側にこのような状況を想定していた者は何人いるのだろう。考えてみるも、答えはすぐに出た。
誰一人としていない、と。
スクライド側にこの状況を想定している者がいたとすれば、軍議やらで発言しただろう。クルード側に想定している者がいれば、樹楊が指摘した通り、術者や守護兵を配置していただろう。
その答えを導き出した途端、ツキの背筋に悪寒が這いずり回った。
もし、樹楊が敵だったのなら……そう考えると膝が震えた。
この男の根底が見えない。
ただ単純な武で言えば、隣りのクルスの方が圧倒的に上だという事が解る。しかし、樹楊は違う。膨大な知恵と、何手も先まで見通す目がある。それがどれほど脅威なのか、幼いツキには解るわけもなく、恐怖という純粋な感情が身体を駆け巡っていた。
けれど、それと同時にスクライドに光が当たっている事が解りもした。
味方だから、樹楊が味方だからこそ深い安堵を覚える事が出来る。
砕羽とは本隊から独立した部隊で、戦場を自由に駆け巡る攻略部隊。
樹楊は心底嫌がっていたが、ツキは言ってやりたい。
「ピッタリだ」と、そう言ってやりたかった。
樹楊の知に、クルスの武。
その二つを掛ければ可能性が無限大に広がっていく。
ツキはこの場に立てた事を誇りに思い始める。この二人の傍に居れる事が、素直に嬉しい。――のだが。
「よーっし、クルス。ツキの羽、むしるぞ」
「オッケーじゃんね」
影を帯びた邪悪な笑みを見れば、その気持ちも薄くなる一方でもあった。
手をわきわきと動かす二人から逃げようとするも呆気なく捕まり、問答無用で羽をむしられるむしられる。それはまるで、雑草を引っこ抜くように。
「ふんぎゃあああああああああ!」
この後、僅かな間だがツキの悲鳴は天を突く――いや、突き破る勢いで木霊した。
◆
行く手を阻む攻性結界を突破出来たのは、ツキの片翼の羽が全てむしり取られるのと同時だった。クルスは両翼の羽を全てむしり取る気でいたのだが、意外や意外。結界は考えていたよりも脆かった。……いや、それほど獣人目の魔法耐性が強いという事だろう。
ツキの存在はクルードにとっても厄介なものだろう――と、クルスは余分にむしり取ってしまった羽を握り締めて頷いていた。
ツキはそれに気付き、涙が膜を張っているジト目で見てくるが、生憎そんなのは無視だと決めている。事実、結界を破ったからにはもう用はない、とばかりに未練もなく羽を捨てたのだ。まるで鼻をかんだティッシュを捨てるかのように。
地に這いつくばったツキが「ばかな」と漏らすが、クルスの気は既に樹楊へと向いている。しかし樹楊は先を急ごうと促してくるだけで、まともに休息を取ろうとしない。見るからに、何日も寝ていなのだろう。
クルスは樹楊を休ませてあげたいと思うが、こんな場所で悠長に寝てもいられない。近くに町がない事から、休むのであれば何処か深い森の中が理想だ。なるべく気配と姿を潜めれる場所がいい。
そんな思いで歩き進むと、何と幸運な事か。
青々とした森が両手を広げるように待ち構えてくれていた。
地図を見れば、広大とは言えない森だが、それでも人目を避ける事が出来る程の森だ。人の手が届いていない事を幸いに、あるがままの自然が残っている。
クルスは目を走らせ、適当な場所を見つけると、荒く呼吸を刻む樹楊の肩に手を置く。そして目が合うのを待ち、告げる。
「ここは一先ず、休憩といこうじゃんね」
「あのな……。この先は俺達にとって重要ポイントとなり得る場所なのかも知んねーんだぞ? 悠長に休んでいられるかっての」
呆れ気味に嘆息する樹楊に、同じ溜め息を返してやるクルス。
「今のキョークンはハッキリ言って足手まといじゃんね」
言い切るなりクルスは抜剣し、樹楊の首筋に刃を当てる。
しかし樹楊は気付いておらず、クルスが「ホレ、見た事か」と呟く事でようやく剣の存在を認識したようだった。
クルスの剣を抜くスピードは歴戦を生き抜いた猛者でさえも目に映す事は容易ではなく、常人ともあれば首を刎ねられた事さえも解らないだろう。が、今し方のそれは、常人でも認識出来る程のゆるゆるとした速度だったのだ。
それにさえも気付けない樹楊の集中力は、子供以下と言えよう。
「安心して寝てろって。休む事も大事じゃんね。この先に重要ポイントがあるんなら尚更だ。今のキョークンは誰から見ても疲れ切ってるし、焦り過ぎだら?」
樹楊はようやく疲れ切った笑みを滲ませると、大木に背を預け、そのままずるずると座り込む。そしてそのまま横に倒れるが、寸前のところでクルスが危なげなく身体を受け止めた。
クルスは立ち上がると少しばかり歩き、少しばかり拓けた場所へと樹楊を運び、寝かせる。
そこへツキが近付き、
「にーちゃん、よっぽど疲れてんだな……。呆気なく落ちたぞ?」
「多分、この大戦が始まってからまともに寝てねーんじゃねぇかな。ったく、無茶にも限度があるじゃんね」
呆れ半分に肩を竦ませ、「でも、まあ」
樹楊の汗を拭ってやり、
「これで少しは休める、かな?」
優しさを滲ませるようなクルスの微笑みに、ツキは微かに頬を赤らめて拳を握る。
「あ、兄貴っ」
「ど、どうした、いきなり」
何故か興奮しだしたツキを制し自らも休息を取っていると、風に揺られていた森がひと際大きく揺らぐ。そよ風は嫌いではない。優しい心地を得る事が出来るから。
だが、森という存在は好きにはなれそうにもない。
クルスはサングラスの奥で疼く目を瞑り、微かに眉根を寄せていた。
人間と木人の混血種。
エルフと獣人目の混血が人間であるのなら、自分は何なのだろうか。
幼き頃から何度も何度も自分に問いかけ、鏡の中の化け物を見てきた。そいつは緑色の目で、何も答えてくれやしない。それは何年経っても変わらなかった。鏡を見る度に、映る化け物はいつまでも化け物のまま。
それを忘れる事が出来たと思っても、森を見れば嫌でも認識してしまう。
生きていくからには、自然が必要なのだから。
自分も例外ではない。いや、自分こそ誰よりも自然を必要としている。そういう人種なのだ。
森は云う。
「私達は貴方の味方です」……と。
クルスは拒絶する。
「話し掛けるな」……と。
しかし、いくら突き離そうにも、耳を塞ごうとも聞こえてくる森の声、水の声、山の声。そのどれもが慈愛に満ち満ちているのだが、クルスにとっては苦痛としか言えない。
森がクルスを護ろうとする度に、傷ついてきた心がある。
周囲からは化け物と呼ばれ、畏怖なる瞳で牽制されてきた、幼き頃。
力を得た今となり、周囲の言葉など気にも留めていないつもりだったのだが、こうして森の中に身を置くと思い知らされる。
――自分は人間じゃないのだ、と。
緑の香りが鼻腔をくすぐり、それを心地良いと感じる事に不快を覚えながらも、いつしか眠りに落ちるクルス。
それから僅かな時が経ち、同じく眠っていたツキが目を覚ますと、そこは異界のようだった。
寝惚け眼を擦り、驚愕するツキの瞳が捕らえたのは……。
「な、何だこれっ」
そびえ立つ樹木の枝が不自然に折れ曲がり、クルスやツキ、樹楊を包みこんでいた。まるで外敵から護る母の腕のように。
それは自然の結界と言えよう。
人間という不純物を嫌う自然は、彼ら三名を愛していた。
獣人目の少年と、自然の王となるべく少年と。
そして言うまでもなく、自然の子供であり自然の一部でもある緑目の青年を。
森に対し負の念を抱く青年だが、木々に包まれて眠るその顔はとても穏やかだった。
――のだが、
「何だこれっ、何だ何だっ? ちょちょちょ、え? ええっ? どーしてこうなったっ」
困惑しまくるツキの声に叩き起こされる破目となる。
そのクルスが目を覚ますよりも僅かに早く、木々は枝を引っ込め、元の形と戻る。クルスに気付かれまいとするように、そっと。
その一部始終を見ていたツキは更に混乱し、あたふたし始めるのだが、クルスがその後頭部をど突く。
「うーるさいじゃんね」
その一言を添えて。
森は今一度、さわっと動く。
獣人目の少年と木人の青年のじゃれ合いに微笑むかのように。
◆
場所は大きく北西へと変わり、朱色が鮮やかな宮殿の中へと移る。
その一室では一人の少女が不機嫌を全開に、惜しみなく露わしている。
だんっだんっだん!
と、まるで書類に判子を押すかのように机をぶっ叩く少女は白鳳の皇帝の愛娘である光凛であり、この様子は朝からずっと続いている。今やもう昼だ。
市場に並んでいる鮮魚と同じ目……つまりは死んだ魚の目だからなのか、怒っているのか、はたまた周囲への嫌がらせなのかは解り辛くもあるが、額に青筋を浮かべているところから見るに、やはり怒っているのだろう。
何人かの侍女が団子を運んできてはいたのだが、その背中を見るなり「ひいっ」と声を上げては一目散に逃げていく。その所為もあり、光凛は大好きな団子にありつけない事も拍車を掛けて怒りのボルテージは上がりっぱなしだ。
普段は怒りを面に表さず、静かな姫として愛される光凛が、何故こんなにも不機嫌なのか。それには理由がある。思いっきり個人的ではあるが。
……許せない。この屈辱、どう晴らすべきか。
連日連夜、夢にまで出るだけでは飽き足らず、乳まで揉みくさってからに!
と、利己的な苛立ちの対象となっている樹楊は、今は森の中ですやすや。
そればかりが頭の中を駆け巡り、苛立ちは募る。
机を叩くテンポもそれに乗じて上がっていく。
だんっ、だんっ、だん…………ここでしばし熟考…………だん。
……だんっだんっ、だんだんだんだんだんだん! と。
通算、一五七〇五回目になった時、一人の侍女が勇敢にも声を掛けた。
「こ、光凛さまっ」
満面の笑みなのだが、顔は青ざめ、良く見れば口元も引き攣っている。
光凛は腐った――死んだ魚のような目を眇めて振り返るが、彼女の手元にある山積みの団子を認めると、微かに顔を綻ばせた。トレーに乗せられた皿とお茶がかちゃかちゃと忙しくダンスを踊ってはいるが、それは良しとしよう。
「だんご……」
「は、はいっ。本日のお団子は『甘星茶屋』の品にございます」
甘星茶屋。
その言葉を聞くなり、光凛の目は煌めき、怒りがみるみる収まっていく。
それもそのはず。
甘星茶屋とは白鳳内でも名高い茶屋であり、そこの団子を得るには日が昇る時を待たずして並ばねばならない。そしてその評判に恥じぬ、絶品としか言いようのない団子は、しかし安価で庶民からも絶大な支持を得ている。
無類の団子好きである光凛にとって、その茶屋は神聖なる建造物だ。
町が居なく、我が兄よりもそこの主人を敬愛してやまないのである。神とさえも思っている。
「よく買えたね」
「ええ、それがですね光凛さま。光宿さまが自ら茶屋に赴いたのです。――たまには兄らしく、妹を可愛がらないとな。だそうで」
実際は、
「そ、そろそろ機嫌を直してもらわねーと、俺の身がっ」
と、毎日八つ当たりで三食を大豆一粒にすり替えられている光宿が、朝早くから庶民に混じり、泣く泣く茶屋に並んでいた事は口にしない侍女。それも一つの兄弟愛だと思っているのだろう。
コロコロと笑う侍女を見て、兄である光宿の顔を思い出す。
一瞬、あの馬鹿面に苛立ちを覚えるが、そんな優しい一面を持っていた事を忘れられるわけもない光凛は嬉しそうに微笑み、侍女に頭を下げた。
迷惑を掛けた、と。
皇位に属しているのにも関わらず、殊勝な性格を持つ光凛だからこそ、愛されて止まない。頭を下げる光凛に対し、侍女も「か、可愛いっ」と目を輝かせている。
場所を客間に移した光凛は山積みの団子は一人で食べきれないからと、侍女にも勧めた。侍女は遠慮もせずに、それでは、と一緒になって団子を頬張る。
この二人の関係を見れば、光凛がどのような人物が解るだろう。決して権力を背に胸を張る者ではない事が。
と、怒りなどとうに忘れかけた頃、光宿が資料を片手に顔を出す。
笑顔で会釈する侍女に微笑みを返し、無表情ながらも機嫌が良い光凛を見て安堵の溜め息をそっと吐いていた。
「光宿……。ありがと」
「ん? ああ、団子の事か。気にすんなって」
「でも、嬉しい……から」
恥ずかしそうに頬を赤らめ、もぐもぐと団子を食べる光凛に侍女はうずうずした様子で見つめている。抱き着きたいのだろう。
光宿は光凛の隣りに座り、頭を撫でる。
すると、光凛は微かに呻き、小鼻を膨らませた。
何だかんだ言っても、兄の事が好きなのだ。勿論、家族として。
それを知らないだろう光宿は、持っていた資料を断りを入れてから広げる。
そこにはスクライド王国の兵士の情報――特殊戦場攻略部隊・砕羽の情報が何枚ものフィルムにも渡って収められている。
光凛は眉根を寄せるが、特に不機嫌になったわけでもなく、団子を片手にページを捲っていく。
由来や戦場の役割などどうでもいい。
隊長であるミゼリアの写真には手を止めたが、すぐに飛ばす。
名を轟かせるクルスも然り。
やがてその手が止まる頃には、資料のページもあと僅かになった所であった。それを見た光宿はにやっと笑う。
「やっぱそこか」
「……う」
そのページには樹楊の写真と彼にまつわる情報が所狭しと記されている。
初めて見た樹楊の写真なのだが、まるで恋敵の相手を見るような光凛に光宿は冷や汗を流す。収まっていた怒りが露わになり始め、団子を次々とやっつけていく。
「こ、この男がっ」
ぷるぷると震え始めた光凛に、光宿は長嘆する。
「そんなに怒る事もないだろ」
光凛はその言葉に堪忍袋の緒を切らせ、団子の串を樹楊の眉間にぶっ刺す。
「こいつ、私の胸揉んだっ」
「何時だよ、それ……」
「毎日っ」
「何処で?」
「私の部屋っ。夢の中で!」
物凄く勝手な怒りである。
お前の乳をねぇ……と、光宿は揉むにも値しないような光凛の胸をちらりと見やり、嘆息する。その態度に光凛は薄らと涙と青筋を浮かべて団子の串を振り被るのだが、慌てて光宿が手を押さえて難を逃れた。そうでなければ、光宿の眉間にも串が刺さっていた事だろう。
どうでもいいが、流れによっては一応軍議に準ずるものとなり得る。
それなのにも関わらず、侍女は退席しようとはせず、それどころか光凛の隣りに坐り直すと、寄り添うように資料を眺め始めた。団子を片手に持ちながら。
「樹楊……という方ですか。なかなか精悍な顔立ちですね」
「どこがっ」
と、反論しようとするが、見れば納得。
侍女が言うように、そこそこ精悍な顔立ちである。それに加え、頭脳に関しては父からも太鼓判を得ている男だ。
「お前には持って来いの男だと思うんだけどな、俺は」
ま、見た感じ聞いた通りの男ならな。と、光宿は付け加える。
まるで見合いの写真を突き付けられた気分だ。それが不快で堪らない。
光凛は鼻を鳴らすと最後の団子を手に取り、ページを捲る。何が映っていようが、気にもしないつもりだったのだが、その思いは砕かれた。
そこに映る、大きな一枚の写真が光凛の手を止めたのだ。
光宿はそれに気付き、説明を始める。
「ああ、そいつは流れ者の記者? ……だったか。まあ、そんな感じの女から買ったモンだ。押しつけられた、って言った方が正しいかな。何でも、歴史を変える男達だから…………って、おーい。聞いてるか?」
正直、光宿の言葉など耳に入らなかった。
それほど、その写真に目を奪われていた。
それは、ダラス連邦の地でニーファという役立たずの烙印を押されている記者が捉えた、朝焼けの写真。
柔らかな朱色に染められ、朝風を纏う樹楊とクルスが映った写真だ。
その神聖さが写真越しに伝わってくる。
目を奪う。
心を奪う。
たった一枚の写真なのに。
その瞬間、何故だか解らないが、敗北にも似た感情を抱いた光凛は団子を口にする事はなかった。
樹楊の姿はまるで優しき覇を体現したかのよう。
しかし、それだけで光凛が脱力をしたわけではない。
隣りに立つクルスの姿があまりにも力強く、決して崩せない山のようで……。
クルスに対し、恐ろしいと感じると同時に一種の憧れを抱く。
このような人間になりたい、光宿にとって掛け替えのない右腕となりたい。
樹楊は光宿が得ていないモノを得ている。
それなら、自分がそのモノとなればいい。クルスのような人間に、自分が……。
暫く沈黙を有していた光凛が、ふと顔を上げる。
「光宿、私を必要としてくれる?」
光宿は微笑み、頭を撫でてきた。
「当り前だ」
その言葉に、光凛はこれまで持っていた驕りを捨てた。
自分はまだ足りないものがある。それは大陸制覇を目指す光宿にとって必要なもの。それを得る為ならば、敗北を認めよう。樹楊よりも下であると認めてやろう。だが、いつかは上に立つ。負けやしない。絶対に。
光宿と光凛は見つめ合うとそれぞれ笑みを浮かべる。
互いに有する、負けないという思いは口にせずとも解る事だ。
だが、それは兄妹だからこその意志疎通であり、最後まで同席していた侍女は何故から鼻血を流し、
「禁断の愛っ」
と、興奮していた。
そのお喋りな勘違い侍女の話は、皇帝の耳にまで入ってしまう。
そして激怒した皇帝が走り幅跳びの要領で光宿に飛び蹴りを見舞う事となるのは、その翌日となったのであった。
次章
~ 今、咲き誇る蓮の花 ~