第四十四章 ~仔猫はその目線でニャアと鳴く~
朝日が昇り、薄い朱色だった世界も透明に染まりきると、一時間だけ仮眠を取ったクルスは大きく伸びをして首を鳴らす。そんな程度で体力の全てが戻るわけではないが、戦慣れしている所為か気にもならない。極種とまで呼ばれた木人の血が混じっているお陰もあるのだろう。ぐったりとしているサルギナ軍と元グリム軍とは雲泥の差だ。
「クルスの兄貴、元気いっぱいっすね……」
気性の荒さが顕現されたかのように顔に刺青を入れたサルギナの部下が、疲れきった顔で感心してくる。敵同士だったというのに、いつの間にか兄貴と呼ばれていたクルスはミルクを一気に飲むと、空になったその瓶を手渡して曖気をする。
「まーな。これでも砂嵐の頭領だったじゃんね。体力には自信がある。けど、ま、お前らはゆっくり休んどけ。昨日は激戦だったし、そのまま戦地に来られても困る」
「面目ないっす。それと、頭の事……本当に感謝してます」
流石、一番近くでサルギナの事を見てきただけはある。サルギナの精神状態をよく解っていたらしい。あのまま放っておけば武器を捨てていたかも知れないほど、大きなショックを抱えていたのだ。それでも今は平気だろう。ソファーに寝転がって寝息を立てるサルギナにタオルケットを掛けた部下は低頭すると、欠伸を殺して部屋に戻っていく。クルスはそれを見届けた後、真っ白な戦衣に袖を通し、剣を背に携える。
朝が来たと言っても、街はまだ寝静まっている。
朝食の準備を整える主婦や、散歩をする老人以外は夢の中だろう。
宿の扉を開け、新鮮な空気をいっぱい吸い込んでニコチンだらけの肺が浄化されたような錯覚を得ると、サングラスを掛ける。向かう先は樹楊の元だ。居場所は特定出来ないが、何とかなるだろう。それに少しばかり胸騒ぎもする。
始まる一日へと足を踏み出すと、
「クルス……ありがとうな」
背を向けて寝転がっているサルギナが呟いてきた。それに対しては何も答えず、扉を二度ほどノックして乾いた音を立ててやる。以前の自分であれば、感謝の言葉を聞くような事などしなかっただろう。変われば変わるもんだな、と自分を褒めてやり、クルスは街を駆け抜け、北西を目指した。
◆
クルスが街を出る頃、深い森の中にいた樹楊は赤麗の面々に囲まれながら治療を受けていた。それでも意識はミゼリアの方にばかり向き、自分の麻痺など気にもならなかった。紅葉と別れた赤麗のメンバーがここに来たのは、叫ぶ樹楊の声が聞こえたからだと言っていた。そして医療技術をゼクトから継いだクレハが居る事は幸運だとしか思えない。
「クレハ、ミゼリンは助かるのかっ?」
「………………正直、難しいです」
その言葉に身を乗り出そうとするが、他のメンバーに押さえられて身動きが取れなかった。それには麻痺も加担している。クレハ曰く「脈はありますが、失血量が多過ぎます。加えてダメージも大き過ぎて……」
それは諦めろ、と言うのか?
黙って看取れと言うのか?
込み上げてくるのは理解不能な怒りと悲しみだった。それが涙となってボロボロとこぼれ落ちていく。マスクの中で気化する解毒剤を吸い込み、身体からは痺れと力が抜けていく。どうすればいい。それだけを考えていると、クレハが医療器具を治めているポーチに手を突っ込んで様々な器具や薬品を取り出した。中には流通が規制されている薬草や毒草などもあった。
「流石はゼクトさんです。欲しいものがある」
もう一度、大丈夫なのか訊こうとする樹楊だったが、それを止めるのもまた赤麗のメンバー。集中させてあげて、と優しく。それに対して素直に頷く樹楊が見つめる先で、クレハは腕まくりをすると手の平を合わせて肩を張る。するとクレハを中心として、一度だけ風が円系に広がりながら吹き抜ける。
「な、何だ今のは」
「医療結界、と言うのかな? よくは解んないけど、クレハの気術だよ」
「気? クレハは白鳳の奴なのか? あれってゼクトも使えたのか?」
「クレハが何処の出身かは解らないけど、ゼクトさんはアレを使えない。アレは彼女のオリジナルだから」
医療結界とは目に見えぬ結界で、決して回復をさせるだとか、そういう便利なものではないらしい。何でもその結界を張る事で内部を抗菌し、無菌の空間を作る事が目的だとか。そしてそれは、使用する薬品が菌類に弱い時に使用する事もあるのだと赤麗のメンバーは教えてくれた。
ひらひらと舞う木の葉がクレハに近付こうとするが、目に見えぬ何かに弾かれ進路を変えられると大空へと舞い上がっていく。そんな事にすら気付かないクレハは薄いゴム手袋をはめた途端、ずらっと無作為に並べた薬品へと素早く手を伸ばす。
液体・固体・粉末……数多くある薬品から的確な分量だけを取り出し、その速さには瞬きを忘れるものがあった。医療に携わっていない樹楊からすれば、いい加減にやっているようにしか見えないのだが、次々と生成されていく薬の配合は一つとして間違えていない。その姿に樹楊は納得した。あのゼクトが後を継がせるわけだ、と。
クレハの治療は何の滞りもなく終わり、その頃には樹楊の下半身にも僅かな力の伝達が可能になっていた。満足には動けないが、これで羽を失った鳥ではなくなったというわけだ。ミゼリアは安らかな顔で眠っているが、それでも危篤状態である事には変わりはないとクレハは言う。一刻も早く、スクライド城内で最善の治療をする必要がある。だけどそれでも助かる見込みは少ない、と。それを聞いた樹楊は顔色を変えるとミゼリアを担いで、スクライド城を目指そうとするが、足が覚束無い。そんな状態ではスクライドに着く前に敵に遭遇してしまうのが目に見えている。そして赤麗には別の任が与えられている為、スクライドへ戻っている暇などない。たった一人の為に、大衆の命が掛かっている戦をないがしろに出来るわけがないのだ。
だから樹楊は自らが行くと言う。敵に遭遇したらしたで、それは運次第だとも。
運任せに事を運べるのであれば、何も苦労はない。それでも行かなければ、ミゼリアを一刻も早く連れて行かなければ……。止める赤麗を振り払い、何歩か歩いたところで、それだけで樹楊は足をもつれさせてしまう。
こんな調子だと、どう頑張ってもミゼリアを救う事は出来ない。そんなのは嫌だ。諦めたくない。こんなところで死なせてなるものか。強い思いに駆られる樹楊に手を伸ばしたのは、長い前髪で片眼を隠し、マスクで鼻と口を覆うカヲルだった。
情報収集が役割の彼女であれば、スクライドへ向かう時間がある。赤麗のメンバーはそう思ったのだろう。何も言わずにカヲルと樹楊を見ていたのだが、次の瞬間、目を見開いて驚愕をしていた。
「頼めるのか?」
「ええ。必ず無事にお連れします」
「じゃあ……頼む。ミゼリンを死なせないでくれ」
「はい。ご安心下さい」
呆然としていたクレハだったが、状況を理解するとカヲルを呼び止め、紙を取り出してペンを走らせる。そしてそれをカヲルへと預けた。カヲルは目線のみで疑問を飛ばすと、クレハは半歩引いて口を開く。
「それは治療に使用した薬品です。向こうで再治療するに当たって、投与する薬剤によってはショック反応が起こりますから、念の為……です」
告げ終えたクレハだが、カヲルにじーっと凝視されると自分が何か悪い事をしたかのように謝罪の言葉を口にした。気が弱いのだろう。こんなのが赤麗のメンバーなのか? と、疑問を持つ樹楊にカヲルが目を合わせてくる。そして微かに低頭した。
「それでは」とカヲルは樹楊を超える素早さで森を疾駆するとゴムボールが弾んだように三角跳びを繰り返してあっという間に木の上に登る。そして音もなく、消えていった。カヲルがクルードから送られてきた紅葉の暗殺者である事以外は謎なのだが、彼女の言葉に嘘はなかった。そもそも嘘を吐く理由などない。根拠もない安堵を僅かに覚えた樹楊は木に身体を預けながら地にへたり込む。まだ自由が利かないのだ。立っているだけでも疲れる。そんな樹楊を、驚愕の眼差しで見つめる赤麗の面々。
「カヲルが喋った……」
「喋り、ましたね」
「ハスキーな声なんだな」
それぞれの反応に、うん? と首を傾げる樹楊。
そこに品のある顔立ちをしているメンバーが詰め寄ってきた。
「アナタ、何者なの? あのカヲルが喋るなんて……信じられない」
「そういや、紅葉も「カヲルは喋らない」って言ってたな。そんなに無口なのか?」
「ええ。カヲルは頷くか首を振るか、それだけで答えてきたから」
少しばかり疑惑が乗った眼差しを受ける樹楊だったが、赤麗は本当に時間に追われているらしく、任を思い出すと足早に去ろうとした。しかし、樹楊はクレハを呼び止める。何でしょう? と可愛らしく首を傾げるクレハに、スイを指差してやる。
「あいつも頼めるか?」
ぽかーん、とスイを見つめるクレハだったが、
「はいっ。解りました」
邪気の無さそうな笑顔で受け入れてくれた。
それに対して、当然激昂する赤麗の面々だったのだが、樹楊は何故か解っていた。
ミゼリアは仕留め損ねたのではなく、自らの意思でスイを殺さなかったのだと。鉄扇が刺さる間合いに居たというのに、スイが生きている事がその証拠の一つだ、と思う。ミゼリアは決して弱くはない。そして何度も繰り返してきた訓練によって染み付いた剣の軌跡が、あの一度だけ変わる事はないと思うのだ。ミゼリアはきっと、寸前で剣を引きながら振り下ろしたのだろう。
「どうせスイは動けない。責任は俺が持つから、見逃してくれ」
紅葉の想い人である樹楊に切な願いを口にされて、強く言えない赤麗はぐっと言葉を飲み込むとクレハに早く追い着くようにとだけ残してこの場を後にする。
治療しながらクレハは、
「樹楊さんはやっぱりステキな人です」
「適当なだけだって。それより、お前も他のメンバーとは違うな」
「私、戦うのが苦手でして……」
苦笑しながらてきぱきと治療をするクレハを、スイは睨んでいた。しかし動けぬ事に苛立ちを感じているのだろう。荒い呼吸をし、目線を樹楊に流してくる。
「何のつもりだ、テメェ……。お前らのやってる事は、反逆に等しい事だぞ」
「知るか、んなもん」
「そもそも、ミゼリアを殺そうとした、いや、もしかするともう死んでるかもしれねぇんだぞ?」
「そのミゼリンがお前を殺したくななかったんだろ。今ここでお前を殺すのは簡単かもしれねぇけど、それをやっちまったらミゼリンが残した思いを蹴飛ばす事になる。それだけは出来ねぇ。ミゼリンが死んじまうんなら尚更だ」
スイは何かを言い返そうとするが、言葉を飲み込むと舌打ちをする。それでも何も出来ない事を再確認した樹楊は、感覚が欠けている足に力を入れてよろめきながらも立ちあがった。木に手を添えて右足を引き摺るように歩き、クレハに精一杯の気持ちを込めた礼をするとこの森を抜けるべく、東を目指す。その後ろ姿を見ていたスイだったが、荒っぽい声で呼び止めてくる。
「私は感謝なんかしねぇ。次に会う時は命がないものと思えよ」
「お前こそな。ミゼリンが奪わなかった命は今回だけだ。次に会う時は殺してやる」
スイの命を見逃したとはいえ、樹楊とて内心穏やかではないのだ。仲間であり上官であり、そして友であるミゼリアが死ぬかも知れないというのに、へらへら笑ってなどいられない。もしクレハが来なければ、怒りに心を焼かれてスイを殺していただろう。
朝日が二人の横顔を照らす中、二人は黙って睨み合っていた。治療を終えたクレハは険悪な雰囲気に固唾を呑み込むと静かに離れていく。そんな気弱なクレハにもう一度礼を言うと、微笑みながら頷いて既に去って行った仲間を追い駆けた。
「スイ、お前とは仲間でありたかったと思うよ」
まさかそんな言葉が樹楊の口から出てくるとは思いもしなかったのだろう。スイは虚を衝かれたように言葉を失うと、去っていく樹楊の背中をただ見続けていた。そしてその姿が見えなくなると森に抱かれるように寝転がって大の字になる。そして深呼吸を一つと溜め息を一度。
「オルカさま……。負けちまった」
眩い太陽の光を拒絶するかのように腕で目を隠すと、口端を持ち上げる。そして、腕に影を落とされていた頬には、小さな小さな雫が伝っていた。
◆
その頃、とある廃虚では闇商人たちが眠りから覚めて気だるそうに店を構え始めていた。鮮魚やら果物、野菜などを売る事などない闇市には朝っぱらから客が来る事など皆無であり、それでも万が一を考えて開店の準備に取り掛かる商人たちはやはり商人らしい気質の持ち主ばかりで、金に貪欲な気質が見て取れる。
その中には樹楊と親しいスネークも混じっていて、こちらも寝惚け眼を擦っては大きな欠伸をしていた。スネークの店は他の店とは違って武具などをメインとして置いている為、一日を通しても客が来ない事の方が多い。それでも一品に占める儲けが大きい為、年間を通せば売上高もそれなりにはなる。樹楊が武器の転売を止めたとしても、大した支障はない。それどころか、売り物にならないような普通も普通の武器を売りつけられないだけで収支のバランスは良好だ。
さて、今日は客がくるかな。と、大した期待もせずにテントを組み立てていたのだが、正面に構えているはずの店の主であるナーザの姿が見当たらない。いつもなら既に店の準備を整え終えていて、インスタントのコーヒーを飲んでいるというのに。珍しく寝坊だろうか? と、早くモーニングコーヒーにあやかりたい思いから、ナーザのテントの中を覗いた。
すると、ナーザは既に起きていて……。いや、起きているのだが、何故か臨戦態勢になっている。頭に布を巻いてその影になる鋭い眼を更に尖らせている。サラシだけを巻いた上半身には丈が短くて半袖のレザージャケットを纏っていて、背中には双剣が携えてあり、革手袋をはめていた。そして襟の中に隠れてしまった栗毛の髪を中から払うように外へと出してなびかせる。
「ナーザ、どうしたんだ?」
「ん? ああ、スネークか」
ナーザは落ち着いているように見えるが、殺意を燻らせているのが解る。口元は笑っているが、目が酷く尖っているのだ。今のナーザに迂闊に触れようものなら、その手は斬り落とされるかもしれない。多くの修羅場を潜り抜けてきたスネークでさえ、怖気づいてしまう。それだけの威圧感がナーザにはあった。
「今からラファエンジェロを殺しに行く」
「ラファエン……って、お前っ。本気かよ!」
「本気だ。あいつは死んでいった仲間の思いを無視してまでクルードのガキに付いたクソヤローだ。今は大戦中だしよォ、中々外に出てこねぇアイツもいるんだ。逃す手はねぇんだよ」
ナーザとラファエロはかつての仲間だった。
やたら気性の荒い盗賊で百戦錬磨の猛者達。そしてそれを束ねるのがラファエロであり、ナーザはその副頭領だった。そして、元恋人でもあった。だが、今から三年ほど前。盗賊の討伐を命じられた殲鬼隊に破れ、多くの仲間が命を亡くした。その殲鬼隊を束ねていたのがオルカであり、ナーザは敗北し、いつの間にかラファエロはオルカに忠誠を誓っていた。その時、ラファエロは死んだものと思い込んでいたナーザが仇打ちに行った時、オルカの隣に居たのは、ラファエロだったのだ。
ナーザは食料も喉を通らないほどにショックを受け、衰弱しきったところでスネークに助けられる運びとなった。スネークはその時のナーザをよく覚えている。今の猛々しさはなく、何とも弱々しい存在だと思った。言葉にはしていないが、暴行を受けた後かとも思ったほどだ。そしてスネークは商売のイロハをナーザに教え込み、今日まで生きてきた。
「おい、ナーザ。アイツの事は忘れろ。そんな過去なんか捨てろよ」
「そうはいかねぇんだよ。悔しいけどよ、夢に出てくる笑っているアイツの事が今でも好きなんだ。目が覚めれば、どうしようもなく泣けてくる。……情けねぇよ。もう二度と戻れないってのによォ。だから過去を断ち切りに行く必要がある」
ナーザはポケットからバングルを取り出すと、それをスネークに投げ渡した。銀色で、奇妙な模様が彫られた細いバングル。
「そいつは値打ちがねぇモンだけどよ、受け取ってくれ」
「ナーザ……死ぬ気かよ」
「中途半端な覚悟じゃアイツはやれねぇ。だからもし万が一の事があったら、この店のモンはスネークにやるよ」
じゃあな、とすれ違いざまに肩を叩いてくるナーザの顔は穏やかでもあった。その顔は見た事がある。自分は兵士なんかではないが、死を受け入れた者の顔くらいは見た事がある。それと同じ顔だった。ナーザは本当に……。
スネークはナーザの手首を掴むと、自分のブレスレットを巻いてやった。それも大した値が付くわけでもない、ただのブレスレットだが、結構気に入っていたアクセサリーの一つで、これだけは肌身を放した事はない。
「必ず帰ってこいよな。お前の店のモン、多過ぎんだ。いっつも高値を付けやがるから売れねぇんだよ。貰えんのは嬉しいが、せめてもう少しは減らしに帰って来い」
「……仕方ねぇな、お前は。そんなにアタシの事を好きになってどうするよ、アホ」
「るせぇ。惚れさせたのはお前なんだよ。だから死ぬな。俺は惚れた女が死んで笑って生きていけるほど神経が太くはねーんだからな」
和らいだ表情を見せたナーザは、スネークの顎に手を添えると頬に唇をそっと重ねる。そのキスが最後の挨拶のようで、スネークの表情は少しばかり曇る。それでもそんな暗い表情で送り出すわけにもいかず、顔を見合わせる頃にはいつもの顔を心掛けた。ナーザは自分の事を『俺』ではなく『アタシ』と呼称した。それは、出会った時から数えるほどしか耳にしなかった言葉であり、そしてその時のナーザは素直な事の方が多い。今も、きっと素直なナーザなのだろう。
スネークは気の聞いた言葉を口にする事は出来ず、穏やかに去っていくナーザを抱き寄せる事も出来ず、不甲斐ない自分に腹を立てて樹楊の顔を思い浮かべた。お門違いなのは解っている。だけど、ナーザの力になってほしい。それを望むナーザではないが、死んでほしくはないのだ。まだ一緒に笑い合いたい。闇商人になってから初めて見た太陽なのだ。荒っぽくて男勝りだが、弱いところもあって、意外と女らしい面もある。そんなナーザが好きなのだ。
スネークはナーザのテントを出ると、バングルを手首にはめて騒がしくなってきた闇市に目を向ける。そこにはナーザの姿があるわけもなく、ただ眩しい朝日に目を細める事しか出来なかった。
◆
バリーは窓辺から外を見続けているサラに目をやりながら、目覚めの紅茶で唇を湿らせていた。サラは大戦が始まると、いつもこうやって一日中外を眺めている。何も変わり映えのない景色を、飽きもせずに。それは結構なのだが、出来れば自分の部屋で黄昏てほしいものがある。毎日毎日、目を覚まして始めに見るのが曇天よりもどんよりとしたサラの顔なのだ。それが結構辛いものだったりする。何も一日の始まりは笑顔から、と決めているわけではないのだが、そこまでダークなオーラを惜しみもなく発せられると当たり前のように気分が滅入ってくる。
気を利かせて、それでも『飲まないかもな』と思いつつ甘めのコーヒーを淹れてやるのだが、それだけはちゃっかり飲み干すサラ。こそっと御代りを注いでやれば、狙ったかのように喉へと通すサラ。こちらを見向きもしないくせに、解ってるようだ。クッキーを出せば、勿論残さずに食べるのだから性質が悪い。普通、こういう時は食欲などないのではないだろうか。
そんな思いで紅茶を飲んでいると、いつの間にか赤褐色の猫が足元に居てお座りをしていた。そしてこの猫が普通の猫ではない事くらい、もう解っている。この猫は獣人目のメノウであり、名はミネニャ。サラに懐いていて、いつの間にか自分が食事係になっている。
「あにゃっ」
「おお、すまんすまん。今作るから待ってろ」
「うにゃー」
「解ってる。温めだろう?」
丁寧に返答してやると、ミネニャは満足したように喉を鳴らしてソファーに飛び乗る。そして前足で顔を洗い始めた。ここ最近猫っぽくなってきたな、と密かに思いながらキッチンに向ってミルクを温める。温度は温め。そうじゃないと、猫舌であるミネニャが火傷をしてしまう。以前、うっかりして熱々のミルクを出して火傷させてしまった時は、一日中追い回されたものだ。その所為で『一日中、城内を猫と追い駆けっこしている暇な人』と部下の間で囁かれてしまったのだ。いくら眠くても、温度だけは守らないと。
火を掛けた鍋に入れたミルクの上に手の平を水平に添えて、湿った暖かさがじんわりと伝わってきてから五秒がミネニャの指定する温度だ。バリーはその温度を愚直に護り、樹脂製の器に入れ替えてミネニャに持って行く。すると、ソファーでくつろいでいたミネニャが顔だけを上げて尻尾をゆらゆらと振る。
「うにゃ?」
「おう、ばっちりだ」
ミネニャは微かな湯気で鼻の頭を湿らせるように匂いを嗅ぐと「あにゃ」と、バリーに一鳴きする。ばっちりだ、と言っている。バリーは「そうだろう、そうだろう」と得意げに返すと、また紅茶を口へと運ぶ。と、何気なく横を見れば、サラがきょとんとした顔で見てきていた。
「おっちゃん、解るようになったんだ?」
「そりゃ、毎日作ってるからな。いい加減に覚えるさ」
「そうじゃなくて」
サラは美味しそうにミルクを舐めるミネニャに視線を移すと瞬きを一度してから再度目を合わせてくる。
「ミネニャの言葉の事だよ。前は解らなかったでしょ?」
そういえば。
別段、気にもしていなかったが、ミネニャの言葉を理解している。
あにゃ、とか、うにゃ、とかしか鳴いていないのだが、声音で何となく理解出来ていた。確かに以前は猫型のミネニャの言葉など理解不能で、やれ「動物愛が足りない」だの、やれ「最低」だの、挙句の果てには「死ね」とまで暴言を吐かれていた。そんな事を言われても自分は人間だし、そもそも猫の言葉が解る人間の方がおかしいだろ。と、思いもしていたのだが、どうやらいつの間にか自分もミネニャの言葉を理解出来るようになっていたらしい。一瞬、部下に自慢しようかとも思ったが、きっと「メルヘン病ですか?」などと蔑まれた目で笑われるのだろうと想像出来、自慢にもならない特技だな、と脱力をする。
それでも、まあ。
「ふにゃっ」
「そうか。美味いか。クッキーもあるが、食うか?」
「にゃにゃっ。うにっ」
バリーは笑顔で頷いてクッキーを保存している缶を取り出し、リクエスト通り、中からチョコレート味のソフトクッキーを取り出す。ミネニャは足元でうろうろして待ち切れないといった様子だ。そんな光景を見れば、まあ、いいか。とも思える。
すっかり仲が良くなったバリーとミネニャを見ていたサラが、幸せそうに目を細めて笑いを含む。どうしたのか尋ねれば、サラは優しい弧を描いていた目の線を、ふと悲しげなものに変えた。
「おっちゃんを見てるとね、異種族の壁がないように見えるの。けど、実際はそうじゃない。そんな簡単なものじゃないんだって思うと、何だかやるせなくて」
その言葉には重みがあった。
樹楊と親しい者達はサラに抵抗を持っていないようだが、このダラス連邦では偏見が未だにあるのだ。目玉そのものが緑色のサラは気味悪がられていて、近寄る者は少ない。以前、食料庫内のチェックをしていた若者はサラの事を気に掛けてくれてはいるのだが、その他は畏怖なる目を向ける。サラの事を他の者よりも知っているバリーにとっては気分がいいものではないが、決して咎める事は出来ない。何せ、亜種族というものは珍しく、それだけで驚異なのだ。害はないというのに。
ソフトクッキーをもふもふ食べているミネニャを撫でていたバリーは、気の利いた事を探すが、どうしても見付ける事が出来ない。上辺だけの言葉であればすぐに見付かるのだが、そんな薄っぺらいものは口にしたくなかった。もし樹楊であれば心に響く言葉を紡ぎ出したのだろう。それが羨ましく、自分の不器用さが身に沁みたバリーだった。
そんな暗鬱な思いを引き摺る一日は過ぎるのが早く、しかし造船の仕事が手に付かない。それでも時間は流れ、気付けば就寝の時間となっていた。
バリーは水色のパジャマに着替えるとベッドに寝転がってタオルケットを腹に掛ける。僅かに開けた窓から涼しい風が控えめに入り込み、頬を撫でていく。二期の星空は四期のそれと比べて圧巻ではないが、それでも美しい夜空だ。月が星空を舞台に優雅な輝きを見せ、こんな夜だというのに樹楊達は死に物狂いで戦っているのだろう。サラは今も起きて、その方角を見ているのだろうか。あの神秘的な瞳にあの男を映しているのだろうか。そしてあの男にサラの思いが届いているのだろうか。
どうしても寝付けない夜にそんな事を考えていると、窓からミネニャが入ってきた。サラの部屋から抜け出してきたのだろう。ゴロゴロと喉を鳴らすと、んにゃ……と、弱々しく鳴く。どうやらサラに元気がないらしい。その顔を見るのも辛くて、この部屋に来た、と言っていると思う。
「ここで寝ても構わんぞ。俺も寝付けなかったところだ」
ミネニャは猫独特の猫目を細めると、バリーの腹の上に乗って身を丸める。いつもであれば退かすのだが、今日ばかりはこの重さが心地良かった。サラの事ばかりを考えていたが、ミネニャも同じような事で悩んでいるのだろうか。ミネニャは人型になっても猫耳だし、尻尾もある。木人とは違って、獣人目は少しばかり知られている存在なのだが目にしてきた者は少ないだろう。その数を数えるのも、片手で足りる。樹楊の躾が良かったのか、ミネニャは人が起きている時間の多くは猫になっている。そのお陰でミネニャが獣人目である事はほとんど知られていない。それがいい事なのか悪い事なのか。
バリーは、人の心とは何の為にあるのか。そんな事を考えながら眠りについた。
そして翌朝。と言うか、まだ日も昇らぬ薄暗い未明の時間帯にバリーは部屋を出た。
ミネニャを起こさないようにそっと枕元に移し、深緑色の作業着を着て外を出たバリーは豪快な欠伸をすると目を擦った。体格に恵まれ、人相も悪く、それに加えて目元にクマを作れば凶悪犯も真っ青な極悪人の完成となる。もし今のバリーを子供が見れば、生まれたばかりの小鹿よりも震えながらか細い声で母親に助けを求めるだろう。しかし今は誰もが寝静まっている時間帯だ。そのお陰で騒がれる事無く、街を闊歩出来る。
あれから眠れなかった。
サラやミネニャの事ばかり考えていて、睡魔も近寄ってこなかったのだ。
今日は忙しくなるというのに、絶不調もいいところ。
バリーが坊主頭を掻いてもう一度欠伸をすると、まだ幼さが残る女の声が背を叩いてきた。何だこんな時間に、と思いつつ振り返れば納得。
声を掛けてきたのは、元クルード兵で樹楊の計らいによりダラス連邦へと身を寄せたココナだったからだ。ココナは二交代制の勤務で、今週は夜勤であり、今仕事を終えたらしい。作業着の上着を腰に巻いて泥だらけの顔を見れば、大分たくましくなったなと感心する。来たばかりの時は意気込みだけが空回りして頼りなかったのだが、今となっては作業着が似合うまでとなっていた。
「バリーさん、眠たそうですね」
「ああ、寝付けなくてな。今帰るところか?」
「はい。鉱山での作業はとても気持ちがいいです。ご飯もおいしく食べれるし、気持ち良く寝られます。こんな事なら鉱山学を勉強しておけば良かったと思っちゃいます」
鉱山での仕事は重労働で、男がやる仕事と言っても過言ではない。それなのにココナは満足だと言う。身体も小さいのに。クルードでの兵としての生活がどれほど苦だったのか、想像が出来ない。ココナが充実した日々を送れるのも、やはり樹楊のお陰だ。
全くあの男には敵いそうにもない。あの男の目は、小さなところにまで向けられているのだな。もし樹楊が頂点に立てば、どれほどの民が幸せになるのだろう。異種族との隔たりはなくなるだろう。馬鹿げた争いもなくなるだろう。自然を大切にし、それでも国家は発展するだろう。孤児というのもなくなるだろう。
あの男が引っ張りだす可能性は未知数だ。それがバリーの樹楊に対する評なのだが、それでも過小評価だと思っている。軍事馬鹿の自分とは見ているものが違い過ぎる。
「――さん? バリーさんってば、聞いてます?」
「ん? おお、悪い悪い。何だ?」
深く考え込んでいたらしく、何も聞こえていなかった。自分らしくもない。今は自分がすべき事をするまでだ。
バリーは腕を組んで、まだ世の中を理解出来ていない仔犬のように首を傾げているココナに目を移した。すると、ココナは腹の虫が控えめに鳴く腹を撫でて、にんまりと笑う。
「ラーメン食べにいきません? 奢っちゃいますっ」
「……俺は寝起きだぞ」
「街中に今でも開いている店があるんですよーっ。夜勤者には嬉しいです。ちなみにそこのおススメは、デカ盛りもやしチャーシューメンです」
「だから俺は寝起きだと言っ」
「さーさー、行きましょうっ。お腹ぺこぺこです」
朝はパンと決めているバリーなのだが、ココナの有無を言わせない誘いに負け、部屋に胃薬はあったか……などと溜め息を吐きながら小さな背中を追う。ココナはギョーザも美味しいと教えてくれるのだが、今は丁重に断りを入れておいた。ココナは仕事明けでガッツリと食べたいのかもしれないが、生憎自分は寝起きだ。いや、寝てはいないが、それでも寝起きと言い張る。そんな浮かない気分を引き摺りながら街に入ると、当たり前と言うべきか、賑わってなどいなかった。しかしココナと同じく、夜勤明けの労働者がちらほら見える。そしてその労働者の食欲を利益と見込んで、未だに営業中の店も何軒かあった。
バリーの知る明け方、あるいは深夜の街は静まり返っていて灯りなどほとんどなかった。吹く風は寂しそうに通り過ぎるだけで、そこに存在価値がないように流れていく。空気も重くて、笑顔などそこにはなかった。それが今はどうだろう。油にまみれた作業着を着て、泥だらけの汚らしい顔を楽しそうに崩して……。誰が見ても充実した日々を送っている者達の姿を認める事が出来る。
これが今のダラス連邦……?
本当に悪政が浸透していたダラス連邦なのか?
決して賑やかではないが、明るくはないが。
そこにいる人達は『笑顔』を持っていた。
まるで別の国に来たかのような感覚を身に滲ませながら辿り着いたラーメン屋は小さく、年季が入った木製の店舗だった。狭い通路を挟むのは、三つのテーブルとカウンター席で、壁にはお勧めメニューがプラカードに書かれてぶら下げられている。
「いらっしゃい、ココナちゃん」
「あいよっ。今日はバリーさんと一緒に来ましたー」
ココナが元気よく返事をすると、店主とたった一人だけの客が動きを止めてバリーを見た。まるで静止したかのような時間の中、唯一動いているのは奥で大きな鍋を振っているバイトらしき少年だけ。ココナは不思議に思っているが、バリーにはよく解っていた。自分が歓迎されるべき人間ではない事を。
淀んだ政治に手を染めていたのは国の頭首と政治家なのだが、軍もそれに近しい存在であり、純国民であるアシカリの民を見捨てていたのだ。その代わりに、多くの利益をもたらしてくれる行商人達などを贔屓してきた。こういったこじんまりとし店舗を構えている人達の多くは純国民であり、ずっと辛い目を見させてきたのだ。今更どんな謝罪を述べても、それは言い訳にしかならない。
それでも自分がやってきた事を否定する言葉を口には出来そうにもないバリーは、これ以上嫌な思いをさせたくないと考え、踵を返そうとした。それなのに。
「アナタがバリーさんですかっ? 噂はかねがね――、どうぞお座りになって下さい」
予想の反対をいく反応に呆気取られたバリーだったのだが、ココナの小さな手に引かれると大人しくカウンター席に腰を下ろした。店主が満面の笑みで注文を訪ねて来ると、横からココナが「いつものっ」と指を二本立てる。ココナは常連らしく、それだけで店主に伝わっているようだった。それよりも不可思議なのは、店主の反応だった。蔑まれる覚えは十二分にあるものの、歓迎される覚えなどない。何がおきてるのやら、と七味唐辛子と睨めっこしていると、後ろから声を掛けられる。中年の男性で不精髭が良く似合う、力仕事にはうってつけの身体つきだ。それでもバリーと比べれば華奢の部類に入るが。
「俺に何か用なのか?」
いや、と身を引く男を見ると「言い方を考えれば良かったな」と反省する。どうにも自分は柔らかい反応とは無縁で、ぶっきらぼうにしか返答できない。その所為で部下達からも距離を取られる事がしばしばあった。そしてこういう時は、萎縮した相手が言葉を呑んで頭を下げるのだが、この男は違った。
「用ってほどのモンじゃないんですがね、一言礼をと思って」
「礼? そんな覚えなど俺には……」
男は恥ずかしそうに鼻の頭を掻くと、
「いやいや。何度礼を言っても足りません。俺達に職を与えてくれたじゃないですかい。腐っていくだけのこの街にバリーさんは手を差し伸べてくれた。それが俺達にとっては嬉しくて堪らないんです。造船や鉱山、アシカリ地区の区画整備や拡大。他にもいろいろ……。その為に国と喧嘩したとお聞きしました」
「それは確かにそうだが……」
男の言った事は事実だった。
確かに文官の連中や臣下と、そして頭首とも口論を繰り広げた。利益の見込めない計画を頑なに反対してきたのだが、何度も何度も訴える事によって今回の大々的な計画が実現された。しかし、それを提案したのは自分ではない。あの樹楊なのだ。自分には思いつきもしなかった事を、あの男が夢と共に持ち運んできたまでの事。だから自分が礼を言われる人間ではない事を重々承知している。そしてそれを簡潔に口にしたバリーだったのだが、
「それでもっ」男は力強く言葉を返してくると「バリーさんじゃなければ、何も実現はしてないと俺は思ってます。その樹楊という少年にも感謝していますが、それもバリーさんの力添えがあっての事。俺は、いや、俺達労働者は本当にバリーさんに感謝しているんです。軍の方々の応援もあって、俺達はどんなに救われてる事か」
感極まったのか、男は目を逸らして鼻水をすするとついでに目を擦る。大した事はしてないつもりだったのだが、これほどまでに男が感謝してくるというのは、今まで相当辛い思いをしてきた証拠でもあるのだろう。
何て事だ……。
国民を護るのが軍であるというのに、何も護れていなかった。
もし大戦でスクライドに勝っていれば、この者達は今も乏しい生活を強いられ……それで、それから…………。
もうそれ以上の事は何も思い浮かばなかった。ただただショックが大きくて、思考が滅茶苦茶になっていた。あの時、樹楊に大鎌をあてがわれた時、自分が死を望んで強行していれば、ダラス連邦そのものが無くなり、スクライド王国の所有地になっていた。そうなれば樹楊が言っていた通り、ダラス連邦という名を持っていた地は早々に見捨てられ、貧困が拡大した事だろう。
『ちっぽけなプライドで国民を見捨てるなよ』
死を望んだ時の、樹楊の言葉が耳の奥で残響のように広がる。
自分はなんて小さな男なのだろう。軍人気質である事は解っている。そしてそれが間違いではないと思っていた。死すべき時は潔く、そして不名誉に生きる事は恥ずべき事だと思っていた自分が恥ずかしい。軍人が命を懸けるのは、己の名誉や誇りの為などではない。国民の為だ。樹楊の言っていた事を理解していなかったわけではないが、それでもどこかピントがずれているように感じていた。しかし、ズレていたのは自分の方だったのだ。
これまでの人生で、これほどショックな事はなかった。しかし、バリーという男は自己嫌悪に何時までも落ち込んでいるような男ではない。こんな自分だからこそ、胸を張るべきだと心得ている。それは。それだけは間違っていない。今まで間違いだらけだった自分だが、これだけは間違いではない。軍の総大将として、造船やアシカリ地区の改変を導く者として、胸を張らなければならない。それが着いてきてくれる者達に見せるべき姿なのだ。
「そうだな。礼を言われるのも悪くはないが、俺も感謝している。こうやって前に歩いて行けるのも、お前達が頑張ってくれているからなのだ。軍人や労働者など、そんな身分は関係ない。俺達はいつも対等でなければな。今、改めて礼を言わせてもらうぞ。――――ありがとう」
男は鼻頭を赤くして袖で目を擦り、隣のココナは微笑んでいた。奥で未だに鍋を振っている少年が何を炒めているのかは解らないが、垂れている鼻水を入れないように注意してもらいたいものだ。
バリーは少しばかり気分が軽くなっていた。こうして労働者と少しは近付けた事が嬉しかった。来て良かった、そう思う。――が。
「いつもの、お待ちっ」
でんっ、と出されたラーメンを見れば、顔が引き攣ってしまう。ココナは嬉しそうに割り箸を手にするが、正直、目の前に出された物の意味が解らない。
洗面器か、と思わせる丼にはもやしが山となっていて、その脇に見えるのはチャーシュー。麺は見えないが、ラーメンなのだろう。しかし、この大きさは……。
「ココナ?」
「何ですか? 早く食べないと伸びちゃいますよー」
「いや、これがおススメのでか盛り何とやらなのか?」
「違いますよー。これはでか盛りじゃなくてドカ盛りです。でかの上です、上。言わば、大盛りの王者ですねっ」
「寝起きでコレを喰え、と?」
「あれ? あれあれー? 食べられないんですか? その大きな身体は見せかけだったんですねー。私の方がたくましいとは意外です」
ふふん、と勝ち誇ったように嘲笑われてカチンときたバリーは割り箸を手に取ると豪快に割った。そして丼に手を添えると、
「それだけの口を叩けるのだ。俺に負けるような事があれば、今月の給料は覚悟しておけ」
「望むところです。もし私が勝ったら、バリーさんの残業分は私のモノです」
不敵な笑みを浮かべ合っていると、店主と労働者の男は固唾を呑んでいた。そして、奥で鍋を振っている少年がタイミングよくお玉を鍋にぶつけてゴングを鳴らす。
結果から言うと、引き分けだった。
勢い良くかっ込んだのだが三口目で咽てしまい、もやしが鼻の穴から放たれた矢のように飛んでいき、それを見ていたココナも麺を鼻から出していた。それからは笑い混じりの、普通の食事になっていた。勝負など放棄し合い、ゆっくりと味わう事にしたのだ。しかし最後は、お互いに負けまいと無言で麺をすすり、スープを飲み干し、丼を置いたのが同時だった。確かに美味かったのだが、あの量は殺人的だ。そして店を出る時も厨房の奥で鍋を振っていた少年なのだが、一体何を炒めているのやら。
どうでもいい事ばかりを思いながら空を仰ぐのは、近場にあった公園のベンチで。
犬の散歩やジョギングをしている人達が通り過ぎるだけの、遊具などない小さな公園だ。塗装が剥がれてみすぼらしいベンチなのだが、ひんやりとしていて気持ちがいい。そこにケロっとしているココナが来て、紅茶を差し出してきた。バリーは身を起こしながら受け取ると、それを喉に流し込む。甘くなくてサッパリしていて、食後には丁度良かった。
隣に座ったココナがコーヒーを飲んでいると、そこに灰色の一匹の猫が現れて、内股気味に揃えていた膝の上に乗っかる。そして一鳴き。ココナが撫でてやれば、もう一鳴きする。
「可愛いです。野良ですかね?」
「にゃーっ」
「さっきのラーメン屋の近くの路地裏に住んでいるらしいな」
え? と目を丸くするココナに気付かないバリーは猫の顎の下を撫でると、悪人面を崩して朗らかに笑う。すると、猫がもう一度鳴いた。
「そうか、子供が生まれたか。今度祝ってやらねばな」
うんうん、と当然のように猫と接しているバリーだったが、ココナにとっては意味が不明なのだろう。おずおずとした様子で顔を覗き込んでくる。
「あの、猫の言葉……解るんですか?」
当然だろう、という思いより、気を緩め過ぎていた事にバリーは焦りを感じた。猫型のミネニャと話す機会が多過ぎて当然のように反応していたのだが、普通の人間にとっては理解不能な事だ。猫の言葉全てを理解しているわけではないのだが、ニュアンスで何となく解るバリーは、猫の鳴き声が人間の言葉と何ら変わりのない、当たり前の会話のように感じていたのだ。あくせくしたバリーだが、坊主頭を掻くと頷く。
「まあ、少しは……な。信じられんかもしれんが――」
「凄いですっ。じゃあじゃあ、この猫ちゃんは何てっ?」
脇に手を入れられて持ち上げられた猫はバリーと目を合わせると、頼みこむように可愛らしい鳴き声を漏らした。
「しゃきしゃきのもやし」
「それは嘘ですっ。意味が解りませんっ」
「う、嘘じゃないっ。さっき言った祝いの事で、貰えるならしゃきしゃきのもやしがいいと言っているのだっ」
「うにゃっ」
「それかメンマ」
「何でラーメン繋がりなんですかーっ」
「知るかっ。ラーメン屋の店主に餌を与えられてるんじゃないのか?
猫が喋った言葉をそのまま口にしただけなのだが、やはりココナは疑いの眼差しを向けてくる。そこまで疑わなくてもいいじゃないかと思いもするが、そもそも自分は本当に猫の言葉を理解出来ているのか不安になりもした。確かにミネニャの言葉は解っているつもりなのだが、他の猫の言語も同じなのかと考えてみるも、答えなど出るわけもない。猫の世情など人間などが解るはずがない。まあ、ミネニャに訊けば解りそうな気もするが。
それはそうと、今はこちらの問題を解決しなければならなかった。雨季よりも湿った視線を向けてくるココナが口の堅い奴だとは思えなく、このままこの問題を放ったらかしにするのは少々不味い。そこらかしこで「バリーは猫語が解っているつもりのメルヘンちっくな奴」と言いふらされては、このダラス連邦には居られまい。皆が許しても、そんな恥ずかしい汚名を背負ってまでここで暮らしたくはないからだ。
バリーはココナから猫を取り上げると、目を合わせるように抱えた。宝石のようなブルーの猫目がじっとこちらの言葉を待っている。いつもであれば気にも留めないのだが、こうしてみると自分が結構痛い奴だと理解できる。それでも今は。
「おい、このままじゃ俺が疑われる。何かないか」
バリーの語り掛けにココナは目を細めて痛い子を見る目付きとなるが、そんなココナを猫が見た。そして瞬き一度を挟むとまたバリーに向き直って、うにゃうにゃと何やら話し出す。バリーはその一言一句聞き逃すまいと相槌を打ちながら懸命に聞いていた。益々湿っていくココナの目線。あと僅かでバリーに対する尊敬が木っ端微塵に砕けそうになる、その手前でバリーはココナを見た。
「お前、この一週間ずっとドカ盛りのラーメンばっかり食べているそうだな」
「う……それはっ。た、確かにそうですが、でもそれだけじゃただの推測としか思えませんっ」
図星だったようなのだが、ココナは偉そうに胸を張る。まあ、それだけじゃ信用に足らない事くらいは解る。ラーメン屋の店主も「いつもの」で通じていたのだ。それだけじゃ推測と思われても仕方ないのだが、バリーが猫から聞き出せた情報はそれだけじゃない。
「一昨日は二時間遅い入店で、その前は財布を忘れてツケにしてもらっているみたいだが。昨日は昨日で、ドカ盛りにチャーハン大盛りを頼んだはいいが、食べ過ぎで動けずにそのままカウンターで熟睡をしたらしいな」
何一つ間違いのない事実にココナは驚きの眼差しで猫を見た。すると猫は潜めた鳴き声で、耳打ちするようにバリーに囁く。
「うん? ほう、ココナには片想いの相手がいて、それを店主に相談している……と」
「え! それはっ、何て事を訊くんですかーっ。プライバシーの侵害ですよ!」
「俺が訊いたわけじゃない。それと、もし言い辛いなら私からその想いを伝えてあげる、と猫が言っているが、どうする?」
「どうするって……」ココナは顔にモミジよりも鮮やかな朱を散らせ、耳まで真っ赤にすると猫を取り上げて奇声を上げながら走り去っていく。その姿を見送るだけのバリーだったのだが、猫の言っている事をちゃんと理解出来ていた事に安堵した。ココナの反応がそれを証明してくれていた。それはそうと、いくら猫がココナの片想いの相手を知っていたとしても、その相手が猫の言葉を理解出来なければ意味がないのでは、とバリーは思う。
冷たい朝風に吹かれ、気持ち悪いほどの満腹感が薄れ始めてくると、ココナが猫を連れてとぼとぼと歩いてくる。ココナはバリーと目が合うと僅かに身体を強張らせるが、誤魔化すようなはにかみを見せては頭を掻く。そして隣に座ってくると猫を抱きかかえて未だに赤い顔を向けてきた。
「と、ところで何か悩んでいたようですが、どうしたんですか?」
「悩み……ああ、悩みと言うよりも自分の小ささを不甲斐なく思っていたんだ」
軍の総大将である自分が一介の労働者であるココナに打ち明けるべきではない思いとは解っていたが、それでも口にしてしまうという事は、きっと誰かに聞いてほしかったのだろう。何も優しい言葉が欲しいわけではなく、ただ聞いて欲しいのだ。
バリーは最近感じていた樹楊との差をココナに話す。口で言うほど悩んでいる様子など皆無であり、清々しい顔をしてさえもいた。しかしそれは諦めにも似た、爽快感と喪失感を原型が解らなくなるほど混ぜ合わせた感情。決していい気分ではない。
一通りの話を聞いたココナは猫を抱き締めて身体を温めると、遠くに目をやった。
「樹楊さんは確かに凄い人だと思います。私なんかとは違う目線……と言うよりも違う世界にいるような人だと思いました。人を斬って勝利を得て、血塗れの上に自国の富を敷くこんな時代だというのに、最大の敵である私達クルード兵をこのダラス連邦へと導いてくれました。きっとあの人には目の前なんか見えていないんでしょうね。もっと遠くの何かを見て、皆が歩かない道を駆け抜けているように思います」
それはバリーも同感だった。
このソリュートゲニア大陸が全ての自分に、大航海の案を持ち掛けてきたのだ。宛てもない未来を夢見て、新たな風を導き込もうというあの姿勢。そして誰かれ構わず仲間に引き込めるあの不可解な魅力は羨ましいの一言に尽きる。
「きっとあの人は王たる目線を持っているのでしょうね。そう感じた時、私は前時代の支配者であるガーデル王を思い出しました。まあ、文面でしか知らないですけど」
照れくさそうに笑うココナにバリーは、
「誰だって文面でしか知らんだろう。俺だってそうだ。しかし、ガーデル王とはあいつも高い評を得たものだな」
「そう思いませんか? 賢王とまで呼ばれたガーデル王と樹楊さんって何故か重なるんですよね。だってガーデル王の側近のサラガって人は、クルスさんと同じで冷酷無比の上、悪辣だというんですよ? ガーデル時代が訪れるまでは戦乱の世だったらしいですし、まるで今の私達はその歴史を繰り返しているみたいじゃないですか」
ココナは自分が知る裏情報である、樹楊がクルード王の血を継ぐものである事は口にしなかった。彼女なりにその情報の大きさと危険性を考慮しての上だろう。しかしバリーは違う意味で樹楊が王たる存在である事を理解していた。
それはサラが漏らした「キオーは自然界の王になるべくして生まれた存在」という言葉だった。自然とはこの世界に命の息吹と芽生えを与える必要不可欠な存在だ。その王となるという事は、人を超え、正にこの世界の頂点に立つという事だ。人の王などそれに比べれば小さな存在だ。
これはいよいよ、自分と樹楊との差が決して埋まらないものであると感じたバリーは苦笑を洩らす。完全にまいってしまった。戦でも何でも自分が勝てないわけだ。
そんなバリーを見ていたココナは猫を空に向かって掲げると小さく呟く。
「バリーさんは今のままで充分だと、私は思います」
「そうでもない。人の上に立つ者は大きな器を持つ者ほど良いだろう」
「確かにそうですが、バリーさんはとても優しい目線を持った人です」
「俺が? どうしてそう思うんだ?」
ココナは嬉しそうに細めた目を猫に向け、
「さっきこの猫ちゃんが鳴いた時、仔猫が生まれた事を口にしましたよね?」
「ああ。それがどうした」
「きっと樹楊さんであれば『仔猫が生まれたか』と口にして、やっぱり優しく撫でると思います。あの人はそういう人でしょうから」
ココナが言いたい事をよく理解出来ないバリーは、ただ言葉を待った。
「決して隔てるわけではないのでしょうが、樹楊さんは猫は猫。人は人と認識するはずです。だけど『人に向ける優しさと同じ優しさ』を猫ちゃんに向けられる人。立場や種族の違いなんて、あの人の頭の中にはないんでしょうね、きっと」
「それはそうなのだろうが、お前が言いたい事が解らんぞ俺には」
首を傾げるバリーにココナは微笑み「バリーさんはこの猫ちゃんに話し掛けられた時『子供が生まれたか』と言いました」
「ああ、言ったが?」
「きっと樹楊さんであれば……ううん、きっと誰もがこう言います。『仔猫が生まれたか』って。バリーさんは仔猫が生まれた事を知ると、祝いをしてやるとも言いました。普通言わないですよ? 相手は猫なんですから」
ココナは、バリーは猫と人を隔てていない。同じ生き物として見ていると言いたいのだろう。それが伝わったバリーはミネニャの事を思い浮かべる。ミネニャは獣人目であり、人と近い存在だ。そんなミネニャが猫型になって話し掛けてくる時、いつも獣人目の姿を思い描いて接していた。その所為で、そこら辺の普通の猫に対しても人と同じ接し方になってしまったのだろう。
恥ずかしそうに頭を掻くバリーにココナは続ける。
「樹楊さんは私達が見る事さえも叶わない高みからの目線で世の中を見るのでしょうけれど、いいじゃないですか。私は自分が普通の人としての目線である事に満足です。だけどバリーさんは私達とは違うんですよ?」
「そうか? 俺も平凡な視線だと思うが」
「いいえ。バリーさんは仔猫の視線です。何も目線が低いというわけではなく、目に映る全てが純真なんですよねバリーさんは。疑う前に信じる。そして自分と誰かを隔てる事などしないで、等価と見ている。総大将なのに門番をしていた話を聞いた時、凄く嬉しかったんです」
「嬉しい? 変わった奴だな、お前は」
「だって、軍のトップですよ? そんな方が門番をするなんてクルード出身の私には考えられません。きっとバリーさんは地位とか関係なく、皆と肩を並べたいのだろうなと思いました」
確かにココナの言っている事は間違いではない。
門番という仕事は地味で辛いが責任が重い。そんな仕事など誰だってやりたくはないのだ。だから自分は自らが望んで門番をやっていた。いつも下の者の気持ちや目線を忘れぬようにと。
しかし、仔猫の目線…………か。
考えもしなかった事だ。樹楊の事を考える度に、もっと自分を磨いておかねばと密かに思っていたのだが、生憎持っているものが違い過ぎる。ならば諦めておくのもいいかもしれない。上から皆の笑顔を護る役目はあいつに任せるとして、自分は……そうだな。まずは種族の隔たりを失くす事から広めるのもいいかもしれない。猫の言葉を皆に教えるのもいいかもしれない。それもいいが、今は造船の仕事が第一と考えるべきだ。樹楊を大海原へと送り出してから、今後の事を考えてみよう。
すっかり気分が晴れたバリーはココナに礼を言うと立ち上がって空を見た。
薄暗いとも明るいとも言えぬ、この世界の光は何とも美しい。空気も澄んでいて、心の奥にへばり付いていた劣等感が薄れていくのが解る。そんな気分にさせてくれたのは、間違いなくココナだ。そんな彼女に、ミネニャを紹介したいと思う。仕事明けだが、少しくらいならいいだろう。
「ココナ、今から俺の部屋に来ないか?」
「……………………うへ!?」
ココナの顔はゆで上がったタコのように真っ赤になり、あたふたしている。その度に猫が振り回されて迷惑をかけているのだが、本人はそれどころじゃないらしい。
「疲れているなら無理にとは言わ」
「行きますっ。是非っ」
「そ、そうか」
何故か嬉しそうに力むのかは解らないが、とバリーは一歩前を歩いて先導する。ココナはまだ顔を赤くしているが、口元は緩んでいる。そんなココナに抱き締められている猫は、呆れたように欠伸をしてバリーに向って一鳴きする。
「うなっ」
期待させるのはどうか、と。
何の事かさっぱり解らないバリーを見た猫はまたも呆れた顔をする。
そしてココナが連れて行かれたバリーの部屋には、既にサラが窓辺を陣取っていて、ベッドには人型になって全裸のミネニャが毛布に包まって寝息を立てていた。
ココナは喉の奥で「んがっ」という声を漏らし、石化。知らぬ者から見れば、この光景は女をはべらせる権力者の室内だろう。そしてココナはそれに加わる哀れな女性、と見えてもおかしくはない。だがこの光景を見慣れているバリーとしては、何故ココナが固まっているのか、そっちの方が理解不能であり、猫が「ホラみろ」と鳴く事さえも理解出来ない。
この後、
「不潔です、卑猥ですっ、最低です!」と満天の怒りを込めた枕で殴ってくるココナに事情を理解してもらうには、半日を費やす事など知らないバリーは陽気に肩を叩いて扉を閉める。
ココナがショックを受けた隙に腕から逃れた猫は室外へと逃げ、鼻を鳴らすと優雅な足取りで廊下を歩き始める。そして、その猫を追うようにバリーの部屋からココナの激昂が爆発した。
次章
~クルスの思い~