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第四十三章 〜暖かな樹に包まれて〜

 吊り橋を見上げる事が出来る川辺の畔では、蓮率いる殲鬼隊のメンバーが休息を取っていた。と言ってもその中の誰もが疲労などしてはおらず、進軍を急いているのだが、一向にマイペースを崩さない蓮の行動に着いてきているだけで休息も促されての事ではない。ただ単に、蓮が川の畔で膝を抱えただけだ。最初は蓮の自分勝手な行動に文句を言おうとする者もいたが、オルカから「蓮ちゃんの指示に従うように」と笑顔で厳命されている為、それすらも叶わない。


 そんな事はどうでもいい蓮は早く樹楊に会いたいだけだった。最初から戦なんてものは興味がない。クルードが勝とうが負けようがどうでもいいのだ。樹楊さえ傍に居てくれれば他に望むモノなどない。元より、蓮にとっての戦いとは、身寄りがなかった自分を保護してくれたゼクトに手を引かれた結果であり、自分が望んだ事ではない。巻き込まれたとは思っていないが、感謝しているわけでもない。だが自分の居場所をくれたゼクトは同姓の中でも一番好きな人だ。もしゼクトと出逢えなければ餓死していただろうし、樹楊に出逢えなかったのかもしれない。そういう面では感謝している。


 ゼクトがいなくなった今、蓮には樹楊しかいない。しかし頭を使う事がこの上無く苦手な蓮は樹楊の行動が読めずに少し苛立っている。今頃スイとミゼリアが激戦する場所からは遠く離れている事すら知らずに歩いてきたのだ。もう少し考えれば良かったか、などと思ったが考えても同じ事のような気もしてついつい溜め息を空に流してしまう。


「蓮、さま。今後はどのような経路を辿るのでしょうか?」


 やや訝しげな口調で訊かれるた蓮だが、振り向かないどころか口すら開かない。完全に無視だ。そもそも耳に入っていないのだろう。ただ膝を抱えて小さくなっているだけで、置物のように鎮座している。


 そんな蓮に眉を跳ね上げる中年の男だったが、敵意を蓮に向けてしまったのだろう。口を開くよりも先に、蓮によって時空から引きずり出された短剣を喉元に当てられていた。そしてようやく振り向く蓮。その右目は樹楊がプレゼントした紫の布が巻かれているが、残された左目から淀んだ殺意が漏れてきている。高圧縮したかのような威圧に中年の男は後退り、それから低頭すると仲間の元へと足早に戻る。重ねた戦を生き延びてきた戦の猛者でさえも、蓮の前では赤子のようなもの。それが簡単に解ってしまうほどの光景だった。


 下らない。

 それが蓮の率直な感想だ。

 樹楊はこんな自分を怒ってくれた。友達だったゼクトでさえも怯えるというのに、樹楊は必死になって怒ってくれた。それは自分の事を仲間だと思ってくれた証。そして、一度は逃げたというのに護る為に戻って来てくれた事も思い出す。相手は霞狼だというのに。


 決して固まっている表情を変える事はない蓮だったが、内心では喜んでいる。樹楊の事を考えるのが嬉しいのだ。


 川のせせらぎを聞きながらほんわかとした思いに浸っていると、吊り橋の上を慌ただしく走り抜けていく音が微かに聞こえた。その者の暖かな雰囲気に、樹楊かと思いもしたが姿を目にするとすぐに違う者だと解り、目を逸らす。興味がない。


 樹楊と同じ純白の長衣を着てはいるが、背にあんなものなどない。それに身長も低かった。


 蓮と同様、その姿を見た者が遠くで呟く。

「あいつ、翼が生えてなかったか?」

 それには別の者が笑いを含んで返す。

「まさか。羽を持った人間なんかいるわけないだろ」


 それ以上その話題を膨らませる事がなかった殲鬼隊は仮眠を取りにテントに戻るが、月を見上げていた蓮は目にする。



 踏み台も無しに常人離れした跳躍をし。

 ――大きな翼を広げて力強く空を飛ぶ子供の影を。



 ◆



 激戦が予想されるソリュートゲニア大陸のスクライド王国が所持する地から遠く離れた場所に位置する白鳳。朱色が鮮やかな宮殿の中を、同じく朱色の長衣を纏って大股で歩く男、光宿こうしゅくは不機嫌を顔全面に表していた。その朱色の長衣には銀色の煌びやかな刺繍が至る所に施されていて、一目で皇位の者だと解る。それほど長くはない髪は丁寧に整えられていて、しかし後ろ髪馬の尾の様に長く、細く束ねられていて背中まで伸びている。


 光宿は通りかかった侍女を止め、皇帝の居場所を聞く。にこやかに低頭して明るく応対する侍女から、光宿が地位を利用して踏ん反り返るだけの愚者ではない事が見て取れる。しかし侍女の言葉遣いは実に模範的なものであり、教養が高い事を現していた。光宿が求めた答えはすんなり返ってくるものの、今は出入り禁止だと言う。


 今は急きたいところなのに、何をそんなに悠長な事をしているのか。こんなところで足踏みをしている場合ではないのだ。元々何もせずに黙っている事が出来ない光宿は逸る気持ちをどうにかしようと宮廷内をうろつき、三人の次女と二人の衛兵に形だけの挨拶を交わした後、真っ白な砂利が敷き詰められた庭園を見渡せる一室に着いた。


 そこには皇帝と同じく悠長な面持ちでお茶をすすり、団子を頬張っている光凛こうりんが居て、のんびりとした皇帝の娘だけはある、と嘆息。光凛は光宿の姿を認めると、しかし左程興味を持たずに団子を口に運ぶ。それから茶をすすって、目線を流す。


「光宿、苛立ってるっぽい」

「っぽいじゃねぇよ。イラついてんだ、俺は」

「何で?」

「何でもクソもねぇ。何時になったら出陣出来るんだよっ。このまま手をこまねいてスクライドが潰されんのを見てろってのか、親父は」


 スクライドがどうなろうと知った事ではないが、早く暴れたいという気持ちが抑えきれないのだ。そんな兄の気持ちを充分に理解している光凛はまた茶を一口飲むと、ほうっと暖かな息を漏らす。


 妹ながら一挙一同に華があると光宿は改めて思う。

 自分と似た服も、光凛の華やかさに従うようにしか見えない。色素を追い出したかのような肌で病弱に見えるが実は活発であり、背こそ高いとは言えないが無駄のないスタイルをしている。茶色の髪は一本一本にシルクのような手触りで、肩の上まで伸ばされていて耳の上にある蝶のかんざしがとても良く似合っていた。まあ、死んだ魚のような目をしてはいるが。


「お父さんは旧友と話す事で忙しいっぽい」

「っぽい、じゃねーよ。つーかそんな事は後にしろっての」


 光凛にそんな事を聞いては黙っていられない。旧友だか何だか知らないが、そんな私事は後に回し、今はスクライドと連絡を取るべきだ。光宿は光凛が食べようとしていた最後の団子を奪うと、串が通された三つのそれを一気に頬張る。もぐもぐと頬を膨らます兄を見た光凛は死んだ魚のような目を細め、


「光宿嫌い」

「今度買ってきてやるから怒るな。だから今は俺に着いてこい」

「や」

「いいから。親父のところに行って、進軍の許可を貰うんだ。俺の頼みはなかなか聞かねぇが、お前の頼みなら聞くだろ」


 あくまで和み時間を崩そうとしない光凛の手を引き、向かった先は父である光来の自室だった。部屋の前には二人の兵が見張りをしていて出入りの禁止を口にするが、強引な光宿とその隣に迷惑そうな光凛がいるとなれば自然と身を引いてしまうようだった。光宿が、気に入らない事を皇帝である光来に直訴する事は度々あるのだが、光凛が直接赴く事は極めて珍しく、同時にそれは緊急事態である事を意味してる。本当のところは、ただ単に光宿が強引に連れてきただけではあるが。


「親父、入るぜ」

「お父さん、光宿に団子食べられた」


 ノックもせずに入ってくる我が子に光来は呆れかえり、旧友とかいう者に謝罪の音を口にした。皇学書や趣味である蘭の花に関する書物で埋め尽くされた本棚が一つだけあり、テーブルとそれを挟むように置かれたソファーが二つ。そんな寂しい部屋に招かれていた旧友は光来の対面で笑みを浮かべている。


 てっきり、同年代のじいさんやばあさんが居るのかと思っていた光宿はその旧友とやらを見て目を丸くする。驚いているのは光凛も同じようで、首を傾げていた。


 どう見ても二十歳くらいにしか見えないその女性。銀色の長い髪が美しく腰まで伸ばされていて、汚れとは無縁にしか思えないほど綺麗な白い肌。スタイルも良く、足を組んでいる様が似合い過ぎていた。眉を僅かに隠すような前髪の下には、知的でありながらも切れ長の灰色の瞳があり、それはこの世の宝石の頂点に立つようにも見える。容貌・存在全てが美を留めているようなその女性なのだが、何処か悪魔的にも見えた。


 悪意を持って微笑めば、一国が傾く。しかしその美は汚れる事なく、例え女神でさえも彼女に殺される事に幸せを感じるだろう。そう、理不尽な美がそこにはある。


「あら、息子さん?」

「すまないな。どうにもこうにも愚息で、手が掛かる」

「それが可愛いんじゃないの。まあ私の話は終わった事だし、そろそろ帰るわ」

「ああ、本当にすまない。今度はゆっくり話でもしようじゃないか」


 それには笑顔で応えるその女性はしなやかに立ち上がると光来と握手をして、その子らに会釈をして何もなかったように去っていく。まるで森を通り抜けるだけの風のように。


「親父、何だよあの女……」

「お父さんの後妻?」


「違う違う。彼女は私の旧友だ。そしてお前達の祖父である前皇帝の命の恩人でもあるのだぞ? 失礼な事を言うものではない」


 やれやれ、とソファーに座り直す光来の言葉に感心する光宿だが、何かおかしい事に気付く。その時には光凛は既に父の隣に座っていて、光宿はその対面に腰を降ろした。先程の女性の残り香がそれとなく鼻腔をくすぐり、それがいい匂いだと思う自分が少し嫌だった。


「親父、何を言ってるか解らん。じいさんの命の恩人って、しかも親父の旧友にしては若すぎるだろ。一体何歳なんだあの女は」

「はて、何歳なのだろうな?」


 は? と虚を衝かれる光宿に、首を傾げ、それでも年齢など些細な事にもならんとばかりに笑う光来。綺麗なヒト、と光凛が呟けば光来は頷いた。


「私が出会った時もあの姿のままなのだ」


 曰く、当時この白鳳は二つに割れていて、正規軍の指揮を執っていたのが前皇帝となる。それは解っているが、何故前皇帝の命の恩人なのか、その疑問に関しては「そのままだ」と流された。深く勘ぐるまでもまく、その戦の最中に命を救われでもしたのだろう。……まあ解らなくもないが、最大の疑問はあの姿だ。光凛もそれには興味があるらしく、珍しく瞳を輝かせていた。いつもは焼き魚よろしく、生気がない眼をしているというのに。しかし光来は首を振って自分も知らないと言う。


「私が知っている事は、彼女が死霊魔術師であり、とある人物を探しているとの事だけだ。年齢を聞くほど、私は命知らずではないのでな」


 はははっと愉快そうに笑う光来だが、光宿は驚きを隠せなかった。

 光来は彼女を死霊魔術師だと、ネクロマンサーだと言った。ネクロマンサーは数多くの魔術師の頂点に君臨する、最強の存在。この世の理を捻じ曲げる事さえも造作の無い事だと、そう聞かされている。

 最強と呼ばれる存在の名に、光宿は乱雑な高揚感を覚える。遥か地の底で沸々と燃えたぎるマグマのように闘争本能が身体中を巡っていく。血の気の多い盛り、二十歳になったばかりの光宿は目を獣のように尖らせるが、それを早くも察した光来が口先だけで制する。


「止めておけ。いくらお前でも傷一つ、いや、髪の毛一本さえも斬る事は出来ない」

「私と光宿、二人でも?」


 喧嘩と祭りが大好きな光宿とは違い、普段は奥に潜めている闘志を珍しく前面に押し出す光凛だが、光来は「結果は同じ事」と言葉を覆す事無く、こうも付け加える。それも重々しい口調で。


「彼女は間違いなくこの世界で一番強いだろう。この大陸ではなく、この世界でだ。解るか、光宿、光凛。私は『スクライド王国・クルード王国・ダラス連邦』そこにこの白鳳を加えて総力戦に持ち込んだとしても敵わないと言っているのだ。彼女は化け物とかそういう言葉で片付けられるほど解り易い存在ではない。そして彼女にその気があれば、この世界など何時でも終焉を迎える事が出来るだろう」


 絶句。

 それが二人に与えられた唯一の反応だった。


 光来はもう老いているとは言え、白鳳で頂点に立つ光宿さえも時折稽古をつけてもらうほどの腕前なのだ。剣聖とは名ばかりではない。他の三国とは違い、文武両道であるのが白鳳の皇帝なのだ。その実力を尊敬している光宿は、冷や汗を一つ、顎先から落とす。


「そ、そんな奴と何で解り合えたんだよ」

「ああ見えて、実は気さくで朗らかな人なのだ。まあ気難しくもあるが、杏仁豆腐を差し出したらそこから仲良くなってな。お前は赤子の時、よく遊んでもらっていたのだぞ?」


「そうなのか?」

「ああ。お前はよく木の枝にぶら下げられていて泣いていたものだ。川の上流から桶に乗って流されてきた事もある。あれは傑作だった。帆が立っていてな、あと少しで滝壺に落ちるところだったのを、慌てた家臣が釣り竿で引き寄せたものだ」


 それは遊んでもらったというよりは、あの女性が自分で遊んでいたと言った方が正しいのではないだろうか。しかもどれもこれも命に関わる事ばかりだ。それでも『どこまで高く上げられるか』と前代未聞の高い高いのチャレンジをしようとした時ばかりは流石に止めたと言う。以前、酒に酔った彼女が上にぶん投げた米俵が待てど暮らせど落ちてこなかったからだと、思い出深そうに語ってくれた。

 もし止めてもらえなければ自分は何処か解らぬ所まで「おぎゃーっ」と、飛ばされたのか、と知らぬ思い出話に徒労感を感じていると、光来が思い出したかのように切りだす。


「それより、お前達は何をしにきたのだ? まさか、立ち入りを禁じてるところに団子を請求しにきたわけでもなかろう」


「あ。そうだそうだ。そうだった。俺達はいつ出陣すんだよっ」

「私は団子をもらいに」


 純粋に団子を要求しに来た光凛の頭を撫でてもう少しだけ待つように言い聞かせた光来は、ソファーに背を預けると勝ち誇った笑みを対面の光宿に向ける。その笑みが嫌いなわけではないが、眉を跳ね上げる光宿。


「戦の段取りはもう済んでいる。大戦が始まる数日前に樹楊という男から連絡がきた時、既にな。だが、今回の戦には光宿、それと光凛。お前達の出番はない」

「何でだよっ。俺達が行けば、スクライドだって優勢になるだろ!」

「樹楊からの申し出だ。私がお前達の名と地位を口にするとな『皇子さま達は遠慮して頂きたい。万が一の事があれば一生後悔しそうっすから。白鳳はあくまで援軍。気張る必要なんてありません』と、な」


 その樹楊とかいう男の言葉に、光宿はまんざらでもない顔をした。以前、父から樹楊の評を聞いた時にはいけすかない奴だと思っていたが、なかなかどうして。他人の事を気遣うだけの心を持ち合わせているらしい。それなら今度一緒に酒でも、と思い始める光宿だが、何故か光凛は眉根を寄せている。何故か、と尋ねれば。


「気に喰わない」

「ははっ。流石は光凛。もう気付いたか」


 感心して楽しそうに笑いを零す父だが、光宿には何が何だか。そんなに気遣う男が嫌いだったか、と光凛の好みの男性像を考えもするが、妹は極度の男嫌いだったと思いだす。自分や父は別だが、自分よりも頭が悪い男を嫌う傾向にある厄介な女なのだ、光凛は。白鳳随一の頭脳を持つ光凛よりも頭のいい男などいるのか、とどうでもいい事を考える光宿だが、疑問を原点に復帰させる。


「何が気に喰わないんだよ光凛」

「光宿は馬鹿。その男は出しゃばるなって暗に言ってる」

「そうだ。樹楊はな、今後の同盟関係を見通した上でそう言ってきたのだ。お前たち二人は強い。それ故、戦場では活躍するだろう。もしお前たちがクルードを倒す立役者となろうものなら、今後のスクライドは白鳳と同じ目線でモノを語れなくなる。そしてお前達は皇位に属する者なのだ。尚更だろう」


 光凛が思った事を丁寧に伝えてくる光来に納得した。

 確かにそれを考えれば、向こうとしても自分達に活躍されるのは厄介極まりないだろう。光凛はむすっとして、足をぶらぶらさせ始める。左右の指先を不規則に重ね合わせるのは、不機嫌な証拠だ。これは団子の一本や二本では直りそうにもない。


「えらく不機嫌だな。お前の好きな頭の回る男じゃないのか、そいつは」

「嫌い。そんな考えをする男は嫌い。それに、私よりも頭が」

「いいと思うぞ、樹楊は」


 遮ったのは光来だった。

 まさか相手の肩を持つとは光凛も思わなかったのだろう。虚を衝かれたように父の顔を見上げている。すると光来は、


「光凛、お前は戦局をどう読む?」

「最低十手先まで。そしてその一手毎にあらゆる可能性を枝分かれに分岐させて、そこから先も同じ。状況によっては百通りの手を見出す」


 それは虚言ではない。

 光凛は幼い頃から戦局の読み方や展開の仕方を徹底的に叩きこまれた。学ばなければならない皇帝学も然り、軍事教育も英才的な教育を受けて育ったのが光凛だ。そしてその知識を、乾ききった砂漠が水を得るが如くみるみる吸収するどころか、自分なりの見解を見出し、十五歳となる今ではその頭脳の上をいく者は白鳳にはいないのだ。しかし光来はあっさりと、樹楊が上だと言う。怪訝そうに眉を寄せる光凛に、光来は言う。


「樹楊はな、お前のように先の戦局を読む事は出来ん」

「お父さん、それはどういう意味? 何でそんな奴が私よりも……」


 少しずつ蚊帳の外になりかけている光宿がそわそわとしているが、光凛は目にも留めない。理解出来ぬ父の言葉を無言で待ち、その一欠片も聞き逃さんとばかりに集中している。いつもは穏やかで人に喰ってかからない光凛をそこまで突き動かす感情とは、敗北にもよく似た屈辱だろう。しかし光来は眼を逸らし、窓の外を見る。


「光凛、お前は推理小説が好きだったな。それは何故だ?」

「犯人をいち早く暴くのが楽しいから」

「そうだったな。著者が懸命に描いた筋書きを、そしてその先を読むお前は天才だ。戦も推理小説も、働かせる思考は違えど同じようなものでもある。しかし樹楊という男はだな、著者のような男だ。今回の大戦について語り合った時、私はそう思った」


「戦局を作り上げる、という事? ありえない。戦は起こる前から始まっているけど、始まってからではないとプロセスは組み立てられない。敵の進軍、味方の夫人。費やす時間、距離。沢山の要因があってこそのプログラム。一から組み立てるのは不可能」


 もう存在すら忘れかけられている光宿は暇なので適当な本を手にするが、どれもこれも自分の興味から離れていて読む気さえも起こらない。だから仕方なく、妹と父の会話をソファーに寝転がりながら聞く。


「少し語弊、いや。私の言い方が不味かったな。お前は先に述べた通り、その時の戦局からあらゆる手を考え、その先をも読む。対する樹楊は、その戦自体に己のパーツを組みこむ事で戦局を一変させ、元からあった台本と照らし合わせるのだ。そして望む結果と状況の間に生まれた差異を少しずつ、しかし大胆に修復する。

 私は物事の結果とは、始めから用意されているものと考える。そこに辿り着くまでには多種多様の思いや思惑が入り乱れていて、皆はあたかも自分達が導いた結果だと思っているのだろうが、それは違うと思っている。結果は始めから用意されていて、人々はそこに辿り着くまでに与えられた行動を『自分達が生み出した』と勘違いをして歩く。しかし結果とは運命という名の著者が用意したもの。その中で生きる我々の行動は始めから決まっているのだと」


 光凛は下唇をぐっと噛み締め、

「じゃあ、私が生み出す戦局も……。それまでの思考も著者に用意されたものだというの?」

「ああ、極論ではあるがな」


 光凛は更に、膝の上に置いた拳を握り締める。震える声を振り絞った。

「樹楊って男は……読者でもあるって言うのね? 私達は物語に出てくる登場人物だというのに」

「そうとも言えるな。樹楊は登場人物であるとともに、著者が書いた本を読み、そこに加筆・修正を施す者でもあると私は思っている。よって、決められた結果は彼によって覆される」


 一兵士だというのに、樹楊という男は大した評をされたもんだ。と楽観的に思っているのは光宿であり、プライドを粉々に砕かれた光凛は悔し涙を浮かべている。いつも可愛がってくれる父にそこまで言われるのが余程悔しいのだろう。


「気に喰わないっ。気に喰わない気に喰わない気に喰わにゃ!」


 ありったけの不満をぶちまけて冷静さを欠いているのか、噛んではいけないところで噛んでしまった事にさえも気付かない光凛は兄を睨みつける。


「光宿! すぐに進軍の準備して! 私が上だって事を思い知らせてやるっ」

「お前ね、スクライドとは同盟関係なんだぞ? 樹楊もスクライドだ。そいつに牙を剥いてどうするよ」


 光凛の怒りはそれでも収まらず、つかつかと戸口まで足早に向かい、出ていく際に、

「絶っ対にゆゆさなににゃにゃ!」

 と、思いきり噛みまくって、のんびりと寝転がっている光宿に怒鳴って荒っぽく扉を閉める。そして閉めた扉に蹴りまで入れてくる始末だから嘆息せざるを得ない。


 まるで自分が悪いような言い草だ。そんな光凛を見た光来は満足そうに微笑み、腕を組む。まさか、とは思うが聞いておく。


「親父、ワザとだろ? どうすんだよ」

「光凛は頭が良いが少々自惚れている。ここで世の中には上がいる事を教えてやるのも、教育の一つだ」



 この後、光宿は暴走しまくった妹の八当たりを一方的に受ける破目となり、出てきた夕食も生の大豆一粒だけだった。それは、料理を部屋にまで持って行こうとしていた侍女を光凛が「私が持って行くから」と止め、差し替えた事でそのような結果を迎える事となったのだ。大豆パワーで頭を良くしろ、とでも言いたいのだろう。


「たった一粒……」

 それだけで。



 ◆



 闇に落ちる平原の中、月が明かりを忍ばせ、人影を一つ。

 そよ風のような弱々しい力には決してなびく事が出来ない漆黒の長衣を着た男が、軽い口調でラファエロと通信を取っていた。


「何でボクがそんな事しなきゃないの? ボクは情報を集める係りって言ったじゃん」

「そう嫌がらないでください。これも重要なのです。得た情報では、総大将が合流するはずだった部隊が全滅との事ですので」


「だからボクにその総大将の護衛をやれってのー?」

「はい、頼みますよ」


 そんな面倒臭い事をやりたいわけがない。

 自分は殲鬼隊だし、そもそも本隊の連中は嫌いなのだ。


 サイは溜め息をワザとらしく吐くと肩を落とし、取り敢えず了承しておく事にした。ここで断れるなら苦労はしない。ラファエロという男は柔らかな口調なのだが選択肢を与える事はしてこない。嫌な奴が殲鬼隊の軍師になったもんだな、とサイは思う。それでも主君であるオルカの側近だ。嫌だとばかりは言ってられないだろう。


「じゃー、切るね」

「ええ。っと、その前に。サイ?」

「何?」


 ラファエロは一拍置くと、僅かに威圧するような声で告げてきた。

「くれぐれも勝手な行動は控えて下さいね?」

「わかってるよ」


 サイは不貞腐れて通信を切ると、徒労感に満ちた溜め息を吐く。そしてそこで自分の状況を思い出し、悪びれもない笑顔で地べたに座り込んでいる者を見る。


「やー、ごめんね? 忘れてたよ。喋られると厄介だからさっ」


 サイはその者の口から己の武器である鉄棒を引き抜くと、また謝罪する。しかし反省している様子など皆無だ。その者――クルードの総大将は大きく咽ると涎を垂れ流し、涙で滲んだ目をサイに向ける。身体は狩られる直前の小動物のように震えていた。表情を困惑に染め、震える唇を堪えようと必死なのだろうが声が怯えの色を現していた。


「な、何故こんな事をっ。お前は仲間だろうっ?」

「んー……そうだけどさぁ」


 サイを囲むのは、かつては総大将の部下である者達の亡骸であり、今も貫かれた頭や胸から血を流している。そしてこの惨劇を演出したのはサイであり、最後の一人となった総大将は腰を抜かしている。最早自分を護る部下がいないとなると早々に命請いをしてきたのだ。こんなのが総大将というから呆れる。


「い、今の通信、護衛をしろとの事なんだろう?」

「そうなんだよー。面倒だよね、ホント」


 解る? この気持ち。と、同意を求め、にこやかに眉を下げるサイ。総大将はサイの機嫌を損ねたくないからなのか、何度も首肯する。そんな肩書だけの総大将の腕に、銀色のバングルがはめられているのに気付いたサイは目を輝かせた。


「ね、それってもしかしてっ」

 サイの視線に気付いた総大将は自分の腕を見ると、また頷く。


「それ、貸してよっ。ちょっとの間だけでいいからさーっ」

「あ、ああ。でも気を付けてくれよ。三十秒、生命反応がないとクルード全軍に敗戦の合図が入ってしまう」


 総大将が腕にはめているバングルは、スクライドとクルード双方の総大将が身に付けるものであり、生命反応を感知している。その為、もし命を落とせばその三十秒後に敗戦の合図が仲間に入り、そこで戦が終了となるのだ。サイはそのバングルの重要性を知ってか知らずか、受け取ると無邪気にはめ、月明かりに照すなどして遊んでいた。


「これ頂戴。ボクが総大将をやってあげる」


 唐突で大胆な申し出に総大将は考えると、やがて首を縦に振った。自分の命が惜しくて堪らないのだろう。それをサイに差し出す事で見逃してもらう気でいるのが、一目で解った。サイは礼を述べると、また微笑む。


「ありがとーっ。じゃあさ、じゃあさ」


 そしてサイの笑みは邪悪に染まる。

 すうっと細められた目には禍々しい殺気が宿り、口は狂気に歪み出した。その触れてはならない殺意に、総大将は目を見開き、身を引く。


「もう、おじさんは用済みだねっ」

「そんな、何故――」


 総大将の言葉はサイの突きによって無価値に遮られた。サイは喉を貫いた棒を引き抜くと、顔に飛び散ってきた真っ赤な飛沫を舌先で舐める。総大将はそのまま後ろに倒れると、喉から大量に失血し、白目になりかけている瞳を天に向けていた。


「さーってと。この死体を処理しないと」

 

 見つかれば大事になる。その上反逆者だ。

 辺り一帯のクルード兵を掃除したのも自分だと気付かれていないようだし、こんな肩書だけの中年男など谷底へでも捨てた方がいいだろう。そうすれば何も証拠は残らないし、護衛の任も解かれる。というよりも勝手に放棄する。自分には見えているのだ。この大戦の行く末が。その為に先手を打っているだけで、何も悪い事ではない。


 サイは勝手に頷くと、人形のように脱力している総大将の手首を掴んで引き摺り、谷底へと向かう。こいつらを処理したら、次に向かう場所がある。急がなければ。



 ◆



 雷光を鉄扇に纏わせたスイと戦うのは、正直辛いものがある。と、ミゼリアは攻撃を寸前のところでなんとか避けながら打開策を探していた。雷光を纏わせたからなのか、スイの攻撃は遅くなっているが、何とか避けられる程度だ。元々スイの攻撃は早い。それが僅かに遅くなったからと言って、攻防が逆転するわけではなかった。その上、雷光の攻撃範囲も計算して避けなければならない。少しでも触れれば多少なりとも電気が身体を流れ、積み重なると体力も減り易くなっていた。


 樹楊は麻痺が身体を侵食し、両足と左腕が動かなくなっている。右腕だけは何とか満足に動かせるようだが、ミゼリアの助太刀を出来るわけでもなく、依然として地に這いつくばっているだけであり、焦りを顔に浮かべていた。


 防戦一方のミゼリアだったが、スイも徐々に疲れ始めてきている。息を切らし、汗を地に落としている。それほど、魔法を武器に留めておくには体力が必要とされているのだろう。この分だと、スイの方が先に体力の限界を迎えると判断した時、一瞬の隙を目に留める事が出来た。

 眼前で見送ったスイの斬撃が僅かに流れている。さきほどまでのコンパクトさがなくなっているのだ。足も踏ん張りが効かなくなってきているのか、踏み込みが甘い時もある。


 ミゼリアは身を大きく引かせると、スイの踏み込みを待った。もしかすると好機を生み出せるかもしれない。疲労は判断力と瞬発力を鈍らせる。上手くいけば、一撃で仕留める事が出来る。


 スイは浅く息を吸うと、思惑通り真っ直ぐに踏み込んできた。その瞬間、ミゼリアの眼に力が入る。ミゼリアは足を大きく前に出し、爪先をスイの足先に合わせてやる。すると、スイは石に躓いたかのように前のめりで崩れ始めた。ここで更に一歩退けば中距離の間合いが出来、対して近距離戦を選ばざるを得ないスイの間合いから外れる事が出来る。完全にミゼリアの間合い。寸分も違わぬ絶好の位置を取った。


 勝利という言葉に指先を掛けたミゼリアは斜め下からコンパクトに剣を振り上げ、スイの命をここで断とうとする。しかし。


「甘いんだよ、ボケ」


 スイは前のめりに倒れながらも身体を捻った。ミゼリアの斬撃は三日月の弧を描き、しかし空振り。手に伝わるのは空を薙ぐ、虚しい感触。斬る事が出来たのは、地に生える雑草数本だけだった。そして、自分の肩越しに冷静に尖るスイの眼が見え、勝利が指の間から抜け落ちる感覚を確かに感じた。それでも迫り来る斬撃をまともに喰らうわけにもいかず、咄嗟に落とした肘で鉄扇を受けるのだが、甘かった。雷撃を浴びた事のないミゼリアは、何とか持ち堪える事が出来るだろうと思い込んでいたのだが、それが甘い考えだった事に、身をもって知る事となる。後ろ髪を乱暴に引かれたように身体を仰け反らせたミゼリアは、苦痛を悲鳴へと変換させた。


「うあああああああああああああああ!」


 電流が身体を駆け巡る、とは聞いた事があるが、冗談じゃない。身体を駆け巡る感触など感じる間もなく、雷撃は全身をショートさせ、毛細血管が爆発したような錯覚さえ感じた。痛いなんて思わない。思えない。何かを考えるよりも早く身体は動かなくなり、それからやっと電気が身体に滞留している事が解った程度だ。


 ミゼリアは剣を手から滑べらせると、次いで両膝を折って後方へと倒れる。飽きられ、動かす事を放棄された糸吊り人形のように。

 何が起こった? 雷撃を浴びたのは解っている。それでも、何が起こったのか解らない。身体が痺れている。だけど、何故?


 幾多の思いが何通りもの矛盾なる思いを生み出し、ミゼリアを放心の人形へと変えた。悪態勢のまま攻撃に転じて倒れていたスイは身体を起こすと、無機質に開く目を空に向けているミゼリアを横目に樹楊へと向かっていく。倒したミゼリアに何も価値を見出す事無く。


「ミ、ミゼリン?」

「死んではいねぇよ。動けるかどうかなんて――」


 樹楊の驚愕に答えている最中のスイは言葉を切ると眉根を寄せて後ろを振り返るように足元に目を落とす。その先には、ミゼリアの手が。

 それは力強く、スイの足首を潰すかのように握られていた。


「つ、釣れないじゃないか。私はまだ生きてるぞ?」

「てめぇ……。上等じゃねぇか」


 ミゼリアはスイの足を力任せに引いて倒すと、間髪入れずに馬乗りになってナイフを取り出して振り被る。だが、スイが刺される事を待ってくれるわけもなく、額に頭突きを受けてしまった。


「うっ、か」


 岩を打ち鳴らしたような鈍い音と共にミゼリアの頭は弾かれ、ぱっくりと割れた額から血が僅かに噴き出す。スイは荒っぽい戦闘、喧嘩慣れもしているらしく、その攻撃は想定外だった。そしてまた身体に電流が流れる。それでも立ち上がり、また雷撃を喰らい…………。再度立ち上がる。まるで上空から釣り糸で操られているかのように、ミゼリアは何度でも立ち上がった。力の伝達がどうなっているかなど、既に解らなくなっている。どこに力を込めればどんな風に動くか、そんな当たり前の感覚を遠くへ置いてきたかのように忘れている。それが不可思議な事と感じる事もない。ただ、立ち上がる。剣を拾い、斬られないようにガードし、雷撃をまともに受ける。それの繰り返しだ。


 傍から見れば、スイの雷撃は派手にスパークするだけで威力がないように見えるだろう。しかしそれは見くびり過ぎだ。スイの雷撃は決して軽いものではなく、一撃で敵を戦闘不能にまで陥らせる事が出来るほどの威力を持っている。それなのにミゼリアが立ち上がれるのは、精神が全てを凌駕しているというたった一つの結果だった。


 負けるわけにはいかない。

 誰よりも強くならなければいけない。

 もう、何も護れないのは嫌だ。

 部下を一人だって失いたくない。


 それが甘い事だとは百も承知の上だ。

 しかし何かを、誰かを失う事に慣れたくはないんだ。

 生きていて当たり前。死んだら何も残らない。形として、無になる。

 思い出だけで笑えるほど、人は強くなんかないから。


 だから。


「――――――――――――っ!」


 もう、悲鳴など上げる事が出来なくても。

 それでも負けを認めるわけにはいかない。

 そこに。あそこには部下がいる。

 いつも適当で可愛くなんかない部下が。

 だけどあいつはいつも優しくて可愛げもある。幼いころに見た笑顔がやっと戻ってきた部下の顔。それを見る事が出来るのは嬉しい。もし自分がここで負ければ、その笑顔も失われるような気がして、楽になろうとは思えなかった。断続的に途切れる意識に身を委ねて、くっつきそうになる瞼を閉じるのが難しくも思えた。


 スイは何度でも立ち上がってくるミゼリアに冷や汗を流し、乱れ始めた呼吸を整えると口を開く。その声音にいつも乗っている強さが欠け始めている。


「お前……馬鹿じゃねぇのか。何で立てるっ」

「っく。はぁ……っぁ、ふう」


 視界が霞んでいる。耳にフィルターが掛かったように音もよく聞こえない。息は出来ているのか? まだ動けるのか? それすらも解らない。ただ、地に伏せている樹楊が動かせる片手を口に添えて何かを叫んでいるのだけは解った。必死に、力の限り叫んでいるのだけ……解る。


 ミゼリアはスイの斬撃をよろめきながらも避けるが、追撃の蹴りを腹に喰らって惨めに吹っ飛ぶ。嘔吐するかとも思ったが、それまでには至らなかったらしく、まだ立つ事が出来る。負けてはいない。ただ劣勢なだけだ。腹を押さえ、ガタガタと震える足で立つミゼリアに、スイは瞳に恐怖を浮かべていた。何度攻撃しても立ちあがるその様に、得体の知れないものを感じたのだろう。樹楊は眉を下げて地を叩くと、また叫ぶ。


 何だ? 応援――してくれてるのか?

 そんなに心配そうな顔をするな。必ず勝つから。

 何度でも立ち上がってやるから。情けない、泣きそうな顔をするな。

 安心しろ。まだ立てる。


 ミゼリアは鉛のように重くなった頭を上げてスイを睨む。肩は大きく上下し、身体は震えている。動きもぎこちなかった。悪戯で膝裏を押されたように足がくの字に曲がるが、何とか持ち堪えてまた真っ直ぐに伸ばしている姿は、どう見ても気を失い掛けている。


 その様子に樹楊は声を荒げた。咽るほど、張り上げられた声は森に響き渡り、それでもスイの耳にも入っていないようだった。音が失われつつあるミゼリアは樹楊が応援してくれるものと思い込み、剣を持ち上げる。


 酷く重い。

 使い慣れているこの剣が重厚な大剣のように思ってしまうほど。


「ミゼリン! 聞こえてるんだろ!?」

 ――心配するなって言ったろ?


「もういいっ。もういいから! だから、だから!!」

 ――情けない顔をするな、馬鹿者。それでも兵士か。


「もう寝てろよ! 死んじまうだろォ! もう寝てろよっつってんだろォが!」


 ミゼリアに微笑まれた樹楊は息を詰まらせると愕然とし、額を地に落とす。土を握り締めて歯を食い縛り、ミゼリアの名前を一度だけ呟いた。そして。


「スイ、もういいだろ! どこにでも着いてくからミゼリンは放っとけよ!」 


 敵兵に対し、上官の命を請う樹楊だがスイは首を縦には振らない。元より命の奪い合いなのだ。樹楊の願い事はお門違いもいいところ。だがスイが首肯しないのは、それと違うところにあったようだった。


「私は誰にも負けねぇ。ここで退いたら私の負けになる」

「どう見てもお前の勝ちだろうがっ」

「っるせぇんだよ! お前は黙ってろっ。こいつはそういう問題じゃねぇんだ」

 

 柄を引くように構えるミゼリアに、スイは正面から突っ込んでいく。その姿が万華鏡のように見えている。距離なんか掴めない。それでもミゼリアは全神経を剣に集中させ、意識を研ぎ澄ました。何千何万と繰り返してきた訓練。何十万と形を取ってきた構え。その姿は模範的であり、教科書に乗れるほど美しい姿だった。

 

 例えるなら、それは歴戦の勇者たるその姿。

 例えるなら、それは戦を象徴する勇ましき女神。

 例えるなら、それは――誰かを護ろうとする、力不足な戦士の姿。

 空は白み始め、気付けば闇も浅くなっていた。


 双方、互いの眼を直視し、そこには一本の線。

 スイは鉄扇に雷撃を纏わせる。その眩い輝きはこれまでで一番の光を弾き飛ばしていた。


 集中しろ。

 剣に流れるのは蛇のように巻き付く風――、

 ――いや、竜巻。


 全てを巻き込む暴風、それをイメージするんだ。

 それでも無駄のないように、剣を己の一部とし、己を剣の一部としろ。


 スイが鉄扇をクロスさせ、闘志を爆発させると、ミゼリアは剣を僅かに斜にした。

 自分が誇れる唯一の技。未完成だが、それを今完成させる。


 スイは気付いていなかった。ミゼリアの剣に纏う風を、気付けるわけもなかった。

 そよ風のように優しく木の葉を流すその風は、恋人に回す腕のように優しく滑らか。しかし、それが豹変したのはスイの鉄扇をガードした時だった。


 例の如く、受けた剣から雷撃が身体中を破壊するように暴れ回り、意識を飛ばしてくる。その刹那、優しかった風が荒れ狂う暴風へと変化し、剣先から柄を抜けて遥か後方へと渦を巻いた風が流れる。肉眼でも見えるその風は正しく剣に纏う竜巻であり、合わせられていたスイの鉄扇は強引に引っ張られるかのように流れ始める。


「――――っな、な!」


 見えない何かに引かれたようなスイの右腕は一瞬にして剣の柄頭まで吹き飛び、必然的にバランスも崩れ、足も宙に浮いている。緩やかではあるがきりもみのように回転させられたスイはミゼリアに背を向ける格好となり、最早無防備に近かった。


 ミゼリアが手から滑り落としてしまったと思っていた勝利は、まだ地に落ち砕けてはいなかった。硝子細工よりも脆い、その言葉は地に触れる寸前だったのだが、確かに受け止める事が出来た。諦めずに伸ばした手が、勝利を掴む。


 ミゼリアは暴風に腕を引かれて流れるスイを見送る事なく、身体を反転させると身体中から力を掻き集めて剣を振り上げる。このまま薙げば確実に勝っていた。それなのに蓄積していたダメージが目を覚まし、ミゼリアの動きを鈍らせ、一瞬だけだが意識をも奪う。本当に一瞬だけだった。もし相手が勝利に貪欲なスイでなければすんなりと仕留める事が出来ただろう。


 何が何でも目を逸らす事をしなかったスイは、ミゼリアの流れる攻撃動作の一連に僅かな隙を見出すと、浮いていた軸足を強引に地に着け、腰を使って身体を独楽のように回す。気を失い掛けていたミゼリアだがこの時には既に意識を繋ぎ止め終え、半ば身体を預けるように倒れ込んでくるスイに振り上げていた剣を――。


 スイと共通するモノを持つミゼリアだから、解ってしまった事がある。

 轟々と闘志を燃やすその瞳には『誰か』が映っている事を。それがあまりにも悲痛で、優しくて、それでいて力強くて。奪いたくない輝きを放つ瞳だった。

 

 それでも今は敵同士なのだ。

 逆流するように込み上げてくる思いを歯で噛み砕き、袈裟掛けに――一閃。



 互いに繰り出した攻撃はぶつかり合う事無く、闇に静寂を招いた。

 ミゼリアの風もスイの雷撃もそこにはなく、幕切れを告げるかのように風が吹き抜ける。樹楊が固唾を呑んでその結果を待っていると、先に応えたのはスイだった。


 バランスを崩してミゼリアの腰に身体を預けると、滑るように、しかし名残り惜しそうに地に倒れていく。何とか立ち上がろうとしているのだが、ミゼリアの斬撃がその選択肢を奪うほどにダメージを与えていた。


 そして次いでミゼリア。

 剣を地に突き立てて振り向くと、樹楊に疲れたような笑みを向ける。その笑顔を見た樹楊は喜々とする笑みを顔に滲ませ始めた。そして地に伏せたまま手を挙げると、ミゼリアは手を挙げ、られずに瞼を落とす。そしてそのまま左肩からゆっくりと倒れた。その時、樹楊が見たものは、ミゼリアの鳩尾辺りに刺さっている折りたたまれた鉄扇。


「ミゼリ――、おい!」


 上官を呼ぶには相応しくない言葉使いだが、そんな事を悠長に叱ってやれるほどの力がないミゼリアは、伸びきった腕の先にある指の隙間から見える、芋虫のように這ってくる樹楊の姿に弱々しく微笑した。咽る事も出来ず、ただ血が口端から流れていく。身体を、命を動かす事を止めたように、役目を終えたとばかりに血が流れ、芝生のような草を赤く染め、地に染み込んでいく。それでも苦しくはなかった。部下を護れた事に心は満たされ、大戦における勝利とは程遠い結果に満足している自分が何とも滑稽に思えたが、悪い気分ではない事は揺るがない事実だった。


 樹楊は何とかミゼリアの元にまで辿り着くと、覆いかぶさるように肩を抱く。その脆弱な鼓動を感じたのか、眉を下げ、相変わらず微笑むだけのミゼリアの後頭部を抱えてそっと引き寄せ、自らも身体を寄せる。


 樹楊の身体は少し冷たくて心地良いものがあった。洗濯をし終えたばかりの衣類の山に顔を押しこむような心地良さが、波紋のように広がっていく。それが堪らなく幸せだった。しかし樹楊はハッとすると、ポーチに手を伸ばしてミゼリアから離れる。


「お、応急処置っ。それと、それとっ……え、と――そうだ、仲間をっ」

「……片手で手当てなど出来ないだろう? そしてここは電波が通じない」


 こぽこぽと流れる血を疎む事もなくミゼリアが告げると、樹楊はようやく気付き、それでも手当てだけは、とポーチを漁る。すると出てくるのは飴やら釣り糸やら何に使うのか解らないモノばかり。一体何をしにここに来たんだか、とミゼリアは苦笑し、そんな樹楊を愛おしく感じる。


「樹楊、今は抱いていてくれないか? 安らぐんだ」


 樹楊は歯を食い縛って情けない顔で見つめてくると、望んだ通りに頭を抱き寄せてくれた。身体が小刻みに震えているのが伝わってくる。鼻をすする音も、聞こえてきた。ようやく聴力が戻ってきたらしい。これは神様からの贈り物だろうか?


 思えばつまづきっ放しの道程だった。

 訓練中毒とまで馬鹿にされ、躍起になって強さを求めた。そして小隊長にまで登り詰めたかと思った矢先、樹楊が部下に配属され、嬉しく思った。またあの頃のように笑い合えるのだろうかと、疑う事無く喜んだ。

 けれど、旅を終えてきた樹楊は変わっていた。以前のようにストイックに強さを求め無くなっていた。訓練にも顔を出す事が稀だった。そしていざ戦いとなれば、すぐに姿をくらまして、ひょっこり帰ってくる。仲間も自分もボロボロだというのに、樹楊だけは無傷で……。その内、自分の部隊である十二番隊は最弱の烙印を押される事となった。


 統率力がなく、戦死者も多い第十二番隊。

 それを指揮するミゼリアは兵士の器ではないのでは?


 まことしやかに囁かれるかげ口に歯を食い縛り、拳を握り締め、それでも奮起していたつもりだった。そして最弱の要因は、自分勝手な樹楊にあるものだと思い、その頃になれば幼き思い出など叩き割っていた。嫌いだった。大嫌いだった。吐き気がするほど大嫌いだった。


 それなのに何故、思い出というものは蘇ってくるのだろうか。

 忘れたいはずの思い出と同じような笑顔を浮かべる樹楊は、自分に嘘を吐いていた。クルードの王子だった事を隠していた。それがショックだった。自分は友人ではないのか? 信用されていないのか? 一言相談してくれれば、力になれた。それなのに、樹楊は……。


 裏切られたと思った。それでも自分の手から離したくはないと思ってしまった。

 ずっと自分の部下でいてほしかった。見下したいわけじゃない。樹楊を叱れるのは自分だけだと、自負している。道を間違えそうになるなら、それを傍で叱ってやりたい。そういう思いが心の隅にあった。


 そんな部下が可愛くて……『弟とはこんな感じなのかな』と思ってしまう。兄と同じような愛しさを樹楊に感じる。それが自分の中に残る、宝物だ。


 掛け替えのない思いに更けていると、樹楊が嗚咽を一生懸命に堪えている事が解った。愛しい弟に抱かれて、泣かれて、ミゼリアも涙を溢してしまう。死ぬのが怖くなるじゃないか、と声を上擦らせ、


「誰がサヨナラなんて言葉を考えたのだろう、な。そんな言葉で終わってしまうかと思うと」ミゼリアは涙を大粒へと変え、樹楊の袖を震える手で掴む。


「悲しくなってしまうな。…………本当に、悲しい言葉だ」

「ミゼリン……そんな事言わんで下さい。俺、何て言えば……」

「泣くな、馬鹿者」


 自分も泣いているクセに、言うようになったなと思ったミゼリアは、繋げる言葉を自身で見つめ直すと息切れを挟んで失笑する。それに疑問を持った樹楊にミゼリアはまた笑みを含む。


「いや、どうやら私は根っからの軍人らしい。こんな時だというのに、女の子らしい言葉を言おうと思えないんだ」


 ミゼリアは樹楊の頬を撫で、女の子らしい笑みを浮かべる。それを見た樹楊は息を詰まらせ、ミゼリアはその瞳に終わっていく自分を見た。


「今度こそ、自分の部下を自分の手で護れた。ようやく……護れたんだ。それが嬉しくて堪らない」

「ミゼ、リア小隊長……っ、らしくっない、です」

「お前は本当に馬鹿だ。こんな時くらい、ミゼリンと呼べ。お前こそ、らしくないぞ?」


 樹楊はミゼリアを小隊長と呼んだのは、募る思いがあったのだろう。それが何となくこそばゆいミゼリアだったが、やはり自分は聞き慣れた小隊長の方が似合っているとも思った。どこまで行っても自分は小隊長で、樹楊は二等兵で。それがしっくりくる。砕羽などという部隊は自分には似合わないのだ。そんな器ではない。


 樹楊は閉じていく瞼を必死に開けているミゼリアを強く胸に抱いて嗚咽を漏らす。失血していくミゼリアは顔を青ざめさせていて、乱暴な寒気さえも感じていた。だが樹楊の腕の中、ミゼリアは遂に目を伏せる。何にかに逆らう事を止め、まるで日向ぼっこをする子供のような顔で。


「心地良いな……、お前の身体は」

「っう、うう、っく……ひぐっ」


 力がもう入らない。声は聞こえるが、自分は上手く喋れているかどうか怪しいものがあった。混濁する意識の中、樹楊の泣き声だけが悲しく耳を衝く。こんな時に悪いとは思うが、泣かれるのは素直に嬉しく思う。


「……そ、か。泣き……虫か、お前は。な、なら……わ、たしはお前、がっ……泣く、その姿、を…………」


ミゼリアは全身の力を、息を抜くように呟く。

「見守っててやろう」――――ずっと。


 樹楊の腕に重さが伝わる。

 最後に残した微笑みが僅かに残っていて、涙が頬を伝っていた。

 そして朝日が深い森の中にも明かりを届ける。柔らかな夜明けは闇に滲むように、または解けるように広がり、世界に色を思い出させる。


 ――前にクルスが言っていたな。

 それは夢物語だと笑ったが、今となればその夢物語を見たいとも思う。

 もし、戦も何もない平和な世界で樹楊と、みんなと出逢えたのならどんなに幸せな事だろうか。その世界での自分は何をやっている? 誰か教えてくれ。


 やっぱり怒っているのか?

 それとも、情けなく泣いているのか?

 上手に笑えているのか?

 ――少しでも、ははっ。照れくさいが、一応知りたい。

 えーっとだな、少しでも、その……うん。お、女の子らしいか?


 教えて欲しい。

 出来れば、樹楊……お前の口から。

 

 その朝日に煌めくミゼリアの血は、

 真っ赤な宝石のよう。


 愕然と言葉を失くした樹楊。

 彼の耳には、遠くから重ねられる声が届かなかった。







次章

〜仔猫はその目線でニャアと鳴く〜

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